弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2014年2月23日
「どぜう屋・助七」
著者 河治 和香 、 出版 実業之日本社
浅草駒形にある「駒形どぜう」6代を小説にした、江戸情緒を心ゆくまで堪能できる小説です。
私にとってドジョウって、なんだか泥臭い味のようで、食べてみようと思ったことはありませんでした。でも。この本を読んで、一度、1日600人の客が来るというこの店に足を運んでドジョウを食べてみたくなりました。
なにしろ、210年の歴史をもつドジョウの店なのですから・・・。
有名な作家である獅子文六が昭和36年に、東京の好きな店として、駒形のどぜう屋と神田のヤブをあげています。神田のヤブのほうはいって食べたことがあります。たくさんの人でにぎわっていました。
「駒形どぜう」のほうは、はじまりは、もう江戸時代も幕末のころのことです。
人々が助けあって生きていました。しかし、次第に殺伐な社会風潮になっていきます。ペルリの黒船が来て、新選組が京都に出来て、剣道を教える道場が大流行していました。
こんな世相の移り変わりを、小説のなかに時代背景としてよく取り込んでいます。
今でも「駒形どぜう」で出す酒は、伏見・北川本家の「ふり袖」、そして、「どぜう汁」の味噌は「ちくま味噌」である。
本当に、おいしそうな店です。しっかり江戸気分に浸ってしまいました。
(2013年12月刊。1600円+税)
2014年2月14日
新選組遠景
著者 野口 武彦 、 出版 集英社
新選組の実態と歴史的位置づけを明らかにした本として、とても興味深く読みました。
文久3年(1863年)2月、江戸から総勢240人余の浪士の一団が京都に向かった。
服装はまちまちで、野郎頭や坊主もいる。一番目だったのは、「水戸天狗連」と称する水戸脱藩浪士立ちの20人のグループ。首領格は芹沢鴨(せりざわかも)。その黒幕は清河八郎。近藤勇たち多摩出身者は、その他大勢でしかなかった。
ところが、京都に着いたとたん、江戸に大半の浪士が戻ることになった。前年の「生麦事件」の処理をめぐって、横浜沖に12艘のイギリス軍艦が来ており、幕府への謝罪と10万ポンドの賠償金を要求していた。
しかし、江戸に戻らず京都残留を主張し、居残った一群がいた。それが芹沢鴨と近藤勇のグループだった。残留者はわずか14人(または13人)だった。これが新選組の草分けとなった。
地方農村の郷土などが剣術道場を経て「武士になれる」という一念がうずくようになっていた。身分障壁にひびが入って、上昇ルートが見えてきた。このパトスを知らないと、幕末史の深層は理解できない。
京の町を取り締まる役目にあった会津藩士の会津弁が京都人にはさっぱり通じなかった。
そして人手不足にも悩んでいた会津藩にとって、言葉が通じ、腕に覚えのある連中は頼もしい即戦力だった。新選組は権威のある会津藩の部局となった。
酒乱気味のうえ、粗暴な振る舞いの目立つ局長の芹沢鴨は、深夜、愛人とともに滅多切りにされた。会津藩の同意の下、近藤勇たちが斬殺したのだった。
元治元年(1864年)6月、新選組が「池田屋」を急襲し、20数名の尊攘派志士を殺傷した。この池田屋事件が新選組の盛名を一夜にして天下にとどろかせた。
ただし、新選組は、あらかじめ池田屋に志士たちが集まっているという情報を得ていたわけではなかった。三条方面をしらみつぶしに調べて歩いていた近藤隊が思いがけず、池田屋で密議中の浪士立ちに行きあたった。そのため、別方面にいた土方隊が来るのが遅れて近藤らは一時、非常に苦戦した。土方隊が明けつけて盛り返した。近藤勇が大声で「御用改めである手向かいする者は容赦なく切り捨てる」と一喝した。すごい迫力だった。近藤の天然理心流には気合い術もあった。大声でまず相手を畏縮させるのである。
新選組は大時代な立回りはやらない。効率的に横面や小手を狙って斬り込んだ。
池田屋事件の悲劇性は、新選組が多くの人材をむざむざと殺しながら、どんな相手を斬ったのかの自覚がまるでないところに醸し出される。
沖田総司は、天才的な剣術を惜しまれつつ、肺結核のため27歳の若さで死んだ。沖田総司の本領は道場剣法ではなかった。斬りあいの修羅場で発揮された。
沖田総司は、近藤勇や土方歳三に命じられると、黙って相手が誰であろうと斬った。勤王浪士はもとより、裏切り者の成敗にも容赦なく刃をふるった。
池田屋事件における大量殺傷のあと。尊攘諸藩の新選組観が根本から変わった。たかが王生浪士という悔りから、恐るべき強敵として、激しい憎悪の対象となった。新選組は引き返し不能の一点を越えた。新選組に対する情け容赦ない報復が宣言された。
新選組は、それまでのローカルな「王生浪」から、一挙に天下公認の治安警察隊に昇格した。幕府や会津藩の扱いも、にわかに丁重になった。近藤勇には、「与力上席」の内意が示された。禁門の変では、新選組は戦闘現場に出ず、一人の犠牲者も出さなかった。その結果、何も学ばないことになった。
禁門の変は、鉄砲が戦闘の主役を担ったことを意味している。市街戦に大砲が使用され、銃撃戦が勝敗を決した。ところが、新選組は池田屋事件のとき斬撃戦で勝利を得たことから、そこから脱皮する機会を逸した。
慶応3年(1867年)11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が近江屋で京都見廻組に倒された。
11月18日、新選組から抜けていた伊東甲子太郎が暗殺された。
12月18日、近藤勇は馬に乗っているところを伊東甲子太郎のいた高台寺残党から銃撃され、右肩に甚大なダメージを受けた。 強い相手は鉄砲で倒せばよい。正面から剣の勝負を挑むのは、とっくに時代遅れになっていた。
慶応4年4月、近藤勇は大久保大和と名乗っていたのを見破られて、刑場で斬首された。土方歳三は、函館の五稜郭で、明治2年5月、戦死した。
最後まで面白く、一気に読み通しました。
(2004年8月刊。2100円+税)
2014年2月 2日
雪に咲く
著者 村木 嵐 、 出版 PHP研究所
新潟は高田藩の筆頭家老・小栗美作(みまさか)の壮絶な生涯を描いた小説です。
越後高田藩は中将家である。藩主の光長の祖父は二代将軍秀忠の兄にあたるので、武家の長子相続からすれば、格は将軍家より上になる。
加えて、光長の母は三代家光の同母姉だ。光長ほど、家康に血筋の近い者はいない。御三家にしても、九、十、十一男の筋にすぎず、将軍家すら三男の筋だ。
ときの大老は酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清。越後高田藩のことを何かと気にかけてくれる。ところが、雅楽頭は、同時に密偵を越後高田藩に潜入させ、情報を得ていた。
仙台藩家老・原田甲斐が乱心して、一門重臣の斬殺に及び、自身も討たれた。そこで、仙台藩譜代の原田家は断絶処分を受けた。
光長の継嗣が41歳のという若さで突如として亡くなった。子どもがいない。さあ、どうするか・・・。
藩内が二手に分かれ、対立抗争が次第に激化していく。筆頭家老の美作を気に入らない者たちは、美作邸へ押しかけて来るようになった。
家で騒動が起きたら、幕府により御家断絶の危機があります。それで、美作はじっとガマンし続けたのでした。ところが、将軍綱吉の時代になると、お家騒動のおきたところは、どんなに名門であっても、容赦なく家断絶が命じられるのです。
綱吉も犬ばかりを大切にしたのではありません。そして、ついに苛酷な刑が申し渡しされるのでした。
江戸時代も、域内のいたるところで、派閥抗争が激しかったようです。江戸時代の人間関係の難しさがよく伝わってくる本でした。
(2013年12月刊。1700円+税)
2014年1月14日
歴史の読み解き方
著者 磯田 道史 、 出版 朝日新書
日本人とは何かを考えるとき、必読文献の一つだと思いました。
室町時代の庶民は家の墓所は持っておらず、家の意識はうすかった。中世までの日本人は近世に比べて流動性が高く、しばしば移住していた。
「親元と定住」の文化は江戸時代にできたもの。中世的な武士の集団は寄せ集めだった。江戸時代的な武士の集団は石のように固まって密集していた。
武士の世界は家格によって気質が違う。10石以上の上土は独立性が強く、藩主にも、ずけずけと物を言うように育てられる。傍若無人で、わがままな人が多い。高杉晋作や大隈重信がこの部類。
これに対して福沢諭吉、大久保利通、西郷隆盛など50石以下の徒士(かち)は小役人で実務能力がある。家督を相続するときに筆跡とソロバンの試験があった。能吏タイプが多い。徒士は身分にこだわる上士とちがって学校教育に抵抗がない。旧武士のうち、この薄いこの徒士層が日本の近代化に大きな役割を果たした。及木希典・児玉厳太郎、大山厳・・・。日露戦争の将軍はほとんど禄高50石くらいの徒士出身。日露戦争の将軍に旧農民はいない。旧大名もいない。彼らは徒士の文化で育った特殊な人たちであり、一般の日本人ではない。
テレビの水戸黄門では悪代官だらけだが、あれは嘘。代官は大勢の武士のなかから学問のある清廉な者を選んでいた。
藩の最高意思決定者は藩主・大名と思われがちだが、これは半分以上、間違い。藩主が藩政をみていたのは江戸前期の100年間くらい。のちには、「家老と奉行の合議」で決めた。ただ、藩主は家老や側近などの人事案には口が出せた。
江戸中期以降、通常、藩主は家老会議には出席しない。藩主は、企業でいうと、社長というより会長か最高顧問といったほうがよい。
家老が人事を決める。藩主は報告を受けるが、人事は多くは先例と家格で決まる。家老はほとんど世襲で、秘書役に操られていることも多い。実質、藩の意思決定は誰がしてるのか分からない。
日本人は追いつめられると強い。どんな変革も改革ものみ込む。
日本人は、いったん負けの原因を認めると変わるのは早い。安定を好むので、安定が失われそうになると、不安になって一気に改革に向かう。
日本人は外部から大きな変化の波を受けると、変わりやすい。
日本全国が均一に識字率が高かったのではない。明治前期までの日本では、識字率は京都の周辺と、東海・瀬戸内海が非常に高く、東日本や東北・南九州は低かった。
江戸時代の日本は、現代の私たちが思っている以上に、銃のある社会だった。人口4000人の村に277丁もの銃があった。江戸時代以来の日本人の家庭から銃や刀が消えたのは、アメリカ軍の占領によるところが大きい。
江戸時代の奉行所・代官所は税務署と代用監獄ほどの役割しか担っていなかった。今日のこまかな行政サービスは、庄屋と村の仕事だった。犯罪が発生しても、犯人は村人たちが捕まえてくる。奉行所は、牢屋と番人さえおいておけばよかった。
江戸時代の治安が良かったことの理由として、刑の厳しさがあげられる。事件が起きて領主のところにもちこまれると、その犯人は死刑になる可能性が高い。それで、江戸時代には、「お上」の領主裁判を回避する文化ができあがり、これがこの国の法文化になっていった。
江戸時代の前半、人はすぐ死刑にされていた。水戸藩では1646年から1666年までの21年間で1000人が捕まり、うち104人が死刑になった。ところが、江戸の後期になると、町の組織が犯罪を抑止した。地域共同体が犯罪抑止に機能していた。そのため江戸時代の治安は良かった。
幕末の長州藩の意思決定のやり方が紹介されていますが、これは圧巻です。
上段の間の真ん中に藩主が座り、藩主の左手と右手に家老が列座する。会議中、藩主は基本的に発言しない。
最初に月番の家老が発言する。たとえば・・・。
「今日は攘夷の決行についてどうするか、評議してください」
すると、次の間という一段低い部屋の末席に座っている官僚たちが議論を始める。これが何時間も続き、大声で怒鳴りあったりする。その間、上の段にいる藩主と家老たちは無言で、一切しゃべらない。3時間でも4時間でも聞き続ける。
下座、末席の者たちがはげしく議論して、そろそろと思うと、家老が意見をまとめる。そして、次の瞬間に、藩主が「そうせい」と言う。これが鶴の一声となって、合議の一同は、反対派も賛成派も一斉に平伏して決定に服する。長州藩では、こうやって藩の意思がしっかり決まっていた。藩主の権威づけのもと、断固たる決定ができたわけであるから、みなが服することになり、決定から実行までのスピードが速い。これがあとで政事堂というものになる。
明治維新になって、各藩がこれを真似しはじめて、日本中に政事堂ができた。
こうやって国会の下地が出来ていったわけですね。まったく知りませんでした。
有名な五箇条の御誓文のなかに「万機公論に決すべし」とあるのも、きっと、このような実績をふまえたものだったのでしょうね。
この本で語られていることは、どれも近代日本そして日本人の成り立ちにとって大きな意義のあるものばかりです。230頁ほどの新書ですが、いたるところに赤エンピツで棒線を引いて、この新書も真っ赤になってしまいました。
(2013年12月刊。760円+税)
2014年1月13日
幕末史
著者 半藤 一利 、 出版 新潮文庫
明治維新と言っても、明治の初めには、ほとんど維新という言葉は使われていなかった。「御一新」だった。へー、そうなんですか・・・。維新の会も馬脚があらわれて、ついに失墜してしまいましたよね・・・。
ペリー提督の率いるアメリカ艦隊が日本にやってくるという情報は、その前から日本に入ってきていた。だから、来た時には、三人の与力が船で近づき、フランス語で「速やかに退去すべし」と書いたものを高くさしあげた。
英語ではなく、フランス語なのですね。いったい、誰が書いたのでしょうか・・・。
アメリカはオランダに日本との交渉の仲介を頼んだ。オランダは、それを断り日本の長崎奉行を通じて、「アメリカはいずれ艦隊を率いて日本に来るだろう」と幕府に知らせた。ペリー来航(1850年)の3年前のこと。
勝海舟は、中国におけるアヘン戦争が勃発したとき18歳だった。22歳のとき、佐久間象山を訪ねて、世界情勢を学んだ。そして、剣術をやめてオランダ語を学びはじめた。
日本に来たペリーは、当時59歳。ペリーには、早く帰りたい事情があった。国書とともに持参すべきお土産品を持っていかなかった。国際儀礼に反することの指摘を恐れた。しかも、水と食糧が減っていた。また、中国で「長髪族の乱」というのが起こって、中国にいる在留米人の保護を急ぐ必要もあった。
江戸幕府は、250年間、「由らしむべし、知らしむべからず」を大法則としてきたが、広く町民をふくめて意見を出すよう布告した。勝麟太郎(31歳)、河井継之助(27歳)も意見書を出した。
明治元年に勝海舟は46歳、岩倉具視(ともみ)44歳、西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、広沢真臣(さねおみ)36歳、木戸孝允(たかよし)36歳、江藤新平35歳、井上馨34歳、三条実美(さねとみ)32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、大隈重信31歳、伊藤博文28歳。これは今の官僚なら、部長が課長クラスである。そんな若さで新政府がトップメンバーを占めて、政治を運営していたのだから、てんやわんやだったのも当然のこと。
それまでの日本人のなかに天皇家に対する尊崇の念があったとは言えない。当時の日本人は、将軍を公方(くぼう)様と呼んで唯一の支配者と思っていた。天皇はミカドであり、朝廷を内裏(だいり)ないし禁裏(きんり)と呼んで、およそ関係のない遠い存在としていた。ミカドはたしかに存在していたが、公方さんの方がずっと大事だった。
幕末のころ、長州も薩摩と同じく長年にわたって密貿易でお金を稼いできたので、資金はたっぷりもっていた。
天皇という言葉は明治20年代になってから日本人に普及しはじめた言葉であって、それまではコトバとしてあるだけだった。
共和国の建設を説く勝海舟や大久保一翁は天皇をほとんど意識していなかった。
大久保利通は、「非義の勅命」は勅命ではないから、従う必要はないと高言した。尊皇なんてどこ吹く風。自分たちの正義にあわなければ、勅命もへちまもない。天皇をうまく使って国家を乗っとる。そのための玉(ぎょく)と考えていた。天皇陛下がすごく尊いものだという意識は藩長の人々にもなかった。幕末の日本人が天皇中心の皇国日本をつくりあげようとしたというのは歴史の事実に反すること。
幕末の孝明天皇は病的なほどの外国人嫌いだったが、幕府に変わって政権を握るという意思はまったくなかった。ましてや、倒幕なんてとんでもない。むしろ朝廷と幕府が仲良くしながら進めていく朝幕体制に強い希望を抱く、明らかな公武合体論者だった。
講話調ですから、とても分かりやすくて面白い幕末通史になっています。
(2013年7月刊。710円+税)
2013年12月23日
剣術修行の旅日記
著者 永井 義男 、 出版 朝日新聞出版
江戸時代は、現代日本の私たちが想像するほどには閉鎖的でも、固定的な社会でもなかったことがよく分かる本です。
20歳前後の佐賀藩の若者が、諸国へ武者修行の旅に出かけ、行き着いた先で当地の人々と親しく懇親を深めていたのでした。
この本の主人公は佐賀藩の二刀流の使い手の若き武士です。幕末の2年間、東京(江戸)はおろか、遠く東北は秋田まで出かけています。青年武士の名前は、牟田文之助高惇(たかあつ)。鍋島家の家臣です。
文之助は訪れた藩のほとんどの藩校道場でこころよく受け入れられ、思う存分に、他流試合をしている。しかも、夕方になると、文之助が宿泊している旅籠屋(はたごや)に昼間、道場で立ち会った藩士らが次々に訪れ、酒盛りをしながら歓談している。そして、出立を延期するように懇願され、地元の名所旧跡や温泉に案内された。
牟田文之助は鉄人流の免許皆伝を得ていた。鉄人流は宮本武蔵の二刀流の流れを汲む。牟田文之助は、嘉永6年(1853年)8月、藩から諸国武者修行の旅を許可された。ときに24歳(満22歳)。佐賀藩は、「文」では優秀な者を各地の漢学塾や蘭学塾に留学させていたし、「武」では剣術や槍術にひいでた者に諸国武者修行をさせていた。
江戸時代の教育は文武とも基本的に家庭と個人のやる気にまかされていた。
諸藩に藩校ができたのは、ほとんど江戸時代の中期から後期にかけてだった。
御家人でも読み書きができない人もいた。無教養な幕臣は多かった。剣術の稽古など、一度もしたことのない幕臣は多かった。
全国諸藩のなかでも、佐賀藩の藩士教育の充実は際立っていた。
剣術流派は、わずか3、4流が江戸時代になって次々と枝分かれし、江戸末期には700流以上にまでなった。
江戸時代の中期に、竹刀と防具という画期的な道具が工夫され、剣術は飛躍的に発展した。竹刀と防具の採用で試合形式の稽古、うち込み稽古ができるようになり、剣術はがぜん面白くなった。人々は初めてスポーツの面白さに目覚めた。画期的な娯楽の登場だった。当時は娯楽が少なかった。
江戸においては、剣術道場は当時のベンチャービジネスだった。剣術で頭角をあらわすのは、武士の家に生まれること、武家の血筋であることはまったく無関係だった。もって生まれた才能と、その後の努力で決まった。
諸藩は藩士が武者修行にでるときには、手当を支給していた。ただし、旅費は出るものの、交際費までは出ない。許可が下りると、藩から修行人に手札が渡される。手札は藩の身元保証書で、いわばパスポートである。この手札を示さないと、藩校道場は修行人を受け入れなかった。
修行人宿には無料で泊まれた。藩相互に修行人を優遇する慣例ができあがっていた。
諸藩の藩士の諸国武者修行は、当時の旅行業界にとって大きな市場だった。修行人は年間を通じて大切な顧客だった。ただし、当地で武者修行の実績のない修行人は普通の旅人扱いとなり。有料となった。
武者修行の実態は他流試合ではなく、他流との合同稽古だった。衆人環視のなかで勝敗が明らかになるような他流試合はしなかった。大勢の修行人が諸国を、遍歴していた。
そして、気に入ったら、そこに何日も何週間も、果ては1ヶ月以上も長滞在することがあった。そして、現地の人々と親しく交流していた。
このように、藩の垣根をこえた交流があっていたわけです。この日記を書いた文之助はその後、明治になって佐賀の乱に加わり、懲役3年の刑を受けています。明治23年に61歳で亡くなったというのですが、詳しいことは分かっていないようです。
それにしても、幕末に、このように伸び伸びと諸国を遍歴して武者修行をしていた青年武士がいたなんて、驚きますよね。江戸時代のイメージが一新しました。江戸に関心のある人には一読を強くおすすめします。
(2013年8月刊。1600円+税)
2013年12月11日
ある村の幕末・明治
著者 長野 浩典 、 出版 弦書房
幕末から明治を生きた人が75年にわたって書き続けた日記が残っているのでした。
私と同じで、書くのが大好きな日本人は昔から多かったのですね。
場所は熊本県です。阿蘇の外輪山のなか、垂玉(たるたま)温泉の近く。長野村(今は南阿蘇村)の長野内匠惟起(たくみこれずき)という人物です。阿蘇家の家来(武士)で、手習(寺子屋)の師匠をし、農業を営んでいました。
「内匠日記」は長野内匠が15歳で元服した文化10年(1813年)にはじまり、89歳の明治20年(1887年)までの75年間にわたる膨大な日記。天気、家族の動向、村の出来事、物価や災害などがことこまかく書かれている。
内匠自身も多芸多能、そして実に筆まめだった。
長野村周辺には6つの寺子屋があった。内匠の門弟は、のべ700人で、女子もいた。女子も、四書を自ら購入して、素読していた。
内匠の蔵書は多く、知人に貸し出していた。
内匠は、絵を描き、書を書き、そして寝具・仏具の修理や彩色・葬儀のときには道具づくりまでした。いわば職人である。
長野家は裕福に道具を所有していて、近隣の村人に貸し与えた。農機具だけでなく、生活用具、薬、半鐘、磁石まで貸し出していた。
内匠は園芸家でもあった。四季を問わず、人々が花を目あてに訪ねてきた。花の種、苗、接ぎ木の枝をもらいにきた。
村の庄屋は前は世襲だった。江戸時代の途中からそうではなくなった。
江戸時代は、今よりも離婚率が高かった。そして、「バツイチ」という感覚はなかった。再婚するのは、普通のことだった。
村の若い男女が結婚を前に駆け落ちした。ところが、その後、めでたく添いとげ、終生、長く夫婦だったことが記録されている。江戸時代にも恋愛結婚はあったということです。
このころの阿蘇にはニホンオオカミもいたようです。牛馬を喰う山犬として登場します。
村には、さまざまな行商人が全国からやってきました。紀伊国の椀売り、近江の薬売り、阿波国の金物屋、また対馬の薬売りも・・・。芸人もやってきて、お祭りが催されています。
歌舞伎の一座、人形芝居、軽業、相撲、そして宗教者。江戸時代後期は、人の移動はかなり流動的だった。
明治10年の西南戦争のとき、この長野村も戦場となっています。そして、会津藩の家老で「鬼官兵衛」と呼ばれていた猛将・徳川官兵衛一等大警部は長野村の一農民であった長野唀の狙撃によって落命した。
長野村では一揆もあり、西南戦争は、村内対立と連動していたようです。
著者は長野村に生まれ育ち、今は高校の教諭です。これだけの本にまとめあげた労作と力量を高く評価したいと思います。
(2013年8月刊。2400円+税)
2013年11月 3日
浮世絵出版論
著者 大久保 純一 、 出版 吉川弘文館
浮世絵の現物を手にとってみたことはありませんが、美術館そして、本では鑑賞してきました。素晴らしい、日本の誇るべき芸術作品だと思います。この本は、浮世絵の出版をめぐる話を満載しています。
浮世絵は江戸時代を代表する絵画、版画の一領域である。
浮世絵師の多くは、自分たちが岩佐又兵衛、菱川師宜に端を発し、大和絵の流れを当世に移し替えた絵師たちの系譜に身を置いているという、ある種の帰属意識を強くもっていた。
浮世絵は、その当初から版画を主たる形態として発展してきた。支配階級からの経済的庇護があるわけではなく、地本問屋という版元が大量供給の商品として版画を生産し、不特定多数の購買者に販売し、利益をあげてきた。
商品として売れるためには、浮世絵版画は、移り気な時代の美意識や趣味、嗜好を絶えず追い求めていなければならない。同じ画風を墨守したために人々に飽きられてしまったら終わりなのである。
浮世絵における美人画の作風を通観すると、およそ10年以下の時間幅で変化していることに気づかされる。浮世絵は、17世紀後期、菱川師宣により始まる。
錦絵の享受者は、けっして江戸の庶民層だけに限られていなかった。身分的にきわめて高い社会階層あるいは富裕層のなかにも錦絵の享受者がいた。
錦絵は、庶民から大名まで実に幅広い階層で享受されていた。錦絵をはじめとする浮世絵の版画は、絵師・彫師・摺師の分業によって生み出されていた。その全体の工程を統括するのが、出版資本である地本問屋である。
地本問屋とは、文字どおり地本の出版と販売をおこなう版元である。地本とは、上方から下ってくる読本や絵本に対して、地元江戸の地で出版された本のこと。そして、草双紙や浄瑠璃本などの大衆的な内容をもつ本をさす。
これに対して、仏書、儒書、医学書、また学問書的な本などは「物之本」と呼び、これを出版する版元は書物問屋といった。
「南総里見八犬伝」などの読本は、地本問屋ではなく、書物問屋が出版している。
ただし、地本問屋と書物問屋の両者を兼ねる者もいた。
総師は画面の隅から隅まで描き込むのではない。こまかいところは彫師の技量にまかせるのが普通だった。版下が書きあげられると「改」という出版検閲を受ける。色版が彫りあがると、摺師のもとに届けられ、最終工程である摺がおこなわれる。摺りあがると、絵師がチェックする。
版元は、売れると見込むと、最初から1000組、つまり300枚も摺り込むことがある。ところが予想に反して150組しか売れないことがおきる。そのときには、貧困層の布団の材料として売り払われた。
絵草紙屋の店内で役者絵が目につく場所を占めていた。それは、もっとも売れ筋の商品だったからである。
たくさんの浮世絵、錦絵そして役者絵も図版で紹介されている、楽しい本でした。
また、美術館で浮世絵を見ることにしましょう。大英博物館には、たくさんの浮世絵があるそうですね。今度、日本で春画の展示が企画されています。ぜひ見てみたいものです。
(2013年4月刊。3800円+税)
2013年9月28日
有松の庄九郎
著者 中川なをみ・こしだミカ 、 出版 新日本出版社
夏休みの課題図書の本です。小学校高学年の部です。青少年読書感想文全国コンクールの課題図書なのです。
読んで世界を広げる。書いて世界をつくる。いいキャッチ・フレーズですね。
出だしは、現代日本の情景です。浴衣(ゆかた)の地は、色が藍色(あいいろ)。少しぼやけているものの、白い花はくっきりと大きく浮きあがっている。色もデザインもシンプルだが、模様が絞りでできているからか、決して地味ではない。有松(ありまつ)絞りだ。
このあと、話は一転して江戸時代初め、尾張の国(愛知県西部)にある阿久比(あぐい)の庄に飛びます。
徳川家康が関ヶ原の戦で勝ち、徳川の時代になって7年目のことである。東海道を整備するために新しい村をつくるという。それに貧しい村民が応じて出かけることになった。しかし、森を切り拓いても粘土質の土壌が悪いのか、農作物は育たない。
そんな苦境のなかで、四国の阿波の国の藍染めにならって、有松絞りが苦労の末に誕生した。それに至る経過があざやかに描かれています。
有松絞りは江戸後期に最盛期を迎え、役者絵や美人画の衣装として浮世絵に描かれている。
一度、実物の有松絞りを手にとってみてみたいものだと思いました。
(2013年6月刊。1500円+税)
2013年9月 7日
幕末江戸下町絵日記
著者 福原 敏男 、 出版 渡辺出版
江戸は幕末。そして、下町に生活する町絵師による絵日記です。
幕末の京都のような殺伐とした雰囲気はまったく感じられません。のどかな下級武士の日常生活を絵日記で知ることができます。
主人公は福田永斎という絵師。その師は佐竹永海。さらに永海の師は高名な谷文晁。
慶応元年のころ永斎は30歳前後。明治26年ころには満60歳だった。
明治19年まで、永斎は駒場農学校の仕事をしていた。そこで、博覧会の向けの出品害虫図を描いて博物標本画で生計を立てていた。東大の総合研究博物館が所蔵している東京大学害虫学研究室にある『昆虫飼養日誌』は永斎の作品と思われる。
永斎は、幕末に秋葉原に住み(独身)、神田・浅草・大野・下谷・深川を行動範囲とした。絵によって日常生活が記録されている。
ほのぼのとしたタッチで、当時の下級武士ないし町民の日常生活が描かれています。
食事の風景、二日酔いで寝ている姿など・・・。同輩とともに、火鉢で燗をつけて楽しく飲みかわしている光景もあります。
神田明神での相撲を見物しにも行っています。
藤沢周平など、江戸時代に舞台とする小説を読むうえでもイメージのわいてくる貴重な絵日記です。
(2013年3月刊。2400円+税)