弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2010年4月 9日

江戸府内・絵本風俗往来

著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
 明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。  
 江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
 それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
 この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)

江戸府内・絵本風俗往来

著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
 明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。  
 江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
 それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
 この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)

2010年3月23日

夜明けの橋

著者 北 重人、 出版 新潮社

 江戸の町人生活の哀歓を見事に描いた短編小説集です。
 藤沢周平というより、山本一力の作風を思わせますが、またどこか違います。
 日照雨は、そばえと読む。狐雨ともいうのでしょうか。降りそうもない空から、ふいに雨が降るという言葉が続いています。
 縹組、縹渺。はなだぐみ、ひょうびょう。どちらも読めない漢字です。虚空の心を持つという意味のようです。したがって、縹色とは空色をさします。うへーっ……。
 江戸で旗本奴(はたもとやっこ)が武士の男伊達(おとこだて)を競っていたころ、武士を捨てて町人へ降りかかった災難。我慢に我慢を重ねますが、それにも限界があり、ついに切れてしまうのです。
 隅田川に端をいくつか架ける工事が進んでいます。競争なので、ねたんだ連中が嫌がらせを仕掛けてくるのです。それにもめげずに橋を作り上げます。今も名前の残るお江戸日本橋です。
 江戸の街並みができあがってまもないころの武士や町人たちの日常生活が実感をもって伝わってきます。山田洋次監督の映画『武士の一分』を思い出しました。
 著者は山形県酒田市の生まれだそうです。となりの鶴岡市は藤沢周平の故郷です。私も、弁護士になりたてのころ、鶴岡市には何回となく通いました。灯油裁判の弁護団の末席を汚していたのです。恥ずかしながら何の働きもしませんでしたが、大変勉強にはなりました。
 ところが、山本周五郎賞の候補になったものの、61歳の若さで急逝してしまったのでした。胃がんだったようです。本人もどんなに残念だったことでしょう……。
 がんの再発を聞かされ、ベッドのなかで深刻な症状を感じていたはずの状況で、これらのしっとりした短編を書いたというのは、すごいことです。本当に残念です。ご冥福を祈るばかりです。

 
(2009年12月刊。1500円+税)

2010年3月21日

まねき通り十二景

著者 山本 一力、 出版 中央公論新社

 江戸時代の下町の人情話なら、この人ですね。いつもながら、しっとり、じっくり、味わい深い話のオンパレードです。読みながら、ああ、生きてて良かったなと思わせます。ほんわか、まったり、じわーんと来る話が繰り広げられます。
 こんなストーリーを思い描くというのは、著者のどんな体験にもとづくのか、一度たずねてみたいという気もします。発想が日常的であり、かつ、奇抜だと思うのです。
 オビに書かれている言葉が、この本の山本一力ワールドを端的に表現しています。
 ウナギに豆腐に青物、履き物に雨具、一膳飯屋、駕籠宿―14軒の店が連なる、お江戸深川冬木町、笑いと涙を描く著者真骨頂の人情物語。
 そして、裏表紙にもありました。
 こつこつ働く大人たち。のびのび育つ子どもたち。家族にも、商いにも、大切なのは人のぬくもり。
 この、何とも言えない、ほんわかとした、あったかい温もりの山本一力ワールドをまだ知らない人は、一度ぜひ騙されたと思って浸ってみることをお勧めします。きっと、私をうらむことはないと思いますよ。信じるものは救われますからね……。

(2009年12月刊。1500円+税)

2010年2月26日

江戸の本屋さん

著者 今田 洋三、 出版 平凡社ライブラリー

 江戸時代には、大量の本が出版されていて、本の買えない庶民には貸本屋があって、大繁盛していたのでした。
 そうなんです。日本人は、昔から本大好き人間が多かったのです。今の日本と同じです。
 江戸時代に出版業者は刊行物の目録を作るようになった。1670年の目録には3900点の書物が登録されており、1692年には7200点にも達している。元禄時代の日本に刊行されていた書物は、1万点にものぼる。流通していた冊数は1千万冊にも及ぶものとみられる。
 うへーっ、す、すごいですよね。私も読書家の一人ですが、蔵書は1万冊あるでしょうか。年間500冊以上の本を読み、購読して読んでいない人も相当ありますので……。
 江戸時代、書物の読者が増え、劇場の観客が激増したのは、都市の発達と関連していた。京都も大阪も30万都市であり、江戸には武士と町人あわせると100万人に達した。この時代に人口100万人を超える都市は、世界中探しても他に見つからない。
 文化・文政期は三都がかつてなく繁栄した。江戸では文化の享受層が、田沼時代の上層町人中心から、中下層の町人・職人層に拡大し、文化の大衆化が進行した。都市における読書人口は、かつてなく増大した。毎年40種近く発刊される合巻は、それぞれ5千部から8千部も売れた。近世前期に、上方中心であった出版界は、完全に江戸中心となった。
江戸時代には、どの地方にも貸本屋があった。大坂には300人の貸本屋がいて、江戸の貸本屋は800軒と言われていた。江戸だけで10万軒に及ぶ貸本読者がいた。こうなると、有料図書館とでもいうべき存在である。
 貸本屋は出版統制・言論統制のまことに厳しい江戸時代にあって、とくに政治批判や政治の実態を曝露する文献を、読者にひそかに貸し出す人々でもあった。
 江戸の講釈師・馬場文耕は、金森氏が藩政不行届のかどで改易されたのを講談にしたところ、浅草で獄門に処された(1758年)。
 日本人の読書好きには歴史があり、権力への反骨精神も太々としたものがあったことが、よくわかる面白い本です。
 
(2009年11月刊。1300円+税)

2010年1月29日

関ヶ原前夜

著者 光成 準治、 出版 NHKブックス

 関ヶ原合戦については、二項対立的にとらえられてきた。たとえば、北政所派に対する淀殿派。また、武功派に対する吏僚派など。しかし、北政所と淀殿は実際には連携していた。さらに、武功派と吏僚派という単純な対立図式は成り立たない。
 実際には、これらの対立軸は複雑に絡み合い、また、血縁・姻戚関係や地理的要因にも左右され、諸大名は自らの進退を決した。うーん、たしかにそうなんだと思います。
 前田利家が死去した直後、石田三成は加藤清正や福島正則たち七将に襲われ、伏見にあった家康邸に逃げ込んだ、という見解は誤りであって、三成は伏見城内にあった自邸(曲輪)に入った。この点は、たしかに実証されています。
 毛利輝元は、西軍の総大将格に祭り上げられたが、積極的に戦闘には参加しなかったという通説見解にも疑問がある。むしろ輝元は、あらかじめ奉行衆や安国寺と決起のタイミングについて打合せ、諸準備を整えたうえで、上坂要請という大義名分を得て迅速に行動した。
 毛利軍は、最前線に兵力を投入することには消極的だが、それ以外の東軍参加大名の所領を侵食することには積極的だった。関ヶ原合戦のとき、輝元は、岐阜城の落城や伊勢や大津での苦戦、家康の西上に不安を感じていただろうが、他方、石田三成との絆も完全に崩壊はしていない。また、西軍の総大将格としての矜持も失っていない。そこで、吉川広家ルートによって万一、西軍が敗戦したときの自己保身を図る一方、南宮山の布陣は削がず、西軍有利と見れば下山して東軍を叩きつぶす。弱気と強気の交錯した感情のなかで、輝元は、どちらにも対応できる策をとったものと思われる。
 さまざまな思惑謀略の渦巻く中、関ヶ原は戦場と化していった。
 なーるほど、日和見というか、毛利輝元のずる賢さというか…ですね。
 毛利輝元は、大坂の陣に際し、表面的には家康に従い、豊臣秀頼攻撃軍に兵を送る一方で、毛利元就の曾孫にあたる内藤元盛を佐野道可と改名させたうえで、兵を与えて大坂城に送りこんだ。秀頼軍は秀頼の直臣ほかは、関ヶ原合戦後に浪人となった者で構成されており、佐野道可のように主君の密命を帯びて秀頼に加担した例は他にない。
 このように、毛利輝元の人物像は、非常に野心に満ちたものといえる。
 関ヶ原合戦で、仮に西軍が勝ったとしても、秀吉が健在だったころの豊臣家を唯一の武家頂点とする国家体制が復活したとは考えられない。西の毛利、北の上杉に加え、宇喜多や島津、佐竹などが地域国家として分立し、形式上の最高指導者である秀頼の下、石田三成ら豊臣奉行人と地域国家指導者との合議によって、日本全体の国家を運営していくという複合国家体制が成立していたであろう。
 なーるほど、そうなんでしょうね……。
 私は関ヶ原の古戦場跡には2回行ったことがあります。徳川家康は決して自信満々で関ヶ原決戦にのぞんだのではないことを知って、現場で感慨を深くしました。知れば知るほど歴史は面白くなります。
 
(2009年7月刊。1160円+税)

2009年12月21日

手妻のはなし

著者 藤山 新太郎、 出版 新潮選書

 日本の伝統的奇術を奇術師自ら紹介している本です。大変面白く、ぜひとも実際に著者の演じる手妻を見てみたいものだと思いました。
 手妻、てづま、と読む。江戸から明治にかけて、日本ではマジックのことを手妻と呼んでいた。手妻とは、日本人が考え、独自に完成させたマジックのこと。
 幕末に日本にやってきた欧米人が手妻を見て、その技術の高さ、演技の美しさに驚嘆した。たとえば水芸。水道も電気もない時代に、舞台一面に水を吹き上げる。それも、ただ水を出すのではなく、まるで舞踊の所作のように軽やかな振りによって太夫が自在に水を操るのだ。
 蝶の曲。紙で作った蝶を扇の風で飛ばしながら、さまざまな情景を描く。
 蒸籠(せいろう)。小さな木箱から、絹帯を次々に取り出し。その絹帯の中から蛇の目傘を何本も取り出す。
 いやはや、文字で読むだけでは想像できませんね、ぜひぜひ、現物を見せてください。
 手妻とは、手を稲妻の如くすばやく動かすことによる。いや、手のつま。妻は刺身のつまのように、ちょっとしたもの、添えものという意味で、手慰みとか手の綾ごとという意味である。手妻はマジックではない。魔法という意味はない。
 朝鮮半島には伝統奇術がない。ええっ、本当でしょうか……?
 タネと仕掛けが少しばかり説明されているのも、この本の面白いところです。
 刀の刃渡り。刀は引くことによって切れるが、刃の上にまっすぐ足を乗せたときには切れにくい。要は、度胸がすべての術。そうはいっても、素人にはできない技ですよね。
 火渡り。初めに地面を少し掘っておいて、そこに水を張って水溜りをつくっておく。その上に薪をはしごのように組んで、水溜りを隠すように並べる。その上に、さらに薪を並べて火をつける。火が下火になってから、上から清めと称してたくさんの塩とカンスイを撒く。これは熱を下げるのに有効。そのうえで、梯子の隙間を縫って水溜りを歩く。火はほとんどないし、下は水だから足は熱くはない。ただし、下手すると、大やけどする。
 人間が生きた馬を飲み込んでいく呑馬術というものがあったそうです。その仕掛けが説明されています。
 舞台背景は暗幕。舞台前にはずらりと面明かり(ろうそく)を並べる。その明りが眼つぶしとなって、観客には明かりの奥の舞台が一層暗くしか見えない。舞台上には顔まで黒布で隠した黒衣(くろこ)がいる。観客には、まったく見えない。
 そして、手妻師(長次郎)は、手足顔すべてに鉛の粉末の入った高級白粉(おしろい)を塗った。光沢のあるものによって、暗い部屋で光を集める。そして、術者が馬を呑む演技をしながら、馬を徐々に黒布で隠していく。そのために、ベニヤ板のような大きな板を用意し、板には黒布を貼っておく。板の一部を三角形に切り取る。その三角形の凹んだところに馬の絵を近づけて、三角の裂け目に馬の顔をはさんでいく。観客から見ると、馬の顔は細くなったように見える。徐々にベニヤ板の裏側に隠していく。馬は三角形の切れ目の裏で黒布で覆っていき、それにあわせて、三角形の切れ目は首から胴と順に包んでいった。
 これは口で言うのは簡単だが、演者と表の手伝い、裏の黒衣の3人がよほどタイミングを合わせないと難しい。馬は一切協力しないし、機嫌が悪いと暴れ出すから、演じるのは難しかっただろう。
 なんとまあ、そんな仕掛けだったのですか……。それにしても、よくできた仕掛けですね。
 手妻師の舞台は、一日の売り上げが40両。今日の400万円だ。当時、小作百姓は1年に1両の貯金がやっとだった。ということは、すごい売上だったわけです。
 手妻は不思議なだけでは芸にならない。全体を通してしっかり形がとれていないと芸にはなりえないものである。そうですね。
 手妻を覚えたい人のために伝授屋(プロの指導家)がいて、伝授本(手妻の指導書)が売りに出され、手品屋(今日のマジックショップ)まで存在した。江戸時代の人はオリジナリティー豊かであった。ふむふむ、なるほどですね。
 江戸町内に、寄席が500軒もあった。江戸の町の2町にほぼ1軒の割合だった。
 二羽蝶が生み出され、ストーリーが生まれた。人生を語り込むストーリーだ。二羽蝶になることで、それまでは単なる曲芸でしかなかった蝶の芸が、蝶の一生を語る物語になった。
 いやはや、なんとも奥の深い芸なんですね。こんな素晴らしい本を書いていただいてありがとうございます。ぜひぜひ実際の芸を今度見せてください。よろしくお願いします。

(2009年2月刊。1600円+税)

2009年12月11日

寂しい写楽

著者 宇江佐 真理、 出版 小学館

 東洲斎写楽とは、いったい何者なのか。江戸時代、寛政の世に忽然と現れ、わずか10ヶ月で消えてしまった写楽をめぐって、さまざまな推理がなされています。この本は斉藤十郎兵衛を写楽だとしています。
 老中松平定信の行った寛政の改革は、芝居とも無縁ではなかった。市村座、森田座、中村座の座元と関係者が北町奉行所に呼ばれ、芝居興行における厳しい通達を受けた。要するに役者の衣装などを質素にしろということだった。それに反した役者は奉行所に連行され、派手な着衣を没収されたうえ、5貫文の罰金刑を受けた。
 また、芝居は午後四時(夕七つ)までとし、明かりを灯しての興業は禁じられた。
 東洲斎写楽の本業は能役者だった。名前は出版社である蔦屋の主人がつけた。
刷りは二百枚単位。版木には耐久性が求められる。人物の型紙を置き、にかわにスミと雲母を混ぜた絵具を刷毛で塗る。雲母(キラ)摺りは、絵具が渇くに従い、独特の光を放つ。
 9種類にもおよぶ工程は、摺師が長い間に創意工夫をこらしたものである。
 滝沢馬琴、山東享伝、歌川豊国など、よく知った人たちが登場してきます。
 斉藤十郎兵衛。斎藤をひっくり返せばとうさいとなり、その間に十郎兵衛の「十」を入れると、まぎれもなく東洲斎となる。
 乙粋(おついき)という言葉が登場します。初めて聞く言葉でした。写楽の役者絵は乙粋だったが、商売にならなかった。このように語られています。
 江戸の文化の香りが、そこはかとなく伝わってくる本です。
 
(2009年7月刊。1500円+税)

2009年12月 7日

百姓たちの江戸時代

著者 渡辺 尚志、 出版 ちくまプリマー新書

 江戸時代の人口は、17世紀に急増した。1600年に人口は1200万人から1500万人のあいだと推定される。それが18世紀はじめには3000万人を突破した。100年間で2倍に人口が急増した。その背景には、新田開発による耕地面積の急増と、農業生産力の増大があった。この本には書かれていませんが、戦争がなくなり、平和な時代となったことがその前提として大きかったのではないでしょうか。
 ところが、18世紀から19世紀にかけて、人口は停滞・安定してしまう。
 18世紀に人口増加がストップしたのは、少子化と晩婚化が進んだこと、耕地面積の増加が頭打ちになったこと、飢饉や疫病の影響もあった。
 江戸時代の後期、一家の子どもは2,3人程度だった。子だくさんではなく、人々は少なく生んで、手間ひまかけて子どもを育てるようになった。
 江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていた。百姓に苗字がなかったというのは誤解である。ただ、公的な場で名乗ることを許されていたのは、ごく一部の特権的な百姓に限られていた。
 江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代なのである。それ以前には、家が成立していなかった。なーるほど、そうだったのですか……。
 江戸時代の庶民の衣料事情は、2回の大きな変化を見せる。1回目は、江戸時代前期に起きた木綿の普及。2回目は、19世紀に入って、庶民がファッションに敏感になり、10年周期で流行が変遷していったこと。
江戸時代の百姓は、米を食べていた。年間1石(150キロ)以上の米を食べていたと思われる。絶対量でみると、今日の日本人(60キロの米を食べる)を上回る米を食べていた。日常的には、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や、かゆ、雑炊を食べ、婚礼などの晴れの日には米だけの飯を食べた。
 江戸時代、介護は女性の役割という観念はなく、介護は家の責任で行うものとされていた。家長が家族の中心になって介護にあたるべきだと考えられていて、家長の統率のもと、家族が協力することが求められた。
 江戸時代の歌舞伎は、村人自身が演じたところに特徴があった。村人が自ら役者となり、歌舞伎を村の鎮守に奉納し、村全体でそれを楽しんだ。
 19世紀の村には、常に誰かしら寺子屋の師匠がいた。
 農家が米をつくるとき、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を組み合わせ、収穫時期をずらし、風水害のリスクを回避し、多収穫をバランスよく実現しようとした。
 一家の財布を握り、一家を牛耳るのは、妻だ。妻は家庭内で尊重された地位を占めている。彼女の生活は上流階級の婦人より充実しており、幸せだ。なぜなら彼女らは、生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、その言い分は通るし、敬意も払われるからだ。夫婦のうちで、性格の強いものの方が性別とは関係なく家を支配する。
 江戸時代にも、たくましく生きる女性たちが確かに存在していた。
 江戸時代の村の生活の様子が、イメージをもって伝わってくる貴重な新書です。日本は古来、女性は強いのですよ。今の日本を見たら、よく分かることです。

 アメリカはアフガンに増派するということですが、失敗するに決まっていますよね。かつてのベトナム戦争、そしてソ連のアフガン敗退の二の舞を演じるだけでしょう。
 勝てる見込みがまったくないのに、それでもあえて増派するのは、タリバン政権の復活を恐れているからとのことです。アフガニスタンにタリバン政権ができたら、パキスタン政権も危うい。そして、そうなったら、核の管理が心配になり、核兵器をテロリスト集団が持つ心配がある。こんな心配をしないように、アメリカはともかくアフガニスタンに増派するようです。これは、渡辺治教授の話の要旨でした。
 
(2009年6月刊。760円+税)

2009年11月28日

建具職人の干太郎

著者:岩崎京子、出版社:くもん出版
 江戸時代、子どもたちは幼いころから家を出されて見習い丁稚(でっち)として奉公させられていました。
 主人公の干太郎は、わずか7歳で建具屋に奉公に出されたのです。友だちと遊んでいたいさかりなのに、学校(寺子屋)に行くこともなく、親の勝手から泣く泣く建具職人への道を歩みはじめるのです。
 干太郎は先に奉公にきている姉に叱咤激励され、家に帰ることもかなわないまま、建具屋での奉公を続けざるをえません。帰るべき実家に親はいても、そこでは満足にメシを食べさせてもらいないのですから、仕方ないのです。
 丁稚小僧(でっちこぞう)というのは今ではまったく聞きませんが、私の幼いころ(小学生のころ)、親が脱サラして小売酒店を始めたとき、住み込みの姉さんがいました(長続きはしませんでしたが・・・)。また、定時制高校に通う人が住み込みではありませんでしたが、丁稚のようにして店で働いていました。配達・集金など、よく働いていて、私たち子どもの面倒も見てくれていました。昔は住み込みで働くということが、どこでもあたりまえのようにありました。そこで難しい人間関係を乗り切りつつ、腕(技術)を身につけていくわけです。なかなか大変なことだと思いますが、丁稚小僧というのはすごく身近な存在でした。今ではあまり見かけないように思いますが、どうなのでしょうか。たとえば、海苔作業のため、そのシーズンになると長崎の五島列島から大勢の男女が出稼ぎに来て、泊まり込んでいたと聞きます。一台何千万もする全自動の海苔機械が出来てからはみかけなくなった光景です。
 この本は児童文学書として、その7歳で丁稚小僧になった干太郎の身になって物語が展開していきますので、職人の大変さもよく分かります。
 こんな職業教育も必要なのでしょうね、きっと・・・。
 そして、あとがきに、小説ではあるけれど、19世紀はじめころに実在した建具職人の記録をもとにしたと書かれています。作家の想像力と取材とは大したものです。
(2009年6月刊。1300円+税)

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