弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2015年8月23日

若冲

(霧山 昴)

著者  澤田 瞳子 、 出版  文芸春秋

 京都の錦高青物市場に店を構える老舗の「枡源」の四代目の店主は、商売そっちのけで絵を描くばかり。稼業は弟たちにまかせっきり。
江戸時代、対象をじっくり観察して描く生写は、画家には必須の素養だった。粉本(ふんぽん)模写を基本とする狩野派ですら、これは同様で、長崎からもたらされた動植物の生写や、将軍の鷹狩や社寺参詣に際しての行列図作成は、御用絵師たる狩野家の重要な任務の一つだった。
 加えて、国内屈指の学問興隆の地である京都では、本草学の隆盛にともない、動植物の詳細な写し絵が多く求められた。それゆえ、京の画家は、生写の腕こそが画技を左右すると見なし、みな懸命研鑚を重ねていた。
 そう、ところ狭しと掛けまされた鮮麗な絵には、一つとして生きる喜びが謳われていない。そこに描かれるのは、いずれ散る運命に花弁を震わせる花々、孤立無援の境遇をひたすらかみしめるばかりの鳥たち。身の毛がよだつほどの孤独と哀れみが、極彩色の画軸から滔々とあふれ出している。
 若冲の絵って、本当に、そんな印象を与えていますよね・・・。
 見る者に鮮烈な印象を与える若冲の絵に秘められた奥深い情念を、あますところなく文章で表現した本でした。圧倒されました。
(2015年6月刊。1600円+税)

2015年8月 9日

馬と人の江戸時代

(霧山昴)
著者  兼平 賢治 、 出版  古川弘文館

 馬は、戦前、筑後平野にもたくさんいました。亡き父の実家(大川市です)でも戦前、馬を飼っていて、写真が残っています。この本は、主として東北地方の人々と馬の結びつきをテーマにしています。
 軍事権を兵馬の権(へいばのけん)と呼んだ。武芸を職能する武士にとって、馬は武威と武芸を象徴する存在だった。良馬を確保して乗りこなすことは、軍事力の優位さと、武芸の技量が秀でていることを周囲に知らしめた。馬は武士そのものを象徴する存在だった。
江戸幕府は、東北の馬、とくに南部馬を求めて馬買役人を派遣していた。いや、幕府だけではなく、全国の大名や旗本も派遣していた。
 公儀御馬買衆(こうぎおうまかいしゅう)に対して、馬買、御馬買、脇馬買(わきうまかい)と呼んだ。
 東北の馬を「奥馬」(おくうま)と呼んだが、奥馬は体格が大きく、性格は穏やかで、人によく馴れた。
 南部馬は、軍馬・常用馬として、実際の利用に適した馬であった。
 牛皮は使い勝手がいいため利用されていたが、馬皮は積極的に利用されていた形跡はない。それが19世紀に入ってから変わった。馬の尾の毛は、甲冑の飾りや、筆の材料として、また、川釣りの糸、刷毛(はけ)や、うらごし器の網などに使われた。
 馬への親しみの情から、今なお馬肉を食べるのを避ける地域がある。
 馬肉を食べる地域として有名なのは長野と熊本ですよね。熊本ではスーパーでも普通に馬肉が売られています。隣接する福岡のスーパーには見当たりませんが・・・。
 日本の在来馬は小柄だった。現在のサラブレッドは160センチほどの長身の馬だが、日本の在来馬は、140センチほど。これは、当時の平均的日本人の身長が160センチをこえていなかったことを考えたらマッチしている。
 南部曲屋(なんぶまがりや)は、人馬がひとつ屋根の下で共に暮らしていたことを如実に示している。
 岩手のチャグチャグ馬コは、さすがに戦争中は中断したそうですが、今は復活しています。3.11事故のあとも復活していますよね。
 この本には登場してきませんが、昔は炭鉱内でも馬が活躍していました。死ぬまで地底で働かされていた馬がいたのです。人間と馬とのかかわりを考えさせてくれる本でした。
(2015年4月刊。1700円+税)

2015年6月19日

遊楽としての近世天皇即位式

(霧山昴)
著者  森田 登代子 、 出版  ミネルヴァ書房

 私は、制度としての天皇制には賛成することができません。人間に無用な差別を固定化させるシステムだからです。でも、今の天皇は、心から尊敬しています。象徴天皇としての限界を守りながら、平和憲法の世界的意義を身体をはって訴えかけているからです。そこは、自民・公明の安倍内閣と真逆です。
 この本は、江戸時代の天皇即位式が庶民の楽しみの対象だったことを明らかにしています。天皇即位式のすべてではありませんが、庶民が弁当たべながら見て楽しめる儀式だったというのです。驚きました。「厳粛な儀式」とは、ほど遠い現実があったのです。やっぱり、本は読むものです。
天皇即位式を庶民が見物していた。それは絵図でも証明されている。九条兼実の日記「玉葉」には、即位式には、僧・尼と服喪者が入場禁止と書かれているから、逆に言うと、それ以外は入場できたということ。
 後醍醐天皇の即位式(1318年)にも、庶民が多く見物していた。
 このように、天皇即位式には、禁裏内に大勢の庶民が見物していた。これは公家の日記から裏付けられる。当時の天皇即位式を「厳粛な儀式」だと現代人の感覚で憶測すると、それは間違いなのだ。
江戸時代、庶民は天皇即位式の見物が許されていて、即位式で使われた調度品を見物して楽しんでいた。
 前天皇が皇位を譲り、新天皇が即位することを受禅(じゅぜん)という。前天皇は上皇となって新天皇を保佐する。前天皇が崩御(死亡)し、その結果、新天皇が皇位を継承するのを践称(せんそ)という。江戸時代より前は、天皇は生前に譲位し、上皇や法皇となって、院政を敷くのが慣例だった。
 天皇即位式のみは庶民が見物できる儀式であり、それ以外は、一般の人々には見せない秘儀とされていた。すなわち、天皇即位式は、公開することが基本中の基本だった。むしろ、「見せつける」行事だった。公家たちは、唐風装束に礼服を着ていた。その異形の服装が庶民の興味を大いに引いた。即位式の見物入場券が発行された。入場者は300人。男性100人、女性200人。
 ええっ、なぜ、女性が男性の2倍なの・・・?
 見物する庶民にとって、天皇即位式は、芝居と遊楽の一つだった。弁当を食べながら見て楽しむものだった。
 ところが、明治天皇の即位式から庶民の見物を排除してしまったのです。
 日本古来の伝統なるものは、実は、明治以来のものでしかないということです。
 それにしても、江戸時代の人々にとって、天皇とはいったいどういう存在だったのでしょうね。政権担当者でないことは明らかだったでしょうから。いわば、「象徴」天皇のようなものだったのでしょうか・・・。
(2015年3月刊。2800円+税)

2015年6月11日

天草四郎の正体

                              (霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  洋泉社歴史新書

 島原・天草の乱には、「歴女」でなくても、大いに心が惹かれます。
 関ヶ原の戦い(1600年)から40年もたっていない1637年(寛永14年)、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件が起きたのです。
 3万人をこす一揆群が幕府軍に皆殺しされ、この天草の「乱」は収束しました。
 私も「原城」跡に行ったことがあります。今では海に面した小高い丘があるだけです。現地に立つと、こんな狭いところに3万人もの人々が何ヶ月も生活し、最後には幕府軍によって全滅させられたというのは信じがたい思いがしました。
 この本は、天草四郎は、実は、一人ではなかったと主張しています。「四郎」とそっくりの少年たちが大勢いたことを強調しているのです。
 天草四郎は、「乱」の最後まで生きていたのですが、3万人もの一揆勢の前にはほとんど姿を現していなかったようです。不思議です。ごくごく狭い城内にいて、天草四郎が姿を最後まで3ヶ月のあいだ一揆勢に見せず隠しとおせたというのは、どういうことなのでしょうか・・・。
 島原・天草一揆(島原の乱の別名)の1年ほど前に、松倉・寺沢両家から若衆たちが集団で逃走していた。こんなこと、ちっとも知りませんでした。
 著者は、「島原の乱」を次のようにみています。
 この一揆は、百姓主体の一揆ではあるが、いわゆる百姓一揆ではない。蜂起の時点で領主側(代官)の血を流し、領主側との「合戦」と城攻めをくり返しているように、訴願に基礎を置く百姓一揆的な妥当性を切り捨てた、百姓一揆への退路を断った武力闘争、一種の「戦争」であり、有馬・小西の時代のような「キリシタンの時代」に回帰することを求めた、ある種の「聖戦」であった。
 島原・天草の状況は、キリシタン信仰へ立ち帰ったというより、ひそかに信仰を継続していた人々が信仰を公然化させたという形跡が強い。
 原城に籠城した男女は3万人以下の2万8千人ほど。軍事指揮にあたる軍奉行に牢人層が配され、村役人クラスが村々を持ち場ごとに配置した。城中は、「凝縮された村社会」を基礎にした籠城体制をとっていた。
 寛永12年末に、松倉家から、47人の家臣が退去し、牢人となった。そして、そのなかから一揆の首謀者があらわれている。
 一揆勢の盟主であり、総大将である四郎のもとに、数十人の若者・少年が組織されていた。
 幕府は、天草に「わらんべ共」は、生け捕りにして、火あぶりに処せられるべきとの命令を出した。むき出しの敵意を示している。
 天草四郎なる人物は、その最期まで一揆の全過程を通じて一揆勢の前に姿を現したことを確認できない。代わりに出てくるのが、「四郎のごとく」出で立ちをした四郎の分身たち、「十六、七の前髪の若者」たちだった。その存在は、具体的であり、可視化されている。
 一揆勢には、20人ばかりの「四郎のごとく」出で立ちをした「16,7の前髪の若者」たちがいて、どれが四郎本人であるが、教えられていなかったのではないか・・・。
 私は、この指摘を受けて、なるほど、そうだったのか・・・、と思わずつぶやいてしまいました。いま、原城跡には天草四郎の銅像が立っています。よく写真で紹介されていますが、海に顔を向けています。
 一揆勢はポルトガル船の救援を待っていたという説があります。平戸のオランダ商館長は、1638年5月1日(寛永15年3月18日)の日記に、四郎について、17,8歳の無名の人で、その首は見つからなかった。行方不明になったもの思われる」と書いているそうです。私も、なんとなく、そういうことじゃないのかな・・・、と思いました。
 世の中は、不思議だらけです。ですから、面白いのですよね。
(2015年4月刊。950円+税)

2015年6月10日

江戸の飛脚

                               (霧山昴)
著者  巻島 隆 、 出版  教育評論社

 江戸時代は、今の便利な宅急便こそありませんが、手紙や物を送るシステムは、かなり整備されていたようです。旅先で買った瀬戸物を自宅宛に送り、軽装のまま旅を続けることができました。私も宅急便を旅先からいつも利用しています。車中・機中で読み終えた本を自宅あてに返送するのです。これは本当に楽ちんです。
 江戸時代の旅行者は、旅先で買った荷物を道中の負担とならないよう、さまざまな方法で目的地へ先に送った。
 宛先と同じ方向へ赴く者に手紙を託す幸便(こうびん)も利用している。
 飛脚問屋は、手紙だけでなく、品物も運んだ。
 幕府専用の継飛脚がいた。御状箱(手紙を入れる箱)の人足のことである。道の真ん中を「エイさっさ」と掛け声とともに走っていく。旅人は、継飛脚が来ると、道の両脇に避けた.継
飛脚は、川明けの朝一番の渡船で川を渡ることが認められていた。
 武家専用の「三度飛脚」というものがあった。大坂と江戸を結ぶもので、大坂城定番の武家荷物と書状を運んだ。月三度の発送だったことから、三度飛脚と呼ばれた。あとでは荷物が増えたので、月3度では間にあわなくなって、月3度より増やしたが、名称の「三度飛脚」はそのまま残った。
 飛脚問屋の荷物延着の原因は、川支(川止め)と馬支(うまづかえ)だった。問屋場で馬が不足している状況を馬支と言った。
米飛脚は、先物取引をする地方の商人に、日々上下変更する米相場の情報を伝達した。
 吉田松陰は、手紙を飛脚と幸便に託した。
 大名(武家)飛脚は、石高や職務がなく、上級から下級武士まで手紙や荷物を運んだ。
 京都には、宛先別に100軒もの飛脚問屋がひしめきあっていた。
 江戸時代には、すでに為替手形が流通していた。
 江戸時代は現金を運ぶこと、それなりのリスクがありました。強盗に早変わりするのです。
 飛脚問屋は、得意先や交通上の関係者などへ、しきりに融資していた。
 飛脚問屋は、小口融資(20年初登場)を行い、金融業も兼ねていた。
江戸時代の飛脚の実際の姿を研究成果をふまえて、平易な文章で明らかにしています。
 やはり、いつの世も情報は宝です。
(2015年2月刊。2600円+税)

2015年5月16日

御松葺騒動

                              (霧山昴)
著者  朝井まかて 、 出版  徳間書店

 尾張徳川藩を舞台とする話です。作家の想像力とは、すごいものです。たっぷり朝井ワールドに浸って楽しませていただきました。
 尾張藩は徳川宗春時代の放漫政治が今なおたたっていて、借金を抱えて四苦八苦しているというのに、藩士たちの生活には緊張感が認められない。それを主人公が一人で改革しようと躍起になるのですが・・・。
 空回りしてしまって、ついには御松茸同心(おまつたけどうしん)を命じられて、都落ちさせられます。要するに、江戸屋敷づとめからの左遷です。
 才能ある自分がなぜ左遷させられるのか納得できないまま尾張へ出向き、山の中の仕事に向かうのでした・・・。
 松茸ができるのは黒松ではなく、赤松。その生成過程が紹介されます。
 松茸が四、五分開きまでの物が御松茸になる。地表に出たものは傘が開ききっているので上納できない。地表から半寸ほど頭を出したときに掘りとなる。手を差し入れて根元から押し上げるように採取する。
 軸が肉厚で白く、太く、かつ湿り気を帯びていなければ、風味は格段に落ちる。松茸でさらに肝要なのは香りと芳しさだ。匂いは傘にある。早採りしても匂いが足りないので、上納品にはならない。このように、松茸の収穫はごく短期間に限られる。
松茸の収穫をどうやって確実にするのかということが、次第に才能ある若き武士の挑戦すべき人生の課題となっていくのでした。
 主人公を取り巻く人々も魅力的な個性あふれる人物に描かれていて、しっかり朝井ワールドを楽しむことができます。
(2014年12月刊。1650円+税)

2015年3月14日

池田屋乱刃


著者  伊東 潤 、 出版  講談社

 幕末の京都で起きた池田屋事件。
 文久4年(1864年)、2月に改元されて元治(げんじ)元年となった。この年の1月、将軍家茂が上洛し、参与諸候は長州征討を協議した。参与諸候とは、一橋慶喜、島津久光、松平春嶽、伊達宗城、山内豊信、松平容保の6人である。しかし、天皇に接近しようとする島津久光に警戒する慶喜は、参与会議を解体させようと画策し、参与会議は迷走したあげく、3月9日、そろって辞意を表明して瓦解した。
 前年8月18日の政変によって、会津藩兵に薩摩藩兵が加わって2千の大軍となった会薩(かいさつ)同盟軍は、御所の門を閉ざし、三条実美(さねとみ)ら急進派公家の参内(さんだい)を禁じ、長州藩士ほかの尊攘派浪士たちを追放処分にした。
 この8月18日の政変のあったあと、取り締まりの厳しくなった尊攘派志士たちは、頻繁に寄合の場所を変えた。その一つが池田屋だった。
 ときは祇園祭の宵々山なので、三条通は、いつになく賑やかである。池田屋二階に集まった志士たちは、議論が激してくるとケンカを始める恐れがある。そこで、刀を集めて、池田屋の主(あるじ)に預けておいた。これが裏目に出た。
 午後10時すぎ、階下から「お改めです」という声が聞こえ、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。何事かと注視していると、
 「御用改めだ。神妙に縛に就け。手向かいいたすと、容赦せぬぞ」と胴間声を張りあげた。王生浪(新選組)か。
 池田屋事件の渦中にいた人物を一人一人、主人公とした短編を連作としている時代小説です。なるほど、それぞれの人に人生があったことを実感させてくれます。そして、最後に桂小五郎が登場します。西郷・大久保と並んで維新三傑とうたわれた木戸孝允です。
 池田屋から必死の思いで逃げ出し、ついに生きのびたことを死ぬまで恥ずかしく思っていたのでした。
池田屋事件の顚末を生き生きと描いた小説です.さすが、作家の筆力はすごいものだと驚嘆しました。
(2014年10月刊。1600円+税)

2015年1月 7日

江戸時代の医師修業


著者  海原 亮 、 出版  吉川弘文館

 私が江戸時代へのタイム・スリップしたくないと思う理由の一つは、医学の発達です。
 もちろん、漢方薬その他の昔の人の生活の知恵を頭から否定するつもりはありません。でも、身体のかゆみを止める皮膚科の塗り薬や、目のかゆみを止める目薬などは、断然、今のほうがいいように思うのです。
 江戸時代も、たくさんの医師がいました。もちろん国家試験なんてないわけですから、誰でも医師になれたかのようにも思えます。しかし、どうやら、そうではなさそうです。
江戸時代は、病気や医療について、国家レベルで検討されることは、ほとんどなかった。
 徳川吉宗の享保期は例外的だった。漢訳洋書の輸入緩和、小石川養成所の設置、採薬調査・薬園整備・朝鮮人参の国産化計画など・・・。
幕府(公儀)は、医師の給与の指標を定めただけで、医師身分とは何かを明確に定義することはなかった。
 「誰でも医師になれた」というのは単純すぎる言い方で、史実とは異なる。百姓や町人であっても、長男でなく継ぐべき家をもたないとき、医の道に転するという選択肢があった。
 尾張藩だけは、医師門弟の登録と開業の許認可制を採用していた。
医師として収入を得ようとすると、同じテリトリーで活動するほかの医師の承認を得る必要があった。
 医師は、専門性の高い知識、技術を得るため、いずれかの学統に所属し、互いに競いあって、学問の習得につとめていた。
 江戸時代には、かなりの僻地(へきち)にまで医師が活動していた。
 当時の医師たちは、師弟関係を軸として同業集団(学統)を自発的に形成していた。
 江戸時代に医学の発展は、藩医身分の医師が主導した。
江戸時代には杉田玄白以前にも死体解剖がやられて、その実見図がいくつもあるとのことです。
(2014年11月刊。1800円+税)

2015年1月 5日

風花帖


著者  葉室 麟 、 出版  朝日新聞出版社

 もちろんこれは、小説なのですが、どうやら史実をもとにしているようです。
 北九州の小笠原藩に、家中を真二つに分けた抗争事件が起きたようです。文化11年(1815年)のことです。
 小倉城にとどまった一派を白(城)組、黒崎宿に籠もった一派を黒(黒崎)組と呼んだ。白黒騒動である。白黒騒動は、いったん白組が敗れたものの、3年後に白組が復権して、黒組に対して厳しい処罰が加えられた。
派閥抗争は、こうやって、いつの時代も後々まで尾を引くのですね。
 根本は、藩主・小笠原忠固が幕府の老中を目ざして運動し、そのための費用を藩財政に無理に負担させようとすることから来る反発が家中に起きたことにあります。要するに、藩主が上へ立身出世を試みたとき、それに追従する人と反発する人とが相対立するのです。
 それを剣術の達人とその想い人(びと)との淡い恋愛感情を軸として、情緒たっぷりに描いていきます。家老などが360人も引き連れて城下を離れて藩外へ脱出するなどということは、当時にあっては衝撃的な出来事でしょう。幕府に知られたら、藩主の処罰は避けられないと思われます。下手すると、藩の取りつぶしにつながる事態です。
 双方とも武士の面子をかけた争いです。
 江戸末期の小笠原藩の騒動がよく描けた時代小説だと思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)

2014年12月20日

鬼はもとより


著者  青山 文平 、 出版  徳間書店

 江戸時代の小さな藩の財政立て直しの話です。よく出来ています。アベノミクスの失敗は明らかですが、それは弱者切り捨てまっしぐらだからです。かつての「年越し派遣村」がビッグ・ニュースになったときのような優しさが今の日本にないのは不思議なほどです。
 アベノミクスは、原発・武器・カジノというのが目玉でもあります。とんでもないものばかりです。これで、子どもたちに道徳教育しようというのですから、狂っています。
藩札は、宝永4年(1707年)にいったん禁止された。その後、新井白石の改鋳があり、貨幣の量が激減し、世の中が金不足となって、享保15年(1730年)に再び許可された。
 正貨と藩札を交換する札場の項では、その数や配置のみならず、用員の取るべき態度まで示され、受付の御勤めに限っては、商家に委託するとされた。
 藩札の板行には、小判や秤量(ひょうりょう)銀などの正貨の裏付けが不可欠だ。
 一両の小判を備え金(そなえかね)にして、三両の藩札を刷る。1万2千両を備え金にして、3万両の藩札を刷る。それだけの正貨があれば、いつ、藩札を正貨へ変えてくれと言われても応じることができる。換金さえ約束されたら、紙の金でも立派に貨幣として通用する。
藩札板行を成功させるカギは、札元の選定や備え金の確保といった技ではない。藩札板行を進める者の覚悟だ。命を賭す腹がすわっていなければならない。
 藩札は専用の厚紙でつくり、偽札を防ぐために透かしを入れる。紙の厚い、薄い差を使って絵を描く。偽造防止の手立ては、透かしだけではない。複雑な文様のなかには、市井のものには字とは見分けられない梵字や神代文字がさまざまに組み込まれている。このありかを知らないと、同じ文様のようでもずい分と違ってくる。一枚一枚では分からなくても、多くを集めると、誰の目にも明らかなほどの違いが生じてくる。
 藩札の十割刷りを強行した藩は一揆を招いて、結局、幕府から改易処分を受けて、藩そのものが滅亡した。別の小藩では、強力な藩札によって、他国に負けない強力な特産物を育て、藩が一手に買い上げて領外に売る。その代金は正貨で受けとる。これで藩は丸もうけとなる。
 では、何を特産物とするか・・・。浦賀に、魚油と〆粕、大豆を送ってもうけるという。
 この商法を藩内に定着させるために取られた手法に驚かされます。小説とは言え、ぐいぐいと惹きつけられるのでした。私は、出張先の鹿児島の中央駅に着いて2時間あまり、駅ビルの喫茶店で読みふけったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)

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