弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2019年4月28日
江戸暮らしの内側
(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版 中公新書ラクレ
江戸時代の庶民の暮らしぶりがよく分かる本です。
「大坂夏の陣」以降、日本国内で大きな戦争が絶えたのは、支配層たる武士より、多くの庶民による「不断の努力」があってのことと理解すべき。平和が、強大な江戸幕府の恐怖政治によって実現したなどと考えると、江戸時代の真の姿はまるで見えなくなってしまう。
著者のこの指摘は大切だと私は心をこめて共感します。
江戸時代の庶民からもっとも学ばなければならないのは、生活文化、暮らしの文化だ。
江戸時代は楽園ではないし、そこで生きていた庶民は、現代以上に大きな困難に直面していた。しかし、当時の人々の多くが見せた生き様(ざま)は、疑念の余地もないほどに真摯なものだった。それは、当時において、いわゆる道徳教育がきわめて重視されていたためでもある。この道徳教育の究極の目標は、常に平和の維持だった。
長屋の小さな家は、1月あたり500文(もん)で借りられた。500文は現代の1万2500円にあたる。家賃は意外に安価だった。
江戸は上水道だけでなく、下水道も整備されていた。排泄物は一切下水には流れ出なかった。
地主と大家は違う人物で、長屋の住人を管理させるために雇っていたのが大家だった。
江戸はよそ者の集まりであり、長屋を「終(つい)の棲家(すみか)」とするつもりだった者は、ほとんどいなかった。
江戸の食事は朝夕の2回。米を炊くのは朝で、1日1回。夕食の白飯は、茶漬けにして食べるのが普通だった。昼食は元禄年間に定着した。そして、三食すべて白飯(お米)を食べていた。
棒手振り(ぼてふり)とは、行商人のこと。免許制だった。
江戸の庶民は現代日本人と体型がまったく違っている。足が短く、重心が低かった。60キロの米俵1俵を1人で持って歩けるのは普通のこと。
江戸の庶民は、「さっぱり」を何より好んだ。そのため、とにかく入浴が大好きだった。毎日、入浴する。料金は銭6文。
江戸の男性労働者は、数日おきに髪結床の世話になった。髪結床は、江戸に1800軒の内床があり、そのほか出床をあわせると2400軒以上もあった。料金は20文、500円ほど。
就学率は、江戸後期に男子が50%、女子が20%。全国に寺子屋が1万以上、江戸だけで1200以上あった。寺子屋は、まったく自主的な教育施設であり、幕府や藩がつくらせたものは全然ない。ここで朝8時から午後2時まで勉強した。基本は独習で、習字の時間がもっとも多かった。
江戸時代の人々は、人間の幸福を人生の後半に置き、若年の時代は晩年のための準備の時代と考えていた。
まだ若手の学者による江戸時代の暮らしぶりの明快な解説です。一読の価値ある新書だと思います。
(2019年1月刊。820円+税)
2019年4月20日
そこにあった江戸
(霧山昴)
著者 上条 真埜介 、 出版 求龍堂
幕末から明治初めにかけての日本を外国人が撮影した写真が集められています。当時の日本人の膚黒さを実感させられます。白黒写真だったのを彩色して、カラー写真のように見える写真集です。
もちろん自動車なんて走っていないわけですが、それにしても住還道路が幅広いことに驚かされます。両側にワラぶきの民家が建ち並び、道路の真ん中を排水溝が走っています。ほこりっぽいけれど、清潔な町だったのですね。
子どもたちの姿は、ほんの少ししか写真にとらえられていません。子育てするのも子ども、とりわけ娘でした。子だくさんだったようです。
幕末に来日した西洋人たちは物にとらわれない日本人の暮らしぶり、清らかな目をしている日本人の子どもたち、そして満面に屈託のない笑みをたたえる農村の子どもらに心が打たれたようです。
「犬が向こうからやって来た。私は威嚇するように屈んで小石を拾った。犬は気にせず歩いてくる。私は、それに驚き、慌てて手の中の石を犬のほうに投げた。どこの国でも、犬は石を拾おうとする人影を見ただけで他所へ行く。しかし、日本では違う。その犬は、どうしたことか、足元に転がる石を見て首を傾けると、近くに寄ってきた。犬の顔は優しかった。こんな国があるのか、オーマイ」
子どもだけでなく、犬にまで驚いたのでした。
妻籠(つまご)とか大内宿(しゅく)など、江戸情緒をたっぷり残しているところありますよね。ぜひ行ってみたいです。九州にも、島原とか知覧に武家屋敷が一部残っています。実際に居住すると不便なことも多いでしょうが、観光資源ともなりますし、昔の人の生活をしのぶ格好の学習資材としてぜひ保存・活用してほしいものです。
大判の写真集ですし、4500円もしますので、ぜひ図書館で手にとって眺めてみてください。きっと江戸時代のイメージが豊かになりますよ・・・。
(2018年11月刊。4500円+税)
2019年4月14日
踏み絵とガリバー
(霧山昴)
著者 松尾 龍之介 、 出版 弦書房
イギリス人のスウィフトの『ガリバー旅行記』に日本が登場してくるなんて、初めて知りました。しかも、踏み絵のことが書かれているというのです。さらに、夏目漱石が、この『ガリバー旅行記』を絶賛しているというのです。世の中には、驚くことが多いですね。
『ガリバー旅行記』は、4篇から成っていて、第一篇は「小人国」、第二篇は「大人国」だけど、第三篇は、太平洋上の島々を訪問したもので、そのなかに日本が含まれている。
そして日本に上陸するときには、イギリス人のガリバーはオランダ人になりすます。そして、江戸で日本の皇帝(将軍)に会ったとき、オランダ人がしている踏み絵の儀式を免除してほしいと願った。
踏み絵は日本人だけで、オランダ人が出島でも踏み絵をさせられたことはない。
オランダ人は、キリスト教徒として恥ずべき行為(踏み絵)までして、日本との貿易を独占しているという噂が立っていた。それは、嫉妬ややっかみにもとづくものだった。
イギリスは、オランダに対して常にライバル意識をもっていて、ついには戦争までするようになった・・・。
スイフトが『ガリバー旅行記』を書いた(1726年)のは、59歳のときだった。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』と同じころだ。
『ガリバー旅行記』は、皮肉やブラックユーモアに満ちた、大人のための文学である。
ガリバーが旅行する国々のなかで、唯一、日本だけが実在する。
ヨーロッパの人々は、マルコ・ポーロ以来、ずっと日本に熱い眼差しを向けてきた。ヨーロッパの人々は、現代日本人が想像する以上に、日本のことをよく知っていた。しかも、それがスキャンダラスなだけに強く印象が残った。
九州諸藩で踏み絵が続けられたのは、踏み絵が同時に戸籍制度として機能していたから・・・。うむむ、なるほど、そういう側面もあったのですか・・・。
(2018年10月刊。1900円+税)
2019年2月23日
大名家の秘密
(霧山昴)
著者 氏家 幹人 、 出版 草思社
この本を読むと、つくづく、江戸時代も現代日本と共通する思考があったことに気がつき、驚かされます。いえ、もちろん、この本のなかでは同じ江戸時代でも考え方が大きく変わっているという指摘がなされていて、すべて同じだったということではありません。
たとえば、残虐な復讐が平気でなされていた時代がありました。でも、親と子の難しい関係や勢力争い(派閥抗争)、からかいや嫉妬が横行していたことなど、現代日本の大企業で起きていることにつながっていると思わずにはいられませんでした。
江戸時代の下級武士、町人そして庶民の本当の生態を知りたいなら、『世事見聞録』(青蛙房)をぜひ読んでください。なんだなんだ、現代日本で起きていることは江戸時代に起源があった(いえ、当時も同じだった)ことを知ることができます。たとえば、江戸時代の庶民の家庭ではカカア天下がどこでもあたりまえで、亭主は女房の尻に敷かれてもがいていたなんてことが手にとるように分かります。
この本は、四国の高松藩士である小神野(おがの)与兵衛が18世紀半ばに書いた『盛衰記』と、それを徹底的に検討した中村十竹の『消暑漫筆』によって、水戸藩の初代殿様である徳川頼房(よりふさ)、2代の徳川光圀(みつくに)、そして高松藩の初代殿様の松平頼重(よりしげ)、2代の松平頼常という殿様の行状を生々しく明らかにしていて、とても興味深い読みものになっています。
そこでは、武士の忠臣美談など「武士道」のイメージなんてまるで通用しません。江戸前期の激越な武士世界(ワールド)を目のあたりにすることができます。ぜひ、あなたも覗いてみてください。
頼重は徳川頼房(徳川家康の末子)の最初の男子でありながら、頼房の命で見ずにされる(堕胎)ところを、家臣に救われ、京都で少年時代を過ごしたあと、頼房の養母(英勝院)の尽力で徳川家光に拝謁し、高松藩主となった。また、頼重の弟である徳川光圀は、本来なら兄の頼重が継ぐべき水戸徳川家を自分が継いだことを悔い、兄頼重の子を水戸藩主に迎えようと考え、自身がはらませた子を強制的に水にするよう命じた。こうして光圀の長男である頼常もまた犠牲になるところだったが、頼重の尽力で無事に誕生し、京都に身を隠したあと、こっそり高松に迎えられた。
家光もまた、長男でありながら父母に嫌われ、祖父の家康と春日局(かすがのつぼね)の力で継嗣となった。このように、親子の情愛から疎外された者たちが、それぞれに絆(きずな)を求めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
は私も知っています。ところが、
「ゆびきり、かまきり、これっきり」
「ゆびきり、かまきり、嘘ついたものは地獄の釜へ突き落せ」
「ゆびきりげんまん、嘘ついたらカマキリのタマシイ飲ます」
いろいろなヴァージョンがあるのですね、驚きました。
頼房は威公、頼重は英公、頼房は青年時代、かぶき者だった。ところが、青年期を過ぎても、頼房は泰平の世にうまく順応できなかった。
光圀も、若いころは、キレると何をするか分からない乱暴者。とりわけ16.7歳のころは、奔放なふるまいが目立った。三味線を弾き、刀は突っ込み差し。衣服は伊達に染めさせ、襟はビロウドという典型的なかぶき者ファッションで、両手を振りながら闊歩していた。このため、世間から、「とても水戸様の世子とは見えない。言語道断のかぶき者だ」と後ろ指をさされていた。
江戸初期には想像を絶する報傷(復讐)がありえた。たとえば、領主の苛政に対する不満が爆発し、年貢の取り立てに来た役人を殺害する事件が起きた(1609年ころ)。領主側は直ちに兵を差し向けてその村を包囲し、村人を皆殺しにした。
高松藩の2代殿様の頼常(節公)は、光圀の子だったが、水にされかけた。光圀の兄頼重(英公)の指示によって生後1ヶ月足らずで節公は京都に逃げて生きながらえた。
高松藩主として、英公と節公は、どちらも名君として定評がある。しかし、この二人のあいだには、終生、埋めることのない溝が横たわっていた。
英公は隠居してもなお、あまりに不遜で気ままに振る舞い、節公にはそれが気に入らなかった。そして、節公には、その息子に無関心で冷淡だった。
節公の子を流した家臣は徹底してイジメられた。ひそかに養育することを内心では期待していたのに、指示された言葉どおりに赤児を殺したことを命じた殿様(節公)は許せなかった。
こりゃあ、たまりませんね、家臣の身からすると・・・。
いやはや、江戸時代の殿様も大変だったんですね。しみじみそう思いました。
(2018年9月刊。2000円+税)
2019年2月13日
村役人のお仕事
(霧山昴)
著者 山﨑 善弘 、 出版 東京堂出版
徳川社会は、村を基盤とした兵農分離の社会であり、村の運営は村役人らによって支えられる傾向が非常に強かった。
徳川社会を構成している最大の要素は村だった。その構成員の大半が百姓で、全人口の8割前後。支配者である武士は1割以下。
全国の村の数は、元禄10年(1697年)の時点で6万3千ほど。
領主は名主を中心とした村役人を通じて間接的に百姓を支配する方法をとった。幕藩領主は、村役人に村政を代行させることで、全国6万3千の村々を掌握し、百姓を支配した。
村の総括責任者は名主(なぬし)。地域によっては、庄屋あるいは肝煎(きもいり)。
名主は家格にもとづき領主によって任命されることが多く、百姓たちの推薦があるときでも、領主の許可が必要だった。
組頭(くみがしら)は、百姓の推薦や入札(いれふだ)で選任されるのが一般的だったが、この場合も領主による許可を必要とした。百姓代の選任方法は、百姓の推薦が一般的だった。
村は自治の単位であり、村役人がその先頭に立っていたことは事実だったが、村は幕藩領主によって支配の単位とされ、村役人はその内部で領主支配を実現する任にあたっていた。
村役人のうち、ときに重要な立場にあったのは名主で、名主は村の政治と自治の両方を担う存在だった。つまり、名主は村の行政官であるとともに村の代表者でもあった。
庄屋は村民の一員として公認され、村政を委任されていた。
村民は庄屋を、あくまで彼らの一員として公認し、村政を委任する形をとることによって、自分たちの代表者としてとらえ返した。
名主を中心として不断に働く村の自治に依拠することで、幕藩領主は村の支配も円滑に行うことができた。前者(村の自治)が後者(村の支配)を補完していた。
一般百姓が選挙によって名主を選んだことから、名主が村の代表者として位置づけられていたことは明らかだ。
年貢の徴集と上納は、名主の仕事のなかで、もっとも重視されていた。年貢や諸役などを村に上納させる制度を「村請(むらうけ)制」と呼び、その中心的役割は名主が担った。
名主は、ほとんど名誉職のようなものだった。
江戸時代、百姓はきちんと休んでいた。ただし、百姓の休日は全国共通ではなかった。徳川時代の百姓の休日は村ごとに決められていた。
徳川時代の後期には、商品・貨幣経済の進展によって農村内にも華美な風俗が浸透していった。そして、貧富の差が拡大した。
名主の仕事は、税務・警察・裁判などに及ぶ幅広いもの。徴税を行い、治安の維持に携わり、裁判権がなくても村の紛争解決にあたった。
大庄屋は、庄屋の上意に位置する村役人だった。大庄屋は村役人であり、百姓から任命された。自治を行うような性格(惣代性)はもたず、もっぱら藩権力の領内支配を担う藩役人的存在だった。
村の構成そして自治の実際を知ることが出来る、面白い本でした。
(2018年11月刊。2200円+税)
2019年1月27日
大名権力の法と裁判
(霧山昴)
著者 藩法研究会 、 出版 創文社
江戸時代の藩政において法令がどのように機能していたのか、学者の皆さんが、それぞれの研究成果を発表した論文集から成る本です。主として刑罰法規とその運用状況が語られています。私の関心は民事、とりわけ分散にありましたので、それを紹介します。
分散とは、今でいう破産のことです。
元禄期の岡山藩における分散の実情が紹介されています。
分散の開始にさいしては、債権者と債務者の同意が要件であった。債権者が債務者を破産させて債務を弁済させるのと、債務者が破産を申立てて債務を弁済するのと、二つあった。つまり、債権者申立の破産と自己破産の二つがあったわけです。
債権者が分散によって決着したので、「以後申分無之」と確言したときには、たとえ債権者は僅少の弁済しか得られなかったとしても、それで満足し、今後は債務者に対して弁済を請求しないと保証したことを意味する。
分散は、身代のつぶれた債務者に対する債権者の温情による債務処理という側面をもっていた。つまり、分散によって債権者は、早期に弁済を得られるが、僅少の弁済額で満足せざるをえない危険を負担し、他方、債務者は、今後債務を弁済する責任を免除された。このように、分散は、いわば経済的に破綻した債務者に対する債権者の温情による債務処理でもあった。
江戸時代にも破産手続というべき分散の手続があり、それなりに合理的な手続だったことが理解できました。
(2007年2月刊。8000円+税)
2019年1月26日
大名絵師、写楽
(霧山昴)
著者 野口 卓 、 出版 新潮社
東洲斎写楽の役者絵は、いつ見てもすごいです。圧倒されます。目が生きています。見事な人物描写です。
写楽絵が登場したのは寛政6年(1794年)のこと。フランス革命(1789年)の直後になります。この皐月興行で役者の黒雲母(くろきら)摺(ず)り大判大首絵を28枚、続く盆興行、顔見世興行と多量に出し、翌年の初春興行では少し出しただけで、それきり跡形もなく消えてしまった。だから、今なお、写楽とは誰なのか、その正体を究めようという人々がいる・・・。
いえいえ、写楽は、阿波つまり徳島の能役者で斎藤十郎兵衛だと決まっているじゃないか。私も、実はそう考えていました。
ところが、この本は、いやいやそうじゃないんだ、実は写楽は徳島藩主になった佐竹重喜(しげよし)なのだ、その正体を隠すために二重三重のトリックを使ったという展開の本です。
小説なので、どれほど史実にもとづいているのか私には分かりませんが、その展開はとても面白いものがありました。
写楽こと重喜は、徳島藩主になってからあれこれ藩政を改革しようとし、家臣内の猛反発を受けて失脚してしまうのです。藩政よろしからずと幕府に隠居を命じられたのでした。32歳で徳島藩の江戸屋敷、そして徳島の大谷別邸で暮らすようになった。
重喜は狩野派に学んだうえ、平賀源内から蘭画の手ほどきを受けた。
喜多川歌麿、葛飾北斎、司馬江漢、円山広挙、谷文晁そして山東京伝など、そうそうたる絵師がいるころのこと。
大谷公蜂須賀公重喜候を連想させない名前として東洲斎写楽が考案された。
そして、役者の錦絵を描かせて売り出すのは、蔦屋(つたや)重三郎だった。重三郎は耕書堂という屋号で版元を営んでいた。徳島藩の現藩主は重喜の息子。前藩主が徳島を出て勝手に江戸に移り住んでいることが発覚すると幕府当局から厳しくとがめられる危険がある。したがって、すべては隠密に事を運ばなければいけなかった。
絵師の世界、そのすごさが活写され、よくよく伝わってきます。電車の往復で読了し、幸せな気分になりました。
(2018年9月刊。1900円+税)
2019年1月20日
男たちの船出
(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版 光文社
圧倒的な迫力があります。喫茶店で、いつものように原稿を書いていて、ちょっと頭休めのつもりで読みはじめたら、もう止まりませんでした。いえ、この先どういう展開になるのか、それを知りたくて、ついつい頁をめくってしまうのです。ついに、トイレに行くのまでガマンして、身動きすらせずに読みふけって読了してしまいました。
千石船づくりに果敢に挑戦する船大工の父子の話です。ところが荒波にもまれて、船は次々に難破して、手だれの船大工たちが亡くなっていくのです。
佐渡ヶ島に渡って、そこで荒波とたたかいながら千石船づくりに挑戦します。ようやく成功したかと思うと、荒波の脅威の前に船は沈没し、命がけで挑んだ若き船大工は命を落とすのです。さあ、次は、父親の出番。もう引退しようと思っていた父親がカムバックして、見事に千石船を誕生することができるのか・・・。手に汗握る、息もつかさない展開です。
同じ著者の『巨鯨の海』もすごい迫力の漁師の話でしたが、負けるとも劣りません。思わず数えてみると、書棚に著者の本が13冊並んでいます。ですから、この本は14冊目に読んだ本でした。プロの筆力のすごさを実感させられます。
「神仏には病魔退散を願うだけにしろ。船づくり(船大工)は神仏に頼ったら駄目だ。頼ったら最後、詰めが甘くなり、いい船は造れなくなる」
なるほどですね。苦しいときの神頼みもほどほどにすべきのようです。
弁財船とは物資の輸送に使われる大型の木造帆船のこと。北前船(きたまえぶね)、菱垣廻船(ひがきかいせん)、樽廻船(たるかいせん)は、それぞれ航路、形態、積み荷からそう呼ばれていっただけで、すべて弁財船。
弁財船が抱えるもっとも大きな問題は、舵(かじ)やそれを収納する外艫(そとども)にあった。弁財船の本体はきわめて堅牢な構造で、岩礁にでも衝突しない限り壊れるものではない。だが、舵と外艫だけでは弱かった。舵は船尾から直下に長く延びており、複雑な構造をしているので、海が荒れると壊れやすく、また流木や鯨が直撃しただけで折れることもある。これまで難破した弁財船の大半は、舵と外艫に何らかの損傷を受けたことが原因だった。
「つかし」とは、航行もままならないほどの暴風に出あったとき、帆を下げて「垂らし錨(いかり)」を下ろし、大きな船首を風上に向けて暴風が去るのを待つという暴風圏での対処法のこと。
塩飽(しあく)には死米定(しにまいさだめ)がある。海の事故で亡くなった者の遺族に、定期的に米が支給されるという一種の保障制度のこと。
元禄時代、塩飽所属の船は427隻、船手衆は3460人を数え、3万石の大名と同等の動員力をもっていた。
和船造りは、航の設置から始まる。航は洋船の竜骨と同じ役割を果たす船の大黒柱のようなもので、和船の航は幅広の厚板となる。工程は、主に大板を組み合わせていくことですすむので、これを「大板造り」と呼ぶ。そのなかでもとくに重要なのは、「はぎ合わせ」と「摺合せ」で、ここに大工の技量が問われる。
「はぎ合わせ」とは、何枚もの板をはぎ合わせて大板を造り出す技術のこと。船の需要が増して巨材の入手が困難となったために発達してきた。
「摺合せ」とは、航、根棚、中棚、上棚などの大板どうしを組み上げていく際に、縫釘を打つ前に隙間なく調整する作業のこと。
この小説には異例なあとがきがあります。次のように書かれています。
「本作は、事前に読書会を開催し、ご参加いただいた方々のご意見をできる限り反映しました」
そのうえで参考文献も明記されています。
まあ、それにしても登場人物の性格描写といい、情景の書きあらわしかたといい、頁をめくる手に思わず力が入ってしまうほどのすごさです。新年早々、心おどる小説に出会えたことに感謝します。
(2018年10月刊。1800円+税)
2019年1月19日
「アメリカ彦蔵自伝1」
(霧山昴)
著者 ジョゼフ・ヒコ 、 出版 平凡社
著者は1873年(天保8年)生まれ、太平洋を漂流し、助けられてアメリカで国籍もとって幕末の日本に通訳としてやってきました。
1862年(文久2年)に刊行した『漂流記』は、江戸時代としては唯一の漂流記でした。
この本を読むと、意外にも多くの日本人が漂流してアメリカの地を踏んでいます。
生地は播磨国の宮古村(兵庫県加古郡播磨町)。
彦蔵は、アメリカで14代の大統領フランクリン・ピアースに会見したうえ、暗殺前のリンカーン大統領にも会っています。
イギリス領事(あとで公使)のオールコック(当時50歳)とも面識がありました。
彦蔵は、日本では、アメリカ市民として行動していました。久しぶりに実兄と再会したとき、兄は疑っていたのでした。そこで、彦蔵が町内の誰彼の名前をあげて、いろいろ尋ねたことから、ようやく本当に自分の弟だと納得したのです。
「とうとう、うれしそうなほほえみが兄の顔にひろがり、口もとがほころび、ついに兄はわっと泣き出し、大粒の涙が頬を流れ落ちた。もう、二人のどちらも、ことばも出なかった」
幕末の日本は殺伐としていました。暗殺が続きます。ついに桜田門外の変が起きて、井伊直弼が暗殺されます。井伊大老のことを彦蔵は「摂政」と呼んでいます。
そして、そのころアメリカでは南北戦争が展開中でした。日本では、生麦事件のあとイギリス艦隊が鹿児島を砲撃し、また、連合艦隊が長州藩を下関で壊滅させます。
日本人でありながらアメリカ国籍をとって日本に戻り、通訳そして実業家として活躍した人物の目を通して幕末の世相が語られています。大変興味深く読みました。
(2003年9月刊。3400円+税)
2019年1月18日
日光の司法
(霧山昴)
著者 竹末 広美 、 出版 ずいそうしゃ新書
「百姓は菜種(なたね)きらすな、公事(くじ。訴訟)するな」
という呼びかけが近世の村社会で叫ばれました。
ということは、それだけ実は裁判が多かったということです。
当事者は、勝つか負けるかの必死の請願・訴訟を展開した。日光宿は、そんな人々を助け、また円滑な「御用」の処理のために奉行所と村人の間にあって活躍した。
日光奉行の職務の一つに公事(くじ)訴訟があった。江戸時代、争論や訴訟といった「公事止入」は、村の秩序を維持するうえで、戒めるべき行為だった。身をもちくずし貧乏になる原因の一つとして、「公事好み」(訴訟を好むこと)があげられた。
しかし、実態は、地境や入会地・用水をめぐる村内の争いや村と村の争論、あるいは私人間の金銭貸借訴訟など、領主や村役人層が、公事出入の非を百姓たちに絶えず、説きあかさなければいけないほど、公事出入は発生していた。
日光には、日光目代(もくだい)や日光奉行と深く関わりあい、「日光宿」(にっこうやど)と呼ばれて活動した公事宿が3軒ないし6軒ほど存在していた。
公事宿の活動を今に伝える史料として済口証文(すみくちしょうもん。和解調書)と、願書が残っている。
日光宿は、謝礼を受けて、訴訟になれていない者たちの訴訟行為を助けた。目安や願書等の文書を作成したり、訴訟に必要な知識・技術を提供した。ときには、本来、差添人(介添人)となるべき町村役人とともに奉行所まで行き、白州にのぞんだ。
江戸時代、幕府・領主は、訴訟ができるかぎり当事者の自発的な内済(ないさい。示談・和解)によって決着させる方針だった。これは日光目代・日光奉行も同じで、この内済を扱う人を「扱人」(あつかいにん)とか「内済人」と呼んだ。日光領では、日光宿も有力名主や年寄と並んで扱人となっていた。
尋問や命令の伝達のため役所へ出頭を命ずる差紙(さしがみ。召喚状)を、日光宿も日光奉行所から当事者ないし関係人に送達した。すなわち、日光宿は、日光奉行所やその関係役所の上意下達の伝達期間として機能し、下役的役割を担っていた。
著者は日光高校の教員です。とても分かりやすく、日光奉行所の活動の全貌を理解できました。昔から日本人は訴訟嫌いどころか、訴訟大好きだったことがよく分かる本です。
(2001年4月刊。1000円+税)