弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2015年1月 5日
風花帖
著者 葉室 麟 、 出版 朝日新聞出版社
もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
双方とも武士の面子をかけた争いです。
江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)
2014年12月20日
鬼はもとより
著者 青山 文平 、 出版 徳間書店
江戸時代の小さな藩の財政立て直しの話です。よく出来ています。アベノミクスの失敗は明らかですが、それは弱者切り捨てまっしぐらだからです。かつての「年越し派遣村」がビッグ・ニュースになったときのような優しさが今の日本にないのは不思議なほどです。
アベノミクスは、原発・武器・カジノというのが目玉でもあります。とんでもないものばかりです。これで、子どもたちに道徳教育しようというのですから、狂っています。
藩札は、宝永4年(1707年)にいったん禁止された。その後、新井白石の改鋳があり、貨幣の量が激減し、世の中が金不足となって、享保15年(1730年)に再び許可された。
正貨と藩札を交換する札場の項では、その数や配置のみならず、用員の取るべき態度まで示され、受付の御勤めに限っては、商家に委託するとされた。
藩札の板行には、小判や秤量(ひょうりょう)銀などの正貨の裏付けが不可欠だ。
一両の小判を備え金(そなえかね)にして、三両の藩札を刷る。1万2千両を備え金にして、3万両の藩札を刷る。それだけの正貨があれば、いつ、藩札を正貨へ変えてくれと言われても応じることができる。換金さえ約束されたら、紙の金でも立派に貨幣として通用する。
藩札板行を成功させるカギは、札元の選定や備え金の確保といった技ではない。藩札板行を進める者の覚悟だ。命を賭す腹がすわっていなければならない。
藩札は専用の厚紙でつくり、偽札を防ぐために透かしを入れる。紙の厚い、薄い差を使って絵を描く。偽造防止の手立ては、透かしだけではない。複雑な文様のなかには、市井のものには字とは見分けられない梵字や神代文字がさまざまに組み込まれている。このありかを知らないと、同じ文様のようでもずい分と違ってくる。一枚一枚では分からなくても、多くを集めると、誰の目にも明らかなほどの違いが生じてくる。
藩札の十割刷りを強行した藩は一揆を招いて、結局、幕府から改易処分を受けて、藩そのものが滅亡した。別の小藩では、強力な藩札によって、他国に負けない強力な特産物を育て、藩が一手に買い上げて領外に売る。その代金は正貨で受けとる。これで藩は丸もうけとなる。
では、何を特産物とするか・・・。浦賀に、魚油と〆粕、大豆を送ってもうけるという。
この商法を藩内に定着させるために取られた手法に驚かされます。小説とは言え、ぐいぐいと惹きつけられるのでした。私は、出張先の鹿児島の中央駅に着いて2時間あまり、駅ビルの喫茶店で読みふけったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)
2014年11月 2日
潜伏キリシタン
著者 大橋 幸泰 、 出版 講談社選書メチエ
宗教とは何か?
「宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとってもっとも基本的な営みである」(阿満利磨)
江戸時代のキリシタンについて「隠れキリシタン」と呼ぶことが直ちに誤りだとは言えない。しかし、江戸時代はむしろ潜伏状態にあったとするのが実情にあっている。
豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月18日に「覚」11ヶ条を、翌19日に「定」5ヶ条を発令してキリシタンを制限した。ただし、秀吉はキリシタンを制限しようとはしたが、明快に禁止までは踏み込まなかった。南蛮貿易の収益が宣教活動の資金源になっていた構造からして、キリシタンを禁止すれば南蛮貿易もあきらめるしかなかったからだ。
徳川幕府になってから、慶長17年(1612年)に岡本大八事件が起きて、キリシタンがはっきり禁じられた。しかし、これで全国一律にキリシタン排除が進んだのではない。幕府は、具体的なキリシタン禁制の方法を示さなかった、というより、示さなかった。
なぜなら、近世期キリシタンをあぶり出すための制度として有効に機能した寺請を一律に実施するための条件が、この17世紀前期では、まだ整っていなかったから。村社会の寺院の成立と百姓の家の自立という二つの条件が整うのは、7世紀中後期のことである。
キリシタンについて、伴天連門徒と表記されていたのが、「切支丹」とされたのは1640年代から。それは、1637年(寛永14年)の島原天草一揆を契機としている。
島原天草一揆は、近年は宗教戦争とみる方が有力である。
一揆勢は、混成集団だった。キリシタンの神戚のもとに、混成集団としての一揆勢は、正当性を帯びた集団となって幕藩権力に抵抗した。一揆指導者は混成集団であること自体を否定し、最後までキリシタンとして命運を決することを表明した。
近世人にとって、一揆とは、島原天草一揆のことをイメージした。
寛政期(1800年ころ)は、潜伏キリシタン集団として存在するなかではないかと疑われる事件が起こり始める時期でもある。
島原天草一揆の強烈な記憶によって、「切支丹」とは世俗秩序を乱す邪教であり、一揆とは、そのような邪悪な集団を引きおこす武力蜂起であるとするイメージが定着していた。
このとき、幕府軍にも多数の犠牲者が出た。佐賀藩では、50年ごとに藩をあげての法要をしてきた。明治になってからも、250年忌法要が行われた(明治20年、1887年)。このとき、戦死者の子孫は藩主に拝謁を許されたあと、料理と酒をふるまわれた。
こうして、「切支丹」は、常に島原天草一揆とセットでイメージされた。
「切支丹」は、18世紀以降、そのイメージの貧困化にともない、怪しげなものを批判するときの呼称として使われるようになった。潜伏キリシタンも村請制のもとに組織された生活共同体としての村社会の一員だった。
一村丸ごと信徒であったというのではなく、信徒と非信徒とが混在していた。彼らは信徒としてコンフラリアという信仰共同体の一員であるとともに、村請制のもとに運営される近世村落という生活共同体の一員でもあった。
潜伏キリシタンが特別に極貧であったとは言えない。村の機能の停止は、キリシタンはもちろん非キリシタンにとっても死活問題であったから、村社会という枠組みと維持するためにも、キリシタンは放っておかれたのが実際だろう。
村社会において、キリシタンが存在することは明白のことであったが、世俗秩序を維持するためにキリシタンの存在は許容されていた。
江戸時代の潜伏キリシタンは、実のところ、模範的な百姓として許容されていたから、明治まで生き延びることができた。
それにしても、よく調べてあり、とても納得させられる本でした。明治時代の「カクレキリシタン」とあわせて、ご一読ください。日本人の心を知ることができます。
(2014年5月刊。1650円+税)
2014年11月 1日
天の星、地に花
著者 帚木 蓮生 、 出版 集英社
久留米版では江戸時代に何回か目ざましい大一揆が起きています。
享保13年(1728年)と宝暦4年(1754年)の2回です。
1回目の享保13年のときは藩当局の年貢の引き上げが撤回され、家老は閉居を命じられ、奉行が切腹させられた。しかし、百姓のほうは一人に犠牲も出さなかった。
ところが、宝暦4年のほうは、3万人もの百姓が立ち上がって要求を貫徹したものの、その後の藩当局の巻き返しによって、1回目の死罪は18人、そして2回目は19人が死罪となった。死罪となったなかに、1回目に大庄屋が一人と庄屋が3人、2回目にも庄屋が2人ふくまれていた。
この本は、大庄屋の息子と生まれて病気(疱瘡)のあと医師となって村人の生命・健康をたすけた高松凌水を主人公としています。
貴賤貧富にかかわらず、診察には丁寧、反復、婆心を尽くせ。医師たるもの、済世救苦を使命とせよ。
弁護士生活40年の私にも反省を迫る言葉です。日頃、ともすれば、能率と効率に走りがちになるからです。
一回目の享保の一揆をおさめた家老の稲次因幡が床の間に飾っていた掛け軸の言葉は
天に星、地に花、人々に慈愛
だった。
3万人が筑後川の河原に集結したという久留米藩大一揆については、いくつか紹介する本もありますが、専門的な文献は乏しいような気がします(あったら、ぜひ教えてください)。その中で、この本は、医師の目を通して、当時の農村部の生活を描きつつ、人生を生きる意義を問いかける本となっています。
600頁の本です。じっくり味わいながら読みとおし、胸の奥にほのかに明るさと暖かさを感じることが出来ました。この著者の本は、いつもいいですね・・・。
(2014年8月刊。1900円+税)
2014年10月19日
幕末維新の漢詩
著者 林田 愼之助 、 出版 筑摩選書
幕末の志士たちが、見事な漢詩をつくっていたことを紹介した本です。
江戸時代は、漢詩が本格的に成熟をみせた時期である。
平安時代には、嵯峨天皇や菅原道真などの漢詩人がいるが、まだ唐詩の模倣段階にあった。室町時代には、宋(中国)からの帰国僧、絶海中津、義同周信などのすぐれた漢詩人が登場するが、禅風詩が多かった。
徳川幕府は朱子学を政道の基本にすえたので、武士階級の教養として、漢学、儒教の学を修得することが不可欠となった。その一環として漢詩をつくるのが、ごく普通のこととなった。
文人が誕生し、自律した存在となり、武士だけでなく富裕な商人層にも普及した。
漢詩についても、格調主義から、自由で砕けた宋代風の詩風が流行した。漢学的なものに反旗を翻す専門的な詩人・文人が相次いだ。幕末になると、倒幕に動く憂国の志士たちが、さかんに時世を慷慨(こうがい)する詩をつくった。
佐久間象山(しょうざん)、藤田東湖(とうこ)、吉田松陰、橋本左内(さない)、高杉晋作、西郷隆盛らは、折につけ浮沈する思いや感慨を、多くの漢詩に託している。その詩の出来栄えは、江戸期の専門的な漢詩人にくらべて、少なくとも見劣りしない詩的力量を発揮している。
人間 到処 有青山
(じんかん、いたるところ、せいざんあり)
山口県生まれの僧、月性の有名な漢詩の一節です。
「人間」は、中国風に「じんかん」と読むのが漢詩文の常識で、世の中、世間という意味。
詩をつくる人は温潤で、詩を好まない人は刻薄である。詩は、もともと情より出ずるもので、詩を好まない人は、情が稀薄である。
西郷隆盛が西南の役で敗れ、ふるさとの城山で自刃する直前につくった漢詩がある。
尽日 洞中 棋響 閑
(じんじつ、どうちゅう、ききょう、のどかなるを)
日がな一日、この洞窟の中で碁を囲み、その音が響くなかで、のどかに暮らしていることだ。
洞窟のなかで、死の寸前まで隆盛は囲碁をしていたというのです。これには驚きました。
竹角一声響
指揮非有人
弱氓皆猛虎
潤屋乍微塵
酷吏空懐手
姦商僅挺身
撫御誰違道
乱党本良民
これは山田方谷が体験した松山藩内に起きた百姓一揆のありさまを詠じたものです。
一揆にたちあがった農民は善良な民である。政治が道を間違えているのだと、方谷は百姓一揆を詠じて、はっきりと政治の疲弊を断罪している。
幕末の志士たちの教養の深さに感服しました。
(2014年7月刊。1700円+税)
2014年7月13日
浮世絵に見る江戸の食卓
著者 林 綾野 、 出版 美術出版社
浮世絵に描かれている江戸の人々の食べているものが紹介されています。同じものが、現代の日本の料理として写真で紹介されていて、比較できるのです。どちらも食指を動かす秀れものでした。
ガラスのすのこの上にもられた紅白の刺身が描かれています。うひゃあ、ガラスのすのこって、江戸時代にもあったのですね・・・。
江戸前ウナギを女性が食べようとしている浮世絵があります。「江戸前」とは、隅田川や深川でとれたウナギのことを言い、江戸の外でとれたウナギは「旅うなぎ」と呼ばれた。
江戸のうなぎは、背中から開き、蒸してからタレをつけて焼く。身はふんわりとやわらかく、外は香ばしく仕上げるのが江戸流だ。
今まさに串に刺したエビの天ぷらを食べようとする女性が描かれています。
天ぷらは、江戸の屋台料理の定番だった。火事の多い江戸では、室内で油を使うことが禁じられていたため、天ぷらはまず屋台で普及し、値段も安かった。そのうち、天ぷらは屋台だけでなく、料理店でも供されるようになった。
5月になると、初鰹(かつお)。江戸っ子の初夏の楽しみの一つだった。初物を食べれば、寿命が75日のびると言われ、粋な江戸っ子は、いくらか無理してでも初物を買い求めた。
江戸の人々も猪や鹿などの獣肉を食べていた。ただし、「山くじら」と呼び、それを食べさせる店は「ももんじゃ」と呼んだ。
江戸の豆腐は、堅く、しっかりしていた。江戸っ子にとって、茄子(ナス)は身近で、かつ愛された野菜であった。
幕府は、ナスやキュウリなどの促成栽培を幕府はたびたび禁止した。野菜の価格高騰を恐れてのこと。
毎年夏、本郷にあった加賀屋敷の氷室(ひむろ)から、将軍に雪を献上する儀式があった。
芝居が始まるのは午前6時のころで、終演は夕方5時ころ。土間に座る客を「かべすの客」と呼んだ。
江戸時代の人々とがたくましく生き抜いていたこと、美味しく食べるのを好んでいた点は現代日本と変わらないことなどを知ることができました。それにしても、浮世絵って、まるでカラー写真のようですね。
(2014年3月刊。2000円+税)
2014年7月 9日
本当はひどかった昔の日本
著者 大塚 ひかり 、 出版 新潮社
現代日本では、若い母親によるネグレクト(育児放棄)による子どもの死亡事故が起きると、昔なら考えられないこととして、世論が一斉にけたたましい非難をその母親に浴びせかけるという現象が生まれます。
でも、本当に昔の日本は全員、みながみな子どもを大切に育てていた、幸せそのものの社会だったのか・・・。著者は古典の文献をふくめて、そうではなかったことを実証しています。
私も、弁護士生活40年の体験をもとに、その指摘には、大いに共感を覚えます。
平安のはじめに書かれた『日本霊異記』には、男遊びに精を出す若い母親が子どもらを放置し、乳を与えず、飢えさせた話がある。
子どもは親の所有物という意識の強かった昔は、捨て子や育児放棄は、現代とは比べものにならないほど多かった。
捨て子は珍しくなく、犬に食われてしまう運命にあると世間は考えていた。捨て子が取締の対象になるのは、江戸時代も五代将軍綱吉の時代からのこと。
五月生まれの子は親にとって不吉。旧五月は、いまの六月にあたり、梅雨時。五月は「五月忌」(さつきいみ)といって、結婚を避ける風習のある「悪月」だった。
明治12年(1879年)の捨て子は5000人以上、今(2003年)は、67人ほどでしかない。
中世の村落は、捨て子だけでなく、乞食も養っていた。これは、いざというときの保険の意味があった。何かのとき、「身代わり」として差し出した。
乳幼児の死亡率の高さを利用して、もらい子を飢えさせておきながら、病死したと偽る悪徳乳母が江戸時代にもいた。
江戸時代には、離婚も再婚も多かった。日本にキリスト教が入ってきたとき、離婚を禁じられたが、当時の日本人には納得できないことだった。
『東海道中膝栗毛』の祢次さんと喜多さんはゲイのカップルだった。えーっ、そ、それは知りませんでした・・・。
安土桃山時代の日本では、犬を「家庭薬として」食べていたそうです。宣教師フロイスの報告書にあります。
猫が網から解き放たれたのは、江戸時代に入ってからのこと。
たしかに昔を手放して美化するわけにはいかないものだと思いました。それでも、人と人との結びつきがきつく、また温かいものがあったこともまた間違いないことでしょうね。それが、現代ではスマホにみられるように、とても表面的な、通りいっぺんのものになってしまっている気がします。
(2014年1月刊。1300円+税)
2014年6月29日
銀二貫
著者 髙田 郁 、 出版 幻冬舎文庫
江戸時代の大坂を舞台にした、味わい深い市井(しせい)小説です。
ちなみに、市井(しせい)とは、辞書によると、昔、中国で、井戸のあるところに人が集まって市ができたことから、人家の集まっているところ、まち、ちまたを言うとされています。
悪人は出てきませんが、寂しさから主人公に辛く当たってしまう番頭は存在します。といっても、根っからの悪人ではありません。
主人公は武士の子なのですが、10歳のとき、目の前で父親が親の仇として斬殺されてしまいます。身寄りのなくなった男の子を商人が引き取り、寒天問屋に丁稚奉公させることになりました。
NHKの時代物としてテレビでシリーズ放映されたようですが、もちろん私はみていません。
武士の子から商売人に、しかも丁稚奉公からスタートするのですから、辛いことばかりだったでしょうが、そこを歯を食いしばって耐え抜くのです。そして、取引先の娘と仲良くなっていきます。とてもうまい展開です。果たして、この先はどうなるのか、頁をめくるのがもどかしい思いに駆られます。地下街の喫茶店で読みふけったのですが、コーヒーを飲むために手を伸ばすのも惜しいほどでした。
そして、主人公には次々に不幸が襲いかかってくるのです。大坂も、江戸と同じで、何度も大火事に見舞われてしまいます。ちなみに、大阪ではなく、大坂でした。
「遊んでもらっていた」女の子も消息を絶ち、再びあらわれたときには、顔に火傷をしていました。
いやはや、このあと、いったいどうなるのでしょう・・・。
そして、寒天問屋のほうも、思わしくありません。主人公は寒天をつくる現場に行って修行します。そして、新製品づくりに挑戦するのです。
喫茶店で読み終えたときには、心の中が、ほんわか、ほっこり温まっていました。
強くおすすめしたい江戸時代小説です。それにしても、タイトルがいいですね。読んでいくうちに、内容にぴったりだということが分かります。
(2013年7月刊。600円+税)
2014年5月25日
立身いたしたく候
著者 梶 よう子 、 出版 講談社
江戸時代も終わりのころ、武士の世界も大変でした。
上司によるいじめ(パワハラ)、うつ(ひきこもり)、猛烈な就活競争など、まるで現代日本と似たような状況もありました。
そして、商家の五男が武家(御家人です)に養子に入ったのです。
江戸時代というと、士農工商で厳しい身分序列があり、町民はひどく差別されていたというイメージがあります。でも、本当のところは、農民や商売人が武士になる可能性は大いにあったようです。もちろん、お金の力です。
幕末期の新選組の隊士たちにも農民出身者がたくさんいます。彼らは手柄を立てて武士階級に入り込むつもりだったのです。そのため剣道修行に励んでいました。
この本の主人公は、商家の五男では将来展望が暗いので、御家人への養子になることで立身出世に賭けてみたのです。
旗本は、上様に会えるお目見(おめみえ)以上で、御家人(ごけにん)はたいていがお目見以下。小普請(こぶしん)では、お目見以上は小普請支配、お目見以下は小普請組と呼ばれる。
そもそも小普請は、お役を退いた老年のものや家督を継いだばかりの者、若年の者、あるいはしくじりを犯して役を解かれた者、長患(ながわずらい)のものなど、禄高(ろくだか)3千席未満の旗本、御家人が所属する無役無勤の集団だ。
家督を継いだばかりの主人公は当然、小普請入り。小普請は、勤めがない代わりに、家禄によって定められた小普請金と呼ばれるものを納める。これを幕府施設の修理・修繕につかう。小普請金の徴収やらを管理・監督しているのが小普請支配である。その下に、組頭がいる。支配と組頭には、逢対(あいたい)という大切な役割があった。
江戸時代の「就活」(シューカツ)は、現代と同じです。いろんな伝手(つて)を頼って、ともかくあたって砕けろ式で飛び込み、訪問を続けていきます。
さらっと読める、ユーモアたっぷりの時代小説でした。
(2014年2月刊。1600円+税)
2014年5月10日
赤穂浪士と吉良邸討入り
著者 谷口 眞子 、 出版 吉川弘文館
私の誕生日が討入りの日(師走半ばの14日)と同じこともあって、赤穂浪士の討入りは縁深いという思いがあります。映画やテレビもよく見ましたし・・・。
150頁足らずのブックレットですが、豊富な絵と写真によって、赤穂浪士の討入り事件の意義を考えさせてくれます。
事件が起きたのは、元禄14年(1701年)3月14日のこと。関ヶ原の戦いから100年がたち、人々は平和に慣れていました。
江戸城の松の廊下で殿様がいきなり刀をふりあげて斬りつけたのですから、ただごとではありません。捕まって、即日、切腹を命じられてしまいました。この原因は、結局のところ、今日に至るまで諸読あるものの、不明というのです。そして、切腹を命ぜられた赤穂藩の遺臣たちは翌年12月に討入りして、成功するのでした。事件のあと、1年9ヵ月もかかったこと、47人もの集団で討入ったことに、画期的な意義があります。
そして、討入りに成功した翌年2月に浪士たちは切腹させられたのです。47人が討入りに入って、切腹させられたのは46人。残る1人(寺坂吉右衛門)は、どうしたのかも謎のまま。逃亡したというのもあれば、密命を帯びていたという説もあります。その身分は足軽だったようです。
そして、47士のなかに上士(家老など、身分の高い侍)が少なかったのを浪士たちは恥ずかしく思っていたということも紹介されています。まあ、仇討ちから逃げ出したくなる気分も、私は理解できます・・・。
討入りの時点で吉良邸には150人いたが。100人ほどは抵抗していない。長屋内に閉じ込められていた。したがって、47人の赤穂浪士は40人ほどを相手すればよかった。だったら、討入り側の勝ちは当然ですよね。
それにしても、吉良上野介の息子は、どうして助かったのでしょうか・・・。
吉良側には、戦力になるものがほとんどいなかったし、討ち入りに備えて準備していたとは考えられず、真夜中の襲撃で、心理的に追いつめられたと思われる。
赤穂浪士は、打ち入りは死刑に値する罪であると認識していた。通常の敵討ち(かたきうち)と認められるとは思っていなかった。いわば、真夜中に他人の邸宅に押し入って殺人を犯すというテロ行為だという自覚があった。だから、命が助かるとは思っていなかった。
斬罪と切腹とでは法的なあつかいが異なる。
上野介の49日にあたる2月4日に浪士たちに切腹が言い渡された。異例に時間がかかったわけではない。
赤穂浪士の討ち入り事件を再現して確認した気分になりました。
(2013年12月刊。2000円+税)