弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2023年9月 9日

大津絵


(霧山昴)
著者 クリストフ・マルケ 、 出版 角川ソフィア文庫

 大津絵って、聞いたことがありませんでした。江戸時代の庶民に人気があった絵です。そのころ、浮世絵ほどの人気があったのに、今やすっかり忘れられてしまいました。でも、今でも滋賀県には大津絵を扱う店があるそうです。いかにも素朴な絵です。鬼まで可愛らしく描かれています。
 東海道最大の宿場であった大津、その西端の追分や大谷で旅人に対して大津絵は土産品として売られていた。
 大津絵は、神仏画、世俗画、戯画など、画題は120種以上。量産するため略画化され、型紙で彩色もされた。
 大津絵は土産品として、浮世絵と同じく手軽に買い求められ、庶民の日常生活に浸透していた。また、護符としても身近なものだった。
 大津絵は江戸時代の初期、寛永年間に始まった。大津絵の普及には、江戸時代に盛んだった伊勢参りも背景としてあげられている。
 大津絵に登場してくる鬼は悪い怪物ではなく、人間の善行に触発され、罪をあがなおうとしている。
 著者は、浮世絵ファンは世界中に多いが、同じ江戸時代の代表的な庶民絵画である大津絵について、ほとんど知られていないことを残念に思っています。カラー図版をみたら、なるほど、その思いがよく理解できます。
(2016年7月刊。1400円+税)

2023年7月27日

転換期の長崎と寛政改革


(霧山昴)
著者 鈴木 康子 、 出版 ミネルヴァ書房

 17世紀半ばまで長崎は著しく低い評価にあったが、17世紀後半以降は、財政的・外交的な観点から幕閣によって非常に高く評価されるようになった。それにともない、長崎を評価している長崎奉行の評価も相対的に上昇した。
 元禄12(1699)年に、長崎奉行は芙蓉の間の末席から七席上座となり、京都町奉行よりも上座となった。遠国奉行の中では首座となった。このように、元禄期に長崎奉行は、その地位を大幅に上昇させた。
18世紀には、幕府から長崎に貸与された資金の滞納額は21万両を上回った。それを1748年に長崎奉行を兼務した勘定奉行の松浦河内守は、年に1万5千両、14年賦での返済を命じた。そして、これは1763(宝暦13)年に完済された。そして、それ以降も、長崎奉行は毎年、同額を幕府に献上した。
「半減商売」は、これまでの銅の国内産出量の減少にともなう貿易額の縮小命令だった。
 唐船は輸出品として、銅だけでなく、俵物でも決済できる。オランダ船は銅と樟脳のみ。
 寛政改革では、「半減商売」が強調されていた。これに対して、唐船貿易(中国との輸出入)は減らなかった。幕府はオランダ船より、唐船を優遇する方針を明確に示した。
松平定信による「寛政の改革」の根幹をなすのは、オランダ船のできる限りの排除、もしくはオランダ貿易が断絶しても、長崎、そして長崎貿易が維持できる体制の構築だった。
 定信による長崎貿易政策のもっとも重要な課題は、オランダ貿易を縮小、あるいは万一、断絶したときの対処策にあった。
 寛政改革においては、江戸参府を5年に一度という大幅な参府回数の削減を命じた。唐人には認められていない江戸参府という一種の国内旅行を利用したオランダ人が、各滞在地における日本人との抜荷を警戒し、それを極力防ぐためだった。オランダ人が江戸参府途中の宿は、阿蘭陀(オランダ)宿としてよく知られていて、こうした宿が抜荷の温床になっていた。さらに、オランダ人による江戸での直訴を回避しようとした。また、オランダ人と各地の知識人との交流も警戒した。
 定信は、オランダ人がもたらす西洋の知識・技術を評価しつつも、その反面、考えが奇抜な面があることを警戒した。そして、オランダ船による銅の輸出量は従来の100万斤から50万斤に縮減した。
唐船貿易に関しては「半減商売」という言葉は使われず、オランダ船ほど厳しい制限はされていない。それは、唐船は薬種などをもたらすからだと定信は説明した。
 この本は、長崎における寛政の改革が、あらゆる分野に至るまで幅広くすすめられたことを実証しています。400頁もある本格的な学術書です。
(2023年3月刊。6500円+税)

2023年7月18日

忍者学大全


(霧山昴)
著者 山田 雄司 、 出版 東京大学出版会

 御庭番は、江戸幕府の正規の職名。紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだとき、将軍独自の情報収集機関として設置された。御庭番が将軍以外の老中や目付などの密命も受けたという説は誤り、また、伊賀者・甲賀者などの忍者と混同されるが、それも間違い。
 手足となる側近や社会の動きを独自に入手できる手段がなければ、将軍は行政機構を掌握している老中の意のままになるしかなく、将軍が幕政の主導権を握るのは難しい。
 そこで、吉宗は、将軍を継ぐにあたって、190人ほどの紀州藩士を幕臣に編入し、側近役の大半は旧紀州藩士で固めた。また、紀州藩において隠密御用をつとめていた薬込役18人と馬口之者1人の計17人も同時に幕臣に取り立て、「御庭番家筋」として、将軍直属の隠密御用に従事させた。これがお庭番の起源。17家で発足して、4家が除かれたが、残る13家のなかから別家が9家でてきて、合計22家となり、幕末まで存続した。そのほとんどが御目見(おめみえ)以上の身分となり、なかには勘定奉行にまで累進する者も出た。家禄も500~1200万まで加増された。
 御庭番は、表向きは江戸城本丸御殿大奥所属の広敷役人。実際には、「奥」の役人である小納戸(こなんど)頭取、奥之番の指令を受けていた。御庭番は、将軍自身や小納戸頭取、奥之番の上司で、「奥」の長官でもある御側(おそば)御用取次の直接の指令を受けた。そして、諸藩や遠国奉行所、代官所などの実情調査、また老中をはじめ諸役人の行状、世間の風聞などの情報を収集し、調査結果を「風聞書」にまとめて上申した。隠密御用には、江戸向き地廻り御用と遠国御用の二つがあった。遠国御用は2人1組または3人1組で行う。調査日数が50日かかるときは、2人に対して50両が将軍の御手許(おてもと)金のなかから支給され、残金は江戸に帰ったときに返却することになっている。
 史料で判明した限り、11代将軍家斎から14代将軍家藩までの80年間に遠国御用が46回も行われている。天保12(1841)年の遠国御用は、有名な「三方領知替」のときの調査だった。当時の老中水野忠邦によって発令された「三方領知替」は、庄内領民の反対闘争をきっかけとして、12代将軍家慶によっていったん「中止」と決定されたが、老中水野の建白書によって中止の決定が延期された。そこで、将軍家慶は御庭番を派遣し、その報告を受けて、改めて中止を命じた。この庄内一揆の見事さは藤沢周平の『義民が駆ける』(中公文庫)で生き生きと紹介されていますので、ぜひお読みください。
 近江国膳所(ぜぜ)藩の風聞書も紹介されています。それによると、膳所藩の財政は悪化していて、領民が重税に苦しんでいる、バクチの取り締まりもうまくいっていない、この財政悪化の原因は藩家老たちのぜいたくによるとされている。
 寛政8(1796)年12月に起きた津藩の百姓一揆(全藩一揆)について伊賀者の書いた克明な記録が残っている。それによると、一揆の原因をつくった藩政改革の推進派の奉行や城代家老などが厳しい処分を受けているので、百姓一揆側も厳正にしないと津藩の権威が保てないということで、伊賀者が一揆頭取を捜索したという記録になっている。
 島原・天草一揆にも甲賀衆が活躍している。ただし、近江国甲賀からやってきた忍びは、夜中に原城のなかに入ったものの、九州方言が理解できず、またキリシタン宗門の言葉もあって、情報を収集することはできなかったとのこと、なーるほど、ですね...。
忍者マンガは、今もネットの世界で大流行しているようですね。忍者マンガが初めて登場したのは大正9(1920)年のこと。今から100年も前というから、驚きます。私は、小学生のころは猿飛佐助、そして大学生のときは白土(しらと)三平の『忍者武芸帳』です。これによって、江戸時代の百姓一揆に開眼(かいげん)しました。(ただし、その後、百姓一揆についての認識は少し修正することになりました)。
横山光輝の『伊賀の影丸』も読みましたが、藤子不二雄の『忍者ハットリくん』はマンガを基本的に卒業したあとのことになります。『ナルト』となると、まったく縁がありません。
江戸時代の有名な芭蕉も忍者だったのではないかと前から話題になっていますが、この本でも、たしかに怪しいというのが紹介されています。
それにしても「大全」とあるとおり、堂々500頁、しかも本文2段組の大著、さらには出版元が東大出版会という異例ずくめの本です。3ヶ月で既に3刷というものすごいです。値段の割には、すごい売れ行きです。
(2023年5月刊。7500円+税)

2023年7月 7日

江戸の借金


(霧山昴)
著者 荒木 仁朗 、 出版 八木書店

 江戸時代、人々は借金するとき証文を書いていた(書かされていた)。もちろん口頭の貸借もあったが、返済が滞ると、文書にしていた。識字率の高い日本では江戸時代の農村でも借用証は普通に書かれていた。
江戸時代における農村の借金の大半は、もともと年貢を納められないことによって始まった。年貢未納が増えると口約束をして借金となり、それでも借金が増えると一筆を願って借用証を書く。この借用証が、さまざまな貸借条件を付けられ借金返済を促された。それでも返済できないときは、高額借金返済のために永代売渡証文を作成する。ただし、永代売渡証文を作成して土地所有権を手放したときでも、その土地は、土地売買金額さえ払えば取り戻すことが可能だった。
 永代売買は村落共同体の合意がないと成立しなかった。永代売買の実施は、村落共同体に管理されていた。
 現代日本人の感覚では、土地を売り渡してしまったら、その土地が売主のところに戻ってくるなど考えられもしません。ところが、土地は開発した地主と一体の関係にあるので、いずれ売主のところに戻ってきても不思議ではなかった。それは明治、大正そして戦後まで慣行として続いていた。売買も貸借も一時的なものだという思想が広範に受け入れられ、社会に根づいていた。
 この本によると、出挙(すいこ)は、とても合理的な金銭貸借だった。というのも、稲作の生産力は驚くほど高く、千倍もの富を生み出したから。また、古代の金銭貸借では、利息にも限度が定められていた。たとえば、最長1年につき、元本の半倍まで。(挙銭-あげせん-半倍法)。こうやって債務者の権利を保護していた。
中世の人々はおおらかで、借金できるのも一つのステータスだと考えていた。中世の貸付金利は月4~6%と高かった。
 徳政令は借金を帳消しにするものではあったが、その後の借金が出来なくなれば困るので、必ずしも好評ではなかった。人々は借金帳消しではなく、債務額の10分の1とか11分の1、あるいは3分の1を支払って、貸主との関係を維持しておこうとした。
 「返り手形」というのは、永代売渡証文と別に永代買主が売主に対して売買対象地を受け戻すための証文だった。ただ、この返り手形には、その有効性を担保するため、名主など村の有力者が証人であることが必要だった。
 江戸時代の金銭貸借の実情そして、証文の文言の詳細を知ることのできる本です。
(2023年5月刊。8800円)

2023年6月25日

仁義の侍、三宅藤兵衛


(霧山昴)
著者 天草キリシタン館 、 出版 同左

 島原・天草一揆(1637年)が起きたとき、多数の浪人(失業した武士)が一揆軍に加わりました。一揆勢には火縄銃も数多くあり、鎮圧しようとする幕府軍を一時的には圧倒したのです。
 この本の主人公である三宅藤兵衛は唐津藩側の代官として一揆勢と戦っているうちに戦死してしまいました。多勢に無勢だったのです。ところが、この三宅藤兵衛は、なんと明智光秀の孫。光秀の娘の子だったのです。そして、叔母は有名なキリシタンである細川ガラシャ。ガラシャは幼くして両親を失った藤兵衛を可愛がっていました。
 つまり、キリシタン信者として有名な細川ガラシャによって育てられたも同然の藤兵衛がキリシタン信者の一揆勢と戦い、戦闘の最中に戦死したのです。藤兵衛は明智光秀の孫にあたります。本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀は秀吉によって敗退し、一族滅亡してしまうのですが、当時2歳の藤兵衛は生きのびて、長じて細川家に仕え、その後、唐津藩の家臣になりました。天草には唐津藩の飛び地があり、藤兵衛は、その代官だったのです。
藤兵衛は鎮圧軍を率いて戦ったのですが、一揆勢のほうが勢いがあり、奮戦むなしく一揆勢に囲まれ自刃しました。
 ところが、藤兵衛は一揆勢と果敢に戦ったとして天草一揆が鎮圧されたあと、その功績が顕彰され墓(石塔)が建立され、今に残っているのです。そして、その子孫も現在に続いているとのこと。
 藤兵衛が光秀の孫であることは藩主(細川光尚)の書状に明記されています(この冊子に写真があります)ので、間違いないことなのでしょう。
 今も、天草には藤兵衛の石塔や孫の墓がよく残っているそうです。天草に市立のキリシタン館があり、冊子を発行していることを知り、注文して読みました。
(2020年10月刊。500円+税)

2023年6月 3日

四郎乱物語


(霧山昴)
著者  不詳 、 出版  天草キリシタン館

 原本は天草キリシタン館が個人から委託された分7冊から成る資料(冊子)。今では虫喰いや摩耗、欠損が著しく、保存状態はとても悪い。でも幸いなことに写真と活字版で全文が読める。といっても、昔の文体だし、漢文調でもあり、容易に理解はできない。
「四郎乱」というタイトルは、島原天草一揆を退治する藩政の例からみた本であることを意味する。天草の福連木材で庄屋をつとめた尾上家に伝わった冊子。作者も作成年も明らかではない。江戸時代の中期には成立していたと考えられている。
 「四郎乱」は、基本的に一揆を「悪」とした体制側の正当性を強調する軍記物語。歴史記録というより文学作品として読まれるべきもの。
 熊本藩が藩校「時習館」に収蔵していた、すなわち公的に保管していた。
 このころ(寛永14年、1637年)は、島原・天草とも大干ばつで住民は飢饉に直面した。何かにすがって救いを求めようという心情からキリシタンは増え、ついには島原の大乱にならって、天草でも百姓たちが一揆を始めた。
 唐津や熊本からの援軍が到着するまで、キリシタン軍1万人に対して藩軍は500騎。唐津からの援軍6千人が到着し、それまで城内にたて籠もっていた藩軍はなんとか生きのびることができた。
 島原の原城に籠城した絵師の山田右衛門は城外の藩軍と連絡をとりあっていて、藩軍に救出されて大住生することができた。
原文は独特の流麗な崩し字なので、さっぱり分かりません。それでも、とても詳細に一揆の流れをたどっていますので、原文とあわせながら読んでいるうちに、少しずつ分かってきます。貴重な復刻版です。
(2016年3月刊。2000円+税)

2023年5月25日

菅江真澄・図絵の旅


(霧山昴)
著者 石井 正己(解説)、 出版 角川ソフィア文庫

 江戸の旅人が旅先の各地を絵に描いて残しています。墨絵(すみえ)ではなく、カラーです。
 菅江真澄は30歳のとき、今の愛知県を出発し、東北を経て北海道に渡り、その後、本土に戻って、青森県から秋田県に入って76歳で亡くなった。故郷に帰ることもなく、まさしく漂泊の人生。
 真澄は、日記や地誌を丹念に残し、2400点ほどの図絵が添えられている、しかも、図絵は丁寧に彩色されている。真澄の肖像画も紹介されていますが、これまた見事な彩色画(カラー図)です。
 1783年から1784年ころは信州を旅しています。和歌の力で北海道に入れたと紹介されています。いったい、旅人の収入源は何だったのでしょうか...。
風景画は、中国の山水画を彩色したようなもので、趣があります。
 風景画だけでなく、植物画もあります。コタン(集落)のアイヌ婦人(メノコ)たちが草の根を入れた木皮袋を背負ってやってきた、その草の根もきちんと描いています。まるで植物学者のようです。牧野良太郎に匹敵するほどの詳細な写生です。
 「てるてるぼうず」とほぼ同じ、「てろてろぼうず」も描かれています。
 真澄は、北海道に渡ってからは、自らもアイヌ語を習得するよう努めた。
 当時のアイヌたちは海上でイルカを狩りたてていた。北海道の沖にはイルカがたくさんいたようです。まるでドローンでも飛ばしたように上空からの図があります。
 秋田の「なまはげ」は「生身(なまみ)剥(はぎ)だということを知りました。子どもは声も立てずに大人にすがりつき、物陰に逃げ隠れる。まさしく、その状況が描かれています。
 草人形(くさひとかた)の絵も面白いです。杉の葉を髪にし、板に口鼻を描き、わらで胴体をつくり、胸に牛頭(ごず)天王の本札をつけて、剣を持っている人形(ひとかた)です。
 村里の入り口に置いて、疫病を村に入れないように願ったといいます。
 よくぞ、これだけの図絵と日記が残ったものだと驚嘆するほかはありません。
(2023年3月刊。1500円+税)

2023年5月 9日

長崎と天草の潜伏キリシタン


(霧山昴)
著者 安高 啓助 、 出版 雄山閣

 天草地方とキリシタン・島原天草一揆についての知見を深めることができました。
 この本によると、島原天草一揆への参加をめぐってキリシタン内部は分裂状態となり、一揆に参加しなかったキリシタンが「潜伏キリシタン」になっていったとのこと。
 そして「潜伏キリシタン」たちは洗礼名をもちながらも、絵踏をしたため、幕府から禁じられたキリスト教(耶蘇宗門)ではなく、別の宗教「異教」だとされた。彼らは仏教徒として寺情制度に従っていて、地域社会の構成員となった。
 文化2(1805)年の天草崩れで、5205人が検挙されたものの、「非キリシタン」の仏教徒と判断され、厳刑に処された者はおらず、差免(放免)となった。
 天草にキリスト教を伝えた宣教師のアルメイダは、育児院や病院を開設した。現世利益を重んじる人々は、そのおかげで助かりこぞってキリスト教に入信した。
アルメイダはマカオで司祭に叙せられたあと、天草に戻り、1583(天正11)年に天草で亡くなった。
 一揆当時の天草は、唐津藩の飛び地だった。
 キリシタン大名として有名な高山右近は豊臣秀吉から追放されたあと、同じくキリシタン大名だった小西行長を頼って天草へやってきた。高山右近が隠れて住んでいることがバレてしまい、結局、フィリピンへ渡っていった。
天草における一揆勢と果敢に戦い、ついには戦死した三宅藤兵衛重利は明智光秀の外孫にあたり、また細川忠利、熊本藩主と従兄弟(イトコ)の関係にあった。唐津軍は一揆勢と戦うなかで苦戦を強いられ、ついに藤兵衛は戦死してしまった。
 一揆勢は唐津軍と戦うとき、「鉄砲いくさ」の状況だった。次第に一揆勢が優勢となり、唐津軍は後退していった。
 開戦前は一揆勢に味方しなかった村人も、一揆勢の勢いと唐津軍の敗走を目のあたりにすると、続々と一揆勢に加わった。天草島内の百姓たちは戦況を見極め、優勢なほうにつこうとした。戦力としては上回る唐津軍に対して一揆勢が優勢になったのは、一揆勢の巧みな鉄砲術と強固な結束力によるところが大きい。
 一揆に敗退した藤兵衛について立派な墓が建立されたのは、幕府側から見た天草一揆としての位置付けによる。藤兵衛は、いわば「正義の名将」と昇華したようだ。
江戸時代、天草は流人処分の地とされた。江戸からの流人は一度で50人から100人ほどの大勢がやってきた。寛文4(1664)年から享保元(1716)年までに、天草には139人の流人が連れてこられた。いやあ、これはちっとも知りませんでした。流人といったら、八丈島などの遠い島々かと誤解していました。
知らない話がたくさん出てきて、面白くかつ知的刺激を受ける本でした。
 
(2023年1月刊。3520円+税)

2023年5月 5日

島原・天草一揆


(霧山昴)
著者 小西 聖一 、 出版 理論社

 私は原城跡には3回ほど行ったことがあります。こんなところに3万人もの農民たちが家族連れで籠城し、その数倍もの幕府軍と長いあいだ抗して戦ったのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ近くでは土産品を売っていますし、少し離れたところには立派な資料館もあります。
 そして、忘れられないのは、秋月(福岡県)の郷土資料館に天草一揆に従軍した秋月藩から見た戦闘状況を刻明に描いた絵巻物が展示されています。これまた必見です。
この天草一揆は、キリスト教を禁圧したことへの抗議というだけでなく、百姓の生活を厳しく圧迫した苛酷な藩政に対する抗議、つまり百姓一揆の面もあるとみられています。
そして、農民たちを戦闘の場面で指導したのがキリシタン武士たちでした。キリシタン大名だった小西行長の家来たちです。
幕府側の最高司令官は板倉重昌で、当時50歳。1万5千石の三河の小藩の藩主。ところが、続いて20数日後、老中・松平信綱が二人目の司令官として伝命された。
二人も司令官がいるなんて、異例ですよね。
戦国時代、ザビエルたち宣教師の活躍の成果として、全国のキリシタン人口は13万人。うち島原、大村、天草などに11万5千人、豊後(大分)に1万人、京都に5千人。これって、地域的にあまりに偏っていますよね、どうしてなんでしょうか...。
豊臣秀吉が、なぜ急にキリシタンを厳しく取り締まるようになったのか、いろいろ説があるようです。
 小西行長は、堺の商人の出身で、秀吉に取り立てられて大名にまで出世した。高山右近の影響でキリシタンとなり、アウグスティヌスといった。宇土に城を構え、肥後の南半分、天草の島々も支配する領主となった。
関ヶ原合戦のころ、全国のキリシタンは75万人にまで増加した。家康、秀忠、家光と、三代の将軍もキリシタン禁圧をすすめた。
 初めの司令官の板倉重昌は総攻撃を命じて、自らも進攻軍にいたところ、原城の一揆軍の鉄砲にあたって戦死した。その直後に松平信綱が幕府軍の陣営に着任した。
 このことから、板倉重昌は焦って死地を求めて無理を承知で最前線に出て、ついに戦死してしまったという説が有力です。状況としてはありえますよね...。
 原城跡を12万の幕府軍が取り囲んで、気長に待つ兵糧(ひょうろう)攻め、干乾(ひぼ)し作戦が取られた。そのうえで、幕府軍は総攻撃に移って、城内にいた3万7千人もの老若男女をみな殺しにしたのです。
 今でも、原城跡を深く堀りすすめると、当時の遺物が発見されるとのことでした。
 ぜひまた、原城跡に行ってみようと思います。
(2023年1月刊。1800円+税)

2023年3月11日

木挽町のあだ討ち


(霧山昴)
著者 永井 紗耶子 、 出版 新潮社

 いやあ、読ませました。電車に乗る前にホームで読みはじめ、車中ではあっというまに終点に着き、少し時間がありましたので、コーヒーショップに入って読了しました。心地良い感触に浸りながら、梅の香りの漂う目次地へ、いつもよりゆっくり歩いていきました。もう春も間近だと実感しながら...。
 冒頭に仇討ち(かたきうち)が無事になし遂げられたことが知らされます。場所は芝居小屋の裏手、雪の降る中です。赤い振袖をかぶった若い女性が傘を差して立っているところに、おおがらな博徒が歩み寄り、声をかけた。すると、かぶっていた振袖をとると若い男性で、白装束になって仇討ちの名乗りをあげた。
 「我こそは伊能清左衛門が一子、菊之助。その方、作兵衛こそ我が父の仇、いざ尋常に勝負」
 そして真剣勝負の切り合いが始まり、若衆が博徒を切り倒し、首級(しるし)をもって立ち去っていく。見事に仇討ちは成功するのです。目出たし、目出たし...。
 さて、では、この話は次にどう展開するのでしょうか。若衆の仇討ちに成功するまでの苦労話が紹介されるのでしょうか...。
 オビに書かれているのは、「雪の夜の惨劇。目撃者たちの証言に隠された、驚愕(きょうがく)の真相とは」です。読んだあと、このオビのフレーズに私はまったく異議ありません。見事なドンデン返しというか、謎解きが少しずつ進んでいくので、最後まで目が離せません。
 そして、若衆を取り巻く人間模様がなんとも心地よいのです。少しばかり悪人も登場はしますが、全体として、人情味あふれる人たちが次から次に登場してきて、そうなんだよな、この社会もそんなに捨てたもんじゃないよね。自殺するなんて、そんなもったいないことしないで、もう少しだけがんばってみたら...と、お互い声をかけあいたくなります。
 よくできた時代小説として一読をおすすめします。
 この著者の『商う狼、江戸商人杉本茂十郎』(新潮社)も面白かったですよ。
(2023年1月刊。税込1870円)

前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー