弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2014年10月19日

幕末維新の漢詩


著者  林田 愼之助 、 出版  筑摩選書

 幕末の志士たちが、見事な漢詩をつくっていたことを紹介した本です。
 江戸時代は、漢詩が本格的に成熟をみせた時期である。
 平安時代には、嵯峨天皇や菅原道真などの漢詩人がいるが、まだ唐詩の模倣段階にあった。室町時代には、宋(中国)からの帰国僧、絶海中津、義同周信などのすぐれた漢詩人が登場するが、禅風詩が多かった。
 徳川幕府は朱子学を政道の基本にすえたので、武士階級の教養として、漢学、儒教の学を修得することが不可欠となった。その一環として漢詩をつくるのが、ごく普通のこととなった。
 文人が誕生し、自律した存在となり、武士だけでなく富裕な商人層にも普及した。
 漢詩についても、格調主義から、自由で砕けた宋代風の詩風が流行した。漢学的なものに反旗を翻す専門的な詩人・文人が相次いだ。幕末になると、倒幕に動く憂国の志士たちが、さかんに時世を慷慨(こうがい)する詩をつくった。
 佐久間象山(しょうざん)、藤田東湖(とうこ)、吉田松陰、橋本左内(さない)、高杉晋作、西郷隆盛らは、折につけ浮沈する思いや感慨を、多くの漢詩に託している。その詩の出来栄えは、江戸期の専門的な漢詩人にくらべて、少なくとも見劣りしない詩的力量を発揮している。
 人間 到処 有青山
 (じんかん、いたるところ、せいざんあり)
 山口県生まれの僧、月性の有名な漢詩の一節です。
 「人間」は、中国風に「じんかん」と読むのが漢詩文の常識で、世の中、世間という意味。
 詩をつくる人は温潤で、詩を好まない人は刻薄である。詩は、もともと情より出ずるもので、詩を好まない人は、情が稀薄である。
 西郷隆盛が西南の役で敗れ、ふるさとの城山で自刃する直前につくった漢詩がある。
 尽日 洞中 棋響 閑
 (じんじつ、どうちゅう、ききょう、のどかなるを)
 日がな一日、この洞窟の中で碁を囲み、その音が響くなかで、のどかに暮らしていることだ。
 洞窟のなかで、死の寸前まで隆盛は囲碁をしていたというのです。これには驚きました。
 竹角一声響
 指揮非有人
 弱氓皆猛虎
 潤屋乍微塵
 酷吏空懐手
 姦商僅挺身
 撫御誰違道
 乱党本良民
 これは山田方谷が体験した松山藩内に起きた百姓一揆のありさまを詠じたものです。
 一揆にたちあがった農民は善良な民である。政治が道を間違えているのだと、方谷は百姓一揆を詠じて、はっきりと政治の疲弊を断罪している。
幕末の志士たちの教養の深さに感服しました。
(2014年7月刊。1700円+税)

2014年7月13日

浮世絵に見る江戸の食卓


著者  林 綾野 、 出版  美術出版社

 浮世絵に描かれている江戸の人々の食べているものが紹介されています。同じものが、現代の日本の料理として写真で紹介されていて、比較できるのです。どちらも食指を動かす秀れものでした。
 ガラスのすのこの上にもられた紅白の刺身が描かれています。うひゃあ、ガラスのすのこって、江戸時代にもあったのですね・・・。
 江戸前ウナギを女性が食べようとしている浮世絵があります。「江戸前」とは、隅田川や深川でとれたウナギのことを言い、江戸の外でとれたウナギは「旅うなぎ」と呼ばれた。
 江戸のうなぎは、背中から開き、蒸してからタレをつけて焼く。身はふんわりとやわらかく、外は香ばしく仕上げるのが江戸流だ。
 今まさに串に刺したエビの天ぷらを食べようとする女性が描かれています。
 天ぷらは、江戸の屋台料理の定番だった。火事の多い江戸では、室内で油を使うことが禁じられていたため、天ぷらはまず屋台で普及し、値段も安かった。そのうち、天ぷらは屋台だけでなく、料理店でも供されるようになった。
 5月になると、初鰹(かつお)。江戸っ子の初夏の楽しみの一つだった。初物を食べれば、寿命が75日のびると言われ、粋な江戸っ子は、いくらか無理してでも初物を買い求めた。
 江戸の人々も猪や鹿などの獣肉を食べていた。ただし、「山くじら」と呼び、それを食べさせる店は「ももんじゃ」と呼んだ。
 江戸の豆腐は、堅く、しっかりしていた。江戸っ子にとって、茄子(ナス)は身近で、かつ愛された野菜であった。
 幕府は、ナスやキュウリなどの促成栽培を幕府はたびたび禁止した。野菜の価格高騰を恐れてのこと。
 毎年夏、本郷にあった加賀屋敷の氷室(ひむろ)から、将軍に雪を献上する儀式があった。
 芝居が始まるのは午前6時のころで、終演は夕方5時ころ。土間に座る客を「かべすの客」と呼んだ。
 江戸時代の人々とがたくましく生き抜いていたこと、美味しく食べるのを好んでいた点は現代日本と変わらないことなどを知ることができました。それにしても、浮世絵って、まるでカラー写真のようですね。
(2014年3月刊。2000円+税)

2014年7月 9日

本当はひどかった昔の日本


著者  大塚 ひかり 、 出版  新潮社

 現代日本では、若い母親によるネグレクト(育児放棄)による子どもの死亡事故が起きると、昔なら考えられないこととして、世論が一斉にけたたましい非難をその母親に浴びせかけるという現象が生まれます。
 でも、本当に昔の日本は全員、みながみな子どもを大切に育てていた、幸せそのものの社会だったのか・・・。著者は古典の文献をふくめて、そうではなかったことを実証しています。
 私も、弁護士生活40年の体験をもとに、その指摘には、大いに共感を覚えます。
 平安のはじめに書かれた『日本霊異記』には、男遊びに精を出す若い母親が子どもらを放置し、乳を与えず、飢えさせた話がある。
 子どもは親の所有物という意識の強かった昔は、捨て子や育児放棄は、現代とは比べものにならないほど多かった。
 捨て子は珍しくなく、犬に食われてしまう運命にあると世間は考えていた。捨て子が取締の対象になるのは、江戸時代も五代将軍綱吉の時代からのこと。
五月生まれの子は親にとって不吉。旧五月は、いまの六月にあたり、梅雨時。五月は「五月忌」(さつきいみ)といって、結婚を避ける風習のある「悪月」だった。
 明治12年(1879年)の捨て子は5000人以上、今(2003年)は、67人ほどでしかない。
 中世の村落は、捨て子だけでなく、乞食も養っていた。これは、いざというときの保険の意味があった。何かのとき、「身代わり」として差し出した。
 乳幼児の死亡率の高さを利用して、もらい子を飢えさせておきながら、病死したと偽る悪徳乳母が江戸時代にもいた。
 江戸時代には、離婚も再婚も多かった。日本にキリスト教が入ってきたとき、離婚を禁じられたが、当時の日本人には納得できないことだった。
 『東海道中膝栗毛』の祢次さんと喜多さんはゲイのカップルだった。えーっ、そ、それは知りませんでした・・・。
 安土桃山時代の日本では、犬を「家庭薬として」食べていたそうです。宣教師フロイスの報告書にあります。
 猫が網から解き放たれたのは、江戸時代に入ってからのこと。
たしかに昔を手放して美化するわけにはいかないものだと思いました。それでも、人と人との結びつきがきつく、また温かいものがあったこともまた間違いないことでしょうね。それが、現代ではスマホにみられるように、とても表面的な、通りいっぺんのものになってしまっている気がします。
(2014年1月刊。1300円+税)

2014年6月29日

銀二貫


著者  髙田 郁 、 出版  幻冬舎文庫

 江戸時代の大坂を舞台にした、味わい深い市井(しせい)小説です。
 ちなみに、市井(しせい)とは、辞書によると、昔、中国で、井戸のあるところに人が集まって市ができたことから、人家の集まっているところ、まち、ちまたを言うとされています。
 悪人は出てきませんが、寂しさから主人公に辛く当たってしまう番頭は存在します。といっても、根っからの悪人ではありません。
主人公は武士の子なのですが、10歳のとき、目の前で父親が親の仇として斬殺されてしまいます。身寄りのなくなった男の子を商人が引き取り、寒天問屋に丁稚奉公させることになりました。
 NHKの時代物としてテレビでシリーズ放映されたようですが、もちろん私はみていません。
 武士の子から商売人に、しかも丁稚奉公からスタートするのですから、辛いことばかりだったでしょうが、そこを歯を食いしばって耐え抜くのです。そして、取引先の娘と仲良くなっていきます。とてもうまい展開です。果たして、この先はどうなるのか、頁をめくるのがもどかしい思いに駆られます。地下街の喫茶店で読みふけったのですが、コーヒーを飲むために手を伸ばすのも惜しいほどでした。
 そして、主人公には次々に不幸が襲いかかってくるのです。大坂も、江戸と同じで、何度も大火事に見舞われてしまいます。ちなみに、大阪ではなく、大坂でした。
 「遊んでもらっていた」女の子も消息を絶ち、再びあらわれたときには、顔に火傷をしていました。
 いやはや、このあと、いったいどうなるのでしょう・・・。
 そして、寒天問屋のほうも、思わしくありません。主人公は寒天をつくる現場に行って修行します。そして、新製品づくりに挑戦するのです。
 喫茶店で読み終えたときには、心の中が、ほんわか、ほっこり温まっていました。
 強くおすすめしたい江戸時代小説です。それにしても、タイトルがいいですね。読んでいくうちに、内容にぴったりだということが分かります。
(2013年7月刊。600円+税)

2014年5月25日

立身いたしたく候


著者  梶 よう子 、 出版  講談社

 江戸時代も終わりのころ、武士の世界も大変でした。
 上司によるいじめ(パワハラ)、うつ(ひきこもり)、猛烈な就活競争など、まるで現代日本と似たような状況もありました。
 そして、商家の五男が武家(御家人です)に養子に入ったのです。
 江戸時代というと、士農工商で厳しい身分序列があり、町民はひどく差別されていたというイメージがあります。でも、本当のところは、農民や商売人が武士になる可能性は大いにあったようです。もちろん、お金の力です。
 幕末期の新選組の隊士たちにも農民出身者がたくさんいます。彼らは手柄を立てて武士階級に入り込むつもりだったのです。そのため剣道修行に励んでいました。
 この本の主人公は、商家の五男では将来展望が暗いので、御家人への養子になることで立身出世に賭けてみたのです。
 旗本は、上様に会えるお目見(おめみえ)以上で、御家人(ごけにん)はたいていがお目見以下。小普請(こぶしん)では、お目見以上は小普請支配、お目見以下は小普請組と呼ばれる。
そもそも小普請は、お役を退いた老年のものや家督を継いだばかりの者、若年の者、あるいはしくじりを犯して役を解かれた者、長患(ながわずらい)のものなど、禄高(ろくだか)3千席未満の旗本、御家人が所属する無役無勤の集団だ。
 家督を継いだばかりの主人公は当然、小普請入り。小普請は、勤めがない代わりに、家禄によって定められた小普請金と呼ばれるものを納める。これを幕府施設の修理・修繕につかう。小普請金の徴収やらを管理・監督しているのが小普請支配である。その下に、組頭がいる。支配と組頭には、逢対(あいたい)という大切な役割があった。
 江戸時代の「就活」(シューカツ)は、現代と同じです。いろんな伝手(つて)を頼って、ともかくあたって砕けろ式で飛び込み、訪問を続けていきます。
 さらっと読める、ユーモアたっぷりの時代小説でした。
(2014年2月刊。1600円+税)

2014年5月10日

赤穂浪士と吉良邸討入り


著者  谷口 眞子 、 出版  吉川弘文館

 私の誕生日が討入りの日(師走半ばの14日)と同じこともあって、赤穂浪士の討入りは縁深いという思いがあります。映画やテレビもよく見ましたし・・・。
 150頁足らずのブックレットですが、豊富な絵と写真によって、赤穂浪士の討入り事件の意義を考えさせてくれます。
 事件が起きたのは、元禄14年(1701年)3月14日のこと。関ヶ原の戦いから100年がたち、人々は平和に慣れていました。
 江戸城の松の廊下で殿様がいきなり刀をふりあげて斬りつけたのですから、ただごとではありません。捕まって、即日、切腹を命じられてしまいました。この原因は、結局のところ、今日に至るまで諸読あるものの、不明というのです。そして、切腹を命ぜられた赤穂藩の遺臣たちは翌年12月に討入りして、成功するのでした。事件のあと、1年9ヵ月もかかったこと、47人もの集団で討入ったことに、画期的な意義があります。
 そして、討入りに成功した翌年2月に浪士たちは切腹させられたのです。47人が討入りに入って、切腹させられたのは46人。残る1人(寺坂吉右衛門)は、どうしたのかも謎のまま。逃亡したというのもあれば、密命を帯びていたという説もあります。その身分は足軽だったようです。
 そして、47士のなかに上士(家老など、身分の高い侍)が少なかったのを浪士たちは恥ずかしく思っていたということも紹介されています。まあ、仇討ちから逃げ出したくなる気分も、私は理解できます・・・。
討入りの時点で吉良邸には150人いたが。100人ほどは抵抗していない。長屋内に閉じ込められていた。したがって、47人の赤穂浪士は40人ほどを相手すればよかった。だったら、討入り側の勝ちは当然ですよね。
 それにしても、吉良上野介の息子は、どうして助かったのでしょうか・・・。
 吉良側には、戦力になるものがほとんどいなかったし、討ち入りに備えて準備していたとは考えられず、真夜中の襲撃で、心理的に追いつめられたと思われる。
 赤穂浪士は、打ち入りは死刑に値する罪であると認識していた。通常の敵討ち(かたきうち)と認められるとは思っていなかった。いわば、真夜中に他人の邸宅に押し入って殺人を犯すというテロ行為だという自覚があった。だから、命が助かるとは思っていなかった。
斬罪と切腹とでは法的なあつかいが異なる。
 上野介の49日にあたる2月4日に浪士たちに切腹が言い渡された。異例に時間がかかったわけではない。
 赤穂浪士の討ち入り事件を再現して確認した気分になりました。
(2013年12月刊。2000円+税)

2014年2月23日

「どぜう屋・助七」


著者  河治 和香 、 出版  実業之日本社

 浅草駒形にある「駒形どぜう」6代を小説にした、江戸情緒を心ゆくまで堪能できる小説です。
 私にとってドジョウって、なんだか泥臭い味のようで、食べてみようと思ったことはありませんでした。でも。この本を読んで、一度、1日600人の客が来るというこの店に足を運んでドジョウを食べてみたくなりました。
 なにしろ、210年の歴史をもつドジョウの店なのですから・・・。
 有名な作家である獅子文六が昭和36年に、東京の好きな店として、駒形のどぜう屋と神田のヤブをあげています。神田のヤブのほうはいって食べたことがあります。たくさんの人でにぎわっていました。
 「駒形どぜう」のほうは、はじまりは、もう江戸時代も幕末のころのことです。
 人々が助けあって生きていました。しかし、次第に殺伐な社会風潮になっていきます。ペルリの黒船が来て、新選組が京都に出来て、剣道を教える道場が大流行していました。
 こんな世相の移り変わりを、小説のなかに時代背景としてよく取り込んでいます。
 今でも「駒形どぜう」で出す酒は、伏見・北川本家の「ふり袖」、そして、「どぜう汁」の味噌は「ちくま味噌」である。
 本当に、おいしそうな店です。しっかり江戸気分に浸ってしまいました。
(2013年12月刊。1600円+税)

2014年2月14日

新選組遠景


著者  野口 武彦 、 出版  集英社

 新選組の実態と歴史的位置づけを明らかにした本として、とても興味深く読みました。
 文久3年(1863年)2月、江戸から総勢240人余の浪士の一団が京都に向かった。
 服装はまちまちで、野郎頭や坊主もいる。一番目だったのは、「水戸天狗連」と称する水戸脱藩浪士立ちの20人のグループ。首領格は芹沢鴨(せりざわかも)。その黒幕は清河八郎。近藤勇たち多摩出身者は、その他大勢でしかなかった。
 ところが、京都に着いたとたん、江戸に大半の浪士が戻ることになった。前年の「生麦事件」の処理をめぐって、横浜沖に12艘のイギリス軍艦が来ており、幕府への謝罪と10万ポンドの賠償金を要求していた。
 しかし、江戸に戻らず京都残留を主張し、居残った一群がいた。それが芹沢鴨と近藤勇のグループだった。残留者はわずか14人(または13人)だった。これが新選組の草分けとなった。
 地方農村の郷土などが剣術道場を経て「武士になれる」という一念がうずくようになっていた。身分障壁にひびが入って、上昇ルートが見えてきた。このパトスを知らないと、幕末史の深層は理解できない。
 京の町を取り締まる役目にあった会津藩士の会津弁が京都人にはさっぱり通じなかった。
 そして人手不足にも悩んでいた会津藩にとって、言葉が通じ、腕に覚えのある連中は頼もしい即戦力だった。新選組は権威のある会津藩の部局となった。
 酒乱気味のうえ、粗暴な振る舞いの目立つ局長の芹沢鴨は、深夜、愛人とともに滅多切りにされた。会津藩の同意の下、近藤勇たちが斬殺したのだった。
 元治元年(1864年)6月、新選組が「池田屋」を急襲し、20数名の尊攘派志士を殺傷した。この池田屋事件が新選組の盛名を一夜にして天下にとどろかせた。
 ただし、新選組は、あらかじめ池田屋に志士たちが集まっているという情報を得ていたわけではなかった。三条方面をしらみつぶしに調べて歩いていた近藤隊が思いがけず、池田屋で密議中の浪士立ちに行きあたった。そのため、別方面にいた土方隊が来るのが遅れて近藤らは一時、非常に苦戦した。土方隊が明けつけて盛り返した。近藤勇が大声で「御用改めである手向かいする者は容赦なく切り捨てる」と一喝した。すごい迫力だった。近藤の天然理心流には気合い術もあった。大声でまず相手を畏縮させるのである。
 新選組は大時代な立回りはやらない。効率的に横面や小手を狙って斬り込んだ。
池田屋事件の悲劇性は、新選組が多くの人材をむざむざと殺しながら、どんな相手を斬ったのかの自覚がまるでないところに醸し出される。
 沖田総司は、天才的な剣術を惜しまれつつ、肺結核のため27歳の若さで死んだ。沖田総司の本領は道場剣法ではなかった。斬りあいの修羅場で発揮された。
 沖田総司は、近藤勇や土方歳三に命じられると、黙って相手が誰であろうと斬った。勤王浪士はもとより、裏切り者の成敗にも容赦なく刃をふるった。
池田屋事件における大量殺傷のあと。尊攘諸藩の新選組観が根本から変わった。たかが王生浪士という悔りから、恐るべき強敵として、激しい憎悪の対象となった。新選組は引き返し不能の一点を越えた。新選組に対する情け容赦ない報復が宣言された。
新選組は、それまでのローカルな「王生浪」から、一挙に天下公認の治安警察隊に昇格した。幕府や会津藩の扱いも、にわかに丁重になった。近藤勇には、「与力上席」の内意が示された。禁門の変では、新選組は戦闘現場に出ず、一人の犠牲者も出さなかった。その結果、何も学ばないことになった。
 禁門の変は、鉄砲が戦闘の主役を担ったことを意味している。市街戦に大砲が使用され、銃撃戦が勝敗を決した。ところが、新選組は池田屋事件のとき斬撃戦で勝利を得たことから、そこから脱皮する機会を逸した。
 慶応3年(1867年)11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が近江屋で京都見廻組に倒された。
11月18日、新選組から抜けていた伊東甲子太郎が暗殺された。
 12月18日、近藤勇は馬に乗っているところを伊東甲子太郎のいた高台寺残党から銃撃され、右肩に甚大なダメージを受けた。 強い相手は鉄砲で倒せばよい。正面から剣の勝負を挑むのは、とっくに時代遅れになっていた。
 慶応4年4月、近藤勇は大久保大和と名乗っていたのを見破られて、刑場で斬首された。土方歳三は、函館の五稜郭で、明治2年5月、戦死した。
 最後まで面白く、一気に読み通しました。
(2004年8月刊。2100円+税)

2014年2月 2日

雪に咲く

著者  村木 嵐 、 出版  PHP研究所

 新潟は高田藩の筆頭家老・小栗美作(みまさか)の壮絶な生涯を描いた小説です。
 越後高田藩は中将家である。藩主の光長の祖父は二代将軍秀忠の兄にあたるので、武家の長子相続からすれば、格は将軍家より上になる。
 加えて、光長の母は三代家光の同母姉だ。光長ほど、家康に血筋の近い者はいない。御三家にしても、九、十、十一男の筋にすぎず、将軍家すら三男の筋だ。
ときの大老は酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清。越後高田藩のことを何かと気にかけてくれる。ところが、雅楽頭は、同時に密偵を越後高田藩に潜入させ、情報を得ていた。
 仙台藩家老・原田甲斐が乱心して、一門重臣の斬殺に及び、自身も討たれた。そこで、仙台藩譜代の原田家は断絶処分を受けた。
 光長の継嗣が41歳のという若さで突如として亡くなった。子どもがいない。さあ、どうするか・・・。
 藩内が二手に分かれ、対立抗争が次第に激化していく。筆頭家老の美作を気に入らない者たちは、美作邸へ押しかけて来るようになった。
 家で騒動が起きたら、幕府により御家断絶の危機があります。それで、美作はじっとガマンし続けたのでした。ところが、将軍綱吉の時代になると、お家騒動のおきたところは、どんなに名門であっても、容赦なく家断絶が命じられるのです。
 綱吉も犬ばかりを大切にしたのではありません。そして、ついに苛酷な刑が申し渡しされるのでした。
江戸時代も、域内のいたるところで、派閥抗争が激しかったようです。江戸時代の人間関係の難しさがよく伝わってくる本でした。
(2013年12月刊。1700円+税)

2014年1月14日

歴史の読み解き方


著者  磯田 道史 、 出版  朝日新書

 日本人とは何かを考えるとき、必読文献の一つだと思いました。
室町時代の庶民は家の墓所は持っておらず、家の意識はうすかった。中世までの日本人は近世に比べて流動性が高く、しばしば移住していた。
 「親元と定住」の文化は江戸時代にできたもの。中世的な武士の集団は寄せ集めだった。江戸時代的な武士の集団は石のように固まって密集していた。
 武士の世界は家格によって気質が違う。10石以上の上土は独立性が強く、藩主にも、ずけずけと物を言うように育てられる。傍若無人で、わがままな人が多い。高杉晋作や大隈重信がこの部類。
これに対して福沢諭吉、大久保利通、西郷隆盛など50石以下の徒士(かち)は小役人で実務能力がある。家督を相続するときに筆跡とソロバンの試験があった。能吏タイプが多い。徒士は身分にこだわる上士とちがって学校教育に抵抗がない。旧武士のうち、この薄いこの徒士層が日本の近代化に大きな役割を果たした。及木希典・児玉厳太郎、大山厳・・・。日露戦争の将軍はほとんど禄高50石くらいの徒士出身。日露戦争の将軍に旧農民はいない。旧大名もいない。彼らは徒士の文化で育った特殊な人たちであり、一般の日本人ではない。
テレビの水戸黄門では悪代官だらけだが、あれは嘘。代官は大勢の武士のなかから学問のある清廉な者を選んでいた。
 藩の最高意思決定者は藩主・大名と思われがちだが、これは半分以上、間違い。藩主が藩政をみていたのは江戸前期の100年間くらい。のちには、「家老と奉行の合議」で決めた。ただ、藩主は家老や側近などの人事案には口が出せた。
 江戸中期以降、通常、藩主は家老会議には出席しない。藩主は、企業でいうと、社長というより会長か最高顧問といったほうがよい。
 家老が人事を決める。藩主は報告を受けるが、人事は多くは先例と家格で決まる。家老はほとんど世襲で、秘書役に操られていることも多い。実質、藩の意思決定は誰がしてるのか分からない。
 日本人は追いつめられると強い。どんな変革も改革ものみ込む。
 日本人は、いったん負けの原因を認めると変わるのは早い。安定を好むので、安定が失われそうになると、不安になって一気に改革に向かう。
 日本人は外部から大きな変化の波を受けると、変わりやすい。
日本全国が均一に識字率が高かったのではない。明治前期までの日本では、識字率は京都の周辺と、東海・瀬戸内海が非常に高く、東日本や東北・南九州は低かった。
 江戸時代の日本は、現代の私たちが思っている以上に、銃のある社会だった。人口4000人の村に277丁もの銃があった。江戸時代以来の日本人の家庭から銃や刀が消えたのは、アメリカ軍の占領によるところが大きい。
 江戸時代の奉行所・代官所は税務署と代用監獄ほどの役割しか担っていなかった。今日のこまかな行政サービスは、庄屋と村の仕事だった。犯罪が発生しても、犯人は村人たちが捕まえてくる。奉行所は、牢屋と番人さえおいておけばよかった。
 江戸時代の治安が良かったことの理由として、刑の厳しさがあげられる。事件が起きて領主のところにもちこまれると、その犯人は死刑になる可能性が高い。それで、江戸時代には、「お上」の領主裁判を回避する文化ができあがり、これがこの国の法文化になっていった。
 江戸時代の前半、人はすぐ死刑にされていた。水戸藩では1646年から1666年までの21年間で1000人が捕まり、うち104人が死刑になった。ところが、江戸の後期になると、町の組織が犯罪を抑止した。地域共同体が犯罪抑止に機能していた。そのため江戸時代の治安は良かった。
 幕末の長州藩の意思決定のやり方が紹介されていますが、これは圧巻です。
上段の間の真ん中に藩主が座り、藩主の左手と右手に家老が列座する。会議中、藩主は基本的に発言しない。
 最初に月番の家老が発言する。たとえば・・・。
「今日は攘夷の決行についてどうするか、評議してください」
すると、次の間という一段低い部屋の末席に座っている官僚たちが議論を始める。これが何時間も続き、大声で怒鳴りあったりする。その間、上の段にいる藩主と家老たちは無言で、一切しゃべらない。3時間でも4時間でも聞き続ける。
 下座、末席の者たちがはげしく議論して、そろそろと思うと、家老が意見をまとめる。そして、次の瞬間に、藩主が「そうせい」と言う。これが鶴の一声となって、合議の一同は、反対派も賛成派も一斉に平伏して決定に服する。長州藩では、こうやって藩の意思がしっかり決まっていた。藩主の権威づけのもと、断固たる決定ができたわけであるから、みなが服することになり、決定から実行までのスピードが速い。これがあとで政事堂というものになる。
 明治維新になって、各藩がこれを真似しはじめて、日本中に政事堂ができた。
 こうやって国会の下地が出来ていったわけですね。まったく知りませんでした。
 有名な五箇条の御誓文のなかに「万機公論に決すべし」とあるのも、きっと、このような実績をふまえたものだったのでしょうね。
 この本で語られていることは、どれも近代日本そして日本人の成り立ちにとって大きな意義のあるものばかりです。230頁ほどの新書ですが、いたるところに赤エンピツで棒線を引いて、この新書も真っ赤になってしまいました。
(2013年12月刊。760円+税)

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