弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2011年1月 8日

大名行列の秘密

 著者 安藤 優一郎、 NHK生活新書 出版 
 
 加賀百万石の前田家の大名行列はなんと4000人が参加していたというのです。信じられませんよね。駕籠に乗った殿様も優雅な旅を楽しんでいたというより、難行苦行だったようです。薄い蒲団しか敷かれていないので腰も足も痛い。朝から夕方まで乗り通しの火が何日も続くと、殿様の苦痛も並大抵ではなかった。
 殿様は、食事の好き嫌いを口に出すことは許されなかった。そして、出された食事は規定どおりの量を残さず食べなければならなかった。そうしないと、料理人の責任問題が派生する。
ええーっ、殿様って、わがまま放題かと思っていました・・・・。違うんですねっ。
大名行列の大半は、150人から300人くらい。江戸に入るときには、江戸屋敷結の家臣や江戸で雇用した人足たちが行列の半分以上を占めていた。これって、今の不正規雇用労働者ですね。
大名行列は一日に平均32~36キロは歩いた。盛岡藩南部家の記録によると、平均して一日に43~46キロ歩いた。ときに50キロも歩いた日がある。うへーっ、これってす、すごいことですよね。
 殿様専用の風呂桶を運び、また、携帯用トイレまで運んでいた。そして、とまりの本陣の殿様の寝床の下には、持参した鉄の延べ板を敷いた。床下に刺客が忍び込んでも殿様は守れるというわけだ。
飲料水も、江戸から国元までの道中で必要な分を持ち運んでいた。
前田家の場合、参勤に擁する日数は12泊13日というのが多かった。暮れ六ツ泊まり七ツ立ち。暮れ六ツ(午後6時)に旅宿に到着し、翌朝七ツ時(午前4時)には出発する。当時は左側通行が基本だった。
 京都は大名行列が立ち入ってはならないところだった。幕府が禁じていた。朝廷と諸大名とが結びつくことを幕府は警戒した。
昔から日本人が旅行好きだったことも明らかにされています。江戸時代の一端を楽しく知ることができました。 
(2010年3月刊。700円+税)

2010年12月26日

日本神判史

 著者 清水 克行、 中公新書 出版 
 
 室町時代、火傷の具合で有罪か無罪かを判定する湯起請(ゆぎしょう)と呼ばれる熱湯裁判が行われていた。湯起請は古くからのものではなく、15世紀の室町時代の100年間のみに集中的に出現する流行現象だった。著者は、87件の湯起請の事例を確認している。盟神探湯は、くがたちと読みます。湯起請のようなものでしょうね。
 もう一つの鉄火裁判は、戦国時代から江戸初期(16世紀後半~17世紀前半)の数十年間にだけ集中的に確認される現象であり、決して古代・中世の昔からずっと続いてきたものではない。著者は鉄火裁判について45件を確認している。そして、この鉄火裁判は、決して遠い昔の狂信的な暗黒裁判ではなく、今でも地域の誇るべき歴史として真摯に語り伝えられている。
 中世の人々は起請文(きしょうもん)と呼ばれる一種の誓約書をよく書いた。当時の人々にとって、この起請文に記載した誓約内容を裏切るということは、単なる他者への契約不履行という問題以上に、その罰文に書かれた神仏を裏切るという宗教的な背徳行為を意味した。ここらあたりは、現代人の感覚とかなり違うようです。
 鎌倉幕府の法廷に御家人の妻の不倫疑惑にまつわる訴訟が持ち込まれた(1244年)。離婚したあと、元夫が元妻を「密通」(不倫)の罪で訴えた。元妻も反論したので、裁判が始まった。この夫婦は結婚したとき、離婚したときには、妻は夫からいくつか土地を譲り受けるという契約状をかわしていた。しかし夫は元妻に、これらの土地を渡したくなかった。そこで、妻に不倫ありと訴えたのである。
 えへーっ、なんだか現代日本にもありそうですが、さらに一歩進んでいますよね。だって、結婚するときに、離婚したときの条件を定めておくなんていうことは、弁護士生活36年間を過ぎましたが、一度も経験したことはありません。
湯起請は、「合法的」なかたちで、「犯人」を共同体から排除する最良の方法として活用されていた。人々が恐れていたのは、犯罪そのものより、狭い生活空間のなかで、人間関係が相互不信によって崩壊していくことだった。湯起請を実際に執行したのは27%だった。ほとんどのケースでは、話題にのぼっただけで、実行に移されていない。
専制政治を志向する為政者にとって、湯起請は、自らの政治判断の恣意性・専制性を隠蔽するための最良の道具だった。だから、足利義政にとって、うるさい重臣がいなくなり、自分の意志を自信をもって全面的に打ち出せる状態になったとき、もはや「神慮」を必要としなくなった。
 湯起請は、信心と不信心の微妙なバランスのなかで、生まれた習俗だった。そのため、大局的な時代潮流が信仰心を捨て去り、両者のバランスが崩れたら、おのずと湯起請は終わるべきものだった。
 中国は、世界でもっとも早く神判が姿を消した地域と評価されている。
 大変面白く、一気に読了しました。
 
(2010年5月刊。760円+税)

2010年12月12日

江戸図屏風の謎を解く

 著者 黒田 日出男、 角川選書 出版 
 
 江戸は明暦の大火(振袖火事、1657年)によって、大きく変わった。これを前提として、近世初期の江戸を描いた二つの屏風(絵)について、いつころ、誰が、何のために描いたのかを解明していきます。その謎ときには読んでいて小気味よいものがあります。
 この本は推理小説ではありませんので、その謎ときをここに少しだけ紹介します。
 「江戸天下祭図屏風(てんかまつりずびょうぶ)」は、明暦の大火以前の江戸城内を進んでいく山王祭礼の行列が描かれている。これが第一の主題。
 次に、江戸城内にあった壮麗な紀伊徳川家上屋敷と、その門前で天下祭りの行列を楽しんでいる徳川頼宣・瑤林院夫妻の姿が第二主題。
 そして、徳川頼宣にとって慶安事件(由比正雪事件)の嫌疑と明暦大火の際の流言による危機。これらの危機乗り越え、帰国の暇を賜ることができた頼宣の喜び。それが第三の主題となっている。
 家主死後に発生した由比正雪の乱のとき、紀州藩主徳川頼宣の判がつかわれていて、当然のことながら、頼宣に疑いがかかった。家光の次の将軍家綱がまだ11歳であったことから、頼宣は以後10年間にわたって「在江戸」を強いられ、国許への帰国を許されなかった。頼宣が紀州に帰ることを幕府は心配したのである。
 著者は、この屏風(図)に誰が、どのように描かれているのかを仔細に検討して、このような結論を導いていきます。学者って、さすがに鋭いと思います。ぼんやり絵を眺めていても出てこない結論です。読んでいて、素人ながら、とても納得できる推論だと感嘆してしまいました。
 
(2010年6月刊。1800円+税)

2010年10月29日

鉄砲を手放さなかった百姓たち

 著者 武井 弘一、 朝日新聞出版 
 
 秀吉以来の刀狩によって、百章は刀も鉄砲も何もかも武器というものをまったく持たなくなったという常識は間違いである。
 のっけにこんな事実が摘示されて驚かされます。
 刀狩は、まさに刀を取りあげたのです。なぜなら、刀は武士身分を表像するものだったからです。そして、江戸時代の百姓は大量の鉄砲を手にしていました。
江戸幕府は時として鉄砲改めを実施していた。しかし、そのとき百姓から鉄砲を取りあげたわけではない。百姓の鉄砲は没収されずに、そのまま所持することが認められた。
ところで、百姓のもっていた鉄砲が、たとえば一揆のときに人間に向けて殺傷するために使われたことはない。それは武器としてではなく、音をたてる鳴物として使用された。そして、百姓一揆のとき、領主が百姓に向けて鉄砲を使うこともなかった。そんなことをすれば、たちまち支配の正当性を失うからである。すなわち、領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。
 うへーっ、そうだったんですか・・・・。これって、まったく知りませんでした・・・・。
 ところが、一揆にアウトローが参加するようになってくると、様相が異なる。
 アウトローは、土地を失う百姓が増え、村が荒廃したからこそ生まれでてきた。
 百姓にとって鉄砲は、アウトロー対策そして、イノシシなどの「害獣」対策に必要なるものとして使われたのでした。  
 百姓は鉄砲を村全体の管理下において、その使用を規制していた。百姓は鉄砲が武器となることを自制していた。だからこそ、当局は村に管理をまかせることができた。
 害獣を防ぐための、数ある方法のなかから最適な道具として、百姓みずから鉄砲を選んだ。農具としての鉄砲が村の管理下におかれて広まり、害獣を防ぐために百姓が手にして使い続けた。
 日本人の若者が若いときから人を殺すための銃を持たされることもないのは大変幸せなことなのですよね。これを平和ボケなどと言ってほしくはありません。
(2010年6月刊。1300円+税)

2010年10月17日

甦る五重塔


著者:鹿野貴司、出版社:平凡社

 江戸時代に建立された五重塔が見事、現代によみがえったのです。ところは身延山久遠寺です。もちろん、言わずと知れた日蓮宗の本山です。
 その五重塔が竣工するまでが見事な写真で刻明に紹介されています。さすが圧倒的存在感のある建物です。
 初代の五重塔は1619年(元和5年)に建てられた。加賀藩主・前田利常の生母(寿福院) が寄進・建立した。ところが、江戸時代の末期に焼失し、そのあと再建された塔も明治8年、再び大火にあって焼失。それを再建したのです。
 使用する木材は国産にこだわり、高知・四万十川上流で切り出した檜を用いた。それを組み立てるのは、世界最古の企業として名高い、大阪の(株)金剛組の宮大工。
 法華経の根本道場たる身延山に133年ぶりによみがえった七堂伽藍。その一角にひときわ空高くそびえ立つ123尺(37メートル)の五重塔は、身延山からお題目の輪を広めるための発信基地。
 五重塔がつくり始められるときから竣工するまでの2年間、東京(千葉)から通いつめた若手カメラマンによる素敵な写真集です。さすがに8万枚の写真から選び抜かれたというだけあります。見るものにぐいぐいと迫ってきます。
 五重塔を拝むありがたさが違ってくること、うけあいです。
(2010年4月刊。3800円+税)

2010年9月26日

偽金づくりと明治維新

著者:徳永和喜、出版社:新人物往来社

 幕末の薩摩藩が倒幕の資金源として大々的に「ニセガネ」をつくっていたという説の真偽を追及した本です。どうやら本当のようですが、著者は通説の誤りもただしています。
 ニセガネづくりには家老の調所広郷(ずしょひろさと)は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通だった。
 薩摩藩は、幕府の許可を得て「琉球通宝」を鋳造した。そして、文字を変えた「天保通宝」を鋳造し、さらに二分金のニセガネを鋳造した。この二分金は純粋の金貨ではなく、金メッキした銀という意味で通称「天ぷら金」と呼ばれた。
 これを推進したのは島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬の死亡後に、安田轍蔵(てつぞう)が経済通の能力を生かして登用された。琉球通宝が幕府から許されたのは安田の小栗忠順などとの人脈を生かした尽力による。
 安田は、琉球通宝を鋳造し、その後に天保通宝を鋳造・流通させ、その資金をもって洋銀を購入し、さらには洋銀から国内流通の一分銀・一朱銀を鋳造するという壮大な構想をもっていた。これは、実体経済を知悉していた安田が開通場での洋銀精算に着目し、国内金銀貨幣と洋銀との交換比率から生じる差益を利用するという考えによるものであった。
 安田の考えによれば、1日に4000両をつくると、年の利益が64万両が確保できる。4年で256万両の利益を生む。これによって、領内海防のために沖瀬を築造し、大砲の備えも可能となる。
 ところが、この安田は途中で追放・島流しにあった。
 ニセガネ天保通宝の鋳造高は高められ、ついに一日に4000~5000両を鋳造し、一ヶ月に12万両をこえてつくり出し、藩財政を補填した。
 イギリス艦隊に鹿児島湾を占拠され敗北したあと、ニセガネづくりはかえって盛大な事業展開となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造された。
 安田が再登用され、薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用していった。
 琉球通宝は三井組で換金する仕組みであった。
 三井は幕末期に薩摩と組んでいたのですね・・・。さすが政商です。
 もちろん、明治新政府はこんな 地方のニセガネづくりを許すわけにはいきません。しかし、大久保利通は薩摩藩で自らニセガネつくりに関わっていたのですから、早く止めろと必死で薩摩藩を説得したようです。
 そんなことも知れる興味深い内容の本でした。
(2010年3月刊。2200円+税)

2010年9月21日

実見・江戸の暮らし

 著者 石川 英輔、 講談社 出版 
 
 江戸時代の日本は、どんな社会であったのか、幸いなことに、たくさんの絵が描かれているので、今の私たちにもかなりイメージをもつことができます。そうは言っても、もちろん、専門家による解説は不可欠です。
 江戸時代の女性は、結婚すると眉を剃り落とす地方が多かった。しかし、結婚しても、若いうちは眉を剃らない人がいたし、東北地方や長崎のように、眉を落とさない地方もあった。
未婚の娘にとって、振り袖の着物は、おしゃれ着であって日常のものではなかった。帯は、昔の人は、好きなように結んでいる。未婚、既婚を問わず、いろんな帯の結び方をしている。現代より、大きく、派手に結んでいる。
家で着物を着るのに裾を引くような着付けも珍しくはなかった。町人女性の風俗としても、裾を引くのは特別なものではなかった。当て布だけ、つけかえればいいようになっていた。
 江戸時代の家屋の室内には、家具がほとんどないという特徴がある。
 なーるほど、畳の上にソファーとか机とかはないのですね。もちろん、今のようにテレビもステレオもありませんしね。
 裏長屋は集合住宅である。現代のアパートと同じく、全体の入り口は一つしかなく、そこを閉め切れば出入りができなくなる。それが木戸だ。木戸の上の横板に、住民が表札をかねた看板を出していた。口入れ屋、祈祷師、山伏、医者、儒者、尺八の師匠、灸すえ所、易者、糊屋など、さまざまな職業がある。
江戸の庶民の食事が、飯と味噌汁とたくあんだけの素朴な内食で暮らしていたとは、とても思えない絵がたくさんある。
 江戸時代は、平和な時期が長く続いたおかげで料理も発達した。そのことは、さまざまな料理本が出ていたことでもわかる。
江戸の一般庶民は、あまり複雑な料理をしなかった。あるいは、出来なかった。なぜなら、住民の大多数の住む長屋の台所の設備が単純すぎたから。
 江戸では、外食も盛んだった。町内の半分は飲食店だった。屋台もたくさんあり、露店もあった。江戸でとにかく多かったのが、そば屋である。
 幕末期の江戸には、どんなに少なく見積もっても、番付に出るほどの料理茶屋が300店はあった。
八代将軍の徳川吉宗が日本の人口調査を行った享保11年(1726年)に、日本の人口は2650万人だった。ただし、正確には、3100万人とみられている。江戸時代の日本の総人口は3000万人から3200万人で安定していた。
 そして、江戸時代には、100万人から110万人が住んでいた。ところが、江戸府内の半分は農村だった。江戸の全部に裏長屋があったわけではないのですね・・・・。
 江戸にはたくさんの行商人がいた。まるで動くコンビニかスーパーマーケットのように、金魚、スズムシ、薬、メガネなど・・・・。今より、かえって便利だったかもしれない。
 江戸の庶民の日常生活がたくさんの絵とともに紹介されています。具体的なイメージをもって江戸の人々の生活を知ることの出来る楽しい本です。
 
(2009年12月刊。1400円+税)
 フランス語の授業を受けているときのことです。フランス人の講師から、なぜ日本人は社会問題でデモしたりしないのかという問題が出されました(もちろんフランス語で)。フランスでは、いま、サルコジ政府が年金受給年齢を60歳から引き上げようとしていることに対して、全国で何十万人という人の参加するデモ行進や集会が開かれています。ロマ(ジプシー)追放に対する反対の集会も起きています。
 日本では、そういえば集会やデモは見かけませんよね。日本人の生徒たちは顔を見合わせるばかりです。40年前に学生のころは、よくデモ行進もしていたのですが……。やっと私は、年越し派遣村のことを思い出しました。
 すると、講師が、沖縄ではやっているじゃないかと指摘しました。そうなんですよね、沖縄ではアメリカ軍基地反対で盛り上がっています。本土の私がダメなのですね。物言わぬ羊の群れになってしまたのでしょうか、私たち……。

2010年9月 4日

裸は、いつから恥ずかしくなったか

 著者 中野 明、 新潮新書 出版 
 
 日本人は江戸時代まで、男も女も人前で裸であることになんのためらいもなかった。風呂は混浴があたりまえだった。明治政府が外国からの批判を受けて禁止してから裸は恥ずかしいものとされ、今や逆説的に見せる下着が流行している。ところが、ドイツなどには、今も混浴サウナがあって、旅行した日本人が驚いている。
 なーるほど、と思う指摘ばかりでした。混浴風呂と言えば、私が小学生の低学年のころ、父の田舎(大川です)に行くと、集落の共同風呂があり、入り口こそ男女別でしたが、なかの浴槽は男女混浴でした。昭和30年代の初めのころです。そして、私が司法試験を受けていたころ(1970年代はじめ)、東北一人旅をしたとき、山の温泉は混浴が普通でした。昼間、私が一人で温泉に入っていると、山登りを終えた女子高生の一団がドヤドヤとにぎやかに乱入してきたので、慌ててはい出した覚えがあります。
私は残念ながら体験していませんが、ドイツやオーストリアでは、サウナに男も女も皆すっぽんぽんで堂々と入っているそうです。驚いた日本人女性がその体験記をブログでいくつも紹介しているとのことです。
江戸時代の銭湯が男女混浴であることに驚いた外国人によるレポートが図入りでいくつも紹介されています。ただし、江戸幕府は何度も禁令を出していたようです。天保の改革のとき、水野忠邦も混浴を厳しく禁じました。これって、7歳になったら男女席を同じくしない、どころではありませんよね。
 そして、夕方になるとタライで水浴びします。若い女性が素っ裸になって道路に面したところで水浴びしているのを、通りかかった外国人が驚嘆して見ていたのでした。
 人前での行水や水浴ばかりか、そもそも日本人は、性器を隠そうとする意識がきわめて低かった。そして、当時の日本人は、裸体を公然と露出していても貞操が危うくなることはなかった。要は、裸体とセックスの結びつきがきわめて緩やかだったのである。
 当時の日本人にとって裸体は、顔の延長のようなものであり、日常品化されていた。明治4年、裸体禁止令が出された。外国人の目を政府が気にしてのことである。
 明治9年、裸体をさらして警察に検挙された者が東京だけで2091人にのぼった。
 明治政府による裸体弾圧以降、日本人は裸を徐々に隠すようになる。この結果、日本人に裸体を隠す習慣が根づいていった。しかし、それには予期しない副作用があった。
 裸体を隠すことで、女性の性的魅力を高めてしまった。明治政府の裸体弾圧は、セクシーな日本人女性を形成するための一大キャンペーンになったのである。
 そもそも日本人は、現代でいうパンツをはく習慣はなかった。まして、ブラジャーをやである。男性は褌、女性は腰巻である。
 下着の一部を見せる現代の女性の行為は、現代社会が下着を隠す社会だからこそ成立するのである。そして、下着を隠す習慣が生まれることで、女性は裸体を五重に隠すようになった。現代の日本人の常識って、案外、底の浅いものだったんですね。
 
(2010年5月刊。1200円+税)

2010年8月12日

新・雨月(下)

 著者 船戸 与一、 徳間書店 出版 
 
 ときは幕末。戊辰戦後の実相を小説でもって生々しく語り尽くそうという壮大な小説です。明治維新を目前にして、人々がそれぞれの思いで生命をかけて戦い続けます。ここでは維新の生みの苦しみと怨念がしっかり語られている気がします。
 明治1年9月、ようやく会津藩が降伏。2日後に庄内藩が降伏した。だが、戊辰戦役はこれで、終わったわけではない。翌明治2年の箱館戦争へ引き継がれる。榎本釜次郎(武揚)が五稜郭を出て降伏したのは5月。鳥羽伏見の戦いから1年半が経過していた。
 榎本と行動をともにしていたフランス士官ブリュネがフランス本国に宛てた報告書のなかで、北海道に建設される国家は共和制になるだろうと記したうえで、その共和国をフランスは植民地化すればいいとしていた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
会津藩は、敗戦によって明治新政府から下北半島と三戸・五戸地方へ減知転封され、斗南藩と命名された。それは、挙藩流罪とも呼ぶべき処置であり、藩士たちは、誰もが咎人(とがにん)のような仕打ちを受け、すさまじい飢餓にさらされた。
 いずれにせよ、鳥羽伏見から箱館五稜郭まで戊辰戦役の死者数は1万5千人と推計されている。ただし、これには、戦地で徴発された陣夫や戦火の巻きぞえとなった反姓たちの死は含まれていない。そして、この死者数は、後の日清戦争に匹敵する。すごい数ですよね。日本が生まれ変わる苦しみであったことを意味します。
 会津藩の二本松攻撃の戦闘指揮をとった薩摩六番隊長・野津七次(のづしちじ)は、箱館戦争後に、野津道貫(みつら)と改名した。明治7年、大佐となって佐賀の乱に出征。西南の役では、第二旅団参謀長。日清戦争には第五師団長として出征。明治26年、大将となり、近衛師団長、東部都督などを歴任。日露戦争では第四軍司令官。後年、戊辰戦役について、次のように述懐した。
 余は数えきれないほどの戦場を駆け抜けてきたが、二本松の霞ヶ城攻撃のときほど恐怖に駆られたことはない。なにしろ十三か十四の子どもが切先をこっちに向けて次々と飛び込んでくる。剣術は突きしか教わっていない子どもが命を捨てに来る。あの二本松少年隊ほど余の心胆を寒からしめたものはない。霞ヶ城の、あの光景は絶対に脳裏から消えはせんよ。
よくぞここまで調べあげたものだと、ほとほと感嘆した歴史小説です。
(2010年3月刊。1900円+税)

2010年8月11日

吉原手引草

 著者 松井 今朝子、 幻冬社文庫 出版 
 
 うまいですね、すごいです。見事なものです。よしはらてびきぐさ、と読みます。江戸の吉原で名高い花魁(おいらん)が、ある晩を境として忽然と姿を消したのです。それを尋ねてまわる男がいました。吉原に生きる人々の語りを通して、吉原とはどういうところなのかが、少しずつ明らかにされていきます。その語りが、また絶妙です。ぐいぐいと引きずりこまれていきます。
 同じ見世(店のこと)で別の妓(女性)に会うのは、廓の堅い御法度(ごはっと)でござります(禁止されているということ)。
花魁が見世から頂戴してるのは朝夕のおまんまと、行灯の油だけ。部屋の調度はもとより、畳の表替え、障子や襖の張り替え、ろうそく代や火鉢の炭代に至るまで、これすべて自らの稼ぎでまかなう。紙、煙草、むろん髪の油に紅脂(べに)白粉(おしろい)はけちらず、毎月、同じ衣裳も着ていられない。
櫛簎(こうがい)の髪飾りは値の張る鼈甲(べっこう)ばかりだ。遣手(やりて)の婆さんやわっちらばかりが、引手牢屋や船宿の若い衆にも心づけは欠かせないときてる。禿(かむろ)がいれば、子持ちも同然で、一本立ちの女郎に仕立てるまでの費用(かかり)は半端なものじゃない。それでもって慶弔とりまぜての物入りがまた馬鹿にならない。花魁は皆いくら稼ぎがあっても年から年中ぴいぴいしておりやす。ちょっと病気をしたり、親元から催促されたら、たちまち借金が嵩んで・・・・。うむむ、いや、なるほど、そうなんですか。
 男は女の涙に弱いから、女郎が泣けば客もたいがいは許してくれる。だが。そうやすやすとは泣けないから、女郎は着物の襟に明礬(みょうばん)の粉を仕込んでおく。それを眼のなかにいれたら涙が出てくる。
女郎は、客の煙草の水や印籠もしっかり見ている。廓に来る客はたいてい衣裳には張り込むが、持ち物にまでは手が回らないから、本当にお金をもっているかどうかをそれで見分ける。女郎だって、客をお金で値踏みする。
昔から、女郎の誠と卵の四角はないという文句があるのを、ご存知ねえんですかい。
 最後に二つの文章を紹介します。まず、著者の言葉です。
 小説を書く何よりの醍醐味は、妄想の海にどっぷりと浸って、自身の現実にわりあい無関心でいられること。
もう一つは、書評する側の人物の言葉です。
書評をした人間の良心がどこにあるかと問われたら、それは自分の書いたことばに責任を持てるか否かにかかっている。
 なるほど、いずれも、なーるほど、そうだよね・・・・と、つい思ったことでした。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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