弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2018年3月17日
写真で読む三くだり半
写真で読む三くだり半
(霧山昴)
著者 高木 侃 、 出版 日本経済評論社
江戸時代、夫は自分勝手な理由で妻と離婚して家から追い出すことが出来た。これがかつての確立した通説でした。しかし、今は著者の長年の研究成果によって、これは間違いだとされています。この点は今では高校の教科書にも反映されています。
江戸時代の女性の地位は、これまで考えられていたほど低いものではなかった。「三下り半」(みくだりはん)は、妻にとっての再婚許可状だった。
「三くだり半」が夫の妻権離婚を示すものというのは、まったくの誤解なのです。むしろ、江戸時代の日本女性は亭主を尻に敷いていたことは、当時の世相をあからさまに明らかにした『世事見聞録』によっても明らかです。
また、明治になってからも、女性は自由に離婚・再婚を繰り返していました。これは、戦前の熊本県で民俗調査をしたアメリカ人学者夫妻が実証しています(『須恵村の女たち』)。
離縁状(離婚のときの「三下り半」)が3行半になっているのは、中国の離縁状の模倣であるというのが著者の見解です。
「勝手につき」とあるのは、妻に責任がないこと、妻の無責性を表明しているだけのこと。妻に落ち度があったとしても、それを言わずに自ら(夫)が悪い、責任があると表明した。これによって、男性は男子の面目を施した。つまり、夫権優位の名目(タテマエ)を保ったのである。
妻から離婚を請求したときは、妻のほうが趣意金(慰謝料)を支払う必要がある。なお、妻の残余の財産は返還された。
朱肉は当時、ほとんど使われていなかった。堺と江戸・京都に朱座が設置され、朱と朱墨を独占的に販売している権利を幕府から認められていた。
妻が前夫から離縁状をもらわず再婚したら刑罰が科せられた。離縁状なく再婚した妻は、髪を剃り親元に帰された。また、夫のほうも離縁状を前妻に渡さずに後妻を迎えると、「所払」(ところばらい)の刑罰が科せられた。
著者の収集した離縁状が100枚もの写真つきで紹介され、詳しい解説があります。ひょっとして江戸時代は今よりも自由に離婚していたのでは・・・。そう今の私は考えています。少なくとも誤解しないようにしたいものです。
(2017年10月刊。3200円+税)
2018年3月11日
牛天神(うしてんじん)
著者 山本 一力 、 出版 文芸春秋
団塊世代で、私と同年生まれの著者の本は、いつ読んでも素晴らしく、江戸情緒あふれる一力(いちりき)ワールドにぐいぐいと引きずり込まれ、その心地よさがたまりません。必ず人情味ある人物が登場してきて、ほっと救われるのです。
殺人事件が起きるのではありません。商売上のいざこざをうまく解決していくのです。
時代は老中田沼意次(おきつぐ)の時代のあと。松平定信の安政の改革で棄捐令が発布され、江戸の景気が一気に冷え込んでいくなかで、商売人同士が蹴落としあうのではなく、なんとかお金がまわるように工夫し、しのいでいく様子が描かれています。
神田川、柳橋そして深川という地名が舞台です。質屋、損料屋、料亭など、たっぷり江戸の人情話を堪能できました。
この本の最後に、「オール読書」に2012年5月号から2017年8月号まで足かけ5年の連載とあるのを見て、小説家の息の長さに驚嘆しました。
(2018年1月刊。1700円+税)
2018年2月 4日
守教(下)
(霧山昴)
著者 帚木 蓮生 、 出版 新潮社
話は、いよいよ佳境に入ります。
広大な筑後平野のなかの一つの村でしかない今村に江戸時代を通じてカクレキリシタンが一村丸ごと残ることができた不思議が解明されていきます。
信者を率いるリーダーが自己犠牲となり、信者たちは殉教しないで信じる道を行くことにし、村の寺院も藩当局も表向きの棄教を真に受けたふりをしていく・・・。なぜなら、彼ら村民は、いかにも真面目な農民であるため、彼らを根絶やししてしまえば領内統治の基礎がなくなってしまうからです。
しかし、それにしても棄教を迫る残虐さは目を覆いたくなります。そのため、いかにも強い信念をもつ外国人神父ですら、例外的に棄教する人が何人か出てしまったのでした。その点、殉教を避けた今村の村民たちは賢明だったということになります。
有馬豊氏公が願っているのは、城下の繁栄と百姓の保護。城は二の次。町人百姓の繁昌こそが城。領内から百姓が逐電すれば、家臣をふくめて領民すべてがくたびれてしまう。要するに、百姓に逃げられては、公儀は立ちゆかない。真面目に田畑の仕事に精を出し、物成(ものなり)をきちんと納める百姓は宝物なので、本当は信仰を捨てていないと思われても、お上は黙認していた。そして、村のほうでも異教徒は誰ひとり村内に入れないようにした。これで信仰が保たれた。
今村では、男女とも20歳になると嫁婿選びが始まる。もちろん相手はイエズス教の信徒でなければならない。しかも、同じ血族で四親等以内の同族同士の結婚は禁止。そこで他村に残っている信徒から嫁を迎えたり、婿入りするほうが好まれた。そして、庄屋が、イエズス教の信徒の心得を言い聞かせる。
今村のカクレキリシタンの存続を小説化したものとして、記録されるべき本だと私は思いました。
(2017年9月刊。1600円+税)
2018年1月20日
守教(上)
(霧山昴)
著者 帚木蓬生 、 出版 新潮社
この本のオビには、「戦国期から開国まで。無視されてきたキリシタン通史」と書かれています。まだ上巻を読んだだけですから、本当は下巻まで通読したあとに言ったほうがいいと思いますが、筑後平野のド真ん中に隠れキリシタンの集落があったことを私が知ったのは古いことではありません。今から10年ほど前のことです。
2年ほど前、今村天主堂を見学してきました。壮厳としか言いようのない見事な天主堂が見渡す限りの平野にそびえ建っているのは何とも不思議なことだとしか言いようがありません。厳しかったはずのキリシタン禁圧を江戸時代を通じて一村丸ごとはねのけてきたというのですから、信じられません。
離れ小島なんかではありません。どこまでも田圃が続く筑後平野のなかで、ある村落だけがまとまって隠れキリシタンとして親子何代にもわたって続いてきたというのです。今でも今村天主堂の周辺はキリスト教信者が圧倒的に多いとのこと。驚くばかりです。
なぜ、そんなことが可能だったのか・・・。いろんな説があるようですが。私は、藩当局も結局のところ見て見ぬ振りをしていたのではないかという説に賛同します。要するに表向きは仏教徒だということになっていて、真面目に農業を営み、藩政に反抗するわけでもないので、万一、摘発して根絶やししてしまったら、あとの補充が大変だし、藩の失政として江戸幕府より厳しく責任追及されるのを避けたかった・・・。私は、このように考えます。
この本は、戦国時代、カトリックの神父たちが次々に布教目的で来日して、苦労しながら信者を増やしていく努力の過程を丁寧に再現しています。信者を増やすには、領主を信者にするのが早道です。でも、領主も従来の仏教寺院とのつながりがありますし、容易なことでは獲得できません。
上巻では大友宗麟(そうりん)をめぐる状況に重きを置いて話が展開していきます。キリシタン禁圧が始まり、どんどん厳しさを増していきます。信者たち、神父たちの運命やいかに・・・。下巻を早く読むことにしましょう。
(2017年9月刊。1600円+税)
2018年1月10日
貧困と自己責任の近世日本史
(霧山昴)
著者 木下 光生 、 出版 人文書院
飽食とも言われる現代日本でも餓死が現に発生しています。それも路上のホームレスではなく、自宅(アパート)での餓死です。これに対して、自己責任だとして冷たく切り捨てようとする風潮があります。年末に日比谷公園で貧困救済で「年越し派遣村」が生まれて全国的にも大きく注目されましたが、あっという間にその熱は冷めてしまいました。
貧困の公的救済に対して異様に冷たく、貧困をもたらす原因として極度に自己責任を重視するというのが社会全体の姿勢になっている。
日本では他者に対する信頼度(社会的信頼度)が先進諸国のなかで最低になっている。日本社会は、貧困の公的救済に対して世界的にみて突出した冷たさを示している。なぜなのか・・・。
本書は、文化5年(1808年)の江戸時代の奈良県(大和国吉野郡)田原村の全世帯41件についての1年間の収支報告書をこまかく分析した結果にもとづいています。それによると、村人の生活が年々貧しく(厳しく)なっていったこと、それは藩による年貢率の引き上げによるものだという通説は誤っているというのです。
この本は、「持高」つまりどれだけの石高(お米の生産量)によっては貧富かどうかは一概には決められないこと、税負担率は、世帯間で相当な落差があって、それだけでは決められないし、むしろ一般には実質税率は軽減されていたこと、村人の家計を苦しめていたのは、年貢や借金よりも、主食費や個人支出といった、自らの消費欲に左右される消費支出部分であったこと、などを明らかにしています。
年貢率は、長期的な上昇傾向をもつ村はほとんどなく、むしろ一定率で固定あるいは下降傾向にあった。平均税率は20%以下の15%未満ということもあった。こまごまとした現金収入の存在が案外、生活者にとっては大きかった。
江戸時代、苦しい生活実態にある住民の根本的な救済責任は村にあって、藩当局(ましてや江戸幕府)ではない。ということは藩による恒常的な救済活動は望むべくもない。藩による御救(おすくい)は、継続的・恒常的になされるものではないこと、このことが繰り返し明言された。
江戸時代、つまり近世日本社会における生活保障は、基本的に民間まかせであり、領主によるお救いは、はなから期待されていない。どれほど生活が困窮していたとしても、他人の施しにあずかるようなマネだけはしたくない。こんな強迫感を人々はもっていた。村人から助けてもらうと、まことに厳しい社会的制裁を受けることになった。日笠をさすな、雪踏(せった)を履くな、絹織物を着るな、などなど。
江戸時代の村社会の現実を当時の村落の住民の収支表をもとに論述されています。貴重な労作だと思いました。
(2017年10月刊。3800円+税)
2018年1月 2日
兵農分離はあったのか
(霧山昴)
著者 平井 上総 、 出版 平凡社
戦国時代、そして江戸時代、兵農分離した軍隊は、本当に強かったのか・・・。
江戸時代、儒学者の熊沢蕃山(ばんざん)は、兵農分離が兵の弱体化を招いたと考えていた。
武家奉公人の上層部分は、戦場での働きを期待される戦闘要員だった。この武家奉公人とは、武士に仕える従者であるが、二種類あって、長年主人に仕える譜代(ふだい)奉公人と、一年任期の年季(ねんき)奉公人がいた。
武田勝頼は、武田家の行く末を決める重要な戦争だからこそ、百姓を動員すると言った。これを逆に言えば、百姓の動員は恒常的にできていたのではなく、大名家の一大事に限っていたことを意味する。
戦国大名は、もともと百姓を戦闘員と見なしてはいなかった。武士と奉公人は給地をもらい、軍役を賦課されて戦闘員として働き、百姓は年貢を納めて非戦闘として陣夫役をつとめるという身分別の役割分担があった。
私はこの本を読むまで、士農工商というのは日本の江戸時代で身分の上下関係をあらわすコトバだと思っていました。ところが、実は、この士農工商というコトバは、紀元前の中国で人々のつく職業の総称として使われていて、身分の序列を表したものではなかった。うひゃあー・・・ちっとも知りませんでしたよ。
現在の日本史の教科書(山川出版社の『詳読日本史B』)でも、士農工商を江戸幕府がつくったコトバとは紹介していない。そして、江戸時代では、農工商は序列化されていなかった。
豊臣秀吉は身分法令を発したが、これは朝鮮半島へ侵略するにあたって武家奉公人の逃亡という現実的課題を早急に解決しなければならないと考えたからのこと。同じく、朝鮮への侵略のとき、加藤清正は、戦争のために奉公人を多く集めようとする一方で、逃亡や質の低下に悩まされていた。
中世後期の村では、外敵と戦うために百姓が武装することは普通だった。
江戸時代の村には、武士のもつ鉄砲より村にある鉄砲のほうが多かった。たとえば、信濃国上田藩では、村の鉄砲327挺に対して城付鉄砲は100挺だった。刀狩り政策によって民衆が武器を根こそぎ奪われたというのは間違いである。刀狩りは、すべての武器を根こそぎ奪うものではなく、戦闘できる身分としての武士・奉公人とそれ以外を区別する、帯刀権の設定をもたらす身分政策だった。
結論として、兵農分離状態の実現を目指した政策はほとんどなかったと言える。結果的には、兵農分離という状態は、近世のかなりの地域で生じたものではあったが・・・。
士農工商の実際、そして兵農分離の現実を深く掘り下げている本です。大変勉強になりました。
(2017年9月刊。1700円+税)
2017年12月15日
闘いを記憶する百姓たち
(霧山昴)
著者 八鍬 友広、 出版 吉川弘文館
百姓一揆の訴状が読み書き教材として広く普及していたというのです。驚きです。
どこかで一揆が起きて支配層への異議申立として訴状を書いた。すると、やがて我が村でも起ち上がらなければいけなくなるかもしれないので、訴状の書き方を勉強しておこうと村の主立(おもだ)ち衆が考えていたようです。
この前提として、日本の農村の多くの人が読み書きは出来るということが不可欠です。
江戸時代には読み書き計算などのような基礎的な能力が社会の中に一定の密度で分布していた。このような力量を身につけた民衆は、もはや「もの言わぬ民」などではなく、武士に対してさえ強情に「もの言う」百姓たちだった。時代劇で描かれる「悲惨な民」とは異なり、近世の百姓は、自らの利益のために積極的に訴訟を起こし、武士に対しても堂々と自己主張する存在だった。
江戸時代は、「訴訟知」を身につけた民衆が頻繁に訴訟を起こす「健訴社会」だった。
17世紀前半に起きた百姓一揆や地域間紛争のなかで作成された訴状が読み書きのための教科書になっていた。
これを目安往来物(めやすおうらいもの)という。「目安」とは、箇条書きされた訴状のこと。「往来物」とは、読み書き学習用のテキストブックのこと。「往来物」の最盛期は、じつは明治初期だった。学校制度が始まったけれど、まだ新しい教科書はなかったからだ。
寛永白岩一揆で作成された訴状を白岩目安といった。寛永10年(1633年)、出羽国村山郡白岩郷(山形県西村山郡西川町から寒河江市にかけて・・・)の百姓たちが領主の悲法を幕府へ訴えた。直訴である。租税の負担増、年貢率の上昇に不満をもった百姓たちは、保科家に騙され、36名ものリーダーが磔刑(たっけい)に処された。ただし、領主であった酒井長門守忠重も白岩郷から排除されている。
この寛永・白岩一揆は違法性が強いものであったはずなのに、その訴状は広く東北一円に流布している。
境界争論に関する目安も往来物にふくまれている。白峯(しらぶつ)鉱山目安として伝わり、広まった。
対立する村人は実力行使で争ったが、それでケリがつかなかったので、ついに幕府に訴状を提出した。
このように、文書作成上の知識は、村役人クラスの人々にとって常に必須のものだった。聖徳太子以来、日本人は裁判を好まなかったという俗説はまったくの間違いだと私は確信しています。聖徳太子は裁判が多すぎるからほどほどにしろ、仲良くしなさいと人々をさとしたのです。また、裁判官が賄賂を当然のようにもらっている風潮に対しても警告を発していました。
この本を読むと、江戸時代の人々が裁判に命をかけていたことが良く分かります。日本人は条件さえととのえば、裁判を辞さないという国民性をもっています。今のLAC利用の急増をみても、ますます確信します。
(2017年10月刊。1700円+税)
2017年11月23日
ヘンな浮世絵
(霧山昴)
著者 日野原 健司 、 出版 平凡社
歌川広重は有名ですが、その弟子に歌川広景(ひろかげ)という浮世絵師がいたって、私は初めて聞きました。
知る人ぞ知る無名の浮世絵師で、その正体は謎。広景の代表作は、「江戸名所道戯尽(どうけづくし)」。老若男女の江戸っ子たちが、江戸の名所を舞台に、笑ったり、騒いだり、転んだりと、見ているほうが思わず脱力してしまうユーモラスな姿で描かれている。さしずめ「お笑い江戸名称」と言ってよい珍品。
ばかばかしさが満載の「ヘンな浮世絵」です。ぜひ一度、手にとって眺めてみて下さい。ニンマリ、ニッコリ、ホッコリしてくること請けあいです。師匠である歌川広重、そして葛飾北斎の描いた絵を平然とパクっているというのも特色です。
この「ヘンな浮世絵」が描かれたのは幕末のころ、安政6年(1859年)から、文久元年(1861年)までの2年8ヶ月あまり。社会が大きく揺れ動いているなかでマンガみたいな浮世絵が刊行され、江戸町民の人気を集めていたのでした。
犬のケンカがあり、馬が暴れて運んでいた料理が空を飛び、トンビが油揚げをさらっていく。ナマズが蒲焼屋から脱走し、子どもが水鉄砲で遊んでいて通りかかった武士に水をかけてしまう。さらに、いろんな人がすってんころりんしている姿がユーモアたっぷりに描かれます。
東大本郷の赤門(加賀藩前田家上屋敷の御守殿門)前を、男たち3人が突然の雨で、1本の傘しかないので2人が下になって1人を肩車で担いで傘をさす姿が描かれています。ナンセンスなマンガそのものです。幕末のせちがらい世の中だったからこそ、人々はこんな笑いを求めていたのでしょうか・・・。
知っていて損はしません。江戸の人々の生きた姿を実感できる楽しい本です。
(2017年8月刊。1700円+税)
2017年11月12日
北斎漫画入門
(霧山昴)
著者 浦上 満 、 出版 文春新書
私はテレビをふだんはまったく見ませんが、出張先のホテルで見ることはあります。そのとき、たまたま北斎の「赤富士」を拡大して解説する番組がありました。もちろん北斎が素晴らしい構図の画家だということは知っていましたが、この本を読んで、改めて北斎が世界的な画家だということを再認識させられました。
1998年、アメリカの「ライフ」がこの1000年にもっとも偉大な業績をあげた世界の人物100人を特集したとき、日本人としては北斎が一人選ばれたそうです。それほど北斎は世界に影響を与えたのですね・・・。北斎は86位、ピカソは78位でした。
世界で一番有名な絵は、ダヴィンチの「モナリザ」と、北斎の「大波」だという話も紹介されています。「大波」とは北斎の「神奈川沖浪裏」という絵です。逆まく大波に船が呑み込まれそうになっていて、遠くに白雪を頂上いただく富士山が見えるという有名な絵です。その北斎による「北斎漫画」を開設した入門書です。
「北斎漫画」は江戸時代のベストセラー。1編あたり5000冊から1万冊は摺られた。
シーボルト事件で有名なシーボルトは北斎に会って、肉筆画を直接注文したとのこと。知りませんでした。同時代の人なのですね。
そして、北斎は、5回も改名していて、6つの名前をもっているのですね。また、売れっ子画家だったはずなのに貧乏暮らしだったようです。100回近くも転居していますが、要するに長屋暮らしで引っ越しするのが簡単だったからのようです。家財道具を運ぶこともなかったのです。
北斎は大胆な構図で緊張感あふれる絵を描きました。同時代の広重は、平明で穏やかな作風の絵を描いています。
「北斎漫画」は、北斎がそれを刊行しはじめたのは55歳のとき。90歳で亡くなったあとも出版は続き、明治11年に15編が刊行されて完結した。人物、動植物、風景、建築そして妖怪幽霊まで、ありとあらゆるものが描かれている。まさしく「絵で見る江戸百科」になっている。これが、イギリス、フランスに大きな影響を与えた。ゴッホも影響を受けた一人なのですね・・・。実物はともかく、もっと詳しいカラー図版を買って拝むことにしましょう。
「北斎漫画」の世界的コレクターによる手頃な入門解説書です。
(2017年10月刊。1200円+税)
2017年9月26日
武士道の精神史
(霧山昴)
著者 笠谷 和比古 、 出版 ちくま新書
頭がクラクラッとするほど面白い本です。ええっ、そうだったの・・・、と何回も心の中で叫んでしまいました。
武士道って、簡単に死ねばいいっていうものじゃないんです。必要なら主君にタテつかなければいけないし、みんなで主君を座敷牢に閉じ込めないといけないのです。その仕返しを恐れて何もしないというのは許されないのが武士道。
庶民にまで武士道は広まり、仇討ちが広まったのは江戸中期以降で、庶民までも実践していたというのです。
さらに、鹿児島での幕末の薩英戦争はイギリス艦隊の大勝利とばかり思っていましたが、違うというのです。鹿児島市街はなるほど焼け野原になったけれど、その前にイギリス艦隊は旗艦の艦長が薩軍の新式大砲の砲撃で戦死させられ、慌てて鹿児島湾から逃げ出したというのです。それは、フランス製のペキサンス砲のこと。着弾したら炸裂する強力な大砲を薩摩藩は備えていました。
230頁あまりの新書ですが、私にとっては驚きの連続というほかない内容でした。
一生懸命は、本当は一所懸命。一つの所のために命を懸けてがんばるという意味。一つの所とは「所領」のこと。父祖が命を懸けて獲得してきた所領は、命を懸けても守り抜くという意味。
『甲陽軍艦』の武士道は、戦場における勇猛果敢な振る舞い、槍働きの巧妙、卑怯未練なことなく出処進退を見事に貫くこと。そして、君主に対する忠誠。
『可笑記』では、命を惜しまないことばかりが有能な侍ではないと明言している。むしろ、人間としての「徳義」こそが重要であり、それを磨き、極着することが武士の心得だ。
『葉隠』には、ただ黙って主君に従うことが忠義ではないとしている。むしろ、即座に諫言を呈する気概と能力のある者こそが真の侍なのだ。つまり、主君に対する忠義にもグレードがある。初級とは別に高いレベルでの忠義というものがある。
『葉隠』の武士道は死ぬことが目的でもないし、死が武士の究極のありようでもない。いかにすれば、武士として理想的な「生」が得られるかが追究されている。
『葉隠』のもう一つ重要なテーマが「自由」ということ。「死の武士道」どころか、「自由の武士道」なのである。
次は米沢藩の藩主だった上杉鷹山の言葉です。
「国家人民の為に立たる君にして、君のために立たる人民には無之(これなく)候(そうろう)」
これって、まるでアメリカの人権宣言みたいですよね、たしかに・・・。
最後に、徳川時代の日本人の体格が紹介されています。徳川時代の成人男性の平均身長は150センチほど。いまの小学5年生の平均身長と同じくらい。武士はやせて貧相な人ばかりで、栄養のいい商人のほうは顔も体もふっくらしていた。
徳川綱吉は身長120センチほどで、強い劣等感が専制政治に走ったとみられている。
八代将軍の吉宗は身長180センチ。母が百姓の娘だったからではないか、というのです。いやはや、本当に世の中は知らないことだらけですね・・・。
この本を読むと、それを実感して、胸がワクワクしてきます。あなたも、どうぞご一読ください。
(2017年5月刊。800円+税)