弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2007年8月17日

幕末下級武士の絵日記

著者:大岡敏昭、出版社:相模書房
 私も小学生のころ、夏休みに絵日記をつけていたことがあります。ところが、変化のない毎日ですので、何も書くことがなく、苦労した覚えがあります。そして、残念なことに絵も上手ではありませんでした。いえ、下手ではなかったのです。絵をかくのは好きなほうでした。ただ、自分には絵の才能がないということは子ども心に分かっていました。この本は、江戸時代末期に下級武士が自分の毎日の生活を絵と言葉でかいていたというものです。すごいですね。江戸時代についての本は、私もかなり読みましたが、武士が絵日記をつけていたというのは初めてでした。行灯(あんどん)の絵もかいていたというのですから、もちろん絵が下手なわけはありません。劇画タッチではありませんが、当時の下級武士の日常生活が絵によってイメージ豊かに伝わってきます。とても貴重な本だと思いました。
 ところは、現在の埼玉県行田市です。松平氏所領の忍(おし)藩10万石の城下町に住む10人扶持の下級武士、尾崎石城がかいた絵日記です。
 石城は御馬廻役で100石の中級武士だったところ、安政4年、29歳のとき、藩当局に上書して藩政を論じたため蟄居(ちっきょ)を申し渡され、わずか10人扶持の下級身分に下げられてしまいました。ときは幕末、水戸浪士が活動しているころで、尊皇攘夷に関わる意見書だったようです。
 石城の絵日記をみると、毎日、実にたくさんの友人と会って話をしていることが分かる。平均で5〜6人、多い日には8〜9人にもなる。当時は、それだけ人と会うのが密接だった。家にじっと閉じこもっていたわけではなかったのです。
 石城は書物を幅広く読んでおり、自宅には立派な書斎をかまえていた。貸し書物屋が風呂敷に包んだ本を背負って、各家を訪ねていた。石城が読んでいた408冊も日記に登場する。万葉考、古今集、平家物語、徒然草、史記、詩経、五経と文選、礼記、文公家礼などの中国古典もあり、庭つくりの書まであった。
 床の間の前で、寝そべりながら、友人たちと一緒に思い思いの書物を読んでいる姿も描かれています。のんびりした生活だったようです。
 酒宴がよく開かれていたようです。しかも、そこには中下級の武士たちだけではなく、寺の和尚と町人たちも大勢参加しているのです。身分の違いがなかったようです。仲間がたくさん集まって福引きしたり、占いをして見料(3800円)をもらったり、ええっ、そんなことまでしてたのー・・・。と驚いてしまいました。
 酒宴をするときには、知りあいの料亭の女将も加わって踊りを披露したり、大にぎわいのようです。そのなごやかな様子が絵に再現されています。
 茶店は畳に座るもので、時代劇映画に出てくるようなテーブルと椅子というのはありません。
 石城が自宅謹慎(閉戸、へいと)を命ぜられると、友人たちが大勢、そのお見舞いにやってきたとのこと。なんだかイメージが違いますね。友人がお酒1升と目ざしをもってきたので、みんなでお酒を飲んだというのです。
 石城は明治維新になって、藩校の教頭に任ぜられています。独身下級武士の過ごしていた、のんびりした生活がよく伝わってくる絵日記でした。

2007年8月10日

中世しぐれ草子

著者:高橋昌男、出版社:日本経済新聞出版社
 江戸時代には、「南総里見八犬伝」などのようなスケールの大きい小説があります。この本で紹介されるのは、徳川九代将軍家重から次の家治のころ、寛延・宝暦(1748〜1764)に上方で読本(よみほん)なるものが流行し、やがて江戸の空想好きの読書人の心をとらえた。
 本書は、その一つ、「恋時雨稚児絵姿」(こひしぐれちごのえすがた)を現代語に翻案したもの。それが、なかなかに面白いのです。
 ときは鎌倉末期。ところは京都市内外。老獪な堂上公卿や血気の公達が、大覚寺統と持明院統の二派に分かれて策をめぐらし、刃を交える。
 正親町(おおぎまち)侍従権大納言公継(きんつぐ)卿には、右近衛将監(しょうげん)公幸(きんさち)という19歳の息子と、しぐれと呼ぶ姫君があった。
 しぐれが内侍司(ないしのつかさ)の一員として松尾帝のお傍近くに仕えて、主上の眼にとまったとしても、父の公継卿が従三位の権大納言と身分が低いから、源氏物語の桐壺と同様、中宮はおろか、女御より下位の更衣どまりで終わるだろう。そうは言っても、しぐれの局の美貌は、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)のあいだでは評判の種だった。このしぐれをめぐって大活劇が展開していきます。
 私は、この本は、本当に江戸時代の読本の現代語訳なのか、ついつい疑いながら読みすすめていきました。それほど、策略あり、戦闘場面あり、そして恋人同士の葛藤ありで、波乱万丈の物語なのです。すごいぞ、すごいぞと思いながら、ときのたつのも忘れるほど車中で読みふけってしまいました。
 江戸時代の人の想像力って、たいしたものですよ、まったく・・・。
(2007年6月刊。1890円)

銀漠の賦

著者:葉室 麟、出版社:文藝春秋
 第14回の松本清張賞を受賞した作品です。なるほど、なかなかよくできていると感心しました。
 江戸時代の藩内の政治が語られます。百姓一揆もあります。藩主交代による政争があります。いかに英邁な藩主であっても、その子どもが成長すると、安穏ではいられません。息子を藩主として擁立し、父親を早く隠退させようとする勢力が出てきます。
 藩の経済状況の改善も重要な課題です。新田開発、そして、商人の活用が重要な施策となります。しかし、それは商人との癒着を生み、賄賂政治につながります。田沼政治は悪政だったのか、その次の定信の寛政の改革は善政だったのか、難しいところです。
 この本は小説なので、アラスジを紹介するのは遠慮しておきます。印象的にいうと、山田洋次監督の最近のサムライ映画・三部作の原作である藤沢周平の小説をもう少し明るくして、青春時代小説「藩校早春賦」(宮本昌孝、集英社)のイメージをつけ加えた感じです。
 暮雲収盡 溢清寒
 銀漠無声 転玉盤
 此生此夜 不長好
 明月明年 何処看
 日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、銀河には玉の盆のような明月が音もなくのぼる。この楽しい人生、この楽しい夜も永遠に続くわけではない。この明月を、明年はどこで眺めることだろう。
 著者は北九州に生まれ、西南学院大学を卒業して地方紙記者などを経て作家としてデビューしたとのことです。なかなかの筆力だと感心しました。
 ただ、松本清張賞というより直木賞ではないのかと、素人ながら私は疑問に思いました。

2007年7月30日

逝きし世の面影

著者:渡辺京二、出版社:平凡社ライブラリー
 文庫本で600頁の本です。東京からの帰りの飛行機のなかで一心に読みふけりました。なんだか、久しぶりに懐かしい人々に出会ったような、心温まる至福のひとときを過ごすことができました。
 江戸末期から明治にかけての日本人が、おおらかに毎日を楽しく幸せな日々を過ごしていたことを、何人もの海外からの観察者が異口同音に記録しているのです。ホント、うれしくなります。いえ、それは決して都市上層の裕福な町民の生活のことでは決してありません。むしろ、その大半は社会の底辺に住む人々の生活の描写なのです。
 日本人は落ち着いた色の衣服を好む。あらゆる階級のふだん着の色は黒かダークブルーで、模様は多様だ。女は適当に大目に見られており、その特権を生かして、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる。原色のままのものは一つもなく、すべて二色か三色の混和色の、和やかな柔らかい色調である。むしろ、裏に豪勢なものを着こなす。
 日本人の健康と満足は、男女と子どもの顔に書いてある(ティリー。イギリス人)。
 日本人はいろいろの欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる(オールコック)。
 どう見ても、彼らは健康で幸福な民族であり、人々は幸せで満足している(プロシャ使節団)。
 誰の顔にも陽気な生活の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れている。何か目新しく素敵な眺めにあうか、物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めているとき以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている(ヘンリー・S・パーマー。イギリス人)。
 この民族は笑い上戸で、心の底まで陽気である。日本人ほど愉快になりやすい人種は、ほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして、子どものように、笑いはじめたとなると、理由もなく笑い続ける(ボーボワル)。
 日本人は話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人には生まれつきそういう気質がある(オイレンブルク使節団)。
 無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思がある(ブラック)。
 江戸庶民の特徴は、社交好きの本能、上機嫌な素質、当意即妙の才である。庶民の著しい特徴は、陽気であること、気質がさっぱりしていて物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫であること(アンベール)。
 人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがいい(ハリス。アメリカ人)。
 日本の下層階級は、おそろしく見たがり屋、聞きたがり屋だ(ジェフソン・エルマースト)。
 どうでしょうか。現代日本の社会に残念ながら失われてしまった雰囲気ではありませんか。人々が今よりもっとおおらかに毎日を暮らしていた、そういうことですよね。
 家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使いにとっては美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならない。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
 日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。
 今どき召使いと言われてもあまりピンときませんが、会社員と置きかえたら、これって今も通用しているものでしょうか。私には、かなり疑問に思えます・・・。
 離婚は、日本では異常な高率を示しているが、これは女性の自由度を示すものである。離婚歴は女性にとって何ら再婚の障害にはならなかった。その家がいやなら、いつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
 日本の女性は外国人に対して物おじしない。夫人の洋服を着たがり、自分の洋服姿に大満足だった。
 江戸時代の女性は、たとえ武家であっても飲酒喫煙は自由だった。たてまえは男に隷従するというものであっても、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であった。
 日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、2、3の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見いだしていることだ。
 私の法律事務所では、幸いにして笑いが絶えません。深刻な相談に乗っているときなどには、笑い声が聞こえてくると場違いな雰囲気になって、相談者に申し訳なく思うことがあります。それでも、私にとってはストレス発散になって、ノイローゼから免れることができる利点があります。

2007年7月20日

江戸の躾と子育て

著者:中江克己、出版社:祥伝社新書
 江戸の親たちは、子育てに熱心だった。その証拠に、じつに多くの育児書や教育書が出版され、さまざまなことが述べられている。
 赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人(めのと)やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない。
 これには私もまったく同感です。子どもたちが赤ん坊のころ、私もせっせと話しかけたものです。おかげで、表情が豊かになったと私は考えています。
 江戸時代の子どもたちは、たいそう本好きで、子ども向けの本も数多く出版された。部数はよく分からないが、当時の日本は出版王国といってよいほどで、江戸時代に6万点から7万点の本が出版された。
 文化年間(1804〜1817)のころ、京都に200軒、江戸に150軒の出版元がいた。その多くは、出版と卸・小売を兼業していた。当時は1000部も売れるとベストセラーだった。それだけ読書人口が多かった。庶民の識字率が高く、知的好奇心も強かったことによる。
 子ども向けの本は赤本と呼ばれた。表紙が赤色だったからで、中身は挿絵と短い文章を添えた絵本だった。値段は安く、宝暦年間(1715〜63)で5文(125円)、享和年間(1801〜03)には10文(250円)した。当時、屋台のかけそばは一杯16文   (400円)だから、はるかに安い。
 識字率は、江戸市中では男女ともに70〜80%、武士階級は100%。幕末期の江戸には1500の寺子屋があった。享保6年(1721)には、800人の師匠がいた。生徒が200人いたら、師匠は俸禄20石の下級武士並みに生活できた。教科書は「往来物」と呼ばれ、7000種類もあった。うち1000種は女子用である。
 農民の子どもたちは、「農業往来」「百姓往来」「田舎往来」によって農業を学んだ。
 漁村用には「浜辺小児教種」船匠用には「船由来記」があった。
 すごいですよね。江戸時代の人々って、現代日本人とあまり変わらないっていう気がしますよね。ところで、いわゆる大検(大学入学のための検定試験)がなくなったそうですね。私の知人の塾教師から教えてもらいました。これまでは大検受験のために勉強している高校を中退した若者などを相手に教えていたのが、大検がなくなったので、その分野の生徒が来なくなって困っているということでした。高校卒業の認定で足りるようになったけれど、予備校が高校認定を受け、レポート提出で足りるという運用をしている、とのことでした。本当にそんなんでいいのかな、と不安に思ってしまいました。
 いま、我が家の庭に咲いているのは、黄色いカンナ、モヤモヤとしたピンクの合歓(ねむ)の木、ヒマワリ、淡いピンク色と白のエンゼルストランペット、そして、淡紅色のサルスベリです。台風で少し倒れたせいもあって、キウイの雌の木を大きくカットしました。その足元にひ弱なキウイの雄の木があります。雄の木はこれで5代目です。今度こそ大きくなってほしいのですが・・・。

薩摩スチューデント、西へ

著者:林 望、出版社:光文社
 あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
 明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
 外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
 若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
 船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
 この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
 その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
 イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
 かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
 雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。

2007年6月29日

天保暴れ奉行

著者:中村彰彦、出版社:実業之日本社
 天保の改革は老中であった水野忠邦が試みたものですが、途中で挫折しています。そのころ、水野忠邦に歯向かった江戸南町奉行がいたというのです。矢部定謙(さだのり)と言います。遠山金四郎と同じ頃の江戸町奉行です。
 長編時代小説ということですので、どこまでが史実なのか分かりませんが、小説としてもなかなか面白く、本のオビに「気骨の幕臣」がいたとありますが、なるほど、そうだなと本を読んで思いました。
 この本の面白いところの一つは、大人になって筋を通し抜いた定謙が、実は、子どものころは、父親からほとんどサジを投げられていた怠け者だったということです。堪え性のない気性だったのです。
 定謙は、小姓番組に加わって登城すると先輩たちから理不尽ないじめにあいます。江戸時代もいじめはかなりひどかったようです。自殺したり殺しあいがあったりしていました。
 新参者いじめに定謙は仕返しをし、番頭に報告して辞表をでしたしまうのです。たいした度胸です。
 ところが、定謙は、次に徒組(かちぐみ)に登用されました。徒組は、将軍の影武者となる役目を担っていた。徳川将軍は、平時も非常時も、徒組20組、計600人の影武者たちに守られて行動することになっていた。
 定謙は、火付盗賊改(あらため)を文政11年(1828年)から天保2年(1831年)まで、2年半つとめた。そして次に堺奉行となった。さらに、大坂西町奉行となり、そこで大塩平八郎を知った。このころ、大坂には、三郷借家請け負い人という制度があった。商売人が借金を返せなくなったとき、長屋住まいをしながら再出発するといシステムである。私は、このシステムについて前から知りたいと思っています。どなたか、専門に研究した本をお教えください。
 大塩平八郎と親密な交流をしたあと、定謙は江戸に戻り、勘定奉行に登用されます。見事なまでの出世です。役高3千石、役料として700俵、御役入用金として300両が支給される。朝は午前5時に出勤する。午前9時には御殿勘定所にいなければいけない。大変な激務のようです。
 このとき、大坂で大塩平八郎の乱が起きました。大塩平八郎に対する幕府の判決文に対して、定謙は水野忠邦に文句を言います。罪名を反逆とせず、大不敬の罪に処すべきだと提言したのです。怒った水野忠邦は、定謙を勘定奉行から罷免してしまいます。ところが、やがて水野忠邦は定謙を江戸南町奉行に任命するのです。人材不足からでした。
 しかし、水野忠邦の改革にタテつく定謙は、やはり罷免されてしまいます。そして、桑名藩に預けの身となり護送されるのです。そこで水野忠邦への抗議の意思表示として絶食をはじめ、49歳の若さで諫死してしまいました。
 定謙が「大岡裁き」のようなことをしたという話がいくつか出てきます。これはフィクションなのでしょうか・・・。

2007年6月 8日

写楽

著者:中野三敏、出版社:中公新書
 ご存知、東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1795年)から7年にかけての、わずか10ヶ月ほどに百数十点の役者絵と数枚の相撲絵を残し、忽然と姿を消した。その写楽の正体を追求する本はたくさんありますが、著者は写楽が阿波藩士の斎藤十郎兵衛であることを立証します。
 なるほど、ここまではっきり断言されたら、そうだろうなと思わざるをえません。
 天保15年(1844年)の『浮世絵類考』に「俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也」とある。さらに、文化・文政期に成立した『江戸方角分』にも写楽が八丁堀地蔵橋住と書かれている。そして、八丁堀切絵図には、阿波藩能役者の斎藤与右衛門がいたことも判明した。そこで、与右衛門と十郎兵衛とが同一人物なのか、そしてその人物が浮世絵師であるのかが問題となる。
 「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」によると、斎藤家は代々、与右衛門と十郎兵衛とを交互に名乗ってきた家柄であることが分かる。つまり、親が与右衛門なら、子は十郎兵衛であり、孫は与右衛門となる。
 大名抱えの能役者の勤めは、当番と非番が半年か1年交代であり、謎の一つとされた写楽の10ヶ月だけの作画期間は、その非番期間を利用したものとみると納得できる。
 さらに、江戸時代に築地にあった法光寺が、今は埼玉県越谷に移転しており、そこの過去帳に寛政期の斎藤十郎兵衛の没年月日が発見された。そこには、「八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十郎兵衛、行年58歳」とある。
 「方角分」が写楽の実名を空欄にしたのは、写楽こと斎藤十郎兵衛が、阿波藩お抱えの、たとえ「無足格」という軽輩とは言え、歴とした士分であったことによる。
 役者絵というものは士分の者の関わるべからざる領域であり、たとえ浮世絵師であろうとも、志ある者にとってはそれに関わることを潔しとしないというのが江戸の通年であった。10ヶ月も小屋に入りびたって、役者の生き写しの奇妙な絵を描いている写楽という絵師が、実は五人扶持切米金二枚取りの無足格士分で、阿波藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であることを知悉していたからこそ、あえて、その実名を記さなかった。
 十郎兵衛自身の口から、我こそは役者絵描きの写楽にて御座候ということは、口が裂けても言えることではなかった。公辺に知れたら、自身の身分を失うだけではすまず、ひいては自らの上役、もしかすると抱え主である藩主にまで、その累が及ぶやもしれない事態であった。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
 ここまで論証されると、写楽とは誰かというのは、今後は単なる暇(ひま)人お遊びにすぎないように思えますが、どうなんでしょうか・・・。

2007年5月30日

天草島原の乱とその前後

著者:鶴田倉造、出版社:上天草市
 日本にキリスト教が伝えられたのは天文18年(1549年)、天草に伝えられたのは永禄9年(1566年)、さらに大矢野に伝えられたのは21年後の天正15年(1587年)のこと。すでに40年ほどたっており、早いほうではない。
 天草四郎は大矢野関係の人物であり、乱を企画し推進したとされる浪人たちも大矢野の千束(せんぞく)島に住んでいた。
 天草島原の乱の直接のきっかけは、口之津で信者が唱えごとをしていたときに、代官の林兵左衛門が御影を引き裂いたことにある。
 天草島原の乱に、小西・有馬・天草5人衆などの関係遺臣が多数いたのは紛れもない事実である。
 当時は数年にわたって天候異変が続いて連年の凶作だった。この異常気象は寛永9年ころから続いていた。寛永14年(1637年)にも異変が続いている。夏には干魃で、不作。5月に火の玉が天空を飛行、7月には江戸で激しい雷雨と地震、9月に高野山で火事、9月から10月にかけて連日、雲が真っ赤に焼けた。将軍家光は病気。人々は異常心理に陥った。
 このように地獄のような社会になったのは、先のキリシタン改めで自分たちが転んだために、天国の神様が怒っておられるせいだ。そのつぐないのためにキリシタンに復宗する必要がある。人々は浪人たちの策動に乗せられた。
 島原半島の各地では、主として領主の苛政に対する反抗が強かった。四郎を中心とする天草地方では、キリシタンの立場から、その救済のために立ち上がった。
 天草四郎の父は益田甚兵衛(ペイトロ)という長崎浪人で、乱の当時、宇土の江部村の庄屋次兵衛の脇屋に住んでいた。年齢は56歳。四郎の母は50歳で、マルタという。日本名は不明。四郎は長崎に生まれた。乱の当時、15歳か16歳。父も母も大矢野の出身で、親族も多かった。四郎が長崎で出生したのは、当時、長崎は各地で迫害にあったキリシタンたちの避難地になっていたからである。
 天草四郎と対面した久留米の商人がいる。その名を与四右衛門という。
 四郎のいでたちは、常の着物の上に白い袴をつけ、たっ付け袴をはき、頭には苧(からむし)を三つ組にして緒(お)をつけ、喉の下で結び、額には小さい十字「クルス」を立て、手には御幣をもっていた。
 幕府軍の一員として原城を攻めていた武士による天草四郎の姿は次のとおり。これは大坂から鉄炮奉行として松平信綱に従っていた鈴木重成が大坂へ送った書状にある。
 天草四郎は年齢15、6歳という。原城にいる者はあがめており、六条の門跡(もんぜき)よりも上という。下々の者は頭を上げて見ることもできないほど恐れている。
 籠城中の原城に対して、松平信綱は降伏をうながす矢文を送った。それに対して城内から次のような返事があった。
 城を出たら家や田畑をくれるというけれど、我々には広大無辺の楽土が約束されているので、そんなものは必要ない。まして、江戸や京都の栄華・悦楽は、かえって業障の障りになる。
 ともすれば恨み言の一つも並べたくなるような切迫した状況におかれながら、宗教の神髄を会得し達観していたと思われる矢文の返事である。
 ただし、原城内には、このようにキリシタンの作法に従って、すべてを許し喜んで死んでいこうとする者と、せめて領主の長門守に一矢を報いようとする者の両派があった。城内は、一枚岩ではなかった。城からの落人も、城内には3人の頭(かしら)がいて、争いが絶えないと証言した。
 天草四郎は総攻撃のあった2月27日の翌早朝に幕府軍に討ち取られた。四郎の首は「カネを入れた色白の綺麗な首」だったと書かれている。カネを入れるとは、鉄漿(おはぐろ)のことで、当時は、高貴の人は男もカネを入れていた。
 天草四郎の首は上使の実見の後、原城外に札をつけて晒(さら)され、のちにさらに四郎の生まれた長崎に移して1週間晒された。3月6日、四郎の母や姉らが処刑された。
 天草四郎の島原の乱について、上天草市が市史としてまとめた本です。島原の乱について、いろいろ勉強になりました。

2007年5月17日

真説・阿部一族

著者:升本喜年、出版社:新人物往来社
 森鴎外の『阿部一族』は読みましたが、もう何十年も前のことですので、『五重塔』は最近再読しましたから記憶に新しいのですが、ちっとも覚えていません。ただ、同じ肥後藩士の阿部一族に襲いかかった苛酷な運命を描いたというので読んでみました。武士の世界も大変なんだとつくづく思いました。山田洋次監督の武士三部作映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」を思い出します。ああ無情という感じです。
 時代は江戸時代初期。寛永14年(1637年)、島原の乱が始まった。肥後熊本藩の細川軍は攻撃軍のなかで最大の損失を蒙った。戦死者270人あまり、戦傷者1800人。
 阿部一族の当主、阿部弥一右衛門は、豊前国宇佐に土着し、勢力をはる豪族だった。細川忠利の父・細川忠興が慶長5年、豊前の領主に封じられた。領内の土豪たちの強大な存在をみて、逆利用することにした。
 その後、細川忠利は肥後に封じられ、阿部も一緒に豊前から移った。このとき知行100石(すぐ300石)の武士となった。肥後は、秀吉でさえ「難治の国」といったほどの大国である。幕府は忠利の肥後入国にあたり、小倉城から武具や玉薬の一切を持ち出すことを許しただけでなく、大阪城から石火矢3、大筒10、小筒1000、玉薬2万を出した。肥後は「一揆どころ」といわれるほど一揆の多い国として知られた。惣庄屋だけでも100人以上いる。土豪あがりのほか、大友、小西、加藤の遺臣もいる。細川氏に反発し、簡単に心を評するとは思われない。そこを忠利は治めた。阿部も力を尽くした。
 その殿様・忠利が病死した。その直前、殉死を禁ずると言い渡していた。だから、阿部も殉死する気はなかった。それに忠利の子・光尚は殉死を禁じた。
 忠利亡きあと、阿部のように忠利に眼をかけられて取立られていた者と細川藩譜代の者たちの対立が目立ってきた。ところが、忠利は実力第一主義で、実力のある者なら、家柄や血統などに関係なく眼をかけ、思い切って仕事をやらせ、大胆な抜擢も断行するし、十分の待遇も惜しまない。多少、性格に欠陥があったり、悪い前歴が多少あったりす者でも、能力があり、ひたむきに働く者であれば、その者を認め、眼をかけた。反面、肩書きだけで実力のない者や積極性のない者は極端に無視し、冷遇した。だから、無視された方には、嫉妬と怨念が蓄積する。反動が来るのも当然だ。
 阿部弥一右衛門が忠利の遺訓を守って切腹しないことに対して、怨みをもつ者たちが嘲笑しはじめた。「卑怯者」「臆病者」「あれは百姓だ」と・・・。さすがの弥一右衛門も耐えきれない。
 光尚は熊本城に初登城したその日に、弥一右衛門が殉死したとの報告を受けた。なんたること、言語道断。家臣としてあるまじきこと。怒りを抑えきれない。
 殉死者19人の相続人全員が登城して、相続を許された御礼を光尚に言上した。跡式相続が内定してから、もう二ヶ月目に入っているが、このお目見えがあって、はじめて相続の正式決定となる慣わしだ。阿部権兵衛は、このとき、相続人代表として言わずもがなのことを光尚に申し立てた。
 光尚の下で権勢を誇る林外記にとって、今や阿部一族は邪魔者としかうつらない。これをたたきつぶせば、他の者への見せしめになる。ついに阿部一族みな殺しが決まった。討手総数17人が選ばれた。
 夜明け前からの討ち入りが終わったのは午後3時過ぎ。阿部一族全員が殺された。その討ち入りの凄惨な情景が活写されています。映画でも見ているような感じです。
 ところが、まもなく光利が31歳の若さで倒れた。阿部一族が誅伐されて6年目のこと。林外記は無用の邪魔者となった。そして、早朝、四人組に襲われて、林外記は討ち果たされてしまった。
 阿部一族の忠実をふまえた小説です。なかなか迫力がありました。因果はめぐるという話になっています。森鴎外の小説は忠実と違うところがあるという指摘もあります。

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