弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2025年1月25日

蔦屋重三郎


(霧山昴)
著者 松木 寛 、 出版 講談社学術文庫

 江戸で出版業が社会的にも重みを増し、企業として確立するようになったのは17世紀半ばの明暦のころ。江戸の書商たちは、書物問屋仲間と、地本(じほん)問屋仲間という仲間組織を結成した。
 書物問屋というのは、堅い内容の数の書籍を商い、仏教関係書、歴史書、医学書などを扱った。地本問屋は、草双子や絵双紙などの地本(読み物ですね)を扱った。
 蔦屋(つたや)重三郎は、18世紀後半の天明・寛政期に活躍した有力な地本問屋だった。江戸芸術界のそうそうたる立保者たちを援助し、彼らに発表の場を与えたプロデューサーといえる。太田南畝、山東京伝、恋川春町、喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九、滝沢馬琴と並べ立てたら、びっくりしてしまいます。
 天明期には狂歌が大流行した。それは京都のインテリ貴族階級に始まったが、やがて庶民のあいだにも広まり、大坂そして江戸に波及して大流行した。狂歌の集まりが盛んだったようです。
そして、天明から安永、文化になると黄表紙が全盛期を迎える。山東京伝などです。1万部も売れていたそうですから、その繁盛ぶりに驚かされます。そして、政治を諷刺する黄表紙が続々発刊されるのです。
 ところが、天明の田沼時代から、松平定信に変わると、寛政の改革が始まり、暗転します。ついに、山東京伝は手鎖50日、蔦屋重三郎も財産半分没収という処分を受けました。このあと、浮世絵に重点が移ります。蔦屋の後半生は歌麿抜きでは語れない。
 そして、蔦屋は東洲斎写楽を一気に売り出した。寛政6年5月のこと。大首絵30種を同時に出版。しかも、大判雲母摺(きらずり)。この大首絵には圧倒的な迫力がある。
 ところが、著者は第3期になると、まったく投げやりの、魂の抜けた形ばかりになる。第4期は洞落してしまった作品ばかり。そして、ついに写楽は消えてしまったのでした。
 第3期が駄作だというのは、ある原型があって、それをコピーしたようなものだからだというのです。そして、著者は写楽が歌舞伎の実際を見ないで描いたのではないかとしています。
 さらに、自分の替え玉をつかったともしているのです。いやあ、まいりました。写楽の絵をじっくり見たことのない者として、第3期、第4期の作品なるものが駄作だといわれても...。まるで分かりません。
 写楽の正体は八丁堀に住む、蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛だというのが今のところの最有力説です。蔦屋重三郎は48歳のとき、脚気で若くして亡くなりました。
 NHKの大河ドラマの主人公になっていますよね...。評判はどうなんでしょうか。
 
(2024年10月刊。1210円)

2025年1月19日

落語の地図帳


(霧山昴)
著者 飯田 泰子 、 出版 芙蓉書房出版

 江戸切絵図で旅する噺(はなし)の世界。江戸市中が舞台となっている古典落語を地域ごとに紹介している、実に楽しい本です。
 切絵図とは、江戸時代後期大流行した住宅地図のようなもの、町々の様子を知るには格好の材料になっている。
 切絵図は、頻繁に改訂し、絶えず最新情報を提供した。携帯に便利な切絵図は江戸に不案内な者にとっては江戸土産品(みやげ)だった。江戸切絵図は、尾張屋が32種、近江屋が43種を刊行している。
 江戸の町割は平安京を手本とした。1区画は京間(きょうま)で、60間(けん)四方。
 所払(ところばらい)は、居住する町から出て行けというもの。今の感覚では刑事罰とは思えない。
 今の有楽町や新橋駅あたりは、江戸幕府の始まりのころは、まだ東京湾の中にある。
 夏、両国橋で大花火が揚がった。橋の上流が玉屋、下流は鍵屋が陣どって技を競いあった。富裕層は涼み船、そうでない者は橋涼みをした。
馬喰町にある公事宿(くじやど)には、一般客は泊まれない「百姓宿」と、旅の客も利用できた「旅人宿」があった。
「本郷も兼康(かねやす)までは江戸の内」。「兼康」は、今の本郷3丁目にあったようです。
 日本橋通1丁目には白木屋があった。越後屋、大丸屋と並ぶ、呉服の大店。
 切絵図には桜並木もしっかり描かれている。花の時季には、よしず張りの茶店が出て見物客でにぎわった。庶民の人気の筆頭は隅田川堤。
 絵がたくさん紹介されていますので、視覚的に楽しめる本になっています。
(2024年7月刊。2300円+税)

2025年1月18日

写楽


(霧山昴)
著者 渡辺 晃 、 出版 角川文庫

 ときは、寛政の改革で有名な松平定信が活躍したときより少しあとのこと。
 寛政6年5月に現われ、わずか10ヶ月したら姿を消した絵師、写楽。
 長らく写楽の正体は不明とされてきましたが、現在は四国は阿波国徳島藩の能役者・斎藤十郎兵衛だというのが有力説。
売り出し当時は、今ほど爆発的な人気はなかったようです。ところが、海外へ浮世絵が流出していくと、海外で写楽を高く評価する本が出て(明治43(1910)年)、その評価が日本に逆輸入され、写楽への評価が一変した。
 ふむふむ、よくある日本人の行動パターンですね、これって...。
 東洲斎写楽を押し出した版元(出版社)は、蔦屋(つたや)重三郎。背景に雲母をぜいたくに使った黒雲母(くろきら)摺(ずり)の役者大首絵で、大当たりをとった。
 寛政の改革のあと、江戸三座である中村座、市村座、森田座は、いずれも資金難に陥って休座した。その代わりを都座、桐座、河原崎座が興行した。
 写楽の大首絵には、ふてぶてしいまでの迫力を感じさせるもの。必死さ、緊張や恐怖の感情が看てとれる。顔を大きく描き、なおかつ身体の一部に動きをつけ、さらに縦長の構図に収めるのが写楽の大首絵。
 写楽は、二重まぶたや、まぶたの上のラインの描写を役者たちに施している。
 亡くなった役者を追悼して出される追善絵。これに対して、役者の死後すぐに出される絵を死絵という。
 蔦重は寛政の改革に際して、過料により身代半減という処罰を受けた。しかし、蔦重はめげることなく、逆に錦絵の分野でさまざまな趣向の作品を刊行していった。
 今も知られる一枚絵の名作は、むしろ写楽の処罰後のものが多い。蔦屋重三郎が亡くなったあとは、番頭の勇助が店を継承し、四代、幕末まで続いている。すごいですね。
 写楽の絵は、いつ見ても圧倒されて、思わず声が上がってしまいます。カラー図が楽しい写楽に関する文庫です。
(2024年9月刊。1340円+税)

2025年1月 8日

島津氏と薩摩藩の歴史


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 吉川弘文館

 薩摩藩と島津氏の強さがどこから来るのか、私は前から大変興味があります。
 島津という地名は都城市にあり、そこに島津荘があった。
島津氏も、いろいろ内紛が起きています。総州家と奥州家との争いというのもありました。
 室町時代の遣明船は細川氏が中心で、堺の商人が主導権を握っていた。薩摩の坊津(ぼうのつ)で硫黄を積み込み、島津氏の警護で中国へ渡航していた。坊津は日本の津の一つとされるほど、対明(外)貿易で栄えた。島津氏はまた、琉球貿易を独占していた。
 ザビエルは薩摩出身のアンジローに接し、当時の日本人が名誉を重んじ、盗みに厳しい罰を与え、知識欲が旺盛で、食事は少量で肉食せず、米で作る焼酎を飲み、海岸の砂を掘って温泉に入ると書いた。
 またザビエルは鹿児島で布教を許された。次のように報告した。
 「今まで発見された国民のなかでは最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のなかには見出せない。日本人は親しみやすく、一般に善良で、害意がない。知識欲が旺盛で、善良で、社交性が高い。」
足利学校の七代の当主は、大隅の伊集院氏の一族。
城下士は半農半士の外城(とじょう)衆中を「肥(こえ)たんで士(さむさい)」と呼んで軽視していた。安永9年、外城衆中を郷士と呼び改めた。
 江戸幕府の初期のころ、島津氏は、日本最大の貿易大名だった。
 薩摩藩は藩士の子弟の教育にも熱心に取り組んだ。子どもは年齢により、二才(にせ)と稚児に分けられた。二才は14.5歳から24.5歳までの青年。稚児は小稚児(6~10歳)、と長(おせ)稚児がいた。小稚児の教育は長稚児が、長稚児の教育は二才が行った。二才たちは互いに鍛錬しあった。
 薩摩藩の産金量は佐渡に次ぐ2位。全国の3分の1の産金国だった。薩摩国で金がとれていたなんて...、知りませんでした。
 島津重豪は、その娘(茂姫)が将軍家斉の御台所になったので、将軍の岳父として権勢を振った。いやあ、これは知りませんでしたね...。
 万延元年(1860年)の8月に生麦事件が起きた。そして、イギリス海軍が鹿児島市中に放火し、3分の1を焼失させた。イギリス海軍はアームストロング砲で砲撃した。薩摩藩は果敢に反撃し、イギリス艦隊も大破一隻、死傷者63人。これに対して、薩摩側は城下の市街地の10分の1が焼失した。しかし、当時、世界最強を誇っていたイギリス軍が退却した結果に世界は驚いた。
 「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということ。日本は勇敢であり、ヨーロッパ式の武器や戦術にも長(た)けていて、降伏させるのは難しい」
 長州藩のほうは四国連合艦隊にたちまち砲台を占拠されるなど、屈服させられましたが、鹿児島湾での戦いは「日本が勝った」のでした。
 ざっとざっと薩摩藩の歴史をおさらいした気分です。
(2024年9月刊。2200円+税)

2024年11月16日

涅槃(ねはん)の雪


(霧山昴)
著者 西條 奈加 、 出版 光文社時代小説文庫

 さすが直木賞作家だけあります。読ませます。しびれてしまいます。
ときは、老中・水野忠邦が推進する天保の改革のころ。北町奉行の遠山景元の下で町与力として働く高安門佑(もんすけ)が主人公。
 水野忠邦の改革を推進する側の鳥居耀蔵も登場してきます。数々の弾圧をすすめた張本人です。この鳥居耀蔵が門佑を誘ったりして、事態は複雑に進行します。
遠山景元は、南町奉行の矢部定謙と一緒に水野忠邦の改革案に抵抗します。たとえば、芝居小屋の閉鎖・縮小、そして株仲間の解散です。
水野忠邦は、貨幣を改鋳(かいちゅう)した。貨幣に混ぜる金銀を減らし、浮いた金銀を幕府の収入とするもの。ところが、1両を4千文と定めた公定相場が崩れ、今や6500文として取引されている。そして、貨幣価値が下がると、物価は上がる。
東町奉行所の与力をつとめていた大塩平八郎の乱が大坂で起きたのは、矢部が西町奉行を辞めたあとのことなのに、鳥居は矢部が大塩の乱に関わったかのように申し立てた。矢部を追い落とすため。そして、それは成功した。
奇席の花として、女浄瑠璃(じょうるり)が庶民のあいだで人気を博していた。この奇席を縮小・閉鎖しろというのが水野忠邦の改革。遠山も矢部も、そろって反対したが、水野は押し切った。
 遠山は西丸小納戸頭取として将軍家慶の側仕えをしていたので、家慶の覚えがめでたかった。そのためさすがの老中・水野忠邦といえども、遠山をやすやすと追い落とすことはできなかった。
矢部を南町奉行から追い落とし、鳥居が南町奉行になってから、遠山の人気は鰻(うなぎ)上りとなった。表立っては口にしないものの、人々の鳥居への反発はすさまじく、その反動で、遠山が名奉行と祭り上げられた。
 この本のすごさは、そんな政治背景をしっかり書きこみながら、男女間のこまやかな機微を読み手に、あの手この手で感じ取らせていくところです。その手腕たるや、最後のところに来て、頂点に達します。うむむ、なるほど、その手があったのか...。ついつい唸ってしまいました。
江戸時代の雰囲気をちょっぴり味わってみたいかなと思う人にはぴったりの人情時代小説です。
(2023年12月刊。660円+税)

2024年7月18日

三井大坂両替店


(霧山昴)
著者 萬代 悠 、 出版 中公新書

 私の住む街は明治時代から三井の「城下町」として歩んできました。まさしく三井が君臨していたのです。反対派は三井が飼い慣らしていた暴力団に脅されることもありました。
 三井系企業が集まる会合によって市政の方向が決まり、市議会にも三井を代表する人物が送り込まれていました。
 この本は三井銀行の前身、三井大坂(江戸時代は大阪とは言いません)両替店(「りょうがえだな」と読みます)の内情を当時の資料をもとに詳しく明らかにしています。
 この三井大坂両替店の当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。
 大坂町奉行所が受理した訴訟(民事訴訟)は、18世紀前半に1万件だったが、18世紀末に2万件に達した。刑事事件で奉行所から入牢を命じられた者は18世紀末には年間400~500人いた。
三井は呉服業と両替業を主力事業とし、1730年代前半には、京都・江戸・大坂における呉服店の奉公人は合計473人、両替店には51人いた。
 鴻池屋と加島屋は大名相手に金貸し業をしていて、民間を相手にしなかった。これに対して、三井大坂両替店は家法で大名への直接融資が原則として禁止されていたこともあり、民間を相手とし、小口取引もおこなっていた。商人の運転賃金需要に対応するもので、業態としては商業金融。
三井は預かった幕府公金を融資に回して莫大な利益を得た。これは送金業務の完遂を条件として黙認されたもので、幕府公金を期日までに江戸に送金することが最優先だった。
 大坂から江戸へは為替(かわせ)手形で送金した。現金を輸送することはなかった。18世紀中頃にこの方法が広く普及した。現金輸送は盗難の危険をともなったからである。
 為替手形の売買には、為替本替を間にはさんだ。ここが大坂商人の信用調査をした。
 万一、不渡りとなったとき、大坂町奉行所は一般的な給付訴訟よりも20日も早く、発行者(売却者)に返済命令を下した。今日と同じように手形訴訟の特例があったというわけです。
 集団生活に不適格な奉公人には退職を促し、長く勤務した適格者には高給で報いる昇給制度を三井はとっていた。つまり、奉公人を定着させたいが、不適格な奉公人は淘汰し、重役になるような勤勉な奉公人は残したいというのが、三井の人材育成方針だった。
三井大坂両替店には顧客の信用度を調査する「聴合(ききあわせ)」業務があった。
 これを原則として20代の若手の手代だった。その結果の信用調査書を「聴合(ききあわせ)帳」という。若手の手代が役づき手代に顧客の信用情報を報告する形態がとられていた。
 耐火性の高い土蔵は大きな価値があるとみられており、土蔵の有無と、その状態に気を配っている。顧客の人柄については、「実体(じってい)」が重視された。真面目で正直なこと、つまり誠実な人柄であることがもっとも望ましい。素行が悪いと判定されたりして借入を断られた顧客は、他の金利の高い金貸し業者に借入を希望し、そこでもダメなときには、場末の高利貸ししか借りるところはなかった。
 ただし、そもそも信用調査の対象外とされた人々もいた。三井の関連の人々や豪商や豪農たちだ。
 しかし、経営を拡大するためには、「見ず知らず」の顧客とも契約する必要があり、そのときには信用調査は欠かせない。
三井銀行が日本最初の私立銀行として開業したのは明治9(1876)年のこと。
 すごいことですよね、町人の信用調査の結果を書いた書面が残っているというのは...。
(2024年3月刊。1100円)

 先日受験したフランス語検定試験(1級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格でしたが、問題は点数です。64点でした。150点満点ですから、4割になります。
 「目指せ4割」と言っていましたので、それは突破しましたが、実は自己採点は74点だったのです。なんという「自己甘」でしょうか、トホホ...です。これは作文とか日本文で答えるところの主観と客観の違いです。
 まあ、それでもボケ防止のつもりで、引き続きがんばります。

2024年6月15日

のむら美術館・収蔵品集


(霧山昴)
著者 のむら美術館 、 出版 左同

 のむら美術館があるのは、山口市。県庁の北側には、香山公園、そして有名な瑠璃光寺五重塔、さらに臨済宗洞春寺がありますが、この洞春寺の境内に美術館があります。
この洞春寺は、毛利家の菩提寺(ぼだいじ)でもある。
 山口市内で酒造業を営んでいた野村益治が私財を投じて古美術品を収集していた書・画・茶道具などが展示されている。幕末から維新にかけて活躍していた桂小五郎(のちの木戸孝允)、三条実美(さねとみ)、伊藤博文、山縣有朋、などの書・書簡文、また雪舟、伊藤若沖、円山応瑞、などの絵、さらには足利時代の芦屋釜、抹茶・煎茶の茶道具なども展示されている。
 この収蔵品集をめくっていくと、これらの傑作に紙上で対面できます。すごいものです。雪舟の鍾馗(しょうき)さんはさすがの迫力です。
 そして、伊藤若沖の鶏国は、今にも動き出さんばかりの躍動感があふれています。
 頼(らい)山陽の「墨作」も見事なものです。
 伊藤博文も山縣有朋もしっかりした書跡の「書」があります。こんなときに本名は書きませんから、分かる人ぞ分かるという書になっています。
そして、香炉もすごいのです。鍋島青磁などは何回みてもほれぼれさせられます。ともかく、色あいがいいのです。
 芦屋釜なども、色も形も実にさまざまです。
現在の代表理事は横浜で活動している野村和造弁護士。常時開館ではないので、予約が必要。ぜひ行ってみたいと思います。
 代表理事の野村弁護士は大学も弁護修習も私と同期でした。大学時代には学生セツルメント活動をしていたことも共通しています。
 貴重な文芸品等を維持するのは大変なことだと推察します。
(2018年4月刊。非売品)

2024年5月 2日

徳川幕閣


(霧山昴)
著者 藤野 保 、 出版 吉川弘文館

 江戸幕府は一見すると盤石(ばんじゃく)のようにみえて、その内情は武功派と官僚派の抗争、そして、先代に仕えていた人たちと新しい主(あるじ)の周辺との抗争が絶えることはなかったようです。まあ、当然といえば当然の現象です。
 私は、当初の内部抗争といえば、なんといっても石川数正の出奔を思い出します。家康を支えていた両組頭の1人(もう1人は酒井忠次)が、いわば敵方の秀吉の下に逃げ込んだのですから、家康のショックはきわめて大きかったと思います。それにしても、石川数正も、よくよくの決断だったことでしょう。
 石川数正が家康の下から秀吉方へ出奔したのは1585年11月のこと。関ヶ原の合戦(1500年)のわずか15年前のことです。徳川氏の軍制の機密が秀吉にもれてしまうことを家康は心配したといいますが、当然でしょう。家康は直ちに徳川軍政を改革しました。
 家康は、石川数正と並ぶもう一人の酒井忠次に対して、「お前でも子どもが可愛いか」と最大の皮肉を言ったということが紹介されています。
 家康が長男の信康を妻の築山殿とあわせて殺さなければならなくなったとき、酒井忠次が織田信長を恐れて、2人の助命のために動いてくれなかったことを恨んでの皮肉だったというのです。なるほど戦国から江戸時代にも、そんな意識があったのですね...。
 この本では家康の側近には4つのグループがあったとされています。
 第1は、武士たちのグループ、第2は僧侶と学者のグループ、第3は豪商と代官頭のグループ、そして、第4グループとして、外国人のグループがあったとしています。外国人とは、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)と、オランダ人のヤン・ヨーステンです。
 第1グループのうち、本多正信と子・正純の親子に対して秀忠側近は反感を抱き、ついには対立したというのです。いつの世も変わりませんね...。
 本多正信と大久保忠隣の対立のなかで、正信が勝利したのは、門閥譜代に対する「帰り新参」譜代の勝利、そして武功派に対する吏僚派の勝利を意味した。これによって武功派は、幕政の中枢からまったく姿を消してしまった。
 二代将軍の秀忠はその晩年までに41人もの大名を改易(かいえき)した。外様(とざま)大名が25人、徳川一門、譜代大名16人。また、大名改易と並んで大名転封を強力におしすすめた。
 三代将軍の家光は、外様大名の「優遇」をきっぱりやめると宣言し、強力な大名統制を始めた。ライバルだった弟の忠長を改易し、ついに自害させた(忠長は27歳)。家光もまた秀忠と同じく大名の改易をすすめた。晩年までに49人の大名を改易した。外様大名29人、徳川一門、譜代大名20人である。
 鎖国は、諸大名を世界市場からひき離し、幕閣新首脳のめざす幕藩体制の仕上げに大きな役割を果たした。
 徳川幕府の骨組みを深く認識することのできる本でした。
(2024年2月刊。2200円+税)

2024年4月 3日

軍服を着た法律家


(霧山昴)
著者 佐々木 憲治 、 出版 風詠社

 映画に見る軍事法廷と日本、こういうサブタイトルのついた本です。この本に出てくる映画のほとんどを残念ながら私は見ていません。著者は、全部みているわけですので、相当なオタクというべきでしょう(敬意を表しているつもりです)。
 この本が取りあげている軍事法廷とは、軍法会議と軍律法廷です。
 まずは軍法会議。軍法会議の対象となるのは、①入隊中、②召集兵、③退役軍人、④予備役。原則として民間人は対象外。ところが例外はある。①敵対国の外国人、②身分を明らかにせず敵対行為をした不法な戦闘員、③軍属、④戦場の民間人が軍法を破ったり、戦争犯罪を犯した容疑があるとき。
 軍法務官(リーガル・オフィサー)は軍の中では傍流。
 原則として上官の命令には従う義務がある。そして命令は憲法以下の法令に違反しない限り、一般的に合法なものと推定されている。これは自衛隊員も同じで、上官の命令が違法なものだったら、その命令は当然に無効なので従う義務はなく、むしろ違法な命令には拒否しなければならない。そして、命令が合法だったときに従わなかったら、抗命罪として処罰の対象となる。
 昔、チリのアジェンデ大統領に対するピノチェト将軍の反乱において、反乱出動を拒否した兵士は、列の外に出され、その場で射殺されていくというショッキングな映像を見た覚えがあります。
 これは、もちろん違法な命令なのですが、抗命罪として裁判もなく即時死刑が執行されたというものなので、二重の意味で間違いです。ところが、クーデターに成功したピノチェト将軍は、長くチリの大統領として軍事独裁を強行し続けました。恐ろしい現実です。
 アメリカ軍には、敵と遭遇して戦闘を開始するときについて定めた「交戦規定」ROEがあり、公表されている。ところが、自衛隊にも「部隊行動基準」というROEに相当するものがあるが、こちらは非公開とされている。その理由は敵に手の内をさらすことになるからというもの。
 自衛隊員は「敵」と殺し、殺されるという訓練を重ねているわけですが、そんな実態が国民に知られたら困るということなんでしょう。いかにも日本政府の考えそうな姑息(こそく)なやり方です。国民に事実を知らせたくない、知ってほしくないという、間違った姿勢そのものです。
 軍法会議の弁護人について、被告人は民間の弁護士を雇うことができるけれど、多くの場合、軍の法務官が弁護人をつとめる。軍法務官は、一方で軍事司法をつかさどるJAGに属し、任務として軍事司法の独立を保ちつつ、弁護人としての職責を果たすが、他方ではJAGという軍事組織の中の組織人でもある。上層部にあらがうか否かは、軍法務官の弁護人としての矜持(きょうじ)に支えられている。まあ、一般的には無理ですよね。
 日本の自衛隊にも法務官が存在する。また、自衛隊には警務隊という部隊が存在する。いわば自衛隊内の警察官。ただし、懲戒処分には関わらない。
 アメリカ軍には、軍法会議のほかに軍事委員会という軍事裁判所がある。9.11同時多発テロに際して設置された。たとえば、戦争行為の一環として召集され、自国軍の軍事作戦を阻もうとする戦争法規に違反した敵戦闘員を「戦争犯罪人」として審理するための法廷。
 アフガニスタンのタリバン戦闘員を捕獲して、キューバのグァンタナモ海基地に送り、同基地に軍事委員会が設置された。
 東京裁判とは別に、トルーマン大統領の命令によってマッカーサー元助が設置した軍事法廷があったが、これが軍事委員会。有名な映画『私は貝になりたい』は、この軍事委員会を扱っている。BC級戦犯を審理した軍事委員会における裁判を扱った映画だ。
 いやあ、そうだったんですか...。ちっとも知りませんでした。
 軍法会議と似ていて違うものに軍律会議がある。これは、軍律に違反した一般国民・敵国人・第三国人等を審判するため特設された法廷。自国の軍人・軍属の規律の維持を目的とする軍法会議と異なり、軍律会議は審判の対象が専ら戦争犯罪やスパイ容疑の敵国の軍人であって、法律に基礎を置かない軍事行政機関。いわば簡易かつ便宜的な法廷。
 いやあ、よくぞ丹念に調べあげたものです。驚嘆するほかありません。
(2022年12月刊。1650円)

2024年3月10日

父がしたこと


(霧山昴)
著者 青山 文平 、 出版 角川書店

 ちょっと前、久しぶりに山本周五郎の『赤ひげ』を読みました。江戸時代の医療を扱っています。さすがに周五郎です。味わい深くて、本当に読みごたえがありました。
 この本も同じく江戸時代の医療を扱っていて、共通点があります。ただし、その対象は主人公の息子であり、藩主なのです。
 息子のほうは、肛門がない状態で生まれました。なので、肛門をつくり、排便させるために、毎日、朝夕2回、指を入れ、浣腸をしなくてはいけないのです。それを2年間ほど続ける必要があります。
 いやはや大変なことです。でも、可愛い我が子のためならやるしかありません。
では、藩主のほうは...。
 こちらは痔漏の手術。全身麻酔で手術するのです。江戸時代にも高名な華岡青洲のように麻酔して乳ガン手術した医者がいたのですよね。
 この本にはシーボルトがもたらした『薬品応手録』をはじめとする医書がたくさん紹介されています。よくぞ調べあげたものだと驚嘆しながら読みすすめていきました。
藩主の手術をする医師は失敗したら生命の保証はないし、その医師を世話した武士も同罪とされかねない状況が描かれています。
 しっとりとした展開の医療時代小説でした。
 著者は私と同じ団塊世代であり、医療畑の出身ではありません。たいした筆力です。
(2023年12月刊。1800円+税)

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