弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2022年2月26日
海坂藩に吹く風
(霧山昴)
著者 湯川 豊 、 出版 文芸春秋
海坂(うなさか)藩というのは江戸時代に実在した藩ではありません。藤沢周平がつくり出した、東北にある架空の小藩。といっても、山形県荘内地方にあった、江戸時代の酒井家荘内藩、表高16万7千石(実は20万石)がモデルと考えられています。
私も、石油パニックのときに起こされた消費者訴訟である灯油裁判で、山形県鶴岡市に通ったことがあります。冬の雪深さをほんのちょっぴりだけ体験しました。
江戸の人情小説としては弁護士になる前(司法修習生のころ)は、山本周五郎を同期生にすすめられて、はまり込みました。弁護士になってからは藤沢周平です。
この本によると、鶴岡市は江戸時代の食べ物と食べ方が多く、そのままに残っている。日本でも珍しい美味の町だとのこと。それはまったく知りませんでした。鶴岡に何回か行ったのですが、弁護士1年目から3年目で、そんな心にも財布にもゆとりはなかったのですから、仕方ありません。
山田洋次監督の映画になった『たそがれ清兵衛』などは、江戸時代の武士の生きざまをいかにも美しく描いていると感嘆しました。
剣は、我が身を守るときのほかは使うな。他の目的で使えば災厄を招く。これは剣の本質を深く身につけている者の教えだ。『隠し剣』シリーズに出てくる剣技は奇想天外。『たそがれ清兵衛』 のほうには剣技にユーモアがある。
藤沢周平の剣客小説には剣客たちの流派が書かれているが、その流派は実在したもの。ただし、道場名のほうは架空になっている。雲引流は、引流と無住心剣流を合わせたもの。無外流は、現在も、財団法人無外流として多くの人を集めて現存している。
藤沢周平は江戸時代を舞台とした小説を書くとき、むかしの随筆から材料を得るのはまれで、たいてい現代日常で見聞し、また自分が考え感じたことをヒントにして書き出すことが多いとしています。ただし、ヒントを現代にとるといっても、それは小説の入口の話で、そこから入っていって、江戸の市井(しせい)の人々と一体化する。
うむむ、なるほど、そうなんでしょうね。だからこそ、現代に生きる私たちの心を打つストーリーになるのだと思います。
作家は、涙や笑いのなかに安直に逃げこんで結末をつけることを絶対にしてはいけない。悲痛なことは悲痛なこととして描く。ただし、そこにはすべての登場人物をいつくしむように見るという精神の働きが必要なのだ。なーるほど、ですね。
藤沢周平って、中学校の教師をつとめ、肺結核で入院・療養し、東京で業界紙の記者として働きはじめて作家になったのですよね。そして、山本周五郎賞の選考委員にもなっています。
藤沢周平の小説として見落とせないのは『義民が駆ける』という政治小説です。「三方国替え」を百姓一揆で止めさせたという画期的な出来事に現代の私たちも学ぶところは大きいと思います。藤沢周平が69歳という若さで亡くなったのは、本当に残念でした。いろいろ小説や映画を思い浮かべながら、なつかしい思いで読みすすめました。
(2021年12月刊。税込1980円)
2022年2月16日
女と男の大奥
(霧山昴)
著者 福田 千鶴 、 出版 吉川弘文館
江戸城の奥深く、女性だけでなりたっている(と思っている)大奥の実相を明らかにした本です。実は、大奥にも二つあって、いずれもときに男性も出入りすることがあり、また、9歳まで(当初は7歳)の男の子なら出入りできたのでした。身内の子どもを引きとって大奥で育てていた女性もいたようです。これにも驚きました。
奥方(おくがた)法度(はっと)は、男性に向けた規制令であり、奥方イコール女性ではない。
来客を迎えて応接し、儀礼を営むのが表御殿。表向(おもてむき)。当主とその家族が日常生活を送るのが奥御殿、奥向(おくむき)。将軍の御座之間(常の御座所)のある奥(中奥)の本質は奥向であり、奥向(奥御殿)の表方。
表向に勤務する番方(ばんかた。軍事職)や表向の役人は、原則として将軍の御座之間のある奥向に入ることは許されなかった。男が将軍に仕える奥(中奥)は表向ではない。男であっても表向の役人は奥(中奥)には入れなかった。
大奥に老女はいないとする人もいるが、老女と年寄は同義で、両様で呼ばれていた。
火事という生死を分ける緊急事態であっても、男人禁制は厳格に遵守するべき御法だった。
徳川将軍家出身の妻は、一門としての立場を利用して、さまざまな願いごとを将軍に聞き入れてもらうという、内証行為を登城した大奥で行っていた。
大奥では年中行事化した祈祷(きとう)があった。なので、大奥には継続的に男性の宗教者が出入りしていた。また、奥医師も日常的に大奥に出入りを許されていた。実は、大奥の女中には、奥医師の関係者も多く、大奥女中と強いコネクションをつくっていた。
大奥に奉公する女中の行動を規制する法令として女中法度が大老・老中主導によって1670年に制定された。これは、将軍の血統維持のためだけではなく、大奥の女性たちの意向が将軍の意思として表向に影響を与えないようにする方策でもあった。
江戸城大奥に男性が出入りすることは避けられなかった。儀礼、普請(ふしん)、掃除、病気の診断、重い荷物の運搬、火事や地震のときの非常時の場面で、男性が大奥の中に入ることは避けられなかった。男人(なんにん)禁制という実態はなかった。
大奥は、女と男の協業によって運営されていて、必要なときには男性が錠口の内部に入ることもできた。ただし、男性は必ず複数で行動した。
江戸時代、しがない庶民の妻を「奥さま」と呼ぶことは許されていなかった。
江戸城の大奥における生活の一端を知ることができて、大変勉強になりました。大奥についての間違ったイメージを訂正することができる本です。
(2021年7月刊。税込1870円)
2022年2月12日
江戸の旅行の裏事情
(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版 朝日新書
コロナ禍のせいで、私はこの2年間、福岡県の外へ一歩も出ていません。本当は、国内どころかフランスにも旅行するはずだったのですが...。
日本人は昔から旅行が大好きでした。それは戦国時代の宣教師たちのレポートでも明らかです。江戸時代は治安が良く、道路網も旅館も整備されましたから、殿様の参勤交代だけでなく、庶民も連れだって旅行に出かけていました。それは伊勢であったり、温泉であったりしました。成田山詣でには講が組織されていました。
伊勢参宮には御師(おんし)が活躍した。御師は、祈祷に携わる神職ではあるものの、営業部員ないし、旅行代理店のような仕事もしていた。800家を数えた。
御師と講が団体の参詣宮を増加させ、ひいては江戸の旅行ブームを牽引した。
また、江戸後期には、身分の上下にかかわらず、湯治(とうじ)つまり温泉旅行がブームになっていた。湯治は7日を一廻りと数え、三廻りするのが一般的だった。東は熱海・箱根、西は有馬の人気が高かった。
女性も旅行に出かけていた。関所破りも珍しくはなかった。
江戸も旅行の対象となり、『江戸名所記』や『江戸買物独案内』が刊行されて喜ばれていた。
吉原は人口8千人のうち遊女は2千人。吉原には男女を問わず、昼も夜も全国からの観光客でにぎわい、観光客相手の飲食業が盛んだった。
そして、江戸では、全国の寺社が出開帳(でかいちょう)を企画した。
私は最近『弁護士のしごと』という冊子を刊行しましたが、そのなかで、江戸の庶民がいかに旅行を楽しんでいたか、また、男女を問わず旅日記を書いていたことを書きつづったのですが、これが予想した以上に驚きをもって受けとめられ、大好評でした。
江戸時代の250年間というのは庶民にとって決して暗黒の時代ではなかったのです。ほとんど戦争のない、平和な時代を庶民はそれなりに楽しく過ごしていたのだと私も今では考えています。
(2021年11月刊。税込891円)
2022年2月 2日
柳河藩の政治と社会
(霧山昴)
著者 白石 直樹 、 出版 柳川市
柳河藩がどういう藩なのか、初めてその全体像を知ることができました。大変詳細なのですが、読みやすい文章になっていて、すいすいと読みすすめることができました。この本には、知らなかったことがたくさんあると同時にいくつも驚かされました。
その第一が、藩主すりかえ作戦に成功したということです。鑑広が8歳(幕府には12歳と届けた)で藩主となったものの、わずか3年後、11歳で病死してしまった。大名当主が17歳未満の場合には養子が認められなかったので、幕府に藩主の死亡を届けたら、お家断絶になってしまう。そこで、藩主の鑑広は生きていることにして身替りを立てることになった。誰を身替りに立てるかでいくつか案を検討したが、結局、鑑広の弟・保次郎(5歳)を鑑広に仕立てあげることになった。中継ぎで藩士の誰かを立てたとき、もしもその藩士に子どもが出来たら、その母親が藩主だと主張する危険もあり、ともかく弟の保次郎を身替りでいくことにした。ただ、保次郎まで17歳になる前に死んだらどうするのかという心配があった。幸いにも保次郎は若死しなかった。
いやあ、そんなことまでしたのですね...。藩主の顔が広く知られていなかったというのが作戦成功の前提だったのでしょう。
柳河藩の財政状態はずっと苦しかったようです。七代藩主鑑通のとき、藩主の主導で藩財政を改革し、立て直すことを宣言した。これは、逆に家老・奉行たちから意見書が出されたことへの対抗策でもあった。鑑通は、財政難は家老や奉行、役人たちの「不埒(ふらち)」に起因していると考えていた。たとえば、さまざまな名目で年貢が納められていない土地があるのをやめさせようとした。そして、これは、鑑通が藩財政再建で頼りにした大坂の大名貸・加島屋(かじまや)の要求によるものだった。加島屋は蔵元就任の条件として、藩財政の改善を要求し、鑑通はこれを承諾したのだった。
大名貸の茨木屋が柳河藩へ貸し付けた金員の返済を求めて、柳河藩の大庄屋8人を相手どって大坂町奉行所に訴え出たというケースも面白いです。
茨木屋が貸し付けた相手はあくまで柳河藩。しかし、借用証文に大庄屋8人が名を連ねていたので、大庄屋を被告として訴え出た。ところが、大坂町奉行は、大庄屋たちを大坂まで呼びつけておきながらも、審理を開かないまま、茨木屋の訴を却下した。それは、武士身分者の金公事(かねくじ。金銭貸借訴訟)についての裁判権はないという理由だった。柳河藩は訴訟を回避すべく大庄屋は藩士であるとして、帯刀を認めていた。
ところが、茨木屋はあきらめず、今度は、江戸の幕府寺社奉行に提訴した。茨木屋は、柳河藩が茨木屋に返済すべき米(または銀)を大庄屋たちが横領していると新しく主張した。評定所で審理されたが、この評定には、町奉行大岡忠相も出席している。評定所では、茨木屋からの借銀の主体は大庄屋なのか柳河藩なのか、大庄屋とは農民の代表ではないのかという2点が主たる争点となった。
評定所は即日結審し、大庄屋による横領の事実は認められないとして、茨木屋の訴えはまたもや却下された。ただし、滞っている返済金は多額なので、柳河藩は茨木屋が納得する返済方法を協議するよう勧告された。そこで、柳河藩は茨木屋に対して年賦返済をすることになったようで、享保10年冬から返済しはじめた。
このように大名貸は、藩側が返済しないときには控訴も辞さないという事実が、その後の大名貸との関係で教訓となった。
柳河藩では、久留米藩で起きたような大規模な一揆は起きていない。ただ、上内村(大牟田市上内。かみうち)の農民600人が熊本藩領南関へ逃散するという事件が起きた。享保13(1728)年11月のこと。村役人が高い年貢をかけたことへの反発を理由としたもののようだが、幕府の老中や勘定奉行の介入もあり、結局、逃散した農民たちは全員、帰村した。その処分として、村役人のほうは家財を没収したうえ領外へ追放、頭取の百姓12人は死罪、頭取同然の者13人は没収・追放という厳しいものだった。
享保17(1732)年に始まる飢饉によって餓死者が1000人ほども出た。病死者も同数ほどいたので、藩としての対策がとられた。藩は領内の「極難者」が4千人以上いるとみていた。こんなときには、村内の富裕者が米などを拠出して困窮者に対して施行していた。
400頁以上もある大作ですが、休日にじっくり読み、大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込1500円)
日曜日に孫たちに手伝ってもらってジャガイモを植えつけました。メークイン、男爵、キタアカリそしてアンデスの乙女です。6月に収穫できるはずです。
コロナ第6波の急速な感染の広がりに、恐れおののいています。学校や保育園で閉鎖も増えているようです。PCR検査が十分でないとか、検査キットが払底してしまったなど、政府の無策ぶりに怒りを覚えます。「中国の脅威」に備えて軍事予算を増大させていますが、国民の健康を守るのが先決です。
2022年1月29日
輝山
(霧山昴)
著者 澤田 瞳子 、 出版 徳間書店
石見(いわみ)銀山を舞台とする時代小説です。いやあ、すごいです。読ませます。作家の想像力のすごさを実感します。自称モノカキの私には、とてもこれほどの筆力はありません。情景描写もすごいし、ストーリー展開が思わず息を呑むほど見事なのです。そして、いくつもの伏線が終点に結びついていき、ついにクライマックスに達します。
私は、この本を2日間かけて読み終えました。まさしく至福のひとときです。
ただ、読み終わって、あれ、待てよ、どこかで、この本と同じようなストーリー展開を読んだ気がするなと思い至りました。でも、それがどんな本だったのか、具体的には思い出せません。
ともかく、鉱山にしろ農業にしろ、江戸時代の人々が大変な苦労をして、それをやりとげていたのは歴史的な事実です。石見銀山でも同じように苦労しながら働いていた人々、そして、それを管理する人々がいます。それぞれ、思惑はいろいろあって、お互いにぶつかりあいます。
それを生のデータとして提供するのではなく、細かい鉱山の採掘状況を描写しつつ話を展開させ、読み手の心を惹きつけていく。さすがです。
銀山で働く労働者は、じん肺でヨロケにかかって若くして、40代に死に至ります。この本では「気絶(きだえ)」と呼んでいます。でも、それぞれ親や子をかかえているから、先が短いのを知りながらも耐えて働くのです。
そして、それを扱う商人がいて、そのうえに藩がいる。そんな構造のなかで、人々はもがき、また、いくらかは楽しんでもいるのです。
「破落戸」とは、「ならずもの」と読ませるのですね。知りませんでした...。
(2021年9月刊。税込1980円)
2022年1月23日
ボールと日本人
(霧山昴)
著者 谷釜 尋徳 、 出版 晃洋書房
現代日本人はボールゲームが大好き。日本の各種スポーツ競技団体に登録している競技者の人数を多い順でみると、剣道191万人、サッカー95万人、バスケットボール62万人、ゴルフ59万人、ソフトテニス43万人、陸上競技43万人、バレーボール42万人、卓球34万人...。
観戦したいスポーツでは、プロ野球、サッカー、高校野球、...、プロサッカー、プロテニス。
私はみるのもするのも全然やりません。地区法曹関係者の懇親のためのボーリングは参加したくありません。昔はソフトボール試合があって、何度も空振り三振して恥ずかしい思いもしました。好きでないことをするより、一人静かに本を読んでいたほうがずっといいのです。
この本を読んで、日本人が昔からボールゲームをやっていたことを知りました。
古代日本にボールをつかったスポーツとして、『日本書紀』に打毬(くえまり)がありました。このとき中大兄皇子は中臣鎌足と結びついた。
平安時代には、蹴鞠(けまり)の達人が登場する。12世紀後半に活躍した公卿の藤原成道。平安末期になると、僧侶も蹴鞠を楽しんでいた。そして、この勝敗はギャンブルの対象ともなっていた。後鳥羽上皇も、蹴鞠の達人だった。
室町時代、足利義満や足利義政も蹴鞠を盛んにしたことから、蹴鞠は武家のたしなみとして定着した。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスも、日本の蹴鞠を紹介している。
江戸の庶民が楽しんだボールゲームの多くが、もとをたどれば古代に大陸から来た外来スポーツでした。創世記のボールをつかったスポーツの実際を知ることのできる、楽しい本です。
(2021年8月刊。税込2200円)
2022年1月 8日
恵比寿屋喜兵衛手控え
(霧山昴)
著者 佐藤 雅美 、 出版 講談社文庫
1994年の第110回直木賞受賞作です。27年も前の本を今ごろ読んだ理由(わけ)は、先ごろ江戸時代の公事師(くじし)は江戸の訴訟で重要な役割を果たしていたことを各種文献によって私が論証したのを読んだ弁護士仲間から、この本を紹介されたからです。うかつでした。公事師の活動状況が、こんなに見事に小説になっているなんて、まったく知りませんでした。
公事師は刑事裁判にも関わりますが、基本は民事裁判です。といっても、この小説もそうですが、江戸時代の裁判は民事と刑事が混然一体となっているところがありました。もちろん奉行所はどちらも扱えます。
裁判は、手付金返還請求の被告とされた人の弟が公事宿(くじやど)に駆け込んでくるところから始まります。なので、純然たる民事訴訟のはずで、奉行所は証文を当事者双方に出させて、口頭で双方を審問します。公事宿の主人(公事師)はその場に立会していますが、代理人ではありませんので、代弁はしません。
被告として受けて立ち、裁判を争いたいという「六助」に宿の主人は、裁判にはお金がかかることをじっくり説明した。ところが、「六助」は、それでもいいと言いはった。
「御白州(おしらす。裁判所)では、間違っても小賢(こざか)しく振る舞ってはいけない。公事訴訟にはまったくもって詳しくない。見てのとおりの田舎者。と、むしろ愚直をよそおうのがいい。賢くはないが、頑固一徹者、という印象を与えられたら、なおいい」
これって、今の裁判にも十分通用する注意です。
公事買(くじかい)といって、買ってまで公事訴訟をおこす、公事になれた家主が江戸には少なくなかった。
そうなんですね、昔から日本人は裁判が好きだったんです...。
金公事(かねくじ。金銭貸借を扱う裁判)は、役人が当事者を脅かしたりすかしたりしているうちに、なんとなく内済(ないさい。和解・示談)の方向へ話がすすんでいく。そして、金銭支払いのときは、無利息・長期月賦の「切金(きりがね)」を利用することで決着が図られることが少なくなかった。これを歓迎する人も、もちろんいるが、庶民には不評だった。
この本では、旅人宿と百姓宿とがニラミあっていて、お互いに先方の縄張りに浸食しようとして、しのぎを削っている様子も描かれています。
あと、この本が読ませるのは、公事宿の主人が、自らの妻が病床にいるあいだに、妾を囲って子を産ませ、そのことを気に病んでいる、といった心理描写も出てくるところにあります。
まことに幅の広い、そして奥の深い人間観察をふくむ、公事師が大活躍する人情話でもある文庫本です。あなたもぜひ、ご一読ください。
(2019年9月刊。税込713円)
2021年10月20日
今に息づく江戸時代
(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 吉川弘文館
江戸時代は、これまで想像されていた以上に、豊かで成熟していた。江戸にいる将軍は天から日本国民の統治を委ねられ、国主(大名)は将軍から領民の統治を委ねられていた。「ここで「天」とは「天皇」の意味ではない。
大名行列が通るとき、民衆は恐れて道を避けるが、権力者(大名たち)をそれほど気にしていないのが常だった。大部分の者は平然と仕事をしていた。武士と農民は、お互い遠くで見て見ぬふりをしてやり過ごした。これが当時の社会的知恵・作法だった。
幕末(1865年)に来日したシュリーマン(トロイ遺跡を発見した)は、日本は平和で、総じて満足しており、豊かさにあふれ、きわめて堅固な社会秩序があり、世界のいかなる国々よりも進んだ文明国だと評した。
そして、日本人は、あまり信心深くない。月に1回、お寺に行くか行かないかくらいだと来日した外国人からみられていた。
村々は、武士が城下町に移り住んでいたことから、農民による自治が行われていた。庄屋は読書・そろばん能力が必須だった。そして公文書によって任務を引き継いでいた。
江戸時代の武士たちによるチャンバラ(切りあい)は少なかった。路上で刀を抜いたら、処罰の対象になった。長刀は公務用、小刀は自殺用だった。小刀で他者を傷つけることはなかった。
江戸の役人たちは、犯罪を武力弾圧するより、予防措置に力を入れていた。
徳川吉宗が八代将軍になったのは「革命」だった。
「享保革命歴史」という当時刊行された本がある。ここで「革命」とは、王朝・王統が変わって新たな統治者が生まれることをいう。うひゃあ、これは知りませんでした...。
吉宗は、儒学や和歌などの教養は乏しかったが、実用的な学問に関してはとても関心をもっていた。薬学に通じ、全国各地に朝鮮ニンジンを植えさせ、国産化・普及につとめた。吉宗は、洋書の輸入禁止を緩和した。
吉宗は「足高(たしだか)制」をとって、有能な著者をどんどん採用していった。実力主義・能力主義の時代に入ったのだ。
吉宗は今日まで続く官僚システムを整備した。
公文書の整理に着手したが、分析に手間どり、なかなか進まなかった。
吉宗の下にいた大岡裁きで著名な大岡忠相は、もっとも官僚らしい官僚だった。法と公文書の整備こそ官僚制の基礎をなしている。
日本人の教育力と教育熱に支えられた江戸教育は、250年という長期の平和を実現し、独自の日本型文明を築いた。寺子屋は全国に1万5千もあったが、実際にはその5倍ほどあった。
ロシア海軍のゴローニンは、「全体として一国民を他国民を比較すれば、日本人は天下を通じてもっとも教育のすすんだ国」だとした。成年に達したら、男女とも、読み書き、数の勘定ができた。
江戸城の大奥にも官僚組織があった。大奥は、当時の活発な女性たちを象徴する場でもあった。
江戸城の無血開城について、勝海舟と西郷隆盛の会談で成立したことになっているが、大奥にいた二人の女性が、それぞれ官軍へ使者を送り、また幕府軍の爆発をおさえたこときちんと評価すべきである。薩摩から嫁入りした篤姫と朝廷から降嫁した和宮である。
自信にみち、たくましく働き、ときに花見や芝居見物を楽しむアクティブな女性たちがいるのに、来日していた外国人たちは驚いていた。
200頁あまりの薄い本ですが、江戸時代が実は今に続いていることを実感させられる記述のオンパレードでした。
(2021年7月刊。税込2420円)
2021年10月13日
ちえもん
(霧山昴)
著者 松尾 清貴 、 出版 小学館
この本の始まりと終わりはオランダ交易船の沈没、そしてその引き上げです。ときは1798(寛政10)年11月から翌年2月のこと。つまり、松平定信の寛政の改革のころの話です。
長崎・出島のオランダ商館を拠点とするオランダとの交易は、ひそかに密貿易(抜け荷)も横行していたようです。しかも、幕府の禁止をかいくぐって藩当局の黙認のもとに...。もちろん、見つかれば処刑されます。実際にも、見せしめのために処刑された商人や通詞(通訳)がいたようです。
オランダ交易船は、全長42メートル、幅11メートル、総積載高1万石、鋼鉄張り、大帆柱3本の巨大な船。海中に沈没してしまっているのではなく、座礁している。このオランダ交易船を地元の香焼(こうやぎ)島の島民とともに、引き上げる。その先頭に立ったのが山口県徳山湾に面した漁村で育った漁民だった。
村の青年は若衆宿に属する。そして、夜這いをかける。寝ている娘の枕元に忍び寄る。娘に誰何(すいか)され、拒絶されると、夜這いは中止。男は黙って帰り、その夜のことを忘れなければならない。それが宿の掟だ。強姦者は若衆宿からも村からも制裁を受け、ろくな人生を送れない。死ぬまで負の烙印を押される恐怖から、どんな乱暴者も夜這いの作法だけはかたくなに遵守した。
若衆組は、下から順に小若勢(わかぜ)、並若勢、大若勢、年寄若勢と格付けされ、年次ごとに昇進する。新入りの指導は並若勢の役目だ。新入りは小若勢ですらない。宿の上下関係は絶対で、年次の差は埋まらない。
官途成(かんとなり)。名を改めるとき、特別な儀式が催された。官途名、大夫、兵衛、左衛門、右衛門など昔は武家が名乗った官名を百姓が名乗る。それ自体は珍しいことではないが、それへの改名は段取りを踏まなければならない。神職から名を授かるのに、相応の寄進が求められた。なので、官途成ができるのは有力百姓に限られ、そして、たいては跡取り息子だけだった。
瀬戸内は廻船の通り道。北陸や山陰などの日本海側から出発した船は、赤間関(今の下関)を超えて瀬戸内に入り、さらに大坂へ出て太平洋沿岸を経由して江戸に向かった。西廻り航路と呼ばれる開運物流の主流の一つだった。
瀬戸内には、米を大坂や江戸に運ぶ米廻船だけでなく、木綿・油・しょう油などの日用品を運ぶ菱垣(ひがき)廻船や、上方の酒を諸国へ下らせる樽(たる)廻船も頻繁に往来した。
そして、これらの回船は、江戸、大坂の問屋どうしが組合仲間をつくり、扱う商品によって棲み分けした。
沈没して海中の泥に半ば埋まっているオランダ交易船の周囲に、幅2間(3.6メートル)の筏(いかだ)2組を並べた。大きな足場となる。この巨大筏を固定するための支柱を22本も用意した。また、筏の上に、50石、60石積みの漁船70艘を筏の上に引き上げ、網で結んだ。こうやって沈船の引き揚げについに成功したというわけです。
私には技術的に理解するのが困難ではありましたが、その大変な苦労は雰囲気として理解できました。
(2020年9月刊。税込2090円)
2021年9月22日
江戸移住のすすめ
(霧山昴)
著者 冨岡 一成 、 出版 旬報社
江戸の町人の日常生活が多面的に紹介されている本です。江戸時代を美化しすぎてはいけないと考えていますが、かといって変化に乏しい暗黒の日々を庶民が過ごしていたというのではないように思います。江戸の人々も今も私たち(現代日本人)と同じく、たくましく、したたかに、また、しなやかに日々を謳歌していたと思います(思いたいです)。そこには山本周五郎の描く、しっとりとした日々もあったのではないでしょうか...。
幕末期の江戸の人口は120万人。町人人口は58万人。町人は270万坪の区域に住んでいたので超過密状態。人口密度にして1平方キロに4万人。今の2倍ほど。江戸の庶民の多くは、裏長屋と呼ばれる四畳半ひと間、6畳ひと間のスペースに一家で暮らしていた。
裏店に住む住民は、すべて無税、水道代もタダ。安い賃料を支払うだけでよかった。
家賃は、四畳半ひと間で月300文。収入の高い大工の1日の収入は500~600文。
水は、井戸水は塩気が多いので、水売りから買って飲んでいた。
部屋には押入れがなく、タンスがあるくらい。いえ長火鉢(ひばち)はあった。布団は屏風で隠すだけ。流しがあり、七輪はあったが、便所は外の共同便所。
ご飯は朝に1日分のお米を炊いて、夕食は冷や飯を茶漬けでさらっとすませる。江戸の長屋に掛け蒲団はない。長屋には、いろんな物売りがやって来た。江戸の人々が物を捨てることは、まずない。茶碗がこわれたら、焼き継ぎ屋に直してもらう。道に屑(くず)が落ちていても、それは紙屑拾いが仕事として集めるものなので、町人がみだりに屑を拾ってはいけない。
江戸の人々は、「です」とか「である」とは言わない。「であります」とも言わない。「である」とか「であります」は明治のはじめに士族がつくったコトバ。「です」とは「でげす」と同じで、芸者のコトバ。江戸の人は「でございます」、女性は「でござんす」と言った。
江戸の人たちは、「キミ」も「ぼく」も言わない。これは明治のコトバ。相手には、「おめえ、てめえ、貴公(武士)」、自分のことは「おれ、おいら、あっし、わっち、拙(せつ)」と言った。目上の相手には「おまえ」、目下には「てめえ」、自分は「わたくし」と言った。
江戸には、1日に千両のお金が流れる場所が3ヶ所あった。ひとつは鼻の上、目で楽しむ芝居町。江戸3座で昼間に千両のお金が動いた。鼻の下、口で味わう魚河岸(うおがし)で、朝のうちに千両の商いがあった。おへその下は吉原。ひと晩に千両が使われた。この三大繁華街を「日千両」とも呼んだ。
江戸時代のエコな生活に戻ることはできませんが、江戸の人々は生活を楽しむ工夫をしながら、きっと毎日を生きていたと私は考えています。
(2021年2月刊。税込1650円)