弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2022年5月29日

阿蘭陀通詞


(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版 講談社学術文庫

オランダ語を通訳する人々を紹介した本(文庫)です。南蛮人と紅毛人を使い分けていたなんて、本当でしょうか。ポルトガル人は南蛮人で、オランダ人は紅毛人です。いったいどんな違いがあるのでしょうか。
来日した南蛮人は日本語の習得に努め、布教と貿易に従事した。そして日本で南蛮文化は開花した。ところが江戸幕府は、一転して禁教と密貿易を厳禁したため、来日したオランダ商人には日本語の習得を許さなかった。それで日本人の通訳(通詞)が活躍するようになった。
江戸時代、通詞と通事は書き(使い)分けていた。通詞はオランダ語の通訳官で、通事は唐通事で、中国語の通訳官をいう。通詞も通事も、身分は長崎の町人で、通訳官と貿易官を兼ねて務めていた町役人。そして、長崎通詞も長崎通事という役職名は存在しなかった。長崎に外国船が姿を見せると、通詞の船が接近し、どこの国から来た船なのかを「聞き分ける」力が要求された。オランダから来た貿易船だと判明すると、たちまち「宝船」だとして歓迎された。
通詞の職階は、大通詞、小通詞、稽古通詞、大通詞助役、小通詞助役、小通詞並、小通詞末席...。そのほか、内通詞。売買業務を手伝って口銭を得ていた数十人の集団。
商館長ブロムホフは、結婚まもない妻チチアと、1歳5ヶ月の長男ヨハンネスを連れ、乳母や召使いも一緒に1817年8月に来日したが、婦女子の入国が許されなかったので、泣く泣く家族は送り返した。独身となったブロムホフは、丸山から傾城(遊女)を招いていた。その請求書が残っている。なんと1ヶ月のうち27日だ。つまり商館長たちの出島での生活は、ずっと、そのそばに遊女たちがいたということ。出島で同棲するのも許されていた。湯殿、台所つきの遊女部屋が出島にあったことが絵図面で確認できる。
商館長カピタンの江戸参府は、166回にのぼる。カピタンの江戸の定宿は長崎屋で、宿泊逗留は21日を基本としていた。通詞は、日本語に翻訳して太陽中心説を紹介し、ケプラーやニュートンの天文学、ニュートン物理学を吸収して解読した。すごい人たちがいたのですね...。
(2021年7月刊。税込1518円)

2022年5月20日

文学で読む日本の歴史  田沼政権


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 山川出版社

 田沼意次(たぬまおきつぐ)の台頭は、郡上(ぐじょう)一揆をきっかけとしていたことを初めて認識しました。
 田沼時代は九代将軍・家重の時代に始まりますが、八代将軍・吉宗の政権末期の政治的停滞を吉宗将軍の近くにいて見ていたというのです。
田沼時代の始まりは、明和6(1769)年に、側用人(そばようにん)から老中格になって始まった。意次は、御家人から側用人、老中になった初めての人物だった。
 美濃の郡上一揆は宝暦8(1758)年に始まったが、家重将軍の命により意次も評議に加わった。というのも、老中が郡上藩と結びついていたので、評議が混沌として収拾つかなかったから。ただし、このとき意次が目覚ましい動きをしたというのではない。郡上一揆は、百姓らの獄門、老中の罷免、若年寄の改易(かいえき)、郡上藩主の改易で収拾された。
 田沼政権の経済政策は、民間の経済活動を後押しし、その利益にもとづく運上金によって幕府財政を好転させようとするもの。また、田沼政権は、財政部門を担当する勘定方の権限を拡大して、長崎貿易を強化することを狙った。
 京の絵画として著名な伊藤若冲も、この田沼時代の画家なのですね。円山応挙(まるやまおうきょ)もそうです。
 百姓一揆が起きると、その経過を示す実録がつくられた。久留米藩大一揆(17万人参加)の顛末は、二つあるのですね。『筑後国郡乱実記』と『南筑国民騒動実録』。現代文で読めるのであれば、ぜひ読んでみたいです。
 そして、この実録をもとにして、講釈師が一揆物語を語ったのです。百姓一揆が『太平記』の世界に移され、その正当性が語られ、明君が一揆の主張に応じて仁政をしいて太平の国になるという物語が語られた。
 このような一揆物語を講釈する講釈師の存在が宝暦期に目立った。その中で、馬場文耕は郡上一揆を語り、幕政を悪政と批判したため、獄門に処されてしまった。
 百姓一揆と講釈師との関わりについては、まったく認識不足でした。
 薩摩の殿様である島津重豪(しげひで)は、蘭学に興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向き、オランダ船に搭乗した。いやぁ、これまた知りませんでした。オランダ商館に殿様本人が出向いていたんですね...、驚きます。
 田沼時代に、天明の大飢饉が起きました。天明3(1783)年は、寒気が厳しく、長雨と冷気のため作物が生育しなかった。大風霜害によって、未曽有の大凶作となった。
 天明4(1784)年4月、田沼意次の子で若年寄の田沼意知(おきとも)が、城内で旗本に切りつけられ、まもなく死亡した。意次が、人脈を通じて党派を形成し、大奥を掌握し、幕閣の人事を独占し、次代にも継承されるようにしていったことへの不満とみられている。
 天明6(1786)年に将軍が亡くなると、田沼意次は最大の庇護者を失うと、失脚し、所領は没収された。
 村の文書が宝暦年間から全国的に残されているが、これは村が持続・存続するようになったからである。なーるほど、そういうことだったのですね。
 江戸時代の実情は、知れば知るほど奥が深いと思いました。
(2020年7月刊。税込3960円)

2022年5月14日

長崎丸山遊郭


(霧山昴)
著者 赤瀬 浩 、 出版 講談社現代新書

長崎の出島との関わりで、丸山遊郭で働く遊女たちは莫大な収入を得ていた。遊女たちは10歳から25歳ころまで働いたが、10両(100万円)の借金をかかえて商売をはじめ、運と実力があれば、揚代だけで年1000万円をこえて、一度に数百万円単位のプレゼントを受けとることもあった。遊女の収入は、家族・親戚そして出身地域まで潤していた。
遊女は、長崎の第一の「商品」だった。
長崎では、ほとんどの遊女は、実家と密に連絡をとり、遊女になったあとも、地域社会の構成員としての意識をもち続けていた。そして、奉行所をはじめ、都市をあげて遊女を保護し、嫌な仕事は拒むことも可能だった。現代の価値にして数千万円の収入を得る可能性もある遊女は、必ず長崎市中の出身者でなければならなかった。
長崎の遊女にとって、遊女奉公を終えると元の実家に戻り、結婚し、子を産むという、「普通の」生活サイクルに復帰するのが、ごくごく当たり前のことだった。
丸山遊郭は、1万坪ほどの空間に、最盛期は遊女1500人を擁していた。新吉原遊郭は2万8千坪、島原遊郭が1万3千坪ほどに比べると、やや狭い。
丸山遊郭では、外国人を客にとるという、他の遊郭には見られない独特の性格があった。それは、出島に居留するオランダ高官関係者と唐船で寄港する唐人。
唐人は、元禄時代に長崎に1万人も単身男性がいた。つまり、遊女たちの主客は唐人だった。唐人たちにとって、遊女の格式など、たいした意味はなかった。
長崎の住民は、大なり小なり、貿易に依存して生計を立てていた。
遊女には賢い者が多く、言葉も対応も巧み、化粧も上手で、美しい顔に見事な衣装を着けている。
14~15歳が妙齢、25歳になると廊を出る。30歳になると年寄り。
享保16(1731)年の1年間で、のべ2万人余の遊女が唐人屋敷に入り、銀高103貫690目(2億5千万円)に売り上げがあった。
遊女は、揚代の2割ほどの収入があったようだ。そして、収入源としてもっとも大きく魅力的だったのは、唐人とオランダ人からのもらいもの(プレゼント)だった。砂糖のほか、日用品、小物、装飾品をもらっていた。
遊女が出島のオランダ人の寵愛を得ると莫大な収入を得ることができた。そのため、遊女たちは、オランダ人の心に食い込もうと涙ぐましい営業活動をくり広げた。手紙がそのツールだった。
丸山遊女は、子を産む女性として認められていた。
出島のオランダ人のカピタンは30代、そのほかは10代、20代の男性。
円山遊郭の遊女は、女性であれば誰でもつとめられるような安易な稼業ではなかった。
遊女の取り分は、短時間の場合は4割、長時間だと3割だった。
長崎の丸山遊女の実際、そしてオランダ人・唐人との関わりについて、目を見開かされる新書でした。
(2021年8月刊。税込1320円)

2022年5月 1日

江戸のお勘定


(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 MdN新書

江戸時代の人々のお金をめぐる話がたくさん紹介されています。知らないことがたくありました。
切米(きりまい)は、いわば現物支給の給料。春(2月)、夏(5月)、秋(10月)の3回、4分の1、4分の1、2分の1の割合で支給された。お米は食べるためだけでなく、売却して現金を得るためのものでもあった。旗本の56%、御家人の87%が、この切米取だった。
切米取の下が扶持取(ふちどり)。男性は1日玄米5合食べるとして、毎月人数分の扶持米が給付された。扶持取の下に給金取という最下級の武士がいる。3両1人扶持が与えられたことから「三一侍(さんぴんざむらい)」と呼んだ。
芝居に出演する人気役者は高給取りで、大坂の女形(おんながた)の芳沢あやめは千両(1億2千万円)だった。市川團十郎など、千両をこえる役者が何人もいた。この給金は一度には支払われず、年3回に分けて渡された。
幕府は役者の給金を最高5百両(6千万円)とするように指示したが、守られなかった。
寺子屋の入学金(束脩。そくしゅう)は1朱(7500円)か2朱(1万5千円)。大きな商家は1分(3万円)をもたせることもあった。月謝は200文(6千円)くらい。
授業は朝の五ツ(8時ころ)に始まり、昼の八ツ(2時ころ)まで。授業の中心は読み書きが中心で、算盤(そろばん)もあった。寺子屋では一人ひとりのスピードにあわせて進むので、落ちこぼれはなく、卒業も本人の都合により、何年間という定めはなかった。
江戸の人々は、大量の白米を食べたので、脚気(かっけ)が多かった。ビタミンB1を含む米ぬかを落としてしまうから。また、江戸時代には新米は人気がなかった。古米だと水を吸って、かさが増えるので、これをお得(オトク)と受けとめる人が多かったから。
かけそばは、そばを鉢に入れて汁をかけたもの。盛りそばは小さなせいろに盛って、そうめんのように食べた。
にぎり寿司は、初めは屋台で食べられていて、現在の寿司の2倍から3倍は大きかった。マグロの大トロは江戸の人々の口に合わず、捨てられていた。
豆腐は超高級品だった。1丁が56文(1680円)から60文(1800円)もした。
江戸の町では、朝一番に納豆を売りに来た。
卵は、生卵もゆで卵も1つ20文(600円)で、庶民には、なかなか買えない高級品だった。卵を食べると悪いことが起きるとか、地獄に落ちるという人がいたけれど、値段がそれほど高くないことから、大いに売れた。
半畳(はんじょう)を入れるというのは、非難や野次ること。芝居見物のとき、半畳の敷物を観客が不満なときに舞台に投げ入れたことからきている。
相撲が土俵でたたかわれたのは元禄のころ。それまでは、相手を倒すまで勝負が続けられた。
武士でない人がお金を出して武士になった人を「金上侍(かねあげざむらい)」と呼んだ。農民は50両(600万円)で名字帯刀が許され、250両(3千万円)で武士になれた。1000両もあれば、大番組という役職につけた。藩財政の足しになった。
いやあ、世の中は知らないことだらけですね...。でも、それがあるので、みんな学問するし、楽しいんですよね...。
(2021年8月刊。税込891円)

2022年4月29日

幕末の漂流者・庄蔵


(霧山昴)
著者 岩岡 中正 、 出版 弦書房

幕末のころ、開国・通商を求めるアメリカ船モリソン号が幕府の「打払令」によって浦賀沖と薩摩で砲撃されて上陸を断念したというのは私も知っていました。天保8(1837)年のことです。
この本によると、このモリソン号には熊本・川尻出身の原田庄蔵が乗っていたのでした。庄蔵は26歳のとき大嵐で遭難してフィリピンに流れつき、そこから中国マカオに送られ、日本へ帰国しようとして砲撃されて断念したのでした。
このモリソン号には、尾張の音吉らをふくめて日本人が7人乗っていました。
日本に帰国できなかった庄蔵はマカオに戻り、あとでペリー提督の日本語公式通訳をつとめるアメリカ人宣教師S.W.ウィリアムズに日本語を教えた。さらに、聖書「マタイ伝」の初めての邦訳に協力している。
庄蔵が故郷の父宛に書いた手紙は、2年半後に家族に届いて、この本でも紹介されている。その後、庄蔵は香港に移住し、アメリカから来た女性と結婚し、洗濯屋・仕立屋として成功し、ゴールドラッシュにわくカリフォルニア州に苦力(クーリー)10人を連れていっている。
尾張の山本音吉の活躍については、『にっぽん音吉漂流記』(春名徹)がある。
庄蔵に知性教養と指導力があったことは間違いない。過酷な運命との出会いで、現実に身を処す合理主義的思考をもった人だと著者はみている。
宣教師ウィリアムズは庄蔵や音吉たちについて、次のように書いている。
「彼らは扱いにくい人たち。母国を深く愛していて、思いがけず国外追放者の立場になった事態をどうにも受け入れようとしない。でも、今では、この立場を最善にいかそうとしている。もはや日本に帰国する一切のチャンスがなくなってしまったという現状を理解し、自分たちなりに有用な人間になりたい一心でいる」
庄蔵自身は日本に帰国することができなかったが、写本の「マタイ伝」は誰かの手を経て、ついに日本に帰国した。
庄蔵は香港で仕立屋として成功し、3階建ての家を建て、アメリカ人の妻と男の子が1人いた。そして、日本人漂流者を日本に帰すことに尽力した。
庄蔵が聖書の翻訳に協力したということは、それだけの知的レベルにあったということ。
幕末の川尻には寺子屋が多くあったことも紹介されています。
幕末のころの日本人の知的レベルの高さを、証明する一つだと思いながら、漂流民の果たした役割の大きさに思い至りました。
著者は私と同じ団塊世代の学者であり、俳人です。早くロシアの侵略戦争とコロナ禍がおさまってほしいものですよね。
(2022年1月刊。税込1650円)

2022年4月22日

近江商人と出世払い


(霧山昴)
著者 宇佐美 英機 、 出版 吉川弘文館

出世払いという慣行は近世期に成立したもの。出世証文を書き、出世払いをするということは、現在でも法律で認められている行為。これは確かにそう言えます。私も、出世払いの証文があるので、時効を気にせず、債務者に請求者を送ったところ、病気で落ちぶれていることが分かって(本人の弁明書)、それ以上の追求をやめたことが最近でもあります。
近江国には、日本でもっとも多くの出世証文が伝来している。
近江商人は、往路では近江国内の特産物や上方で購入した商品を他国に持ち下り販売し、復路では地方の特産物を購入して登(のぼ)せ落として、上方・近江国などで販売をするという、「のこぎり商い」を実践した商人だった。
「持ち下り商い」と称し、他国稼ぎをすることを商いの特徴とした近江商人たちは、近世期の既存の商業・流通構造を変化させた局面で、重要な位置を占めている。
近江商人について、「三方(さんぽう)よし」と言われる。これは、近世にはなく、後世に造語されたもの。1988(昭和63)年の小倉榮一郎の本に初めて書かれたもので、「売手によし、買手によし、世間によし」とされていた。ここでは、「に」が入っている。
滋賀県(近江国)には、175点もの出世証文が確認されている。出世証文とは、「将来の不定時において、債務を弁済することを約束した証文」。この証文によって債務額が確定し、このあとの利足(利子)は加算されない、また、このあと催促もされない。出世証文を書いた債務者は家屋敷にそれまでと同じく居住・利用しながら、多額の債務を弁済すべく出世の努力することになる。
著者は、出世証文には担保があると考えるべきだとしています。それは債務者本人であり、連署している家族の「栄誉」だというのです。
通説は、出世証文は「仕合(しあわせ)証文」とも称されたとしている。出世のほか、出精、出情、仕合、出身と同じ意味で書いた証文もある。
出世したというのは、普請(ふしん)できるほどの資産の回復を意味する。通常は、とりあえず、商売を続けることによって、家名を相続させていくことができるようになった状態と認識された。
出世証文は、ほとんど個人と個人とのあいだでとりかわされている。しかし、村の共有文書になっているものも存在する。
出世証文は、上方地域を中心とする西日本に伝来しているものがほとんどで、東日本にはごく一部のみ。しかも、それは受取人のほとんどが、また一部の差出人も上方の商人というもの。
大審院は明治43(1910)年10月31日、「出世払い証文」を法律上有効と判示した。また、大正4(1915)年2月19日、「出世払いの約定は停止条件ではなく、不確定期限である」とした。
伊藤忠商事・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛も近江商人だったのですね...。
近江商人を輩出した地域を歩くと、そこには、ヒナにはマレな舟板塀で囲まれた大きな屋敷が今でも存在するのを見ることができる。その居宅には高級な部材が使用され、土蔵には、高価な書画、秦什器が収蔵されている。
立身し、出世できた奉公人は、商家に奉公した者の1割程度だった。
近江商人の番付表は、資産の多寡(たか)ではなく、何代にもわたって家が継承されてきた老舗であることが評価の中心に置かれていた。つまり、老舗とは、何代にもわたって世間に貢献してきた商家だとみなされたのだ。
出世証文について、初めて深く知ることができました。
(2021年12月刊。税込1980円)

 遠く神奈川に知人から、タラの芽を送ってもらいました。さっそく天プラにして、天ツユと塩の両方でいただきました。ほんの少し苦味もあって、まさしく春の味でした。いやあ、いいものです。
 ロシアの戦争のせいで、身近なところに影響が出ています。スケボーが入荷しない、トイレの便座が入らない、家具が入ってこないなどです。一刻も早く、戦争やめてほしいです。

2022年4月10日

元禄の光と翳


(霧山昴)
著者 大下 武 、 出版 ゆいぽおと

尾張藩士100石(こく)取りだった朝日文左衛門は、今から300年前の元禄のころの人。将軍は五代綱吉から六代家宣(いえのぶ)。赤穂浪士の討入りがあり、富士山が大噴火した。
朝日文左衛門は芝居が大好きで、御城代組の同僚と一緒に何度も見物に出かけた。当時は、大きな社寺の境内に小屋がけで芝居が興行された。その日記に出てくる芝居見物はなんと143回にも及んでいる。
ところが、当時、藩士の芝居見物は原則として禁止されていた。なので、人目をはばかり、とくに両親の目をはばかって文左衛門は芝居見物に出かけている。途中の茶店で「なら茶」(軽食)を食べ、そこで編笠を借りて芝居小屋に潜り込んだ。また、魚釣りに行く振りをして芝居をみて帰宅すると、なぜか親にバレていて、こっぴどく叱られてもいる。それでもこりずに47歳で死ぬ前年まで芝居見物に行ったことが日記に書かれている。
1707(宝永4)年11月に富士山が爆発的に大噴火した。このとき、東京ドームの800個分が吹き飛んでいる。11月23日の噴火から翌12月9日に噴火が収まるまで、江戸で降り積もった灰は15センチだった。藤沢は25センチ、小田原は90センチ、御殿場1メートル、小山町の須恵では4メートルに達した。その結果、灰や砂で人々は気管支をやられ風邪をひきやすくなった。
「是れはこの 行くも帰るも風引きて 知るもしらぬも 大形はセキ」(これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関)
この噴火の後始末のため、幕府は諸藩に石高に応じて課税する「砂徐国役金(すなよけくにやききん)」を課した。全国一律に100石につき金2両。48万8700両が集まった。このうち6万両が川浚(かわさらえ)費用に使われて、残る42万両は幕府財政の赤字補填に充てられた。
関東郡代の伊奈半左衛門忠陣(ただのぶ)が復旧策の先頭に立って実行した。丹念な巡検踏査、村人の代表を会議に出席させるなどが、村人の信頼を勝ちとり、復興がすすんだ。いつの時代も先進的な偉人がいるものなのですね。つい中村哲医師を思い出してしまいました。江戸時代の人々の生活の一断面を知ることができる本です。
(2014年11月刊。税込1760円)

2022年3月31日

幕末社会


(霧山昴)
著者 須田 努 、 出版 岩波新書

江戸時代、とりわけ幕末のころの日本について改めて深く知ることのできた本です。
まず何より百姓一揆について認識を深めることができました。
天保11(1840)年の老中水野忠邦が画策した三方領知替え反対一揆については、藤澤周作が傑作『義民が駆ける』で詳しく紹介しています。ノンフィクション小説として、本当に読ませます。この本でも、史料にもとづいて、詳しく解説していて、この百姓一揆のすごさに改めて驚嘆しました。
山形から江戸まで百姓たちが何百人も集団で出かけていって「江戸愁訴」を繰り返したのです。4ヶ月のあいだに6回も実行しています。そして、彼らは百姓一揆の作法を厳しく遵守(じゅんしゅ)しました。あくまでも幕藩領主に柔順な百姓であることを強調し続けたのです。そのため、脇差し(刀)を持たず、鎌を一艇ずつ持参するだけでした。また、このとき、江戸愁訴のやり方については、江戸の公事師の指導を受けていたそうです。
そして、庄内の百姓たちは、近隣の諸藩にも手分けして愁訴しました。仙台藩には、蓑笠姿で、鍋米を背負った300人もの百姓が押しかけています。百姓たちは、飲酒、乱暴しないという申し合わせし、それを実行しました。5ヶ条の「掟」を定めています。
さらに、地元で参加者「何万人」という大規模集会を繰り返したのです。いわゆる主催者発表によると、7万人とか数万人規模といいますから、1ケタ少ないとしても、たいしたものです。
結局、この「三方領知替え」は中止され、百姓たちが勝ったのです。しかも、百姓たちから一人の処罰者も出さなかったというのですから、まさに完全勝利でした。
庄内の人々は、あくまで冷静、見事な戦略・戦術を組み立て、実行していったのです。その政治的力量はずば抜けています。江戸「登り」などに多大な費用が発生したのも、百姓でなんとか処理できたのでしょう。いやはや、すごいです。ぜひ、藤沢周平の小説を読んでみて下さい。感動そのもののノンフィクション小説です。
百姓一揆については、もう一つ、対照的なのが天保7(1836)年の甲州騒動。こちらは、今の山梨県全域で打ちこわしが発生した。騒動勢の中心は20代以下の無宿の若者たちであり、「悪党」と呼ばれた。「悪党」たちが、百姓一揆の作法を守らなかったことから、幕府は騒動勢の殺害命令を出し、それを受けて、村々は独自に自衛し、騒動勢を殺害した。結局、騒動勢は敗れ、500人も捕縛されて、死罪9人、遠島37人となったが、ほとんど牢死した。
本書によると、著者が調べた百姓一揆1430件のうち、武器を携行し使用したのはわずか14件のみ(1%未満)、そして、この14件のうち18世紀には1件だけで、残り13件のうち8件は19世紀前半に集中している。つまり、18世紀まで、百姓たちは百姓一揆において暴力を抑制していた。百姓にとって要求を実現するには、武装蜂起よりも、訴願のほうが有効だと認識されていたことが分かる。
この本は百姓一揆だけを論じたものではありません。国定忠治など博徒(ヤクザ)の生態も紹介されていますし(忠治の妻・一倉徳子についての興味深い紹介もあります)、また水戸の天狗党の乱について詳しい実情が紹介されていて、大変勉強になりました。興味深い本です、ご一読をおすすめします。
(2022年1月刊。税込1034円)

2022年3月23日

江戸の科学者


(霧山昴)
著者 吉田 光邦 、 出版 講談社学術文庫

3歳の孫がオモチャとして遊んでいたソロバンは、コンピューター万能の現代でもしぶとく生き残っています。少なくなりましたが、ソロバン塾も健在です。
ソロバンを発明したのは中国、日本には室町時代末期に入ってきた。読み書きソロバンは江戸時代、塾で教えられていた。
そして、東洋独特の計算機として、算木(さんぎ)がある。長さ5センチ、幅1センチの小さな板。縦に1本置くと1、2本置くと2を表す。6は横に1本、縦に1本と、丁字形に置いて数を表す。十位の数は、逆に横に置いて10を表す。位の上るにつれて、その置き方を変えるので、どんな数でも算木で示すことができる。また、算木を赤と黒に分けて、赤はプラス、黒はマイナスを表すことにした。これは知りませんでした。マイナスも表示できたんですね。
日本で盛んだった和算は、その根本が計算術、実用だった。数式や図形の本質を考えるものではない。和算は芸能に近いものだった。和算家は直感を重視した。帰納法は直感から生まれる。和算家は、すぐれた直感によって、西洋数学に匹敵する公式を発見した。神社や仏寺に算額を奉納したのも、芸術的な感覚からだった。
関孝和によって、和算は、その面目を一新し、大きな飛躍をとげた。
小野蘭山は、幕府の命によって、江戸から東北地方、また近畿・中部地方を旅行してまわった。73歳のときから5回も大旅行した。すごいですね、江戸の人々は、本当によく旅行しています...。
享保19(1734)年に生まれた麻田剛立は、太陽を観測して、黒点が移動すること、それは東から正面、さらに西へと30日で移動することを知り、このことから太陽の自転周期を知った。すごいですね、太陽の黒点をじじっと観測して、ついに太陽の自転周期まで解明するとは...。そして、暦書までつくったのでした。
杉田玄白たちの苦労も大変なものがありました。オランダ語を小さな辞書しかないなかで、自分たちで訳文を考え、つくり出していったのです。訳本が完成したとき、長崎にいたオランダ通訳たちに大きなショックを与えたのでした。それはそうでしょうね。オランダ語を独占・運用しているのは自分たちだけと思っていたでしょうから。これによって、オランダ研究・西洋研究が大きく促進されました。
杉田玄白は「九幸」と号した。九つの幸福をもったとの意味。一は太平の世に生きたこと。平和は大切です。二は天下の中心の江戸で成長したこと。田舎もいいものなのですが...。三は広く人々と交友できたこと。友だちは大切です。四は長寿を保ったこと。五は安定した俸禄を受けていること。六は非常に貧しくはないこと。大金持ちでなくてもいいので、そこそこお金があることは心の安定に欠かせませんね...。七は天下に有名になったこと。八は子孫の多いこと。結婚して子どもがもてて、さらに孫までできたら、もう言うことありませんよね。九は老人となってなお元気なこと。玄白は85歳で死亡しました。
江戸の科学者をあげるとき、平賀源内を抜かすわけにはいきません。残念なことに源内は獄死しています。源内は江戸時代に全国の物産会を6年間に5回も開いた。全国30余国から実に1300余種が収集・展示された。江戸時代って、こんなに交流が密だったんですよね...。源内は、小豆島の古代象マストドンの化石にも注目しています。電気(エレキテル)やアスベストも...。
江戸時代は幕府の鎖国政策によって、世界の流れから取り残された暗黒の時代だったというのは、まったくの誤解でしかないことがよく分かる文庫本です。
(2021年9月刊。税込1265円)

2022年3月18日

「朝日文左衛門の『事件』」


(霧山昴)
著者 大下 武 、 出版 ゆいぽおと

『元禄御畳奉行の日記』(神坂次郎、中公新書、1984年)で有名となった名古屋の朝日文左衛門の日記をもう少し詳しく知りたいと思って読みはじめました。この出版社(同じ名古屋市のゆいぽおと)からシリーズものとして刊行されています。この本は7冊目です。
朝日文左衛門の日記には、天候、災害(地震と富士山の噴火)、料理、芝居(大変な芝居好きでした。武士の芝居見物は禁止されていたのに、143回もみに行っています)、武芸、文人仲間のことから寺社詣(もうで)、葬儀、生涯4度の出張旅行まで、事細かく記されている。出張は上方で、2ヶ月に及んだが、京坂滞在記のうしろに名古屋の出来事も必ず書き込んでいる。
市井(しせい)の出来事、たとえば博奕(ばくち)、心中、密通、離婚、火事、ケンカなどを好奇心のおもむくまま書きつらねている。
本書では、名古屋城に泥棒が入った事件、藩主の生母「本寿院」の大変なスキャンダルが強く目を惹きます。
朝日文左衛門は、百石取り御城代組同心の家に生まれ、本丸・御深井丸(おふけまる)御番を5年間つとめたあと、御城代管轄下の「御畳奉行」となり、お酒を吞みすぎて亡くなる前年の享保2(1717)年暮れまで、ひたすら『鸚鵡(おうむ)籠中記(ろうちゅうき)』を書き続けた。
正徳5(1715)年8月、名古屋城の本丸に盗人が入った。本丸御殿は、ふだんは誰も出入りしない無人。将軍が上洛するときだけ使われていた。門の錠前が外されていたのに当番の武士たちは気がついていないから、前の番の人たちがかけ忘れたと考え見て見ぬふりをして、誰も報告しなかった。この発見の遅れのため、犯人は結局つかまらなかった。
そして、結局、城代組同心の山田喜十郎が責任をとる形で自殺してしまった。ただし、1年後に責任を問われ、閉門とされていた人々も晴れて無罪放免となった。
次に、藩主の生母「本寿院」のスキャンダルについて...。尾張徳川家では出生した人は、吉通を除いた21人はすべて6歳までに死亡した。
四代藩主吉通の生母である本寿院(下総)について、驚くべき紹介がされている。
「資性軽薄、美にして淫(いん)」
お城勤めに上がる前、近所の男と情を通じ、周りに知れると駆け落ちし、ほとぼりも冷めぬうちにのこのこと帰ってきた。
「すぐれて淫奔に渡らせ給う。江戸へ下りし者は、時にふれてお湯殿へ召され、女中に銘じて裸になし、陰茎の大小を知り給い、大いなれば喜ばせ給い、よりより当接給うこともありき。又、お湯殿にても、まま交合の巧拙を試み給う事ありしとなり」
四代藩主吉通(25歳で死亡)が酒色に溺れたのは、母親(本寿院)の悪いところだけを見習ったせいだ。
「本寿院様、貧淫(どんいん)絶倫(ぜつりん)なり。或いは寺へ行きて御宿し、また昼夜あやつり狂言にて諸町人役者ら入り込む」
「夫」であった綱城が48歳で亡くなったとき、本寿院はまだ35歳。幕府(老中)から注意を受けたのは38歳ころ。1739(元文4)年に75歳で亡くなっているから、40年間も独り身の躰(からだ)を持て余していたことになる。
本寿院が亡くなった同じ年に七代藩主宗春は幕府から謹慎を命じられている。
名古屋藩につとめる奉行の一人が長く個人として日記をつけていて、それがそっくり残っているなんていうのも珍しいですよね。この本は、書かれていることに関連する歴史的事実についての考察もあり、当時の社会の実情がよく分かって大変勉強になりました。
(2019年10月刊。税込1760円)

 チューリップの花が咲きはじめました。これから1ヶ月ほど、庭のあちこちで咲いてくれます。ジャガイモの芽も地上に出ています。黄水仙が咲き終わって、首の長い白水仙が咲いています。
 ロシアのテレビに「戦争反対」を手にした勇敢な女性が登場したのを見て、大いに励まされました。やはり、戦争反対の声を上げることは大切なんですよね。一刻も早くロシアは撤退して、平和を取り戻してほしいものです。

前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー