弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2018年7月21日

江戸の骨は語る

(霧山昴)
著者 篠田 謙一 、 出版  岩波書店

2014年7月、東京の「切支丹屋敷跡」から3件の人骨が発見された。
新井白石が尋問し、藤沢周平が『市塵』に描いた江戸時代の潜入宣教師シドッチの人骨ではないのか・・・。
この謎を解いていくスリリングな過程が生き生きと描かれていて、人体をめぐる科学の進歩・発達を実感させてくれます。結論を先取りすると、今のDNA鑑定は、人骨となった人物がイタリアの中部地域に居住していたというところまで特定できるのです。ですから、そこまで判明したら、当然のことながら、その人骨はイタリア人のシドッチだと特定されます。
徳川幕府によるキリスト教信者の弾圧が強まり、潜入・潜伏していた宣教師たちが、あるいは残酷に処刑され、また棄教(ころび)していった。それを知ったローマ教皇庁は、日本への宣教師の派遣をついに断念した。
シドッチは、切支丹屋敷に幽閉されたものの、年に銅25両3分と銀3匁(もんめ)ずつを支給され、拷問もなく過ごした。しかし、4年後の1713年に、シドッチの世話をしていた長助とはるという夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したため、3人とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチは、10ヶ月後の1714年に47歳で衰弱死した。
シドッチが切支丹屋敷内に埋葬されたというのは、キリスト教関係者の間では広く知られていた。そして、実際に、その切支丹屋敷内から3件の人骨が保存状態も良く発見されたのです。では、本当にシドッチたちか、どれがシドッチか・・・。その探索が始まります。
東京の地下は、土質が粘土質で、嫌気的な環境が保たれやすいので、人骨は残りやすい。九州では、地面の下から人骨が消失していくのに対して、関東では、地面にしみ込んだ雨水が人骨を溶かすので、上面にあたる部分から骨が消失していく。
古代人骨のDNA分析では、歯の内側の空所である歯髄腔の内側面を削り、内部の象牙質を用いることが多い。
古代の人骨のなかで、最もDNAをふくむのは、頭骨の内耳の周辺の骨。人骨中に残るDNAの保存に関しては、水は大敵。酸性に傾いた日本の土壌では、しみこむ水も酸性を示し、骨中に残るDNAを破壊する。
DNA分析の技術の進展がこの人骨をイタリア人であると断定できるまで進んだタイミングで発掘されたことになる。
江戸時代の男性の平均身長は156センチ。ところが問題の人骨は身長が170センチをこえている。
シドッチの遺骨が発見されたのは、没後300年という節目(ふしめ)の年であり、2014年は日本とイタリア修交150周年でもあった。
すごいですね、人骨がイタリア人であることを確実に断定できるまでDNA分析ができるとは・・・。
(2018年4月刊。1500円+税)

2018年7月13日

原城の戦争と松平信綱

(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂

これは面白い。ワクワクしながら読みすすめました。わずか150頁もない本なのですが、じっくり精読したため、私としては珍しく半日もかかって読了しました。
表紙の絵は島原の乱に出動した秋月藩の活躍ぶりを描いた屏風の一部です。わざわざ秋月にまでいって現物を見る価値のある屏風絵です。島原の乱の100年後に描かれたものではありますが、悲惨な原城の戦場が実にリアルに再現されていて、資料的価値は高いとされています。
この本の何が面白いかというと、島原の乱で抜け駆けした佐賀・鍋島藩主が将軍家光から特別表彰までもらったのに、一転して幕府の法廷で、被告席に立たされ、よくて国替え、あるいは藩としての存続すらあやぶまれる事態になったのです。将軍家光は熊本の加藤家の取りつぶしを断行した実績がありました。なぜ、そんなことになったのか・・・。
ここで、42歳の松平信綱が登場します。「知恵伊豆(ちえいず)」とまで言われるようになったのは、まさしく、この島原の乱の陣頭指揮と、その後の軍法裁判で将軍家光を巻き込んだからなのです。
それにしても、将軍家光が臣下(老中です)の邸宅に出かけ、信綱と夜を徹して語り明かし、朝帰りしたということまで記録がのこっているのですね。これって、毎日の新聞に首相動静が記事になっているのと同じです。
何を一晩、家光と信綱の二人は語りあったのか・・・。島原の乱の抜け駆けを軍法裁判にかけると同時に、先代からの老中たちをいかに辞めさせるのか、語りあっていたようです。
つまり、親子といえども、将軍が代替わりすると、親の将軍の取り巻きの老中たちは、新しく将軍になった子ども将軍にとっては、まさしくうっとうしい存在であって、それに替えて幼いころから周囲にいた気心の知れた者たちを老中にして、名実ともに実権を握りたいというわけです。
ところで、家光はこのころうつ症状にあったとのことです。そんなことは初耳でした。
原城に籠った一揆勢は、板倉重昌は総攻撃を強行して失敗し、取り残されたところを一揆勢に殺されてしまったのでした。そこで、今度は負けられないとして信綱は総攻撃の日を設定し、抜け駆けは許さない、抜け駆けしたら軍法裁判にかけると明言していたのでした。ところが、ここで幕府に恩を売ろうと考えた鍋島藩勢は前日に戦を仕掛けたのです。鍋島勢が抜け駆けしたのは総攻撃予定の前日でした。その状況を見て、慌てて他の軍勢も出撃し、幸運にも天草四郎を見つけ出し、首をはねたというわけです。
では、何が問題なのか・・・。決められた出撃予定を日になっていないのに、鍋島勢は二の丸を攻めはじめたのでした。では、なぜ、いったん家光が特別に鍋島軍勢を賞賛したのか。それには筆頭老中の土井利勝がからんでいます。土井利勝は鍋島藩主とは深い関係にあり、加増まで画策していました。
でも、戦場では臨機応変に機を見て予定を変更して突入すべきときがある。理屈ばかり言うな・・・。そんな声も出たようです。たとえば、有名な大久保彦左衛門も、その一員でした。なるほど、戦場では予期せぬことも起きるでしょう。でも家光の威光をバックとした信綱は、ひるまずに先輩老中の抵抗をはねのけ、軍法裁判の開催にこぎつけました。結局、家光将軍の下した裁判の結論は予想以上に軽かった。
前将軍・秀忠時代の重臣(土井利勝ら3人の老中)は、新将軍・家光の時代が動いていくときに邪魔になるということです。幕府の上層部における権力抗争、将軍を巻き込んだ派閥抗争の様子が活写され、果たしてこの軍法裁判はどうなるのか、頁を繰るのももどかしいほどでした。将軍って、必ずしも独裁者ではなかったのですね。この事件のあと、いよいよ老中たちによる集団指導体制が固まっていったようです。
江戸時代初期の幕府の内情を知ることができました。ご一読をおすすめします。
(2017年11月刊。1500円+税)

2018年7月 8日

北斎漫画3


(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎

「奇想天外」編です。よくも、これだけの絵が描けたものです。まさしく北斎は天才画家というほかありません。
ところが、この本の解説によると、北斎は同時代の江戸の人々からは、それほど高い評価を受けていませんでした。日本では、北斎は「卑しい絵描きだ」と言われ続けてきた。「六大浮世絵師」のランクでは、上から鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東州斉写楽、歌川広重そして葛飾北斎だった。
浮世絵師が評価されていなかったって、意外ですよね。今では、北斎は、「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」だと評価されています・・・。
北斎は、75歳を過ぎてからは、いわゆる浮世絵師ではなくなっている。
北斎は、とにかくありとあらゆるものを描こうとしていた。目には見えない、幽霊や鬼や化け物も描いている。
北斎は、ある意味、日本人離れしている。
北斎は、模倣の天才だったし、真似ることそれ自体が創作活動だった。自分自身も模写している。
北斎は、90歳で死の床に就いたとき、神様に「あと10年ください」と命乞いをしている。「宇宙の真理をつかんで、真の画家になるために、もう少し長生きさせて下さい。10年が無理なら、せめて5年でもいいから・・・」
この3巻のテーマは「奇想天外」なので、宗教的画題、幽霊、妖怪などがふんだんに登場しています。そのひとつひとつに豊かな表情があるので、見ていて飽きることがありません。やはり北斎は天才としか言いようがないことを、ひしひしと実感するのです。
(2017年11月刊。500円+税)

2018年7月 2日

潜伏キリシタン村落の事件簿

(霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  清文堂

まったくのオドロキです。福岡の筑後平野に今村天主堂があり、最近も『守教』(帚木蓬生)という小説になりました。大刀洗町の今村地区は江戸時代を通じて、ずっと切支丹として村ごと維持してきたのでした。
同じことが天草でも起きていたのです。しかも、その信者の規模は少なくとも5千人だったのです。幕府への公式報告書には6千人とされていました。そして、なんと、一人も刑死者を出していないというのです。信じられません。
島原の一揆のあとでも天草に、それだけのキリスト教信者がいることを知って、幕府当局は事なかれの穏便な処理方針をとったのです。なぜか・・・。
私も天草には行ったことがあります。エイのヒレ(エイガンチョと呼びます)を食べた覚えがあります。そして、今ではイルカ・ウオッチングで有名ですし、恐竜の化石が出たところでもあります。ですから、また機会をつくって天草に行ってみたいと考えています。
江戸時代の後期、文化・文政のころ、19世紀にさしかかるころです。肥後国天草郡の最大の島、下島西海岸の村々で5千人をこえる潜伏キリシタンの存在が明るみに出た。いま、天草氏にある大江天主堂の近くの天草ロザリオ館には、数多くのキリシタン遺物が展示されている。それは天草の村人たちが「隠れ部屋」をつくって、キリシタン信仰を守り続けてきた、何よりの証拠である。
最後のバテレン(宣教師)、斎藤パウロが寛永10年(1633年)に天草の上島の上津浦で捕まった。
なぜ、天草にキリシタン信仰が根づいていたのか。それは、貧困と貧富の格差がひどかったからだ・・・。
天草の人口増加はすさまじい。万治2年(1959年)に1万6千人だったのに、寛政6年(1799年)に11万2千人、文化14年(1817年)には13万2千人となった。
全国的にみると、江戸後期の人口は微増でしかなかったのに、天草の人口増加は驚異的である。これもカトリックの影響でしょうか・・・。
潜伏キリシタンは、仏教を信仰する「正路の者」と日常生活をともにし、仏教関係の行事をこなしつつ、その裏でキリシタンだけの信仰生活を送っていた。
潜伏キリシタンは、7日間を区切りに生活し、7日目を「ドメンゴ」(ドミンゴ、日曜日)と呼んで、仕事を休み、神に祈りをささげた。
天草を統治する島原藩の基本方針は、「5千余」の潜伏キリシタンを処罰せず、もとの状態、仏教信仰の「正路」の状態に戻すというもの。そのため、性急な取り調べをせず、余裕をもって、柔軟に対処していくことにした。
なぜ、そうしたか・・・。急に村民を吟味(ぎんみ)すると、徒党、逃散などの騒動が起きたり、村つぶれになったりするので、気長に取り扱えという。要するに、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」と同じで、百姓を確保しておきたかったのでしょう。
幕府も潜伏キリシタンの処遇には困った。結局、5千人もの潜伏キリシタン5千人全員が、その罪を問われることはなかった。それどころか、対処にあたった関係者は幕府から褒賞(ほうしょう)された。時代は変わった・・・。
5千人とも6千人ともいう天草の潜伏キリシタン(実は、もっといたようです)は、藩当局から黙認されていたというわけです。そのおかげで、このような文献を読むことができました。
(2017年11月刊。1800円+税)

2018年6月12日

潜伏キリシタンは何を信じていたのか


(霧山昴)
著者 宮崎 賢太郎 、 出版  角川書店

筑後平野の真只中に潜伏キリシタンがいて、明治になって名乗り出て、今では今村地区に壮大なカトリック教会堂がそびえ立っています。踏み絵だとか五人組という厳しい試練をくぐり抜けて江戸時代も信仰を捨てず、現代に続いているのです。信じられない奇跡です。帚木蓬生の『守教』は、今村地区の潜伏キリシタンの存在(存続)をテーマにしています。
この本は同じように江戸時代を生きのびた長崎県の潜伏キリシタンを分析しています。長崎県の生月(イキツキ)島などでは、今もカクレキリシタンのまま信仰を続けている人たちがいます。しかし、それも次第に減っています。
カクレキリシタンが350年以上の時を隔てて今日まで続いてきたのも、日本仏教とまったく同じ受容と土着の原理にしたがって、日本の諸宗教の中に溶け込んでいったからだ。キリシタンを隠れ蓑として、仏教というスタイルを用い、先祖に対する篤い信仰を守り通してきたのだ。カクレキリシタンはオラショの言葉の意味を理解して唱えていたのではなく、ありがたい呪文として唱えていた。
当時の人々がキリシタンに改宗したのは、それまで日本人がおすがりしてきた諸々の神仏の上に、さらに効き目のある、何でも願いごとをかなえてくれそうな南蛮渡りの「力あるキリシタンの神」を、ひとつ付け加えたに過ぎなかった。つまり、従来の神仏信仰の上に、さらにキリシタンという信仰要素をひとつ付け加えたに過ぎなかった。
 領主たちはポルトガル船から期待される収益のために、領民を強制的にキリスト教に改宗させた。
キリシタン思想をある程度まで、理解できた日本人は、京阪地方を中心とした一部の知識人層のみだった。そして、キリシタン弾圧が始まると、まず多くの武士層や知識人層が放棄した。
長崎県下のカクレキリシタンは、昭和60年代初めに400~500軒、1500~2000人ほどだった。現在では、激減して120軒(厳密には80軒)ほどでしかない。
カクレキリシタンにとって、仏教や神道は、キリシタンであることを隠すためのカモフラージュではなく、この三つの要素が完全に一つとなり、三位一体のような形をとって、これまで続いてきた。カクレキリシタンの信仰対象は先祖が命かけて今日まで伝えてきたもの。大切なのは、それが何かではなく、誰が大切なものとして伝えてきたか、ということ。カクレキリシタンは、ごく当たり前の仏教徒として、また神道の氏子として、その努めを果たしてきた。
17世紀はじめの日本にキリスト教信徒が45万人ほど、人口の3%ほどいた。現在、日本のキリスト教カトリック信徒は44万人ほど。まったく同じだけど、人口比率では0.34%でしかない。プロテスタント(合計57万人)を含めても0.81%でしかない。
キリスト教系の大学はたくさんあるのに、日本人のキリスト教信者が一向に増えないのはなぜなのか・・・・。
宗教とは何か、など、いろいろ考えさせられる本でした。
(2018年2月刊。1700円+税)

2018年6月 3日

北斎漫画2

(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎

漫画といっても、いわゆるマンガではありません。「漫然と描いた画」だというのですが、実際には、なかなかどうして、とても精密な絵のオンパレードです。
北斎は、一瞬をとらえ、それを一瞬のうちに描き切っている。
19世紀にヨーロッパで巻き起ったジャポニズムのきっかけをつくったのは浮世絵、なかでも「北斎漫画」だった。
北斎は、独立したときに自分の師匠は「造化」だとした。「造化」とは、「天地万物を動かす道理」のこと。北斎が生涯かけて求めていたのは「造化」であり、世の真理だった。誰も気に留めないような、画題になりそうもない日常風景までもが北斎の「師」だった。
北斎は、当時の町人としては、破格の知識人だった。北斎は、西洋画(油彩画)。知識や技術を知っていた。
北斎は、画面手前の描き方は墨絵(すみえ)の中国的な描き方、全体の構図は西洋の透礼画法(三ツ割りの法)、人物は大和絵の伝統的なテクニック、背景の山並みは絵の具を重ねて塗る油絵独特の描き方で描いた(潮干狩図)。
北斎は、実際には関西までしか行っていない。しかし、「琉球八景」というシリーズも描いている。
この第二巻「森羅万象」では、「自然博物図鑑」とでも言うべきように、ありとあらゆる生き物を詳細にかつ生き生きと描いています。そのすごさは筆舌に尽くしがたいものがありますので、ぜひ手にとって眺めてみてください。
(2017年8月刊。1500円+税)

2018年5月12日

勘定奉行の江戸時代

(霧山昴)
著者 藤田 覚 、 出版  ちくま新書

江戸時代というと身分によってガチガチに固まっている窮屈な社会だったというイメージがありますが、その実態は必ずしもそうではなくて、運と能力次第では、かなり上の役職・身分までのぼりつめることも出来ていたようです。
能力が求められるという点では、江戸時代の勘定奉行は、その筆頭に来ます。なにしろ破綻しかけている幕府財政をなんとか立て直すという課題について、父子相伝のボンクラ頭でつとまるはずはありません。
江戸時代は、福沢諭吉が「親のかたき」と言ったような厳しい身分制・家格制でガチガチに固められていたとみられがちだ。なるほど基本的にはそうだったけれど、勘定奉行をみてみると、必ずしもそれだけではなかった。
勘定奉行の第一の特徴は、職掌のように幅が広く、しかも職務が重要なことにある。幕府財政の運営、全国の交通体系の維持、裁判の運営、さらには三奉行の一員として江戸幕府の重要な政策・意見決定に参画していた。
勘定奉行は、それほど江戸幕府の重職・要職だった。
勘定所内部の職階を上ってトップの奉行に昇進した人が、少ないとはいえ、10%いた。この事実こそ、勘定所の昇進システムの特異なところであり、重要なことだった。このように、勘定所の職員が内部昇進する仕組は、幕府の重要役所として異例なことだった。
なるほど、なるほど、と思いながらあっというまに読了しました。
(2018年2月刊。780円+税)

2018年4月 9日

北斎漫画(1)

(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版  青幻舎

江戸時代を生きていた日本人がどんな生活をしていたのか、ビジュアルに分かる漫画です。
「北斎漫画」は葛飾北斎(1760~1849)が弟子たちに絵の手ほどきをするための教科書として描いた絵手本。弟子はかりでなく、一般の庶民にも親しまれ、江戸時代のベストセラーとして、10編で完話しても、さらに続編が続き、ついに15編がプラスされた。
ただし、その15編完話編が出版されたのは明治11年といいますから、なんと西南戦争の翌年なのです。もちろん北斎自身は30年近く前に亡くなっています。
「北斎漫画」の総ページ数は970。図版は4000をこえる。
人物、動植物、風俗、職業、市井の暮らしぶり、建築物、生活用具、名所、名勝、天候、故事、説話、妖怪、幽霊と百科事典さながら。
この第一巻は、「江戸百態」として、市井の人々の姿や風俗、生活用具や建物などの江戸の日常が描かれている。
「北斎漫画」は19世紀後半にヨーロッパで巻きおこったジャポニズム旋風の引き金となった。かのシーボルトは、「北斎漫画」をひそかにオランダに持ちかえったとのことです。
江戸時代の後期には、江戸だけで学術書を扱う出版社が70軒、娯楽性の高い絵草紙などを扱った出版社が150軒あった。そして、600軒以上の貸本屋があり、本が買えない庶民でも、気軽に読書できる状況がつくられていた。
子どもたちが将棋をして楽しんでいる絵もあります。
人々が農作業をしていたり、また旅姿の人々がいます。日本人は昔から旅行大好き民族だったことがよく分かります。
私も江戸時代のことについては、いろいろ本を読んできましたが、やはりこのようなイメージをしっかりもちながら、江戸時代の社会を論じる必要があると思ったことでした。少々値がはりますが、読む価値は十二分にあります。
(2017年10月刊。1500円+税)

春らんまんの候です。形も色もとりどりのチューリップが全開、青紫と紅いアネモネと美を競っています。シャガの白い花、白いなかに黄色の気品あるアイリスも咲きはじめました。足元にはピンクのシバザクラも地上を飾っています。
春の味覚、アスパラガスが昨日にひき続いて今日も一本、収穫できました。

2018年3月24日

東大教授の「忠臣蔵」講義

(霧山昴)
著者  山本 博文 、 出版  角川新書

 私が生まれたのは「師走半ばの14日」です。つまり、赤穂浪士の討入りの日です。とはいっても、今のカレンダーでいえば2月になるのでしょうか・・・。
 大石内蔵助は、本当に敵をあざむくために京都の祇園で遊蕩したのか・・・。どうやら史実ではないようです。
驚くべきことに、藩の財政の一部を活動資金として、いつ、その収支明細がきちんと記帳されていたのです。さすがは日本人です。こまかい計算が好きな人は昔も今も多いのですね。
 吉良家は高家(こうけ)ですが、この「高」というのは足利高氏(たかうじ)の「高」なのですね。つまり室町将軍の血筋を引く家ということ。知りませんでした。
浅野が吉良に切りかかったとき声をかけたのは、それが武士の作法だから。そうしないと卑怯な行動になってしまう。
吉良は逃げただけで、刀に手をかけなかった。もし刀に手をかけていたら両成敗になって吉良も切腹するはめになっていた。
吉良が諸大名から贈り物を受けるのは、当時の慣行からすると、悪いことではなかった。江戸時代の慣行として、人にものを教わったときに、それ相応のお礼をするのは当然のことで、賄賂(ワイロ)ではなかった。
吉良が老中の面前で浅野の面子(メンツ)をつぶしたのは問題があった。当時の武士は、人前で悪口を言われて黙っていたら「臆病」とされ、切腹するか出奔するしか道はなかった。
実際に討入りしたのは47人だったが、盟約に加わった同志は100人ほどいた。それがいろんな事情で減っていき、ついに半分以下になった。
内蔵助は祇園や伏見に踊りを見に行っているが、息子の主税と一緒。なので、遊郭で遊んではいないのではないか。しかし、内蔵助は京都には可留(かる)という妾がいて、子どももいた(幼くして死亡)。
討ち入りの前になると内蔵助の軍資金が尽きかけていた。それで、もう延期はできなくなっていた。
浪士たちは、全員、自分たちは死ぬものだと考えていた。討ち入りが成功しても、幕府の厳しい処分が予想された。再就職のためなんて、とんでもない誤り。死ぬと分かっている討ち入りに進んで加わった。
江戸時代の武士の社会では「武士道」という道徳がなにより優先された。今日の道徳とは、まったく違うもの。
吉良邸にも100人ほどの家来がいた。しかし、非番の家臣たちは長屋にいて、浪士たちが出口を固め、長屋に閉じ込めてしまった。それで浪士たちと戦った者は40人もいなかった。
浪士たちは「火事だ」と叫んでいるが、こんなだまし討ちも、手段を選ばないのが当たり前なので、非難されることではない。
吉良家側で戦った武士のうち16人が討ち死にし、21人が負傷(重症は4人)。このほか12人が逃げ出した。討ち入りは1時間ほどしかかかっていない。
さすがによく調べてあると感嘆しながら一気に読みあげました。
(2017年12月刊。880円+税)

2018年3月21日

江戸の入札事情


著者 戸沢 行夫 、 出版  塙書房

町触(まちぶれ)とは、町奉行から一定範囲の町民に触れ出された法令。現代の条例のようなもの。本書は「江戸町触集成」をもとにして江戸の入札事情を読み解いている。
江戸の元禄・享保期には経済が発展し、経済システムも巨大化、複雑多様化して、武士か町人かにかかわらず金銭の貸借にからむ訴訟、金公事(かねくじ)は増える傾向にあった。これは町触にも反映している。
「相対済(あいたいすま)し令」は享保4年も出され強行されているが、この法令は窮令した旗本や御家人には救済となったが、幕府と町奉行が「相対」を強調することで貸金を踏み倒される町人が続出して混乱した。
江戸では橋の架橋、修繕にからむ工事には巨額の投資が必要であり、大勢の人足や、日用稼(ひようかせぎ)を動員する必要があった。この入札を発注する幕府は応札者とのあいだで「相対」するが、これは談合と表裏の関係にあった。現代日本の大手ゼネコンによる入札がらみの「談合」が相変らず横行しているがこれは、江戸の元禄・享保期にはじまっているとも言える。
江戸時代の木造橋の寿命は、20年ほど、ただ、火災の多い江戸では、焼失による崩落も多く、橋の寿命はもっと短い。さらに、地震や用水害もあって、6年から8年が限度に、毎年の修繕補修も必要だった。かの有名なお江戸・日本橋も、ひんぱんに取り替えられていたというわけです。
それにしても、江戸時代に1日の通行量を調べていたというのに驚きました。しかも、なんと1日5万人も往来していたというのです。
両国橋には、武士を除いて1日3万人の通行者があった。武士を加えると5万人ほどの往来があったことになる。
なぜ通行量調査をしたかというと、両国橋を改架中の仮橋渡銭金額を査定するためです。町奉行配下の2人の道役に交通量調査をさせました。安保2年(1742年)5月12日と5月16日の2日間です。朝6時から夕方6時までの調査でした。
今も、各所でときどき通行量調査をしている人たちを見かけますが、江戸時代も同じようなことをしていたなんて、なんだか信じられません。ちゃんと武士と町人のそれぞれの実数が紹介されています。ほとんど同数だというのにもびっくりです。
隅田川には元禄期に3つの大橋の大規模な架橋修復が行われたが、これは幕府の財政に重い負担だった。18年間で総工事費は1万3115両もかかっている。ほかにも多くの橋があるので、江戸市中の橋工事にはかなり膨大な工費がかさんだと推測できる。なるほど・・・。
江戸時代の生活の断面を知ることができました。
                     (2009年3月刊。特価700円)

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