弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2009年6月21日
ひょうたん
著者 宇江佐 真理、 出版 光文社時代小説文庫
うまいですね。この人の本って、いつ読んでも感心させられます。しっとりした江戸の人情話に、敵味方で争うなかでガチガチになった身と心が、知らず識らずのうちに溶け出していく思いです。そして、下町で夕食を準備する匂いが漂ってきます。
いえ、本当に、書き出しから店の前に七厘(しちりん)を出して大根を煮る風景が登場してくるのです。米の研ぎ汁で下茹でした大根を、昆布だしでさらに煮る。箸を刺して煮崩れるほど柔らかくなったら、さっと醤油と味醂で味をととのえる。それを昨夜からつくっておいた柚子味噌につけて食べる。うむむ、美味しそうですね。思わず舌舐めずりしてしまいます。
五間掘沿いの道を行く人々も、いい匂いを漂わせている鍋に恨めしそうな視線を投げて通り過ぎて行く。うまそうな匂いには勝てませんからね……。
主人公は、しがない古道具屋を営む夫婦。この夫婦をめぐる市井の人々の愛憎つながる話題が転々と展開していくのです。そこには切ったはったの血なまぐさい話はありません。今の日本でもありそうな、身につまされる人情話が繰り返し登場してきて、物語にひきずりこまれてしまうのです。
そして、その気分に浸ると、それがまた浮世風呂にでもつかったようないい按配なのです。そうやって江戸情緒をしっかり味わっているうちに、やっぱり、いい本に出会えるって仕合せだなと思ってくるわけです。
あとがきの解説に、次のような文章があります。
けちな道具屋をしていても、心は錦だ。こんな江戸っ子の矜持(きょうじ)と心意気が表れている。
そうなんです。気風のよさも感じられますので、読後感はあくまで高山の稜線にある草原を吹き渡る涼風のような爽やかさです。
(2009年3月刊。552円+税)
2009年6月 7日
江戸の絵師、暮らしと稼ぎ
著者 安村 敏信、 出版 小学館
この本の初めに、カラー図版の絵があり、江戸時代の豊かな文化を堪能することができます。ここでは、上方と江戸の元禄期を代表する2人の絵師、尾形光琳と英(はなぶさ)一蝶(いっちょう)が紹介されます。
尾形光琳は、その生涯のうちに正妻をふくめて6人の女性に7人の子どもをもうけた。2番目の子を生んだという女性から、光琳は認知を求める訴えを起こされた。それで、家屋敷1ヶ所と銀10枚のほか、前年の「飯料」として銀500匁、諸道具・畳などを差し出して示談にし、そのかわり子が成人しても光琳の息子と主張しないことを認めさせた。
うむむ、江戸時代にも認知請求の訴が起こされていたのですね。
英一蝶は47歳から12年間、三宅島に流罪となった。しかし、江戸での人気は高く、江戸商人が島へ画材を送り込んで、さまざまな風俗画を描かせて、江戸で売りさばいた。
江戸では流人となった一蝶の絵を求める人々がいた。絵具や紙・絹は江戸から送り込まれた。利にさとい江戸商人は、三宅島に一蝶画を買い付ける手を伸ばしていた。
一蝶は江戸に戻ると、最上層の町人である樽屋新右衛門の字での振舞いに招かれ、また、お大尽の奈良屋茂左衛門の吉原遊興につきあい、幇間として完全復帰している。さらに、伊紀国屋文左衛門にも取り入っていた。
すごいですね。江戸の町人文化のたくましさを改めて実感させられます。
円山応挙(まるやまおうきょ)も日銭を稼ぐため、見世物小屋の眼鏡絵(めがねえ)を描いた。ふむふむ、武士も町人もそれなりにのびのび活動していたのです。
江戸時代、女性も多くが絵筆をとっている。そうなんですか……。
葛飾北斎は、生涯に93回の引っ越しをした。身なりも気にせず、粗末な家に住んだ。江戸時代の私生活を知る上で、視覚的にも参考になります。江戸時代の人々が必ずしも生活に窮々としていたわけではないというイメージを具体的に持つことのできる本です。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年6月 4日
島津久光・幕末政治の焦点
著者 町田 明広、 出版 講談社選書メチエ
島津久光こそ、幕末の中央政局に絶大な影響をあたえ、回天の梃子を演じていた。
この本は、このスタンスで島津久光にスポットライトを与え、その実像を浮き彫りにしています。
江戸幕府創世記を除き、三代将軍家光以降の将軍家は、御台所を基本的には皇族ないし摂関家から迎えており、大名からの入輿は2例しかなく、そのどちらも外様大名である薩摩藩・島津家からである。この事実は、薩摩藩の勢威・家格を著しく高めた。島津斉彬の権勢の源泉は、将軍家との縁威にあった。
文久期以降、薩摩藩が幕府以上に調停工作を得意としていたのは、近衛家との濃密な関係を前提として、絶対的な利益代表を有していたからである。
島津久光は、藩主の座に就いたことはなく、藩主茂久の実父でしかなかった。つまり、久光の政治的基盤は、実は非常に脆弱だった。当時の薩摩藩は、島津家一門が家老職を頂点とする要路を占めており、必ずしも宗家の意向通りに反省は動いていなかった。斉彬といえども、彼らの意向を完全に無視して藩政をすすめることはできなかった。
久光は国父となって人事権を掌握すると、藩内基盤強化に向けて島津豊後派、日置派要路の更迭を繰り返した。その一方、久光四天王を登用し、側近体制の確立につとめた。なかでも、小松帯刀(たてわき)は驚異的な出世を続け、家老となり、御側詰となって、薩摩藩の軍事・外交・財政・産業・教育等の指揮命令権が小松に集中した。
小松28歳、青年宰相が誕生した。小松は幕末期、大久保・西郷以上の存在であり、両雄は小松の指揮下にあった。中央政局においては久光の名代として活躍した。
文久2年(1862年)、久光は1000人の兵、野戦砲4門、小銃100挺とともに京都に上った。無位無官で、藩主でもなく、対外的には無名に近い久光自身の権威発揚の意図もあった。藩主の参勤交代並みの威儀を正して、しかも江戸ではなく京都を目指したことに特異さがあった。
久光の京都滞在を許すにあたって、朝廷は浪士鎮撫を条件とした。寺田屋事件(1862年4月23日)は、久光を擁して統幕挙兵を西国志士らと画策する有馬新七らの薩摩藩尊王志士を、久光によって派遣された鎮撫使が寺田屋において鎮圧した事件であり、これによって朝廷における久光の声望は大いに高まった。
寺田屋事件は、単なる薩摩藩内の抗争事件でも、久光による示威行動でもない、非常に重要な要素をさまざまに含んだ幕末政治史そのものである。
西郷隆盛は、久光が上京する直前に久光に会っている。復職が認められたうえでのことではあるが、このとき久光に対して、「地五郎」(田舎者)であると言い放った。殿様育ちの久光が、この無礼で歯に衣着せぬ西郷の言動に堪えたのは、西郷の誠忠組における声望の高さ、誠忠組のリーダーでもある側近・大久保の推薦を無視することは、誠忠組の勢威を利用しようとする久光にとって得策ではないこと、それ以上に率兵上京そのものに悪影響を与えかねないとの判断によろう。
長州藩にとっては、この寺田屋事件こそが藩是を破約攘夷に転換し、中央政局進出への発火点となったし、薩長両藩が反目する直接的起因ともなった。
寺田屋事件を契機に、天皇の絶大な久光への信頼が確立し、中央政局におけるその存在感は一躍すべての勢力から無視できないレベルに達した。これ以降、久光の意向や動向を気にしなくては、どの勢力も政治的には身動きが取れなくなった。久光時代の到来である。
しかしながら、久光は京都に長く滞在することはできず、江戸に行った。そして、同年8月、生麦事件が発生した。江戸から京都へ戻ろうとした久光一行の行列に対して、リチャードソンら英国人4人が、非礼であることを承知のうえ、乗馬のまま久光の駕籠近くまで乗り入れたことに起因する。当然のことながら、主君を守ろうとして、久光の家臣たちが英国人を斬りつけた。久光が命じるまでもなかった。しかし、このことによって、意に反して久光は攘夷の権化のように世間から祭り上げられることになった。
そして、イギリス軍が薩摩を攻撃するとの情報を得て、久光は江戸にも京都にもおれず、薩摩に戻らざるをえなかった。文久3年(1863年)7月に、薩英戦争が勃発した。
以下、省略しますが、久光に焦点をあてた幕末史として、目新しい視点があり、大変興味深く最後まで読みとおしました。
(2009年1月刊。1600円+税)
2009年5月23日
日本の城郭
著者 西野 博道、 出版 柏書房
著者自身が日本全国を駆け巡って、有名な城の写真を撮ってまわったというのですから、すごいものです。写真を見てるだけでも楽しいのですが、もちろん、それぞれの城について詳しい解説が付いていますので、言うことはありません。これで2400円とは安いものです。私もこの本に登場してくる城のいくつかは実地に見ていますが、まだまだ見るべき城は尽きないことがよく分かります。
紹介された45の城のうち、私の行ったことのある城を並べてみます。
関東より北は、残念ながら一つもありません。浜松城、金沢城、名古屋城、岐阜城には行きました。岐阜城は急峻な山にそびえる山城です。ここに斎藤道三がいて、竹中半兵衛が城を占領したとか、木下藤吉郎(秀吉)そして織田信長が占領したのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ下に、長良川が流れていますが、斎藤道三は息子の軍勢と戦って戦死したのでした。
彦根城にも行きました。姫路城はもちろん行っています。さすがに白鷺城といわれるだけのことはある優美な城です。岡山城は平地の城です。関が原合戦で西軍を裏切った小早川秀秋が城主となった城です。寝返り者という世間の非難を浴びて家中は乱れ、重臣は離反し、岡山城に入って2年後に21歳の若さで病気で亡くなり、小早川家は断絶したとのこと。哀れです。
広島城・鳥取城と続きます。鳥取城は下から眺めただけですが、秀吉が完全に包囲して用意周到な兵糧攻めをしたことで有名です。戦国の闘いも知恵比べだったのですね。
松江城、松山城、高知城はよく保存(再現)されています。高知城の下に広がる日曜市で、ふらりと入った店のカツオのタタキ定食の美味しさは今でも忘れられません。また行きたいところです。
小倉城にも佐賀城にも、もちろん行きました。佐賀城の大広間は一見の価値があります。そして、熊本城です。再現された大広間を見ましたが、思わず息をのむほどの壮麗さです。島原城・鹿児島城にも行ってきました。武家屋敷がそのまま残っていたりすると、昔の風情が感じられ、江戸時代を背景とする藤沢周平などの小説がとても身近に感じられます。
(2009年2月刊。2400円+税)
2009年5月 5日
白雲の彼方へ
著者 山上 藤吾、 出版 光文社
幕末の掛川城(今の静岡県)における尊王派と攘夷派との抗争を背景とした時代小説です。アメリカのペリーが来て、ロシアのプチャーチンがやって来たころ、1854年(嘉永7年)のことです。
ロシアの地に渡った日本人、橘耕斎は、和露辞書を発刊した(1857年、安政4年)。ロシアに着く前から、伊豆の戸田でロシア語を自由に話していたようです。大したものです。
耕斎は、明治7年(1874年)に日本に帰国し、明治18年(1885年)に亡くなりました。
私は、今から40年も前の大学1年生のとき、伊豆の戸田(とだ、ではなく、へだ、と呼びます)に行きました。なぜか、大学の寮がそこにあったのです。海岸に無数の夜光虫がいました。夜、海岸を裸足で歩くと、足跡が青白く光るのです。不気味というより、幻想的な光景でした。
その戸田で、難破したロシアの水兵たちが本国へ帰るため足止めをくい、日本の船大工が見よう見まねで外国船をつくりあげていったのです。橘耕斎は、そこに派遣されて、ロシア語を習得しました。
読み物に仕立て上げた著者の筆力に感心・感嘆しました。これが新人の作品とは恐れ入りました、という作家の評が載っていますが、私もまったく同感です。まさに、後世、恐るべしです。こんな本に出会うと、小説を読む楽しみがあります。でも、私は、こんな本を書きたいのです。読む人の魂を揺さぶってやまないような本をぜひ書いてみたいと思っています。
(2009年2月刊。1500円+税)
2009年5月 2日
幕末史
著者 半藤 一利、 出版 新潮社
まるで漫談を聴いているような面白さです。博識の著者が、市民向け講座で12回に渡ってしゃべったものが文章となっていますので、とても語り口は平易ですし、エピソードが豊富に語られていて、ついつい身を乗り出して聞きほれてしまいます。なるほど、なるほど、そうだったのか、ちっとも知らなかった。何度も膝を叩きながら、うなずかされたことでした。
たとえば、幕末の志士たちが「皇国」という言葉を使ったとき、そこには現代日本の私たちが常識的に考えるような、天皇というものを意識したものではなく、単に、徳川幕府ではなく朝廷が支配する日本、というくらいの意味でしかなかった。
幕末の日本人が天皇中心の皇国日本という考え方で国づくりを始めたとか、その先頭に立った明治天皇は偉大なる天皇であり、明治維新は天皇の尊い意志を推戴(すいたい)して成し遂げた大事業であるという意識は、当時、まったくなかった。
坂本龍馬を暗殺したのは、見廻組の人間だったが、その黒幕は薩摩藩だったという見解が語られています。このとき、薩摩藩は武力によって権力を得ようとしていたので、武力討幕に反対していた龍馬が邪魔になっていた。それで、暗殺の当日に京都入りした大久保利通が、龍馬の居所を教えたというのです。本当でしょうか……。
ペリーが浦賀にきたころ、日本人はオランダの通報によってアメリカが江戸を目ざしてやってくることは知っていた。そして、そのころ、中国がアヘン戦争で大敗して香港などをイギリスから取られていたことを知っていた。そうなんです。日本人は、決して、鎖国していたので世界の動静はまったく知らない、なんていうのではなかったのです。
そして、ペリーのほうも日本についての本をよく読んで、研究してやってきていました。居丈高に出て日本人の鼻をへし折ってやればいいと考えて、そのとおり実行して成果を上げることができたのでした。
文久2年(1862年)、島津久光は薩摩藩士1000人の軍勢とともに大砲を引っ張りながら勅使護衛の名目で江戸に入った。このとき、朝廷側の要求を結局、全部、幕府にのませて帰る途上で、有名な生麦事件が起きたのです。イギリスは英貨10万ポンドの賠償金を要求しました。
これに対して老中格の小笠原長行(ながみち)が無断で、その10万ポンドをイギリスに支払った。今なら160億円にのぼる巨額の賠償金である。うひゃあ、す、すごーい。
賠償金といえば、長州が四国連合艦隊と戦って負けたときの賠償金は300万ドルだった。50万ドルを6回に分けて払うことになり、徳川幕府が潰れたあと、明治政府が明治7年までかけて残り半分の150万ドルを支払った。そ、そうなんですか。屈辱的な賠償額ですよね。
徳川幕府最後の将軍だった慶喜は32歳だった。朝令暮改、腰の定まらないことおびただしい人物だった。勝海舟は西郷隆盛との江戸城明け渡しの交渉がうまくいかなかったときには、慶喜をイギリスの舟に乗せて亡命させることを考えていた。
知れば知るほど面白いのが日本史です。
(2009年3月刊。1800円+税)
2009年3月22日
秋月記
著者 葉室 麟、 出版 角川書店
うむむ、これは面白い。よく出来ている時代小説です。思わず、ぐいぐいと話にひきこまれてしまいました。このような傑作に出会うと、周囲の騒音が全部シャットアウトされ、作中の人物になりきり、雰囲気に浸り切ることができます。まさに至福のひとときです。
ときは江戸時代も終わりころ(1845年)、ところは筑前秋月藩です。秋月藩は、福岡藩の支藩でありながら、幕府から朱印状を交付された独立の藩でもあった。秋月藩の藩主黒田長元(ながもと)のとき、御用人、郡(こおり)奉行、町奉行などを務めた間(はざま)余楽斎が失脚し、島流しの刑にあった。この本は、その余楽斎がまだ吉田小四郎という子ども時代のころから始まります。
小四郎たちは、秋月藩家老の宮崎織部が諸悪の根源であるとして一味徒党を組んで追い落としにかかります。秋月藩は大坂商人から5千貫にも及ぶ借銀をかかえているのに、家老の織部たちは芸者をあげて遊興にふけっている。許せない、というわけです。秋月藩で新しく石橋をつくるのにも、洪水対策でもあるのに、藩財政窮乏の折から無用だという声もあるなかで、強行されるのでした。
小四郎たちは、家老織部の非を本藩である福岡藩に訴え出て、ついに家老織部は失脚し、島流しになるのです。そして、秋月藩の要職を小四郎たちが占めていくわけですが、そう簡単に藩財政が好転するはずもなく、また、不幸なことに自然災害にも見舞われます。
やがて、小四郎たちは、家老織部が実は福岡藩の陰謀の犠牲になったのではないか、自分たちも手のひらの上で踊らされているだけではないのか、と思うようになりました。
手に汗にぎる剣劇もあり、ドンデン返しの政争ありで、登場人物たちの悩みも実によく描けているため一気に読みすすめました。
ちなみに秋月藩の生んだ葛湯は、私が今も大変愛用しているもので、全国にいる友人に贈答品として送ると大変喜ばれています。それはともかくとして一読をおすすめします。
(2009年1月刊。1700円+税)
2009年3月13日
それでも江戸は鎖国だったのか
著者:片桐 一男、 発行:吉川弘文館
オランダ連合東インド会社の日本支店であるオランダ商館における責任者、商館長=カピタンは、貿易業務を終えた後の閑期を利用して、江戸に「御礼」の旅をした。これをカピタンの江戸参府(さんぷ)と呼ぶ。カピタンの江戸参府は、オランダ商館が平戸にあったときから、不定期に行われていたが、寛永10年(1633年)から毎年春1回に定例化された。寛政2年(1790年)以降は、貿易半減に伴い、4年に1回となり、嘉永3年(1850年)までに166回の多きを数えている。
これは、朝鮮通話使の12回、琉球使節の江戸登り18回に比べて断然多く、注目に値する。そして、カピタンは随員とともに江戸で宿泊し滞在した。そのときの定宿が本石(ほんごく)町3丁目の長崎屋である。本石町はお江戸日本橋に近い。いま、その場所は、JR新日本橋駅のあたりである。
長崎出島からカピタン江戸参府の一行は、「鳥小屋」まで持ち運び、鶏を飼いながら旅を続けてきた。カピタンが江戸参府で献上・進物用に持参した毛類反物のうち、老中、側用人、若年寄、寺社奉行に贈られた「進物」が、それぞれのお屋敷において「御払物」になって売られた。長崎屋の手を経て、それを引き請けたのが越後屋であった。
長崎屋はオランダ文化のサロンになっていた。平賀源内も客の一人である。医師の前野良沢、同じく杉田玄白も長崎屋を訪問している。大概玄沢そして青木昆陽も。うひゃあ、す、すごーい。なんと有名人ばかりではありませんか。すごい、すごい。
若い医師シーボルトは、一か月以上も長崎屋に滞在して江戸の学者たちと親交を深め、情報の収集・資料の交換・買取、対談、教授、診療と、多忙な毎日を過ごした。
前の中津藩主だった奥平昌高(中津候)は、オランダ語を身につけ、なんとオランダ語の詩まで書いた。うへーっ、これって驚きですよね。フレデリック・ヘンドリックというオランダ名前も持っていました。いやあ、すごいですね、これって。そしてこの中津候は、シーボルトが携帯して運び込んだ小型ピアノを大変気に入ったというのです。江戸時代に日本人がピアノの音を聴いていたとは、まったく想像もしませんでした。
長崎屋の2階にシーボルトが滞在していたとき、そこは多目的ホールと化していた。民族学・民族学・動物学・植物学・機械工学・芸術学・飲食物の学など、教室であり、研究室であり、レクリエーション室であった。
すごいですね、すごいですよ。ちっとも知りませんでした。花のお江戸に、こんな長崎屋があったなんて……。
(2008年11月刊。1700円+税)
2009年1月30日
江戸子ども百景
著者:小林 忠・中城 正堯、 発行:河出書房新社
いやあ、実にカワユーイ。江戸時代に子どもを描いた浮世絵があったなんて、ちっとも知りませんでした。それがまた実に愛らしいのです。江戸時代の子どもたちが実に伸びのびと生きていたことを実感させてくれる絵のオンパレードです。そしてまた、子どもたちの遊びが少なくとも私たちの子どものころとあまり変わらないのにも驚きです。どうなんでしょうか、今の子どもたちも、こんな遊びをしているのでしょうか。少子化、ケータイ、ネットの時代には、もうなくなった遊びも多いのではないかと、ちょっぴり心配もしました。
幕末から明治はじめに日本にやってきた外国人は一様に、日本は「子どもたちの楽園」のようだと賛嘆を惜しまなかった。モース(日本考古学の父)は、「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」と、目を細めた。
グリフィス(化学の教師として福井や東京で教えた)は、「日本ほど、子どもの喜ぶ物を売るオモチャ屋や縁日の多い国はない」と、驚きを隠さなかった。
親は、西洋の親のように体罰を加えてまでしつけを強制することはなかったが、それでいて子どもたちは、みな聞き分けが良く、利発で、礼儀正しかった。
浮世絵の一ジャンルである「子ども絵」は、江戸の社会にあっては、かなり需要の高い商品であった。
江戸の子どもたちの遊びは、第一に季節感に富んでいた。正月は追い羽根、2月は凧あげ、3月はおままごと。4月は花見や金魚遊び・・・。第二に、子どもの遊びとオモチャの種類の豊富さに驚かされる。第三に、大人たちの周囲でのイタズラだったり、大人たちの姿の巧みな真似であったりした。
江戸時代は、子どもをかけがえのない後継者として大切に育てようとする社会であり、子どもは「子宝」とされた。
銀も 黄金も花も なにせんに まされる宝 子にしかめやも(万葉集。山上憶良)
浮世絵に描かれている子どもたちって、どれもこれも丸々と太って、いかにも大切に育てられているという、幸せ一杯の笑顔を見せています。
カラー図版がたくさんありますので、本当に実感できます。「子をとろ子とろ」「芋虫ころころ」「鬼ごっこ」「めんない千鳥」などのゲーム的な遊技は、仲間との競争や助け合いなど、仲間遊びであった。
「子をとろ子とろ」は、子をとる鬼から親が子を守る遊びとされるが、本来は、地蔵菩薩が子を守る姿で、地蔵信仰に由来する。私も幼いころ、「こーとろ、こーとろ」というかけ声で遊んだような気がします。
輪回しという絵が描かれていますが、私も、自転車のタイヤを外した輪に棒をあて立てて転がす遊びをしていた覚えがあります。江戸時代の子どもたちは竹製の輪をどうやってまわしていたのでしょうか・・・。
江戸時代には職人がつくるおもちゃが豊富で、子どもにとって歴史はじまって以来の「玩具天国」となった。黒田日出男は「子どものおもちゃや遊びどうぐをつくる職人の登場は近世社会の文化現象」とみなしている。
わずか90項ほどの大判の浮世絵による子どもの百景なのですが、眺めているうちに何やら童心に返って、ほんわか心があったまりました。
(2008年5月刊。2800円+税)
2009年1月 3日
絵が語る知らなかった江戸のくらし
著者:本田 豊、 発行:遊子館
前に「庶民の巻」というのがあるそうで、この本は「武士の巻」です。豊富な絵によって、ビジュアルなものになっていますので、活字で想像していたものとの異同を味わうことができます。
隠れキリシタンは全国各地にいた。そして、「踏み絵」は全国どこででも行われていたのではない。実際には、キリスト教徒の多かった九州の天草や、その周辺に限られていた。ええーっ、本当でしょうか?
隠れキリシタンの多くは非人に紛れ込んだ。鎌倉・由比ヶ浜の長吏頭(ちょうりがしら)のように江戸時代を通して隠れキリシタンだった者もいる。甲州(山梨県)をはじめ、各地の銅や銀山の鉱山労働者の中には、かなりたくさんの隠れキリシタンがいた。うへーっ、そうなんですか、ちっとも知りませんでした。
江戸時代の武家屋敷は、大から小まで、表札は掲げていいなかった。武士は常在戦場を建前としていたからだ。これは前にも聞いたことがあります。時代劇で表札が出ているシーンを見た覚えがありますが、間違いなんですね。
江戸をはじめ、城下町には必ず武士専門の口入屋(くちいれや)があり、かなり繁盛していた。口入屋には、武士専門の業者と商工業者向けの派遣業者の2種類があった。田舎から出てきた単身赴任の武士は浅黄裏(あさぎうら)と呼ばれて、からかわれた。着物の裏におもに浅黄木綿をつかっていたから。実用的で丈夫ではあったが、野暮天だった。
この本は、「武士や名主・庄屋といった人たちの間では、離婚はありえなかった」としていますが、これは間違いだと思います。江戸時代の離婚は、上は大名・旗本から、下は町人・庶民にいたるまで、ありふれたことでした。日本は昔から離婚王国の国だったのです。それほど日本の女性の力は偉大でした。この点は、戦国時代の宣教師ルイス・フロイスの観察記にもありますので、間違いないところだと思います。
江戸時代の出版物には、かなりの影響力があった。たとえ300部しか出版されなかったとしても、繰り返し読まれ、総計では何万人もの人たちがよんでくれる。したがって、出版物に対する幕府による統制は、厳しいものがあった。
江戸時代の日本人も、けっこう伸び伸びと趣味を楽しんでいたりしていたようです。今の日本と共通するところが多いのは、やはり400年くらいで人間が変わるわけはないということなのでしょうね。
(2008年10月刊。1400円+税)