弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2020年5月 4日
奇妙な瓦版の世界
(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版 青幻舎
瓦版(かわらばん)とは、江戸時代に大変な人気を博していたマスメディア。明治に入ってからも20年以上は存続していた。ただし、もっとも勢いのあったのは、江戸時代の中期から末期にかけてのこと。
和紙に記事と絵が摺(す)られていた木版画で、簡易な新聞のようなもの。
江戸時代には瓦版とは呼ばれず、読売(よみうり)、一枚摺(いちまいずり)、絵草子などと呼ばれていた。
瓦版は基本的に違法出版物であり、幕府は瓦版によって庶民に情報が流通することに危機感をもち、早くも1684年(貞享元年)には瓦版の禁令を出している。それでも、瓦版は庶民のなかでしぶとく生き続けた。
瓦版は店舗販売ではなく、町中で読売という売子が売っていた。売子は深い編笠で顔を隠して売っていた。瓦版は墨摺1枚4文、100円ほどで、多色摺だと倍以上した。
瓦版は商売のため、もうかるためのもので、作成者に社会的使命はなかった。
黒船に関する瓦版の絵は大変迫力がありますが、これは長崎版画のオランダ船図を模倣したものという解説に、なるほどそうだろうなと納得しました。単なる遠くからの目撃で、これほど細密に黒船を描けるとは、とうてい思われません。
九隻の黒船について、八隻が瓦版で紹介されていますが、船や乗組員の名前に正解に近いものが多い。例えば、船名のレキスンタンはレシントン、ホウハワタンはポーハタン。通訳のホツテメンは、ポートマン、五番船の大将「フカナン」はブキャナンなど...。
ペリー一行に対して日本の高級料亭として名高い「百川」(ももがわ)の料理を提供した。その費用は1500両(今の1億5千万円)。ただ、魚介類中心の料理だったので、ペリーたちの評価はあまり高くなかった。瓦版は、その食事風景を描いています。当時の庶民の好奇心を満たしたことでしょう。
幕末には写真が登場しますが、その前には絵しかなかったわけですので、瓦版の絵とそれを紹介する文章は大変貴重なものだと思います。楽しく眺めることのできる瓦版の世界でした。
(2019年12月刊。2500円+税)
2020年3月14日
隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン
(霧山昴)
著者 山岸 昭 、 出版 人文書院
日本での布教に生涯を捧げたポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・デ・アルメイダは、実は隠れユダヤ教徒「マラーノ」の家系に属していた。知りませんでした...。
アルメイダは1525年にリスボンに生まれたユダヤ人、しかも1496年にユダヤ人追放令が公布されたあと、祖国ポルトガルに生き続けることを選んだ改宗ユダヤ人「マラーノ」の家系に属している。
アルメイダは23歳のときに祖国ポルトガルを脱出し、インドのゴアに渡った。しかしゴアも、ユダヤ人には厳しい都市だった。青年医師アルメイダは日本に来て、大分で大友宗麟の協力を得て、乳児院を建て、乳児の養育をはじめた。アルメイダは助手に日本人をつかい、医師養成に力を入れたことから、内科医療にたけたパウロやミゲルという日本人医師が生まれた。
アルメイダは日本の習慣をよくわきまえており、日本の人々と談話し、その心をつかむことに成功していた。ルイス・フロイスは、「アルメイダは、天草に布教し、成功した」と報告した。これが島原・天草一揆につながっていく。
14世紀のスペインで、突如として6千人以上のユダヤ人が血祭りにあげられた。犠牲者は7万人以上で、迫害を避けるため、ユダヤ人の多くは父祖の信仰をすてざるをえなかった。そして改宗キリスト教徒となった。このような改宗者は、「マラーノ」(豚)と呼ばれた。
フランシスコ・ザビエルのころ、異端審問所の広場で17人が生きたまま火あぶりに処せられた。このとき、ザビエルも同地にいた。
クリストヴァン・フェレイラは、禅宗に帰依し、日本人女性を妻とし、忠二郎のほか女の子までもうけていた。フェレイラは、1614年の禁教令から20年間ほど過酷な潜伏生活をしていた。1633年の穴吊りから始まる17年間も、厳しい棄教者としての生活を余儀なくされた。そして、フェレイラ(沢野忠庵)は、日本に南蛮医学をもたらした。
長崎の隠れキリシタン発見の手がかりは、「サンタ・マリア」像だった。5万人いると推定された。五島では、復活信者が3万人いて、潜伏を持続させた信者が1万人いた。
永井隆医師の妻は原爆によって亡くなったが、浦上三番崩れのときに牢死した吉蔵の曾孫にあたる。
隠れキリシタンを導いたイエズス会宣教師のなかに隠れユダヤ教徒(マラーノ)がいたというのは、私にとって新鮮な驚きでした。
(20年10月刊。2900円+税)
2020年3月 7日
天草島原一揆後を治めた代官、鈴木重成
(霧山昴)
著者 田中 孝雄 、 出版 弦書房
天草島原一揆のあと無人状態になった村々へ周辺から人々が移住させられました。そして、統治困難な天草の地を江戸幕府の代官として見事に治めた鈴木重成の生涯をたどった本です。地元民から今に至るまで慕われている代官がいただなんて、ちっとも知りませんでした。
鈴木重成は大坂で代官職・奉行職をつとめているころ、島原・天草でキリシタンを主力とする大がかりな一揆が起きたことから鉄砲奉行として征討軍に加わった。
そして、天草・島原一揆の鎮圧後、幕府代官として戦後復興にあたった。移民の誘致、年貢の大幅減免、社寺の再興につとめた。一揆で亡くなったキリシタンを仏式で弔うこともした。
鈴木重成が亡くなると、地元の人々は、供養碑を建立し、社を築いて「すずきさま」と呼び、敬慕の念を今に至るまで抱いている。
島原の乱は1637年(寛永14年)に発生した。
征討軍として幕府は板倉重昌と石谷定清を派遣し、重ねて、老中・松平信綱と戸田氏鉄の派遣を決めた。このときには、まだ板倉たちは現地に到着さえしていなかった。
板倉と石谷が現地・有島に着陣したのは12月6日のこと。その前の11月27日に、幕府は重ねての上使として松平信綱と戸田氏鉄の派遣を決定した。
松平・戸田が島原に到着したのが1月3日で、1月1日に原城総攻撃で板倉は戦死した。
「総大将板倉が戦死したので、幕府はあわてて老中松平信綱を差向けた」
という俗説は間違い。
比較的早い段階で松平と戸田を重ねて追討使としたのは、一揆を鎮圧したあとの始末が目的だった。鈴木重成は老中松平とともに鉄砲奉行として大坂城内の大砲数門と多くの玉薬を持って、板倉の戦死の3日後に有馬に到着した。
キリシタン一揆鎮圧後の仕置きという老中松平の負った本来の使命は具体的には鈴木重成の手に委ねられた。こうして、天領天草の初代代官となった鈴木重成は天草の復興を一身に負うことになった。
重成のかかえた課題は二つ。領民のくらしをどう向上させるか。宗教間対立が生んだ悲劇をどう克服するか。全体の年貢率は平均で田が23%、畑が18%に抑えられた。
重成は、貢租は二義的とし、復興を第一と決断した。
天草の庄屋の文書によって、重成時代の年貢率は15%から25%で推移していたことが判明している。
そして、重成は島原の代官まで兼務したのです。重成は天草の復興のためには神仏信仰への回帰が重要課題だと考えた。寺々が焼かれ、仏像をなくした村の無残な現実を見ていた。そこで、一般に新寺の建立を幕府が禁止していたなかで、重成は天草で社寺を復興させた。そして、一揆終結から10年間に再興した寺々で、亡くなったキリシタンについても亡魂供養を行った。
歴史的事実をいろいろ発掘している貴重な本だと思いました。
(2019年6月刊。2200円+税)
2020年2月 1日
大江戸史話
(霧山昴)
著者 大石 慎三郎 、 出版 中公文庫
日本史上、間接税を最初に導入したのは田沼意次である。
田沼意次は、小姓組番頭格をふりだしに、小姓組番頭、側衆御用申次、側用人、さらに老中に準ぜられたあと、老中となった。しかも、側用人の役も兼帯した。老中は幕府正規の役職の最高位、側用人は正規ではなかったが、将軍の信任を得れば老中をうわまれる、いわば裏の最高権力者である。この両ポストを握った最初の人物が田沼意次だった。いわば、意次は幕府はじまって以来の権力者なのである。
郡上踊り(ぐじょうおどり)は、一夏を通して行なわれる特異な祭り。これは1754年(宝暦4年)から足かけ5年という長さでたたかわれた郡上一揆でずたずたになった領民を融和するために始められたもの。
九代将軍・家重の時代(1745~1760年)は、「全藩一揆の時代」として知られている。江戸時代でもっとも大がかりな全藩あげての一揆が多発した時代。
郡上一揆は内部に徹底抗戦派の百姓(立百姓)と妥協派(寝百姓)とに分かれての内部抗争もあって、長引いた。結局、幕府の最高機関である評定所にもちこまれ、農民側も多数の犠牲者を出したが、領主(金森頼錦)は改易(かいえき)、幕府のなかでも老中・若年寄・勘定奉行などが、私的に藩を支援したとして改易などの厳罰に処せられるという前代未聞の措置がとられて終結した。
この幕閣処分で、幕府内の直税増徴(年貢増徴)派は幕府の中心部から一掃された。
そして、変わって田沼意次たちの一派が登場して間接税の導入をすすめた。「敵」に一番打撃を与えたという意味では、領主を改易させたうえ、それを支援した幕府権力中枢にも多大の打撃を与えた群上一揆が最右翼である。
20年以上の本ですが、内容的に紹介したい話のオンパレードでした。
(1992年3月刊。460円+税)
2019年12月31日
カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿
(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版 勉誠出版
江戸時代、オランダはヨーロッパ人として対日貿易を独占していた。長崎の出島で1641年から1858年まで218年間も、それは続いた。
そして、カピタン(オランダ商館長)は当初は毎年、次いで4年に1度、江戸にのぼった。166回にものぼる。これは朝鮮通信使の12回、琉球使節の18回に比して断然多い。
カピタンの江戸参府の道中、一行を数日、止宿させた定宿(じょうやど)を阿蘭陀(おらんだ)宿と呼んだ。江戸、京、大坂、下関、小倉にあった。
江戸では本石町3丁目にあった。現在、JRの新日本橋駅のあたりに「長崎屋」があった。
1826年の参府にはシーボルトが随行していた。1850年の江戸参府が最後になった。
オランダ人としては、カピタンのほか書記1人、医師1人の合計3人。日本人のほうは60人ほど。
1850年分については京都の「海老屋」の宿帳(御用留日記)にその全員が書き残されている。
カピタンの江戸参府旅行は、宿駅を早朝に出立し、次の宿駅で昼食をとる休憩、そのあと引き続き次の宿駅まで旅して泊まる。この一休一泊を基本方針とする旅程だった。
献上物・進物は余分に持参し、無事だと残品が出る。それを売るのは許されていて、元値の5割増で買いとられ、それが元値の3倍で転売された。すると、幕府高官も阿蘭陀宿もずい分の定期的収入となった。
シーボルトが随行したときにはピアノまで運んでいた。
カピタンたちを見ようとどこでも見物人が押しかけてきて、大混雑した。役人は、その整理で大変だった。鉄棒をもった制止役人は汗だくだった。
江戸城でカピタンが将軍に会うときには、カピタンから将軍の顔は見えないほど。ところが、御台所をはじめ、将軍一族の女臣たち、大奥の女性たちが御簾のうしろから見物していた。入口の襖の前後には、大名の子どもたちや坊主が重なりあって、じっとカピタンたちを見つめて座っていた。
ケンペルが将軍に面会したのは「御座空間」だったことが、ようやく判明した。
カピタンの江戸参府が詳細に再現されています。日本人って、本当に昔から好奇心旺盛だったんですよね・・・。高価な本ですので、図書館でどうぞお読みください。
(2019年7月刊。6000円+税)
2019年12月29日
潮待ちの宿
(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版 文芸春秋
うまいですね・・・。しみじみとした気分となって江戸情緒をたっぷり味わせてくれる本です。「歴史小説の名手が初めて挑む人情話」だとオビにありますが、まさしく、そのとおりの出来ばえです。
岡山県笠岡市の港町が舞台となっています。ときは幕末から明治のはじめのころです。長岡の河井継之助まで登場してくるのには驚かされますし、長州藩の負け武士たちもあらわれるなど、幕末のころの史実も踏まえていて、一気に読ませる力があります。
主人公の志鶴(しづる)は、貧乏な親から口減らしのため、小さな旅館に奉公に出され、そこでおかみ(女将)の伊都(いと)らに支えられて成長していきます。その姿が各話完結でつながっていくのです。作者の想像力の豊かさには、ほとほと驚嘆するばかりです。
そして、泊まりに来る客、そして女将を慕う人々など、人物描写がよく出来ていて、私も一度は、こんな人情話を書いてみたいものだと、ついつい身のほど知らずに思ったことでした。
潮待ちの宿というタイトルもこの本の話の展開に見事にマッチしています。小さな港で起きる話を「待つ」という言葉で貫いているのに、心地良さを感じさせます。
この本の最後に、出版前に読書会を開いて、いろいろな意見をもらったことが紹介されて、参加者の名前がずらりとあげられているのは、どういうことなのでしょうか・・・。これらの人々の感想によってストーリー展開がいくらか変わったということなのか、もっと知りたいと思いました。
今年よんだ本のなかでもイチオシの本の一つです。
(2019年10月刊。1750円+税)
2019年12月21日
さし絵で楽しむ江戸のくらし
(霧山昴)
著者 深谷 大 、 出版 平凡社新書
私は江戸時代に大変興味があります。現代日本とまったく違った時代であるようで、実はものすごく連続性がある時代なのではないかと今では考えています。
その江戸時代の実際の様子を絵で実感できるって、すばらしいことです。
年始の挨拶まわりは、1月1日は休んで、1月2日からしていた。というのも、1月1日は、旧年中の疲労がたまっているから、門を閉ざして休んでいたからだ。うひゃあ、そうだったんですか・・・。現代日本で、コンビニやスーパーが1月1日から開いているのは異常なんです。みんな休みましょうよ。
そして、もっていくお年玉はお金ではなく品物、たとえば、手ぬぐいや扇(末広がりで縁起がいい)だった。
新春の挨拶用語としては「御慶(ぎょけい)」という言葉がフツーだった。ええっ、聞いたことない言葉です・・・。
江戸時代は、キセルに詰めるタバコが大流行していた。「舞留(まいとめ)」と「龍王」が当時のタバコの有名ブランド。そしてタバコを売る店では、歯磨き用品も売っていた。
嫁入り婚となったのは江戸時代から。そして、結婚式は夜の行事だった。新郎と新婦は並んで座ってはいなかった。
二月の初午(はつうま)の日は、6歳か7歳になった子どもが寺子屋に入門する日だった。そして、寺子屋に入学するときには、子どもたちは、それぞれマイデスクを持ち込んだ。
町人社会は、50歳ころまでに隠居するのが通例だった。
江戸時代、下駄は高級品だった。裸足で外出する人も多かった。だから履物を玄関先で脱いだまま放置しておくと、盗られる恐れがあった。下駄はぜいたく品だったが、足袋も高級だった。遊女は冬でも足袋をはかないのが常だった。
江戸時代は、家族が一つの卓を囲んで食事するという習慣はなかった。めいめいが自分の膳に向かって食べた。
たくさんの図をもとにした解説なので、よくイメージがつかめます。
(2019年8月刊。800円+税)
2019年12月12日
三河吉田藩・お国入り道中記
(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版 集英社インターナショナル新書
江戸時代の参勤交代の実情を知ることのできる興味深い新書です。
参勤交代には、人材派遣会社(人宿)から臨時雇いの人夫が加わっていたことも知りました。そして、参勤交代とは関係ありませんが、三河吉田藩は島原の乱(原城一揆)に際して松平伊豆守(「知恵伊豆」)とともに従軍していて、その子孫はずっとあとまで藩内で優遇されていたということまで知りました。つい先日、原城跡を現地見学した身として、これまた興味深い話でした。
参勤交代は時期が定められていた。外様大名は4月、譜代大名は6月か8月。
近隣の大名同士の癒着を防ぐためもあって、ある大名が江戸へ出仕(参勤)したら、その近隣の大名が交代で国元へ戻った。経路も幕府によって決められており、許可なく他のコースを通行してはいけなかったし、寄り道もできなかった。
東海道は、150家の大名の経路に指定されていたため、参勤交代シーズンには、多くの大名行列でにぎわった。そのため、宿舎の確保に責任者は苦労していた。
参勤交代は、幕府が大名財力を削るための制度だと言われているが、それは結果としてそうなっただけのこと。大名同士が行列人数の多さや道具の華やかさを競いあっていたが、街道の混雑や藩財政の圧迫を招いたことから、幕府は人数を規制するお触れを出すなど、むしろ歯止めをかけていた。
本書は、1841年(天保12年)に江戸から吉田(愛知県豊橋市)までお国入りしたときの参勤交代について、当時35歳の吉田藩士・大嶋左源太豊陣(とよつら)の書いた文書の紹介をもとにしています。
「知恵伊豆」と呼ばれた吉田藩の始祖・松平信綱(初代)は、「才あれとも徳なし」と評されていた。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・。ちっとも知りませんでした。だから原城総攻撃のとき、3万人みな殺しを指揮したのですね・・・。
松平信綱は、この島原の乱に1500人の軍勢を(正規の家臣は100人)を率いていて、3人の武士と陪審(又者)3人の計6人が討死し、103人が負傷した。
「島原」とは、信綱を初代とする松平伊豆守における唯一の武功を指し示す言葉であり、後代の当主や家臣団にとってきわめて重要な意味をもった。大嶋左源太豊陣の祖先である豊長も島原へ出陣した。元禄4年(1691年)当時、島原扈従100人のうち、家が断絶しているのか半数の50人。生存者わずか10人だった。
参勤交代の実務を担うのは、宿割・宿払・船割の三役。
宿割(やどわり)は、宿舎を確保する。
宿払(やどばらい)は、宿泊代や食料費・燃料費などの支払いをする。
船割(ふなわり)は、行列が何川を渡る手筈を整える。
中間(ちゅうげん)は、総人数345人のうち2459人もいた。そのほかは士分53人、足軽33人。この中間は、非武士の武家奉公人で、その多くは人材派遣業者である人宿(ひとやど)の三河屋から派遣されていた。三河屋は、いくつもの大名家の参勤交代を請け負っていた。
大名行列の75%は中間であり、派遣労働者で成り立っていた。
人宿は、委託先である大名に対して、通日雇の給金として高額な代理を請求していた。行列の人数を確保しなければならない大名側は、言われるがまま払った。
人宿などは、通日雇の給金をピンハネして、莫大な利益を得ていた。
お供する家中(士分)には、道中計(どうちゅうばかり)という、吉田へ着いたら、すぐに江戸に戻る人間と、詰切(つめきり)という、吉田に着いたら次の江戸参府まで滞在する。この二つがあった。
交通費・宿泊費・食事代など、旅をするのに必要最低限の部分が公費負担だった。
映画に出てくる、「下に~、下に~」という掛け声とともに庶民は道ばたで土下座するというのは、徳川御三家などに限られていて、それ以外の大名行列は「脇寄れ」というくらいで、庶民は行列の進行を妨げないよう道の脇に寄るだけでよかった。
『道中心得』という15ヶ条のこの吉田藩は他藩から借りてきたマニュアルを活用していた。
いやあ勉強になりました。さすが学者です。
(2019年5月刊。840円+税)
2019年12月 9日
「生類憐みの令」の真実
(霧山昴)
著者 仁科 邦男 、 出版 草思社
生類憐みの令から個々の動物に対する愛情はほとんど感じられない。
著者は、このように断言します。ええっ、では一体なぜ、なんのためのものだったの・・・。その謎を解き明かしていく本です。最後まで面白く読み通しました。
徳川五代将軍綱吉は、将軍になる前の27年間、松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と呼ばれていた。娘のほか馬と鶴には特別な愛情をそそいでいたが、それ以外には犬をふくめて可愛がったという形跡はまったくない。
江戸城内に「御馬屋」はあっても「御犬小屋」はなかった。
綱吉は、少年時代から人や動物の死に対する嫌悪感が強かった。12歳のとき、明暦の大火を体験している。このときは綱吉邸も燃えている。死者は10万人をこえ、町には、人や牛馬、犬猫の死体が山積みされた。
鷹狩りの鷹は、犬の肉が餌として与えられていた。
江戸城内には狐が多く、大奥では、狐が嫌がる狆(ちん。犬の種類)を座敷に放して、狐の侵入を防いでいた。
生類憐みの令は、まず、江戸限定の犬の車事故防止・養育令として登場した。当時の江戸には、大八車(だいはちぐるま)が2000台もいた。そして、犬が大八車にひかれて死亡する事故が相次いだ。
町の犬たちは、あらゆる生ゴミを食べるので、町の清潔さを維持することに貢献していた。
大八車による犬や猫の事故については処罰されたが、逆に故意でない人身事故は罪に問われなかった。「人」の生命は軽く、「生類」の生命は重かった。
令が出たことで、江戸の町には人を恐れない犬が次々に生まれていった。
綱吉は、虫を飼うことも禁止した。ただし、江戸限定だった。
綱吉が本当にこだわり続けたのは馬だった。
生類憐みの令の「生類」のなかに「人」はふくまれていない。
綱吉が力をいれたのは「捨て子の保護」ではなく、「捨て子の根絶」だった。綱吉は捨て子を防ぐため、町民の妊娠まで報告させた。
綱吉のころの江戸には、5000人をはるかにこえる非人がいた。
綱吉は理屈を好んだ。少年時代から学問が好きだった。
犬小屋の話は有名ですが、収容された犬は、ストレスから来る病気などのために早死したようです。知らなかったことがたくさんありました。
(2019年9月刊。1800円+税)
2019年11月24日
原城と島原の乱
(霧山昴)
著者 服部 英雄、干田 嘉博、宮武 正登 、 出版 新人物往来社
2008年2月に開かれたシンポジウムをもとにして、島原の乱をふくめて原城の意義を多面的に探った本です。
1528年(天正10年)に天正遣欧使節団として、はるかヨーロッパへ旅だった4人の少年、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノは、いずれも原城近くの日野江にあった有馬セミナリヨの卒業生だった。原マルチノと中浦ジュリアンは有馬セミナリヨの一期生、千々石ミゲルが二期生。伊東マンショだけが、あとで有馬セミナリヨで学んでいる。ところが、8年後に帰国したとき、日本はキリスト教が禁止されていた。
それでも、4少年は豊臣秀吉の閲見を受けているし、活版印刷機を日本に運んできて、それでキリスト教関係の本を印刷などしている。
原城のなかには竪穴建物が密集していたが、この竪穴建物には戸別に炉やカマドといった暖房や煮炊きかかわる造構物が見つかっていない。これは籠城中に失火を起こさないように高い規律を守り、また人々は寒さに耐えていたということが分かる。旧暦の12月から2月までの3ヶ月なので、今の暦でいくと、2月から4月にかけてのことでしょうが、寒いことには変わりありません。
食料を集中管理して、調理し、食事を配給していたと推測されている。
原城は外周が4キロメートルに達する。大きすぎるほどの城だった。
原城に立て籠もっていた一揆軍は、イエズス会を通じてポルトガルの援軍を得る戦略を描いていた可能性が高い。さらに、全国の隠れキリシタンに蜂起を呼びかけ、内乱状態が全国一斉に湧き起こることを狙っていた。
かつてのキリシタン時代、島原半島には最盛時7万5000人ものキリシタンがいた。今、カトリック信者は100人ほどしかいない。
原城跡の現地に立ち、ガイド氏の説明を聞き、帰宅してからこうやって本を読むと、原城そして島原の乱がいっそう身近に思え、また人々の祈りが今に通じている気がしてきます。
(2008年11月刊。2200円+税)