弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2013年8月16日

日本人の地獄と極楽

著者  五来 重 、 出版  吉川弘文館

20年前に刊行された本の新刊本です。著者は亡くなられています。「ごらい・しげる」と読みます。昔の学者の博識には驚かされます。東京帝大の印度哲学科卒業です。全12巻の著作集がある本格派です。
 大和の三輪(みわ)山は万葉の歌にうたわれる秀麗な山容で知られ、神体山という信仰がある。しかし、江戸時代は「おしろ谷」と記録される風葬の谷、つまり地獄谷だった。
 風葬の谷と推定される地獄谷を「阿古谷」(あこだに)または「阿古屋」(あこや)と呼んだ。地獄谷のなかで、規模も大きく古代からよく知られていたのが、越中立山の地獄だった。
 大峯山(金峯山)に入峯することは、いったん死ぬことであり、山中遍歴は死後の山の遍歴であって、その苦痛によって、それまでに犯した罪穢をすっかり浄化、滅罪してしまう。そうすると、成仏することもできるし、極楽浄土へ往生することもできる。これが山岳宗教の基礎理念だった。
 一般人(新客)は、罪穢の浄化・滅罪によって健康になり、長寿が得られ、災をまぬがれることができる。
日本人の死後観には地獄と極楽の未分化の期間があって、それを「中有」(ちゅうゆう)と呼び、49日間は魂は「屋の棟(むね)を離れない」などと言う。
 日本人の他界観は、地獄と極楽は地続きで、隣り合わせである。これは仏教の教典と根本的に相違する。村や町の墓地がもっとも眺望のよい高燥の地にあるのは、身近な浄土の機能の一部を墓地がもっているためである。谷は地獄谷となり、山は浄化山となって、罪の浄化のすまない霊は地獄谷におり、供養によって滅罪・浄化された霊は山上の浄土に上ると信じられた。日本人は罪には重量があると信じたようで、霊は罪のために谷や地獄に沈淪(ちんりん)しているが、それが軽くなるにしたがって高いところに「浮かぶ」ことができる。その浮かんだところが光明にみちた高天原や霊山の頂点で、そこが仏教的には極楽だった。
 キリスト教では、天国こそ現実性をもった理想の世界だったが、日本人にとっては地獄こそ現実性をもった恐るべき世界だった。
 日本人の地獄観のもっとも大きな特色は、地獄巡りと地獄破りがあること。地獄破りという不遜な物語があるのは、地獄を必ずしも不可避的な律法と考えなかった人間主義のあらわれだろう。
 お盆は地獄の連休である。亡者がどんどん婆婆へ帰っていく。
民間神楽(かぐら)の大部分は、かつての山伏神楽であって、修験道から出たものだということが最近になって、わかってきた。
 童話や絵本で「おむすびころりん」と呼ばれているものは、地下は地獄だということ。この昔話は、日本人の地獄が浄土と同列に意識されていたことを示す。そこには、地蔵に表象された祖霊がいて、心正しい慈悲深い子孫には福を与えて婆婆へ送り返す。しかし、罪深く、穢の多いものは、その業火で仮借(かしゃく)なしに攻め苛(さいな)む。
 日本人として知っておくべきことが盛り沢山の本でした。
(2013年5月刊。2100円+税)

2013年7月30日

江戸の風評被害

著者  鈴木 浩三 、 出版  筑摩選書

江戸時代にも風評被害があった。ええーっ、ホントですか・・・。
 ソバを食べた者が中毒死した。この噂が広まってそば屋の休業が続出した。近く小判の改鋳(かいちゅう)があるらしい。この噂が広まって、金融(両替)に支障が発生した。江戸時代の日本って、現代日本とあまり変わらないんですね・・・。
 ただし、江戸時代には「風評」とは言わず、浮説、虚説、風説と言っていた。
 江戸時代、情報の伝達は驚くほど早かった。江戸城内に起きた政変や有力閣僚の任免は、その日のうちに江戸中の上下が知るところとなった。天保の改革で有名な水野忠邦が失脚したときには、その日の夕方には、江戸の市民がその屋敷を取り囲んで投石に及んでいる。これって、すごいことですよね。もちろんテレビもラジオもない時代ですからね。早刷りの瓦判(かわらばん)でも出たのでしょうか・・・。
 文化10年(1813年)4月ころ、江戸市中に「ソバを食べると、あたって死ぬ」という風評がにわかに広がった。ソバを食べる人が激減し、そば屋の休業が続出した。
 昨年の出水によって綿作が不作となり、その畑にあとからまいたソバが江戸に出回ったことによるという、もっともらしい理由がついていたという。もちろん、デマだったわけです・・・。
 このような風説の調査、報告、取締りに関わったのは、南町奉行所、町年寄、名主というもので、江戸の都市行政機構にもとづく法令伝達のプロセスがあらわれている。
 江戸時代、町内に寿司屋が1、2軒、ソバ屋も1、2軒というほどの密度で存在していた。風説を流した浪人は、逮捕されて死刑(斬罪)となった。同じように講釈師で戯作者の馬場文耕も獄門とされた(宝暦8年、1758年)。ただし、浮説、虚説で処刑された例は決して多くない。
 名主の配下には、職能集団としての家主の集団があった。町年寄、名主集団は、相当に広い範囲の自治能力をもった公法人、公共団体として機能していた。260年にわたって、小さな組織で江戸の行政、司法を運営できた効率性の理由は、なによりも町年寄りなどを使った間接統治システムの成功にあった。
 天明6年(1786年)9月、江戸で「上水に毒物が投入された」という浮説(噂)がでまわり、上水から水をくむ者がいなくなった。当時の水道は、将軍の仁政の象徴として扱われていた側面があった。
 田沼政権の追い落としの一環として反田沼派によって計画的・意図的にこの浮説が流された可能性がある。
 なーるほど、そういう側面もあるんですね・・・。
 元禄15年(1702年)に赤穂浪士の討ち入りは、将軍綱吉の治政下、幕府批判のうずまくなかでの出来事だった。江戸の人々は、綱吉政権への不満もあって、赤穂浪士を英雄視した。討ち入りの予想日時や、討ち入り後の処分についても喧伝される状況だった。
 ええーっ、そんな風説が流れていたのですか、知りませんでした。
 江戸の火災は多かったが、その大半は、実は放火だった。明暦の大火は、幕府によって改易された大名の家臣による反幕行動としての放火だった。
 なんだ、そうだったのですか、これも知りませんでした・・・。
 確実に景気を刺激したのは、火災だった。江戸の人々は火事を喜んだ。「宵越しの銭」をもてないような下層階級の人々は火事で潤ったので、火事は、「世直し」と呼ばれた。
 江戸の消防組織は、自在に火事をコントロールする能力を備えていた。
江戸の人々の生活の実際を知ることのできる本です。
(2013年5月刊。1700円+税)

2013年7月27日

犬の伊勢参り

著者  仁科 邦男 、 出版  平凡社新書

ご冗談でしょう・・・。江戸時代の中期に犬が単独で歩いて伊勢神宮にお参りをしていたというのです。フィックションではなく、実話として記録がいくつもあるといいます。信じられません。
記録に残された初めは、明和8年(1771年)4月のこと。最後の記録は明治7年。
 誰が記録したのか。たとえば松浦静山は『甲子夜話(かっしやわ)』に、日光からの帰り道に、伊勢参りの犬と道連れになったと書いた。
滝沢馬琴の息子は、千住(江戸)で伊勢参りの犬を見たと『八犬伝』執筆中の父親に報告している。根岸肥前守鎮衛(やすもり)の『耳袋』にも登場している。
 犬は、その首にひもを通して名札を付けていた。そして、銀の小玉がくくりつけてあった。飼主の所書と伊勢代参の犬であえることを示す札を首から下げていたのである。犬は人に声をかけられると立ち寄って餌をもらい、人の合図でまた家を出ていく。ええーっ、そ、そんなことが・・・。
 江戸時代には、日本中に信じやすい善男善女があふれていた。こういう時代だからこそ、犬は伊勢参りをすることができた。
 司馬遼太郎は犬の伊勢参りをウソだと断定したようです。著者は、司馬遼太郎でも、間違えるときは間違えると厳しく批判しています。まあ、司馬遼太郎が疑うのも当然だと私も思いますが・・・。
 幕末のころ、欧米に出かけて見聞きした日本人は、犬に必ず飼い主がいることに驚いた。そして、犬に税金までかかるとは・・・。
もともと日本の犬には値段がなかった。犬にお金を出す人などいなかった。
江戸時代の人間と犬との関係は、今とは感覚がまったく異なるようです。
 おとぎ話のような「実話」として面白く読み通しました。
(2013年3月刊。800円+税)

2013年4月24日

神と語って夢ならず

著者  松本 侑子 、 出版  光文社

江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

2013年2月23日

幕末維新変革史(下)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波新書

幕末、ハリスは老中首座の堀田正睦(まさよし)に次のように警告した。
 「平和の外交使節に対して拒否したものを艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになる」
 これは、9ヵ月後、現実に転化した。第二次アヘン戦争に大勝した英仏連合艦隊の江戸湾来襲の恐怖は、何とか回避しようとした公武合体の分裂を幕府と井伊大老に余儀なくさせ、無勅許開港路線の軌道に進入せざるをえなくさせた。外を立てれば、内は立たず。征夷大将軍は国内のみならず対外的にもその実を示さないならば、何が「武職」だとの孝明天皇と朝廷の怒りはサムライと民衆の不満の期せざる受け皿となった。
 慶応元年(1865年)ころ、日本の一般民衆は、薩英戦争・下関戦争・条約勅許という三度の欧米列強による軍事的威圧への屈従のなかで、幕府と朝廷への不信感を募らせていき、国内の一致団結、内戦回避を求め、正義藩長州へ熱烈な声援と支持をおくった。このころ、朝廷に権威はなくなった。第二次長州征伐の慶応2年(1866年)夏は、未曾有の都市打毀しとし世直し一揆のときであった。戦争と民衆蜂起は表裏一体の関係をもっていた。
 ペリーが来航したとき、旗本だけで5000家以上あった幕臣のなかでオランダ語原書を読めたのは、ほとんど皆無だった。そのなかに自らすすんで蘭学を学ぼうとしたのが勝麟太郎であった。勝の能力と見識を見抜いたのは上役ではなく、商人たちであった。商人は勝のパトロンとなった。
 勝は、商人たちとの交流のなかで日本の全国的まとまり、日本民族と民族的利害というのを、幕府とは別のものとして認識するようになった。勝は長崎での5年におよぶ海軍修練のなかで、オランダ語ができるおかげで教師のオランダ海軍士官たちと差しで人間的につきあうことができ、そのなかで市民革命を経て市民社会に生活するヨーロッパ人の人間としての豊かさと幅の広さを痛感した。「西洋人は人間が広く、日本人は人間が狭い」という日本人論は死ぬまで変わらなかった。そのうえ、勝は、島津斉彬と親交し、それが貴重な財産となった。
 アヘン戦争(1840~1842年)における大清帝国の大敗と香港割譲は、朱子学に対する日本知識人の確信を大きく動揺させた。しかも、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となってしまったことも、この時期までに日本人の共有知識となっていた。
 軍事的威圧を受けての無勅許開港という異常な歴史段階に入った日本において、朝廷と幕府のどちらが国家の最終意思を決定するのか、という国家論の問題が日本人全体の前につき出された。サムライ階級だけの問題にとどまらなくなったのである。
 ガーン。このような視点で幕末を考えるべきなのですね。著者は、歴史過程は決して結果から見てはならないと強調しています。そうなんですよね。でも、ついつい結果から見てしまいますよね・・・。
 幕末の戊辰戦争のなかで会津藩とともに徹底抗戦を貫き、一度の敗北もしないまま最後に降伏した庄内藩は、まったく削封のないまま東北戦争後の戦後処理を乗り切った。戦闘に強いことは、なによりも戦う相手の将兵に感銘を与え賞賛の気持ちを生じさせる。恩義の念をいだいた庄内士族のなかに西郷崇拝者が続出したことも、サムライの世界にあっては何ら不思議なことではない。
 新政権の成立とともに攘夷がおこなわれるだろうとの圧倒的多数の日本人の思いを前提条件として外交の舵取りをしなければならない立場の新政権は、なによりも旧幕府と同じだ、という非難を恐れた。
 江戸無血開城後は新政権のもとで全国統治ができるだろうという新政府の楽観的見通しは、早くも4月段階で崩れてしまった。東北に至る地方で内戦が拡大し、内戦での勝利が至上命題とならざるをえず、積極的な外交展開が不可能となった。外交の試みが開戦されるのは、12月に入ってからであった。
 幕末・維新期の日本の動きを重層的にとらえた本です。この時期の視野を広く深くするものとして、関心ある人に一読をおすすめします。
(2012年10月刊。3200円+税)

2013年2月22日

江戸の読書会

著者  前田 勉 、 出版  平凡社

日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

2013年1月26日

「忠臣蔵」の決算書

著者  山本 博文 、 出版  新潮新書

私の誕生日が討ち入りの日と同じだからではありませんが、忠臣蔵には昔から興味がありました。
 この本は、討ち入り費用700両(8400万円)の使途がきちんと記帳されていたことから、浪士たちの行動を明らかにしたものです。
 筆頭家老の大石内蔵助が、すべての藩財政の処理を終えて会計を諦めたとき、その手元に残ったお金は700両足らずだった。現代の金銭価値になおすと8千数百万円ほど。このお金が吉良邸討ち入りのための軍資金として活用された。
 「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」が現存し、それは討ち入り前夜に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に届けられた。
赤穂藩が領内に発行していた藩札は銀9000貫目(銀900万匁)。現在の金額にすると18億円で、藩の年間予算に匹敵する規模だった。そして赤穂藩の取りつぶしによって、赤穂の城下町は藩札をもつ債権者が藩の内外から集まって、大変な騒ぎになった。最終的には、藩札はその額面の6割と交換されて決着した。
 赤穂藩には、中級家臣が140名いた。米や金の現物で「禄」(給料)を支給される下級藩士は123名いた。
 退職金として、藩士300名に対して総額23億5千万円が分配された。単純平均で一人780万円である。
 四十七士の特徴は、階層・役職・立場など非常にまんべんなく分布しており、一口でどのようなものが討ち入りに参加したとは言えない。一人一人の考えが独立しており、しいて言えば、「武士道」への思い入れの強い者が参加したと言える。
 多くの討ち入りの参加者は、浅野内匠頭個人から特別な恩籠を受けてはいなかった。彼らは、自らの「武士道」と家の名誉を守るために行動した。
 江戸で隠れ住んでいた浪士は月3万円で生活していた。
 支出割合の多くを占めているのが、上方と江戸を往復する旅費である。一人分の片道旅費は総額で3両。2週間かかったとして、1日に2万5千円。宿泊代が1泊1万円。駕籠賃などの交通費と食費をあわせて1日1万5千円。
 大石内蔵助は、もと家老の身分であるため、旅行時には駕籠を使った。内蔵助が京都で遊興したときには、自分のお金を使った。『金銀請払帳』には、その関係の出費は記帳されていない。
 内蔵助が江戸に下ったときには、もはや軍資金も底をつき始めていて、これ以上延期が実質的に不可能だったという実情もあった。江戸へ下る旅費は一人金3両と決められていた。そして、軍資金が乏しくなっていたことから、内蔵助一行の江戸下り費用は、内蔵助自身が負担した。
 討ち入りのための武具などの購入費用は130万円ほどだった。そして、不足したお金は内蔵助が個人で負担した。藩の財政を処分したあと、700両のお金を残し、これを適切に管理して使い、立場も考えもさまざまに異なる多数の同志を足かけ2年の長期にわたって統制した内蔵助の力量は、あらためて高く評価されるべきものである。
 著者のこの指摘には、まったく同感です。2年ものあいだ、お金と人を巧みに統制した内蔵助の力はとても大きい、偉大だと思いました。
(2012年11月刊。740円+税)

2013年1月23日

「幕末維新変革史(上)」

著者  宮地 正人 、 出版  岩波書店

江戸時代が終わり、明治が始まるころの欧米列強の状況が冒頭に紹介されています。なるほど、この幕末激動期を国内情勢の変化のみからとらえてはいけませんよね。最上徳内、間宮林蔵、伊能忠敬らは探検家として日本地図の作成は対ロシアとの緊張関係のなかで活躍したのでした。
 さらに、長崎通詞はオランダ語だけでなく、フランス語やロシア語まで習得していた。
 国学者として著名な平田篤胤と門弟たちは、人を批判するのに「コペルニクスも知らないで」と嘲笑していた。それほど西洋の自然科学所は当時の知識人の必読文献であった。つまり、地動説が当時の日本に入ってきていたのです。
 1840年の中国におけるアヘン戦争勃発は幕府にとって対岸の火事ではなかった。イギリスは戦艦を日本に差し向けるという噂が流れていた。そこで、高嶋秋帆に洋式銃隊の調練を行わせた。
 アヘン戦争の衝撃は、日本人の目を一挙に世界に拡大させた。西洋諸国は現在どのような発展状況にあり、世界のどこに進出しようとしているのか、その軍事力と国力はどの程度のものか、この痛切な日本人の知的欲求が『坤輿図識(こんよずしき)』全5巻を刊行させた。この本は堂々たる世界地誌であった。
 日本の漁民や船員が海上で遭難してアメリカなどに渡って日本に戻ってきた。これらの漂流民の話を藩主や藩重役までが熱心に傾聴した。
 1853年(嘉永6年)6月、ペリー艦隊が江戸湾に入った。黒船の出現である。ペリーは身辺警衛とアメリカの軍事力を誇示する目的で300名の兵力を久里浜に上陸させた。
 米日交渉は、9艦の軍事的圧力のもとで進められた。
このころイギリスは、アメリカやロシアのような対日行動をとるのは不可能だった。1851年に発生した太平天国の乱が拡大して、イギリスの商業権益が脅かされていた。
 日本において特徴的なことは、ペリーの来航情報が瞬時に全国に伝播し、人々がそれを記録し、そして江戸の事態を深い憂慮をもって凝視するという社会が出現していた。
 人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録して、写して、冊子に綴っていき、さらにそれを回覧していった。
 幕末から維新期の政治は激変に次ぐ激変の中で展開していく。そして、その局面の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の目があった。この衆人監視の政治舞台において幕府が自らを国家として振る舞わざるを得なかったことは、一瞬たりとも忘れてはならないことがらである。
 全国各地の日本人には、なにか不安な風聞があったとき、まず飛脚屋に出かけて確認する習慣がつくられていた。幕府は、一切、政治情報を公開しないのにもかかわらず、日本人は瞬時に、大事件の発生をつかみとる。情報が公開されず、公的に流通させる制度がつくられていなくても、つかみとる能力を日本人は有していた。自分たちで事態を判断し、政治的意見を形成し、政治批判を展開できる段階に日本が入っていたことは幕末維新期を考察するとき、根底にすえておかねばならない。
 この指摘は、何だか政治に無関心な多くの現代日本人の顔を赤らませるものですよね。幕府の安政改革は、海軍のみならず洋式軍隊の創設も意図していた。
 ハリスと下田奉行が交渉していたとき、ハリスの演説書をはじめ、日米間の対話書のすべてを幕府大名に公開していった。事態の深刻さは周知のこととなった。そして、大名から、全国にもれ伝わっていった。
朝廷は、朝廷としての反応をした。ハリスに屈従してしまうのであれば、それで天皇から征夷大将軍職を授けられている「将軍」と言えるのか・・・。
 この本の最大の特徴は、下武武士や町人の日誌などを踏まえて、当時の日本人の反応と行動を全体的に明らかにしようとしていることです。すごいことだと思いました。
世界史のテンポは、日本国内の政治の悠長なかけ引きを許さなかった。3千数百万の日本人の眼前において、ハリスの予言どおり「政府の威信を失墜させた」幕府は、軍事的圧力に屈して条約調印を余儀なくされた。
 桜田門外の変(1860年、安政7年)は、客観的には幕末政治過程の一大画期となった。この桜田門外の変を契機として、一挙に政治の底辺が拡大した。「処士横議(しょしおうぎ)」の時代が始まり、目標は国家変革に絞られた。
 1859年(安政6年)7月の横浜・長崎・函館開港により、世界市場に編入された日本では、たちまち大量の金が流出していった。世界市場で金銀が15対1なのに日本では5対1だったからである。さらに、銅も世界市場の4分の1という安値だったので、銅製品が外国へ流出していった。
幕末の日本人の全員が感じていた危機感とは、国家解体の危機感、このままいってしまっては、日本国家そのものが消滅してしまうのではないかとの得体の知れない恐怖感であった。幕府が外圧に押され後退するたびに、この感覚は増幅され、それへの対抗運動と凝縮行動がとられていく。どのような具体的方策が提示されるかは、階級・階層・政治集団にとって異なるにしろ、通底するものは、この底知れない危機感と恐怖感なのである。
 この本を読んで、幕末・維新時代の視野を広め、深めることができたような気がしました。学者って、やっぱりすごいですね。さすがだと驚嘆しました。下巻が楽しみです。
(2012年11月刊。3200円+税)

2013年1月21日

江戸時代の老いと看取り

著者  柳谷 慶子 、 出版  山川出版社

江戸時代は、当主夫妻とその直系親族からなる家が広汎に成立して、社会の基礎単位となり、子どもの養育も看病も老いの看取りも、家の機能として家族により担われた時代である。
家の存在にはマイナス面もあったわけですが、その反面、このようなプラスの面もあったのですね。忘れてしまいそうな指摘です。
 江戸時代後期の、21歳以上の平均死亡率は、男性61.4歳、女性は60.3歳で、51歳以上の人々の享年は70歳をこえていた。成人後の平均余命は、実は現代と比べて、決して見劣りしない。80歳をこえる長寿者も少なくなかった。盛岡藩には80歳以上が780人いて、100歳以上も3人いた。
 江戸時代、古希(70歳)を過ぎ、さらに傘寿(80歳)を過ぎても現役をつとめる武士が少なからず存在した。武士には現在のサラリーマンのような定年退職という制度はなかった。
 江戸時代後期、古希を過ぎて幕役の役人だった人物が少なくとも50人はいた。最高齢は、なんと94歳。
 幕臣も藩士も、傘寿をこえて城勤めする者がいるのは、「平和」な時代に定着した「武士道」のあり方を考えさせる。
 天保(1830年代)のころ、70代の幕府役人39人のうち16人が80代まで生きのびており、その半分の8人が現役のまま死亡している。
 現役の役人のままで生涯を終えたのは当人の意思であったと考えられる。幕臣の終身雇用は、現役志向の武士たちの意思表示の結果であって、致仕しないことを名誉ある武士の生き方と観念し、老病と戦いながら役人であり続ける人生をまっとうした。
 奥女中にも武士と同じく定年退職の制度はなかった。徳川家斉時代の奥女中の一人は、73歳まで現役だった。奥女中も老年隠居に際して、手当を支給された。還暦まで勤めあげれば、老後の生活は幕府によって保障されていたことになる。隠居後は、剃髪して比丘尼(びくに)と呼ばれ、分限(ぶんげん)帳に名前を記載され、幕府の保護下におかれた。
 隠居するとき、家督とか隠居料の中身や将来の処分方法などを記した契約の文書を取り交わすことも珍しくなかった。それは、相続トラブルと回避するための方策であった。
日本人は、昔から書面にすることが多かったのです。
 武士の家や、相応の資産ある農民や町人の家では、女性は姑として主婦権をヨメに委譲し、家労働から解放されることで、あらたな役割や活動に時間を費やす隠居の年代を過ごしていた。
長寿者に対しては、養老扶持が支給された。武士は身内の病気や臨終に付き添うことができた。
江戸時代は名実ともに敬老精神にあふれた時代だったのです。わずか100頁のブックレットですが、今日の日本にも参考になる内容が盛りだくさんでした。
(2011年10月刊。800円+税)

2013年1月14日

一揆の原理

著者  呉座 勇一 、 出版  洋泉社

寛延2年(1749年)に姫路藩を揺るがした全藩一揆(寛延一揆)では、大阪城代は姫路藩に対して「飛道具(鉄炮)を用いることは無用である」と、鉄炮使用を禁じた。幕府の許可がないと鉄炮は使えなかった。鉄炮を使用するには、事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される。
 そもそも領内での百姓一揆の発生は「統治の失敗」として幕府から責任を追及される恐れがあるので、藩や代官は一揆を穏便に解散させる必要があった。
 このとき、百姓は農具をもつ権利があると主張した。鎌や鍬は百姓のシンボルである。鎌や鍬を使っても鉄炮や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないという幕府や藩に対するアピールだった。
 江戸時代の一揆では、家屋を壊すことはあっても、人を殺すようなことはいけないというのが百姓一揆のルールだった。これに対し、明治の新政府反対一揆では、新政府側の役人が殺されている例が少なくない。新政府反対一揆は特定のテーマにしぼって反対しているのではなく、明治政府の新政策(新政)すべてに反対していた。つまり、新政府そのものを否定しているのである。
江戸時代の百姓一揆にとって、「仁政」を標榜する幕府や藩は交渉可能な相手であった。だからこそ、一揆は幕府権力と正面からの敵対を避けた。そのため非武装だった。
 百姓たちは、自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばなかった。百姓たちは基本的に非武装を貫き、「一揆」すなわち武装蜂起と認定されないように苦心していた。武装しないほうが百姓一揆の成功率は高く、非武装は合理的な作戦だった。
 中世社会では、一揆は社会的に認められていた。だから、一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称していた。
 中世では、百姓だけが一揆を結んでいたわけではなく、武士も僧侶も一揆を結んだ。だから、中世の一揆は多種多様である。中世においては一揆のイメージは決して悪くはない。本人たちが堂々と「一揆」を名乗っている。中世の「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神である。
 傘(からかさ)連判という円形の署名形式では、首謀者隠しというより署名の順番を分からなくすることに目的があった。つまり、多数の署名者に上下の区別をつけないということ。「一味神水」そして「神水を飲む」意味は何か。焼いて灰にし、その圧を神水に混ぜて飲む。それは、一揆の誓いに違反したときに発生する神罰は、起請文の灰を体内に異変が起きるということ。
 一揆の場における一味神水とは、わきあいあいとした宴会的な共同飲食ではなく、恐怖と緊張にみちた一種の試練だった。
起請文は、神に捧げると同時に人に渡すものであった。
 中世の日本社会は訴訟社会であり、裁判には証拠文書(証文)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達した。中世の一揆契状は、一味同心を約束する契約状という一面をもっていた。
 若手学者による大胆な一揆の見直し提起です。大変面白く読み通しました。
(2012年10月刊。1600円+税)

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