弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2016年12月18日

池田屋事件の研究

(霧山昴)
著者 中村 武生 、 出版  講談社現代新書

 幕末の京都に起きた有名な池田屋事件の顛末とその背景について、豊富な資料をもとにぐっと掘り下げた本格的な研究書です。400頁をこす新書ですから、ずっしりとした手応えがありますが、内容も重さに負けていません。
 池田屋事件は元治元年(1864年)6月5日に起きた。そのころ、各地で攘夷浪士による挙兵が相次いでいた。大和の天誅組の乱、但馬生野の変、水戸の天狗党の乱、長州毛利家の率兵状況(禁門の変、蛤御門の変)。
 池田屋事件のきっかけとなったのは、京都・四条小橋西詰真町の桝屋喜右衛門こと古高(ふるたか)俊太郎の逮捕だった。その6月5日の朝、古高(当時36歳)は自宅で新撰組に捕えられた。それを知った長州毛利屋敷は激しく動揺し、新選組の壬生屋敷を襲って、暴力に訴えてでも古高を奪還しようとなった。池田屋に新長州浪士たちが集まったのは、その具体化のためだった。
 なぜ町の一介の商人を毛利家中が見殺しにせず、救出しようとしたのか・・・。それほど、古高は重要人物だった。
新撰組は文久3年(1863年)3月に創立された、京都守護職会津松平容保所属の浪士集団。畿内で暗躍する新長州の浪士集団に対抗するため、会津松平家は同じく浪士集団の必要性を感じていた。
 古高は、皇族・堂上・長州毛利家をはじめとして広く交流しており、情報が集中し、面談場所として解放されていた。したがって、その存在を新撰組を気づくのは必然でもあった。
新撰組が古高を拷問にかけたとしても、その具体的供述によって初めて池田屋襲撃がなされていたというものではない。新撰組は古高の逮捕前から、浪士の潜伏場所として、20カ所あまりを確認していた。そこで、新撰組は、会津藩、一橋家、桑名藩に応援を頼んだから、応援組が遅れたので、待ちきれずに新撰組は行動を開始した。
 桂小五郎も新撰組が池田屋を襲撃した当時、その場にいて、すぐさま脱出して屋根伝いに逃げて対馬屋敷へ入った。
新撰組に襲われて池田屋内で戦死した者が7人か8人いるのは確実だが、それが誰なのか、今なお確定していない。
池田屋事件の直前、近藤勇は新撰組の解放を請願していた。近藤勇は、自分たちを攘夷を行う「尽忠報国」の士と位置づけていた。攘夷が実行されず、京都の市中見回りに配属されるのをよしとしなかった。しかし、禁門の変のあと、変化した。禁門の変のあと、近藤勇は攘夷よりまず長州征討を行うべきだと主張するようになった。そして、一・会・桑(いっかいそう)が近藤勇と新撰組を手離さなかった。薩長にとって政局打開の最前線の敵は、一・会・桑だった。その一・会・桑の最重要軍事力こそ新撰組だった。ここで、たかが150名程度の兵士と考えてはいけない。150名というのは決して少なくないし、軍事的精鋭によって構成されている。
 池田屋事件からまもなく起きた禁門の変で、長州は惨敗する。ところが禁門の変で反長州の立場をとった薩摩が、こんどは一・会・桑とことなり長州の社会復帰を助けた。あくまで毛利家の羽体化を望む一・会・桑との決戦を覚悟したのが、薩長同盟。それが長州征討の失敗につながる、会津が長州と全面戦争を行う覚悟を決めた事件として池田屋事件は位置づけられる。
 5年前に刊行された本です。絶版になっていたので、ネットで古本を入手しました。その後、研究はさらに進んでいるのでしょうか・・・。

(2011年10月刊。1200円+税)

2016年11月18日

長崎奉行の歴史

(霧山昴)
著者 木村 直樹 、 出版  角川選書

江戸時代の長崎奉行というのは、たくさんの役得がある美味しい地位かと思っていましたが、意外に気をつかう、大変な激職だったようです。
長崎奉行は、幕府の老中の配下にあって、幕府の遠隔の直轄地を支配する遠国(おんごく)奉行の一つ。定員は2名で、うち一名は長崎で勤務する在勤奉行。もう一名は江戸にいて、幕府の諸役人たちと調整をおこなう在府奉行。
在府奉行は7月下旬に江戸を出発し、9月に長崎に到着、それまでの在勤奉行と引き継ぎする。交代した奉行は9月下旬に長崎をたち、11月には江戸に戻ってきて、翌年夏の出発まで、江戸城内で勤務する。
長崎奉行所は、長崎には二ヶ所あるが、江戸城内にはない。
長崎は18世紀はじめの最盛期には6万人の町人をかかえる九州屈指の大都市であり、日本各地の商人や遊学する者など、出入りが多い。
長崎奉行は身分は町人だけど他役人という下級支配層という地元出身の町役人を2千人を部下としている。長崎は6人に1人は役人と称する都市であった。長崎奉行の平均的な在職期間は4年。
正保4年(1647年)、ポルトガル船2隻が長崎に入港してきた。これに対して、九州各藩は競って将兵を送り込み、5万人の軍勢が長崎湾の内外に展開した。船を横に並べて仮設の船橋を構築してポルトガル船を長崎湾内に封じ込めた。結果としては、双方とも発砲することなく、平和裸に終結した。
キリシタン摘発も長崎奉行の仕事の一つだった。1657年(明暦3年)の大村郡崩れ(くずれ)では600人以上のキリシタンが捕まっている。18世紀の長崎奉行は、目付から就任したパターンがとても多い。次は、他の遠国奉行からの就任。とりわけ佐渡奉行からの就任が目立つ。18世紀半ば以降は、勘定奉行が長崎奉行を兼任するようになった。
貿易を幕府の財源の一部として期待し、そのために勘定奉行が直接乗り込んでくると、どうしても長崎の町人の反発をかってしまう。幕府の利益や国家的利益と、長崎会所に代表される長崎に留保されて都市長崎に還元される利益は、相反していた。
長崎奉行には、たしかに役得があった。長崎奉行に就任するときには、1000両を幕府から借りることが出来た。そして、わずか1年で返済することになっていた。それほど役得は大きかった。
名奉行は、長崎の市中に利潤が留保されないように、いろいろ工夫をこらした。
19世紀に入ると、長崎奉行は、国際情勢の変動に気を配りながら長崎の都市支配をすすめていくという新しい段階に入った。
長崎奉行という職種の変遷を江戸時代を通じて把握しようとする意欲的な本でした。
(2016年7月刊。1600円+税)

2016年10月15日

江戸のパスポート

(霧山昴)
著者  柴田 純 、 出版  吉川弘文館

江戸時代、旅行している旅人が病気になったり、お金がなくなったとき、病人の郷里まで安全に送り届ける仕組みがあったというのです。
56歳の女性が旅の途中で仲間とはぐれて一人旅になってしまったあと、足を痛め、所持金も乏しくなったので、保護願いを出したら、村役人が郷里まで無事にリレー式で引き継いで届けてくれた。
保護から送り出しまでの過程がシステム化していた。旅の途中で困難にあい、しかも所持金がなくても、往来手形さえ携帯していれば、何とか国元まで送ってもらえた。このように十分な旅費をもたない旅人が、途中で野垂れ死にを心配せず、旅に出る条件が生まれていた。
往来手形を発行してもらえる人々にとっては、パスポート体制は福音だった。他方、往来手形を発行してもらえない無宿(むしゅく。無国籍の人々)は、パスポート体制から完全に除外されていた。
江戸時代の庶民の旅は、元禄時代、つまり17世紀末から18世紀初めから増えはじめ、18世紀後半から急増し、19世紀前半にピークを迎えた。旅行難民対策が整備され、旅行難民救済システム体制が日本列島全体で機能しはじめたので、19世紀前半のピークを迎えたのだ。
加賀藩は、歩行できなくなった旅人に対して、本人が希望すれば、馬や駕籠を使い、足軽を差し添え、「宿送り」を続けていた。ただし、全国どこの藩でもそうだったというのではない。このように旅行難民対策は、諸藩がそれぞれ異なった対応をとっていた。
19世紀前半のころ、田辺城下には、少なくとも年間10万人ほどの順礼が宿泊していた。うひゃあ、これって、すごく多人数ですよね・・・。
日本の往来手形に保護救済規定が入ったのは、往来手形が領主の側からではなく、民衆の救済慣行をもとにして、自律的に形成されたものであるからと考えられる。
江戸時代の日本人は、現代日本人と同じく、旅行が大好きだったようです。女性の一人旅も珍しくなかったというのですから、まさしく平和の国、ニッポンならでは、ですよね。
そして伊勢参りやら、「ええじゃないか」の大群衆など、旅行好き日本人の面目躍如だったのですね。江戸時代の世相を知ることのできる本です。
(2016年9月刊。1800円+税)

2016年10月 9日

天文学者たちの江戸時代

(霧山昴)
著者  嘉数 次人 、 出版  ちくま新書

 星を見ていて、それを数式にあらわして計算できるって、私の理解をこえます。暦をつくるというのも同じで、月の満ち欠けを見て美しいなんて思ってないで、それを1年365日と結びつける、なんていうのも私の想像をこえます。そして、和算です。アラビア数字をつかわないで、漢数字で、どうやって微分・積分などの計算が出来たのでしょうか。もう、私の小さな頭は破裂してしまいそうになります。
 日本の天文学の歴史は古く、文献によると、6世紀にまでさかのぼる。そして「日本書紀」にも天文学が登場する。
中国の天文学は支配者のための学問として発展した。「天」は自らの意思をもち、支配者にメッセージを下す存在だった。
6世紀から日本の朝廷内に天文や暦学をつかさどる「陰陽(おんよう)寮」という役所がつくられた。
17世紀の終わりに、800年ぶりに新しい暦が一人の日本人によってつくられた。渋川春海である。中国の暦法に独自の改良を加え、日本の天象にうまく合うように工夫した。
渋川春海のバックには、保科正之や水戸光圀といった幕府の有力者がいた。また、陰陽頭の土御門泰福の援助もあった。
そのころ、星座の名前もつけていたのですね。おどろきます。もちろん、オリオン座なんてものではありませんよ。大宰府という名前の星座までありました。
渋川春海は、望遠鏡にも接しています。望遠鏡は、1613年、徳川家康にイギリスから献上されたそうです。
日本で地動説を本格的に研究したのは、18世紀の後半。伊能忠敬が日本全国を実測してまわったころの江戸時代です。彗星の正体をさぐる研究も日本で始まった。
ところが、1828年に有名なシーボルト事件が起きてしまった。国家機密だった伊能忠敬による日本地図の写しをシーボルトに渡したことが発覚し、高橋景保は逮捕され、翌年には獄死してしまった。45歳だった。
江戸時代の人々の天文学の研究は、それなりに進んで、成果もあげていたのです。ところが、明治維新になって、一時は、まったく価値ないものとされてしまいました。それが明治の半ばになって、ようやく見直されたのでした。
江戸時代の人を今の私たちがバカにできるはずはありません。
(2016年7月刊。780円+税)

2016年9月20日

漂流の島

(霧山昴)
著者  髙橋 大輔、 出版  草思社

 あまりの面白さに、乗るべき列車を乗り過ごしてしまいました。ホームに立って列車を待ちます。カバンから本を取り出して読みはじめました。実は、読む前は期待していなかったのです。いくつかの漂流記を、そのさわりを紹介する本なんだろうという誤った先入観があったからです。ところが、これは探検家である著者が、かの鳥島へ行って苦労したという体験記なのです。面白くないはずがありません。ホームに立って列車を待っていると、いつまでたっても来ません。実は、この時間は別のホームから列車が出るのです。案内放送が耳に入らないほど、本の世界に没入していました。列車が出ますというので、ふり向くと、ちょうどドアが閉まったところでした。ええっ、まあ、いいや、この本をじっくり読もうと思って、また別のホームに向かったのでした。
 探検家の著者は、何とロビンソン・クルーソのモデルが実際に生活していた住居跡を探しあてたといいます。すごいですね。モデルはスコットランド生まれの船乗りで、アレクサンダーセルカーク(1676-1721年)。南太平洋の無人島での4年4ヶ月間の一人で生きのびた体験をダニエル・デフォーが28年間にひきのばした小説にしたのだ。
 島は南米のチリにあり、今ではロビンソン・クルーソー島といって、700人ほどの住民がいる。そこで、次は日本。そして、あのアホウドリで有名な鳥島を狙います。なにしろ、この鳥島には、ジョン万次郎をはじめ江戸時代の160年間になんと13回、およそ12年に1度の割合で漂流民がたどり着いて、無人島での生活に耐えて生きのびた記録があるのです。でも、鳥島はアホウドリの貴重な生息地であり、再生プロジェクトが進行中ですから、漂流民の発掘なんて、とても許可がおりそうにありません。
 著者は、アホウドリの支援、そして火山島の調査、そんなグループの下働きの一員としてついに鳥島に上陸できたのです。まさしく執念の勝利です。
それにしても著者は、漂流民に関する記録を丹念に読みこなしています。そして、それを題材とした小説を読み、鳥島で生活したり滞在したことのある人々に何回となくインタビューしています。こんな下準備があってのことなんですね、探検に成果が出るのは・・・。
鳥島は活火山でいつまた大噴火があってもおかしくないところ。そこに、かの長谷川教授は一人で何ヶ月も寝泊まりするのです。火山の噴火があったら、逃げようがありません。
「覚悟を決めています」
なかなか言えるセリフではありませんね・・・。
 漂流民のなかには、アホウドリの肉だけを食べているうちに高脂血病になって病死した人もいたようです。やはり、人間が健康に生きるためには魚とか、いろんな食べ物をとったほうがよいのです。
 逆に、アホウドリは殺さず、その子に与えるエサを横どりするだけだった漂流民もいたとのこと。信じられません。
 この無人島で、漂流してくるものを待って集めて、5年がかりで船をつくったというのにも驚かされます。すごい執念です。そして、生きて帰れることが分かったとき、死者の名前を呼び、また、遺骨を拾って持ち帰ったのでした。
一番長い人は、なんと19年3ヶ月も一人で生きのびたのです。なんとも強靭な生命力です。恐れいります。
 私自身は、とても探検しようなんて勇気はもちあわせていません。本を読んで、その気分に少し浸るだけです。面白い本を、どうもありがとうございました。
(2016年8月刊。1800円+税)

2016年9月18日

川原慶賀の「日本」画帳

(霧山昴)
著者  下妻 みどり 、 出版  弦書房

 これは素晴らしい画帳です。江戸時代の情景が総天然色写真のように再現されています。総天然色映画って、分かりますか。団塊世代の私の子どものころ、チャップリンの白黒映画からカラー映画に移行していきました。そのとき、カラー映画とは言わず、総天然色映画と呼んだのです。心の震えが今もくっきり思い出せるほど鮮やかな色彩でした。
浮世絵もすごいと思いますが、ここで描かれている江戸時代の長崎の日々の生活のこまやかな情景描写には、思わず息を呑むほど微細です。
 川原慶賀という人は町絵師ですが、長崎・出島の出入りを許されたのでした。
 1786年に生まれ、1860年まで生きていたと推測されています。カメラがないので、腕のいい絵師が出島に派遣されたのです。オランダ人の本国へ持ち帰るみやげものにするためです。ですから、川原慶賀は「シーボルトのカメラ」という別名もあるのでした。ともかく、描写がこまかいのです。圧巻です。
残念なことに、川原慶賀の絵は、現在、ほとんどオランダ、ドイツ、ロシアなど海外にある。そんなわけで、この本が貴重なのです。
 年末年始の大人そして子供たちの過ごしかたが絵で紹介されています。正月にタコ揚げするのです。踏絵のときは人々が厳しい顔つきをしています。驚くべきことに、ひな祭りのときには、子どもたちにもお酒を飲ませていて、酔っぱらった子どもたちが盛りあがってウロウロしてにぎやかだったというのです。まさか、と思うような情景です。
 いろんな仕事の風景も描かれています。山菜(きのこ)採りや石灰づくりがあります。かえる捕りなんて、どういうことなのでしょうか・・・。まさか食べていたのですが、ガマの油をつくっていたのでしょうか・・・。町には、メガネ屋もあります。どうやって度を合わせていたのでしょうか。菓子屋、魚売りの行商、大道芸人・・・、なんでもあります。
 お見合いの場まで描かれているのです。もちろん、祝言、結婚式もあります。花嫁は全身白装束でが、これは死装束なのです。友人、縁者に死別して、新しい夫の家の人となったわけです。でも、江戸時代には、夫婦別姓でしたし、死後は別墓でした。嫁盗みという便法も紹介されています。婚礼費用を節約する便法でした。
 いながらにして、江戸時代の人々の生活・習俗を知ることのできる画帳です。ありがたいです。ありがとうございました。
(2016年7月刊。2700円+税)

2016年7月25日

南部百姓・命助の生涯

(霧山昴)
著者  深谷 克己、 出版  岩波書店

 『殿、利息でござる』は、いい映画でした。江戸時代も末ころの百姓・町民が自分のことのみ考えるのではなく、マチやムラ共同体全体のことを優先して考え、必要なら自分を犠牲にするのもいとわないという生き方をしていた実践例です。
この本の主人公も、同じく江戸時代の末ころに生きていました。
奥州・南部藩の城下町、盛岡の牢内で、1人の百姓が安政6年(1859年)に3冊、文久元年(1861年)に1冊、合計4冊の「帳面」を書き上げた。この4冊は、今も子孫筋の手元に保存されている。
 この帳面を残した百姓の名は命助(めいすけ)。文政3年(1820年)に生まれた。肝煎(きもいり)格の家とはいえ、生活はそれほど楽ではなく、天保の飢饉のときは17歳で秋田藩院内の鉱山に出稼ぎに行った。
命助は身長174センチ、体重112キロという巨漢だった。
ペリー来航という「外患」をかかえた嘉永6年(1853年)、南部三閉伊(さんへい)地方に一揆が起きた。命助34歳のときである。この一揆は仙台藩領への越領(えつりょう)強訴(ごうそ)という方法をとり、8千余の百姓が南部藩領を出た。そして、やがて45人の総代だけを残して帰国した。命助はこの一揆の頭人(とうにん。リーダー)の一人として活躍した。
 一揆のあと命助は村役人となるが、代官所の追及があって、家族を残して村を出て、仙台藩領内で、修験者(しゅげんしゃ)として暮らした。そのあと、京都へ上がり、公卿二条家の臣となった。そして、朝廷の権威を借りて南部藩に戻ったところ、南部藩に命助だと見破られ、牢に入れられた。
 獄中生活は6年8ヵ月に及び、命助は45歳のとき牢死した。それまでの牢生活のときに書いた帳面が4冊残っている。
 百姓の子が習学するのは、江戸時代も後期になればそれほど異例ではなく、命助も10歳をこえたら四書五経を素読で学んだ。
 一揆というと、勝手放題の打ちこわしというイメージがありますが、実際には、きちんと統制のとれた行動をしていたようです。そして、45人もの総代がいて、犠牲者を出さない工夫をいくつもしていたのです。
 すごいですね。現代日本人のほうが、負けているんじゃないかという気がします。やっぱり自分の納得できない社会状況に置かれたら、声を上げるべきなんです。安倍首相の言うとおりにしておいたら、いつか良いこともあるだろう、とか、政治家なんて誰も彼も同じようなものだから、投票所へ足を運んでもムダなんて思い込んでいると、もっとひどいしっぺ返しがあるのです。やはり、目を見開いて、いやなことはノーと言い、平和なニッポンに生きたいという自分の要求を声をあげるべきです。
 1983年に発行された本が30年ぶりに復刊されました。江戸時代の一揆の実際を知る有力な手がかりになるものです。
(2016年5月刊。420円+税)

2016年7月23日

ながい坂(上)(下)

(霧山昴)
著者  山本 周五郎 、 出版  新潮文庫

 久しぶりに周五郎を読みました。40年以上も前、司法修習生のとき、周五郎にぞっこんの同期生からすすめられて読むようになりました。細やかな江戸情緒と人情話の展開にしびれました。次から次に周五郎の書いたものを読んでいきましたので、大半は読んだかと思っていましたが、新潮文庫の目録をみると、なんと大半は読んでいないようです。
周五郎は、私が大学に入った年の2月に63歳で亡くなっています。ということは、50代のころにたくさん書いたのですね。この「ながい坂」は著者が60歳のときに「週刊新潮」に連載を始めたものです。1年半におよぶ連載です。
たしかに本格的長編です。でも、ちっとも飽きがきません。次はどういう展開になるのか、頁をめくるのがもどかしい心境です。この本を読んでいるときは至福の境地でした。いやはや、細やかな人情の機微をよく把えつつ、大胆なストーリー展開にぐいぐい惹かれていきました。文章が、ついかみしめたくなるほど味わい深いのです。
解説(奥野建男)を紹介します。なるほど、このように要約できるのですね・・・。
「圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力して上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させていく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。
それは、ほとんど立身出世物語に似ている。いや作者は、生まれや家柄を不当に区別され、辱しめを受けた人間が、学問や武道や才能により、つまり実力と努力により、立身出世を志し、権力を握り、そして自分をあざわらった人間たちを見返すのは、人間として当然の権利であり、正しい生き方だと言っている。
それは学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきたけれど、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという、自分の苦しくにがい体験をふまえた人生観である。作者は、生まれながらの身分に安んじ、小成で満足して、出世する仲間の足をひっぱる、志もなく自らは努力もしない向上心のない卑しい人間を、もっとも嫌悪する」
作者はこの「ながい坂」を自分の自叙伝のつもりで書いたというのですが、この解説を読んで作者の心が少し分かりました。疲れた頭をしばし、スッキリさせてくれる清涼剤として一読をおすすめします。
(2016年2月刊。790円×2+税)

2016年7月18日

吼えよ江戸象

(霧山昴)
著者  熊谷 敬太郎 、 出版  NHK出版

 江戸時代に長崎から江戸まで、はるばる陸路で象が歩いていった史実をふまえた歴史小説です。そのストーリー展開の美事さに思わず引きずり込まれてしまいました。「痛快時代小説」というオビのフレーズに文句はありません。
 ときは八代将軍・吉宗のころ。吉宗は南町奉行の大岡越前と何やら謀議をしている気配がある。江戸時代は「鎖国」していたと言っても、実はヨーロッパの情勢やら中国そして東南アジアの文物が日本に入ってきていた。そして、日本からひそかに人間が送り出されていた。人買いの話である。
 象の重さをいかにして量るか。このような問いかけがなされた。『三国志魏書』に答えがのっているという。いったいどんな正解があるのか・・・。
戦後の日本で、象を乗せた列車が走って、子どもたちを大いに励ましたという話(歴史的事実です)があります。江戸時代の人は実物の象を見て、どう思ったのでしょうか・・・。
象は江戸に来たら、そのまま死ぬまで江戸にいたようすです。でも、一頭だけでしたので、子どもは生まれるはずもありません。メス象は日本に連れてこられて早々に死んでしまったのでした。ともかく、象は大喰いですから、象をタダで見せるわけにはいかなかったのです。
 先ほどの問いの答えは、象を船に乗せることによって重さを量るというものです。それ以上、詳しく知りたかったら、この本(438頁)をお読みください。
  象が江戸に向かったのは享保14年(1729年)で、寛保2年(1742年)12月、象は21歳で病死した。象の糞は、乾かされて黒焼きにされて薬として売られていた。
象と心を通いあわすことのできる少女が登場することによって、話は一段と面白くなります。また、象の挙動の意味も理解できます。ともかく、象を陸路、江戸まで連れて歩いていくという旅程で次々に起きる難事を見事にさばいていくのも痛快です。
あまり難しいことを考えたくないという気分のときに読む本として一読をおすすめします。
(2016年2月刊。2200円+税)

2016年4月 9日

江戸時代の流行と美意識

(霧山昴)
著者  谷田 有史、村田 孝子 、 出版  三樹書房

 江戸時代は現代日本と同じく美意識をもてはやしていたようです。
 女は美しく、男は粋でありたいと願っていた。江戸の人々は当時のファッションリーダーだった花魁(おいらん)や歌舞伎役者をまねて、センスを磨き、ヘアスタイルやコーディネイトに工夫をこらしていた。
 江戸の遊郭・吉原は売色の巷(ちまた)ではあったが、同時に江戸庶民の一大社交場でもあった。文化・風俗・言語など、ここから発生して江戸の流行をつくったものが少なくない。
お歯黒は、今の私たちからすると、なんだか気味悪いですよね。でも、歯を保護して、虫歯を予防する効果もあったそうなんです。なるほどなんですね。
 原料は、五倍子粉(ぶしのこ)(ヌルデの木にできる虫瘤)と沸かしたお歯黒水(酢、酒、米のとぎ汁に折れた針や釘などを入れてつくった)で、これを交互に歯に付けると歯が黒く染まった。
 吉原では、遊女だけが客の一晩だけの妻になる意味から歯を染めたが、芸者は染めなかった。京阪の遊女や芸者は歯を染めたが、江戸では吉原の遊女だけだった。
 女性の髪形そして、かんざし、いずれもいろいろ手が込んでいますね。 
 タバコは、女性も吸っていました。江戸時代の中期には、女性の喫煙は一般的でした。長いキセルを持ち、女性用のたばこ入れが流行していました。
日本人の美意識を知るためには江戸時代をよくよく認識する必要があります。江戸時代を暗黒の時代とか停滞していた時代だと簡単に決めつけてはいけない、それを実感させてくれる本です。
 カラー写真で、江戸時代の日本人の美意識のすばらしさを伝えてくれています。

(2015年6月刊。2600円+税)

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