弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
人間
2022年6月18日
梅は匂ひよ 桜は花よ 人は心よ
(霧山昴)
著者 野村 幻雪 、 出版 藤原書店
私は司法修習生のころ、狂言そして能を一度だけ本格的な能舞台で鑑賞しました。さっぱりコトバが聴きとれず、眠たくて仕方がありませんでした。正直言って、一度でコリゴリしてしまいました。
ところが、この本を読むと、私のこの反応は自然なものではあるが、あまりにも視野が狭かったと思わされ、無知な私を反省するしかありません。
著者は狂言の家に生まれ、能楽に転じたのですが、能の役者として人間国宝に指定されるまでになり、また、かの東京芸大で教授として教えていたこともあります。なので、さすがに本書にある著者のコトバには含蓄深いものがあります。
「能はむずかしい」...たしかに言葉は古典で、動きは何かとゆったりしてるので、想像力が求められる。言葉を聞きとって理解しようとするよりも、お囃子(はやし)のテンポの変化で場面転換を予想したり、役者の身振りや装束から、その役がどんな境遇に置かれているのかを想像したり、耳目に入るまま感じとるのが、能を楽しむ第一歩。
役者は何もない舞台に、演技の力だけで森羅万象を描き出す。
著者は、「いい香りのする役者になること」を目ざしているとのこと。薄暗い橋掛りにあらわれたとき、ふっとお香の匂いを感じさせる役者になりたい...。
年齢(とし)とともに体力は衰えても、経験や知力、好奇心がそれを補ってくれる。いくつになろうとも、常に自問自答し、初心と新しい発想をもって演技にのぞむつもりだ。
公演は一日限り。演者にとって、その役は生涯で今日が最後かもしれないとの思いがある。能の公演って、連日はないようです。
能を演じるときには、神にも女性にもなる。それが能。これに対して、狂言では、実際の出来事を架空の物語に仕立ててみる。このように表現方法が対照的な能と狂言だけど、どちらにも人間の本質を主題とする点では共通している。
能役者の服装は赤系の装束は若い女性、中年以上の女性は赤系の色を使わず、「紅無(いろなし)」とする。
内弟子の大切な仕事の一つに舞台拭きがある。まず舞台のチリを払う。そして、板目にそって固くしぼった雑巾で拭く。新しい舞台には豆乳を使い、表面に油をしみ込ませる。このとき、柱の下部の色にムラができないよう、舞台と柱とが同化して自然に見えるように、柱に接する板を拭いたら、そのまま柱にはわせて、垂直にずり上げる。このとき、いりぬかの袋で研いてつやを出す。
この舞台拭きによって、舞台空間を身につける。三間四方の空間で、どう構えるのか、どの位置に居るのか、常に存在が問われる。これを、舞台を一所懸命に磨くなかで身に着ける。
能舞台で、物言わずまっすぐ立っている四本柱に囲まれると、四人の師匠に厳しいまなざしでにらまれている気分になり、体に緊張感が走る。
能役者は、日常を明るくすることで、舞台では逆に哀しみをただえる表現ができる。チャップリンとは真逆で、なるべく日々を明るく生きることによって、その裏が表現でき、深く演じることができる。
これについては、私も長い弁護士経験をふまえて、ぴったり実感にあいます。
著者は、若いころは芸の「重み」を重視していた。しかし、今では「軽み」を芸の目標としている。
「伝統」には、過去・現在・未来という時系列がある。そこに未来が入っていないときには、重厚ではないけれど、感動的な軽み、何かそこに魅力がある。
重苦しくなく、みている方に負担がなく、感動がある。こんなものが日本式「軽み」。
能についての偏見を改めようと思いました。
(2022年2月刊。税込3520円)
2022年6月17日
失敗から学ぶ登山術
(霧山昴)
著者 大武 仁 、 出版 ヤマケイ新書
私はいわゆる登山とは無縁ですが、年に何回か近くの小山(388メートル)に登ります。自宅を出て1時間半ほどで、見晴らしのいい頂上に着いて、そこでお弁当開きをし、しばしまどろんだりします。上空に鳥が飛び、小鳥がさえずり、蝶が花畑をゆらゆらと飛びまわり、遠くに見える下界で人がせわしなく行きかうのを眺めます。至福のひとときです。
それなりに急峻な斜面を登るのですが、以前のように一気に登ることはできなくなり、何回も小休止します。まあ、それでも、自分の足で登れるだけ、まだ良しとしています。まさしく年齢(とし)を実感させてくれるのが、山登りです。
若いころに日本アルプスの険しいロングコースを難なく縦走したことがあったとしても、それは何十年も前のこと。自分の現在の体力度・技術度をきちんと認識し、そのレベルにあった山選びを計画を立てることが安全につながる。
自分が備える技術力や体力を上回るグレードの登山コースを歩くと、滑落や転倒などのアクシデントにつながりやすい。
登山用具の使い方は、山行前にマスターし、用具に慣れておきたい。
私は、以前、久しぶりに山登りをしたとき、はいている登山靴の底が経年劣化ではがれてしまったことがあります。それからは、もったいないなどと思わずに、何年かおきに買い換えるようにしています。水泳のゴーグルも同じです。用具の経年劣化は人間の身体と同じように確実にやってくるのです。
今はスマホのGPSを利用するのは常識のようですが、スマホのバッテリーが切れてしまったらアウト、そんなことにならないように予備のバッテリーを準備しておく必要もあります。
登山中にエネルギー不足にならないよう、山行前日の食事では、エネルギー源となる糖質を多くふくんだご飯やパン、麺類などの主食をしっかり食べておくように注意されています。私も、ふだんはダイエットのため、糖質制限していますが、山の頂上では、昔ながらの酸っぱい梅干し入りのおにぎりを軽く2個食べます。
登りに1時間半、帰りに同じだけかけて午後3時すぎ、疲労困憊して自宅にたどり着き、さっとシャワーを浴びて、さっぱりします。
大自然の恵みをたっぷり堪能できるのが田舎の良さです。
道に迷ったら、沢にそって下ってはいけない。道を見失ったら、見通しのよい高みや屋根に上がるのが原則。沢へは下らない。高みに登り返す。これが登山道を見失ったときの原則。これを知っただけでも、990円の本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2021年11月刊。税込990円)
2022年6月15日
人として教師として
(霧山昴)
著者 湯川 一俊 、 出版 東銀座出版社
団塊世代からのメッセージというのがサブタイトルの本なので、これは読まずばなるまいと思って手にとって読みはじめました。著者は、私とほとんど同じころに北海道で生まれました。最東端の根室市で、屯田兵の末裔(まつえい)とのこと。
小学校は1学年350人、全校2000人というマンモス校。私のほうは炭鉱の町で、小学校は1学年4クラスでした。私の中学校(今はありません。少子化で統合されました)は13クラスあり、運動場の一部を削ってプレハブの急造校舎がつくられました。
高校生のときに教師になることを決意したというから、偉いものです。私は、そのころは自分の将来に何の具体的イメージもありませんでした。
そして、著者は高校は演劇部と新聞局に入って活動しました。私は、高校のころは受験勉強を真面目にやり、生徒会活動にいそしんだほかは、3号で終わった同人誌をみんなで出したくらいです。生徒会に目ざめたのは1学年上の先輩たちにあこがれ、近づきたいと思ったことによります。
北海道学芸大学釧路校に入ってからは児童文学サークル「つくしの会」で活動し、また、自治会の役員にもなっています。私は、ひたすら川崎市古市場での学生セツルメント活動に埋没・没頭しました。
そして、著者は苦労の末に東京で本格的な教員生活をスタートさせます。1970年代の東京の小学校では、児童会の役員選挙のとき、立会演説会をやっていました。選挙公報をつくり、朝の教室まわりもやったのです。いやあ、いいことですよね。こうやってこそ、主権者としての自覚が高まります。
私も高校生のとき、生徒会長に立候補し、タスキをかけて付き添いと2人で全クラスを休み時間に訴えてまわりました。幸い当選しましたが、こうやって選挙を自分の体で実感したことは私の体に今も生きている気がします。
著者は、卒業式が終わったあと、教員で温泉に旅行に行ったというのですが、行った先はなんと奥鬼怒温泉の「八丁の湯」でした。私も川崎セツルメントの夏合宿で行ったことがあります。見晴らしのいい露天風呂がありました。
著者は小学校で理科を教えるとき、子どもたちに体験を通じての学習をすすめたとのこと。本当に大切なことです。たとえば、空気にも重さがあることを子どもたちに実感させるというのです。いやあ、これはすばらしい実験です。
著者は教職員組合の役員を長くつとめていますが、そのなかで大切にしたことは、仲間と会うとほっとする場、職場会を大切にする、心のよりどころをつくるということ。たしかにこれは必要不可欠ですよね。
私と同じ団塊世代が過去をふり返りつつ、今を元気いっぱいに生きている様子を知ると大いに励まされます。久しぶりに空気の入る、いい本でした。
(2022年4月刊。税込1800円)
2022年6月14日
日本の教育、どうしてこうなった?
(霧山昴)
著者 前川 喜平・児美川 孝一郎 、 出版 大月書店
前川喜平さん(文科省の元事務次官)は、経産省なんて日本に不要だ、ヒマなものだから教育分野にまで口を出してきて、日本の教育を歪めていると指摘しています。
うむむ、なーるほど、そういうことだったのかと思いました。アベ内閣では経産省があまりにも幅をきかせすぎていました。自由主義経済で企業が何でもやっているのだから、経産省は、何もやることがなくなっている。存在価値がなくなっているので、専門領域でもない教育の分野にまで口を出してきて、産業に奉仕する「人材」育成なんて間違った観念を押しつけている。まったくひどい話です。
そもそも人間って、目的に養成できるものなのか、前川さんは根本的な疑問を抱いています。
最近、福岡でも夜間中学がはじまりました。全国に夜間中学が36校あって、生徒数は2千人。1割は形ばかりの卒業者、そして8割は外国人。県と政令指定都市に最低1枚は夜間中学をつくろうと文科省は叫びかけている。いやあ、これはいいことだと思います。文科省もたまにはいいことをするのですね...。
不登校その他、中学校でちゃんと学んでいない人に普通教育を学び直す場として、夜間中学は大事なものだと前川さんは強調しています。まったく同感です。
学校を株式会社が設立・運営するなんてことはやめるべきだと前川さんは言います。公益性をもつ学校法人が学校を運営するという制度を崩してはいけない。まったく、そのとおりです。人間をつくるというのは商品生産とは、まったく違うものなんです。
日教組の組織率は下がっているし、文科省とは慣れあっている。まるで牙を抜かれたみたいになっている。残念ながら、これもそのとおりです。
学習指導要領の策定と教科書検定は、独立した機関が担うべき。そのとおりです。
学校現場はもっと自由でなければならない。ところが、文科省にとって日教組の弱体化が至上命題になってきた。これは本当におかしなことです。
教師はやらされる仕事が多すぎる。とくに書類づくり、教育の観点から意味のない文書作成が多うい。日本の教師は、授業をしている時間以外の勤務時間が諸外国に比べて圧倒的に長い。いやあ、気の毒なほどです。もちろん、そのしわよせは子どもたちにいきます。
学校が部活動で名をあげようとするのは、やめるべき。
教員に時間外手当を支払わなくてよいとした給特法は廃止すべきで、労働基準法をそのまま適用すべき。これには、まったく大賛成です。基本給の4%を一律に支給するなんて、そんなゴマカシは許せません。
教員志望者が激減している理由は、学校に自由がないことにある。やらされ仕事を減らすべき。25人学級を目ざして、ゆとりのある少人数学級にしたら、志望者は増えると思います。
日本の教育制度をふり返って、問題点を具体的に指摘している本です。広く読まれるべき本だと私は思いました。
(2021年1月刊。税込1600円)
2022年5月 5日
僕に方程式を教えてください
(霧山昴)
著者 髙橋 一雄 、 瀬山 士郎 、 村尾 博司 、 出版 集英社新書
少年院で数学教室をやったらどうなるか...。なんとなんと、目の覚めるような、あっと驚く成果をあげたのでした。
著者の一人である高橋一雄の『語りかける中学数学』(ペレ出版)は、私も読みました。初心者に語りかける口調ですすんでいく数学のテキストの傑作です。部厚い本なのですが、内容は平易で、なにより分かりやすい。このシリーズは微分・積分もありますが、私は中途で止めてしまいました。高校では理系クラスにいて、数Ⅲまでやったのですが、微分・積分なんて、今や何のことやら...という感じです。残念ですが...。
著者は少年たちと3つの約束をしました。その一は、分からないことは恥ずかしがらずに質問する。その二は、間違った答案は消さず、必ずノートに残しておく。その三は、自信をもって間違える。いやあ、こんな約束でいいのでしょうか...。
少年院に入っている少年の数学の学力は、7割強が小学4年生以下、9割強が6年生以下。ふむふむ、きっとそうなんでしょうね。
数学の授業は、他人(ひと)の意見の素直に耳を傾ける機会として、もっとも適している。それは、数学の解法は、いく通りかあるが、解答は一つしかないから。これは、納得です。
数学の授業は、少年たちの抽象的表現能力を伸ばすのに、大きな意義がある。
中学1年生の数学レベルを超えられたら、高認(高校認定)試験の数学Ⅰの最低合格ライン40点を高率で突破できる。今は、「大検」はありません。
昔の非行の主な原因は、貧困だった。今は、学業の失敗によって、居場所を失っていくパターンが多い。
少年院に収容されている少年の多くは自分自身を語る言語資源を十分もちあわせておらず、言葉にならない自己を抱えている。
学校教育において、子どもの文章力、読解力の欠如は著しく、そのため、論理的思考、論理力を育(はぐく)むための、国語教育の重要性が指摘されている。そうでしょうね。
中学数学は、数学だけでなく、他のさまざまな分野、自然科学に限らず、社会科学までの視野を入れて、これからの学びの基礎を形づくるうえで、とても大切な分野だ。同感です。
分数の理解は抽象的にものを考える初めの一歩。間違いを間違いだと本人が理解できること。これは数学の大切な性格の一つ。同感、同感です。
少年院や刑務所は、更生施設であり、本来は懲罰のための施設ではない。とくに少年院は、犯した罪を少年が反省し、社会に復帰するための準備する施設のはず。
今や、非行少年同士が面と向かってしのぎを削った時代は去り、非接触型の、顔の見えにくい現代型非行が到来している。非行の周辺には、陰湿ないじめや不登校・引きこもりといった、青少年のホンネを見えにくい状況がある。手のかかる少年が増え、その多くは発達障害をかかえている。非行少年たちは、家庭での虐待や貧困などのさまざまな事業により、安全で安心な居場所をもてずに孤立感を深めている。なので、少年たちの生きる力を育(はぐく)むためには、自分をきちんと肯定できる自尊感情と、やればできるという自己効力感が不可欠。まったく、そのとおりだと思います。
髙橋一雄による集団授業によって、入院時に小学校の算数レベルだった6割の少年が、中学数学レベルにまで到達でき、7割以上が高認試験に合格した。いやあ、実にすばらしい。
数学の意味を理解しながら得られる達成感は、学ぶ喜びとともに、自身の可能性を認識しながら、未来に向かって挑戦しようとする力を養うことにつながる。
「先生、オレたちに能力はある。学力がないだけなんだよ。だから教えてくれよ」
少年の悲痛な叫びにこたえた素晴らしい実践記録です。ぜひ、あなたも、この新書をご一読ください。おすすめの本ですよ。
(2022年3月刊。税込990円)
2022年5月 4日
時間は存在しない
(霧山昴)
著者 カルロ・ロヴェッリ 、 出版 NHK出版
大変興味深い内容でした。よく分からないまま、なんだか考えさせられました。あたりまえだと思っていたことが、実は、あたりまえではないというのです。
飛行機に正確な時計をのせたところ、その時計が地上に置かれた時計より遅れた。
ええっ、何、どういうこと・・・。それって、いったいどうやって測るの...。不思議な話です。
時間には、最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。ええっ、いったい何の話をしてるの...。
時間は唯一ではなく、それぞれの軌跡に異なる経過期間がある。そして時間は、場所と速度に応じて異なるリズムで経過する。時間は方向づけられていない。
この広大な宇宙に、私たちが理にかなった形で「現在」と呼べるものは何もない。
事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。
世界とは、ほかでもない変化なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのだ。
時間の流れは、山では速く、低地では遅い。低いところでは、あらゆる事柄の進展がゆっくりになる。
これが本書の冒頭にある話です。ええっ、どうして、何のこと...。
物体が下に落ちるのは、下のほうが地球による時間の減速の度合いが大きいから。何なに、いったい何のこと...。
時間が減速するからこそ、物は落ち、私たち人間は足をきちんと地面につけていられる。
足が舗道から離れないのは、体全体が、ごく自然に時間がゆったり流れる場所を目ざすから。頭よりも足のほうが時間の流れが遅いからだ。
うむむ、なんだか、よく分かりませんよね...。
熱は、熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じない。これは熱力学の第二法則と呼ばれるもの。
たとえば、知人が地球から4光年はなれた惑星にいるとする。その人に、今、何をしているのと尋ねたら、どうなるか...。この質問は、まったく意味がない。光が届くのに4年かかるというのは、望遠鏡で見たとしても、それは4年前にしていたことであって、「今」していることでは決してない。
私たちの「現在」は宇宙全体には広がらない。「現在」というのは、自分たちを囲む泡のようなもの。宇宙全体にわたってきちんと定義された「今」という概念が存在するというのは幻想にすぎない。宇宙全体で定義できる「同じ瞬間」というのは存在しない。
時間が事物から独立していて、他のあらゆるものとは無縁に規則正しく、ゆるぎなく経過するというニュートンの考えは間違いだ。
時間は空間と一体化した広がりであり、過去と未来を区別する方向性もなければ、「現在」という特別扱いされるべき時刻も存在しない。
よく分からないなりに、時間という不思議な、つかみどころのない概念を少しばかり考えてみました。こんな本が7万部も売れたなんて、不思議でなりません。
(2021年9月刊。税込2200円)
2022年4月30日
「男はつらいよ」50年をたどる
(霧山昴)
著者 都築 政昭 、 出版 ポプラ社
この世は欲望に満ちた世界であり、人間はそんな世の中であくせく働き生きている。そうした殺伐とした風景の中で、「寅さん」の世界は一種のオアシスである。まったく同感です。
「寅さん」映画には、家庭の団らんがあり、明るい会話と笑いがある。現代日本では失われた風景かもしれない。観客は憧れに似た郷愁に浸り、人間性を取り戻す。
いやあ、ホントそうなんですよね。笑いながら、ホロっとしながら、胸に熱いものを感じて、心に安らぎが得られて、映画館を出るとき、ほんわり温かくて心地がいいのです。
東京の下宿と寮で生活しながら司法試験の受験勉強に打ち込んでいたとき、最大の息抜きが「寅さん」映画でした。本当に安らぎが得られ、帰ったら心を新たにして再び猛然と法律書と取り組むことができました。感謝・感謝です。
渥美清は映画第一作の台本を読んでゾーッとした。その中に生き生きと自分が息づいていたからだ。笑いというのは、どこか残酷なもの。渥美清は、あるとき、山田洋次監督にしみじみ語った。自分の欠点や弱点を笑いの材料にし、その愚かさを観客が笑う。
渥美清は、勉強が大嫌いで、ワンパク三羽烏(ガラス)のひとり。小学生のころ、クラスに知的発達の遅れた子がいたので、渥美清は、いつもビリから2番目だった。
渥美清の父は地方新聞の記者で、母は代用教員。父は陽気な男だったが、母親はバカに朗らかだった。
山田洋次の父は柳川出身で、九大工学部を出て満鉄で蒸気機関車の開発に従事していた。ハルピンではロシア風の木造の家に住み、ロシア人の運転手やボーイを雇った。料理人は中国人、家庭教師はフランス人。土・日に父と母は馬車に乗って舞踏会に出かける。馬丁はロシア人。
母は満州・旅順に生まれ、女学校を卒業するまで内地(日本)を知らない。戦時中も頑としてモンペをはかず、禁止されていたパーマを平気でかけていた。父兄参観日には明るい洒落た着物を着てきて、洋次少年を恥ずかしがらせた。母は楽天的で明るかった。
日本に引き揚げてきて、山田が東大に入った年に両親は離婚。性格の不一致。そのあと、母は英語教師になろうと大学に入った。いやあ、これってすごいですよね。40代半ばですからね...。
無心の顔で観客を元気づける寅さんは、地面から足を少し離した風の精なのだ。寅さんが大地に根を張り、土臭い匂いを放って、所帯染みては困るのだ...。
観客は寅さんを通じて日常の憂いを忘れ、一緒に夢を見て元気になりたい。
「男はつらいよ」は失恋の物語なので、悲しく終わるはずだが、山田監督は、パッと明るく弾んだ気持ちで終わらせる。失恋した寅さんが、どこかの縁日(えんにち)の場で真っ青な空のもと、啖呵売(たんかばい)に声を張りあげている様子に観客は救われるのです。
「寅さん」映画を製作する山田組のスタッフは、第1作から不動のメンバーだった。定年退職と死亡以外は変わっていない。いやあ、これってすごいことですよね...。
山田監督は、信頼する同じスタッフで通した。これを知ったアメリカの映画人は「夢のように美しい話だ」と羨望(せんぼう)した。観客の感情に訴えかけて楽しませ、感動させるような製品をつくっているのだから、その生産に従事する人たちの気持ちが製品に正確に反映する。つまり、撮影所で働く人間は、他人の気持ちがよく分かる優しい人たちでなくてはならないのだ。
うむむ、なーるほど、そうなんですよね...。楽しんでつくった作品は、自ら気品が生まれてくる。チーム全体が楽しい雰囲気に包まれていることは、いい作品、楽しい映画をつくるうえで絶対に必要なことだ。
心にしみる、いい映画評でした。また、映画館のリバイバル上映で楽しみたいです。
(2019年12月刊。税込1650円)
2022年4月24日
蜥蜴(とかげ)の尻っぽ
(霧山昴)
著者 野上 照代 、 出版 文芸春秋
山田洋次監督の映画『母(かあ)べえ』の原作者が映画との関わりを縦横無尽に語っている興味深い内容の本です。
著者の父・野上巌は、山口高校(旧制)から東京帝大独文科に入り、共産主義思想に傾倒。日大予科教授になったものの、思想的によろしくないというのでクビになり、高円寺で古本屋を開業した。そして、警察に何度も逮捕された。小林多喜二が築地警察署で虐殺された(昭和8(1933)年)ころのこと。やがて、父は転向声明に署名したので、保釈で拘置所から出てきた。そこは映画と事実が異なっている。そのあとは、ドイツ大使館で翻訳嘱託として雇われた。
映画づくりにずっと関わってきた著者の話は、やはり映画づくりの現場に関するものが一番面白いです。映画『たそがれ清兵衛』の撮影現場を著者は間近でみていて、それを文章化しています。決闘の相手になった余吾善右衛門を演じた前衛舞踏家の田中泯について、著者はこう描いている。
山田組の現場は、黒澤(明)組の喧々(けんけん)囂々(ごうごう)に比べたら静かなもの。
山田洋次監督の脚本は、いつもその土地の方言に忠実なことが魅力のひとつだ。このときも原作者である藤沢周平の郷里、山形県庄内地方の方言が味わいを深くしている。
田中泯さんは大変。アグラのときには足を見せる。膝も叩かなければいけない。「熱が出ただろう」で指さすのも忘れてはいけない。それから、体をキャメラのほうへ向ける必要がある。映画俳優の仕事は本当に難しい。キャメラに写る、何センチ単位の位置、動作のスピード、台詞(セリフ)の明瞭さなど、制約が厳しい。これらをコナしながら、もっとも大事な感情移入という状態にならなければいけない。
山田監督は忍耐の人。じっと耐える。怒鳴ったところで、うまくいくわけではない。
山田監督は、俳優の芝居を大事にするからだろう。脚本どおりの順番に撮っていく。いわゆる「中抜き」はしないし、できない。
山田監督は、田中泯に対して、余吾の心境を伝え、なんとか感情移入して余吾になり切るよう、声を出し続ける。
「『16歳』、哀しみをこめてね。大きくふくらむ蕾(つぼみ)の時に...。そこへ『やせ細って』をいれましょうか。そのイメージを描いて下さい。美しい娘がガイコツみたいになったイメージを思い浮かべながらね...。骨と皮ばかりになった娘を抱きあげたら、ガチャガチャって、音がしそうだった...、ね」
山田監督は、キャメラが回り出すギリギリまで俳優に魔法をかけ続ける。まるで、ピノキオに命を吹き込むように。
「いいですか、本番。...哀しい物語なんだからね。哀しい、哀しい話なんだから...。16歳、に感慨をこめて...。ヨーイ、...やせ細った娘を抱いたともの感覚というのか...。本番、ヨーイ、スタートッ!」
まるで相撲の仕切りのよう。時間いっぱい待ったなし、まで粘る。
「ワンカット、ワンカット、祈るような気持ちですよ、何とかうまくいってくれってね...」
これが『男はつらいよ』を46本も撮った大ベテラン監督のコトバ。
監督生活41年、この作品が77本目になる。プロ中のプロ。その山田監督が、まるで1本目の新人監督のようにひたむきに真剣に、ワンカットの中に命を吹きこんでいる姿に感動した。
いやあ、これは、その場にいなくて、読んでいるだけの私でも、心が激しく揺さぶられるものでした。これほどの真剣さが、人生には求められているのですね...。
著者は、天才とは記憶だと断言した黒澤明監督のコトバを紹介しています。
「読んだ本、見たこと、会った人たちの記憶を、どれだけ蓄積するか、必要に応じてそこから引き出す才能をもつ人が天才なのだ」
なーるほど、そういうものなんでしょうね...。映画好きの私には、とても面白い本でした。
(2007年12月刊。税込1980円)
2022年4月18日
がんは裏切る細胞である
(霧山昴)
著者 アシーナ・アクティピス 、 出版 みすず書房
がんについての本です。私たちはがんと共生するしかないようです。
私たちが生きている以上に、がんというプロセスを止めることはできない。
がんとは進化そのもの。進化が形を得た存在、それががん。
この惑星(地球)に多細胞生物(人間もその一つ)が存続する限り、がんが消えてなくなることはない。
私たちががんにかかるのは、体内で生きのびて短時間で増殖する細胞のほうが子孫細胞を多く残せるから。
がん細胞は、悪質なルームメイト集団以外の何物でもない。
私たちは知らず知らずのうちに、がんと賃貸借契約を結んでいる。
がんについて、湿潤性と転移性こそががんを決定づける特徴だ。
本来なら多細胞生物の性質であるはずの細胞間の協力が裏切られる。
細胞は、隣接する細胞のふるまいを監視している。近くのどれかの細胞から「気にくわない」とされたら、自死のプロセスを開始できる。周辺監視システムがあるおかげで、がん細胞予備軍から全身を守っている。
細胞は何かを入れて何かを出すだけの単純な機械ではない。実際は、複雑な情報処理装置だ。
個々の細胞は、近所の細胞や免疫系とも連携し、絶えず情報を共有しながら、がん予備軍の細胞をうまく抑え込んでいる。
細胞は1ミリ秒とも休むことなく、情報を処理し、かつ情報に反応している。
私たち(ヒト)は、がんと共に生まれ、がんと共に生き、がんと共に死ぬ。胎内から墓場まで、がんは私たちの生命の一部だ。
「正常そうな」細胞全体の4分の1あまりに、がんにつながりかねない遺伝子変異が発生している。がんを抑制しようとすると、早期老化のようなコストが生まれる。
私たちががんにかかりやすいのは、成長、組織の維持、傷の治癒、感染症の予防といった機能にがんが結びついているから...。そのほか、生殖能力にもかかわっている。
がんを生じさせるのは、遺伝子の変異だけではない。細胞のふるまいを制御する遺伝子産物のアンバランスにもよる。
私たちは、前がん性の腫瘍と一緒に何十年と暮らし、普通は何の支障もない。つまり、私たちは、がんと共に人生を終えているのだ。
がん細胞は、個別に動くより、クラスターになったほうが、はるかに容易に転移できる。
がんは、私たちの一部であり、予測不能で適応力の高い相手だ。
がんと長期にわたって、戦略的につきあっていく覚悟を決めれば、得るものは大きい。
がんを一掃できるという望みを持つのは、間違っている。要するに、がんは病気というより、「多細胞生物に特有の性質」であるということ。生命は多細胞の形態に移行したときからずっと、つきあってきた。
がんを完全に封じ込めてしまうと、生物は不利益をこうむりかねない。
がんという病気は、ずっと、だましだましであれ、つきあっていくしかないようです。撲滅なんかできないとのご詫宣には大変おどろきました。がんとは共生するしかないとのことです。
(2021年12月刊。税込3520円)
2022年4月17日
いま、幸せかい?
(霧山昴)
著者 滝口 悠生 、 出版 文春新書
私はテレビ版の「男はつらいよ」こそみていませんが、映画のほうは第一作からずっと映画館でみています。一番最初は大学祭のとき、法学部の大教室でみた記憶です。東京にいたときは有楽町の映画館でも、下町(大井町)の映画館でもみました。有楽町では、周囲がなんとなくお高くとまっていて心の底から笑えませんでした。下町では、周囲の人々と心おきなく爆笑の連続でした。
福岡に戻ってからは、正月は子どもたちも連れて家族みんなで楽しんでいました。なので、渥美清が亡くなったと聞いて、一家中ショックでした。
この本の著者は映画の全巻を何回もみているうえ、台本全部も読んだそうです。なかでも心に沁みるエッセンスを紹介してくれていますから、寅さんをたっぷり楽しむことができました。
それにつけても、山田洋次監督のすごさを改めて思い知りました。
2018年夏のシリーズ第50作「男はつらいよ、お帰り、寅さん」は死せる寅さんをまざまざとよみがえらせてくれた映画でした。まったく、そこに寅さんがいて、「よおっ、おいちゃん、おばちゃん、元気してたかい?」と声をかけてきそうな雰囲気の映画になっていて、感激しました。
私の自慢の一つは、この「おばちゃん」とNHKテレビで弁護士として「共演」したことがあるということです。まだ、私が30代のころのこと。インチキ先物取引に騙されないように呼びかける番組でしたが、「おばちゃん」は、そこでショート・コントを演じたのです。
寅さんは愛すべき善良さがあるが、同時に、救いようなに駄目さと常に表裏一体のものだった。笑いのなかに悲しみがあり、哀しみのなかに笑いがある。いつも二つの背反する感情がある。
恋愛は「男はつらいよ」の重要なテーマだ。寅さんが旅先で女性に恋をして、そして失恋するというストーリーが、シンプルかつ普遍的であり、何度でも反復可能なものだった。誰かが誰かに恋をする、そのエネルギーが寅さんの映画の原動力である。
私の知人の女性が寅さん映画は、あまりにじれったくなるから好きじゃないと言い切ったことがあります。うむむ、そうも言えるんだね、そう私は思いました。でも...、ときに複雑で、ときに驚くほど単純明快な恋愛哲学は、恋愛は結局のところ思いどおりにはならないもの、という哀しい真理を示している。ふむふむ、なるほど、そうなんですよね...。
たくさんのマドンナのなかで、浅丘ルリ子が演じるリリーは、特別篇をふくめると計5作に登場していて、特別な存在になっている。これには私もまったく異論がありません。リリーさんほど、出てきただけでパッと華やかさを感じる女優は、そうそういませんよね...。
失恋のマンネリズムと言われることもあるが、実のところ寅さんの女性への心情は複雑多様だ。
「寅さん、もしかしたら独身じゃない?」
「首すじのあたりがね、どこか涼しげなの。生活の垢がついていないって、言うのかしら...」
映像でみたときには、さりげなく聞こえていた言葉が、台本の文章を読むと、心に留まって印象深く残る。そういうものなんですよね...。
「寅さんは、あの...、人生にはもっと楽しいことがあるんじゃないかなって、思わせてくれる人なんですよ」
そうなんです。だから私も寅さん映画を楽しみにし、映画館へ足を運んでいました。
「人間は何のために生きていくのかな?」
「ほら、ああ、生まれてきて良かったなって思うことが何べんかあるじゃない、ね。そのために人間、生きてんじゃねえのか」
いやあ、また映画をみたくなりました。それも小さな下町の映画館で...。
(2019年12月刊。税込880円)