弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2016年10月15日
江戸のパスポート
(霧山昴)
著者 柴田 純 、 出版 吉川弘文館
江戸時代、旅行している旅人が病気になったり、お金がなくなったとき、病人の郷里まで安全に送り届ける仕組みがあったというのです。
56歳の女性が旅の途中で仲間とはぐれて一人旅になってしまったあと、足を痛め、所持金も乏しくなったので、保護願いを出したら、村役人が郷里まで無事にリレー式で引き継いで届けてくれた。
保護から送り出しまでの過程がシステム化していた。旅の途中で困難にあい、しかも所持金がなくても、往来手形さえ携帯していれば、何とか国元まで送ってもらえた。このように十分な旅費をもたない旅人が、途中で野垂れ死にを心配せず、旅に出る条件が生まれていた。
往来手形を発行してもらえる人々にとっては、パスポート体制は福音だった。他方、往来手形を発行してもらえない無宿(むしゅく。無国籍の人々)は、パスポート体制から完全に除外されていた。
江戸時代の庶民の旅は、元禄時代、つまり17世紀末から18世紀初めから増えはじめ、18世紀後半から急増し、19世紀前半にピークを迎えた。旅行難民対策が整備され、旅行難民救済システム体制が日本列島全体で機能しはじめたので、19世紀前半のピークを迎えたのだ。
加賀藩は、歩行できなくなった旅人に対して、本人が希望すれば、馬や駕籠を使い、足軽を差し添え、「宿送り」を続けていた。ただし、全国どこの藩でもそうだったというのではない。このように旅行難民対策は、諸藩がそれぞれ異なった対応をとっていた。
19世紀前半のころ、田辺城下には、少なくとも年間10万人ほどの順礼が宿泊していた。うひゃあ、これって、すごく多人数ですよね・・・。
日本の往来手形に保護救済規定が入ったのは、往来手形が領主の側からではなく、民衆の救済慣行をもとにして、自律的に形成されたものであるからと考えられる。
江戸時代の日本人は、現代日本人と同じく、旅行が大好きだったようです。女性の一人旅も珍しくなかったというのですから、まさしく平和の国、ニッポンならでは、ですよね。
そして伊勢参りやら、「ええじゃないか」の大群衆など、旅行好き日本人の面目躍如だったのですね。江戸時代の世相を知ることのできる本です。
(2016年9月刊。1800円+税)
2016年10月 9日
天文学者たちの江戸時代
(霧山昴)
著者 嘉数 次人 、 出版 ちくま新書
星を見ていて、それを数式にあらわして計算できるって、私の理解をこえます。暦をつくるというのも同じで、月の満ち欠けを見て美しいなんて思ってないで、それを1年365日と結びつける、なんていうのも私の想像をこえます。そして、和算です。アラビア数字をつかわないで、漢数字で、どうやって微分・積分などの計算が出来たのでしょうか。もう、私の小さな頭は破裂してしまいそうになります。
日本の天文学の歴史は古く、文献によると、6世紀にまでさかのぼる。そして「日本書紀」にも天文学が登場する。
中国の天文学は支配者のための学問として発展した。「天」は自らの意思をもち、支配者にメッセージを下す存在だった。
6世紀から日本の朝廷内に天文や暦学をつかさどる「陰陽(おんよう)寮」という役所がつくられた。
17世紀の終わりに、800年ぶりに新しい暦が一人の日本人によってつくられた。渋川春海である。中国の暦法に独自の改良を加え、日本の天象にうまく合うように工夫した。
渋川春海のバックには、保科正之や水戸光圀といった幕府の有力者がいた。また、陰陽頭の土御門泰福の援助もあった。
そのころ、星座の名前もつけていたのですね。おどろきます。もちろん、オリオン座なんてものではありませんよ。大宰府という名前の星座までありました。
渋川春海は、望遠鏡にも接しています。望遠鏡は、1613年、徳川家康にイギリスから献上されたそうです。
日本で地動説を本格的に研究したのは、18世紀の後半。伊能忠敬が日本全国を実測してまわったころの江戸時代です。彗星の正体をさぐる研究も日本で始まった。
ところが、1828年に有名なシーボルト事件が起きてしまった。国家機密だった伊能忠敬による日本地図の写しをシーボルトに渡したことが発覚し、高橋景保は逮捕され、翌年には獄死してしまった。45歳だった。
江戸時代の人々の天文学の研究は、それなりに進んで、成果もあげていたのです。ところが、明治維新になって、一時は、まったく価値ないものとされてしまいました。それが明治の半ばになって、ようやく見直されたのでした。
江戸時代の人を今の私たちがバカにできるはずはありません。
(2016年7月刊。780円+税)
2016年9月20日
漂流の島
(霧山昴)
著者 髙橋 大輔、 出版 草思社
あまりの面白さに、乗るべき列車を乗り過ごしてしまいました。ホームに立って列車を待ちます。カバンから本を取り出して読みはじめました。実は、読む前は期待していなかったのです。いくつかの漂流記を、そのさわりを紹介する本なんだろうという誤った先入観があったからです。ところが、これは探検家である著者が、かの鳥島へ行って苦労したという体験記なのです。面白くないはずがありません。ホームに立って列車を待っていると、いつまでたっても来ません。実は、この時間は別のホームから列車が出るのです。案内放送が耳に入らないほど、本の世界に没入していました。列車が出ますというので、ふり向くと、ちょうどドアが閉まったところでした。ええっ、まあ、いいや、この本をじっくり読もうと思って、また別のホームに向かったのでした。
探検家の著者は、何とロビンソン・クルーソのモデルが実際に生活していた住居跡を探しあてたといいます。すごいですね。モデルはスコットランド生まれの船乗りで、アレクサンダーセルカーク(1676-1721年)。南太平洋の無人島での4年4ヶ月間の一人で生きのびた体験をダニエル・デフォーが28年間にひきのばした小説にしたのだ。
島は南米のチリにあり、今ではロビンソン・クルーソー島といって、700人ほどの住民がいる。そこで、次は日本。そして、あのアホウドリで有名な鳥島を狙います。なにしろ、この鳥島には、ジョン万次郎をはじめ江戸時代の160年間になんと13回、およそ12年に1度の割合で漂流民がたどり着いて、無人島での生活に耐えて生きのびた記録があるのです。でも、鳥島はアホウドリの貴重な生息地であり、再生プロジェクトが進行中ですから、漂流民の発掘なんて、とても許可がおりそうにありません。
著者は、アホウドリの支援、そして火山島の調査、そんなグループの下働きの一員としてついに鳥島に上陸できたのです。まさしく執念の勝利です。
それにしても著者は、漂流民に関する記録を丹念に読みこなしています。そして、それを題材とした小説を読み、鳥島で生活したり滞在したことのある人々に何回となくインタビューしています。こんな下準備があってのことなんですね、探検に成果が出るのは・・・。
鳥島は活火山でいつまた大噴火があってもおかしくないところ。そこに、かの長谷川教授は一人で何ヶ月も寝泊まりするのです。火山の噴火があったら、逃げようがありません。
「覚悟を決めています」
なかなか言えるセリフではありませんね・・・。
漂流民のなかには、アホウドリの肉だけを食べているうちに高脂血病になって病死した人もいたようです。やはり、人間が健康に生きるためには魚とか、いろんな食べ物をとったほうがよいのです。
逆に、アホウドリは殺さず、その子に与えるエサを横どりするだけだった漂流民もいたとのこと。信じられません。
この無人島で、漂流してくるものを待って集めて、5年がかりで船をつくったというのにも驚かされます。すごい執念です。そして、生きて帰れることが分かったとき、死者の名前を呼び、また、遺骨を拾って持ち帰ったのでした。
一番長い人は、なんと19年3ヶ月も一人で生きのびたのです。なんとも強靭な生命力です。恐れいります。
私自身は、とても探検しようなんて勇気はもちあわせていません。本を読んで、その気分に少し浸るだけです。面白い本を、どうもありがとうございました。
(2016年8月刊。1800円+税)
2016年9月18日
川原慶賀の「日本」画帳
(霧山昴)
著者 下妻 みどり 、 出版 弦書房
これは素晴らしい画帳です。江戸時代の情景が総天然色写真のように再現されています。総天然色映画って、分かりますか。団塊世代の私の子どものころ、チャップリンの白黒映画からカラー映画に移行していきました。そのとき、カラー映画とは言わず、総天然色映画と呼んだのです。心の震えが今もくっきり思い出せるほど鮮やかな色彩でした。
浮世絵もすごいと思いますが、ここで描かれている江戸時代の長崎の日々の生活のこまやかな情景描写には、思わず息を呑むほど微細です。
川原慶賀という人は町絵師ですが、長崎・出島の出入りを許されたのでした。
1786年に生まれ、1860年まで生きていたと推測されています。カメラがないので、腕のいい絵師が出島に派遣されたのです。オランダ人の本国へ持ち帰るみやげものにするためです。ですから、川原慶賀は「シーボルトのカメラ」という別名もあるのでした。ともかく、描写がこまかいのです。圧巻です。
残念なことに、川原慶賀の絵は、現在、ほとんどオランダ、ドイツ、ロシアなど海外にある。そんなわけで、この本が貴重なのです。
年末年始の大人そして子供たちの過ごしかたが絵で紹介されています。正月にタコ揚げするのです。踏絵のときは人々が厳しい顔つきをしています。驚くべきことに、ひな祭りのときには、子どもたちにもお酒を飲ませていて、酔っぱらった子どもたちが盛りあがってウロウロしてにぎやかだったというのです。まさか、と思うような情景です。
いろんな仕事の風景も描かれています。山菜(きのこ)採りや石灰づくりがあります。かえる捕りなんて、どういうことなのでしょうか・・・。まさか食べていたのですが、ガマの油をつくっていたのでしょうか・・・。町には、メガネ屋もあります。どうやって度を合わせていたのでしょうか。菓子屋、魚売りの行商、大道芸人・・・、なんでもあります。
お見合いの場まで描かれているのです。もちろん、祝言、結婚式もあります。花嫁は全身白装束でが、これは死装束なのです。友人、縁者に死別して、新しい夫の家の人となったわけです。でも、江戸時代には、夫婦別姓でしたし、死後は別墓でした。嫁盗みという便法も紹介されています。婚礼費用を節約する便法でした。
いながらにして、江戸時代の人々の生活・習俗を知ることのできる画帳です。ありがたいです。ありがとうございました。
(2016年7月刊。2700円+税)
2016年7月25日
南部百姓・命助の生涯
(霧山昴)
著者 深谷 克己、 出版 岩波書店
『殿、利息でござる』は、いい映画でした。江戸時代も末ころの百姓・町民が自分のことのみ考えるのではなく、マチやムラ共同体全体のことを優先して考え、必要なら自分を犠牲にするのもいとわないという生き方をしていた実践例です。
この本の主人公も、同じく江戸時代の末ころに生きていました。
奥州・南部藩の城下町、盛岡の牢内で、1人の百姓が安政6年(1859年)に3冊、文久元年(1861年)に1冊、合計4冊の「帳面」を書き上げた。この4冊は、今も子孫筋の手元に保存されている。
この帳面を残した百姓の名は命助(めいすけ)。文政3年(1820年)に生まれた。肝煎(きもいり)格の家とはいえ、生活はそれほど楽ではなく、天保の飢饉のときは17歳で秋田藩院内の鉱山に出稼ぎに行った。
命助は身長174センチ、体重112キロという巨漢だった。
ペリー来航という「外患」をかかえた嘉永6年(1853年)、南部三閉伊(さんへい)地方に一揆が起きた。命助34歳のときである。この一揆は仙台藩領への越領(えつりょう)強訴(ごうそ)という方法をとり、8千余の百姓が南部藩領を出た。そして、やがて45人の総代だけを残して帰国した。命助はこの一揆の頭人(とうにん。リーダー)の一人として活躍した。
一揆のあと命助は村役人となるが、代官所の追及があって、家族を残して村を出て、仙台藩領内で、修験者(しゅげんしゃ)として暮らした。そのあと、京都へ上がり、公卿二条家の臣となった。そして、朝廷の権威を借りて南部藩に戻ったところ、南部藩に命助だと見破られ、牢に入れられた。
獄中生活は6年8ヵ月に及び、命助は45歳のとき牢死した。それまでの牢生活のときに書いた帳面が4冊残っている。
百姓の子が習学するのは、江戸時代も後期になればそれほど異例ではなく、命助も10歳をこえたら四書五経を素読で学んだ。
一揆というと、勝手放題の打ちこわしというイメージがありますが、実際には、きちんと統制のとれた行動をしていたようです。そして、45人もの総代がいて、犠牲者を出さない工夫をいくつもしていたのです。
すごいですね。現代日本人のほうが、負けているんじゃないかという気がします。やっぱり自分の納得できない社会状況に置かれたら、声を上げるべきなんです。安倍首相の言うとおりにしておいたら、いつか良いこともあるだろう、とか、政治家なんて誰も彼も同じようなものだから、投票所へ足を運んでもムダなんて思い込んでいると、もっとひどいしっぺ返しがあるのです。やはり、目を見開いて、いやなことはノーと言い、平和なニッポンに生きたいという自分の要求を声をあげるべきです。
1983年に発行された本が30年ぶりに復刊されました。江戸時代の一揆の実際を知る有力な手がかりになるものです。
(2016年5月刊。420円+税)
2016年7月23日
ながい坂(上)(下)
(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 新潮文庫
久しぶりに周五郎を読みました。40年以上も前、司法修習生のとき、周五郎にぞっこんの同期生からすすめられて読むようになりました。細やかな江戸情緒と人情話の展開にしびれました。次から次に周五郎の書いたものを読んでいきましたので、大半は読んだかと思っていましたが、新潮文庫の目録をみると、なんと大半は読んでいないようです。
周五郎は、私が大学に入った年の2月に63歳で亡くなっています。ということは、50代のころにたくさん書いたのですね。この「ながい坂」は著者が60歳のときに「週刊新潮」に連載を始めたものです。1年半におよぶ連載です。
たしかに本格的長編です。でも、ちっとも飽きがきません。次はどういう展開になるのか、頁をめくるのがもどかしい心境です。この本を読んでいるときは至福の境地でした。いやはや、細やかな人情の機微をよく把えつつ、大胆なストーリー展開にぐいぐい惹かれていきました。文章が、ついかみしめたくなるほど味わい深いのです。
解説(奥野建男)を紹介します。なるほど、このように要約できるのですね・・・。
「圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力して上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させていく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。
それは、ほとんど立身出世物語に似ている。いや作者は、生まれや家柄を不当に区別され、辱しめを受けた人間が、学問や武道や才能により、つまり実力と努力により、立身出世を志し、権力を握り、そして自分をあざわらった人間たちを見返すのは、人間として当然の権利であり、正しい生き方だと言っている。
それは学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきたけれど、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという、自分の苦しくにがい体験をふまえた人生観である。作者は、生まれながらの身分に安んじ、小成で満足して、出世する仲間の足をひっぱる、志もなく自らは努力もしない向上心のない卑しい人間を、もっとも嫌悪する」
作者はこの「ながい坂」を自分の自叙伝のつもりで書いたというのですが、この解説を読んで作者の心が少し分かりました。疲れた頭をしばし、スッキリさせてくれる清涼剤として一読をおすすめします。
(2016年2月刊。790円×2+税)
2016年7月18日
吼えよ江戸象
(霧山昴)
著者 熊谷 敬太郎 、 出版 NHK出版
江戸時代に長崎から江戸まで、はるばる陸路で象が歩いていった史実をふまえた歴史小説です。そのストーリー展開の美事さに思わず引きずり込まれてしまいました。「痛快時代小説」というオビのフレーズに文句はありません。
ときは八代将軍・吉宗のころ。吉宗は南町奉行の大岡越前と何やら謀議をしている気配がある。江戸時代は「鎖国」していたと言っても、実はヨーロッパの情勢やら中国そして東南アジアの文物が日本に入ってきていた。そして、日本からひそかに人間が送り出されていた。人買いの話である。
象の重さをいかにして量るか。このような問いかけがなされた。『三国志魏書』に答えがのっているという。いったいどんな正解があるのか・・・。
戦後の日本で、象を乗せた列車が走って、子どもたちを大いに励ましたという話(歴史的事実です)があります。江戸時代の人は実物の象を見て、どう思ったのでしょうか・・・。
象は江戸に来たら、そのまま死ぬまで江戸にいたようすです。でも、一頭だけでしたので、子どもは生まれるはずもありません。メス象は日本に連れてこられて早々に死んでしまったのでした。ともかく、象は大喰いですから、象をタダで見せるわけにはいかなかったのです。
先ほどの問いの答えは、象を船に乗せることによって重さを量るというものです。それ以上、詳しく知りたかったら、この本(438頁)をお読みください。
象が江戸に向かったのは享保14年(1729年)で、寛保2年(1742年)12月、象は21歳で病死した。象の糞は、乾かされて黒焼きにされて薬として売られていた。
象と心を通いあわすことのできる少女が登場することによって、話は一段と面白くなります。また、象の挙動の意味も理解できます。ともかく、象を陸路、江戸まで連れて歩いていくという旅程で次々に起きる難事を見事にさばいていくのも痛快です。
あまり難しいことを考えたくないという気分のときに読む本として一読をおすすめします。
(2016年2月刊。2200円+税)
2016年4月 9日
江戸時代の流行と美意識
(霧山昴)
著者 谷田 有史、村田 孝子 、 出版 三樹書房
江戸時代は現代日本と同じく美意識をもてはやしていたようです。
女は美しく、男は粋でありたいと願っていた。江戸の人々は当時のファッションリーダーだった花魁(おいらん)や歌舞伎役者をまねて、センスを磨き、ヘアスタイルやコーディネイトに工夫をこらしていた。
江戸の遊郭・吉原は売色の巷(ちまた)ではあったが、同時に江戸庶民の一大社交場でもあった。文化・風俗・言語など、ここから発生して江戸の流行をつくったものが少なくない。
お歯黒は、今の私たちからすると、なんだか気味悪いですよね。でも、歯を保護して、虫歯を予防する効果もあったそうなんです。なるほどなんですね。
原料は、五倍子粉(ぶしのこ)(ヌルデの木にできる虫瘤)と沸かしたお歯黒水(酢、酒、米のとぎ汁に折れた針や釘などを入れてつくった)で、これを交互に歯に付けると歯が黒く染まった。
吉原では、遊女だけが客の一晩だけの妻になる意味から歯を染めたが、芸者は染めなかった。京阪の遊女や芸者は歯を染めたが、江戸では吉原の遊女だけだった。
女性の髪形そして、かんざし、いずれもいろいろ手が込んでいますね。
タバコは、女性も吸っていました。江戸時代の中期には、女性の喫煙は一般的でした。長いキセルを持ち、女性用のたばこ入れが流行していました。
日本人の美意識を知るためには江戸時代をよくよく認識する必要があります。江戸時代を暗黒の時代とか停滞していた時代だと簡単に決めつけてはいけない、それを実感させてくれる本です。
カラー写真で、江戸時代の日本人の美意識のすばらしさを伝えてくれています。
(2015年6月刊。2600円+税)
2016年3月 4日
無私の日本人
(霧山昴)
著者 磯田 道史 、 出版 文芸春秋
思わず泣けてくる話です。心がじんわり温まります。江戸時代の話なんですが、現代日本にも、そんな人はいますよね。
自分のことしか考えずに、金もうけのみに走る人が少なくないわけですが、反対に、自分のことより他人のことを先に心配して、善意の支援を決して誇らず、目立たずひっそりと一生を終えるという人もいるのです。
町人が町(吉岡宿)を救うために同志をつのってお金を集め(なんと、千両です)、仙台藩に貸し付け、その年1割の利息100両で町の経済を支えるのです。実話というのですから、信じられません。町人って、やはり経済的な実力をもっていたのですね。
財政状況が窮乏していた仙台藩も、おいそれと町人から借金するわけにはいきません。そこで、虚々実々の駆け引きが始まるのです。その過程が詳しく明らかにされていますが、さすが日本人らしいドラマになっています。ついに、仙台藩に1000両を貸し付け、毎年100両ずつの利息をもらっていくのです。すごい発想ですね。その大胆さには圧倒されます。
仙台藩では、庄屋・名主のことを肝煎(きもいり)といった。そして、大肝煎は他藩の大庄屋のことで、百姓のなかから選ばれる役人としては最高の役職だった。大肝煎は、百姓のなかでは、お上にもっとも近い立場だ。仙台藩では、大肝煎が農村における絶大な権力者となった。
徳川時代の武士政権のおかしいところは、民政をほとんど領民にまかせていたこと。徳川時代は、奇妙な「自治」の時代だった。仙台藩は郡奉行をわずか4人しか置いておらず、代官30人を1郡に1人か2人割りあてて、行政にあたらせた。しかし、実際に事を運んでいるのは、大肝煎だった。
幕末の時点で日本人口は3千万人。そのうち武家が150万人、庄屋は50万人いた。漢文で読書ができ、自分の考えを文章にまとめることが出来るのを「学がある」と言った。農村にいた庄屋の50万人が文化のオルガナイザーになっていた。
江戸時代、庶民の識字率は高いと言っても、男女の半数以上は字が読めなかった。そこで、法律や政治においては、読み聞かせが大きな意味をもった。
吉岡宿の人々にとって、迫りくる貧困への恐怖は、火事よりも恐ろしいものだった。仙台藩に現金で千両を貸し付けて吉岡宿を救うという企てを始めてから、すでに6年という星霜がすぎていた・・。
すごいですよね、6年も粘り強くがんばったというのです。
そして明和9年(1772年)9月、仙台藩に金千両を納めた(貸し付けた)のです。明和9年といえば、「迷惑」な年ですから、江戸で振袖火事が起きたころですよね・・・。
安永3年から、吉岡宿では暮れになると千両の利金(利息)である百両が配られるようになり、吉岡宿は潤い、幕末に至るまで人口が減ることはなかった。仙台藩主・伊達重村は領内巡視の途中、吉岡宿に立ち寄り、浅野屋の座敷にあがり込んだ。領主の「御成り」である。そして、浅野屋の売っている酒のために名付け親となって、酒が飛ぶように売れた。苦労した浅野屋はこれでもち直した。同じく穀田屋も平成まで生きのびた。
世のため、人のためにしたことを自分の内に秘めて、外に向かって自慢気に語ることをしなかった人たちがいたのです。実話ですし、詳細な古文書の記録が残っているのでした。それを著者が読みものとしてまとめたのが本書です。近年まれにみる良書だと思います。
このごろ人生に疲れたなと思っているあなたに、いやいや人生はまだ捨てたものではないと悟らせてくれる本です。ぜひ、ご一読ください。
(2015年5月刊。1500円+税)
2016年1月23日
鯨分限
(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版 光文社
江戸時代、鯨をとっていた新宮・太地(だいち)の分限(ぶげん)に育った男の物語です。
豪快です。『巨鯨の海』に続く、鯨とりの様子が熱く語られています。思わず、手に汗を握る痛快小説です。といっても、かなり史実に即しているので、迫真性があります。
太地の捕鯨は、10月を年度初めとし、翌年7月半ばまでの10ヶ月間を操業期間とする。 10月から2月までの、南に向かう上り鯨をねらったものを「冬漕(こ)ぎ」、5月から7月にかけての北に向かう下り鯨をねらったものを「夏漕ぎ」と呼ぶ。
太地では、鯨組の経営全般を担当する太地家当主を大旦那、山見を司る和田家当主を山旦那、船団を指揮する采配役を沖合ないし沖旦那と呼び、この三人が事業と創業の中核を担う。これを太地鯨組の三旦那体制といい、明確に責任範囲が区分されていた。もちろん、最終責任は大旦那の太地家当主にある。
沖待ちとは、鯨が来る前に流し番と呼ばれる船を四方に出し、いずれかの船が鯨を発見すると、沖待ちしていた船団が、迅速に捕獲態勢に入る漁法のこと。
日没(まぐみ)になると、つい先ほどまで濃藍色(こあいいろ)だった海面が、黒檀を敷いたように海面が黒々となる。
物ゆうとは、太地方言で海が荒れること。
夷(えびす)様とは、大きな富をもたらす鯨に対してつけられた尊称。
納屋仕事とは、鯨の解体や搾油、鯨船の建造と修理、捕鯨具の製作と保守などを行う部署。勢子船の艪は八丁で、水主は左右4人ずつの8人。
最後尾の艫押(ともおし。舵取り役)が舵の役割を果たす艫艪(ともろ)を受けもち、取付(とりつき)という雑用係の少年が脇艪という艫艪の相方(あいかた)を担う。
勢子船の乗員は、刃刺、刺水主(さしかこ)、水主、艫押(ともおし)、取付、炊事係の炊夫(かしき)をあわせて、一艘あたり13人、最多で15人ほど。
勢子船の側面には、さまざまな意匠が施されている。その絵模様は、一番船が鳳凰、二番船が割菊、三番船が松竹梅、四番船が菊流し、五番船が橧扇と決まっており、一目で何番船か分るようになっている。
船団の先頭を切るのは、勢子船と比べて速度の遅い網船。網船は三組六艘から成り、それぞれ横腹に一から六の番号が大書きされている。
十六艘の勢子船が従うのは、四艘の持双(もっそう)船、五艘の橧船、道具船(だんぺい)等の補助船。網船をふくめると、三十余艘、総勢300人が漁に携わる。
これに陸上勤務の者を加えると、一頭の鯨にかかわる人数は500人をこえる。それでも捕獲に成すると、優に利益が出る。これが鯨漁のうま味である。
銀杏(いちょう)とは、鯨の尾羽のこと。鯨が潜水するとき、沖旦那が刃刺は、振り上げられた尾羽の微妙な動きから、鯨の進行方向を察して先回りする。
もおじとは、海面に浮かんでくる水泡のことで、その下で鯨は息を沈めている。
横一列に並んだ勢子船は、中央の船を基点に内側に折れて、半円形をつくり、その中に鯨を入れて網代にまで誘導する。一番船は、全体の指揮をとるべく、一艘だけ半円陣の前に出る。刃刺の補助役の刺水主が身を乗り出し、砧(きぬた)と呼ばれる木槌のようなもので、舷側に貼りつけられた張木(はりぎ)を叩く。その原始的な音響が、いやか上にも気持ちを高揚させる。それは鯨にとって極めて嫌な音らしく、先ほどまで悠然と泳いでいた鯨が、とたんに泳速を上げる。
潮声とは、息を吹き出すときに鼻から漏れる音のこと。怒ったり、慌てたりしているときには、天地を鳴動させるほど大きくなる。
漁の最中に水主たちが会話するのは厳禁。刃刺の声が聞こえなくなるから。
鯨油は食用と灯火用だった。灯火用につかうと、木蠟よりも鯨蠟のほうが臭いがきつくないので好まれた。
明治の世まで生きていた太地の鯨とりのスケール大きいお話です。感嘆、驚嘆しました。
(2015年9月刊。1700円+税)