弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(江戸)
2021年9月 5日
「名奉行」の力量
(霧山昴)
著者 藤田 覚 、 出版 講談社学術文庫
江戸時代にも「傾向と対策」のような受験参考書があったそうです。これには驚きました。もちろん私も大学受験のときには「傾向と対策」を愛用していました(今はないようですね)。そして、年2回のフランス語検定試験を受験するときにも、「傾向と対策」を活用しています。
江戸時代に「学問吟味(ぎんみ)」という試験があり、これの「傾向と対策」として、『対策則』という遠山景晋(かげみち)の書いた本がある。この遠山景晋は、入墨(いれずみ)をした名奉行と噂の高い遠山金四郎景元(かげもと)の父親。景晋は、受験するときには、他説(朱子以外の説)を交えないこと、日本語訳の適切さの2点が大切だと強調した。うむむ、なるほど、ですね...。
町奉行は、旗本が就任できる幕府の役職のなかで、もっとも上級の重職だった。
町奉行には任期がなく、長くつとめた人もいれば、数年で交替する人もいた。その下に仕える与力・同心は、世襲のように勤務していた。与力・同心は、町奉行のなかで隠然たる力をもっていて、町奉行は人形で、与力・同心が人形遣い(つかい)という関係にあった。
名奉行と言われた人は、部下の与力・同心を甘く使ったので、この御奉行ならと思って仕えてよく働いた結果、奉行が名奉行とほめられただけのこと。反対に、虫の好がない奉行が着任すると、与力・同心は敬遠して面従腹背で協力しないので、奉行は2年から3年で転任せざるをえなくなり、町奉行所から追い出されたも同然になった。
江戸の町民にとって、奉行は交替するもの、与力・同心は代々世襲でつとめるものなので、町人の利害にとっては町奉行所より、与力・同心のほうが重要だった。
ふむふむ、なーるほど、そういうことなんですね...。
天保の改革(1841年~)を始めた老中の水野忠邦は、ほとんどの役所から無視されてしまった。そして、ついに2年後に失脚した。ところが、9ヶ月後に老中に返り咲いて、世の中を驚かした。にもかかわらず、1ヶ月もせずして水野忠邦は頭痛や下痢・風邪などを理由として欠勤するようになり、ついに翌年2月に辞職した。
いやあ、そ、そうだったんですね...。
江戸時代には、贈り物を買い取る商売があった。
江戸時代の金利の相場は、もともと15%であり、それを12%に引き下げようとしたのが、幕府の金利政策だった。
江戸時代の実相を知るには、手頃な文庫本です。ぜひ、一読してみてください。
(2021年1月刊。税込1056円)
2021年8月25日
伊能忠敬の日本地図
(霧山昴)
著者 渡辺 一郎 、 出版 河出文庫
私の住む町にも伊能忠敬が来て測量したようです。町の中心部に、それを記念する碑が建っています。江戸時代に日本全国を歩いて測量してまわって詳細な日本地図をつくったことで有名な伊能忠敬の日本地図にまつわる話が山盛りの文庫本です。
伊能忠敬の関係資料は今から10年前(2010年)に国宝に指定されたそうです。当然のことだと門外漢の私も思います。ともかく貴重な測量図です。ところが、そんな貴重な伊能図がフランスとかアメリカに流出していたようです。それを現地で探し出していく著者の執念にも驚嘆しました。
伊能忠敬の家は息子も孫も若くして亡くなり、いったん絶えたが、幕末に伊能家は再興することができ、伊能図や文書類を維持・管理できたということのようです。大変な苦労が必要だったことでしょうね。ともかくスペースをとったと思いますので...。その資料の保存には伊能家の女性たちが活躍したことも紹介されています。やはり、女性の力は偉大です。
伊能忠敬の書庫から解放されて庶民のものになるのは、伊能図が幕府に提出(1821年)されて50年たった明治になってからのこと。江戸時代には、厳重な実測量を必要としていなかった。
伊能忠敬は商才を発揮して酒造業、米穀売買、金融業を営み、資産3万両(1両を15万円として、45億円)という資産家だった。事業に成功した忠敬は49歳のとき隠居した。息子は28歳。江戸に出て、天文・暦学を志し、19歳も年下の幕府天文方髙橋至時(よしとき)に入門した。忠敬は、地球の大きさが話題になっていることを知ると、自ら、測量してやろうと思った(らしい)。天文・暦学は面白いけれど、かなり難しい。しかし、測量なら自分でもやれる。忠敬はそう考えたのだ。
伊能忠敬は、終始一貫して現場指揮をつとめた。全測量期間を通して従事したのは伊能忠敬だけ。忠敬は歩測で測ったのは、第一次測量のときだけ。第二次測量からは、間縄(けんなわ)を張って測っている。天体観測は伊能隊の表看板で、1晩に、多いときは20個以上の星を測った。忠敬が測った恒星は、こぐま座、カシオペア座、しし座など、誰でも見られる普通の星。忠敬は自宅で測定した恒星の高度表をもっていたので、それと比較して緯度を求めた。伊能隊には経線儀がなかった。結果として、伊能図は北海道と九州がかなり東偏している。
間宮林蔵は忠敬の弟子である。忠敬は日本中を歩いてまわったが、忠敬は持病もちで、それほど体が丈夫なほうではない。なので、測量隊が進行するときには、主催者であるから村々では医師を待機させていた。
貴重な伊能図の発見と紹介が要領よくなされています。ありがとうございました。いちど、ぜひ現物をみてみたいと思いました。
(2021年5月刊。税込1089円)
2021年8月22日
和算
(霧山昴)
著者 小川 束 、 出版 中央公論新社
江戸時代、庶民においても「読み、書き、珠算(そろばん)」は必要なものと考えられていた。江戸時代の人々は、みな算数が社会において重要な知識、技能であることを理解していた。「そろばん(珠算)が何の役に立つのか」などと文句を言うモノはいなかった。江戸時代、珠算は必須の技能だったからだ。
神社に奉納した絵馬のようなものとして算額がある。江戸時代、数学の愛好者は互いに問題を解いたり、算額を奉納していた。神社は数学の発表の場だった。現存する最古の算額は、1683年のもの。関ヶ原合戦(1600年)から83年たっただけ。このような算額奉納は世界に例がなく、日本独自の文化現象。現存している算額は884枚だが、復元された91枚、文献に出てくる1646枚を加えると、2621枚にのぼる。
算額は天明(1781~1789)年ころから急激に増えはじめ、1800年から1809年にピークを迎えた。この10年間だけで、算額は300枚近い。算額は東日本に多く(東京369枚。次は岩手184枚、福島153枚、長野109枚、新潟105枚)、西日本は比較的少ない。
江戸時代の人々が数学を学ぶとき、初歩を終えると、数学を教授する師匠の下に入門するのが普通だった。数学にはいくつかの流派がある。
数学を教えながら、全国各地を歴訪した人がいたというのも驚きです。法道寺善という安芸国(広島県)出身の人です(1820年生まれ)。法道寺は、豊前(大分)、肥後、長崎、北陸道、東山道を遊歴し、各地で数学を教授したといいます。
江戸時代の人々にとって、もっとも身近な算学(数学)の教科書は、「塵劫記(じんごうき)」だった。1627年に刊行された、この本によって近世日本の数学文化は一挙に花開いた。
江戸時代の数学は世界的にみて最先端をいく成果をいくつもあげた。関孝和は日本の和算の創始者。関は存命中は1冊の本しか出していないが、一般人には難しすぎる傑作だった。
江戸時代の数学は、抽象的な計算技能と、その応用分野としての平面幾何、立体幾何から成り立っていた。そんな数学文化が継続できたのは、幾何の問題を無尽蔵に生み出すことができたから。そこには、図形の美しさという美的感覚、複雑な計算の完遂という高揚感があった。
なーるほど、すばらしいんですね。アルファベットも、X・Yもない時代、そして0(ゼロ)もなくて、どうやって計算していたというのか、ぜひ知りたいところなんですが...。
(2021年1月刊。税込1980円)
2021年8月15日
ウィリアム・アダムス
(霧山昴)
著者 フレデリック・クレインス 、 出版 ちくま新書
三浦接針。つい先日、長崎県平戸市でアダムスの遺骨だと判明したというニュースが流れました。ええっ、徳川家康に重宝されて江戸に住んでいたのではなかったの...。そんな疑問がこの本を読んで解けました。徳川家康からはイギリスへ帰国しないでくれと懇願されていたようですが、家康が亡くなり、秀忠の時代には疎遠となり、イギリスが商館を開いていた平戸に行き、そこで病死したというのです。
でもアダムスにはイギリスに妻子がいるほか、日本にも妻子がいました。日本人の妻はカトリック教徒だったようです。アダムスの死後、どうしたのでしょうか。また、息子と娘がいましたが、その子どもたちはどうなったのでしょうか。秀忠はキリスト教を厳しく禁圧しましたので、ひょっとして、その犠牲になったのでしょうか...。そこらはこの本に書かれていませんが、ぜひ知りたいところです。誰か教えてください...。
それでも、三浦接針となるまでのウィリアム・アダムスと、彼を取り巻く世界情勢がよく解説されていて、とても興味深い本です。
ウィリアム・アダムスは、オランダ船に乗っていたけれど、イギリス人の航海士。このころ、イギリスはエリザベス女王の治世下。イギリスは、軍事力ではスペインの足下にも及ばないので、スペインとの全面戦争を避けていた。
それでもイギリス船はスペインの船を襲って掠奪していた。それで名を上げたのがフランシス・ドレイク。アダムスが青春時代を送った1570年代のこと。スペイン艦隊からイギリス船団が奇襲攻撃を受けてなんとかドレイクは逃げのびたこともあった。このように、イギリスとスペインは互いに憎悪の関係にあった。
イギリスはスペインの無敵艦隊との海戦で大勝しましたが、そのとき、ドレークの艦隊にアダムスも乗っていた。戦争のあと、アダムスはイギリスのバーバリー商会に就職し、船長あるいは舵取りとして働いた。そして、オランダ商船団がアジアに行くのに乗り込んだのです。
この船団の真の目的は、太平洋に面した南アメリカの海岸でスペインの拠点と船を狙って財宝を略奪し、それらの財宝をもとにアジアで貿易することにあった。
なので、アダムスの乗っていたリーフデ号が遭難して大分県臼杵湾にたどり着いたとき、船内には大量の武器があったのです。大型の大砲19門、複数の小型大砲、鉄砲5百挺、鉄砲弾5千発分、鈷弾3百発分、火薬50キンタル(3千キロ近い)、鎖帷子(くさりかたびら)入りの箱3個、火矢355本、現金2千クルサンド(4千万円)、そして毛織物入りの大箱11個。24人の船員には商人らしきものはおらず、船員は兵士の船体をしている。
イエズス会の宣教師たちは、このオランダ船の船員が「異端者」だと分かって、すぐに悪口を言いたてはじめた。
家康はこのとき59歳、アダムスは大坂城に連れてこられて家康から直接の尋問を受けた。ときに1600年5月12日のこと。家康は、イギリス人(アダムス)とオランダ人(ヨーステン)に興味津々で、質問を重ねた。ヨーステンは、八重洲と名を残しているのでしたよね...。
アダムスは世界地図を示して家康に話したようです。また、家康の命令で船の建造もしています。関ヶ原の戦いや大坂夏・冬の陣などで多忙な家康でしたが、アダムスをそばに置いて、いろいろと質問攻めしたようです。アダムスも、そのうちに身につけた日本語で答えていたと思われます。家康は好奇心旺盛の人物だったんですね。
イギリスとオランダ、そしてカトリックの宣教師たちとの敵対関係、競争関係にアダムスは翻弄されたようです。一枚岩ではなかったのです。三浦接針についての興味深い本でした。もっともっと知りたくなりました。
(2021年2月刊。税込1012円)
2021年7月 4日
天才 富永仲基
(霧山昴)
著者 釈 徹宗 、 出版 新潮新書
江戸時代の中期に31歳の若さで亡くなった町人学者の話です。仏教について、まったく分からないままの私ですが、仏教経典を読破して、成立過程を明らかにして、仏教思想を解明した若き町人学者がいたというのですから、驚きます。20歳までに仲基は仏典をほぼ読破していたというのも信じられません...。
阿含(あごん)経典類は、釈迦滅像200年から300年たって現在の形にととのえられたもの。大乗経典は、仏滅後500年もたってから現われはじめたもの。般若経典や法華経は1~2世紀に成立し、華巌経は4世紀に成立した。大乗経典は、小乗経典成立後に編纂され、大乗経典を低く評価することで、自説の優位性を主張している。
仲基はこう言った。インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)、中国は文を好む(レトリックを重視する傾向が強い)。日本は秘を好む(隠蔽する傾向が強い)。
仏教経典が文字化されたのは釈迦滅後、2~300年してからのこと。それまでは口伝だった。初期の教えを伝えているパーリ語経典や阿含経典は、紀元前3世紀から紀元後5世紀までに編纂され体系化されていった。
法華経や般若心経など日本によく知られている経典の大半は大乗仏教の経典である。その大乗経典は、大乗仏教の展開にともなって制作された。
釈迦には3人の妻がいた。もともとの仏教では、肉食に対して、それほど厳格ではなかった。知らないことばかりでした。
20歳までに仏教の経典をあらかた読み終えたなんて、とても信じられません。
(2020年9月刊。税込880円)
2021年6月27日
氏名の誕生
(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書
私の名前(姓名)は霧山昴(きりやま・すばる)。これは養子縁組でもしない限り、一生変わりません。これが現代日本の当然すぎる常識。ところが、江戸時代は、名前(姓名)は年齢(とし)とともに変化するもので、一生同じ「名前」を名乗る男など、まったくいなかった。その常識が激変したのは明治時代の初めのこと。
この本は、このような常識の変化を丹念に追跡していて、もう頭がくらくらしてきます。何が何だか分からなくなってくるのです。それは、江戸時代の武士と庶民に通用していた常識と、朝廷での常識が別物だったことにもよります。明治維新によって朝廷が王政復古で昔のように変えたくても、ことは簡単ではなく、あれこれ変更を重ねて、ますます混迷をきわめていくのです。ここらあたりは読んでいて、まったく五里霧中。とてもついていけませんでした。
現代日本における人名の常識は...。人名は「氏」と「名」の二種で構成されていて、「氏」は先祖代々の大切な家の名で、「名」は親がつけてくれたもの。「氏名」を恣意的に変えることは、原則としてありえないこと。
ところが、江戸時代の名前で親が名づけるのは幼名だけで、改名は適宜なされていて、「かけがえのないもの」でもない。この二つの常識は、まるで違うもの...。
江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名そして隠居名という4種類の改名があるのが一般的。幼名は親などが名づけるが、15歳か16歳で成人したあとは、本人が自ら名を改める。
江戸時代の名前は、社会的な地位をある程度は表示する役割を担っていた。たとえば、~庵(あん)は医者一般がよく名乗るもの。名前は身分格式にもとづく秩序を重視する近世社会において、社会的な地位を相手に知らせる役割をもっている。
江戸時代、庶民も苗字(みょうじ)をもっていたが、それは自ら名乗るものではなく、人から呼ばれるものとして用いられていた。
この本ではありませんが、江戸時代の庶民も「氏名」をもっていたが、それは名乗るものではなかったので、あたかも庶民は「氏」をもたなかったかのように現代日本人が大いなる誤解をしたと指摘する本を読んだことがあります。
江戸時代の庶民にとって、苗字とは、自分から他者に示すものではなくて、呼ばれるものだった。また、「壱人両名」(いちにんりょうめい)という、一人で二つの身分と名前を同時に保持することができていた。これは、イメージとしては本名とペンネームの関係ですが、本質的にはまったく異なります。それぞれ、公の場で通用するものだからです。
そして、明治8年、山県有朋が、徴兵事務のために、平民に必ず名乗らせることにして以降、ついに現在の戸籍制度が完成したのでした。つまり、国が国民を兵隊にとる便宜をあくまで優先した結果として、現在の私たちの常識が成り立っているのです。
江戸時代は夫婦別姓でしたし、死後も別墓が当然だったのです。繰り返しますが、現代日本の常識は江戸時代の日本には通用しません。とても興味深い本でした。頭の体操にもなります。ぜひ、あなたもチャレンジしてみてください。
(2021年5月刊。税込1034円)
2021年5月30日
湯どうふ牡丹雪
(霧山昴)
著者 山本 一力 、 出版 角川書店
久しぶりに山本一力ワールドを楽しみました。俗世間の垢にまみれて、ちょっとギスギスした気分のときには、このワールドにどっぷり浸ると、心の澱(おり)がすっと抜けていき、全身に新鮮な血が流れてくる気がしてきます。血生臭い殺人事件が起きることもありません。詐欺事件が起きそうで、どうなることやらと、ハラハラしていると、途中から予期せぬ展開となり、しまいにはほっと心休まる結末となって...。そして、そこに至るまでに江戸情緒をたっぷり味わうことのできるのが、山本一力ワールドの心地良さです。
江戸時代にもメガネ屋という職業が本当にあったのでしょうか...。創業120年を迎える老舗(しにせ)眼鏡屋(メガネ屋)のあるじは、知恵と人情で問題に挑む、お江戸の名探偵。こんなオビの文句なのですが...。
江戸は小網町のうなぎ屋も登場して、江戸情緒をかき立てます。
店の自慢のタレに含まれたミリン、しょう油、うなぎ脂そして酒が備長炭で焼かれると、旨味(うまみ)をたっぷり含んだ、あの煙となる。
薬種(やくしゅ)問屋では、3種の丸薬を売って名高い。乙丸は、男の精力増強剤、丙丸は武家や老舗商家の内室・内儀が顧客。丁丸は小児の夜泣き・疳(かん)の虫・夜尿症の症状改善に効く。これは、漢方薬の薬局として今もありますよね...。
「明日は味方」が家訓の一つ。これは、今日をひたむきに生きていけば、迎える明日が味方についてくれるということ。なあるほど、そうなんですよね。
江戸町内で人気のあった瓦版(かわらばん)の記者を「耳鼻達(じびたつ)」と呼んでいた。
ストーリー展開が意表をついていて、その展開に心がこもっていますので、最後まで、安心して読み続けることができます。期待から裏切られることがないって、すばらしいことですよね...。
(2021年2月刊。税込1980円)
2021年5月 4日
高瀬庄左衛門御留書
(霧山昴)
著者 砂原 浩太朗、 出版 講談社
いやあ読ませる時代小説です。久々にいい時代小説を読んだという余韻に浸っていると立川談四楼が本のオビに書いていますが、まったく同感です。
司法修習生のときには山本周五郎を読みふけりました。弁護士になってからは藤沢周平です。そして、最近では葉室麟でした。
ちなみに、「士農工商」という言葉が学校の教科書から消えていることを、つい先日、知りました。武士の下に農民、工業従事者そして商人という階層があると教えられてきましたが、武士が支配階級であることは間違いないとしても、農・工・商には上下の格差はないというのです。なるほど、なるほど、です。もともと、この言葉は中国に起源があり、そこでは、フラットな「たくさんの人々」という意味で、使われているのであって、階層間の格差の意味はないというものだというのです。
しかも、士については、商売人が成り上がることもあったし、できたことが、いくつもの実例で示されています。そして、士をやめて商を始めた人もいたわけです。
時代小説ですから、当然のように班内部の抗争を背景としています。ただ、小さな藩だからなのか、それほどの極悪人は登場しません。
主人公は郡方(こおりがた)づとめの藩士。妻は病死した。一人息子は、父親の職業を引き継ぐのだが、あまりうれしそうでもない。郡方は領内の村々をまわって歩く。
野山を歩き風に吹かれると、おのれのなかに溜まった澱(おり)がかき消える。どろどろとしたものが、空や地に流れて、溶けていく...。この心地良さは他に代えがたいものがある...。
登場人物が、実は複雑にからみあっていて、それぞれの役割を果たしながら、謎が解明されていく趣向はたいしたものです。今後ますますの活躍を祈念しています。
(2021年3月刊。税込1870円)
2021年3月13日
椿井文書
(霧山昴)
著者 馬部 隆弘 、 出版 中公新書
『東日流(つがる)外三郡誌』は偽書と確定していると思いますが、古代の東北に未知の文明があったとするものですから、ロマンをかきたてるものではありました。
『武功夜話』も偽書だと断言する本(洋泉社新書)を読むと、そうだよね、偽書だろうねと思うのですが、今でも偽書だと思わず平気で引用したり、いや全部が嘘ではないとする人がいたりして当惑させられます。
この椿井(つばい)文書(もんじょ)は、椿井政隆(1770~1837年)が依頼者の求めに応じて偽作した文書の総称。中世の年号が記された文書を近世に移したという体裁をとることが多いので、だまされやすい。
なるほど、コピー機がないわけですから、人の手で写しをとるしかないときに、元の文書はどこに行ったか知らないけれど、これがその写しだと言われると、紙質の新しさなんて問題にならないわけです。椿井文書は近畿一円に出まわっていて、今でも村おこしに活用されているとのこと。恐ろしいことですね...。
村と村とが対立・抗争している状況で、その有力な解決策の根拠として椿井文書が登場する。必要に迫られ、求めに応じてつくられた偽文書だった。
椿井政隆は、意識的に未来年号を使用したと考えられる。つまり「平成33年1月」というような、ありえない年号を表記したのです。これは、偽文書だと訴えられたとき、戯れでつくったものと言い逃れができるような伏線だと考えられる。さすがに考えていますね...。
国絵図にしても、描写に描写を重ねたとすることで、紙や絵の具が新しいことを怪しまれないように工夫した。
信じたい人々に、その信ずる材料をせっせと供給していたというわけです。
トランプ大統領がインチキ選挙があったと叫ぶと、「そうだ、そうだ」と応える人がいるのと、本質的に変わらない現象ですね...。
(2020年4月刊。900円+税)
2021年2月28日
むさぼらなかった男・渋沢栄一
(霧山昴)
著者 中村 彰彦 、 出版 文芸春秋
渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマが始まることは知っていました(もっとも私はドラマをみることはありません)が、新しい1万円札の顔にもなるのですね。こちらは自覚がありませんでした。
渋沢栄一は三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎とは長く反目しあっていたとのこと。この本によると、岩崎弥太郎は、専制主義的な独占論を主張していたといいます。さもありなん、です。日本の財界って、昔も今も、自分たちのことだけ、金もうけ本位で、国民全体のことを考えようという発想がハナからありませんね。本当に残念です。教育にしても、すぐに役立つ、つまりダメになれば使い捨てる、目先の「人材」育成しか考えていないくせに、大声をあげて道徳教育を強調するのですから、ほとほと嫌になります。そんな財界の権化ともいうべき岩崎弥太郎と反目しあったというのですから、私はそれだけでも渋沢栄一の肩をもちたくなります。
江戸時代の末期、まだ幕府があったころにフランスに渡って、パリで開かれた万博(万国博覧会)を見学し、渋沢栄一はすっかり認識を新たにしたのだそうです。これまた、さもありなん、です。
渋沢栄一は、パリにいたとき、ロシア皇帝アレクサンドル2世、フランスのナポレオン3世、プロシャの皇太子らと一緒に競馬をみたとのこと。1867年6月のことです。
渋沢栄一は、もちろん船でフランスに向かったのですが、横浜を出てマルセイユ港に着くまで48日かかっています。船中でフランス語を勉強したようです。そしてフランスには1年8ヶ月も滞在して、大いに勉強したのでした。
幕末のころ、長州藩は大量の洋式銃を購入できたわけですが、それはアメリカの南北戦争が終わった(1865年)ことによるというのを改めて認識しました。南北戦争が終わって不要となった武器・弾薬類が大量にもち込まれたのです。
イギリス人商人のトーマス・グラバー(長崎の有名な「グラバー邸」の主)から、長州藩はゲベール銃3000挺、ミニエー銃4000挺を購入しました。坂本龍馬の亀山社中が紹介して、長州藩の井上(馨)と伊藤(博文)が交渉にあたりました。この大量の洋式銃の威力はすさまじく幕府軍の兵士たちをなぎ倒してしまい、長州勢の完勝、幕府軍の惨敗となったのです。
渋沢栄一は、埼玉県深谷市の農家の生まれです。農業を営むかたわら養蚕業そして藍(あい)を製造していました。つまり商才を父親から譲り受けたのです。そして、その才能を見込まれて農民から武士に取り立てられたのでした。幕末のころ、農民の子が武士になった例はたくさんありました。新選組の近藤勇や土方歳三、芹沢鴨などもそうです。
明治になって渋沢栄一は政府の要職に就き、さらには辞職して第一国立銀行に入ります。もちろん、そこで大活躍したわけですが、なんと渋沢栄一の肖像の入った額面5円の銀行券が発行されていたそうです。新1万円券の渋沢栄一の登場は「2度目のおつとめ」になるのでした。
財界人が自分と自分の会社の金もうけしか考えず、国の政治をそのために金力で動かそうとするなんて、サイテーですよね。そんなサイテーの財界人が今の日本に(昔もそうだったでしょうが...)、あまりに多すぎて、ほとほと嫌になります。まあ、それでも、ここであきらめてはいけないと思っているのです...。
(2021年1月刊。1600円+税)