弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2007年7月20日
江戸の躾と子育て
著者:中江克己、出版社:祥伝社新書
江戸の親たちは、子育てに熱心だった。その証拠に、じつに多くの育児書や教育書が出版され、さまざまなことが述べられている。
赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人(めのと)やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない。
これには私もまったく同感です。子どもたちが赤ん坊のころ、私もせっせと話しかけたものです。おかげで、表情が豊かになったと私は考えています。
江戸時代の子どもたちは、たいそう本好きで、子ども向けの本も数多く出版された。部数はよく分からないが、当時の日本は出版王国といってよいほどで、江戸時代に6万点から7万点の本が出版された。
文化年間(1804〜1817)のころ、京都に200軒、江戸に150軒の出版元がいた。その多くは、出版と卸・小売を兼業していた。当時は1000部も売れるとベストセラーだった。それだけ読書人口が多かった。庶民の識字率が高く、知的好奇心も強かったことによる。
子ども向けの本は赤本と呼ばれた。表紙が赤色だったからで、中身は挿絵と短い文章を添えた絵本だった。値段は安く、宝暦年間(1715〜63)で5文(125円)、享和年間(1801〜03)には10文(250円)した。当時、屋台のかけそばは一杯16文 (400円)だから、はるかに安い。
識字率は、江戸市中では男女ともに70〜80%、武士階級は100%。幕末期の江戸には1500の寺子屋があった。享保6年(1721)には、800人の師匠がいた。生徒が200人いたら、師匠は俸禄20石の下級武士並みに生活できた。教科書は「往来物」と呼ばれ、7000種類もあった。うち1000種は女子用である。
農民の子どもたちは、「農業往来」「百姓往来」「田舎往来」によって農業を学んだ。
漁村用には「浜辺小児教種」船匠用には「船由来記」があった。
すごいですよね。江戸時代の人々って、現代日本人とあまり変わらないっていう気がしますよね。ところで、いわゆる大検(大学入学のための検定試験)がなくなったそうですね。私の知人の塾教師から教えてもらいました。これまでは大検受験のために勉強している高校を中退した若者などを相手に教えていたのが、大検がなくなったので、その分野の生徒が来なくなって困っているということでした。高校卒業の認定で足りるようになったけれど、予備校が高校認定を受け、レポート提出で足りるという運用をしている、とのことでした。本当にそんなんでいいのかな、と不安に思ってしまいました。
いま、我が家の庭に咲いているのは、黄色いカンナ、モヤモヤとしたピンクの合歓(ねむ)の木、ヒマワリ、淡いピンク色と白のエンゼルストランペット、そして、淡紅色のサルスベリです。台風で少し倒れたせいもあって、キウイの雌の木を大きくカットしました。その足元にひ弱なキウイの雄の木があります。雄の木はこれで5代目です。今度こそ大きくなってほしいのですが・・・。
薩摩スチューデント、西へ
著者:林 望、出版社:光文社
あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。
2007年6月29日
天保暴れ奉行
著者:中村彰彦、出版社:実業之日本社
天保の改革は老中であった水野忠邦が試みたものですが、途中で挫折しています。そのころ、水野忠邦に歯向かった江戸南町奉行がいたというのです。矢部定謙(さだのり)と言います。遠山金四郎と同じ頃の江戸町奉行です。
長編時代小説ということですので、どこまでが史実なのか分かりませんが、小説としてもなかなか面白く、本のオビに「気骨の幕臣」がいたとありますが、なるほど、そうだなと本を読んで思いました。
この本の面白いところの一つは、大人になって筋を通し抜いた定謙が、実は、子どものころは、父親からほとんどサジを投げられていた怠け者だったということです。堪え性のない気性だったのです。
定謙は、小姓番組に加わって登城すると先輩たちから理不尽ないじめにあいます。江戸時代もいじめはかなりひどかったようです。自殺したり殺しあいがあったりしていました。
新参者いじめに定謙は仕返しをし、番頭に報告して辞表をでしたしまうのです。たいした度胸です。
ところが、定謙は、次に徒組(かちぐみ)に登用されました。徒組は、将軍の影武者となる役目を担っていた。徳川将軍は、平時も非常時も、徒組20組、計600人の影武者たちに守られて行動することになっていた。
定謙は、火付盗賊改(あらため)を文政11年(1828年)から天保2年(1831年)まで、2年半つとめた。そして次に堺奉行となった。さらに、大坂西町奉行となり、そこで大塩平八郎を知った。このころ、大坂には、三郷借家請け負い人という制度があった。商売人が借金を返せなくなったとき、長屋住まいをしながら再出発するといシステムである。私は、このシステムについて前から知りたいと思っています。どなたか、専門に研究した本をお教えください。
大塩平八郎と親密な交流をしたあと、定謙は江戸に戻り、勘定奉行に登用されます。見事なまでの出世です。役高3千石、役料として700俵、御役入用金として300両が支給される。朝は午前5時に出勤する。午前9時には御殿勘定所にいなければいけない。大変な激務のようです。
このとき、大坂で大塩平八郎の乱が起きました。大塩平八郎に対する幕府の判決文に対して、定謙は水野忠邦に文句を言います。罪名を反逆とせず、大不敬の罪に処すべきだと提言したのです。怒った水野忠邦は、定謙を勘定奉行から罷免してしまいます。ところが、やがて水野忠邦は定謙を江戸南町奉行に任命するのです。人材不足からでした。
しかし、水野忠邦の改革にタテつく定謙は、やはり罷免されてしまいます。そして、桑名藩に預けの身となり護送されるのです。そこで水野忠邦への抗議の意思表示として絶食をはじめ、49歳の若さで諫死してしまいました。
定謙が「大岡裁き」のようなことをしたという話がいくつか出てきます。これはフィクションなのでしょうか・・・。
2007年6月 8日
写楽
著者:中野三敏、出版社:中公新書
ご存知、東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1795年)から7年にかけての、わずか10ヶ月ほどに百数十点の役者絵と数枚の相撲絵を残し、忽然と姿を消した。その写楽の正体を追求する本はたくさんありますが、著者は写楽が阿波藩士の斎藤十郎兵衛であることを立証します。
なるほど、ここまではっきり断言されたら、そうだろうなと思わざるをえません。
天保15年(1844年)の『浮世絵類考』に「俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也」とある。さらに、文化・文政期に成立した『江戸方角分』にも写楽が八丁堀地蔵橋住と書かれている。そして、八丁堀切絵図には、阿波藩能役者の斎藤与右衛門がいたことも判明した。そこで、与右衛門と十郎兵衛とが同一人物なのか、そしてその人物が浮世絵師であるのかが問題となる。
「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」によると、斎藤家は代々、与右衛門と十郎兵衛とを交互に名乗ってきた家柄であることが分かる。つまり、親が与右衛門なら、子は十郎兵衛であり、孫は与右衛門となる。
大名抱えの能役者の勤めは、当番と非番が半年か1年交代であり、謎の一つとされた写楽の10ヶ月だけの作画期間は、その非番期間を利用したものとみると納得できる。
さらに、江戸時代に築地にあった法光寺が、今は埼玉県越谷に移転しており、そこの過去帳に寛政期の斎藤十郎兵衛の没年月日が発見された。そこには、「八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十郎兵衛、行年58歳」とある。
「方角分」が写楽の実名を空欄にしたのは、写楽こと斎藤十郎兵衛が、阿波藩お抱えの、たとえ「無足格」という軽輩とは言え、歴とした士分であったことによる。
役者絵というものは士分の者の関わるべからざる領域であり、たとえ浮世絵師であろうとも、志ある者にとってはそれに関わることを潔しとしないというのが江戸の通年であった。10ヶ月も小屋に入りびたって、役者の生き写しの奇妙な絵を描いている写楽という絵師が、実は五人扶持切米金二枚取りの無足格士分で、阿波藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であることを知悉していたからこそ、あえて、その実名を記さなかった。
十郎兵衛自身の口から、我こそは役者絵描きの写楽にて御座候ということは、口が裂けても言えることではなかった。公辺に知れたら、自身の身分を失うだけではすまず、ひいては自らの上役、もしかすると抱え主である藩主にまで、その累が及ぶやもしれない事態であった。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
ここまで論証されると、写楽とは誰かというのは、今後は単なる暇(ひま)人お遊びにすぎないように思えますが、どうなんでしょうか・・・。
2007年5月30日
天草島原の乱とその前後
著者:鶴田倉造、出版社:上天草市
日本にキリスト教が伝えられたのは天文18年(1549年)、天草に伝えられたのは永禄9年(1566年)、さらに大矢野に伝えられたのは21年後の天正15年(1587年)のこと。すでに40年ほどたっており、早いほうではない。
天草四郎は大矢野関係の人物であり、乱を企画し推進したとされる浪人たちも大矢野の千束(せんぞく)島に住んでいた。
天草島原の乱の直接のきっかけは、口之津で信者が唱えごとをしていたときに、代官の林兵左衛門が御影を引き裂いたことにある。
天草島原の乱に、小西・有馬・天草5人衆などの関係遺臣が多数いたのは紛れもない事実である。
当時は数年にわたって天候異変が続いて連年の凶作だった。この異常気象は寛永9年ころから続いていた。寛永14年(1637年)にも異変が続いている。夏には干魃で、不作。5月に火の玉が天空を飛行、7月には江戸で激しい雷雨と地震、9月に高野山で火事、9月から10月にかけて連日、雲が真っ赤に焼けた。将軍家光は病気。人々は異常心理に陥った。
このように地獄のような社会になったのは、先のキリシタン改めで自分たちが転んだために、天国の神様が怒っておられるせいだ。そのつぐないのためにキリシタンに復宗する必要がある。人々は浪人たちの策動に乗せられた。
島原半島の各地では、主として領主の苛政に対する反抗が強かった。四郎を中心とする天草地方では、キリシタンの立場から、その救済のために立ち上がった。
天草四郎の父は益田甚兵衛(ペイトロ)という長崎浪人で、乱の当時、宇土の江部村の庄屋次兵衛の脇屋に住んでいた。年齢は56歳。四郎の母は50歳で、マルタという。日本名は不明。四郎は長崎に生まれた。乱の当時、15歳か16歳。父も母も大矢野の出身で、親族も多かった。四郎が長崎で出生したのは、当時、長崎は各地で迫害にあったキリシタンたちの避難地になっていたからである。
天草四郎と対面した久留米の商人がいる。その名を与四右衛門という。
四郎のいでたちは、常の着物の上に白い袴をつけ、たっ付け袴をはき、頭には苧(からむし)を三つ組にして緒(お)をつけ、喉の下で結び、額には小さい十字「クルス」を立て、手には御幣をもっていた。
幕府軍の一員として原城を攻めていた武士による天草四郎の姿は次のとおり。これは大坂から鉄炮奉行として松平信綱に従っていた鈴木重成が大坂へ送った書状にある。
天草四郎は年齢15、6歳という。原城にいる者はあがめており、六条の門跡(もんぜき)よりも上という。下々の者は頭を上げて見ることもできないほど恐れている。
籠城中の原城に対して、松平信綱は降伏をうながす矢文を送った。それに対して城内から次のような返事があった。
城を出たら家や田畑をくれるというけれど、我々には広大無辺の楽土が約束されているので、そんなものは必要ない。まして、江戸や京都の栄華・悦楽は、かえって業障の障りになる。
ともすれば恨み言の一つも並べたくなるような切迫した状況におかれながら、宗教の神髄を会得し達観していたと思われる矢文の返事である。
ただし、原城内には、このようにキリシタンの作法に従って、すべてを許し喜んで死んでいこうとする者と、せめて領主の長門守に一矢を報いようとする者の両派があった。城内は、一枚岩ではなかった。城からの落人も、城内には3人の頭(かしら)がいて、争いが絶えないと証言した。
天草四郎は総攻撃のあった2月27日の翌早朝に幕府軍に討ち取られた。四郎の首は「カネを入れた色白の綺麗な首」だったと書かれている。カネを入れるとは、鉄漿(おはぐろ)のことで、当時は、高貴の人は男もカネを入れていた。
天草四郎の首は上使の実見の後、原城外に札をつけて晒(さら)され、のちにさらに四郎の生まれた長崎に移して1週間晒された。3月6日、四郎の母や姉らが処刑された。
天草四郎の島原の乱について、上天草市が市史としてまとめた本です。島原の乱について、いろいろ勉強になりました。
2007年5月17日
真説・阿部一族
著者:升本喜年、出版社:新人物往来社
森鴎外の『阿部一族』は読みましたが、もう何十年も前のことですので、『五重塔』は最近再読しましたから記憶に新しいのですが、ちっとも覚えていません。ただ、同じ肥後藩士の阿部一族に襲いかかった苛酷な運命を描いたというので読んでみました。武士の世界も大変なんだとつくづく思いました。山田洋次監督の武士三部作映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」を思い出します。ああ無情という感じです。
時代は江戸時代初期。寛永14年(1637年)、島原の乱が始まった。肥後熊本藩の細川軍は攻撃軍のなかで最大の損失を蒙った。戦死者270人あまり、戦傷者1800人。
阿部一族の当主、阿部弥一右衛門は、豊前国宇佐に土着し、勢力をはる豪族だった。細川忠利の父・細川忠興が慶長5年、豊前の領主に封じられた。領内の土豪たちの強大な存在をみて、逆利用することにした。
その後、細川忠利は肥後に封じられ、阿部も一緒に豊前から移った。このとき知行100石(すぐ300石)の武士となった。肥後は、秀吉でさえ「難治の国」といったほどの大国である。幕府は忠利の肥後入国にあたり、小倉城から武具や玉薬の一切を持ち出すことを許しただけでなく、大阪城から石火矢3、大筒10、小筒1000、玉薬2万を出した。肥後は「一揆どころ」といわれるほど一揆の多い国として知られた。惣庄屋だけでも100人以上いる。土豪あがりのほか、大友、小西、加藤の遺臣もいる。細川氏に反発し、簡単に心を評するとは思われない。そこを忠利は治めた。阿部も力を尽くした。
その殿様・忠利が病死した。その直前、殉死を禁ずると言い渡していた。だから、阿部も殉死する気はなかった。それに忠利の子・光尚は殉死を禁じた。
忠利亡きあと、阿部のように忠利に眼をかけられて取立られていた者と細川藩譜代の者たちの対立が目立ってきた。ところが、忠利は実力第一主義で、実力のある者なら、家柄や血統などに関係なく眼をかけ、思い切って仕事をやらせ、大胆な抜擢も断行するし、十分の待遇も惜しまない。多少、性格に欠陥があったり、悪い前歴が多少あったりす者でも、能力があり、ひたむきに働く者であれば、その者を認め、眼をかけた。反面、肩書きだけで実力のない者や積極性のない者は極端に無視し、冷遇した。だから、無視された方には、嫉妬と怨念が蓄積する。反動が来るのも当然だ。
阿部弥一右衛門が忠利の遺訓を守って切腹しないことに対して、怨みをもつ者たちが嘲笑しはじめた。「卑怯者」「臆病者」「あれは百姓だ」と・・・。さすがの弥一右衛門も耐えきれない。
光尚は熊本城に初登城したその日に、弥一右衛門が殉死したとの報告を受けた。なんたること、言語道断。家臣としてあるまじきこと。怒りを抑えきれない。
殉死者19人の相続人全員が登城して、相続を許された御礼を光尚に言上した。跡式相続が内定してから、もう二ヶ月目に入っているが、このお目見えがあって、はじめて相続の正式決定となる慣わしだ。阿部権兵衛は、このとき、相続人代表として言わずもがなのことを光尚に申し立てた。
光尚の下で権勢を誇る林外記にとって、今や阿部一族は邪魔者としかうつらない。これをたたきつぶせば、他の者への見せしめになる。ついに阿部一族みな殺しが決まった。討手総数17人が選ばれた。
夜明け前からの討ち入りが終わったのは午後3時過ぎ。阿部一族全員が殺された。その討ち入りの凄惨な情景が活写されています。映画でも見ているような感じです。
ところが、まもなく光利が31歳の若さで倒れた。阿部一族が誅伐されて6年目のこと。林外記は無用の邪魔者となった。そして、早朝、四人組に襲われて、林外記は討ち果たされてしまった。
阿部一族の忠実をふまえた小説です。なかなか迫力がありました。因果はめぐるという話になっています。森鴎外の小説は忠実と違うところがあるという指摘もあります。
2007年4月13日
遙かなる江戸への旅
著者:永井哲雄、出版社:みやざき文庫
江戸時代、参勤交代は250年ものあいだ厳しく守られてきた。日向国にある四つの藩から江戸まで350里(1400キロ)を、毎年、200人以上の集団で、片道1ヶ月以上もかかる陸と海の旅を休むことなく往来した。
この本は、その実情を当時の記録をもとに探っています。 寛永12年の武家諸法度以後、参勤交代は江戸到着日が決まっていたので、出立日は、それから逆算してきめられていた。飫肥藩は3月1日、佐土原藩も同じ。日向路は陸路、細島から船で大坂まで行き、大坂から大坂から東海道を陸路で江戸へ向かう。江戸に着くと、1年の在府。
翌年の4月から5月に帰国の旅につく。真夏に辛い旅をする。国元には約10ヶ月しかおれない。
役にある限り、生涯歩き続けるのが江戸時代の大名領下の役人である。幕末の飫肥藩の上士川崎一学は、55年間になんと14度の江戸御供をしている。人生の半分を旅に過ごしたことになる。
参勤交代を守らないときには、大名改易の理由となった。
大名が参勤交代の往返に耐えることができなくなったら、家督を譲る理由となる。
大名の妻のうち、正室は幕府に認められた婚姻を結んだもの。夫がまだ家督をついでいないときには御新造様、当主になると御奥様、当主が隠居すると大御奥様、夫が死去すると院と呼ばれる。側室については、さまざまに呼ばれる。御部屋様、御召仕、奥御女中、御妾、奥御奉公人。
正室と嫡男の江戸と国許の往来は厳しく禁ぜられているが、側室の方は往来自由となっていた。江戸藩邸は、上屋敷であれ、中屋敷、下屋敷であれ、藩主の私有物ではない。幕府からの貸与物である。いつ屋敷交替を命ぜられるも分からない。
高鍋藩の場合、江戸藩邸詰の人数は、徒士(かち)以上は家老・用人・留守居各1人、者頭6人、給人・家嫡25人、中小姓24人、徒士52人、医師など3人、合計113人。このほかに足軽から小人(こもの)まで同数がいた。そのとき、国許には、徒士以上は 220人いた。
つまり、藩主が江戸にいるときには、上、中家士のうち3分の1が江戸に詰め、残り3分の2が国許で城を守り、治世にあたっていた。
高鍋藩の参勤交代の絵がある。1月前に先触れが通過する諸大名や幕府御料所に挨拶のため先行する。前日には、宿割りの一行が先行して、休憩・宿泊の準備をする。絵図に百数十人が描かれているが、実際には、これよりかなり多くなる。これが公高3万石前後の大名の供揃えである。大変な旅行だったんですね。
2007年3月30日
徳川光圀
著者:鈴木暎一、出版社:吉川弘文館
有名な「水戸黄門」の主人公の素顔を追求した本です。葵の印籠ですべてが解決するなんて、映画(ビデオ)のなかだったらいいのですが、現実にそんなものがあったら困りますよね。文句があっても、権力者の言いなりになれっていうことですからね。
光圀は光国だったこと、少年時代はほとんど非行少年だったこと、隠居したあと側近を自ら手討ちした(殺した)ことなどを知りました。人生いろいろあるものなんですね。
光圀は徳川家康の孫なんですね。知りませんでした。父の頼房は、家康の末子(11男)だったのです。父頼房も、壮年期になるまでは、豪気というより奔放・無軌道の一面があった。まだ戦国時代の風潮が残っていた。
父頼房は光圀を世継ぎ(世子)と定め、気骨ある武人、武将に育てあげることに心を砕いた。しかし、光圀は勝ち気で強情な少年だった。馬術とともに水泳を得意とした。光圀は、17歳ころまで、父の期待を裏切ること甚だしい品行不良の少年だった。
言語道断の歌舞伎人と評された。
脇差しは前へ突出して差し、挨拶の仕方や殿中を歩く姿は軽薄・異様。着物はいろいろ伊達に染めさせ、びろうどのえりを巻き、長屋へ単身出かけて厩(うまや)番や草履取りとも気軽に色好みの話をし、三味線を弾いている。
なーるほど、かなりの不良青年だったようですね。光圀が遊里から朝帰りするとき、酔っぱらいが刀をふりまわしているのにぶつかった。水戸家出入りの旗本の子だったので、一喝しておさめた。こんなエピソードも紹介されています。
18歳になって、光圀はすっかり反省し、行状を改めました。それからは学問に精励したのです。
光圀はなかなかの美男子で、もてたとのこと。色白にして面長、額ひろく切れ長の眼で鼻梁の高い美男だった。登城の日、その姿を見ようと大勢の人が押しかけ、人垣が崩れかかって騒動になったこともあるそうです。
光圀はずっと江戸に住んでいた。36歳のときに初めて水戸へ下った。以後、10回、藩主として水戸に下っている。えーっ、そんなに少ないのですかー・・・。驚きました。
光圀は生涯ほとんど旅行らしいものをしていない。水戸から鎌倉・江ノ島そして江戸へ17日間かけて旅行したのが、生涯唯一の旅らしい旅だった。要するに、「水戸黄門漫遊記」なるものは、まったく架空の話なのです。
光圀はずっと光国でした。この圀という字は、唐の則天武后がつくった則天文字の一つです。ほかの字は廃されたのに、なぜか、この圀の字だけ日本に生き残ったのです。
光国が光圀としたのは、56歳のときのこと。
光圀は蝦夷地探検を試みた。苦しい藩財政に利益をもたらす目論見があったようだ。探検のため性能のよい大船(快風丸)を建造した。全長27間、幅9間。千石船をはるかにしのぐ規模の巨船だった。
光圀67歳のとき、小石川の藩邸で能興行中に、腹心を手討ち(刺殺)した。かねがね、その高慢ぶりに注意を与えていたが、問答の末、もう堪忍なりがたく成敗した、というのです。やっぱり、殿様って怖いですね。
光圀が大日本史の編纂にとりかかったのは30歳のとき。73歳で死んだときも、まだ完成はしていませんでした。歴史を書くというのは、すごく息の長い事業なんですね。
2007年3月16日
江戸時代のロビンソン
著者:岩尾龍太郎、出版社:弦書房
「ロビンソン・クルーソー」は有名ですが、実は私は全文を読み通したことがありません。なにしろ岩波文庫で上下800頁もあるというのです。しかし、そこには17世紀末の世界情勢がじつに色々と書きこまれているそうです。ヨーロッパでは、この手の航海記が昔から人気を集めていました。
ところが、海国日本では数多くの漂流民をうんだ割には、海洋文学と言えるものはほとんどありません。現代日本社会では、冒険そのものに対する眼差しが冷ややかなのです。
冒険心の抑圧、冒険物語の不在は、幕藩体制が固まった近世以降、きわだっている。
しかし、そこは昔から記録好きの日本人です。漂流記録そのものは、判明しているだけでも300あります。眠っている古文書には少なくとも、その10倍はあるとみられています。
1610年、徳川家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)につくらせた按針丸は太平洋を渡ってメキシコにたどり着いた。1613年、伊達政宗がつくらせた支倉六右衛門派遣船サン・ファン・バプティスタ号は太平洋を往復した。家光がつくらせ江戸にあった長さ62メートル、1000トン級の巨大軍船「安宅丸」は、1682年に解体された。そのころ徳川光圀が蝦夷探検用につくらせた「快風丸」も光圀の死後に放棄された。
当時、海外の人々は、日本人を見て、ヒツポン、ひつほん、カツポン、じつぽん、じわぽん、ヤーパンなどと呼んでいた。
船が漂流をはじめたとき、捌(は)ね荷、捨て荷をした。これは廻船の任務放棄だったので、そのとき、髻(もとどり)を切って海神にささげる。もはや、荷主や船主に対して責任を負える主体であることを止め、ざんばら髪の異形の者となって冥界をさまようのだ。
和船には、構造的欠陥があったが、案外、沈まない強度も持っていた。
日本人の漂流者は、生魚を食べるので、壊血病になるのは、欧米の漂流者よりも少なかった。
徳川吉宗の治世のとき。静岡(新居)の船「大鹿丸」が九十九里浜沖で遭難した。無人島(鳥島)に12人が上陸し、食糧はアホウドリを主とし、魚を釣って生きのびた。20年後の1739年(元文4年)、そのうち3人が生き残って帰還し、吹上御所で将軍吉宗の上覧を仰いだ。
さらに、その数十年後、土佐の長平が同じ鳥島で13年間、そのうち1年半は孤独な生活を過ごした。そこへ、大阪の肥前船が漂着し、11人がやって来た。この11人のうち9人が10年後に生還した。
彼らは、漂着物を気長に待って、つぎはぎだらけの船をこつこつ造り上げた。木材を流木だけで調達した。鉄具は不足していた。製鉄のための風箱(ふいご)も自力でつくった。
造船のノウハウを知っているものは少なかった。三尺の模船(ひながた)をつくり、これを皆で検討しながら、手探りで造船を続けた。すごいですね。
南方の島に漂流していった孫太郎は、こう語った。
世の中は、唐も倭も同じこと。外国の浦々も、衣類と顔の様子は変われども、変わらぬものは心なり。けだし、今日に通用する至言ですね。
1813年から1815年にかけて、484日間、太平洋を漂流した記録があるそうです。船長(ふなおさ)日記です。
もっと現代日本人に知られていい話だと思いました。
2007年3月12日
きよのさんと歩く江戸六百里
著者:金森敦子、出版社:バジリコ
山形の鶴岡に住む女性(きよの)が江戸・伊勢・奈良・京都見物の旅に出かけました。文化14年(1817年)のことです。31歳のきよのさんは、夫と2人の子どもを自宅に残し、同伴者の男性と荷物持ちの下僕と三人の旅です。
夫も、その前に25歳のとき、長野・名古屋・伊勢・京都・四国・江戸・日光の124日間の旅をしています。だからでしょうか、妻の旅行には同行しませんでした。
きよのさんは鶴岡の裕福な商家の家付き娘でしたから、この旅行に思う存分にお金をつかうことができました。普通は一日一朱というのが旅費の目安です。一両あれば16日間の旅が出来るという時代でした。
江戸も後期になると、多くの女性が関所手形も持たずに旅立つのが普通になっていた。きよのさんは、108日間の旅の記録を残しました。それを解説つきで再現したのが、この本です。本当に昔から日本の女性って強かったんですよね。それがよく分かる旅の本です。
江戸時代、宿場の飯盛女が売春することを禁じるお触れが何度も出されている。禁止しても守られなかったからこそ、何度も繰り返し禁令が出された。宿場の繁栄を飯盛女が担っているという現実があった。
きよのさんたちには、彼女らは自分の身を売ることで家族を養っているのであって、賤しいことをしているという意識は少なかった。売春をやっきになって取り締まろうとしたのは為政者である。
きよのが江戸で一番楽しみにしていたのは歌舞伎の見物だった。当時の芝居は明け方から日没まで上演していた。だから芝居茶屋を通して飲食し、用便もしていた。きよのさんたちは、5人で一両二朱もかけている。
江戸では鶴岡藩の上屋敷の元締役所を訪れ、数々の御馳走を受けている。これは、きよのさんの商家が藩に多額の献金をしていたから。
きよのさんは吉原に出かけて、遊女を見物している。また、江戸の呉服屋で、一七反もの買い物をし、さらに日本橋で本を一冊も購入した。俳諧と狂歌の本だ。
きよのさんは現金をもち歩いたのではなく、前もって送金していた。
江ノ島では210文もかけて、お昼に魚料理を食べた。
伊勢参宮では、御師宅で豪華な食事の接待を受けた。一人一人に見事な鯛や伊勢海老が出て、お酒も飲み放題。伊勢見物には専用の案内人がついた。奈良でも京都でも、きよのさんは旅籠屋の主人に頼んで案内人(ガイド)つきで見物した。
きよのさんは南禅寺門前の茶屋で名物の豆腐を食べ、お酒を飲んだ。これは私も経験しました。
江戸時代といっても、封建制度の中で忍従を強いられた女性ばかりではなかった。
きよのさんはいたるところでお酒を飲み、五重塔のてっぺんまで勇ましく登っていった。誰もきよのさんを非難することはなかった。きよのさんが江戸の吉原を見物し、大坂新町で遊女をあげても奇異とは思われなかった。
いやあ、実に自由奔放な旅行です。現代人にきよのさんを真似できる人がどれだけいるでしょうか・・・。