弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2010年8月 1日
新・雨月
船戸 与一 著 、徳間書店 出版
江戸時代最後、幕末の日本の状況を実感させてくれる貴重な小説だと思いました。
明治維新というのは、幾多の多大なる犠牲なしには実現しなかったのです。
明治維新に反抗したのが、たとえ後世になって「反動」と呼ばれようとも、薩摩や長州勢の言いなりにはならないという日本人も多かったのではないでしょうか。そして、新政府をかたちづくった薩長土肥その他の内部にも、また皇族や公じ家の中にも大いなる矛盾と激しい抗争が存在しました。
この本は、その点を多面的な角度から描こうとした意欲的な小説です。私も、こんな本を1968年の「大学紛争」について小説として書いてみたいと思ったことでした。
上巻1冊で500項もある大作です。かなり強引な飛ばし読みをしましたが、それでも丸2日間、3時間はたっぷりかかってしまいました。それだけ読みごたえのある本なのです。
よく調べて書かれていますので、幕末から明治維新にかけての日本各地の雰囲気を知りたい人には絶好の本だと思いました。
(2010年3月刊。1900円+税)
2010年6月20日
「おたふく」
著者 山本 一力 、日本経済新聞 出版
すごいですね、うまいですね、ほとほと感嘆しながら、江戸時代の気分を満喫して読みすすめました。著者は同じ団塊世代ですが、この描写、ストーリー(筋立て)、なんとも言えない巧みさに、いつもいつも降参しまくりです。
ときは江戸時代、真面目で倹約家の定信が登場してくる寛政の世。そうです。寛政の改革というのを日本史で習いましたよね。
幕府はぜいたくは敵とばかり、徹底した倹約を大名から庶民に至るまで求めます。借金まみれの旗本、御家人の窮状を救うため、借金棒引きを命令します(棄損令)。
ところが、これまでの借金がなくなったのはいいとしても、次の借金がなくなってしまうと、生活が出来ない仕組みです。さあ、大変。世の中は大変な不況に見舞われてしまいます。
そのときに、地道な商売を見つけて、工夫しながら生き抜いていく商売人がいました。いつもながら無理のないストーリーです。読んでいるとホンワカ心があったかくなります。得がたい作家ですね。日経新聞の夕刊に連載されていました。でも、そのとき、私は読んでいませんでした。
(2010年4月刊。1800円+税)
2010年6月 9日
幕末日本と対外戦争の危機
著者:保谷 徹、出版社:吉川弘文館
いやはや、日本史についても知らないことがこんなに多いのかと驚くばかりの本でした。幕末の日本、イギリスは、対日戦争にそなえて対策を検討し、情報収集につとめた。少なくとも、全面戦争はイギリスの利益にならないので、なるべくなら回避したいというのがホンネだった。それでも、横浜、長崎、函館そして江戸湾と、日本の主要拠点についての軍事的観察が工兵隊によって実施されていた。また鹿児島戦争や下関戦争では、精密な砲台のスケッチ図のほか、工兵隊は記録を作成していた。日本有事に備えて周到な準備をすすめていたのである。
うへーっ、そ、そうだったんですか・・・。
諸外国が長州藩を攻撃したとき、江戸幕府が、犬猿の仲とはいえ、攻撃を黙認するのかどうか、駐日公使オールコックは十分な確信をもてなかった。この点は、報告を受けた本国イギリス政府がもっとも心配するところだった。
なるほど、対外的には日本人が一致団結することが十分考えられたでしょうね。
イギリスは、1864年、中国方面軍の3分の2を日本(横浜)に投入していた。東アジア最大の火種は日本にあった。イギリスは、対日戦争のシュミレーションをすすめていた。
沿岸部の大名は海軍の力で処置できるが、山がちな日本の地理的条件は、ゲリラ戦に適しており、内陸戦は経費がかさむし、困難だとイギリスは結論づけた。
大坂を攻略するには、歩兵1万2000、騎兵500の兵力、それに相応する兵力の法兵隊が必要。ちなみに、当時は、大阪ではなく、大坂と書いていました。
そして、時期的には、マラリアや台風を考えて、3月にインドから軍隊を派遣し、4月に香港に終結し、5月に日本へ出航するというスケジュールとなる。
そして、兵庫に陸軍を上陸させ、海岸側は海軍の支援を得て進軍させれば、大坂の攻略はたやすい。いやはや、なんということでしょう。さすが、アヘン戦争を勝ち抜いた大英帝国です。
日本で戦争を遂行するうえでもっとも主要な問題は、糧食と輸送である。江戸攻略に必要になるのは、歩兵1万2000、騎兵500そして強力な砲兵部隊の作戦基地は、横浜と神奈川になる。
鹿児島と下関で、薩摩・長州の両藩がイギリス軍などにコテンパンに打ち負かされたことは、かえって現実離れしていた当時の日本人の目を覚まさせるのに良かったのかもしれないと思いました。
しかし、それにしても帝国主義国家イギリスの調査・分析力というのは、たいしたものだったのですね・・・。
(2010年2月刊。1700円+税)
2010年5月 7日
琉日戦争1609
著者:上里隆史、出版社:ボーダーインク
大変面白い本でした。戦国時代から江戸時代はじめにかけて、島津氏が琉球に侵攻するまでの歴史状況がとても分かりやすく、また生き生きと描かれています。知らなかったことがたくさんありました。著者に感謝したいと思います。
1609年(慶長14年)、薩摩の島津軍が琉球王国に侵攻した。首里城を包囲された琉球国王尚寧は降伏し、わずかな家臣とともに江戸へ連行された。
琉球は14世紀後半から中国(明)の朝貢・冊封体制下にあった。
15世紀はじめに沖縄島に統一政権を成立させ、海域アジア世界における交易活動によって繁栄した独立国家として存在していた。
沖縄島は、北山(山北)、中山、山南(南山)の三つの大きな勢力(三山)に分かれて覇権を争っていた。首長は「按司」(あじ)、「世の主」(よのぬし)と呼ばれ、城塞(グスク)を拠点として割拠していた。三山の実態は、強固な「国」というよりは、按司を第一人者にいただく按司の連合体だった。14世紀には、中山がもっとも強大な勢力となっていた。
琉球は中国の明王朝から異例とも言えるほど優遇されていた。朝貢回数と寄港地は無制限に認められ、三王をはじめ王弟・王叔・世子など、一国に複数の朝貢主体が認められ、大型海船が無償で供与され、航海のための人材スタッフまで派遣されていた。
明朝は、海禁・海防制度を徹底する一方で、新興国の琉球を有力な交易国家に育てようとテコ入れを図った。
グスクには銃眼が備わっていた。中国の築城ノウハウとともに、大砲がセットになって導入された。大型火器が古琉球に存在したのは確実である。
当時の琉球人は、大量の日本刀を東南アジアにもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していた。
大砲も刀もあって、島津軍と戦ったというわけです・・・!!
南九州の島津家も、内部は一枚岩ではなく、総州家と奥州家との対立が深まり、全面戦争へと発展していった。やがて、奥州家の島津元久が三ヶ国守護となり、島津本宗家として領国を支配した。
しかし、その後も、島津氏は薩摩・大隅・日向三ヶ国に分かれて混乱を続け、琉球にまで支配を及ぼすのは不可能であった。分裂し混乱していた薩摩半島の中枢部を島津氏がようやく支配下に置いたのは1550年、南九州三ヶ国の統一は1578年。そこから九州全土に覇権を及ぼすまで、わずか10年であった。
そして、そこに豊臣秀吉が登場する。1585年10月、秀吉は島津義久に対して、大友との戦闘を停止させ、さもなくば必ず御成敗に及ぶと通告した。
島津は、秀吉を「由緒のある家柄ではない成り上がり者(由来無き仁)」として反発した。島津家は鎌倉時代から続いている名門守護家であった。
秀吉は、30万人分の食料と馬2万匹の飼料1年分を調達し、九州遠征軍25万人が九州に上陸した。その圧倒的兵力の差から、ついに島津氏は秀吉に屈服した。そして、琉球は、秀吉の次なるターゲットの一つとして狙われた。
琉球王尚寧は1589年、秀吉に使節を送った。琉球が京都の中央政権と公式に接触したのは室町時代以来、100年ぶりのこと。
琉球にとって明朝は忠誠を誓うべき宗主国であった。琉球は明との関係を維持するために、明に敵対しようとする日本への経済的依存を深めざるをえなかった。
使節の派遣により従属国として見なされた琉球は、明侵攻の動員体制のなかに否応なく組み込まれようとした。
秀吉は、朝鮮と琉球に軍を分ければ兵が足りなくなり、琉球での戦いが長引けば朝鮮での作戦の妨げになるとして、亀井慈矩(因幡の大名)の琉球侵攻を中止させた。
琉球が秀吉へ送った進上物はあまりにお粗末で、石田三成は「笑止」として問題視した。しかも、軍役7000人、食料10ヶ月分と借銀返済を無視していた。
そのとき、島津義久・久保親子は、「日本一の遅陣」という失態を犯していた。
秀吉による明侵攻情勢を最初に明に通報したのは琉球だった。
「朝鮮が明を裏切り、日本軍とともに攻め込んでくる」と知らせたのだ。明は朝鮮に疑惑を抱き、まず朝鮮に対して防御を固めた。これは、対日戦における明と朝鮮の連携に大きな影を落とした。疑心暗鬼のなか、明と朝鮮は、秀吉の軍勢を迎え撃つことになるのだ。
不意を突かれ、戦闘準備の整わない朝鮮軍は、日本軍の火縄銃と鋭利な日本刀、戦国時代を通じて戦いに明け暮れた高練度の武士たちの前になすすべもなく、敗退を重ねた。
1609年、島津軍は琉球に侵攻した。総数3000人の軍勢であった。これには困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍していた。
島津軍は、銃砲7、弓1と、圧倒的に鉄砲が多かった。
琉球王国にも数千人規模の軍事組織が存在していた。しかし、弓500張、銃200挺と弓が多い。琉球の主力兵器は弓であった。
沖縄島の周囲はサンゴ礁で囲まれていて、どこでも船が着けるわけではない。島津軍船は80隻もの大船団である。那覇港口には鎖を張って、防御が固められていた。
そこで、中部の大湾で上陸し、陸路、那覇を目ざした。海路から侵入しようとした島津軍は阻止されたが、陸路からの島津軍の主力部隊は首里に迫ってきた。
琉球軍は、接近戦で百戦錬磨の島津軍兵士にかなうはずもなかった。琉球王国にも軍事組織はあった。しかし、戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかったため、用兵面において劣り、島津軍の動きに対して臨機応変に対処できなかった。つまり、実戦に対応する力を欠いていた。
1610年、琉球王尚寧は駿府城大広間で、大御所徳川家康と対面した。家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁寧に待遇した。将軍への謁見を意味する「御対顔」というのは、天皇の勅使や徳川御三家待遇と同じであり、琉球国王がいかに丁重に扱われたか分かる。
なーるほど、そういうことだったのですか・・・。琉球王国の実情と初めて詳しく知ることが出来ました。ありがとうございます。
(2009年12月刊。2500円+税)
お隣の奥さまからウドをいただきました。お吸い物と鶏肉と一緒に、そして、ウドの皮を細切りにしてキンピラゴボウ風にと、3通りに調理していただきました。シャキっとした歯触りで、爽やかな味です。ただ、キンピラゴボウ風は少しえぐみも残りました。季節の味覚をじっくり楽しみました。
2010年5月 5日
月華の銀橋
著者 高任 和夫、 出版 講談社
荻原重秀と言えば、貨幣を改鋳して幕府の財政を好転させつつ私腹を肥やした悪の権化というイメージを抱いていました。この本は、その荻原を主人公にしているだけあって、決して極悪人などではなく、幕府の破たんした財政の立て直しのために日夜奮闘した実務官僚であると訴えています。荻原重秀の対極にあったのが新井白石です。
新井白石は、大坂商人として高名な河村瑞賢の知遇を得ていた。同じ豪商でも、紀伊國文左衛門や奈良屋茂左衛門のように、吉原で狂ったように散財することはなかった。
重秀は、将軍綱吉の時代に出世していった。綱吉は、面命(めんめい)と称して、面前に当事者を呼び出し、自ら新たな人事をすすめていった。重秀は32歳のとき、勘定吟味役として老中に直結し、将軍の意向を体現する者となった。
禄高は200石の加増を受けて、750石取りとなった。
重秀は佐渡金山に派遣され、佐渡奉行を22年間もつとめた。
慶長小判には金が8割4分、慶長銀には銀が8割ふくまれている。改鋳にあたっては、それぞれ6~7割ほどに減らす。それは幕府直轄の銀山の産出量の減少にある。
慶長小判2枚で、新たな小判を3枚つくれる。これによって幕府の得られる出目(でめ。改鋳差益金)は450万両にのぼる。
貨幣改鋳の裏話を聞いているような錯覚に陥りました。視点を変えて時代を捉えなおしてみたいと思いました。
(2009年11月刊。1800円+税)
2010年5月 2日
清水次郎長
著者 高橋 敏、 出版 岩波新書
幕末維新における博打の世界の実態を十分に堪能することのできる本です。
次郎長親分も悠々と生きていたわけでは決してなく、殺し殺されの世界で幸運にも生き延びたこと、維新のとき政治に深入りしなかったことが延命につながったことなど、面白い記述にあふれています。
清水次郎長は幕末から明治維新、近代国家の誕生まで変転止まない、血で血を洗う苛酷な大動乱の時代を生き抜き、74年の生涯を畳の上で大往生して閉じた、きわめて稀な博徒であった。若き日、博打と喧嘩の罪で人別から除かれ、無宿者となって以来、博徒の世界に入り、敵を殺しては売り出し、一家を形成、一大勢力を築いてしぶとく生き残った、いわば博徒・侠客の典型の一人である。
徳川幕府発祥の地である三河国には、小藩が乱立し、網の目のように入り組み錯綜したため、警察力が弱体化し、模範となるべきところ、皮肉にも博徒の金城湯池になってしまった。
博徒間の相関関係は、任侠の強い絆で結ばれているように見えるが、仁義の紐帯はもろく、常に対立抗争しては手打ちで休戦、棲み分けを繰り返す、実に油断も隙もない世界であった。
博徒の実力の根底は、喧嘩・出入りに勝つ武力プラス財力にある。
この点も今の暴力団にもあてはまるようですね。
次郎長が並みいる博徒のなかで抜きんでていったのは、結果論になるが、立ちはだかる宿敵を次々に葬るか、抑えるか、時には妥協しても自派の勢力を拡大したからである。
次郎長一家は、親分が一方的に子分を支配統制する集団ではない。個性的子分を巧みに次郎長が操縦している感がある。
幕末、次郎長に食録20石を与えて家臣とするとの誘いがかかった。博徒が武士になれるという夢のような話である。しかし、これを次郎長は迷わずきっぱり拒絶した。
このころ、次郎長は、かつての三河への逃げ隠れをパターンとする移動型から、清水港に根をおろし、東海地方ににらみを利かす定着型博徒に変容していた。
次郎長の宿敵であった黒駒勝蔵は、尊王攘夷運動に加担していたにもかかわらず、明治4年になって、7年前の博徒殺害を理由として斬首されてしまった。
次郎長は、明治維新を機に、無宿・無頼の博徒渡世から足を洗い、正業で暮らしを立てようとした。
とびきり面白い、明治維新の裏面史になっています。
(2010年1月刊。800円+税)
2010年4月 9日
江戸府内・絵本風俗往来
著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。
江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)
江戸府内・絵本風俗往来
著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。
江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)
2010年3月23日
夜明けの橋
著者 北 重人、 出版 新潮社
江戸の町人生活の哀歓を見事に描いた短編小説集です。
藤沢周平というより、山本一力の作風を思わせますが、またどこか違います。
日照雨は、そばえと読む。狐雨ともいうのでしょうか。降りそうもない空から、ふいに雨が降るという言葉が続いています。
縹組、縹渺。はなだぐみ、ひょうびょう。どちらも読めない漢字です。虚空の心を持つという意味のようです。したがって、縹色とは空色をさします。うへーっ……。
江戸で旗本奴(はたもとやっこ)が武士の男伊達(おとこだて)を競っていたころ、武士を捨てて町人へ降りかかった災難。我慢に我慢を重ねますが、それにも限界があり、ついに切れてしまうのです。
隅田川に端をいくつか架ける工事が進んでいます。競争なので、ねたんだ連中が嫌がらせを仕掛けてくるのです。それにもめげずに橋を作り上げます。今も名前の残るお江戸日本橋です。
江戸の街並みができあがってまもないころの武士や町人たちの日常生活が実感をもって伝わってきます。山田洋次監督の映画『武士の一分』を思い出しました。
著者は山形県酒田市の生まれだそうです。となりの鶴岡市は藤沢周平の故郷です。私も、弁護士になりたてのころ、鶴岡市には何回となく通いました。灯油裁判の弁護団の末席を汚していたのです。恥ずかしながら何の働きもしませんでしたが、大変勉強にはなりました。
ところが、山本周五郎賞の候補になったものの、61歳の若さで急逝してしまったのでした。胃がんだったようです。本人もどんなに残念だったことでしょう……。
がんの再発を聞かされ、ベッドのなかで深刻な症状を感じていたはずの状況で、これらのしっとりした短編を書いたというのは、すごいことです。本当に残念です。ご冥福を祈るばかりです。
(2009年12月刊。1500円+税)
2010年3月21日
まねき通り十二景
著者 山本 一力、 出版 中央公論新社
江戸時代の下町の人情話なら、この人ですね。いつもながら、しっとり、じっくり、味わい深い話のオンパレードです。読みながら、ああ、生きてて良かったなと思わせます。ほんわか、まったり、じわーんと来る話が繰り広げられます。
こんなストーリーを思い描くというのは、著者のどんな体験にもとづくのか、一度たずねてみたいという気もします。発想が日常的であり、かつ、奇抜だと思うのです。
オビに書かれている言葉が、この本の山本一力ワールドを端的に表現しています。
ウナギに豆腐に青物、履き物に雨具、一膳飯屋、駕籠宿―14軒の店が連なる、お江戸深川冬木町、笑いと涙を描く著者真骨頂の人情物語。
そして、裏表紙にもありました。
こつこつ働く大人たち。のびのび育つ子どもたち。家族にも、商いにも、大切なのは人のぬくもり。
この、何とも言えない、ほんわかとした、あったかい温もりの山本一力ワールドをまだ知らない人は、一度ぜひ騙されたと思って浸ってみることをお勧めします。きっと、私をうらむことはないと思いますよ。信じるものは救われますからね……。
(2009年12月刊。1500円+税)