弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2010年2月26日

江戸の本屋さん

著者 今田 洋三、 出版 平凡社ライブラリー

 江戸時代には、大量の本が出版されていて、本の買えない庶民には貸本屋があって、大繁盛していたのでした。
 そうなんです。日本人は、昔から本大好き人間が多かったのです。今の日本と同じです。
 江戸時代に出版業者は刊行物の目録を作るようになった。1670年の目録には3900点の書物が登録されており、1692年には7200点にも達している。元禄時代の日本に刊行されていた書物は、1万点にものぼる。流通していた冊数は1千万冊にも及ぶものとみられる。
 うへーっ、す、すごいですよね。私も読書家の一人ですが、蔵書は1万冊あるでしょうか。年間500冊以上の本を読み、購読して読んでいない人も相当ありますので……。
 江戸時代、書物の読者が増え、劇場の観客が激増したのは、都市の発達と関連していた。京都も大阪も30万都市であり、江戸には武士と町人あわせると100万人に達した。この時代に人口100万人を超える都市は、世界中探しても他に見つからない。
 文化・文政期は三都がかつてなく繁栄した。江戸では文化の享受層が、田沼時代の上層町人中心から、中下層の町人・職人層に拡大し、文化の大衆化が進行した。都市における読書人口は、かつてなく増大した。毎年40種近く発刊される合巻は、それぞれ5千部から8千部も売れた。近世前期に、上方中心であった出版界は、完全に江戸中心となった。
江戸時代には、どの地方にも貸本屋があった。大坂には300人の貸本屋がいて、江戸の貸本屋は800軒と言われていた。江戸だけで10万軒に及ぶ貸本読者がいた。こうなると、有料図書館とでもいうべき存在である。
 貸本屋は出版統制・言論統制のまことに厳しい江戸時代にあって、とくに政治批判や政治の実態を曝露する文献を、読者にひそかに貸し出す人々でもあった。
 江戸の講釈師・馬場文耕は、金森氏が藩政不行届のかどで改易されたのを講談にしたところ、浅草で獄門に処された(1758年)。
 日本人の読書好きには歴史があり、権力への反骨精神も太々としたものがあったことが、よくわかる面白い本です。
 
(2009年11月刊。1300円+税)

2010年1月29日

関ヶ原前夜

著者 光成 準治、 出版 NHKブックス

 関ヶ原合戦については、二項対立的にとらえられてきた。たとえば、北政所派に対する淀殿派。また、武功派に対する吏僚派など。しかし、北政所と淀殿は実際には連携していた。さらに、武功派と吏僚派という単純な対立図式は成り立たない。
 実際には、これらの対立軸は複雑に絡み合い、また、血縁・姻戚関係や地理的要因にも左右され、諸大名は自らの進退を決した。うーん、たしかにそうなんだと思います。
 前田利家が死去した直後、石田三成は加藤清正や福島正則たち七将に襲われ、伏見にあった家康邸に逃げ込んだ、という見解は誤りであって、三成は伏見城内にあった自邸(曲輪)に入った。この点は、たしかに実証されています。
 毛利輝元は、西軍の総大将格に祭り上げられたが、積極的に戦闘には参加しなかったという通説見解にも疑問がある。むしろ輝元は、あらかじめ奉行衆や安国寺と決起のタイミングについて打合せ、諸準備を整えたうえで、上坂要請という大義名分を得て迅速に行動した。
 毛利軍は、最前線に兵力を投入することには消極的だが、それ以外の東軍参加大名の所領を侵食することには積極的だった。関ヶ原合戦のとき、輝元は、岐阜城の落城や伊勢や大津での苦戦、家康の西上に不安を感じていただろうが、他方、石田三成との絆も完全に崩壊はしていない。また、西軍の総大将格としての矜持も失っていない。そこで、吉川広家ルートによって万一、西軍が敗戦したときの自己保身を図る一方、南宮山の布陣は削がず、西軍有利と見れば下山して東軍を叩きつぶす。弱気と強気の交錯した感情のなかで、輝元は、どちらにも対応できる策をとったものと思われる。
 さまざまな思惑謀略の渦巻く中、関ヶ原は戦場と化していった。
 なーるほど、日和見というか、毛利輝元のずる賢さというか…ですね。
 毛利輝元は、大坂の陣に際し、表面的には家康に従い、豊臣秀頼攻撃軍に兵を送る一方で、毛利元就の曾孫にあたる内藤元盛を佐野道可と改名させたうえで、兵を与えて大坂城に送りこんだ。秀頼軍は秀頼の直臣ほかは、関ヶ原合戦後に浪人となった者で構成されており、佐野道可のように主君の密命を帯びて秀頼に加担した例は他にない。
 このように、毛利輝元の人物像は、非常に野心に満ちたものといえる。
 関ヶ原合戦で、仮に西軍が勝ったとしても、秀吉が健在だったころの豊臣家を唯一の武家頂点とする国家体制が復活したとは考えられない。西の毛利、北の上杉に加え、宇喜多や島津、佐竹などが地域国家として分立し、形式上の最高指導者である秀頼の下、石田三成ら豊臣奉行人と地域国家指導者との合議によって、日本全体の国家を運営していくという複合国家体制が成立していたであろう。
 なーるほど、そうなんでしょうね……。
 私は関ヶ原の古戦場跡には2回行ったことがあります。徳川家康は決して自信満々で関ヶ原決戦にのぞんだのではないことを知って、現場で感慨を深くしました。知れば知るほど歴史は面白くなります。
 
(2009年7月刊。1160円+税)

2009年12月21日

手妻のはなし

著者 藤山 新太郎、 出版 新潮選書

 日本の伝統的奇術を奇術師自ら紹介している本です。大変面白く、ぜひとも実際に著者の演じる手妻を見てみたいものだと思いました。
 手妻、てづま、と読む。江戸から明治にかけて、日本ではマジックのことを手妻と呼んでいた。手妻とは、日本人が考え、独自に完成させたマジックのこと。
 幕末に日本にやってきた欧米人が手妻を見て、その技術の高さ、演技の美しさに驚嘆した。たとえば水芸。水道も電気もない時代に、舞台一面に水を吹き上げる。それも、ただ水を出すのではなく、まるで舞踊の所作のように軽やかな振りによって太夫が自在に水を操るのだ。
 蝶の曲。紙で作った蝶を扇の風で飛ばしながら、さまざまな情景を描く。
 蒸籠(せいろう)。小さな木箱から、絹帯を次々に取り出し。その絹帯の中から蛇の目傘を何本も取り出す。
 いやはや、文字で読むだけでは想像できませんね、ぜひぜひ、現物を見せてください。
 手妻とは、手を稲妻の如くすばやく動かすことによる。いや、手のつま。妻は刺身のつまのように、ちょっとしたもの、添えものという意味で、手慰みとか手の綾ごとという意味である。手妻はマジックではない。魔法という意味はない。
 朝鮮半島には伝統奇術がない。ええっ、本当でしょうか……?
 タネと仕掛けが少しばかり説明されているのも、この本の面白いところです。
 刀の刃渡り。刀は引くことによって切れるが、刃の上にまっすぐ足を乗せたときには切れにくい。要は、度胸がすべての術。そうはいっても、素人にはできない技ですよね。
 火渡り。初めに地面を少し掘っておいて、そこに水を張って水溜りをつくっておく。その上に薪をはしごのように組んで、水溜りを隠すように並べる。その上に、さらに薪を並べて火をつける。火が下火になってから、上から清めと称してたくさんの塩とカンスイを撒く。これは熱を下げるのに有効。そのうえで、梯子の隙間を縫って水溜りを歩く。火はほとんどないし、下は水だから足は熱くはない。ただし、下手すると、大やけどする。
 人間が生きた馬を飲み込んでいく呑馬術というものがあったそうです。その仕掛けが説明されています。
 舞台背景は暗幕。舞台前にはずらりと面明かり(ろうそく)を並べる。その明りが眼つぶしとなって、観客には明かりの奥の舞台が一層暗くしか見えない。舞台上には顔まで黒布で隠した黒衣(くろこ)がいる。観客には、まったく見えない。
 そして、手妻師(長次郎)は、手足顔すべてに鉛の粉末の入った高級白粉(おしろい)を塗った。光沢のあるものによって、暗い部屋で光を集める。そして、術者が馬を呑む演技をしながら、馬を徐々に黒布で隠していく。そのために、ベニヤ板のような大きな板を用意し、板には黒布を貼っておく。板の一部を三角形に切り取る。その三角形の凹んだところに馬の絵を近づけて、三角の裂け目に馬の顔をはさんでいく。観客から見ると、馬の顔は細くなったように見える。徐々にベニヤ板の裏側に隠していく。馬は三角形の切れ目の裏で黒布で覆っていき、それにあわせて、三角形の切れ目は首から胴と順に包んでいった。
 これは口で言うのは簡単だが、演者と表の手伝い、裏の黒衣の3人がよほどタイミングを合わせないと難しい。馬は一切協力しないし、機嫌が悪いと暴れ出すから、演じるのは難しかっただろう。
 なんとまあ、そんな仕掛けだったのですか……。それにしても、よくできた仕掛けですね。
 手妻師の舞台は、一日の売り上げが40両。今日の400万円だ。当時、小作百姓は1年に1両の貯金がやっとだった。ということは、すごい売上だったわけです。
 手妻は不思議なだけでは芸にならない。全体を通してしっかり形がとれていないと芸にはなりえないものである。そうですね。
 手妻を覚えたい人のために伝授屋(プロの指導家)がいて、伝授本(手妻の指導書)が売りに出され、手品屋(今日のマジックショップ)まで存在した。江戸時代の人はオリジナリティー豊かであった。ふむふむ、なるほどですね。
 江戸町内に、寄席が500軒もあった。江戸の町の2町にほぼ1軒の割合だった。
 二羽蝶が生み出され、ストーリーが生まれた。人生を語り込むストーリーだ。二羽蝶になることで、それまでは単なる曲芸でしかなかった蝶の芸が、蝶の一生を語る物語になった。
 いやはや、なんとも奥の深い芸なんですね。こんな素晴らしい本を書いていただいてありがとうございます。ぜひぜひ実際の芸を今度見せてください。よろしくお願いします。

(2009年2月刊。1600円+税)

2009年12月11日

寂しい写楽

著者 宇江佐 真理、 出版 小学館

 東洲斎写楽とは、いったい何者なのか。江戸時代、寛政の世に忽然と現れ、わずか10ヶ月で消えてしまった写楽をめぐって、さまざまな推理がなされています。この本は斉藤十郎兵衛を写楽だとしています。
 老中松平定信の行った寛政の改革は、芝居とも無縁ではなかった。市村座、森田座、中村座の座元と関係者が北町奉行所に呼ばれ、芝居興行における厳しい通達を受けた。要するに役者の衣装などを質素にしろということだった。それに反した役者は奉行所に連行され、派手な着衣を没収されたうえ、5貫文の罰金刑を受けた。
 また、芝居は午後四時(夕七つ)までとし、明かりを灯しての興業は禁じられた。
 東洲斎写楽の本業は能役者だった。名前は出版社である蔦屋の主人がつけた。
刷りは二百枚単位。版木には耐久性が求められる。人物の型紙を置き、にかわにスミと雲母を混ぜた絵具を刷毛で塗る。雲母(キラ)摺りは、絵具が渇くに従い、独特の光を放つ。
 9種類にもおよぶ工程は、摺師が長い間に創意工夫をこらしたものである。
 滝沢馬琴、山東享伝、歌川豊国など、よく知った人たちが登場してきます。
 斉藤十郎兵衛。斎藤をひっくり返せばとうさいとなり、その間に十郎兵衛の「十」を入れると、まぎれもなく東洲斎となる。
 乙粋(おついき)という言葉が登場します。初めて聞く言葉でした。写楽の役者絵は乙粋だったが、商売にならなかった。このように語られています。
 江戸の文化の香りが、そこはかとなく伝わってくる本です。
 
(2009年7月刊。1500円+税)

2009年12月 7日

百姓たちの江戸時代

著者 渡辺 尚志、 出版 ちくまプリマー新書

 江戸時代の人口は、17世紀に急増した。1600年に人口は1200万人から1500万人のあいだと推定される。それが18世紀はじめには3000万人を突破した。100年間で2倍に人口が急増した。その背景には、新田開発による耕地面積の急増と、農業生産力の増大があった。この本には書かれていませんが、戦争がなくなり、平和な時代となったことがその前提として大きかったのではないでしょうか。
 ところが、18世紀から19世紀にかけて、人口は停滞・安定してしまう。
 18世紀に人口増加がストップしたのは、少子化と晩婚化が進んだこと、耕地面積の増加が頭打ちになったこと、飢饉や疫病の影響もあった。
 江戸時代の後期、一家の子どもは2,3人程度だった。子だくさんではなく、人々は少なく生んで、手間ひまかけて子どもを育てるようになった。
 江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていた。百姓に苗字がなかったというのは誤解である。ただ、公的な場で名乗ることを許されていたのは、ごく一部の特権的な百姓に限られていた。
 江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代なのである。それ以前には、家が成立していなかった。なーるほど、そうだったのですか……。
 江戸時代の庶民の衣料事情は、2回の大きな変化を見せる。1回目は、江戸時代前期に起きた木綿の普及。2回目は、19世紀に入って、庶民がファッションに敏感になり、10年周期で流行が変遷していったこと。
江戸時代の百姓は、米を食べていた。年間1石(150キロ)以上の米を食べていたと思われる。絶対量でみると、今日の日本人(60キロの米を食べる)を上回る米を食べていた。日常的には、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や、かゆ、雑炊を食べ、婚礼などの晴れの日には米だけの飯を食べた。
 江戸時代、介護は女性の役割という観念はなく、介護は家の責任で行うものとされていた。家長が家族の中心になって介護にあたるべきだと考えられていて、家長の統率のもと、家族が協力することが求められた。
 江戸時代の歌舞伎は、村人自身が演じたところに特徴があった。村人が自ら役者となり、歌舞伎を村の鎮守に奉納し、村全体でそれを楽しんだ。
 19世紀の村には、常に誰かしら寺子屋の師匠がいた。
 農家が米をつくるとき、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を組み合わせ、収穫時期をずらし、風水害のリスクを回避し、多収穫をバランスよく実現しようとした。
 一家の財布を握り、一家を牛耳るのは、妻だ。妻は家庭内で尊重された地位を占めている。彼女の生活は上流階級の婦人より充実しており、幸せだ。なぜなら彼女らは、生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、その言い分は通るし、敬意も払われるからだ。夫婦のうちで、性格の強いものの方が性別とは関係なく家を支配する。
 江戸時代にも、たくましく生きる女性たちが確かに存在していた。
 江戸時代の村の生活の様子が、イメージをもって伝わってくる貴重な新書です。日本は古来、女性は強いのですよ。今の日本を見たら、よく分かることです。

 アメリカはアフガンに増派するということですが、失敗するに決まっていますよね。かつてのベトナム戦争、そしてソ連のアフガン敗退の二の舞を演じるだけでしょう。
 勝てる見込みがまったくないのに、それでもあえて増派するのは、タリバン政権の復活を恐れているからとのことです。アフガニスタンにタリバン政権ができたら、パキスタン政権も危うい。そして、そうなったら、核の管理が心配になり、核兵器をテロリスト集団が持つ心配がある。こんな心配をしないように、アメリカはともかくアフガニスタンに増派するようです。これは、渡辺治教授の話の要旨でした。
 
(2009年6月刊。760円+税)

2009年11月28日

建具職人の干太郎

著者:岩崎京子、出版社:くもん出版
 江戸時代、子どもたちは幼いころから家を出されて見習い丁稚(でっち)として奉公させられていました。
 主人公の干太郎は、わずか7歳で建具屋に奉公に出されたのです。友だちと遊んでいたいさかりなのに、学校(寺子屋)に行くこともなく、親の勝手から泣く泣く建具職人への道を歩みはじめるのです。
 干太郎は先に奉公にきている姉に叱咤激励され、家に帰ることもかなわないまま、建具屋での奉公を続けざるをえません。帰るべき実家に親はいても、そこでは満足にメシを食べさせてもらいないのですから、仕方ないのです。
 丁稚小僧(でっちこぞう)というのは今ではまったく聞きませんが、私の幼いころ(小学生のころ)、親が脱サラして小売酒店を始めたとき、住み込みの姉さんがいました(長続きはしませんでしたが・・・)。また、定時制高校に通う人が住み込みではありませんでしたが、丁稚のようにして店で働いていました。配達・集金など、よく働いていて、私たち子どもの面倒も見てくれていました。昔は住み込みで働くということが、どこでもあたりまえのようにありました。そこで難しい人間関係を乗り切りつつ、腕(技術)を身につけていくわけです。なかなか大変なことだと思いますが、丁稚小僧というのはすごく身近な存在でした。今ではあまり見かけないように思いますが、どうなのでしょうか。たとえば、海苔作業のため、そのシーズンになると長崎の五島列島から大勢の男女が出稼ぎに来て、泊まり込んでいたと聞きます。一台何千万もする全自動の海苔機械が出来てからはみかけなくなった光景です。
 この本は児童文学書として、その7歳で丁稚小僧になった干太郎の身になって物語が展開していきますので、職人の大変さもよく分かります。
 こんな職業教育も必要なのでしょうね、きっと・・・。
 そして、あとがきに、小説ではあるけれど、19世紀はじめころに実在した建具職人の記録をもとにしたと書かれています。作家の想像力と取材とは大したものです。
(2009年6月刊。1300円+税)

2009年11月14日

鶴屋南北の恋

著者 領家 高子、 出版 光文社

 江戸時代。文化文政期に、遅咲きながら長く大輪の花を咲かせ続けた鶴屋南北(つるやなんぼく)。当代随一の歌舞伎狂言の作り手である。南北が立作者になったのは50歳近い。『東海道四谷怪談』で当たりをとったときは、既に齢(よわい)七十一。次々と話題作を出してきた。
 すごいですね。同じく遅咲きだった松本清張のような作者なんですね。
 総作に没頭する狂気のような集中力。古き良き時代の香りを胸一杯に吸い込んだ者だけが持つ、晴朗な佇まい。長い雌伏時代に養われた胆力は並みではない。生来の悪気のなさと、醒めたものの見方を両立できるのは、世の中の酸いも甘いも知り尽くした年の功。しかも、歌舞伎作者なる「新しさ」の申し子として、結果を必ず出すためにとる方法の奇抜は、群を抜いている。舞台を愛する一心で生き残りをかけて劇界に踏みとどまり、備わった政治力。当代の千両役者たちの天才と傲岸と我がまま勝手を理解するのも、長老格のこの人をおいて、他にない。なーるほど、今も変わらないことでしょうね、これって……。
 歌舞伎舞台は、庶民のうっ屈を映す鏡だ。
 そんな南北が心魅かれた女性がいた。
 三味線弾きの辰巳芸者を、人目に触れぬ寮の離れに囲い、清元を弾かせて食事をする。やがて、年齢を超えて南北と鶴次(芸者)は男女の中になり、息子の十兵衛を交えた三角関係が生じ……。南北はそのなかで、たゆまぬ筆をすすめていった。
 しっとりした江戸情緒をたっぷり味あわせてくれる大人の恋の物語です。よく出来ています。その出来栄えの良さにほとほと感心しつつ、江戸の人情話を心底から楽しむことができました。

(2009年2月刊。1600円+税)

2009年10月10日

楠の実が熟すまで

著者 諸田 玲子、 出版 角川書店

 うまいもんですね。女隠密の大活躍。手に汗握る場面の連続です。次々に周囲の人物が殺されていく中で、公家の乱脈財政を暴くため密命を受けて京に潜入し、なんと公家の奥方様としてお輿入れするのです。いやはや、よくぞこんな筋立てを考えついたものですね。その発想力は恐れ入ります。そして読ませます。
 禁裏(きんり)の台所を預かるのが口向役人(くちむけやくにん)である。
 武家伝奏(ぶけでんそう)とは、幕府と朝廷との間を取り持つ重い御役。
 口向は禁裏の賄(まかな)いをつとめる役人の総称である。御取次衆、御賄頭(おまかないがしら)、御勘使(おかんつかい)、御買物使、御膳番(ごぜんばん)、御賄方、御修理職(おすりしき)、吟味方、御板元方(おいたもとかた)、御鍵番(おかぎばん)と役職は多岐にわたる。御取次衆は、全体のまとめ役で、幕府から派遣された御付武家衆に帳簿を提出する役目である。江戸時代のさまざまな役目が紹介されています。
 女隠密の正体がいつばれるのか、ハラハラドキドキしながら読み進めていきました。そして、不正の対象である公家と情が通じ合うようになり、その子を本気で愛しく思うようになってしまうのです。でも、それでは隠密の使命は果たせません。この矛盾をどうするか…。悩ましい展開です。
 裁判所の行き帰り、そして法律相談の合間にカバンから本を取り出して、読みふけりました。私も、こんな人物描写にすぐれた小説を一度は書いてみたいと考えています。

(2009年7月刊。1600円+税)

2009年9月19日

江戸の病

著者 氏家 幹人、 出版 講談社選書メチエ

 新型インフルエンザの大流行が心配されています。明治23年に流行した日本初のインフルエンザを、当時の人は「お染(そめ)風(かぜ)」と呼んだ。浄瑠璃の主人公のお染と久松である。そして、東京ではインフルエンザつまりお染風にかからないように、家の軒に「久松留守」と書いた紙札を張り付けるのが流行った。「お染さん、お前さんが惚れた久松さんは、この家には居ないから、通り過ぎておくれ」というこころである。いやあ、現代の日本人も、血液型占いのように迷信深いですけど、同じなんですね。
 日本人は眼病大国。そして、梅毒が蔓延していた。杉田玄白の収入は年に250~643両もあった。曲亭馬琴は年収40両ほどだったから、けたはずれに大きい。これは、梅毒の蔓延によるもの。城崎(きのさき)温泉が繁盛したのは、梅毒に効果的という評価を得ていたから。江戸の成人の半分が梅毒に感染していた可能性がある。このころ、梅毒は、まだ感染症だということが十分に認識されていなかった。
 幕末の日本にいたオランダ人医師ポンペは、日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪い事とは思っていない。しかし、厳重な対策が必要だと強調していた。これも、現代日本と同じようなものですよね。
 吉原の花魁(おいらん)を見物に来たのは、男だけではなかった。女たちは、今日の女性アイドルやセレブに抱くような羨望と感嘆の情を抱いて見ていた。そのとき、憐れみとか蔑みより、まあキレイと率直に賞嘆していたのである。うむむ、そうだったのですか……。
 60歳以上で亡くなった人の平均死亡年齢は73歳。18世紀の江戸は、今日の日本人が想像するほど短命社会ではなかった。ただし、60歳になるまでに亡くなる人が想像以上に多かった。
 江戸で男女の別なく、若者の最大の敵は肺結核(労咳)だった。ただし、20代の女性についていうと、出産に伴う体調不良が原因で死亡したケースの方が多かった。
 江戸時代は、頼まれたらこちらの乳が不足しない限り、乳をやるのが常識だった。自分の子だって、いつ母乳が出なくなって空腹を訴えて泣き叫ばないとも限らないからだ。幕臣の間での乳の繋がり、乳縁は重要な役割を果たしていた事実がある。
 医者と坊主は、一人前の人間が就く職業ではない。これは、比里柴三郎が父親から言われた言葉(明治4年)だそうです。うむむ、信じられませんね。
 江戸時代、医者になるのは今日と比べものにならないほどやさしかった。
 江戸時代には、老若男女の別なく、お灸が日常的に行われていた。
 江戸時代の病気の状況と医療界の実相が紹介されていて、面白く読みました。医師って、ホントに大変な職業ですよね。毎日毎日、日常的に死と直面し、本人や家族と言葉を死を意識しつつ交わさなければならないのですから、いやはや大変なことです。
 
(2009年4月刊。1600円+税)

2009年9月14日

赤穂浪士の実像

著者 谷口 眞子、 出版 吉川弘文館

 師走半ばの14日。これは私の誕生日です。そうなんです。赤穂浪士の討ち入りの日は私の生まれ月日と一致するのです。それだけで何となく親近感がわくのですから単純なものです。
 この本は浪士たちが書いた沢山の手紙を元に事実関係を丹念に追跡しています。よくぞ手紙が大量に残っていたものです。
 内匠頭が上野介に切りつけるとき「この間の遺恨覚えたるか」といったかどうか実ははっきりしていない。この2人の人間関係が前から良くなかったことは想像されるが、その原因ははっきりしていない。
 内匠頭について「昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せたまま」とし、家老(内蔵助)は「若年の主君が色に耽るのを諫めないような不忠の臣」と評価されている。その真偽は不明である。
 事件の後、赤穂藩の江戸上屋敷から家臣たちが退去すると、深夜に町人が4~50人が舟に乗って裏の水門から邸内に忍び込んで、奉公人たちの道具を持ち出していた。それを知って現場に急行した堀部安兵衛たちがその狼藉を叱責したところ、町人たちはたちまち姿を消した。
 江戸の町人たちが火事場泥棒を働いていたわけです。たくましいと言えばたくましい町人の姿です。
 赤穂浪士による吉良邸襲撃は、幕府のみならず世間の人々の耳目を驚かせた事件だった。浪士が切腹して12日目には早くも歌舞伎『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』が江戸の中村座で上演された。ただし、興行3日にして奉行所より公演中止命令が出された。
 討ち入りを当初から考えていたのは、浪士のうちの数人に過ぎなかった。討ち入りが決定したのは、内匠頭の切腹から1年4ヶ月たった元禄15年(1702年)7月28日、京都円山での会議だった。
 赤穂城の明け渡しの際には城付き武具のほかは売り払って良いとの許可が出たため、様々な武具、武器が売り払われた。その状況を岡山藩が派遣した忍びの者が書き付けたリストが残っている。
 内蔵助は古参の藩士として、浅野家に恩義があった。これに対して新参者の堀部安兵衛には「家」が代々仕えてきたという意味での恩義はなかった。
 赤穂浪士にとって転機は二つあった。
 第一は上野介の隠居と義周の家督相続、第二は浅野大学の広島藩差し置きである。これによって、内蔵助の御家再興論に同調していた者も、自分のとるべき道を真剣に考えなければならなくなった。
 円山会議の頃、討ち入りの行動を共にするという神文(しんもん)を提出していたのは120人ほどいた。126人から46人になる段階で比較的高禄の者が離脱していった。
 当初から多くの下級武士が行動を共にしなかったのは、武士をやめて町人になって生計を立てたり、他で奉公できる可能性があったから。
 江戸にいた元「家臣」の浪士の方が圧倒的に比率が高い。討ち入った浪士の半数、24人が刃傷事件のときに江戸にいた。討ち入りに参加した者のほとんどは、江戸で主君の刃傷・切腹から江戸藩邸の収公までを体験するか、内匠頭と空間的、精神的に近い関係を持っていたか、あるいは、参加者の中に親族がいるかどれかの要素を持っていた。
 浪士たちは、討ち入りを武士の名誉と信じていた。吉良邸に討ち入って、吉良家や上杉家の家臣と戦い、そこで討ち死にすると予想していた。そこで死地に赴く心境で遺言を残している。
 赤穂浪士の実像がよくよく分析されていると感心しながら読み進めました。

 関西国際空港(かんくう)から、パリのシャルル・ドゴール空港までは12時間。長いです。朝、かんくうを出発して、すぐに昼食をとり、やがて夕食をとり、ひと眠りして起きたころパリに着きます。パリには、時差の関係でその日の午後に到着します。ちょうどいい按配です!今回は、そのままスイスのチューリッヒへの飛行機へ乗り換えました。
 シャルル・ドゴール空港は、何しろ広かったです。かんくうも広かったですが、それより何倍も広い気がしました。ターミナルの2Gを探して、急ぎ足で歩きます。2Fは見つかりましたが、2Gは標識らしきものはあっても、なかなかたどりつけません。おかしい。どこにあるんだ。空港の係員に尋ねて、あっちだと指差す方向を目指しました。しかしそこにはありません。おかしい。あっ、これはバスに乗っていくところかな。バス乗り場の係員に訊くと、やっぱりそうでした。乗り換え時間は2時間近くあり、余裕たっぷりだったはずが、現実には広い空港内を歩き回っているうちに、なんと30分前になってしまいました。
 ターミナル2Gは、バスに乗って5分以上も離れた所にポツンとありました。やれやれ、チューリッヒ行きの飛行機に、これで乗れます。やっと安心しました。これに乗れなかったら、かんくうでチューリッヒまで送ったスーツと泣き分かれるところでした。
 教訓その1。シャルル・ドゴール空港は果てしなく広いと思うべし。教訓その2。ターミナルが建物内にあるとは限らない。シャトルバスで行くターミナルもある。ヨーロッパ内の国外へ乗り換えるときには要注意。教訓その3。旅では何事も初めてのことに出会うと心得ておくべし。
 いやあ、これでまた人生の勉強になりました。

   (2006年7月刊。1700円+税)

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