弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2024年1月15日

江戸の好奇心、花ひらく「科学」


(霧山昴)
著者 池内 了 、 出版 集英社新書

 江戸時代についての本は相当よんできたつもりの私ですが、この本に接して、いやいや、まだまだ知らないことがいかに多いか、思わずため息が出ました。でも、そんな出会いがあるから、人生って面白いのですよね・・・。
 たとえば、江戸時代にはアサガオ栽培が盛んで、変わりアサガオがもてはやされ、高値で取引されていました。これは私も知っていました。
 アサガオは奈良時代には、その種は「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、下剤として重宝された薬用植物だった。江戸時代に入るまで、花の色は青だけだった。四大将軍野家綱の時代の本(1664年)には青と白の2色になった。ところが、17世紀末になると、赤や浅黄(淡青)、そして瑠璃(るり)色の花も生まれた。18世紀半ばに第一次アサガオブームが起きて、アサガオは地味な花から派手な花へ変貌した。19世紀半ばに第二次アサガオブームが起き、明治に入って、第三次ブームも起きている。
 次に菊です。18世紀前半の本に、金7両(35万円)で菊1鉢が売買されたと記されている。菊の「1本造り」は、1本の台木に接ぎ木して100種もの異なった菊の花を咲かせた。
 菊の花を持ち寄って、左右に別れて優劣を競い合う「菊合わせ」があっていた。入選すると、「勝ち菊」とし、負けたら「負け菊」を決めていた。
 オモトも高値で取引されていた天保年間(1803~44年)がオモト人気のピークで、1鉢が100両とか200両することがざらだった。
そして、タチバナ。18世紀の終わりころ、タチバナは「百両金」として1鉢300両とか400両で取引されていた。種1粒が何両もしていた。
 次に、驚くべきことにネズミを江戸の人々は飼っていて、毛色の変わったネズミや形・大きさの異なるネズミを生み出していた。たとえば、白ネズミとか・・・。とくに大坂には白ネズミの需要があったようです。そのうえ、ネズミに芸を仕込んでいたのでした。
 金魚。江戸時代に金魚がブームとなり、そのときから庶民にも身近な存在となった。江戸時代初期は、金魚は非常に高価だった。ビードロの金魚玉が発明されてから、庶民に広まった。懇切丁寧な金魚の飼育法が紹介されています。
江戸には鳥ブームも起きました。鳥を飼って、鳴かせる。カナリア、ハト、イソヒヨドリを多数飼っている人は目立つばかり・・・。
 江戸時代に入ると、庶民が広く虫を飼い、誰もがその音を楽しむようになった。スズムシ、ミツバチ、カイコ(蚕)。いやはや、現代日本人と、ちっとも変わりませんよね、これって・・・。
 江戸時代の人々は好奇心が旺盛で、遊び好きで、凝(こ)ると、損得を忘れて夢中になる、そんな気質にみちあふれていた。改めて、江戸時代の人々を見直しました。
(2023年7月刊。1210円)

2024年1月 8日

山岡鉄舟・高橋泥舟


(霧山昴)
著者 岩下 哲典 、 出版 ミネルヴァ書房

私は、恥ずかしながら、「幕末三舟」というコトバ自体を知りませんでした。勝海舟はもちろん知っていますが、江戸城の無血開城を決めたのは西郷隆盛と勝海舟の二人ということになっていますが、実はその前に駿府会談というものがあり、西郷隆盛と対峙して重要なことを決めたのは山岡鉄舟だったというのです。著者は、世の中の人に、ぜひこのことを知ってほしいと声を大にして叫んでいます。
 「幕末三舟」は、3人とも旗本(幕臣)。鉄舟と泥舟は義理の兄弟。鉄舟の妻英子(ふさこ)は、泥舟の実妹。海舟は、鉄舟・泥舟とは婚姻関係はないが、お互いよく知っていていわば「戦友」。
 明治に入って、海舟は海軍卿や枢密院顧問をつとめた。泥舟は明治に入ってから、どこにも仕官しなかった。しかし、幕末のころは尊攘派幕臣として、泥舟はもっとも有名だった。
 徳川慶喜は、「大政奉還」しても、相変わらず自らが政権を担当するつもりだった。諸侯と朝廷の間を取りもつ役割を果たすつもりだった。諸侯会議を主宰するべく、側近に西洋の政治制度を学ばせて準備もしていた。ところが、鳥羽伏見の戦いに敗れてしまって、その目論見が外れた。
 泥舟は大阪から逃げて江戸城に帰ってきた慶喜に対して、江戸城を出て上野の寛永寺に退去することを献策し、その道中を護衛した。
 慶喜は泥舟をもっとも信頼していた。中奥に泥舟がいて、大奥には天璋院と和宮、表には勝海舟がいた。泥舟は慶喜の周囲にいた実行部隊の最高指揮官だった。泥舟は慶喜に駿府行きは鉄舟に命じるよう進言した。鉄舟は海舟宅にいた薩摩藩土の益満休之助とともに駿府城に出かけ、そこで西郷隆盛と会談した。
 西郷隆盛に対して、鉄舟は江戸を武力制圧することの愚かさを説いた。
 隆盛は、それを受けて5条件を示した。そのなかの一つ、慶喜の身柄を岡山池田藩お預けにするということは断乎として拒否、そのほかは応じたので、江戸城無血開城が決まった。
 江戸城での勝海舟と西郷隆盛との対談は、駿府会談の延長線上にあるもの。江戸城会談で初めて話し合いがなされたのではない。
 あとで、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊が官軍と戦闘した上野戦争について、慶喜たちは、せっかくの講和・無血開城がフイになると心配したようです。
 この上野戦争については、佐賀藩のアームストロング砲という最新式の大砲が大活躍しましたが、西郷隆盛の周到な準備があったから官軍は早期に完勝したと著者は強調しています。
 鉄舟は明治天皇の側近となったが、53歳のとき病死した。
 海舟だけでなく、鉄舟そして泥舟という「幕末三舟」の活躍を知ることができました。
(2023年8月刊。2800円+税)

2024年1月 6日

賃金の日本史


(霧山昴)
著者 高島 正憲 、 出版 吉川弘文館

 かつては、近世の百姓は厳しい年貢の取立てや飢饉(ききん)にさいなまれ、貧困にあえぐばかりだったという貧農史観が支配的だった。私も、すっかり信じ込んでいました。ところが、この20年から30年のあいだに、そのイメージは大きく修正されている。百姓たちは旺盛な消費意欲をもって、主体的により良い生活を求めて行動していたのだ。
 百姓一揆もその典型です。たとえば理不尽な領地替えは許さないという考えから、大規模な一揆を発動しました。ぜひ藤沢周平の『義民が駆ける』(中公文庫)を読んでみてください。
 天保の改革で有名な老中水野忠邦(ただくに)による三方国替(くにが)えに対して、羽州荘内の領民は「百姓たりといえども二君に仕えず」という幟(のぼり)を掲げて大挙して江戸に上って幕閣に強訴を敢行しました。そして、ついに将軍裁可を覆し、国替えをやめさせて藩主を守り抜いたのです。しかも、目的達成した百姓たちの処罰では、打ち首とか処刑(死刑)はありませんでした。それほど百姓たちは藩当局を圧倒していたのです。
 正倉院文書には、写経生が写経所に提出した借金証文「月借(げっしゃく)銭解(せんげ)」が100通ほど残っているそうです。このころ、借金の利子は月13%でした。
都市の活性化は、さまざまな職業を生み出した。そのなかには、今となっては想像しにくい、珍しいものも多数あった。その一つが、猫の蚤(のみ)取り。文字どおり猫に寄生する蚤を取り除く仕事。その方法は、狼などの獣の皮を猫にかぶせ、そこに蚤を移らせ、振るって捨てるというもの。近世も後半になって見かけなくなったとのこと。いやはや、想像できませんよね。
 耳垢(みみあか)取りもあった。これは、今でも銀座に店を構えています。入ったことはありませんが、いったい、いくらするのでしょう・・・。江戸時代には、耳かきの種類によって上中下の区別があり、上は金の耳かき、中は象牙の耳かき、下は釘の頭だった。ただし、これは落語家の志ん朝の話の「枕」に出てくるもの。
 安政の大地震のあった安政2年(1855年)には、それまでの大工賃金が上手間料4匁が45匁と10倍にもはね上がった。
いろいろ勉強になることの多い本でした。
(2023年9月刊。2200円)

2024年1月 3日

剣術修行の廻国旅日記


(霧山昴)
著者 永井 義男 、 出版 朝日文庫

 幕末のころ、佐賀藩鍋島家の家臣である牟田文之助高惇(たかあつ)は2年間かけて東北を含めて全国を武者修行の旅をした。文之助は訪れた藩のほとんどの藩校道場でこころよく受け入れられ、思う存分に他流試合をした。しかも、夕方からは、道場で立ち合った藩士たちと酒盛りしながら歓談し、さらには地元の名所旧跡や温泉に案内されることもしばしばだった。また、同じく藩士と知りあい、仲良くなって一緒に旅することもあった。
 他流試合といっても、「道場破り」ではなく、練習稽古の合同稽古みたいなものだった。
 文之助は、2年間に、全国31都府県を踏破している。北海道(松前藩)にも渡ろうとしたが果たせなかった。その代わり、松前藩から出てきた武者修行の藩士とは仲良くなっている。
 文之助の旅は、1853年(嘉永6年)から1855年(安政2年)までのこと。ペリーの率いる黒船が江戸湾に押しかけてきたころ。文之助の父親も佐賀藩の剣術師範のひとりで、鉄人流を教授していた。鉄人流は二刀流であり、異色だった。鉄人流は自分たちは宮本武蔵の流れにあると誇っていた。文之助が23歳のとき、鉄人流の免許皆伝を授けられた。そして翌年、藩から諸国武者修行の旅を許可された。
 このころ、多くの藩が藩士の教育に力を傾注していて、藩校で文武の教育をすすめていた。「文」では、各地の漢学塾や籣学塾に留学させていたし、「武」は諸国武者修行をさせた。修行人は他藩では修行人宿に泊まったが、そこは無料だった。その藩が負担する。なので、藩財政がピンチに陥った藩は修行人宿を閉鎖した。
 藩相互に修行人を優遇しあう慣例があった。修行人宿にとっても、修行人は年間を通じての大事な顧客だった。修行人が武者修行をしないときには、普通の旅人として扱われ、たとえば250文の宿賃を支払った。
 他流試合の実情は、他流との「合同稽古」だった。一対一の打ち込み稽古だ。勝負をして優劣が決まるというのではなく、自己評価・自己申告だった。
 他流との他稽古だったからこそ、遺恨が生まれることなく、終了後はともに汗を流した爽快感と相手に対する親愛感が生まれた。
 江戸時代の道場は、一般にはかなり狭かった。広さは10坪から30坪ほどが多い。しかも、床は板張りでないところが少なくなかった。屋外の青天井で、土間に筵(むしろ)を敷いている道場もあった。
 強い相手のいる道場は敬遠して、小さな町道場ばかりを選び、修行人同士の交際も避けて旅をする修行人を米食修行人と呼んだ。米の飯を食うのが目的の修行人という意味だ。
 同じように、道場側も何やかんや口実をかまえて修行人からの他流試合の申し込みに応じないところも少なくなかった。
 剣術修行という大義名分があれば、藩の垣根はほとんどなかった。
 全国を旅すると、各地の方言で意思疎通が困難になるはずだが、武家言葉は全国共通だったので、その限りで意思疎通に問題はなかった。
江戸時代は人件費は安く、物の値段は高かった。
文之助は手持ち金が不足すると、故郷に手紙を送って送金してもらった。すでに郵便網そして送金が確立していたのです。すごいことですよね、これって...。
江戸の藩邸では夜の門限は厳しかった。午後6時(暮六つ)には表門が閉じられた。
文之助と歓談した藩士たちは気前よく酒や料理を振るまった。なにかの見返りを期待しているわけではない。修行人との交流を楽しみ、江戸の話に聞き入ったようだ。
江戸時代、幕末のころ、武士の若者たちがぞろぞろと諸国を武者修行してまわり、酒食をともにして歓談していたというのです。江戸時代って、こんな大らかな時代だったのですよね。見直します。
10年前の本を文庫版にしたもので、内容も刷新されているようです。一読をおすすめします。
(2023年9月刊。1100円)

2023年12月17日

江戸のフリーランス図鑑


(霧山昴)
著者  飯田 泰子 、 出版  芙蓉書房出版

 弁護士になってしばらくのあいだは、江戸時代って天下奉平、つまり変化がなく安定していて、人々は封建時代のしがらみにとらわれ、暗黒の時代に生きていたと考えていました。今では、その考えを根本的に改めています。
 江戸っ子はお金を貯めず(貯められず)、その日のうちに稼いだものを使い切ってしまう。明日は明日の風が吹くとばかり、気ままに生きていた人が少なくなかったのです。
私の固定概念を最終的に見事に粉々に砕いたのは『世事見聞録』という江戸の浪人が匿名で書いた本です。復刻版が出ていて、すぐ手に入りますから、未読の方には一読されることを強くおすすめします。ネットで検索してみて下さい。
 この本の延長線上にあるのが、戦前、熊本の農村(須恵村。今の球磨郡あさぎり町)に1年間、アメリカ人の若き人類学者夫婦が住み込んで(日本語が出来ますので通訳不要です)聞き取り調査をした結果をまとめた本『須恵村の女たち』(御茶の水書房)です。私は、この2冊を読まないで日本人論、とりわけ日本女性論を語るのは間違ってしまうと確信しています。
 この本に戻ります。この本のすばらしいところは、たくさんの働く人々が、写実的な絵と一緒に紹介されていることです。
 天秤(てんびん)棒の前後に荷を振り分けて、担いで打つのが棒手振(ぼてふ)り。「一心太助」の姿が絵描かれています。
江戸の魚市場は関東大震災のあと築地(つきじ)に移るまでに300年のあいだ、日本橋にありました。発祥は日本橋の北側で、南側に木材木町新魚市場が登場した。野菜を籠(かご)に入れて売り歩いた小商人を江戸では前栽(ぜんさい)売りと呼び、京坂では八百屋と呼んだ。
 松茸(マツタケ)は、京坂では秋冬には当たり前のごちそうだった。砂糖は、江戸時代には薬屋の高い品目で、庶民の料理にはまず使われなかった。醤油が普及したのは江戸期から。
 おかずは、江戸では惣菜(そうざい)といい、京坂では番菜(ばんさい)と呼んだ。「おばんさい」は、ここから来てるんですね。
 ウナギの蒲焼(かばやき)は、江戸では200文、京坂では銀3匁(もんめ)。
 鶏卵は高価で、ウナギの蒲焼より値が張った。ゆで卵は、江戸では20文で売られていた。屋台で食べる鮨(スシ)は文化期(1820年前後)にあらわれた。稲荷寿司も同じころの発明品。
 江戸でも京坂でも古着屋が大繁盛した。江戸には虫売りの屋台まで出現した。その一番の売り物は蛍(ホタル)だった。螢専門の蛍売りは、自ら螢狩りに出かけていった。
 手に取って眺めているだけでも、心が楽しくなってくる本です。
(2023年6月刊。2300円+税)

2023年10月18日

読み書きの日本史


(霧山昴)
著者 八鍬 友広 、 出版 岩波新書

 よくリテラシーというコトバが登場します。もとは、読み書き能力(識字能力)のことでしたが、近年、大幅に意味内容を拡張していて、情報の内容を批判的に取捨選択する能力にまで高められている感がある。私はなかなかなじめなくて、使いこなせないコトバです。
話しコトバを獲得するには、学校に通ったり、特別な訓練を必要としない。しかし、文字の読み書きは、生得的な能力ではなく、長年にわたる習練の結果によって初めて獲得されるもの。
 そうなんです。私が毎日毎朝、フランス語を聴いて書き取りをしているのは、フランスで生活したいというよりも、フランスの文化に直に接したいという願望からなのです。
 かつての日本に角筆(かくひつ)というものがあることを初めて知りました。墨などをつけるのではなく、紙の表面に先の尖った棒状のものを押しつけて、へこみをつけるもの。
一文不通は「いちもんふつう」と読む。読み書きの能力が一定の水準に達していないことを指して使われたコトバ。
「往来物(おうらいもの)」とは、手紙文例集のこと。私は江戸時代の産物とばかり思っていましたが、実は、平安時代に始まるとのこと。平安期に続々と刊行され、鎌倉・室町に続いていったのです。かの敦煌(とんこう)石窟から発見された敦煌資料のなかにも手紙文の形式・文言を記載したものが大量に発見されているというのですから、驚きます。
日本の往来物は、学校で教科書が登場して、とって代わるまで、800年以上も継続した、世界でも特異なもの。「往来」は、一種の模範文例として、手紙を書くためのテキストブック。これに対して「消息」は、実際の手紙を指す。江戸時代の「商売往来」は、最大のヒット作だった。
近世から明治初期にかけてが、往来物の最盛期だった。現在、残っているものだけで7千種類ある。しかし、実のところ、1万をこえるのだろう。
『道中往来』は、仙台の書肆(しょし。本屋)が刊行し、きわめてよく普及した旅行記という往来物だった。
百姓一揆のときの百姓側の要望書が「目安」と呼ばれ、これらが往来物の一つになった。江戸時代、寺子屋が流行した。地方では「村堂(むらどう)」としていた。
寺子屋の師匠が亡くなったとき、千葉県内に建立された「筆子碑」は3000基もあった。寺子屋のなかには「門人張(もんじんちょう)」をつくっているところもあった。
近江国神崎郡北庄村(滋賀県東近江市)にあった時習斎寺子屋には4276人もの寺子が入門したという記録が残っている。ここで、女子の入門者は2割ほどでしかなかった。
江戸時代にやってきた、ロシアのゴローヴニン(軍人)やアメリカ人のマクドナルドやイギリスの初代終日公使オールコックは、いずれも日本人の識字能力の高さに驚いている。
村の男子の1割ほどが文通できたら、村請(むらうけ)制が実施可能だった。
昔は本を読むのは音読(おんどく)、つまり声を出して読みあげるのが一般的だと思っていました。しかし、この本では黙読もフツーにおこなわれていたというのです。そうなんですか...。
 世の中、知らないことは、ホント多いのですよね。
(2023年6月刊。1060円+税)

2023年10月15日

江戸の岡場所


(霧山昴)
著者 渡辺 憲司 、 出版 星海社新書

 幕府に公認された吉原とは違って、江戸市中に60ヶ所以上もあった「岡場所」は、その始まりから終わりまで、非公認の売買春地域だった。
 盛り場、寺社の門前、宿場の至るところに岡場所は根を張っていて、その風俗や流行は江戸市民に吉原以上の甚大な影響を与えた。岡場所ナンバーワンの深川は、吉原の2倍の売上金を計上していた。
 岡場所は、庶民とりわけ町人階級の法に背(そむ)く自立的覚悟の上に成り立っていた。
 吉原を遊里文化のメインカルチャーだとすると、岡場所はサブカルチャーだった。
 明治以前、江戸時代まで、公娼・私娼という言い方は使われていない。
「岡場所」というコトバは平賀源内も使っている(1763年)ので、18世紀中ころ、非公認の遊里として世間一般の人々から認知されたということと考えられる。
 初め、岡場所は黙認されるだけの時期があった。次に、岡場所禁圧の時代が到来した。江戸時代、遊女町を城下町に置くのは、多くの地域で禁止されていた。
多くの日本人女性がキリシタン商人によって奴隷として海外に流出していった。キリシタン貿易は、人身売買をしていたという疑いがある。
年季(ねんき)によって、郭(かく)の中に女性たちを閉じ込めたのだった。それは中国の遊郭にも前例がないもの。
 初期の岡場所の主役は「湯女(ゆな)」と呼ばれた。湯女を抱えた風呂屋は、昼夜の営業だった。まるで、現代日本のコンビニですね...。
 遊女の細見(カタログ)には15歳から18歳が多いけれど、なかには12歳の例もある。最高齢は42歳だった。
 岡場所では、年季・外出も自由だった。岡場所は宝暦(1751~1764年)の時代に最盛期を迎えた。品川宿全体で500人もの飯盛女が幕府の公認を得た。
 吉原では客のほうから遊女屋に出かけ、深川では、芸者や遊女を料理屋に呼んだ。遊女は、吉原に2000人、深川には600~700人いた。
 
 品川の客には、「侍」のように「にんべん」のある「侍」と、人偏のない寺が多かった。品川の貸座敷というのは、名を変えた遊郭のこと。
京都で辻君、大阪で惣嫁(そうか)、江戸は夜鷹と呼んだ。また、江戸では夜発(やはつ)とも言った。夜鷹は、独立的流れ仕事の売春ではなく、組織に組み込まれた売買営業だった。
 吉原が凋落の一途をたどったのは享保期から。
 慶応3(1867)年、吉原の売上金額は8万8両。深川は、その2倍の15万両もあった。岡場所の代表・深川のほうが吉原を完全に凌駕(りょうが)した。
 江戸時代の貴重な一断面を知ることができました。
(2023年3月刊。1400円+税)

2023年10月 8日

江戸の絵本読解マニュアル


(霧山昴)
著者 叢の会 、 出版 文学通信

 江戸時代については、それなりに知っているつもりでしたが、草双子(くさぞうし)は聞いたことがあるくらいで、詳しいことは知りませんでした。この本によって、草双子の魅力をたっぷり味わうことができました。
 京都・大坂の上方(かみがた)を追いかけ、文化を発展させてきた江戸は、上方とは異なる独自の性格をもつ「絵本」をつくり出した。それが草双子。
 草双子は版本(はんぽん)。1枚の桜の木の板に文字と絵を掘りつけた版木(はんぎ)を使って刷り、製本する。作者が文章を書き、画工が絵を書き、それを彫師が板に彫って版木をつくる。その版木に墨を付けて和紙に刷るのが刷師。刷り上がった紙を半分に折って丁合を取り、表紙と裏表紙を付けて和綴じ、袋綴じをする。こうした一連の作業をプロデュースしているのが版元。
 江戸時代前期には、近世文学の仮名草紙と浮世双子が絵入り本、上方絵本と武者絵本は全ページに絵が入る絵草紙として出版された。少し遅れて江戸時代の中期初めころ、江戸で草双子が出版されはじめた。
 赤小本、赤本、墨本、青本と、表紙の色で区別されて呼ばれている。やがて安永期に黄表紙群が登場し、草双子は転換期を迎えた。
 たとえば「桃太郎」の話。江戸時代にもよく知られた昔話だった。そして草双子では、桃太郎のライバルとして柿太郎を登場させ、両者は鬼退治を競う。柿太郎のほうが一足先に鬼退治に向かうが、鬼にやっつけられてその子分となり、やってきた桃太郎と戦う。桃太郎にはかなわず、桃太郎が鬼を退治すると、柿太郎は桃太郎の家来になった。
 草双紙では、登場人物が誰なのか、顔立ちや着物の紋様で描き分けるか、袖や着物の裾に文字を書き込んで人物を示す手法も多用される。これは分かりやすいですよね。
 江戸中期、初期の草双紙に登場する化物(ばけもの)たちは、子どもから大人まで親しみやすい存在、「愛されキャラ」の化物だった。
 普段から身の回りで使用している器物に手足をつけ、顔を描いたりもしている。化物を擬人化して、当時の風習や流行を取り入れ、紹介している。続く黄表紙の時代では、化物の世界を面白おかしく想像し、ユーモアたっぷりの笑いのタネとして、化物のパロディーが描かれた。
 坂田金平(きんぴら)や鎌田又八は、当時の歌舞伎でも演じられる人気の勇者であり、こうした人気ヒーローが巨大な化物を退治していく話が草双紙で人気を呼んだ。これは最近の「鬼滅の刃」と同じようなものだ。
 草双紙には、読者の旅行への「お出かけ心」をくすぐる仕掛けがしつらえられているものが少なくなかった。日本人は昔から旅行が大好きなんですよね...。
 江戸時代は、人々が古典文学に出会い、求めた時代だった。それまで貴族や学者など、一部の人々のあいだで書き写され伝えられてきた作品が、出版文化が花開いたことから、広く人々が手に取れるようになった。
 『源氏物語』は、その代表作であり、リメイクやパロディーものなど、二次創作も盛んで、原作同様に楽しまれた。福岡の小林洋二弁護士も『源氏物語』オタクのようです。
 中国の『三国志』も江戸で大人気の作品でした。
 江戸時代の人々の豊かな活字文化の一端を知ることができました。
(2023年4月刊。2100円+税)

2023年9月23日

江戸の実用書

(霧山昴)
著者 近衛 典子 ・ 福田 安典 ・ 宮本 裕規子 、 出版 ペリカン社

 江戸時代は寺子屋が繁盛していたことで知られるように識字率はとても高かった。なので、人々はたくさんの本を読んでいた(買う人より借りて読む人のほうが多かった)。
江戸時代を代表する百科辞典は『和漢三才図会(さんさいずえ)』(寺島吉安、1712年)。中国の『三才図会』にならって漢文の解説文で図解されていて、105巻もある。
江戸時代の国語辞書は『節用集』といい、室町時代に成立したものが、増補されていった。日常語を「いろは」に分け、さらに部門別に言葉を配列し、用字や語義、由来を説明している。
驚くべきことに、江戸時代はパロディ本がブームだったのです。「仁勢物語」(伊勢物語)、「尤之双紙(もっとものそうし)」(枕草子)、「偽紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(源氏物語)が有名...。
江戸時代はガーデニング(園芸)が大人気でした。なかでも朝顔は、3回もピークを迎えるほど人気を博しました。その朝顔は、変化(へんげ)朝顔を主としています。花や葉や蔓(つる)が変化したものです。今や、まったく見かけません。私も毎年、朝顔のタネを店で買ってきて、植えています(夏の日の毎朝の楽しみです)。でも、昔ながらの鮮やかな赤い朝顔が一番です。
 浮世絵にも、変化朝顔が描かれています。たとえば、1本の苗から赤色と青色の花が咲いているというものです。
 江戸時代の男子が身につけるべき教養として、読み書き学問は当然として、謡(うたい)、漢詩、和歌、連歌、俳諧、茶の湯、生け花、囲碁将棋があった。茶の湯や生け花は、江戸時代には、しかるべき家柄の男性に求められた必須の教養だった。
 江戸時代の女性が使用する文字と男性の使用する文字は異なっていた。女性は大部分が「かな」で、一部に漢字が混ざった「和文体」を用いる。男性は主に漢字による「準漢文体」を使用した。なので、往来物には女性を対象とした女子用往来物がある。
世の中には、いかに知らないことが多いものか...。呆れるほどです。
(2023年7月刊。3300円)

2023年9月10日

山本周五郎・ユーモア小説集


(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 本の泉社

 私が山本周五郎を読むようになったのは、司法試験に合格したあと、司法修習生として横浜で実務修習していたとき、仲間の修習生(石巻市の庄司捷彦氏)から勧められたからです。読みはじめて、たちまちトリコになって、たて続けに周五郎ワールドに浸りました。今でも、書庫には「ちいさこべ」「五弁の椿」「つゆのひぬま」など10冊ほどが並んでいます。なぜか「さぶ」が見あたりません。もちろん映画にもなった「赤ひげ診療譚(たん)」もあります。貧乏な病人はタダで診てやった医者の話です。
 次に、弁護士になってから藤沢周平を読みました。これもしっとり味わい深かいものがありました。山田洋二監督の映画や「たそがれ清兵衛」は良かったですよね。そして、葉室麟と続きます。
 山本周五郎の時代小説は、重厚感があり、人情の細やかなぎびんに触れて、その江戸情緒たっぷりのワールドについつい惹かれ、ひきずり込まれていきます。ところが、この本は、ユーモアをテーマとして集めたものです。ユーモアといっても、なかなか味わい深いものがあります。
 「堪忍(かんにん)袋」の話は、重苦しく始まります。乱暴者の主人公が、ともかく堪忍袋を胸中に沈め、あらゆる扱いにひたすら我慢する。ところが、ある日、水面にうつった顔は、まるで自分のものとは思えないものだった。自分が自分でなくなったのだ。それに気がついたとき、堪忍袋のひもが切れた音を聞いた。そして、それまで馬鹿にしていた男たち皆に対して、翌朝、出てくるように申し入れて歩いた。ところが、翌朝、その場所に誰も来なかった・・・。堪忍袋のひもが切れた音を聞いただなんて、よくぞ思いついたものです・・・。
 解説を読むと、これは戦前に書かれ、戦後に発表されたもの。戦前は厳しい言論統制があり、戦後もマッカーサー指令の下、自由な言論は保障されていなかった。そんな状況を踏まえて、この堪忍袋の話を読むと、どうなるか・・・。深読みできる話の展開なのです。
 「ひとごろし」は、臆病者という評判がすっかり定着している男(独身の下級武士)が、手だれの武芸者を上意討ちするのに名乗りをあげ、武芸者を追いかける。でも、尋常に勝負を挑んだら、それこそ返り討ちにあってしまうのは確実。そこで「臆病者」は考えた。武芸者の行く先々につきまとい、少し離れた、安全なところから武芸者に向かって「人殺し」と呼び続ける。すると、そのため武芸者は食事がとれず、宿をとるのも難しくなった。ついに疲労困憊した武芸者は根負けして、切腹すると言い出す。「臆病者」は、そのとき、何と答えたか・・・。
 弱いことは恥ずかしいことではない。知力を働かせれば、強敵を打ち負かすことはできる。恥ずかしいのは、それをせずに自分を大きく強く見せることばかりに腐心することだ。
 「核抑止論」とか「敵基地攻撃能力の保有必要」とかいうのが、この恥ずかしいことにぴったりあてはまります。そこにはユーモアのかけらもありません。残念です。
 お盆休みのお昼に、美味しいランチをいただきながら、読了して心豊かな気分でした。
(2023年3月刊。1300円+税)

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