弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2023年2月12日

江戸にラクダがやって来た


(霧山昴)
著者 川添 裕 、 出版 岩波書店

 江戸時代、2頭のラクダが日本にやって来て、西日本一円を巡業していたというのです。
 文政4(1821)年にオランダ船に乗ってラクダがやってきた。これは、オランダ商館のカピタンから江戸の将軍家への献上品のはずだった。ところが、将軍家は献上を認めながらも出島に留め置くようにと指示した。その理由は分かりませんが、ラクダを養うことの大変さを考えてのことだったのではないでしょうか。
 江戸時代の日本にラクダがやってきたのは、実は、これが3度目。ただし、1回目は将軍家光への献上品となって庶民は見物できなかった。2回目は、アメリカ船が運んできたものだったので、すぐに戻された。
 江戸では3年後の文政7(1824)年8月から両国広小路でラクダの見世物が始まり、半年間も続いた。見物料(札銭)は32文。これは、歌舞伎の最安の入場料の4分の1なので、安い。つまり、庶民が楽しめた。
 2頭は、5歳のオスと4歳のメス。夫婦ではなかったかもしれないが、世間は仲の良い夫婦をラクダにたとえるようになった。
 ラクダを見て狂歌師たちはたくさんの句(狂歌)をつくり、また、絵師たちが写生してラクダ絵図として売り出した。
 ただ、ラクダ見物は1回目こそ熱狂的に人が集まったものの、2回目は、不入り、不評となった。というのは、ヒトコブラクダは人に馴(な)れた、おとなしい動物であり、何か芸が出来るわけでもなかったから。それで、日本人が唐人風の装いをして、ラクダの周囲で太鼓を叩いたり、「かんかんのう」を歌い踊ったりして、その場を盛りあげた。
 ラクダが運べるのは長距離だと160キログラム、近距離でも最大300キログラム、そして、平均的な1日行程は48キロメートル。ところが、ラクダ見物を誘うチラシには900キログラムを運べるとか、100里つまり390キロメートルも行くなどと、「白髪三千丈」式の誇張した表現がなされた。まあ、広告とは、そういうものでしょうよね、昔も今も...。
 ラクダを見ることで、悪病退散の効能を庶民は期待したようです。江戸時代も、今のコロナ禍以上に何度も感染症などに襲われて、大量の死者を出していました。
 それにしても、12年間もラクダが日本各地を巡業してまわっていたなんて、知りませんでした。鎖国といっても、日本人は世界への目はもっていたのですね...。
 とても面白い本でした。
(2022年9月刊。税込3190円)

2023年1月22日

豪商の金融史


(霧山昴)
著者 高槻 泰郎 、 出版 慶応義塾大学出版会

 著者には失礼ながら、学者の金融に関する小難しい論文集だろうと、まったく期待もせずに読みはじめたのでした。ところが、予期に反して、意外や意外、とても面白くて、江戸時代の豪商の生きざまを知り、また、その息吹きを感じることができました。
 NHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」(2015年9月より全156回)の主人公である廣岡浅の関係する廣岡家の古文書が発掘され、それにもとづいているので、話がとても具体的で分かりやすいのです。
 旧家の大蔵に古文書が埋もれていたのです。それは2万点超もありました。
 大同生命の創業一族にあたる廣岡家は、江戸時代には、三井、住友、鴻池と肩を並べる豪商でした。姓は廣岡、屋号は加島(かじま)屋久右衛。東の大関が鴻池で、西の大関を加島屋久右衛門(加久。かきゅう)がつとめていたのでした。
 江戸の商人の多くは現金決済していたのに対して、大坂商人は手形決済を主としていた。大坂には「大坂法」と呼ばれる独特な法制度が敷かれていた。債権者を保護する傾向の強い法制度である。
 18世紀までは京都商人のほうが優位にあった。しかし、大名貸がうまくいかずに、京都商人は没落し、その代わりを大坂商人が担った。大坂は物流の拠点にある点に強みがあった。
 大坂の米市場では、米切手(米手形)が登場し、流通した。
 「加久」は、大名貸をするだけでなく、江戸幕府の経済政策のなかで知識の提供を求められた。資金と市場知識の両面で幕府の経済政策に豪商は組み込まれていた。
 大坂の堂島米市場で、帳合米(ちょうあいまい)商(あきな)いという画期的な取引方法が始まった。一種の先物取引である。しかし、今日の先物取引とは異なり、現物の受渡を予定しないものなので、今日の指数取引をみるべきもの。
 江戸幕府が堂島米市場のこの取引を公認したのは1730年8月のこと。米価が底値をつけたとき。
 「加久」は萩藩との関係では「館入(たちいり)」となった。蔵屋敷の出入りを許され、大名の資金繰りや資金調達の相談に応じたり、優先的に融資する関係にあった。
 大名は自らの詳細な財務情報を大名貸商人に開示し、そのことで安定的な融資を受ける。大名貸商人は、得られた財務情報にもとづいて大名の座性運営を監視し、規律を与えることで融資の安定性を担保する。このような長期間で密接な関係を相互に構築した。
 廣岡家(「加久」)は、全国120以上の諸家(将軍家、大名、旗本など)へ貸付していた。そして、維新政府にも協力的だった。要するに、大名貸は得られる利益が大きいかわりに、リスクも大きい。そこで、リスクを少なくする方法があれこれ考えられていたのです。さすが、江戸時代を生きのび、明治以降も苦難を乗りこえたわけです。
 2万点超の古文書を読み解いて、時系列に並べたり、項目ごとに比較したり、大変な作業だったと思います。心より敬意を表します。
(2022年10月刊。税込2970円)

2023年1月 1日

大奥御用商人とその一族

(霧山昴)
著者 畑 尚子 、 出版 岩波書店

 江戸時代、11代将軍家斉(いえなり)の時代に、江戸城大奥や大名家に出入りしていた道具商・山田屋の6代目当主、黒田庄左衛門徳雅(のりまさ。1773年生1855年亡)が書き残した記録を読み解いた本です。黒田徳雅は狂歌師・山田早苗でもありました。
 この「家伝」には、ときに事件に巻き込まれて家業の存続が危うくなったり、火事に見舞われたり、泥棒にはいられたりという状況が書きつづられている。
 江戸時代には、日記を書くという習慣が広く庶民にまで浸透した。
 将軍家族ら御殿の用向きは、一般に御上(おかみ)御用と呼び、長局(ながつぼね)に住まう奥女中たちの用向きを御次(おつぎ)御用といった。広敷(ひろしき)御用は両者を含む。
 大奥の権力者への多くは公家出身者。
 奥女中の出世コースは二つあった。一つは老女となって大奥を牛耳ること。もう一つは、側室となり子どもを産み、やがて将軍生母となる。
 親の身分にかかわらず、奥女中になることはできたが、農民や商人の娘は下位の職制か、大奥女中が自分の部屋で使役する部屋方女中にしかなれなかった。
 奥女中がもっとも多かったのは、11代家斉の時代。家斉には、50人以上の子女がいた。成長して婚礼をあげた娘は12人いて、1人につき50人ほどの女中が大奥より姫君につけられ、輿(こし)入れのとき、一緒に大名家に移った。雇い主は、あくまでも幕府。
 家斉の子沢山は幕府の財政を圧迫したが、同時に御用商人を潤し、その経営を安定させた。それは、ひいては江戸の経済を好景気に導いた。
 商人が幕府や諸大名の新規御用を得たり、獲得した御用を継続して御用商人としての立場を維持していくためには、親類の女性に奥奉公をさせることや、奥奉公をした女性を妻とすることが欠かせない。
 山田屋の当主となった徳雅は、親族が奥女中となって、大奥との取引に深く食い込んだ。力のある女中に気に入られることが大奥との取引では肝要だった。
 文化11(1814)年5月25日未明、山田屋に盗賊が忍び込み、小判やカンザシ10数本とビロードの紙入れなどが盗まれた。
 文化13(1816)年4月15日、江戸城内で上演された能の見物に徳雅は招かれた。
 百姓・町人の娘であっても、奥女中としての奉公を経験すると武士と結婚することが可能となり、実例がある。これを見上(みあが)りという。
 狂歌師・山田早苗は何度も旅に出かけ、いくつもの旅行記を残した。
 江戸時代の上流商人の生きざまを紹介した貴重な本だと思いました。
(2022年10月刊。税込2420円)

2022年12月 4日

知る、見る、歩く!江戸城


(霧山昴)
著者 加藤 理文 、 出版 ワン・パブリッシング

 東京に行くと、必ず皇居周辺を通りかかることになります。皇居1周ランニングをしている人たちをいつも見かけます。
 江戸城の古地図を見て、私になじみのあるのは、なんといっても桜田門です。桜田門外の変を思い起こします。
 大手門は、日比谷あたりのビジネス街ですし、日比谷門は日比谷公園と、公園に面している日弁連会館ですね。
 あと、半蔵門も身近でした。というのも、半蔵門の近くに「ふくおか会館」という安くて、そこそこサービスのいい福岡県の関わる宿泊所があり、日弁連の役員をしていたときに連泊していたからです。
 江戸町奉行所は二つあり、南町奉行所は有楽町駅の近く、北町奉行所は東京駅近くにあったようです。
 赤坂見付(みつけ)とう地名にもなじみがありますが、この「見付」とは見附、つまり見張り番所(ばんしょ)のこと、監視所です。街道の面倒に土台を石で固め、その上に土を盛り、さらにその上に柵(矢来、やらい)を設けて、警戒する番所をいう。
 「江戸」とは、「入り江にある港」をいう。江戸城は水の城だった。
 江戸城の本丸が何度も火災で焼失したというのは事実でしょうか、不思議です。警戒厳重だったはずなのに...。
 江戸城大奥の生活というのには興味があります。たまに外出したりして、それほど窮屈な生活ではなかったようですね。完全な「カゴの鳥」生活ではなかったようです。
 江戸は海を大々的に埋立しています。浜松町駅から新橋駅にかけては深い入江のように海になっていたのですね。愛宕(あたご)山あたりからが地上部になります。
 江戸城の石垣も、たくさんの造り手によって、いろいろな形状の大石が使われています。遠くは九州から大石を船で運んできて、地上部分はモロッコに乗せて運んだというのですから、すごいですよね。
(2021年3月刊。税込1980円)

2022年11月30日

「伊達騒動」の真相


(霧山昴)
著者 平川 新 、 出版 吉川弘文館

 面白い本です。江戸時代の大名家も、内情はいろいろあって、大揺れに揺れるところも少なくなかったようです。確認されているお家騒動は40件以上。お家騒動とは、大名家に発生した内紛のこと。福岡藩の黒田騒動、佐賀藩の鍋島騒動、加賀藩の加賀騒動が有名だが、それより有名なのは、仙台藩の伊達騒動。
 伊達騒動は17世紀の仙台藩に起きた二つの事件から成る。その一は、放蕩(ほうとう)にふける三代藩主の伊達綱宗が藩主に就任してわずか2年で強制隠居させられたこと。その二は、仙台藩奉行(家老)の原田甲斐宗輔が、藩主一門の伊達安芸宗重を境界争論の審理中に大老酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清邸で斬殺したこと。普通の大名なら即とりつぶしの理由になるような大事件が、わずか10年の間に2度も起きた。それでも仙台藩は取りつぶされなかった。なぜ、なのか...。
 二代藩主であった伊達忠宗は、生前、綱宗の挙動に大きな不安を抱いていた。綱宗の行儀の悪さは相当なもので、父親(忠宗)の叱責にも聞き入れないのなら、勘当する(親子の縁を切る)とまで思っていた。すなわち、綱宗は酒乱気の気があった。父の忠宗は、綱宗に「一滴も飲むな」と断酒を命じていた。
 筑後柳川藩10万石の大名・立花忠茂は、綱宗の監視役に就いた。忠茂は綱宗の義兄になる。藩主・綱宗の「御行跡」が悪いのは、「夜行」、つまり遊郭の吉原通いのこと。
 しかし、結局、1660年7月、立花忠茂・伊達宗勝などが幕府に綱宗の隠居と弟または亀千代への相続を願い出た。この連署証文には、14人が加わった。主要な一門と奉行。当時、藩政を運営していた主要な人物が署名に加わった。綱宗の隠居願いは、藩の重臣の総意だった。
 逼塞(ひっそく)とは、門を閉ざして白昼の出入りを許さないこと。閉門は門扉や窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許さない監禁形。処分としては、逼塞より閉門のほうが罪が重い。
 閉門とされた綱宗は、仙台藩の下屋敷(品川屋敷)に移り、72歳で亡くなるまで、ひっそりと生活した。とはいうものの、実は、綱宗には側室の初子のほか、7人もの側室がいて、初子とのあいだに2人の男子、そして他の側室から7人の男子と11人の女子が生まれた。いやはや、たいしたものですね...。これでは普通の隠居と変わりませんね。
 このころ、仙台藩の財政状況は悪く、逼迫しはじめていた。二つめの伊達騒動の原因をつくったのは野谷地(のやち)、つまり未開発の原野や湿地帯についての争い。係争地は蔵入地によるという明確な方針が忘れ去られ、また、重要な証拠となるはずの「国絵図」も思い出されなかった。信じられませんね...。
 幕府の老中たちは、すでに早くから仙台藩における治政の乱れを知っていた。
 1671(寛政11)年3月27日、大老酒井忠清邸の大書院で、原田甲斐宗輔が、やにわに脇差を抜いて伊達宗重の首筋に切りつけ、宗重は即死した。原田も斬られた。
 この原田の乱心について、著者は、原田に非があったことは明らかなので、結局、身の破滅を悟り、逆上して刃傷に及んだとみるのが自然だとしています。
 この大事件が起きた当日、老中は仙台藩のとりつぶしはないから心配するなと明言したとのこと。ただし、綱宗のあとを継いだ幼い藩主の後見人たちは責任を問われています。
 また、原田宗輔の4人の男子は切腹を命じられ、5歳と1歳の孫たちも処刑された。男子の血筋は根絶やしにされた。これは厳しい処分ですね。
 伊達騒動は、単なる権力闘争ではなく、野谷地という知行地の境界相論に端を発する民衆社会のあり方にかかわった騒動だった。なるほど、そのように評価できるのですね。
 山本周五郎の『樅(もみ)の木は残った』は、原田宗輔について、大老酒井と伊達宗勝による仙台藩乗っ取りを防いだ忠臣だと評価する。しかし、そのストーリーはつじつまがあっていない展開だと著者は批判しています。
 また、伊達家を改易すれば、その反響の大きさに幕府は恐れをなし、とても改易なんかできなかったとしています。なーるほど、ですね。大変勉強になる本でした。
(2022年1月刊。税込2200円)

2022年11月14日

桜ほうさら


(霧山昴)
著者 宮部 みゆき 、 出版 PHP研究所

 江戸時代、江戸随一の料理屋として名高い「八百善」は、店で客に供する料理について、その四季折々の献立を文章だけでなく、図にし、彩色版画を添えた「料理通」なるシリーズ本を刊行していたというのです。圧倒されますよね。まるで、現代東京のレストランや寿司店をミシュランが評価してガイドブックに仕立てていようなものです。彩色版画つきというのですから、精巧なカラー写真で料理が紹介されているのと同じほどの効果があったことでしょう。
 もう一つ、文化文政時代の江戸では朝顔が大流行しました。いろんな朝顔を掛け会わせて、変わった色や形の朝顔の新種をつくり出そうと、人々が必死になったのです。もちろん、この本には、そんな朝顔の色や形は紹介されていませんが、別の本でみると、それこそ奇妙奇天烈、あっと驚くしかない朝顔の変種が次々に生み出されたのでした。
残念ながら、今日には残っていません。でも、私には、昔ながらの色と形が一番です。
主人公の父親は、ある日突然、藩の御用達(ごようたし)の道具屋から賄賂(まいない)を受けとっていたと訴えられました。まったく身に覚えのないことなのに、証拠の文書があった。本人が見ても自筆としか思えないもの。ついに、身に覚えがないことながら、白状するしかなかった。役職を解かれ、蟄居(ちっきょ)閉門を命ぜられた。屋敷の周辺には竹矢来(たけやらい)が巡らされ、見張りの番士が立った。
さて、この冒頭のエピソードがどのように展開していくのか...。さすが、宮部ワールドです。
話は、江戸での、のどかな長屋生活に転じたかと思うと、次第にミステリーじみてきます。
いやはや、いったい、これはどんな結末を迎えるのか、さっぱり見当もつかないうちに、どんどん人が殺されていき、事件の真相に近づいていくのでした。
相も変わらず、見事なストーリー展開です。600頁の大作ですが、読後感は、なるほど、そういうことだったのか...、と謎解きに感心しつつ、後味の悪さはあまりなく、読み終えることができました。パチパチパチ...。久しぶりの北海道旅行の機中・車中で読了したのです。
(2013年3月刊。税込1870円)

2022年11月 5日

先生のお庭番


(霧山昴)
著者 朝井 まかて 、 出版 徳間文庫

 江戸時代、長崎の出島にオランダ商館があり、そこから日本は海外の情報を仕入れていました。その商館にやってきたシーボルトという若い館員は、医師でしたが、日本各地の植物を採集し、ヨーロッパに種(タネ)や苗などを送り届けていました。その一つがアジサイです。アジサイは「オタクサ」と名づけられました。シーボルトの日本での女房の名前(お滝さん)からとられたものです。ヨーロッパにアジサイの花はなかったようです。
 シーボルトは江戸に上り、将軍にも拝謁していますし、当代の知識人がシーボルトに会いたくて全国からやってきました。
 シーボルトは日本全国の地図を伊能忠敬が作成したのを知り、その伊能図をこっそりオランダへ送ろうとします。ところが、その船が難破してしまったことから、積荷に伊能図があることが幕府に知られてしまい、ついには何人もの逮捕者まで出るというほどの騒動になりました。
 こうやって、タイトルの「先生」とはシーボルトだと分かります。すると、お次は「お庭番」です。お庭番というと、江戸城から出て各国のスパイをする人ではないのか...。それとも、シーボルト先生を見張る役になりますか...。いえ、どちらも違います。ここでの「お庭番」とは、日本各地の珍しい花や木を植えて育てる役、つまり、文字どおりお庭の草花を番して、保護・育成する人のことです。
 たくさんの珍しい草花が長崎・出島にやってきます。そして、それを海外(オランダ)に届けようというのです。何ヶ月もかかる船旅に耐えるためには、いくつもの工夫が必要になります。お庭番は大変なんです。そんなストーリー展開をうまく読ませます。さすがの筆力でした。
(2014年6月刊。税込693円)

2022年10月30日

咲かせて三升の團十郎


(霧山昴)
著者 仁志 耕一郎 、 出版 新潮社

 江戸時代も後期の歌舞妓(かぶき)の舞台で大活躍した七代目・市川團十郎(だんじゅうろう)の半生記が見事に語られています。
 東西(とざい)、東西...。七重の膝を八重に折り、隅から隅まで、ずずずいーと、御(おん)願い申し上げ奉(たてまつ)りまする...。
 市川團十郎家が座頭をつとめる芝居小屋では、初代團十郎が初春興行で初めて「暫(しばらく)」を演じてから、二代目以降も見世興行の序幕は「暫」と定められている。
 市川團十郎家は、「成田屋」の屋号をもつだけに下総国(しもふさのくに)幡谷(はたや)村にある成田山新勝寺とは縁深い。江戸での出開帳(でかいちょう)の折には、代々の團十郎が不動明王を演じてきた。
 江戸庶民のあいだでは、不動明王には病を治す力が備わっていると信じられており、弟子たちも、やはり不動明王と縁深い成田屋だから...、と御利益(ごりやく)を信じて疑わない。
 役者の世界で「華(はな)がない」とは、観客を引きつける魅力がないということ。これだけは生まれもっての「天賦の才」というもの、芝居のうまい下手(へた)ではなく、顔の良し悪しでもない。
 「まだ若いから見えないだろうが、71年も生きてくると、若いころには見えなかった世の中の理不尽や不条理が、よーく見えてくるもんだよ」
 こんなセリフに接すると、「そうだ、そのとおり」と大声をあげたくなります。
 演技の優劣・うまい下手は背中に出る。とくに動きの激しい立役に比べ、仕草の小さい女形は舞台で巧みに背中を使い、台詞(せりふ)以上に喜怒哀楽を表し、観客の目を魅了しなければならない。いやあ、これは難しいことですよね...。
 芝居は上辺じゃない。役の心になりきれるかだ。どんなに顔が良くても、役の心、心の芸ができなければ、役者は下だ。心の芸ができてきたら、体も自ずと動き、台詞も重みを増す。それが役を演じるってこと。それができないのは、心に妙な物が棲みついて、濁(にご)っているからだ。
 江戸で人気の高かった相撲力士の雷電為右衛門は、「天下無双の雷電」と刻ませた鏡を寺に奉納したカド(廉)で、江戸払いとなり、戻ってはこなかった。
 歌舞伎は明治以降のコトバであって、江戸時代には歌舞妓と書いていたそうです。その歌舞妓の世界を情緒たっぷりに味わうことができる本でした。
(2022年4月刊。税込2640円)

2022年10月 7日

お白州から見る江戸時代


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 NHK出版新書

 お白州(しらす)とは...、江戸時代のお裁きの場、いわば法廷のようなもの。ここで、法廷と断言せず、「ような」としているところに本書のミソがあります。
 実際のお白州は舞台とは違って「法廷」ではない。その構造、用途、本質、みんな現代日本の「法廷」とは異なる。江戸時代独特の何か、なのだ。
 江戸時代の裁判には出入物(でいりもの。出入筋)と吟味物(ぎんみもの。吟味筋)という二つの区別がある。出入物とは、原告による訴状の提出に始まる裁判で、「公事訴訟」のこと。原告を「訴訟人」といい、被告は「相手」、「相手方」といった。原被は、必ず、それぞれの所属する町や村の名主・家主・五人組らの同伴が必要条件で、彼らを「差添人(さしぞえにん)」と言った。江戸時代の公事訴訟は、必ず所属集団の承認や同伴を要し、個人の行為としては原則として行えないことになっている。
 出入物は、当事者間の示談、つまり「内済(ないさい)」の成立を第一の目的とした。内済不調のとき、奉行が御白州で判決(「裁許(さいきょ)」)を下すことはあったが、それは「百に一つ」と言われたほど少なかった。奉行は、お白州に最初と最後の2回だけだが、必ず登場した。
 吟味物は、訴状がなくても、公儀が必要と判断したときに始まる。
 訴状を出すと出入物として始まるが、内容次第では、吟味物に切り替えてすすめられることもあった。すなわち、「民事」と「刑事」という裁判の区分は近代以降のもので、江戸時代にはない。
 吟味物の判決は「落着(らくちゃく)」と呼ばれる。死罪のときに限って、下役が牢屋敷に出向いて本人に申し渡した。
 江戸時代のお白州とは、治者である公儀が被治者である庶民と公式に対面し、公儀による正当な判断を示す場所だと位置づけられた。
 奉行は、御白州にのぞむ段に居て、裁かれる者が入ってくるのを待った。
 裁かれる者が座る場所には、白い「小砂利」が敷かれた。この砂利の上に筵(むしろ)を敷くことはなかった。
 奉行所の門の中に入ると、必ず裸足(はだし)になっていた。
 砂利の席は、役人からみて、右が原告(訴訟人)、左の方が相手(被告)と決まっていた。
 公事訴訟が盛んになり、待合室(腰掛け)にお酒をもってくる者まであらわれた。
 18世紀初頭、御白州は、かつてない「活況」を生みつつあった。
 問題となったのは、御白州に、誰とどういう順席ですわらせるか...というもの。帯刀する身分でも、下級武士とされる徒士(かち)には、砂利が敷かれた。
 「熨斗目(のしめ)」とは、腰まわりに腰と袖下とに縞や格子の模様を緒りだしたもの。
 その犯罪が武士だったころの行為なら、士分の犯罪の勝負として厳罰にさらされた。
 江戸時代のお白州における「お裁き」は、治者による被治者への恩恵であり、権利という発想はまったくなかった。そして、お白州のどこに、どんな服装で座るのかは、本人にとって、その属する身分のもつ意味を具体的に示すものとして、大きな意味があった。このとき、先例は絶えず参照された。
明治5年10月10日、御白州に出廷する者への座席の区別は完全に撤廃された。
 こんな状況を、こと細かく調べ上げた新書です。いろいろ勉強になりました。
(2022年6月刊。税込1078円)

2022年9月27日

氏名の誕生


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書

 結婚しても姓を変えたくない人が少なくありません。それなら、江戸時代までの日本のように、つまり明治以降の日本の制度にこだわることなく、夫婦別姓を認めて何の不都合もありません。
 自民党の保守派が夫婦別姓に対して頑強に抵抗してきましたが、実は、その根元は勝共連合=統一協会の教義にあることが判明しました。でも、韓国では、昔も今も夫婦は別姓なのです。典型的な「反日」団体の言いなりに動いてきた自民党の保守強硬派は統一協会糾弾の嵐のなか、ダンマリを決めこみ、ひらすら嵐の通り過ぎるのを待っているばかりのようです。おぞましくも、いじけない人々です。
 江戸時代、名前が変わるのはフツーのことで、一生同じ「名前」を名乗る男は、むしろいない。江戸時代の名前は、幼名を除いて、「親が名づけるもの」ではない。改名が適宜おこなわれ、「かけがえのないもの」でもない。現代日本の常識は江戸時代には、まったく通用しない。
 江戸時代の人名には、生まれた順番とはまったく無関係なほうが、圧倒的に多い。甚五郎、友次郎といっても、どちらも長男でありうる。五男でも二男でもないのがフツー。
 幼名や成人名に、父祖の名を襲用することが多い。「金四郎」を父と同じく子どもが名乗るとき、四男ではない。「団十郎」も「菊五郎」も十男や五男であることは求められていない。
 江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名、隠居名の四種類の改名を経るのが一般的。幼名は親などが名づけるが、成人(15歳か16歳が多い)になると、自ら名を改める。このほか、一般通称としての名前に法体名(ほったいな)がある。僧侶や医者、隠居の名前。宗春、旭真、良海、洪庵など。江戸時代の医者は法律で法体であるのが通例で、長庵(ちょうあん)、宗竹、玄昌などと名乗った。
 江戸時代の大名の「武鑑」に「松平大隅守斉興」、「大井大炊頭利位」、「青山下野守忠裕」とあるとき、最後の「斉興」、「利位」、「忠裕」を「名乗(なのり)」と呼ぶ。この「名乗」は「名前」としては日常世界では使わない。江戸時代の書判には、「名乗」の帰納字を崩したものを用いる習慣が広がっていた。書判はもともとは草書体で本人が自書したものを言ったが、江戸時代中期以降は、印判(ハンコ)を用いることが広がった。江戸時代は印形を重視し、そして多用した時代である。この印を捺す行為によって、初めて、その文書に効力が発生する。たとえ自署であっても、無印であれば、それは後日に何の効力ももたない。ちなみに、江戸時代は朱は用いず、もっぱら黒印である。苗字や通称を印文にはまず使用しない。印文は多くが篆書(てんしょ)であり、判読が困難。他者に読ませることはほぼ意識されていない。
 苗字は武士から一般庶民まで持っている。ふだんは通称だけを名前とし、自らはこれに苗字をつけたものを「名前」としては常用しない。すなわち、一般庶民にも代々の苗字がないわけではない。それは名乗や本姓と同じように、設定があっても使わないものだった。
 よく、江戸時代まで一般庶民には名前(姓)がなかったので、明治時代になって戸籍制度ができて登録しなくてはいけなくなったので、あわてて、まにあわせの名前を考え出して届け出たと言われますが、これはまったくの間違いだということです。「姓」はあったけれど、自ら名乗るものではなかったのです。
一般の百姓にとって、苗字(姓)は自ら名乗るものではなく、他人から呼ばれるものとして用いられた。
 「姓名」、とくに「名」を呼ぶのを遠慮するのを「実名忌避」と呼ぶ。
 江戸時代の著名な豪商である鹿島屋久右衛門は「廣岡」、湖池屋善右衛門は「山中」という苗字を持っていた。屋号と苗字は別のもの。苗字は血縁者間で共有するが、屋号は血縁者間では必ずしも共有しない。
 ところが、江戸時代でも朝廷社会では、一般の常識とは異なる常識が通用していた。二つの常識が並行して存在していたのだ。
 江戸時代の庶民にとって、苗字は自らの人名を構成する必須要素ではない。それは、いちいち使用するものではなく、古くから代々の苗字を設定しているのもフツーだった。
苗字公称許可は特別な価値をもっていた。明治3年9月、苗字公称が自由化された。それが、突然、自由化されてしまった。
 では、なぜ、政府がそうしたのか。「国家」にとっての「氏名」とは、「国民」管理のための道具だった。つまり、「国民」に徴兵の義務を課す道具だった。徴兵制度を厳格に実行するため、国民一人ひとりの「氏名」の管理・把握を徹底する必要があった。
 要するに、徴兵事務という政府側の都合だった。そして、そのため、氏名は一生涯、最初の名前は変えないものだという新しい「常識」が誕生し、今日に至っている。
 氏名についての「常識」の変遷がよく分かりました。
(2021年5月刊。税込1034円)
 
 祝日、サツマイモを掘りあげました。地上部分は縦横無尽に葉と茎がはびこっていますので(これがかえって悪いかなと心配しました)、地下のイモはどうだろうかと思ってスコップを入れてみると、出てきたのは、なんと細いものばかり...。昨年と同じ状況で、小粒のイモばかりでした。植えつけを研究してみます。
 日曜日に、アルミホイールにくるんで1時間、オーブンで焼いて食べてみました。黄色い果肉は、ねっとりとまあまあ美味しく食べられました。ほくほく型ではありません。家人からは甘味が足りないから売り物にはならないと不評でした。
 玄関脇の青い朝顔は終わりました。ピンクのフヨウが咲いています。
 そろそろチューリップを植える季節です。サツマイモのツルや葉を穴を掘って埋め込みました。畳一枚分の作業は大変です。リコリスの花の第2波が咲いてくれました。

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