弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

人間

2012年10月 8日

大往生したけりや医療とかかわるな

著者   中村 仁 、 出版   幻冬舎新書  

 40歳になってから20年以上年に2回、1泊ドッグを続けています。でも、幸いなことに病欠したことは弁護士生活40年近くの今日までありません。1泊ドッグは私にとって読書タイムなのです。分厚い本を6冊もち込み、読了してきます。
風邪で寝込むということもありませんが、風邪気味になることはあります。そんなときは、卵酒を飲んで早々に布団にもぐり込みます。西洋医学には頼りたくありませんので、薬を飲むことはありません。いえ、皮膚科は別です。自然に近い生活をしているので、虫さされなどは避けられません。それにハゼマケにもなります。そんなときには皮膚科からもらった軟膏の効き目が抜群です。
 この本は、れっきとした医師が、西洋医学に頼りきるのは考えものだというのですから、説得力があります。
 そうだ、そうだ、そうだよねと思いつつ読みすすめていきました。そして、「がん検診」とか「人間ドッグ」に疑問を投げかけています。最近、私の身内にがんが見つかって手術をした人がいます。目下、抗がん剤の投与を受けています。
 果たして抗がん剤を受けたほうがいいのか、私には疑問があります(使いたくないということです)。でも実際に、自分がそう診断されたらどうするか、まったく自信はありません。
 この本で、そこまでやるかと思ったのは、自分の葬儀をリハーサルのようにやってみるというところです。
 私などは、死後は「無」というか「空(くう)」の世界に同一化するだけ、意識はないと考えていますので、そんなリハーサルは本当に必要なの?・・・と思うだけです。
 いずれにしても、西洋医学だけ、薬漬けだけにはなりたくありません。
(2012年5月刊。760円+税)

2012年9月16日

勝ち続ける意志力

著者   梅原 大吾 、 出版    小学館101新書 

 ゲームの世界なんて、とんと無縁の私ですが、この本には、なるほどと思うところが多々ありました。
 私も、昔々流行したインベーダーゲームを何回かしたことがあります。でも、すぐに、これは私の性分にあわないと思いました。瞬発力というか、手の器用さが求められます。私の不得意とするところです。それでも、何回かやってみたのはどこの喫茶店にも、そのコーナーがあったからでもありました。
多くの人が現実逃避のためにゲームセンターに足を運んでいる。
 著者は、2010年8月、ギネスブックから、「世界でもっとも長く賞金を稼いでいるプロ・ゲーマー」として認定を受けた。
著者の勝ち方には、スタイルがない。そもそも勝負の本質は、その人の好みやスタイルとは関係ないところにある。かつために最善の行動を探ること。それこそが重要なのであって、趣味嗜好は瑣末で個人的な願望にすぎない。勝ち続けるためには、勝って天狗にならず、負けてなお卑屈にならないという絶妙な精神状態を保つことでバランスを崩さず、真摯にゲームと向きあい続ける必要がある。
著者が勝ったのは、知識・技術の正確さ、経験、練習量といった当たり前の積み重ねがあったから。得体の知れない自分という存在が相手を圧倒して手にした勝利では決してない。勝ち続けたり、負け続けたりすると、バランスが崩れてしまう。自分はすごいと勘違いしたり、どうしようもなくダメな奴だと落ち込んだりしてしまう。どれだけ勝とうが負けようが、結局は、誰もが一人の人間にすぎず、結果はそのときだけのものだ。勝敗には必ず原因があり結果は原因に対する反応でしかない。センスや運、一夜漬けで勝利を手にしてきた人間は勝負弱い。
 これまでの人生で何度もミスを犯し、失敗、そのたびに深く考え抜いてきた。だから、流れに乗って勝利を重ねてきただけの人間とは姿勢や覚悟が違う。
 集中力とは、他人の目をいかに排斥し、自分自身とどれだけ向きあうかにおいて養えるものかもしれない。人の目を気にせず、自分と向きあう時間、深く考え思い悩む時間を大切にしてこそ、集中力は高まっていく。
 「世界最強の格闘ゲーマー」と呼ばれるほど頑張ってこれたのは、ゲームといえども、自分を高める努力を続けていれば、いつかゲームへの、そして自分自身への周囲の見方を変えることができる、評価させる日が来ると信じていたからだ。そうやって15歳、17歳、19歳のとき、ゲーム大会で3連覇を達成した。すごいですね、これって・・・。
でも、4回目は勝てなかったのでした。この4回目に勝てなかったのが良かったのです。頑張っても結果が出ないことがあることを初めて知った。がんばり方にも、良いがんばりと、悪いがんばりがあるのに気がついた。
 自分を痛めつけると、努力することとは全然ちがう。格闘ゲームは心理戦でもあるので、心から勝ちたいと願っているプレイヤーの行動は、読まれやすい。動きが慎重で、セオリーに頼りすぎる傾向がある。
新しいものを否定しないこと。そして、新しいものから素直に学ぶ姿勢を忘れないこと。
 1日15時間以上勉強して身につけた知識は、一時的には結果を残すかもしれない。だが、その知識が持続するとは限らない。限界をこえた努力で身につけた力は本当に一瞬で失われてしまう。努力が自分にとっての適量かどうかを考えるなら、その努力は10年は続けられるものなのかを自問自答してみることだ。
 まだ30歳ですが、さすがは世界チャンピオンの言葉です。じっくり、その重味を味わいました。
(2012年4月刊。740円+税)

2012年8月29日

続・悩む力

著者   姜 尚中 、 出版   集英社新書  

 『悩む力』は、最新の広告によると100万部も売れたそうです。すごいベストセラーになりました。どうぞ、10月4日(木)午後の佐賀市民会館での姜教授の話を聞きにきてください。「教育の原点をとりもどすために」という内容です。お願いします。
 3.11のあとの日本社会をともに考えようという呼びかけもなされています。
 人間はなぜ生きるのか。生きる意味はどこにあるのか。何が幸福なのか。この問いをギリギリまで問い続け、答えを見出そうとした先駆的な巨人がいる。夏目漱石とマックス・ウェーバーである。漱石やウェーバーが重要なのは、東西でほぼ同時代を生きた2人の巨人が既に100年以上も前に、慧眼にも「幸福の方程式」の限界について、ほかの誰よりも鋭く見抜いていたことにある。
 いまの私たちの日常世界を圧倒的に支配しているのは、幸福の弁神論である。つまり、自由競争のルールに従って優勝劣敗が生じることは当然であり、強者、適者が栄え、弱者、不適応者が滅びることには一定の正当性があるという考え方である。
 そのためか、自殺した人が亡くなるときには、「すみません」という言葉を残して生命を絶つことが多い・・・・・。
近代までは、自然や神といった、実態を反映していると考えられた秩序に慣習的に従っていれば、よくも悪くも人生をまっとうできていた。ところが、近代以降の人々は、自分は何ものなのかとか、自分は何のために生きているのか、といった自我にかかわることを、いちいち自分で考えて、意味づけしていかなければならなくなった。
 しかも、一人ひとりがブツブツと切り離されていて、つながりがなく、共通の理解もない状態なのだから、お互いに何を考えているのか分からない。そのため、それぞれ内面的には妄想肥大となり、対人的には疑心暗鬼となり、神経をすり減らしていくことになる。
 近代文明のなかで個人主義が進行し、人々の孤独が強まり、また自意識がどんどん肥大していくからこそ、逆説的に、宗教は昔よりも自覚的に、かつ熱烈に求められるようになった。
 ホモ・パティエンス(悩む人)である人間は生きている限り悩まずにはおれない。そのほうが人間性の位階において、より高い存在なのだ。
 『吾輩は猫である』のなかに次のような記述がある。気狂いも、孤立しているあいだは、どこまでも気狂いにされてしまう。しかし、団体になって、勢力が出てくると、健全な人間になってしまうかもしれない。大きな気ちがいが金力や威力を濫用して多くの小気ちがいを使って乱暴を働いて、人から立派な男だと言われ続けている例は少なくない。
 100万人のうつ病患者と、年間3万人をこえる自殺者がいて、10人に1人は仕事の状況で、しかもやがて訪れるという年金だけの生活におののきつつ、自分はどう生きていくかという、切羽詰まった自分探しをしている。
 そして、「ホンモノを探せ」と叫び、私たちをあおっているのは、ほかならぬ資本主義なのである。ホンモノ探し、自分らしくありたいという願いが、自分に忠実であろうとする近代的な自我の一つの「徳性」を示しているとしても、それが時には、ナルシズムや神経症的な病気をつくり出しかねないことにもっと注意を払うべきである。
漱石やウェーバーなどの生き方にあやかる意味でも、あの3.11の経験を、どうしても「二度生まれ」の機会にしなければならないと思う。ところが、マスコミの動向は、忘れることの得意な日本人たちは、早々と3.11を忘れ去ろうとしている。
 日本人は、世界のなかでことさら宗教心の乏しい国民というわけでもない。それは、鎌倉時代のころ、12ないし13世紀に登場した、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍といった人々が次々にあらわれ、宗教改革を起こしたことからも分かる。ただ、戦前そして戦中に、政治的エネルギーを一種の宗教のように進行した結果、手痛い敗北をきっしたトラウマはとても大きかった。そのため、政治と宗教については、色をもたないほうがよいという教訓が導かれた。そして、ひいては何事に対しても、無逸透明であることが習い性のようになってしまった。
過去をもっと大切にしよう。いまを大切に生きて、よい過去をつくることだ。幸福というのは、それに答え終わったときの結果にすぎない。幸福は人生の目的ではないし、目的として求めることもできない。よい未来を求めていくというよりも、よい過去を積み重ねていく気持ちで生きていくこと。
恐れる必要もなく、ひるむ必要もなく、ありのままの身の丈でよいということ。いよいよ人生が終焉する1秒前まで、よい人生に転じる可能性がある。何もつくり出さなくても、今そこにいるだけで、あなたは十分あなたらしい。だから、くたくたになるまで自分を探す必要なんてない。心が命じるままに淡々と積み重ねてやっていれば、あとで振り返ったときには、おのずと十分に幸福な人生が達成されているはずだ。
 漱石とウェーバーをこれほど深く読み込むとは、さすがに大学の先生は違いますね。正編が100万部売れたとして、続編のこの本も何万冊と売れるのでしょうね。それはともかくとして、10月4日午後は、ぜひ佐賀市民会館に足を運んでくださいね。私も姜教授のナマの話を楽しみにしています。
(2012年6月刊。740円+税)

2012年8月27日

なぜ男は女より多く産まれるのか

著者    吉村 仁 、 出版    ちくまプリマー新書 

 アメリカには、13年とか15年に一度、セミが大量発生する地域があります。どうして、そんなことが起きるのか?
 セミの幼虫は、木の根っこから葉っぱに水を運ぶ導管というパイプに口を突っ込み、本の根が吸い上げた水を分けてもらって、その吸い上げ量に比例して成長する。植物はある程度以下の気温になると休眠するので、冬に木の根が休んでいるあいだはセミも冬眠する。そして、春になって木が水を吸い上げ出すと、セミたちもその水分をもらう。温度が高くなると、それに比例して水分の吸い上げ量が増加する。セミの成長は、植物の水分を吸い上げ量に比例している。だから、気温が高くなると、セミの幼虫の成長がどんどん早くなり、アブラゼミなら成虫まで7年かかるのが、2年とか3年に短縮してしまう。
 氷河期になって気温がどんどん下がってしまった。成長できない冬が長く、短い夏もあまり暖かくないので、5年で成虫になっていたセミが10年たってもまだ成虫になれなくなった。
 そして、13年とか17年という素数周期は絶滅の出会いをうまく避けていた。このように、変動する環境への対応の本質は、「絶滅の回避」なのである。
モンシロチョウの雌はキャベツ畑で卵を生み付けると、近くにあるアブラナ科の野草にも卵を生みつける。なぜか?
 キャベツ畑は効率はよいが、モンシロチョウにとっては、殺虫剤散布の危険、そして人間が収穫して絶滅してしまうリスクがある。そこで。絶滅のリスクを分散させるため、野生のイヌガラシにも卵を生み付ける。
 なーるほど、モンシロチョウの絶滅回避作戦って、すごいですね。
人間の性比は、男子がわずかに多く、55対45の比になっている。これは日本だけでなく、多くの社会で共通の普遍的な現象である。そして、幼児に限らず、あらゆる年代で男子の死亡率は高く、寿命やがんの死亡率にも、その違いが反映されている。
オスがメスに比べて死にやすいということは、人間だけでなく、広く動物にみられる現象である。なぜなら、オスは種付けで役割が終わるが、メスは出産・子育てと長生きが必要だからである。
 つまり、男子の死亡率が高いときには、いくらか男子を余計に生むと、全員が女性となって絶滅してしまう可能性(確率)を最小にできる。
 人間がモンシロチョウほどは賢くないのではないかという指摘もあり、なるほど、そうかもしれないと思わされたことでした。面白い本です。
(2012年4月刊。780円+税)

2012年8月26日

リハビリの夜

著者   熊谷 晋一郎 、 出版    医学書院 

 出産のときの酸欠から脳性マヒとなり、手足が不自由のなったにもかかわらず、ナントあの超難関の東大理Ⅲに入学し、東大医学部を無事に卒業して、今では小児科医としてフツーに働いている著者が書いた本です。
 すごいね、すごいなと思いつつ読みすすめました。自己分析力が、すごいのです。感嘆してしまいました。
 図解もされているのでたいへんわかりやすいのですが、意思という主観的な体験に先行して、脳の中ではすでに無意識のうちに運動プログラムが進行している。自らの意志は、実は無意識のかなたで事前につくられており、それが意識へと転送される。著者は発声器官の障害がないため、言葉でのやりとりには大きな支障がない。ところが、首から下の筋肉が常に緊張状態にある。
 いったん目標をもった運動を始めようとすると、とたんに背中から肩、腕に至るまでが、かちっと一体化してこわばる。背中から腰、足にいたるまでも同時に硬くなっている。つまり、身体が過剰な身体内協応構造をもっている。
 パソコンをうつにしても全身全霊で打つ。手首、ひじ、指の関節などの末端にある部分だけが動くということはない。ところが、夢のなかでは自由に歩いたり走ったりしている。風を切って走っているときの身体の躍動や弾むような爽快な気分も夢の中では味わっている。
 著者は大学に入った18歳のときに一人暮らしを始めた。トイレに行くのも、着替えをするのも、風呂に入るのも、車いすに乗るのも、みんな自分ひとりでできないのに・・・。
 いつか、これを始めなければ、両親亡きあと、生きていかれないのではないかという不安からだった。すごいことですよね。これって。
まずはひとりでトイレに行くことから始まりました。そして、物の見事に失敗したのです。でも、そこでくじけなかったのですね。えらいです。さすが、ですね。トイレは改装してもらいました。さらに電動車いすによって外出が自由にできるようになったのです。
電動車いすという身体を手にすることによって、地を這っていたときには触れることもできなかった本棚や、冷蔵庫や、自動販売機にも手が届くようになった。電動車いすは、つながれる世界を二次元から三次元へぐんと広げてくれた。
 今では、車いすから降りたとたんそれまで近くにあったモノが急に遠くへ離れていってしまうような感覚がある。
人間は、他の多くの生き物と違って、外界に対して不適応な状態で生まれ落ちる。この不適応期間があるからこそ、人間は世界との関係のとり結び方や動きのレパートリーを多様に分化させることができた。無力さや不適応こそが、人間の最大の強みでもあるのだ。
この本では、脳性マヒによって身体が思うように動かないということの意味が図解され、同時に人間をふくめた外界との関わり方が考察されています。そして、トイレ・トレーニングというか、不意の便意への具体的な対処法まで紹介されています。
 リハビリ、トレーニングの意義についてもたいへん勉強になりました。世の中には、これほどの身体的ハンディにも屈せずにがんばっている人がいるのですね。私も、もう少しがんばろうと思いました。
(2010年10月刊。2000円+税)

2012年8月17日

悩む力

著者  姜 尚中 、 出版    集英社新書 

 夏目漱石をこんなに深く読み込んでいるのかと、驚嘆してしまいました。
 私は、高校生そして大学生のころに漱石を一心不乱に読みましたが、それからはすっかり卒業した気分になっていました。イギリスに留学中に夏目漱石がひどい神経衰弱になったという本は少し前に読みましたが・・・。
 著者は私の2歳下で、熊本で生まれ育っています。大学生のときに上京するとき、いかに心細かったか、その心境が描かれていますが、私も似たようなものでした。私は、幸いなことに大学に入学すると同時に6人部屋の学生寮に入りましたので、孤独感にさいなまれることは全然ありませんでした。今でも、本当にラッキーだと思っています。おかげで五月病とは無縁の忙しい、張りのある学生生活でした。
 夏目漱石とマックス・ウェーバーがほとんど同時代の人だと言うのを初めて認識しました。ウェーバーのプロテスタントの倫理意識が資本主義の価値観を支えたという本は、余り真面目に授業に出なかった私ですが、しっかり記憶に残っています。
青春とは、無垢なまでにものごとの意味を問うこと。それが自分にとっては役に立つものであろうとなかろうと、社会にとって益のあるものであろうとなかろうと、「知りたい」という、自分の内側から沸いてくる渇望のようなものに素直に従うことではないか・・・。
未熟故に疑問を処理することができなくて、足元をすくわれることがある。危険なところに落ちこんでしまうこともある。でも、それが青春ではないか。
青春というのは、子どもから大人へ変わっていく時期であり、険峻な谷間の上に置かれた丸太を「綱渡り」のように渡っていくようなものではないか。一歩間違えば、谷底へ転落してしまう危うい時期だ。
青春時代の、心の内側からわき出てくるひたむきなものを置き忘れて大人になってしまえば、その果てに精気の抜けた、干からびた老体だけを抱えて生きていくことになるかもしれない。
私も、こんな干からびた老体だけにはなりたくありません。そのため、毎日たとえばフランス語を一生懸命勉強しています。
ヒトが一番つらいのは、自分は見捨てられている、誰からも顧みられていないという思いではないか。誰からも顧みられなければ、社会の中に存在していないのと同じことになってしまう。
 社会というのは、基本的には見知らぬもの同士が集まっている集合体である。だから、そこで生きるためには、他者から何らかのかたちで仲間として承認される必要がある。そのための手段が働くということ。働くことによって初めて、「そこにいていい」という承認が与えられる。
この新書本が90万部も売れたというのは、とても信じられません。でも、たしかに味わい深い指摘がたくさんありました。
 10月4日(木)の午後、佐賀市民会館で弁護士会主催の教育問題シンポジウムにおいて著者は問題提起していただくことになっています。お近くの方はぜひ、今から予定しておいてください。ご参加をお願いします。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年7月29日

がん放置療法のすすめ

著者  近藤 誠 、 出版   文春新書  

 がんが見つかっても、あわてて治療を始めないこと。放置しておくのも一つの対処法だと著者は力説しています。
 がん放置療法の主人公は患者。監視療法は、医者が患者を監視、支配し管理する。
 がん放置期間中は、がんであったことを忘れて、何も検査しないのがベスト。
 前立腺で、骨転移で痛みがあれば、治療を受けるのが妥当。そして、抗がん剤治療(化学療法)は、寿命を縮めてしまう。高齢者には、抗がん剤は特に危険。
 鎮痛目的で、2種類以上の方法を同時に始めないこと。
CTは放射線検査の中で線量が多く、被曝による発ガンの危険がある。胸部レントゲンによる被曝線量はCTのそれの数百分の一でしかない。
実のところ、健診は受けないのが平和に長生きするコツなのである。
抗がん剤治療は縮命効果が大きい。実は、スキルス胃がんは、手術さえしなければ、人が思っているよりずっと長生きできる。
 ええっ、と思いました。私の親しい弁護士は30代で亡くなってしまいましたが、手術しなければもっと長生きできたのでしょうか・・・。
そもそも胃がんの手術で胃を全摘したり、大きく切除したりするのは、原則として間違いである。
 そうなんですか・・・。ちっとも知りませんでした。
 がん放置療法の要諦は、少しの期間でいいから様子をみる点にある。その間にがん告知によって奪われたころの余裕を取り戻す。
がんは老化現象なのである。老化現象だから、放置した場合の経過が比較的温和なのである。
 がんについて、改めて考えさせられる本でした。
(2012年4月刊。780円+税)

2012年7月23日

声のなんでも小辞典

著者   和田 美代子 、 出版   講談社ブルーバックス新書

 どうして女性の声と男性の声は違っているのか、私は昔から不思議でなりませんでした。もちろん、ドラえもんの声が女性声優によるものだったとは知っていましたが、それにしても何が、どう違うのだろうかと謎でした。
 そして、人に近いチンパンジーやオランウータンは話せないのに、まるで人に似ていないオウムや九官鳥が人のモノマネができるのはなぜなのかも知りたいと思っていました。
 この本は、それらの疑問にこたえてくれる本です。
 チンパンジーののどは、ほぼ一直線になっているのと人と違って声帯が頭に近い位置にあるため咽頭がとても狭くなり、呼吸によって声帯で生じた音が鼻腔に入って鼻から外へ出てしまう。その結果、咽頭や口腔で共鳴させることができず、言語音をつくれない。
九官鳥は鳴器(めいき)という軟骨の突起部があり、ほぼ直角に折れ曲がった気道を、伸縮させたり太くしたり細くしたりして音を出す。
赤ちゃんの泣き声が遠くまでよく響いて聞こえてくるのは、声が大きいからだけではなく、人によく聞こえる周波数になっている、人間の耳の感度のいいところを本能にとらえているからだ。
新生児の声帯の長さは、男の子と女の子とで差がないので、声を聞いただけでは男女いずれか見分けがつかない。変声期を迎える7、8歳のころまで、男女の識別はプロでも不可能である。男子の場合、喉頭の上下、左右、前後といった枠組みが急激に成長して、声帯が入っている甲状軟骨の両翼の板が120度から90度くらいに突き出る。声帯の長さや幅、厚みが増していくにつれ、声が低くなっていく。これに対して、女子は男子に比べて変化が少ないために、声変わりしないかのように感じる。
 そして、年をとると声も中性化し、男女の声の差はなくなる。ええーっ、そうなんですか・・・。それは、まったく気がつきませんでした。今度、よく聞いて比べてみましょう。
 赤ちゃんに話しかけるときの声は、赤ちゃんが反応しやすい高い声が自然に使われている。
 アメリカの成人女性の声は日本人女性の声より低い。アメリカでは女性の甲高い声は幼い、あるいは能力が劣るという考えがあり、それに適応して、アメリカ在住の女性は低い声を学習している。
 男性は、おおむね声の高い女性により女性らしさを感じる。女性は低い男性に惹かれる傾向にある。
 喉仏(のどぼとけ)を形作っている甲状軟骨は焼くとなくなってしまう。そのすぐ近くにある第二頸椎の形があたかも座位の仏像のようにも見えることから、喉仏と呼ばれるようになった。
成人男性では、日常会話の声で毎秒100回、女性なら200回、声帯が振動している。歌をうたっているときは5~600回。ソプラノだと1000回をこえる。声帯は、超高速度臓器なのである。
 腹話術では下唇の代わりに舌を使うのがポイント。数え切れないくらい舌をかみながら、舌を前歯の前に出してしゃべる訓練を5年ほども続けた。これは、いっこく堂の話。
 狂言師の野村萬斎が舞台で演じるときの声がよく通るのは、頭から足先までの骨や筋肉の振動をうまく使ってうみ出した、体全体で引き起こされた空気の振動を私たちが受けとっているから。
音痴も、合理的なトレーニングをすれば、生まれつき強度の難聴や事故などで聴覚の機能が損なわれていない限り、ほとんど治る。
 これを知って、音痴の私も少しばかり安心しました。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年7月17日

脳はすすんでだまされたがる

著者  スティーヴン・L・マクニックほか 、 出版   角川書店

 この本はタネも仕掛けもないはずの手品のネタバレをいくつもしています。でも、私がこれを読んだからといって、なるほどとは思いましたが、自分でやれるとは思えませんでした。なんといっても、手品を成功させるには繰り返しの練習が必要です。生半可なことではうまくはずはありません。
 あなたが見て、聞いて、感じて、考えたことは、あなたの予期にもとづいている。また、あなたの予期は過去のあらゆる経験や記憶から生まれる。いま現在、あなたが見ているものは、過去にあなたにとって有用だったものである。
 この本の主旨は、知覚された錯覚、自動的な反応、さらに意識する導き出す脳メカニズムがあなたという個人を定義するということだ。知覚の大部分は錯覚なのである。
 目とは、とかく信用ならない代物なのだ。人は見るものの多くを捏造してもいる。脳は処理できない視覚情報を「充填」によって補う。
手品の成否を決めるのは手の器用さだけではない。巧みな演技とコインの残像効果を組み合わせ、注意の対象を移動させることによって、小さな動きに信じがいたいほど強力な暗示を与える。目につく認知上のヒントをいくつも出し、観客がそれを発見するように導く。その技はいたって効果的であり、何度やっても観客はだまされてしまう。
 視覚系は、視野の中心を除けば、解像度はかなり低い。
科学者は手品師にことにだまされやすい。優秀であればあるほど、科学者をだますのはたやすい。なぜなら、科学者とは、真っ正直な人だから・・・・。
脳は自身の現実世界をたえずでっち上げている。
 一人になれるなら、刑務所内の危険や不快な出来事から解放されると思うかもしれない。しかし、それは受刑者にとっては最悪の懲罰なのだ。彼らは現実世界との接触を失ってしまうからだ。独房は拷問の一種である。
手品師は、人間の認知を手玉にとる達人である。注意、記憶、因果推論など、きわめて複雑な認知過程を視覚、聴覚、触覚、人間関係の操作の驚嘆すべき組み合わせによって制御する。
 脳は、二つ以上のことに同時に注意を払うようにはできていない。ある時点では、ある空間的位置にのみ応答するようにできている。
記憶には一つの情報源しかないように感じられるだろうが、それは錯覚だ。記憶はいくつかの下位システムから構成され、それらの下位システムが連携して自分が一個の人間であり、これまでの人生を一貫して生きてきたという感覚を与える。
 記憶は総じて誤りを免れえない。人間の脳は常に秩序、パターン、解釈を求めており、ランダムさ、パターンの欠如、形容しにくさに対する嫌悪感を生まれつき持っている。脳は説明不能とみると、無理にでも説明を試みる。詐欺師は弱者を襲ったり、助けを求めたりして、自分が弱い立場にあることを相手に印象づける。オキシトシンが脳に与える影響により、他人を助けるといい気分になる。「私には、あなたの助けが必要です」というのは、行動をうながす強力な刺激だ。
 手品師もたえず間違いを犯しているけれども、こだわらずに前へ進むので、観客はほとんど気づきもしない。あなたもそうすべきなのだ。うむむ、なーるほど、そうですよね。くよくよしていても損するだけですからね。
 手品師は、ユーモアと共感をもちいて、あなたの守りの壁をとっ払う。そうなんですよね。ユーモアと笑いが、人生をよりよく生きるためには欠かせませんね。なーるほど、そうだったのかと思わせることの多い本でした。
(2012年3月刊。角川書店)

2012年7月 2日

ソウルダスト

著者  ニコラス・ハンフリー  、 出版   紀伊國屋書店

 人間と同じように、わざわざ楽しみを求める動物種は多くある。
 彼らは、おおいに楽しみたがっている。モモイロインコは旋風を探し求める。イルカは船首が立てる波に乗るために船を追いかける。チンパンジーはくすぐってくれるように懇願する。散歩に連れていってもらうためなら、犬はどんな苦労も惜しまない。
 まんまと連れ出してもらえたときのうれしそうな様子。逆に、願いがかなわないのを悟ったときのしょげた顔は、犬を飼った経験のある人なら誰もが知っている。車に乗せられて外出し、広いところで駆けまわると思っていたのに、ペット・ホテルに預けられ、自分の存在が「保留」状態になるのに気付いたときの犬の姿ほど哀れを誘うものは、そうそういない。
死とは、意識のない状態。もう生きていないこと。何も感じないこと。命の匂いを嗅げないこと。意識のない状態を恐れるのは一種の論理的誤りだ。感覚のない状態は合理的に恐れられない。なぜなら、それは存在の一状態ではないからだ。存在しない人間は悲哀を感じない。死んだら、私たちが恐れるものなど、何が残っているというのか。
 意識のない状態は想像できない。心は、心のない状態をシュミレーションできない。
 人間以外の動物は死を恐れるだろうか?
 恐れない、いや恐れることはできないというのが従来の一般的な見方だ。
 それには、三つの理由がある。第一に、まだ自分の身に起こったことがない出来事を思い描けるとはとうてい思えない。死とは、もちろん生まれてからまだ一度も経験したことのない、仮想の出来事にほかならない。
 第二に、人間は死の証拠の積み重ねにさらされているが、人間以外の動物はそういうことはまったくないからだ。人間は自分が死なねばならないことを知っている唯一の種だ。そして、人間は経験を通してのみ、それを知っている。
 第三に、人間以外の動物は、死が最終的なものであることを理解する概念的手段がない。肉体の死が自己の死をもたらすことを、どうして動物が理解しうるだろうか。
 目の前で仲間の一頭が生きていることを永遠にやめたときに、何が起こったのかチンパンジーたちは理解するのに苦しんでいるから、これが自分を受け入れている運命だと想像できるはずがない。そして、想像できないものを恐れるはずはない。なーるほど、そうなんですか・・・・。
 ソウルダスト、すなわち魂の無数のまばゆいかけらを周りじゅうのものに振りまく。現象的特性を外部のものに投影するのは、あなたの心だ。この世界がどのように感じられるかを決めているのは、あなた自身なのだ。
 100年以上前に、オスカー・ワイルドは、次のように書いた。
 「脳の中ですべては起こる。ケシの花が赤いのも、リンゴが芳しいのも、ヒバリが鳴くのも、脳のなかだ」
自分であることの輝かしさに気がついた子どもは、すぐに他の人間の自己についても、大胆な推測をするようになる。もし、自分にしか分からないこの驚くべき現象が自分の存在の中心にあるのなら、他の人々にも同じことが当てはまるのではないか、いやきっとそうだ。
 子どもたちは、社会的相互作用や探究、実験を通して、ゆっくりと習得する。他者も現象的意識をもっていると考えていいことを、子どもは少しずつためらいがちでさえあるかのように理解する。だが、いったんそれを悟ると、人生や宇宙やあらゆるものに対する見方を急激に修正しなくてはならなくなる。というのは、重要度という点では、自分自身が意識をもっているという真実に次ぐ二番目の真実に行きあたったからで、それは意識をもっているのは自分だけではないという真実だ。自分以外の人間も、誰もが自立した意識の中心なのだ。人間が気がつくのは、自分たちが実は自己の集合体としての社会の一部だということにほかならない。
生物にとっての意識というものを考えさせてくれる本でした。
 私って何でしょう。死んだら、その意識はどこに行くのでしょうか。霊魂不滅とは、輪廻転生とは・・・・?
 この世の中は複雑怪奇、そして、すべては泡のように消えていくのでしょうか・・・・。
(2012年5月刊。2400円+税)

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