弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2011年5月 5日
絵が語る知らなかった江戸のくらし
著者 本田 豊、 出版 遊子館
農山漁民の巻です。たくさんの絵があって丁寧に解説されていますので、江戸時代の農村、山村そして漁民の暮らしぶりが実によく分かります。
江戸時代は離婚率の高い社会だった。女性も男性も、結婚と離婚は何度か繰り返した、というのが本当の姿だった。
農薬が普及する前、稲作農家にとっての大敵はイナゴだった。鯨油を田んぼに流して幼虫のうちにイナゴを駆除する。また油を燃やして駆除する方法もあった。
農村では、意外に麦が作られていた。麦からは味噌が作れたし、麦は栄養価が高い。アワやヒエなどの穀物と一緒に食べると、かなり栄養価があった。
牛は農家の重要な労働力だったが、食肉でもあり、牛肉の美味は庶民も知っていた。江戸時代には、馬は5軒の農家で1頭は飼っていた。しかし、農民が馬に乗って走りまわることはなく、馬は大切に扱われていた。
全国の被差別部落のうち、皮革に関係していたところはごく少なく、圧倒的多数は農業を営んでいた。動物の解体をしていたのは、穢多や皮多といわれていた人たちだけではなく、農民もやっていた。農民と長吏や皮多は、お互いの権利を侵害しないように住み分けていた。
冬にはワラ布団に家族全員が入って寝ていた。
農家は野良仕事の合間にしっかり食べていた。そうしないと体力が持たないからだ。
江戸時代には、風呂というと行水のことだった。
上野国(群馬県)がカカア天下だというのは、養蚕が女性の仕事だったから。現金収入があり、女性は権利意識が強くなって、発言力も強かった。
ゴボウは漢方薬として日本に渡来した。ゴボウは便通を良くし、腸内でビタミンを生産する。ところが、ゴボウを食品として利用しているのは、世界でも日本くらいのようだ。
土人というのは地元の人という意で、明治になって差別的な考え方がついたが、江戸時代には差別語ではなかった。
旗本としての吉良家の財政は三河国で良質の塩田をもっていたことから、豊かだった。ところが、後発の赤穂藩で塩田経営に乗り出して成功したため、三河の吉良家の塩が売れなくなった。こうして浅野家と吉良家は対立を深めていった。吉良家では、浅野家の塩が売れないように妨害した。その恨みが、江戸城で刃傷沙汰になった。
うひゃあ、忠臣蔵は塩の販売競争が原因だったんですか・・・。とても面白い本でした。
(2009年5月刊。1800円+税)
2011年4月28日
花ならば花咲かん
著者 中村 彰彦 、 出版 PHP研究者
福島はフクシマとして世界的に有名になってしまいました。全部うれしいことではありませんが、この本を読むと会津藩の人々ってたいしたものだと感嘆させられます。
今は原発事故でまき散らされた放射能の被害で大変なわけですが、いずれフェニックス(不死鳥)のように、よみがえってくれることを大いに期待しています。それにしても、東京電力と原子力安全・保安院の杜撰さは絶対に許せません。「絶対安全」だなんて大嘘をよくもついていたものです。日本社会を目茶苦茶にしたのですから、取締役以上の責任者は懲戒解雇にすべきでしょう。退職金なんて支給したら許しませんよ。
会津清酒、会津人参、会津漆器、本郷焼といった地場産業の改良と振興が、すべて田中三郎兵衛という会津藩大老の発想から生まれたというのは珍しい例である。江戸時代中期、天明の大飢饉などに苦しみながらも会津藩を立て直し復興させていった、奉行、家老そして大老となる田中三郎兵衛玄宰(はるなか)の一生を見事に描き切った小説です。さすがは作家です。私は2日間、ずっとずっとこの本にかかりっきりで読みふけってしまいました。おかげで頭の中は、すっかり江戸模様、それも会津藩仕様になっていました。
会津藩家老、大老職にあること26年、寛政の改革を指導し、最大57万両に達していた借入金のうち50万両以上の返済に成功し、あまたの地場産業を興し、藩士の子孫教育のための日新館を軌道に乗せた。そして田中玄宰に対しては明治以降も各界で顕彰していった。うひゃあーっ、これってすごいことですよね。
明治31年、全国漆器・漆生産府県連合進会は賞状を授与した。
明治41年、東京帝国大学の山川健次郎総長はエッセイのなかで次のように書いた。
「玄宰は大胆で果断に富み、勇気あふれて、しかも一方にはきわめて細心、かつ用意周到であった。私は偉大な人物と言うをはばからない。会津の今日あるもまったくこの人のためで、もしこの人がなかったならば、会津はどうなっていたか分からない」
大正4年、大正天皇は即位の大典のとき、玄宰を征五従に叙した。
会津の酒造業者は、会津清酒のうちの最高品質の大吟醸酒を「玄宰」と命名した。そして、いま、会津若松市では「NPO法人はるなか」が活発に活動している。
そのような人物を、その出生から死に至るまで、実に生き生きと描き出す作家の筆力に感嘆しながら、至福のひとときを過ごすことができました。私と同世代の著者ですが、これまでも『天保暴れ奉行』、『名君の碑』、『知恵伊豆に聞け』、『われに千里の思いあり』などを読み、感嘆・驚嘆してきましたが、また、ここに一つ増えました。
(2011年3月刊。1900円+税)
2011年4月20日
後水尾天皇
著者 熊倉 功夫 、 出版 中公文庫
徳川家康に立てつきながら長生きした天皇(上皇)についての本です。ゴミズノオテンノウとゴミノオテンノウの二通りの読み方があります。この本は、宮内庁にならって、ゴミズノオとよびます。
生まれたのは、秀吉時代。千利休の切腹は、「下克上の精神」を凍結するための冷酷な宣言だった。秀吉が利休に切腹を命じたのは秀吉の心に利休がつくった茶の湯を否定しようとする気持ちがあったから。秀吉にとって、利休の茶の湯は魅力と危険をふくんだ数寄(すき)であった。利休は、茶の湯において下克上の精神をつらぬこうとする。その自由なふるまいは、「天下人」として秀吉の立場からすると許容しがたいものであった。
徳川家康は、公家と武家を分離し、武家の官位は朝廷とは別に幕府において定めることを禁裏へ申し入れた。当時、権力の座から離れた天皇への権限といっても、もはや実質的な意味をもつものではなかった。権威の象徴としての官名、位階、称号授与の権限と年号制定権が主たるものだった。
1615年(元和元年)7月、徳川家康は、大阪夏の陣の直後、対朝廷政策の仕上げとして禁中ならびに公家中諸法度を発した。これは禁裏に対して法制を発布した画期的なものだった。公家方は政治介入を禁じられ、幕府の公家支配を明文化した。そして、そのなかで天皇のつとめは芸能であるとされた。そのなかでも、学問を第一とせよ、とされていた。
和歌の道こそ、天皇のもっともたしなむべき道である。天皇のつとめとしての芸能とは、現在の芸能とかいうのとは根本的に違っていると言えた。芸能とは、教養として心得ておくべき知識の総体をさす言葉である。天皇が文化面での最高権威であり、文化そのものの体現者である。そして、後水尾天皇こそ、歴代の天皇のなかで、この禁中ならびに公家中諸法度の規定をもっともよく体現した天皇であった。
徳川家康の願いは、武家の娘が皇后となり、その皇子が天皇となって外戚の地位につくというものだった。徳川氏の女を入内(じゅだい)させるのは家康の悲願だった。
後水尾天皇の二条城行幸は記念すべきものだった。将軍私邸への行幸は、このあと江戸時代を通じて、ついに行われることがなかった。次に天皇が禁中を出たのは江戸幕府が崩壊したときだった。中世以来、幕府が天皇の権威を行幸というかたちで受けとめ、支配のテコとするパターンは、この後水尾天皇の行幸をもって終わった。それ以後、幕府は天皇の権威を必要としないほどの強大な権力をつくりあげていく。
行幸は、天皇の権威を広めるよりも、幕府への権力を誇示するところに目的があった。目を驚かす玉座など諸々の装束の金銀のデザインは、文字どおり黄金の世の現出を象徴するものだった。天皇の膳具はすべて黄金で彩られた。
この寛永行幸をとおして、人々は、新しい時代の見事さ、そして、その頂点にある幕府の重さを思い知ったのだ。
天皇は、鍼や灸のような身体を傷つける治療を受けることは古来できないことになっていた。後水尾天皇に腫れ物があっても、在位中は治療を受けられない。だから灸治を施すためには譲位させざるをえない。しかし、実は、まれに天皇に灸治が許される先例はあった。そこで、譲位やむないというのが公家衆の大勢だった。ただ、女帝への譲位は幕府は歓迎しなかった。当然のことながら、女帝は一代でその血統が絶える。徳川氏の血が皇統に入らない。
家光の乳母である江戸の局(つぼね、お福)を天皇に面会をさせようとした。このため天皇は不快だった。朝儀復興という天皇の念願が無位無官の女性の参内によって破られることになるからだ。結局、面会できたこの女性は、後に春日の局と称した。
江戸時代の中期以降、朝廷から諸方面への貸付金は巨額にのぼり、その利子収入は朝廷の重要な収入源となっていた。
後水尾天皇は譲位したあと歌の道に精進した。2千首の歌が伝わっている。83歳で亡くなるまで、後水尾院は37人にのぼる子どもの父親となった。
学問と花を愛した天皇(上皇)の様子がうかがえる本です。ただ、冒頭に石田三成が家康の邸へ逃げ込んだと記述されていますが、これは現在では否定されていると思います。それというのも、この本は1982年に刊行されたものの復刊ですので、仕方ないことでしょう。江戸時代初期の天皇の実態が分かる本として紹介します。
(2010年10月刊。933円+税)
2011年4月 9日
江戸のエロスは血の香り
著者: 氏家 幹人、 出版: 朝日新聞出版
巻末に主な参考文献・引用史料がたくさん紹介されています。これを見ると、江戸時代について書かれた本を相当よんだつもりになっている私ですが、学者に比べると赤子のようなものです。ちっとも読んでいません。だいいち、原典にあたっていないところが致命的な相違点です。
江戸時代、長崎に滞在していたある中国人は、日本人について、礼儀正しいが貞操を守らないと評した(『甲子夜話』)。江戸時代から今日に至るまで、日本人は老若男女の別なくかなりエッチなのである。
江戸時代、武士の妻が貞節だったというのは幻想でしかない。文政7年(1824年)、吉原遊郭が炎上し、仮宅での営業が許された。すると、この仮宅を訪れた見物人の8割は女性で、しかも武家屋敷の女性が多かった。
江戸時代の性の倫理は、過酷な刑が定められた一方で、思いのほか緩やかだった。泰平の世が続くにつれ、その傾向はさらに顕著になった。妻の不倫が発覚しても、処刑や流血沙汰に至るケースは稀になり、通常は間男(不倫相手)から寝取られた亭主に「首代」(くびだい)と呼ばれるお金が支払われて示談が成立した。「首代」は7両2分とされたが、大阪では5両。間男が貧しければ、さらに小さい額で示談が成立し、なかには夫が妻の髪を切るだけで事済みになった例もある。
不義密通は武士の世界でも庶民の世界でも、日常茶飯化していた。皇族の男女だって駆け落ちしたくらいなので、大名や旗本の妻女駆け落ちも稀ではなかった。
幕府や藩の役人は心中事件の処理に手心を加えていた。幕府自身が心中未遂で死にそこなった男女の扱いについて、幕府の定めた法を曲げるように勧めていた。心中未遂で晒し者となり非人の配下になっても、親族が非人頭にお金を払って身柄を引き取って、なんのことはない、二人はめでたく結ばれることがあった。そんな魂胆から、狂言心中を企む男女も少なくはなかった。うひゃあ、ここまでくると、驚きですね・・・。
「茶呑男」という言葉を初めて知りました。正式な夫は持たないが、熟年の性欲を適度に満たしてくれる男友だちのこと。お一人様の老後を、「茶呑男」をこしらえて乗り切ろうという小金もちの女隠居がいた。
江戸時代の本を読むと、現代の性風俗かと思うばかりです。日本人って、本当に変わらないのですね・・・・。
(2010年11月刊。1500円+税)
2011年4月 6日
鉄砲を手放さなかった百姓たち
著者 武井 弘一、 出版 朝日新聞出版
江戸時代の百姓は、意外にもたくさんの鉄砲を持っていたようです。害獣退治に鉄砲は欠かせなかったのでした。そして、百姓一揆には鉄砲を使わないという不文律があったといいます。これって、日本社会の不思議ですよね。
百姓一揆のとき、鉄砲がヒトに向けて発射された例はない。武器ではなく、音をたてる鳴物として使用された。領主の側でも鉄砲は使わなかった。百姓へ向けて発砲してしまえば、たちまち支配の正当性を失ってしまうからだ。領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。うむむ、本当でしょうか、なんだか信じられない、そんな原則ですよね。
下野(しもつけ)国壬生(みぶ)藩は軍役で鉄砲80挺を出すのが決まりだったが、藩内の村から104挺もの隠し鉄砲が摘発された。軍役規定の1.3倍も鉄砲を百姓たちが不法所持していた。このように刀狩りによって日本人は丸腰になったという考えは間違っている。実際には、村々には、なお大量の武器がそのまま残されていた。刀狩の真の狙いは、百姓の帯刀を原則として禁じて身分を明確にすることにあった。そうなんですか・・・。
鷹を数えるときは、「羽」ではなく「居」(もと)を使う。むひゃあ、ちっとも知りませんでした。こんな単位の呼び方があったんですね・・・・。
鉄砲改めとは、幕府が村に広まっている鉄砲そのものを登録することを言う。つまり、鉄砲所持を禁止するのではない。鉄砲改めの狙いは、盗賊人が持つような、治安の悪化にもつながるような鉄砲を没収することだった。
島原の乱のあと200年ほどは弓も鉄砲も不要になっていたと、水戸藩主の徳川斉昭が幕末のころに書いている。幕末になると、アウトローたちは、長脇差とヤリ・鉄砲をもって徘徊していた。
人宿(ひとやど)に、まだ死人でないヒトが捨てられていた。重病人を遺棄することがあたり前になっていた社会に徳川綱吉は、ヒトもふくめた生き物すべての生命を大切にすることを教諭しようとした。これが生類憐みの令なのである。また、野犬をどうするのかが、社会的な課題となっていた時代でもあった。うむむ、そういう見方もあるのですか。
関東の耕地面積は、(20万町20万ヘクタール)から、江戸中期に70万町まで3.5倍も飛躍的に増えた。そして、鳥獣害に百姓は悩まされていた。
享保2年から、幕府はあらゆる鳥を独占するため、鉄砲を取り締まっている。鳥が激減していた。幕府が鉄砲改めをおこなったのは、鷹場を維持・管理するため、不足していた鳥を確保することに狙いがあった。
日本人にとっての鉄砲の意味を考え直させる本です。
(2010年6月刊。1300円+税)
2011年3月31日
日本1852
著者 チャールズ・マックファーレン、 出版 草思社
江戸時代の末期、黒船に乗ってやってきたアメリカのペリー提督の日本についての知識が、こんなに深いもので裏付けられていたとは知りませんでした。
この本は、著者自身が日本に来たことはなかったものの、日本に行ったことのある体験記、見聞記を集大成して、ペリー提督を含めた欧米の人々に日本と日本人の全体像を提供したものです。その内容は、当然ながら今日の日本とはかなり違ってはいますが、かなり当たっていると思わざるをえないところが多々あります。その意味で、江戸時代の日本、ひいては日本人が昔からあまり変わってないことをよく知ることのできる本でもあります。ペリーたちが、日本についてこんなに知って来日したなんて、私にとってまったくの驚きでした。
本書が発行されたのは1852年7月。ペリー提督がアメリカを出港する4ヶ月前のこと。
ザビエルたち日本に来た宣教師は、日本人を賞賛した。日本人の従順で他者に優しい気質。恩義を重んじる傾向にあること。今でも言われますよね。NHKのフランス語の講座で、フランス人による日本論で同じ指摘があります。
徳川家康がなかでも喜んだのは幾何と代数だった、という記述があります。うひゃあっ、と思いました。単に世界の地理と情勢を喜んだというのではありません。ヨーロッパの数学を聞いて学んだというのです。家康を私は見直しましたよ・・・。
日本人は礼儀正しく、好感が持てる。戦になると勇敢だ。仁義を重んじ、それに違反するものは厳しく処分される。礼節によって統治されている。日本より礼節が重視されている国は他にないだろう。神を敬うことには熱心である反面、多様な考えをもつことにも寛容である。
日本人には、性的にも自制心がないという性癖がある。地方領主や有力者は、たくさんの妾をもっている。彼らは、この悪徳を矯正しようとした宣教師たちへ反感を抱いた。
アヘン戦争の状況は、ことごとく日本人へ伝わっていた。
日本人とは、創意工夫の精神にみちた民族だ。豊富な資源と商業をはぐくむ能力。そこには十分な数の人口が存在する。この国を治める諸侯も高い知性を示している。こうした日本人の能力、エネルギー、起業家精神をみると、アジア諸国の中で一頭地を抜く存在になる可能性が高い。
一般に、日本語の発音は明瞭ではっきり聞き取れる。
漢語(中国語)は、HをHとしてはっきり区別して発音するが、日本人にはHもFも同じである。逆に、日本人の発音ではRとDは区別されるが、漢語ではどちらの発音もLに聞こえる。うへーっ、これってどうなんでしょうか。いまは逆のことが言われてますよね。
女性も日本では帝位につくことができる。女性が治める素晴らしい時代もあった。
女性の地位と立場は日本では相当に高い。他のアジア諸国の中でも飛びぬけて高い。江戸時代に住む女性は、コンスタンチノープルのトルコ女性の百倍もの自由があり、計り知れないほど大事にされている。日本の女性は隔離された社会に閉じ込められてはいない。フェアな社会的地位をもち父や夫と同じように遊びに興じている。
日本の政府は教義には無関心だ。どの宗派も自由に教義を戦わせている。政府の無関心さは、世界ではひどく稀で、賞賛すべきことだ。
信長は坊主たちのしつこさに辟易しつつ、日本に存在する宗教の数を問うた。35と答えた坊主に、それなら36になっても一向に問題なかろう、宣教師は放っておけと提示した。
日本の皇帝(天皇)は政治的な重みを持っていない。それどころか、帝の暮らしは、牢に入れられたようなものである。すべての大名はスパイや内通者の監視下にある。日本のシステムは、治める側の生活のほうが治められる側のそれより惨めだとも言える。人の嫉妬を利用した管理法は小さな藩でも同じだ。このように嫌悪感を催すような政府の仕組みにもかかわらず、一般の日本人はほとんどいつでも気さくに振る舞い、言いたいことを自由に発言している。ええーっ、これってまるで現代日本のことを言っているみたいじゃありませんか・・・。
日本の法には血なまぐさ漂うが、現実の運用では死罪の適用に積極的ではない。裁く側に広い裁量権が認められているのだ。
この風変わりな民族は本当に花が好きなのだ。ほとんどすべての家庭が裏庭に庭園を持ち、前庭には花をつける低木を植えている。この国を訪れる誰もが農業や園芸のレベルの高さを賞賛している。
日本人の器用さや創造力はよく知られている。日本の製品の出来栄えは頑丈さ、安定性、仕上げの良さまで中国の製品を上回っている。日本人は社交的で遊びが好きな民族だ。しっかり働き、労働時間は長いが、祭りにはごちそうを食べ、大騒ぎをする。祭りでは、音楽、踊り、演劇がどの身分でも楽しめる。道化師や役者たちが町を練り歩く。曲芸師、手品師、ジャグラーたちが人々を楽しませる。
日本人はきれい好きで、身分の高低にかかわらず、風呂が好きだ。日本の家は驚くほど清潔だ。
子どもは全て学校に行かされる。学校の数は、世界のその国よりも多いと言われている。日本人は名誉を異常なほどに大事にする民族である。少し高慢で、仇討ちに価値を置き、少し好色なところがある。それが欠点である。
真面目だけど、遊びも好きで、かつ好色。それが日本人だというのは、現代にも通用する日本人論ではないでしょうか・・・。
(2010年2月刊。1600円+税)
2011年3月26日
絵草紙屋・・・江戸の浮世絵ショップ
著者 鈴木 俊幸、 出版 平凡社
まっこと、日本人っていうのは昔から本が大好きなんですよね。江戸時代、大人も子どもも、本屋の前に広く集まり、江戸では新刊本を、地方では古本を待ち焦がれていたのでした。
地本(じほん)とは、江戸で、生産される草紙類のこと。豪華な印刷。錦絵は、江戸の繁華を象徴するものであり、最新の流行を盛り込んで、「通」の美意識にかなうお洒落なものだった。地本は、絵草紙屋という店で商われる。小売専業の店が江戸に出来て、錦絵を商品の主体とした。浮世絵のなかで、もっとも主要なジャンルは芝居絵である。相撲絵や吉原の遊女の姿絵も主要なジャンルの一つであった。
そして、きれいな浮世絵が店先に吊るし売りされている絵草紙屋は掏摸(すり)のかっこうの稼ぎ場でもあった。絵草紙屋の店先に吊るされていた浮世絵をポカンと大口をあけて眺めていると、そっとスリが近づいてきて、フトコロの財布を盗んでいってしまう。絵草紙屋の主人はそれに気がついても黙って成り行きを見ているだけ。そんな状況が紹介されています。昔も今も変わらない情景ですね・・・・。
絵草紙屋には、春画・書本の類も置かれていて、根強い人気商品だった。
参勤交代などで、地方から江戸へ出てきた田舎にとって、「土産の第一」は、浮世絵だった。国元への土産に大量に買い付けた。田舎へ持って帰るのには、新版である必要はない。浮世絵は吊るし売りされていた。観光地であり、行楽地である浅草は、小売専業の絵草紙屋が登場した。
江戸時代の貴重なメディアの一つであった絵草紙の興亡を知ることができました。
(2010年12月刊。2800円+税)
2011年3月20日
細川三代、幽斎・三斎・忠利
著者 春名 徹、 藤原書店
熊本城の大広間が再現されたのを見ましたが、それはたいしたものです。佐賀城の大広間の再現にも感嘆しましたが、やはり熊本城のほうがはるかにスケールが大きいと思います。その熊本城の主であった細川家は、戦国時代を生き抜いて熊本に定着したわけですが、それに至るまでは決して安穏した状況ではありませんでした。そのことが実によく分かる本です。500頁もある分厚い本ですが、最後まで興味深く読み通しました。
細川家三代の基礎をつくった幽斎・細川藤孝は12代足利将軍義晴(よしはる)の側近、三淵(みつぶち)大和守晴員(はるかず)の次男である。ところが、実は、藤孝の本当の父親は将軍義晴であったとも言われている。いずれにせよ、藤孝は、織田信長と同年の生まれ、秀吉より3歳、家康より8歳上であった。
藤孝は足利将軍義昭につかえていたが、織田信長が抬頭するなかで、信長につかえるようになった。そして、ついに将軍義昭を見限り、信長についた。
藤孝は、信長が安土城を居城として京都一円を支配していたとき、丹後国の支配をまかされた。
天正10年(1582年)光秀が信長を殺害したとき、藤孝は光秀の娘を妻(玉。ガラシャ)としていた息子・忠興を試した。しかし、親子そろって、光秀には組みしなかった。幽斎と忠興父子は、秀吉支持で一貫した。
利休の切腹、朝鮮出兵そして秀次失脚によって細川幽斎も、忠興もきわどいところを切り抜けていったようです。そして、忠興の妻、ガラシャ(光秀の娘)は大坂方(石田三成)に攻められ、自決した。
細川家が本に書かれやすいのは、膨大な手紙が残されているからです。
忠興は、三男忠利に対して、現在するだけで1700通、その他をあわせると2千通も残っている。そして、忠利も、光尚あてに1400通が残っている。忠利の手紙の総数は4千通といいますから、半端な数ではありません。
徳川政権の確立期に、ひたすら情報を集め、政治の推移をうかがい、自らも家を保ち、それを円滑に後継者に継承するための過程を生彩ある筆で描きだしたのである。
すごいですね。細川家が熊本に入ってからも、いろいろありました。その一つが、島原の乱です。そして、阿部一族の事件の真相は・・・。これらについても大変興味深く、読み通しました。
(2010年10月刊。3600円+税)
2011年3月11日
日本人と参勤交代
著者 コンスタンチン・ヴァポリス、 出版 相書房
アメリカの学者が江戸時代の参勤交代の実情を丹念に掘り起こした労作です。
著者は、参勤交代の道の一部を実際にも歩いているそうです。すごいものです。
加賀藩では、参勤交代はあくまで軍役であると意識して、藩士は自炊しながら旅をしていた。殿様はぬかるんだ道で駕籠を担がせるのはかわいそうだからと家臣を思いやって駕籠に乗らなかった。逆に、殿様が駕籠に乗らないため、年老いた家臣たちまで駕籠に乗れずに困ってしまった。このような参勤交代の旅をする人々の現実の姿を生き生きと描いています。
通常、宿駅の通知は、宿は予定から通算して6ヶ月前には行われ、その時点で一行全員の宿の手配がなされた。大集団の定期的移動にかかる費用は膨大だった。藩全体の支出の5~20%が参勤交代のために費やされた。これに江戸藩邸と江戸詰め藩主の維持費用を加えると、全藩の収入の50~75%が消えた。うひゃあ、これはすごいですね。
当初は、出費の多さを競った大名たちも、まもなく出費を切り詰めるようになり、宿や茶店から吝嗇の評判を受ける大名も少なくなかった。
暮れ六つ泊まりの七つ発ち。これは、早朝4時に出発し、暗くなってからようやく宿に入るということ。なーるほど、ですね。
戦略上の理由から、大名に船旅が許されたのは大坂まで。あとは陸路を行くように要請されていた。だから船による参勤交代の絵を見かけないわけですね。
大名が病気を訴えたとき、その多くは偽りだった。しかし、単に1~2ヶ月の延期しかなく、ずっと病気で、数年も参勤交代しなかったという大名はいない。
江戸時代の庶民にとって、大名行列は一種の劇場であった。それを藩主たちも十分に承知していた。衣装は、その豪華で彩り豊かな細部によって庶民の目を惹いた。
行列の最大は2千人から3千人で、馬も400頭前後だった。それは加賀藩のこと。さすがは百万石ですね。これに対して、九州の諸藩は平均して280人の供を従えた。ただ、出立と到着時には、日雇人夫を雇い、威厳のために人工的な行列水増し策をとった。
藩主は常に携帯用のトイレと風呂桶も携えて行列した。ペットを連れて旅する大名もいた。
行列の道具のなかでは、地位の表象として、槍と難刀がもっとも重要であった。
江戸屋敷に住む藩主たちは、長屋に住みながら欲食を楽しみ、書き物をし、将棋や囲碁などのゲームに興じて自由時間を過ごしていた。おおむね健康的な生活水準を維持していた。なるほど、そのような姿を描いた絵があります。
江戸滞在は好奇心旺盛な藩士たちの人生を大きく変えるほどの影響をもたらすこともあった。文化的な生活を追い求める藩士たちは、江戸での生活体験を通じて、新しい知識の源泉や技術に触れ、また自藩にいては得られないような文化も体験した。
江戸体験にはピラミット的な効果があり、実際に江戸まで旅をしてそこで生活した人々だけでなく、そうでない人々にまで影響を及ぼした。
なるほどと思わせる絵がたくさん紹介されています。参勤交代に参加した武士たちの日記まで掘り起こした結果だといえる貴重な労作です。江戸時代って、決して暗黒の停滞した時代ではなかったのですね・・・。
(2010年6月刊。4800円+税)
2011年2月18日
龍馬史
著者 磯田 道史、 文芸春秋 出版
坂本龍馬が暗殺されるにいたった幕末の情勢がきわめて明快に語られています。なるほど、そうだったのかと、私は何回となく膝を叩いたため、膝が痛くなったほどです。
坂本龍馬の生家は、高知県城下でも有数の富商である才谷(さいたに)屋から分家した、郷士(武士身分)の家柄だった。
才谷屋は、高知のトップ銀行に匹敵する実力を持っていた。豪商・才谷屋は、6代目八郎兵衛直益のときに郷士株を手に入れ、長男が分家して郷士坂本家が誕生した。坂本家の屋敷は500坪の広さがあった。これは、500石クラスの上級藩士の武家屋敷に匹敵する広さだった。
江戸時代、武士でないものが武士になるのは、それほど難しいことではなかった。郷士の養子となるか、藩に御用金を献上して郷士株を入手する。後者のルートで郷士となったものを献金郷士と呼んだ。
坂本龍馬は、上士に比べれば差別的扱いをうける郷士の出身だったが、その分、お金には不自由しない富裕層だった。なーるほど、だから亀山社中という商社の発想がありえたのですね。
城下にいる兵農分離された武士は、おとなしく明治新政府の方針に従ったが、兵農分離していない、みずから土地経営をしていた郷士たちは、自分たちの特権や土地経営がなくなるという危機感から激しく抵抗した。
龍馬は、家督を継げない次男だったので剣術で名をあげようと考えた。だから、江戸で剣術道場に入門したのですね。
坂本龍馬は、誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設してみずから船を動かして実戦をたたかった。この点が、むしろ過小評価されている。
龍馬は志士として活動するときには才谷姓を名乗った。龍馬は、薩摩藩の要望にこたえたて、独自の海軍をたちあげるために、1865年(慶応元年)、長崎に亀山社中という商社をおこした。亀山社中の経営者は龍馬であり、そのオーナーは薩摩藩だった。
後藤像二郎は土佐勤王党を弾圧した側だったが、龍馬と意気投合して、脱藩の罪を許して、土佐藩支配下の海援隊の隊長に任命した。
寺田屋事件で龍馬は危うく幕府役人に捕縛されそうになった。最近、そのときの報告文書が発見され、幕府は薩摩と聴衆の同盟を仲介していた龍馬を要注意人物とみていたことが判明した。
龍馬暗殺の下手人は京都の見廻組であって、新撰組ではない。見廻組は旗本や御家人の子弟を中心とする組織であり、浪士の集まりである新撰組より地位が高かった。
見廻組は変装された密偵を龍馬の下宿に張り付かせていた。龍馬に致命傷を追わせたあと、さらに34ヶ所も滅多突き突多斬りの状態にした。そして、襲撃犯たちは追撃戦を恐れて、一かたまりとなって帰っていった。この見廻組に命令したのは京都守護職の松平容保(会津藩主)である。そして、会津藩公用人の手代木勝任(てしろぎかっとう)が手配していた。幕府にとって龍馬はいかにも危険な存在だから、抹殺してしまおうということだった。なるほど、なるほど、そうだったのですね。
龍馬の人間としてのスケールの大きさを実感できる本でもありました。とても面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年9月刊。1333円+税)