弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2013年1月12日

泰平のしくみ

著者  藤田 覚 、 出版  岩波新書

力で押さえつける政治、百姓を虐げる悪代官ばかりでは、270年もの泰平を維持できるわけがない。それはそうですよね。政治の安定と泰平が270年ものあいだ続けたことを説明しようとする本です。
 江戸時代は、民間請負の時代である。それは、年貢の収納から土木・建物工事、さらには物品の調達と売却まで幅広い分野で民間の請負が行われていた。
 年貢の請負とは、村請(むらうけ)制と呼ばれるしくみである。入札とは、投票によって行う意思決定の一つの方式である。江戸時代の村社会では、村役人の選出、悪事をはたらいた犯人の特定(盗賊入札)、善行者、悪業者の選定(善悪入札)などに使われた。
 入札は、中世以来いくつかの局面で利用されてきた意思決定の方式である。
 競争入札による請負工事が、幕府発注の土木・建築工事のありふれたやり方だった。一見すると合理的で公平に見える競争入札だが、担当役人と業者の贈収賄が横行して政治問題化した。入札による受注を目ざして業者は事業を担当する役人との接触をはかり、ワイロを送って有利な立場に立とうとし、幕府役人は収賄により私腹を肥やす。
あらゆることが競争入札によって行われたのは奉行が賄賂を手にしたいためだった。競争入札による工事を担当した奉行で、1000両を懐にしない者はいない。その結果、100両もかからない工事が、1万両もかかってしまい、それこそ幕府財政が元禄期に破綻した理由である。新井白石は、『折りたく紫の記』でこのように論じた。
請負工事の発注を担当する役人も、利益の配分を受ける手はずになっているので、この入札のカラクリを知っているのに知らないふりをしている。大変に分かりやすい官製談合である。
江戸時代、幕府の行政機関や裁判機関へ人々が訴え出る行為には、少なくとも2種類あった。訴願と訴訟である。訴願は、訴えや願いを行政機関に申し出ることで、現代の陳情に近い。訴訟は、裁判機関に訴え出ることで、現代と変わらない。
そもそも、訴願と訴訟の区別があまり明確ではなかった。江戸時代の行政機関と裁判機関が未分化で、裁判は行政の一部に組み込まれていたことによる。
江戸時代の裁判は長い時間がかかった。幕府は100日以内の決着をかかげていたが、それに必要なお金と時間も考えて内済(示談)にする決着が普及した。
江戸にあった町奉行所はわずか150人の与力、同心で50~60万人の住民を管轄し行政を行っていた。
 江戸時代の行政のあり方を実証的に考えた本です。市民セミナーでの話をもとにしているためか、とても理解しやすい本でした。
(2012年4月刊。2800円+税)

2012年11月18日

日本の笑い

著者    コロナ・ブックス 、 出版    平凡社 

 伊藤若沖が布袋(ほてい)さんを描いています。いかにも、ふくよかな布袋さんたちです。芭蕉翁が大阪で51歳のとき亡くなった状況を描いた絵もあります。
 旅で病んで夢は枯野をかけ廻る。
その遺言を知りませんでした。死んだら木曾義仲公の側に葬ってほしいというものでした。それで大津市にある義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓のとなりに葬られているそうです。
 英(はなぶさ)一蝶の「一休和尚 酔臥図」もすごいですよ。よく描けています。
世の中は、起きて稼いで、寝て喰って、あとは死ぬのを待つばかり。
 さすが、人生の達人ですね。耳鳥斉という、宮武外骨も岡本一平もあこがれた、漫画の元祖のセンスよい絵も紹介されています。日本のコミックは歴史があることを十二分に納得させる絵です。
 「北斎漫画」にも圧倒されます。4頁にわたって「デブ」の画があり、さらに次の4頁に「ヤセ」の百態が描かれています。
 さすがの北斎です。どちらにも嫌みがなく、思わずほほえんでしまいます。人間の内面にまで踏み込んでいるからでしょうか・・・。
 日本人のマンガの伝統が決して浅いものではないことを、しっかり再確認させられる画集でした。
(2011年12月刊。1800円+税)

2012年11月17日

義烈千秋、天狗党西へ

著者    伊東 潤 、 出版    新潮社 

 幕末の動乱の時代、水戸藩の内紛を母胎として天狗党が生まれ、ついに京都へ駆けのぼろうとします。しかし、ときの将軍・徳川慶喜の動揺によって、哀れ切り捨てられてしまうのでした。
 水戸藩の家中騒動から、天狗党の決起。そして京都を目ざして苦難のたたかいを続ける姿が生き生きと描かれています。著者の筆力には驚嘆するばかりです。
 堂々400頁をこえる本書には、天狗党の面々の息づかいがあふれ、まさに迫真の描写が続きます。まるで、実況中継しているようで、手に汗を握ってしまいました。
 幕末、真剣に考えて生きる人々の迷い、動揺、そして行動が、これでもか、これでもかと詳細に描写されていて、読むほうまで胸がふさがれるほど息苦しくなります。
天狗党は、最終的に350人以上も処刑(斬罪)され、ほぼ同数が追放などの処分を受けた。
 ところが、明治になって逆転し、反天狗党が敗退して、首謀者は処刑された。
同郷の人血で血を洗う殺しあいをしたようです。復讐と報復の連鎖があったのでした。
 攘夷といい、尊皇といい、幕末期の志士たちの選択はとても難しかったようです。そのなかでも選択はせざるをえないわけです。それを誤ったときには、自らの生命を捨てるしかありませんでした。
 プロの作家の描写力には、いつものことながら、かなわないなあと溜息が出るばかりです。
(2012年3月刊。2200円+税)

2012年8月30日

米軍基地の歴史

著者   林 博史 、 出版    吉川弘文館 

 日本全国に戦後65年もたつのにアメリカ軍基地があります。首都に外国軍基地がある独立国は日本くらいだというのですが、考えてみれば異常な事態が続いていますね。オスプレイを岩国基地に配備する問題も、日本政府がアメリカの言いなりで、主権がどこにあるのか改めて疑わせました。
 この本はアメリカ軍基地が世界のどこにあり、日本はどんな位置を占めているのかを明らかにしています。私は、フィリピンにならってアメリカ軍基地を一刻も早く日本から追い出し、そこを広大な商業、住宅地として再生すべきと思います。日本の景気回復に役立つのは明らかです。
 世界各地にアメリカ軍は展開しているのが、1万人以上のアメリカ兵がいるのは、ドイツと日本そして、韓国のみ。
アメリカのメア元日本部長は沖縄の人々を「ゆすりとたかりの名人」と中傷したが、思いやり予算をみたら、その言葉は、そっくりアメリカ政府にあてはまる。そうなんですよね。アメリカ軍ほど、日本人の税金によって恩恵をこうむっているものはありません。盗っ人、猛々しいとはメア元部長のことです。
 アメリカは対ソ連との戦争を予想して、そのとき大量の核兵器をつかう計画を立てていた。1949年12月、オフタックルという戦争計画は、292発の核兵器と2万発近くの通常爆弾をソ連に投下するものだった。それを実行する部隊は、アメリカ本土だけでなく、沖縄からも出撃することになっていた。
 イタリアは、今日にいたるまで旗艦1隻を母港として受けいれてはいるが、空母は受けいれていない。日本は空母をふくめて10数隻の艦船を母港として受け入れている。
 アメリカはトルコに核ミサイルを配備し、ソ連はキューバに核ミサイルを配置していた。アメリカは、冷戦期には、アメリカのほか18ヶ国に、海外領土19ヶ所に核兵器を配備していた。沖縄には、17種類の核兵器が1954年から1972年6月まで配備されていた。そして、日本本土には、1954年12月より1965年7月まで配備されていた。
 1960年ころのアジア太平洋地域におけるアメリカ軍の核兵器配備数は沖縄800発、韓国600発、グアム225発、フィリピン60発、台湾12発、合計1700発だった。
 1967年には、沖縄に1300発、韓国900発、グアム600発、その他あわせて3200発が、アジア太平洋に配備されていた。アメリカ軍にとって、沖縄は核の貯蔵と核兵器作戦を沖縄から展開する自由が確保された場所だった。
 沖縄に1000発前後の核兵器があっただなんて、そら恐ろしくて身震いしてしまいます。その廃棄処分はちゃんとやられたのでしょうか・・・?
アメリカは独裁国家ではなく、自由と民主主義を建前とする国だ。だから、野党がアメリカ軍基地の全面撤去あるいは縮小を公的に揚げて選挙で勝利して政権についたとき、その新政権の要求をまったく拒否することはできない。
 日本保安条約だって、一方的に破棄通告すれば1年後には失効するのです。日本は冷戦の克服に真剣に取り組もうとせず、むしろ冷戦を利用してみずからの戦争責任・植民地責任を棚上げして、経済成長を遂げるなど、自国の利益しか考えてこなかった。
 日本人として耳の痛い指摘もありますが、世界中にあるアメリカ運基地のため、武力紛争が多発しているのも現実ですよね。一刻も早くアメリカ軍基地を日本からすべて撤退させるべきでしょう。
(2012年5月刊。1700円+税)

2012年8月11日

霖雨

著者   葉室 麟 、 出版  PHP研究所

 豊後日田にあった咸宜園(かんぎえん)を主宰していた広瀬淡窓とその弟・久兵衛の生き方を描いた小説です。しっとり読ませてくれる時代小説でした。
 咸宜園は私塾といっても、今の公立大学のようなものだったのでしょうね。心ある若者たちが入門して勉強にいそしんでいました。
 咸宜園では、毎朝5時に起きて清掃し、6時から7時まで輪読する。朝食のあと8時から正午まで学習し、昼食をとったあと1時から5時までが輪読と試業で夕方6時に夕食となる。夜7時から9時まで夜学して、夜10時に就寝する。
咸宜園では、女性の門人も受け入れていた。
 広瀬淡窓の実家は屋号を博多屋と称し、淡窓の8歳下の弟が家業を継いでいる。そして、この博多屋は、日田代官所出入りの御用達(ごようたし)商人として財をなしてきた。
 日田は幕府直轄地の天領である。北部九州の中央に位置し、筑前、筑後、豊前、肥後と日田を結ぶ日田街道が通る交通の要衡だ。美しい山系に囲まれ、河川の多い風光明媚な水郷であり、豊後(ぶんご)の小京都とも呼ばれる。
日田の代官所にいる西国郡代は九州の天領15万石を差配すると同時に、諸大名にもにらみをきかせる、いわば幕府の九州探題であった。
 広瀬淡窓が咸宜園を開いたのは文化14年(1817年)。この年、日田に新しい代官として塩谷大四郎が着任した。この年、49歳。それまで幕府の勘定吟味方(かんじょうぎんみがた)をつとめ、日光東照宮の造営などにあたっていた。
 塩谷大四郎は、日田代官所に着して4年後に西国郡代に昇格し、布衣(ほい)を許された。そして、塩谷君代によって咸宜園への干渉はさらに強まった。
広瀬淡窓は、16歳のとき、福岡の亀井昭陽の父である亀井南冥(なんめい)の塾に入門して萩尾徂徠学を3年にわたって学んだ。しかし、淡窓は徂徠の考え方に批判があった。徂徠学は、ややもすれば政治学に傾き、聖人君子の道である儒教から遠ざかることへの不満だった。
 淡窓は、塾の運営において、入門者に対してまず「三奪」を行った。入門するにあたっては、年齢、学歴、身分の三つを奪って平等とし、同じことから出発させる。これは、武士、農民、町人の身分差のつきまとう社会にあっては、容易に成しがたいことであった。月旦評(げったんひょう)とは、月初めに塾生の前月の評価を行い、これによって4等級(あとでは9等級)に分けること。さらに、成績によって、塾内の都講(とこう)、講師、舎長、司計などの役職を分掌した。成績至上主義のようだが、淡窓の評価は厳正であり、学問だけでなく、日頃の素行も評価の対象とした。身分制にしばられないなかで月旦評は、一人ひとりを平等に評価することであり、塾生たちを発奮させた。
 日田の商人のうち、代官所御用達の富商は、7、8軒あり、七軒衆とか八軒士などと呼ばれた。広瀬家も、その中に数えられるが、日田地生え(じばえ)の商人ではなく、初代が筑前福岡から移住して田畑を耕し、かたわら小さな商いを行った。四代目が岡、杵築、府内三藩の御用達となり、大名貸しなど、金融業も行うようになった。五代目は、鹿島藩、大村藩の御用達もつとめるようになった。
 六代目の久兵衛は、日田代官所の年貢米の集荷、江戸、大坂への回漕、さらには納入された金銀を預かる掛屋となった。掛屋は、代官所から公金を見利息で預かり、大名や町人、農民に貸し付けることが認められていた。これを日田金(ひたがね)と呼ぶ。
 日田金は代官所の公金であることから、借りた大名が踏み倒すとは考えられない。そのため、掛屋には、社寺、公家、富豪から資金が流れ込んだ。日田金は総額2百万両に及び、このうち百万両が大名貸しにまわった。
 淡窓の咸宜園と同じころ、大阪では大塩平八郎が洗心洞という私塾を起こして盛んだった。
 このあと、小説は大塩平八郎の乱との関わりが語られていきます。
大変勉強になる本でした。男女の心理の機微についても学ぶところ大でした。
(2012年6月刊。1700円+税)

2012年7月 8日

花晒し

著者   北 重人 、 出版   文芸春秋

 私と同世代の作家です。惜しくも3年前に亡くなっています。なかなか、じっくり読ませる時代小説です。いずれも短篇なのですが、話はずっと続いていきます。
 女がひとり、深川で生きていくにはね、暗くなっちゃあいけないんだ。気持ちが落ち込んでいても、明るく振る舞うんだよ。暗い気分で、暗い素振りじゃあ、ますます沈んでしまう。自分もそうだけど、周りのみんなの気が沈み、人が離れっちまう。辛いときこそ、明るく振る舞うんだ。そうすれば、人がよくしてくれる。いいかい。覚えておくんだ。けどね、明るいだけじゃ駄目だ。気張って意気地も見せないとね。大事なのは、明るさと意気地さ。そうすれば、あんたなら大丈夫だ。しっかりと生きていける。
なーるほどですね。いい言葉ですね。
 娘をたぶらかしてなぶりものにする悪徳武士(サムライ)に小気味よく復讐する話があります。胸のつかえがおります。そして、芝居がかった噂によって近所の稲荷に参詣人をたくさん集めて景気を盛り上げる話があります。
 実際、江戸の人々は神社やお寺に物見高く大勢参集していたようです。娯楽の少ないとき、人々の好奇心を満たす対象だったのでしょうね。
 そして、人が集まるところには店が立ち並ぶのです。稲荷鮨がどんどん売れるのでした。しっとりとした江戸情緒をたっぷり味わえる時代小説です。
(2012年4月刊。1500円+税)

2012年6月28日

百姓たちの幕末維新

著者   渡辺 尚志 、 出版   草思社

 江戸時代、全国にあった村は6万3千ほど。現在、全国の地方自治体は1800なので、一つの地方自治体に35ほどの村があった計算になる。平均的な村は、人口450人、戸数60~70軒、耕地面積50町、村全体の石高450~500石。
 江戸時代の百姓は、二重の意味で農民と同義ではない。一に、百姓のなかには、漁業、林業、商工学など多様な職業に携わっている人たちがふくまれていた。第二に、農業をすることが即百姓であることにはならなかった。
 農村における本来的な百姓とは、土地を所有して自立した経営を営み、領主に対して年貢などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられる身分呼称であった。つまり、百姓とは、特定の職業従事者の呼称ではなく、職業と深く関連しつつも、村人たちと領主の双方が村の正規の構成員として認めた者のことだった。
 百姓たちは、先祖伝来の所有地を手放すことについて非常に大きな抵抗感をもっていた。土地を失うということは御先祖様に顔向けできない大失態だった。
無年季的質地請け戻し(むねんきてきしっちうけもどし)慣行が存在した。
 借金返済期限がすぎて請け戻せず、いったんは質流れになった土地でも、それから何年たとうが、元金を返済しさえすれば請け戻せるという慣行が広く存在していた。質流れから、10年、20年、場合によっては100年たっても請け戻しが可能だった。
 これは、村の掟だった。村人たちが全体として貸し手に有形無形の圧力をかけることによって、この慣行は有効性を発揮した。
 百姓たちがとった没落防止策として、経営の多角化を徹底させることがあった。
 19世紀、とりわけ幕末になると、百姓たちもファッショ運に敏感になってきた。江戸などの大都市での流行が村にも波及し、10年周期くらいで流行が変遷した。
 江戸時代は、今以上に古着が広く流通していた。
 江戸時代の百姓が米を食べられなかったというのは、明らかな誤りだ。年間1石(150キログラム)以上の米を食べていた。近年の日本人の年間消費量は一人あたり60~65キログラムなので、倍以上も食べていた。ふだんは、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や粥(かゆ)や雑炊を食べ、婚礼などのハレの日には米だけの飯を腹一杯食べた。
江戸時代の百姓が肉類をまったく食べなかったというわけでもない。魚、鮮魚はあまり食べなかった。多くの村人が年貢納入に苦労しているときには、それを当人の自己責任に帰してすまさず、村役人が中心となって村として借金し、そのお金を困っている村人たちに融通していた。隣人の苦境を我がこととして、村全体で対策をとった。村人の所有地が貸し手に渡ってしまったあとは、そこからの小作料を納めないと言うことで貸し手に対抗した。
 江戸時代、幕府や大名・旗本は、領地の村々に対して、村全体の年貢納入額と各村人への割り付け方の原則を示すだけで、あとはすべて村に任せていた。実際に村内のここの家々に年貢を割り当て徴収するのは村だった。このように、年貢を一村の村人たちの連帯責任で納める制度を「村請制」という。したがって、領主は、村の一軒一軒がどれだけ年貢を納めているのか、正確には把握していなかった。
 村での年貢の割付・徴収業務を中心的に担ったのは、村役人、とりわけ名主だった。したがって、年貢の滞納者が出たとき、名主は自費で立て替えてでも上納しなければならなかった。
 村々では、村役人に無断で抜地などの不正な土地取引がさかんに行われたため、村役人も土地の所有関係を把握しきれていなかった。土地台帳が実態を反映しなくなっていた。
村人たちは、農産物価格の適正化を求めて国訴(こくそ)を起こした。幕府に訴え出たのです。日本人は昔から裁判が嫌いだったなんて、とんでもない誤りです。すぐに裁判に訴えるのが日本人でした。江戸時代は、実にたくさんの裁判が起こされています。
 百姓たちが代官をやめさせるのに成功した例もあります。老中や勘定奉行などの幕府の要人に対する非公式の働きかけを百姓(名主)がしていたのでした。
 江戸時代の百姓は、脇差を差すことが認められていた。
 江戸時代の村々には、多数の刀や鉄砲が存在していた。百姓一揆は、統制のとれた秩序と規定ある行動だった。一揆勢は、武装蜂起して武士と戦うことは考えておらず、人を殺傷するための武器も携行していなかった。手に持ったのは、自ら百姓であることを明示するための鎌や鍬といった農具だった。身につけた蓑や笠も、百姓身分を示すユニフォームだった。
 百姓一揆は反権力の武装蜂起というより、今日のデモ行進に近い。ただし、処罰を覚悟していた点が合法的なデモ行進とは異なる。
 ところが、19世紀になり、百姓一揆のあり方に変化が見られた。領主に対する要求より、買い占め、売り惜しみなどの不正行為をしたと見なされた富裕な百姓・町人に攻撃の矛先が向けられるようになった。武士に対するたたかいから、庶民内部の争いへと変わっていった。百姓一揆のなかで攻撃対象の百姓・町人の家を襲って建物・家財を破壊する打ちこわし頻発した。そのなかで一揆勢の秩序と規律が乱れ、略奪・放火・暴力行使など、従来の百姓一揆では見られなかった逸脱行為も発生するようになった。
 このように百姓一揆が攻撃性・暴力性を強めるにつれて、鎮圧する領主側との武力衝突も起こるようになった。
 江戸時代の村の様子そして百姓一揆の実態を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。1800円+税)

2012年6月24日

おれは清麿

著者   山本 兼一 、 出版   祥伝社

 幕末の刀鍛冶の一生を描いた小説です。刀剣をつくりあげていく過程の描写の迫力には圧倒されました。
焼き入れた鉄の色は赤から黄に移っていく。濃い紫、小豆(あずき)色、熟(う)れた照柿(てりがき)の色、夕陽、山吹、満月そして朝日。色によって熱さが違い、やる仕事が違う。
 うへーっ、さすがは職人の芸です。こまかいです。こまかすぎます。
ここで鉄(かね)を沸かしちゃならん。赤めるだけ。あとの鍛錬のときも、湧かしすぎると鉄が白けて馬鹿になってしまう。焼き入れをしても刃が冴えず、ぼけて眠くなる。
下手な鍛冶は、炭をたくさん無駄につかって、鈍刀(なまくら)しか鍛えられない。上手な鍛冶は、少しの炭で効率よく鉄を赤め、沸かし、冴えた鉄で秀抜な刀を鍛える。
上古のころ、まっすぐだった日本の刀は、平安のころから反(そ)りのある優美な太刀姿となった。鎌倉のころから次第に力強く豪壮な姿となり、さらに戦乱の激しい南北朝となれば、より勇ましい長大な姿となる。ここまでが古刀(ことう)である。戦国の世が終わり、関ヶ原や大阪の陣のあった慶長のころからの刀は、新刀(しんとう)と呼ばれる。古刀とは、姿がずいぶん違う。
 腰で反っている古刀に対して、新刀は先のほうで細くなり、反っているものが多い。甲冑(かっちゅう)を着て闘った戦国乱世のころと違って、着物を着た戦いでは突き技の有効性が高いからだろう。
刀を見るときの奥義。刀を選ぶときは、まず、肌(はだ)多きもの好むべからず。肌とは、鉄(かね)を折り返して鍛えたときの模様が刀の地の表面にあらわれたものをいう。
 沸(にえ)多きものを好むべからず。沸は、焼き入れのときにできるごくごく微細な鉄の粒子。
刃文(はもん)深きもの好むべからず。焼きの入った刃の幅が広く深いということは、とりもなおさず焼きが入りすぎていて折れやすいということ。
 反り深きもの好むべからず、反りなきものを好むべからず。長きを好むべからず。短きを好むべからず。いずれも、ほどほどがよいということ。
 刃鉄(はがね)、心鉄(しんがね)、皮鉄(かわがね)につかう三種の鋼をそれぞれ積み沸かして、折り返し鍛錬する。それを本三枚で造り込む。軟らかい心鉄とやや硬めの刃鉄を硬い皮鉄ではさみ、鍛着させる。それを細長く素延(すの)べする。皮鉄を折り返し鍛錬するとき、質のよい鋼を挟み込んでおく。そうすれば、金筋(きんすじ)がうまく刃中や刃の縁にあらわれる。下手な鍛冶なら失敗してしまう。
 すごい描写に言葉も出ません。
(2012年3月刊。1600円+税)

2012年4月25日

井関隆子の研究

著者   深沢 秋男 、 出版   和泉書院

 幕末を生きた旗本婦人に関する本です。幕末といっても、水野忠邦と同時代を生き、天保の改革についても、あれこれ論評しています。それだけ幕閣の内情を知る立場にあったのです。
 60歳で亡くなっていますが、50代に物語を創作し、日記のなかで、鋭く世相を斬っています。現代日本女性とまったく変わらない驚くべき批評家です。
日記のなかで井関隆子は冷静な批判・批評を貫いている。鋭い感受性と、それに支えられた厳しい批判的精神にあふれている。そして、それは決して止まるところを知らない。
 幼いころの隆子は、常に利口ぶって、生意気な言動をする、差し出がましいふるまいをする、こましゃくれた、年の割に大人びた、そんな女の子だった。原文では、「この子は、常にさくじり、およづけたる口つきの子供」と言われていたとあります。
 そして、少女時代の隆子は、自宅の庭に蛇がよく出るのを見つけては打ち殺していた。それを見た母親は、私のためにはありがたいが、女の子に似合わないことをするものではない、ことにあなたは巳年の生まれなんだからとたしなめた。すると隆子は、巳は私の年なので、私の思うようにしてどこが悪いのかと言い返した。さらに付け加えて十二支など中国の人の考えたもので、もとからあったものではない。だから自分の生まれ年だからといって、どうということはない。こんな迷信を神のように信じ込んで祀ったりするのはうるさいことだと言った。
 うひゃあ、これが、江戸時代に生きた少女の言動だなんて信じられませんよね。蛇を打ち殺すということ自体が男でもなかなかできないことです。そして、生まれ年が十二支の巳年だから慎めという母親に対して、そんなのは迷信に過ぎないことだと言い返すなんて、その大胆不敵さには思わず腰を抜かしそうになりました。
 江戸詰めの武士が品川宿の遊女と心中した事件についても日記に詳細に書きとめています。養育費をとって預かった子どもを次々に殺していた老婆、ネズミ小僧など、当時の事件が生き生きと日記に記録されています。
 隆子は迷信を信じない、実に合理的な考えの持ち主だった。家相見、地相見、墓相見など、いずれも不用のものとした。
隆子はきわめて好奇心の強い女性だった。
 地獄売春、陰間、ふたなり、相対死、駆け落ち、ネズミ小僧、遊女の放火事件、女髪結僧侶と奥女中の事件など、かなりきわどい話題も自在に書きとめられている。
 そして、花見だ、月見だといっては家中集まって酒を飲み、何かにつけて酒を飲んで楽しんでいる。隆子が酒を大好きなことを心得ていて、家中みなが母であり、祖母である隆子を大切にしていた。
隆子が物語として描いた江戸の様子を紹介します。
 人前では礼儀正しく、恥じらいあるものが、かげでは猥りがわしい行動をとっている。このうえなく尊ばれている僧侶が、陰で酒色にふけっている。課役を逃れるために賄賂を贈る大名、出世のために幣をおくる旗本たち。水野忠邦をモデルとする少将は、色好みで、負けじ魂のみ募り、その身分に似合わず文才もない。税金の増額から来る庶民生活の窮乏、公の人事の不公平、少ない禄に対する旗本たちの不平不満・・・。
江戸時代とは一体どんな時代だったのか、大いに目を見開かせる貴重な研究書です。少し高値の本ですので、図書館で借りて読まれたらいかがでしょう。
(2004年11月刊。1万円+税)

2012年3月31日

伊予小松藩会所日記

著者  増川 宏一 、  北村六合光  、  出版   集英社新書   

 日本人の日記好きは昔からのことです。なんでも文字にして残したがる習性は、私にもしっかり受け継がれています。私は今年2冊目の本を編集して発刊しようとしています。写真もふんだんに盛り込んで、読んで楽しい冊子を目ざしています。
 この本は、なんと150年間もの長きにわたって書きつづられてきた藩の公用日誌を読み解いたものです。その苦労のほどがしのばれます。
 舞台は、愛媛県の小松町。藩の人口は1万人。武士はわずか数十人しかいない、ごくごく小さな伊予小松藩の公用日誌です。
 小松藩の家臣のうち武士は60人、足軽は40人。士分として扱われたのは幕末時に  130人。これに足軽や小者をふくめても200人ほど。これが家臣団とされていた。
 家老は1人だけ。喜多川家が家老を世襲した。家老の禄高は400石。藩政は、家老と数人の奉行の合議制によっていた。家老が公用の政務をつづった記録を「会所日記」という。この会所日記は150年間にわたって書きつづけられたが、小藩なので、領内の隅々にまで目が行き届いている。そこで領民の生活の実情を知ることができる。
 小松藩は、大きな商人からだけでなく、公家や近在の百姓からもお金やお米を借りていた。
領民のぜいたくを禁止する倹約令は次のような内容だった。
 ひさし付きの家や瓦葺の屋根を禁止する。
 お寺で三味線や琴で高声をあげ、にぎやかに振る舞うことを差し止める。
 衣類や髪かざりが華美になっている。象牙のかんざし、絹の帯をしめているのは倹約令にそむく。
下級武士については、武家以外の農民や承認との縁組を認めていた。これは、減俸への有効な対応でもあった。
 幕府は各藩に対して藩札の発行を禁止していた。それは、通貨の混乱を防ぐための措置である。しかし、小松藩は、幕府の公許をえないまま、非合法の藩札発行にふみ切った。ただ、藩札には藩の名前は入れなかった。名前も藩札ではなく、「銭預り札(ぜにあずかりふだ)」とした。しかし、印刷と発行には、藩が全面的に取り組んだ。
この銭預り札を発行して、藩の権威で強制的に流通させることによって、藩は領内で通用している銀を吸い上げることができた。そして、銀は、江戸屋敷の費用や大阪での支払いに充てることができた。つまり、消費にまわされた。
藩札発行にふみ切った慢性的な財政危機の一因は、参勤交代の旅費と江戸屋敷の維持費だった。藩の年貢収入の半分はこのために支出された。
小松藩の参勤交代時の行列は総勢110人。随員としての藩士は30人ほど。それでもこれは、全藩士の半分に近い。
小松領内で殺人や傷害、強盗のような凶悪で粗暴な犯罪は起きていなかった。ほとんど、空き巣狙いのような窃盗犯である。平和な藩だったようです。
江戸時代の人々の生活が実感として伝わってくる本でした。
(2011年10月刊。2800円+税)

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