弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2022年8月14日

江戸の道具図鑑


(霧山昴)
著者 飯田 泰子 、 出版 芙蓉書房出版

 江戸時代の人々がどんな生活をしていたのかが、ビジュアル(視覚的)に分かる図鑑です。なので楽しく眺めることができました。
 たとえば、江戸時代の歴代天皇はすべて土葬された。これは、昭和天皇まで続いた。
 庶民の棺は桶型の座棺。依頼されて素早く作るので、早桶ともいった。
 子ども時代の遊びは、時代で変わるけれど、春のタコ揚げと、四季のコマ廻しは相当の努力が必要になっている。子どもの遊びとして「タコ揚げ」があるが、京阪では「いかのぼり」と称し、単に「いか」と呼ばれることもあった。全国的には「いか」が優勢だった。
 銭湯では洗髪を禁止するところも多かった。大量の湯を使うことになるためで、洗髪を禁止させる銭湯が多かった。洗髪するのは、せいぜい月に1回くらい。江戸時代には、かなりの高家でも内風呂がないのはフツーだった。洗髪のための市販の洗剤はなく、なんと自作していた。
江戸時代、女性はみな、結婚すると歯を黒く染めた。
箪笥(箪笥)は、一般庶民には無縁だった。部屋に箪笥はなく、行李(こうり)に入れるか、風呂敷に包んで、部屋においていた。
 畳は、古くは座るところだけに敷く敷物だった。室町時代のあと、部屋全体に敷きつめるようになった。
 囲碁の歴史は古く、平安時代に始まる。下々に流行しはじめたのは、江戸後期。碁会所ができ、人々は町の碁会所に通った。女人禁制の銭湯の2階は、やりたい放題で、そこで碁をうつ人々もいた。
 江戸時代、識字率はかなり高かった。それは高家に奉公するにしても、職人になるにしても、読み書きは大切だったから。侍の子弟はもちろん、町人の子も寺子屋で学んだ。
 紙は貴重品だったので、書き損じても捨てずにとっておき、紙屑屋に買いとってもらい、これを専門の漉返(すきかえ)し屋が再生する。このようにして再利用されるのがフツーだった。江戸時代の風俗について、大変勉強になりました。
(2022年5月刊。税込2750円)

2022年8月13日

土砂留め奉行


(霧山昴)
著者 水本 邦彦 、 出版 吉川弘文館

奉行と下役(したやく)、中間(ちゅうげん)、荷物運びの人足(にんそく)などからなる10人前後の武士たちの一行(集団)があった。「土砂留め(どしゃどめ)奉行」とか「土砂留め役人」と呼んでいる。この奉行が巡回するのは、その藩の領地だけでなく、他の藩内にも足を運んでいた。
奉行による村々巡見の本務は、普請(ふしん)場所や新たな崩れ所の見分・点検だった。
奉行を受け入れた側の床屋の日記が丹念に掘り起こされています。スミの毛筆で書かれた「日記」を丁寧に読みといていく作業は本当に骨の折れるものだと思います。慣れたら、草書・くずし字ばかりの「日記」であっても、さっと読めるようになるものなのでしょうか...。アラビア文字をタテにしたような、モンゴルのパスパ文字のような、草書体の文章をすらすらと読めたら、どんなにいいことでしょうか...。
高槻藩の土砂留め奉行だった人の日記も解読されています。奉行の巡回は、3ヶ国7郡と広範囲に及んでいて、しかも、京都、大坂の町奉行所に出向くことも重要な業務の一つだった。この制度は、大名(領主)の家臣を幕府主導の土砂留め行政の奉行(役人)と位置付けて事業を担わせた。
土砂留めの管理が土砂留め奉行の支配下に入ったことにより、工事現場はもちろん、周辺エリアの現状変更についても、その村の領主の専権ではなくなった。
工事に必要な諸経費は村々や当該村の領主に依頼していた。つまり、地元では、工事に力を入れれば入れるほど、負担が増えることになった。
17世紀に急速に進行した新田開発は、自然的環境に加重して災害を激増させる人為的要因だった。魚肥(金肥)以前の農業における草や柴の役割は大きく、その確保のためには、田畑面積の数倍から十倍にも及ぶ草山が必要だった。
江戸時代においても土砂災害対策や禿げ山対策が行われていたこと、そのため江戸幕府が土砂留め奉行をおくなどして、それなりに機能していたことを知ることができました。
江戸時代を日本史のなかの暗黒史とみるのは、まったくの誤解だと、つくづく今、考えています。
(2022年6月刊。税込1700円)

2022年8月11日

高く翔べ


(霧山昴)
著者 吉川 永青 、 出版 中央公論新社

 紀伊國屋門左衛門の一生を描いた痛快小説です。コロナ禍第7波が爆発的に拡大するなか、涼しい車中と喫茶店で読みふけり、つい暑さを忘れてしまいました。
 歴史小説ということですが、史実を知りませんので、どれほど事実を忠実に反映しているのか知りませんが、ときの権力者である柳沢吉保と荻原重秀が登場しますし、次の有力者である新井白石には批判的です。
 柳沢と荻原に紀伊國屋が初めて会うのは吉原。吉原で遊ぶには厳格なルールがあった。まず、仲の町にある引手茶屋に入り、茶屋を通して妓楼(ぎろう)に渡りをつけてもらう。「必ず」ではないが、そのほうが「上客」とされる。引手茶屋には、客の勘定をまとめて立て替える役割がある。妓楼の側は取りはぐれがなく、客にしても、何かしら注文するたびに勘定をすませるというわずらわしさがない。帰りに茶屋に立ち寄って、まとめて支払えばすむ。
 女郎には、上から、大夫(たゆう)、格子(こうし)、散茶(さんちゃ)、局(つぼね)、切見世(きりみせ)という順番の格がある。引手茶屋に手持ちのお金と女郎の好みを言えば、数多ある妓楼の中から何人かの女郎をすすめてくれる。
 女郎とは、自らを贄(にえ)にして家族を助けた孝行娘。男が女郎を買うのは孝行の手助け。世の中はそう受けとっている。ゆえに妻は、夫の遊里通いをとがめない。不平をもらせば、妻の側こそ無粋だ、無情だとそしられるのが常だった。
 ちなみに明治初期に活躍した政府高官の妻には、高名な芸者が何人もいましたよね・・・。
 江戸の町人は、月に2両で暮らすのがフツーだったとき、紀伊國屋は見込まれて200両を元手にとして商売を始めることができた。紀伊國屋は材木問屋だ。しかしある時、ミカンを紀州で仕入れて江戸で売る話が飛び込こんできた。必要なお金は425両。自分は140両しかもたないので、300両は借りた。もうけたときには3千両にして返すという約束で。貸す側は紀伊國屋が死ぬかもしれないというので、「香典代わりだ」として貸した。
10月末の江戸にミカンを乗せた紀伊國屋の船が着いた。江戸中の果物問屋がつめかけていた。ひと籠で8両。運んできた3500籠を全部売り切り、得たのは2万8千両。
紀伊國屋は、このとき1万5千両を得た。
 すごいですね。あとは、材木商としてがんばります。江戸は火事の多いところ。なので、人の不幸がもうけどころなのです。
 紀伊國屋の商売敵は奈良屋茂左衛門。真剣勝負で火花を散らしたようです。
 新井白石の権勢が長くは続かなかったのは、1千石取りの寄合衆、つまり無役の旗本のままだったから、いかに六代将軍徳川家宣の側近とはいえ、ただの旗本にすぎないのなら、除くことができる、高位の幕閣にそう思わせてしまったことが新井白石の失脚した要因。六代将軍家宣は50歳の若さで亡くなり、その子、家継も3年半後、わずか8歳で死亡した。このあとの8代将軍は、かの吉宗。結局、新井白石は政治の世界から身を引いた。
 紀伊國屋門左衛門は、真心こそ商売繁盛の要だとした。腹が立つのをのみこんで、しくじった人を許す。すると、相手も次は必死になる。
一代で門左衛門は紀伊國屋を閉店した。宝永7(1710)年のこと。名前も別所武兵衛と改めた。閉店するとき、番頭には1万両ずつ与え、3人の弟たちには2万両ずつ。これも倒産して閉店したからではないからできたこと。すごいですね、この見極めが。
 門左衛門は、享保19(1734)年4月に66歳で亡くなった。よく出来た経済小説でもありました。
(2022年5月刊。税込2090円)

2022年8月 7日

江戸藩邸へようこそ


(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版 インターナショナル新書

江戸の市街地の7割は武家地が占め、残る3割を町人地と寺社地が半分ずつ分けあっていた。武家地の55%は大名屋敷。江戸の市街地全体の4割弱を大名屋敷が占めていた。
屋敷は大名家に与えられるもので、領地に付随するものではない。江戸藩邸の持ち主が変わることは頻繁だったが、それは国替えとは無関係。
江戸藩邸に暮らしていたのは、大名とその家族だけではない。一つの大名家につき、数百から数千人の家臣が働いていた。
江戸で勤務する家臣には2種類あって、国元から単身赴任でやってくる勤番と、家族とともに常時江戸で暮らす定府(じょうふ)があった。
江戸の武家人口は60万人と推定されている。各藩の財政支出のうち6割以上が江戸で費やされていた。大名は複数の江戸藩邸をもっていた。上屋敷(居屋敷)は江戸城に近く、江戸滞在中の大名が住む、大名の正室(妻)もここで暮らし、藩の行政機構もここに置かれた。中屋敷は上屋敷のスペアで、隠居した大名や大名の世継ぎが暮らした。下屋敷は、江戸城から離れたところにあり、上屋敷が火事にあったときの避難場所となった。
幕府からの拝領屋敷であるが、実態は貸与であって、幕府から屋敷替えを命じられたら、明け渡さなければならなかった。屋敷の持ち主同士での交換もあり、相対替(あいたいが)えといった。これは事実上の売買だった。
松平伊豆守家のように、幕府の要識についた譜代大名は頻繁に屋敷替えをしていた。
松平伊豆守の谷中下屋敷のうちには、長屋が24棟も立ち並んでいた。そして、191年間に42回も火事にあっている。4年半に1度という頻度だ。
藩主の起床時間は通常なら午前7時半ころ。しかし、予定があるときには、午前4時半ころや午前5時半ころには起床した。ええっ、これって早すぎますよね...。藩主の起床時間は、家臣たちの仕事もあるので、好き勝手に早起きして、動きまわることはできなかった。
食事は、1日3食。午前9時半ころ、着替える。それも、近習たちにしてもらう。
江戸城への登場行列で混雑が予想されるときには、いつもより早く屋敷を出る。老中は、午前10時に登城して、午後2時には退出した。藩主の就寝中は、当番の近習が不寝番をつとめた。
江戸藩邸には、武士だけでなく町人(商人)や百姓も出入りした。吉田藩の江戸藩邸に出入りする御用達商人のなかで特別扱いされたものを「御三階下町人」と呼ぶ。そのメンバーは12人前後で推移した。その多くは、藩財政の不足を補うために才覚金(御用金)を負担していた。別に、江戸を代表する米問屋の兵庫屋弥兵衛も特別扱いを受けていた。このほか、多くの町人が出入りしていて、「惣出入町人」と呼んでいた。
江戸藩邸の吉田藩士の半分は定府藩士だった。藩邸内の居住者は1000人を優に超えていた。吉田藩には家老が常時4人か5人いて、そのうちの2人が江戸家老をつとめた。
江戸における藩の役職のなかで、特に重要なポストが「留守居(るすい)」だ。留守居は江戸城に登城して幕府との折衝、上書の提出を担当し、他藩の留守居と交流して情報交換した。外交官の役割を果たした。
江戸時代も後期の吉田藩の江戸藩邸には250人前後の武家奉公人が働いていて、まとめて「中間(ちゅうげん)」と呼んでいた。給料は1年で4両ほど。家臣の武士が藩を抜け出して浪人になることを脱藩といったが、実は脱藩者は多かった。60年のあいだに184件の脱藩者が出たと記録されている。
江戸藩邸で働く奥女中は、20人から30人ほどいたようだ。奥女中は、一代限りか年季奉公だった。奥女中の給金は、最高の老女が150万円、最低が15万円。10代半ばで採用され、10年間の年季を終えて20代の半ばで夜下がりした。
江戸藩邸の実際がよく調べてあって、イメージをつかむことができました。

(2022年6月刊。税込880円)

2022年7月23日

山本周五郎、人情ものがたり(武家篇)


(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 本の泉社

いやあ、しびれます。久しぶりの周五郎の2冊目です。短編ですので、毎晩、寝る前に2編ずつ読み、幸せな気分で安らかに寝入ることができました。
町人の人情話もいい(えがった)のですが、武士と女性たちの話も、胸にストーンと落ちて泣けてきます。
自分の暮らしさえ満足でないのに、いつも他人のことを心配したり、他人の不幸に心から泣いたり、わずかな物を惜しみもなく分けたり...、ほかの世間の人たちとはまるで違って、哀しいほど思いやりの深い、温かな人たちばかりでした...。
貧しい者は、お互いが頼りですから、自分の欲を張っては生きにくいというわけだろう。
他人を押しつけず、他人の席を奪わず、貧しいけれど真実な方たちに混って、機会さえあれば、みんなに喜びや望みをお与えなさるあなたも御立派です...。
人を狂気にさせるほどの恋も、いつかは冷えるときが来る。恋を冷えないままにしておくような薪(たきぎ)はない。友達を憎むことで、いっとき愛情をかきたてた。しかし、それも長くは続かなかった。憎悪という感情のなかには、人間は長く住めないもののようだ。
あやまちのない人生というやつは味気のないもの。心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのが自然。そうして人間らしく成長していく。でも、しなくてすむあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい。どんなに重大だと思うことも、時がたってみると、それほどではなくなるものだ。
いやあ、しびれるようなセリフのオンパレードです。俗世間にまみれた心がきれいさっぱりと洗い流される気分に浸ることができます。
そして、この本の究極のセリフは次です。
「もし、およろしかったら、お泊りあそばしませぬか。久方ぶりで、下手なお料理を差し上げましょう。そして、若かったころのことを語り明かしとうございますけれど...」
わけあって遠くに行ってしまった初恋の女性に久しぶりに会ったとき、その女性からかけられた言葉です。ああ、なんという幸せ...。これぞ、まさしく小説を読む醍醐味というものです。
(2022年4月刊。税込1320円)

2022年7月17日

山本周五郎、人情ものがたり(市井篇)


(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 本の泉社

今から50年前、司法修習生になった私はクラスメイト(正確には実務修習地が同じ横浜だった人)から、「この本、面白いよ」と言って勧められて読んでみた。それが山本周五郎だった。それまで聞いたこともない作家だった。いやあ、しびれました。はまりましたよ。だって、江戸情緒いっぱいで、市井(しせい)の人々の長屋で健気(けなげ)に生きている喜びと悲しみが、実に見事に描かれているのですから...。読んでいる自分が、いつのまにか江戸の長屋にタイムスリップした気分になって、同じように泣いて、笑っているのです。その筆力にはドカーンと圧倒されました。藤沢周平もすごいと思っていますが、その数段上をいく凄みがあります。
オビにこんな文句が書かれています。「周五郎は罪つくりだ。忘れていたものを思い出させる。人の温もり、生きる誇り、涙がにじんで、心が丸くなる」。
本当に、そのとおりなんです。
「人間は、みんながみんな成りあがるわけにはいきゃあしない、それぞれ生まれついた性分があるし、運不運ということだってある。おまえさんには、それがないんだから、しょうがないじゃないか」
「お前さんの仕事が左前になって、その仕事のほかに手が出ないとすれば、妻のあたしや子どもたちが何とかするのは当然じゃないの。楽させてやるからいる、苦労させるから出ていく。そんな自分勝手なことがありますか」
「自分で自分にあいそが尽きた。おらあ、このうちの疫病神だ。頼むから止めねえでくれ。おらあ、どうしてもここにはいられねえんだ」
「そいつは、いい考えだ。どうしてもいたくねえのなら、このうちを出よう」
「出てゆくんなら、ちゃん(父親)一人はやらねえ。おいらもいっしょしていくぜ」
「あたいもいくさ」と、お芳(3歳)が言った。
「女はだめだ。いくのは、おいらとあんちゃんだ。男だからな」
「みんないくのよ。放ればなれになるくらいなら、みんなで野たれ死にするほうがましだわ」
「よし、相談は決まった。これで文句はねえだろう。ちゃん、よかったら、支度をしようぜ」
「おめえたちは、みんな、ばかだ、みんな馬鹿だぜ」
「そうさ、みんな、ちゃんの子だもの、不思議はねえや」
これを聞いて、お芳までが、わけも分からず笑い出した。
どうですか、周五郎ワールドの雰囲気が少しは伝わったでしょうか。
長屋には善人だけがいるのではありません。人を騙して楽しようという悪人もいるのです。でも、全体を包む雰囲気が、どこかしらほっとする安心感があります。
解説には、具体的な人間は、それぞれに嫌なものを持っていると指摘します。
意地の悪さ、愚劣さ、偏狭さ、貪欲さ、ずるさ、卑屈、頑迷などなど...。人間のいやらしさをもっている。しかし、周五郎は、それでも人間を信頼しようとする。登場してくるのは、「哀しいほど思いやりの深い人間たち」。
いやあ、周五郎の作品を毎晩、寝る前に一遍ずつ読みました。いわばすこやかな安眠導入剤でした。自然に流れている涙は、目にたまったゴミを洗い流し、心のオリまで掃き清めてくれるのでした。
(2022年4月刊。税込1320円)

2022年7月15日

イワシとニシンの江戸時代


(霧山昴)
著者 武井 弘一 、 出版 吉川弘文館

イワシとニシンは、江戸時代の社会を支える重要な自然だった。
えっ、ええっ、どういうこと...。イワシもニシンも大衆魚とは聞いていたけれど...。
江戸時代の後期、百姓にとって、肥料の確保は切実な悩みの種だった。江戸時代、中期以降は自給肥料が足りなかった。このころの自給肥料とは、人糞、厩肥(きゅうひ)、草肥などの総称。
イワシが生(ナマ)で食べられる時間は、きわめて短い。また、イワシは腐りやすいので、乾燥して干物になった。干されたイワシは値が安いうえに肥料として作物に与える効果が高かった。それに大量にとれるので、イワシの価格は安い。
干鰯(ほしか)は、水揚げされた生の鰯をそのまま海沿いに敷きつめて、天日で乾かすだけでつくった。
もうひとつは、〆粕(しめかす)。はじめにナマのイワシを窯で煮たあとに油を搾る。その脂を絞ったあとののこり滓(カス)が〆粕。こちらは、干鰯より価格が高い。
このように、イワシもニシンも江戸時代、日本の農業を支える肥料として活用されていたのですね。
近世の村むらが幕府に国を単位として連帯して訴えた運動を国訴(こくそ)という。肥料価格の高騰・菜種・木綿の自由取引を求めた。文政2(1819)年の幕府の物価引下げ令を契機として、摂津・河内の619ヵ村幕府領村むらの大坂町奉行所に干鰯値下げなどの訴願を起こし、この訴願が先導役となって、文政6~7年の木綿・菜種国訴につながっていった。
国訴というコトバを初めて聞きました。歴史も、まだまだ知らないことだらけです。世の中は未知なるものばかりなんですよね...。
(2022年2月刊。税込2640円)

2022年7月10日

江戸で部屋さがし


(霧山昴)
著者 菊池 ひと美 、 出版 講談社

江戸の人々、とくに長屋に暮らす庶民がどんな生活をしていたのか、カラー図版で家の間取りや室内の様子が再現されている読んで楽しい本です。家賃も現代の円に換算してあります。
裏長屋に、夫婦と小さい女の子の3人で住む。畳部分は4畳半の一間で、家賃は月2万5千円。「手頃な値段」とありますが、ちょっと高いのでは...。
部屋にはタンスがなく、押し入れもない。布団は部屋の隅に重ねておいて、昼は屏風で囲っている。
便所は外便所で長屋の人たちが共同で使う。掘り抜き井戸ではなく、玉川上水などを井戸の形にして利用している。室内は板敷きで、畳は敷いていない。
長屋に住む職人のうち、日雇職人は出居衆(でいしゅう)と呼ぶ、臨時の手伝い人。
職人には、外で働く出職(でしょく)と室内で働く居職(いしょく)の二つがある。出職は、大工や左官そして棒手振り(ぼうふり)。居職は、塗物師、錠前づくりなど...。
商売人は、住み込んで働く。通いの番頭になったあと、結婚できる。
江戸の後期、町内に必ずあるのは、湯屋(風呂屋)、髪結い床(理容店)、口入屋(人材派遣)。
江戸には、男も女も独り者が少なくない。
商店の大店(おおだな)と小店(こみせ)の違いは、仕入れ先の違いにある。大店は産地で直接、大量に仕入れる。小店は、産地から直接に仕入れるほどの資力はないため、問屋から仕入れた商品を売る。
酒やしょう油など身近な商品はツケで買っておき、6ヵ月ごとに決済して支払う。
江戸にあった越後屋は、道の両側に広がっていたのですね。その様子を歌川広重が描いた絵もあります。
店は2階がある。地下には大きな穴倉が掘られていて、火事のときには反物を投げ入れてフタをした。
新妻を「ご新造さま」と呼ぶのは、新妻を迎えるため、新築したり、建て増しをしたり、専用の座敷をつくったりしたから。なあんだ...と言いかけて、思わず、結婚するときに家を建てられるだけのお金をもっていたのですかね、とつぶやいてしまいました。
江戸時代の情緒と雰囲気をたっぷり味わうことのできる、楽しい本です。
(2022年5月刊。税込2200円)

2022年7月 6日

災害と復興、天明3年、浅間山大噴火


(霧山昴)
著者 嬬恋郷土資料館 、 出版 新泉社

嬬恋村(つまごいむら)と言えば、キャベツの産地として日本に名をとどろかせていますよね。高原キャベツの産地として断トツの日本一です。1933(昭和8)年にキャベツの初出荷がなされたといいますから、古いと言えば古いわけですが、江戸時代からキャベツを栽培していたわけではありません。私もキャベツは大好きですが、ビタミンUもビタミンCもたっぷり含まれていて、美容と健康にいいのですよね。
村の人口は9500人。村の3分の2は、上信越高原国立公園に含まれている。
天明3(1783)年に3ヶ月に及ぶ浅間山大噴火によって村は壊滅的は被害を受けた。浅間山は、今もたびたび噴煙をあげる活発な活火山。
浅間山の大噴火による被害者は1490人以上、流失倒壊家屋は1300戸以上。
そして、この災害は、天明の飢饉を深刻化させた要因ともなっている。
山の中腹にある観音堂まで逃げ上がった93人だけが助かったと言われ、現在15段の石段があるが、実はかつて150段ほどあったのが、大半は埋もれてしまった。石段の最下段で、逃げようと石段を駆け上がろうとして2人の女性の遺体が発見されている。
被災した家屋の建物から、ガラス製の鏡が出土しているというのには驚きました。当時は大変に貴重なものだったはずですが、いわば庶民の家にあるのが見つかったのですから...。
ここらあたりでは、馬を使って物資を運ぶのを仕事とする人々が大勢いたようです。それで、馬を200頭以上も飼っていたとのこと。すごいですよね、これって...。
江戸幕府から被災地の現場見まわりとして派遣された人々たちは、真面目に仕事をしていたようです。藩としては熊本藩が指名されています。
村を再生させるため、夫を亡くした女と妻を亡くした男を結婚させる、親を亡くした子と亡くした親を養子縁組させ、家族の再生が図られた。こうして再婚者7組の集団結婚式が挙行された。そういうこともあるんですね...。
大変幅が広く、また奥行きの深さも実感できる本でした。
(2022年3月刊。税込1980円)

2022年6月 5日

北斎


(霧山昴)
著者 大久保 純一 、 出版 岩波新書

大宰府の国立博物館で北斎の描いた絵をみてきました。すごいですね、まさしく天才です。アメリカの『ライフ』が、「この千年に偉大な業績をあげた世界の人物100人」の中に、日本人では北斎だけがあげられたとのこと。ええっ、そ、そうなの...と驚いてしまいます。明治以降の日本人には偉大な業績を上げた人が誰もいないなんて、少しばかり気落ちしてしまいますよね...。
とはいっても、江戸時代の北斎がヨーロッパ絵画に与えた影響は絶大なるものがあります。フランスではジャポニズムです。かのゴッホだって、浮世絵をたくさん描きこんでいますしね...。
「写楽」と違って、北斎は生年も没年も明確です。北斎は、宝暦10(1760)年に江戸は本所(ほんじょ)の割下水(わりげすい)に生まれた。幼いころから絵を描いていたようですが、まずは版木(はんぎ)印刷のための版木を彫る職人(彫師)の修業を始めた。次に、貸本屋の小僧として働いたとのこと。そして19歳から絵師の道に踏みだした。
初めは勝川春章。浮世絵です。役者の似顔絵ですね。これは、映画俳優のブロマイド写真のようなものです。そして、名所絵・物語絵、さらに武者絵・子どもとすすんでいきます。このころは、黄表紙などが売れていましたから、その挿絵を描くようになります。
北斎は油絵風の絵も描いています。それまでの日本絵画にはない表現をふんだんにとり入れたのです。
『北斎漫画』は有名です。これはマンガ本ではありません。絵を学ぶときの手本としてなる絵を北斎は大量に描いたのでした。絵手本の傑作というほかありません。よくぞ、ここまで人間の姿・形・姿勢(ポーズ)、表情をうつしとったものです。驚嘆するほかない傑作です。
北斎は安藤広重とは画風が違う。たとえば、広重は、風景のリアリティを売り物にした。
北斎は広重と違って、現実の風景を忠実に再現することにまったくこだわらない。
それにしても、富嶽・三十六景の「神奈川沖浪裏」は衝撃的でした。
千年に1度の天才画家・北斎です。たまに目を洗うのもいいものです。
(2018年12月刊。税込1100円)

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