弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2009年3月26日

医者を殺すな

著者 塚田 真紀子、 出版 日本評論社

 この本を読むと、医師の仕事のすさまじさがよく伝わってきます。高校生のころ、医師になることを少しは真面目に考えた私ですが、医師にならず弁護士になって本当に良かったと思ったことでした。だって、何日間も徹夜続きなんて厭じゃないですか。そんなことしたら病気になるにきまってます。医者になってわずか2か月余り、20代の半ばで死ぬなんて、信じられないハードスケジュールです。
 毎日15時間以上も働き、法定労働時間を月に200時間はオーバーしていた。その対価として得たのは、月6万円の奨学金と「日夜直手当」のみ。うへーっ、ひどいものです。
 医師も聖職者というより、その前に労働者ですよね。自明のことだと私は思います。ある勤務医は、毎晩、午前0時までに帰るのが目標だったと語る。土日も出勤した。うひょひょ、これでは身体がもちませんね。
 一審判決は、1億3500万円の賠償を大学病院に命じました。そして、そのあとで、労働基準監督署は労災認定したのです。発症1か月前に100時間をこえ残業したときは、業務と発症の関連性は強いと認定する新しい基準が適用されたのでした。でも、これって順番が逆ですよね。労働者を守るのが労基署の使命でしょ。
 研修医はものすごいストレスにさらされる。これまで学生として責任なく自分のペースで生活してきた人が、いきなり医師として大きなストレスにさらされる。そして、研修医の労働時間はあまりに長く、睡眠・食事・家事など、人間としての生活を営むに必要な時間が足りない。自分の能力以上の役割を期待されるなど、医師としての責任が重い。さまざまな患者と家族を相手にしなければならないし、医療スタッフの中では研修医が一番弱い立場にある。だから、うつになる研修医が多い。
勤務医が過重労働をせざるをえない理由は4つある。第1に、医師の仕事量や労働密度が増えたこと。第2に、深夜の受診数が増えたこと。第3に、勤務医の年齢構成の変化。第4に、長時間働くのは当たり前という医師の意識。
 あまりにも大変なため、たとえば20代の外科医が激減しているそうです。それは本当に困ったことです。医師も大切にしないといけませんよね。なんだか、悪循環に陥っているなと感じました。

(2009年2月刊。1800円+税)

2009年3月25日

グローバル恐慌

著者 浜 矩子、 出版 岩波新書

 サブプライム問題という言い方は適切でない。正しくは、サブプライム・ローン証券化問題なのである。ことの本質は、サブプライム融資そのものにはない。本質的な問題は、サブプライム融資に内在するリスクが、証券化という手法によって世界中にばらまかれていったことにある。このばらまき行為がなかったら、サブプライム問題は、アメリカに固有の地域限定問題にとどまっていたはずである。
 そして、このようなサブプライム証券に多くの投資家が手を出したのは、世界中がカネあまりに陥っていたからだ。その原因の大きなひとつに、日本の長年にわたるゼロ金利政策がある。日本は、世界で最大の債権国である。純貯蓄の規模が世界で一番大きい。日本国内で金利を稼げないジャパン・マネーが、世界中に出稼ぎに行く。世界的カネあまりのルーツが日本のゼロ金利政策にあったとすれば、サブプライム証券化商品問題と日本との間には、切っても切れない関係があるといえる。
 今日の日本は、一種、基軸通貨国的な機能を担っている。今日の円は、いわば隠れ基軸通貨である。
 1971年8月のニクソン・ショックは、基軸通貨国アメリカの脱退位宣言にほかならなかった。ドルの金交換性というタガをかなぐりすてたアメリカは、以降、どんどんインフレ経済化の道を進んでいく。これはアメリカ経済の高金利かをもたらし、金利自由化への突破口を開いた。
 1971年は8月は、金融自由化に向けてパンドラの箱の蓋が開いた時だった。2008年9月は、グローバル恐慌に向けて地獄の扉が開いたときだった。
 グローバル恐慌は、カネの世界の暴走がもたらしたものであるからこそ、モノの世界、そして家計と消費という意味でのヒトの世界へのインパクトが大きい。
 カネの世界だけのマネーゲームが自己増殖を続ける状態では、モノの世界がどうなろうと、カネの世界的暴走は続く。そして、ついに暴走が転倒につながったとき、その衝撃がモノの世界に対して一気に減縮圧力をかけてくるという展開になる。
 人間の営みである経済活動の中でも、金融はもっとも人間的な信用の絆で形作られている。そうであるはずだった金融の世界から、人間が消えた。ここに問題の本質があるのではないか……。
 大変歯切れの良い指摘で、大いに勉強になりました。それにしてもいつまで続くのでしょうか、この大不況、人間使い捨てという嫌な時代風潮は……。
 桜の花が満開です。梅の花も早かったのですが、今年は桜もずいぶんと早い気がします。昔は入学式のときに桜が満開だったように思いますが、今では卒業式のときに満開の桜が卒業生を見守っています。
 我が家のチューリップが300本近く咲いています。6~7割は咲いている感じです。今度の日曜日が最盛期となりそうです。これも例年より1週間以上は早い気がします。だって、まだ3月ですからね。どうなってるんでしょう。
 それにして昔ながらの赤や黄のチューリップの花を見るとしばし童心に帰ることができ、心がなごみます。
(2009年1月刊。700円+税)

2009年3月21日

反乱する管理職

著者 高杉 良、出版 講談社
 経済小説を得意とする著者の本は、いつ読んでもぐいぐい引き込まれてしまいます。
 私は一度も企業人になったことがありませんが、企業内の派閥抗争の激しさ、宮仕えの大変さはなんとなく感じます。それは弁護士会のなかにいても感じることがあるからです。
 有力な生命保険会社が倒産の危機に直面した。更生特例法の申請をし、更生管財人として若手の有力な弁護士が選任され、同時に事業管財人も選任された。そこへ、外資が誘いの手を打ってくる。また、倒産会社の有力資産に政治家が介入し、弁護士管財人は、政治家の意向を受け入れて処理しようと動く。
 生命保険会社内部における、若手社員たちの動きが、この本のメインです。上司からにらまれても思い切ったことをズケズケと言い張る主人公たちの存在は頼もしい限りです。でも、現実には、こんなスーパーマンみたいな若手社員っているのでしょうか……。
 そして、実力社長になったあと、会長として相変わらず君臨し続けている人物がいます。この実力会長が会社の発展を阻害している最大のガン。しかし、本人はそのことに一向に自覚がない。誰がいったい猫の首に鈴をつけに行くか、いつもオドオドビクビクして決まらないのです。そのうち、さらに事態は悪化します。さあ、どうする?
 この本では、弁護士から成る更生管財人と倒産会社に残って再起に協力している社員たちとの軋轢が記述されています。たしかに、こんなことってありうるんだろうなあ、と思いました。
 たとえば、管財人側は再建のためには人員整理(人減らし)が必要だと言って強引に押しつけます。しかし、こんなときには有能な社員こそ真っ先にあきらめていくものです。あとに残った、とくに有能ではない社員たちのやる気をどうやって引き出すかが再建のポイントになるのです。
 それにしても、ハゲタカ・ファンドと言われるほどの外資系の強大な力とえげつなさには改めて感じ入りました。日本の企業も、働く人を大切にしたら、もっと力が出せると思いますが、今はキャノンの御手洗会長のように、目先の利益しか考えない経営者が多すぎます。
(2009年1月刊。1700円+税)

2009年3月19日

新聞販売の闇と戦う

著者 真村 久三・江上 武幸、 出版 花伝社

 私のごく親しい弁護士が、天下の読売新聞とたたかった経過をまとめた本です。インテリがつくってヤクザが売る。こんな言い方が公然とされているのが新聞業界です。とりわけ公称1000万部を誇る日本一発行部数の多い読売新聞には悪名高い拡販団がいます。脅迫まがいのおしつけ拡販団として広く知られました。
 著者は、筑後地方で販売店を営んでいました。前任者から引き継いだとき1500人いた読者が、2年後には1200人を切っていた。
 新聞の購読契約は、6か月、1年、2年、3年という種類がある。契約期間が短いので、満期の前に更新してもらうが、新しい読者を獲得しない限り、あっという間に読者が減ってしまう。絶えず営業していないと、部数が激減してしまう。部数を維持するために、自転車操業のような状態に置かれている。
 そして、読売新聞は、たとえば1000部しか配達しない販売店に1500部を搬入し、その卸代金を徴収する。差の500部が、いわゆる「押し紙」である。この「押し紙」のない販売店はない。
 拡販セールス団の派遣は、販売店の店主の集まりである「読売200会」で決められる。
 読売新聞にたてつくと、新聞配達員に尾行がつく。新聞をどこに配達しているのか、販売店の差し出す名簿に頼らずに把握しようというわけである。新聞社が販売店に読者一覧表の提出を求めるのは、強制改廃の前触れと考えてよい。
 裁判所に対して仮処分を申請し、販売店であることの地位保全を求めて認められたのです。さらに本訴でも勝ち進みました。販売店の解任を非とし、300万円もの慰謝料支払いまで福岡高裁は命じました。
 福岡地裁は、店主としての地位を保全すると同時に、読売新聞に対して新聞の供給を再開するように命じました。そして裁判所は、裁判所の命令に大胆不敵にも従わないことを知ると、1日につき3万円の「罰金」(間接強制)を支払うよう読売新聞に命じたのです。
 天下の読売新聞といえども法の無視は許されません。立ちあがった販売店の経営者の勇気に拍手を送りたいと思います。また、江上弁護士に対しては、コンパクトな本でわかりやすくまとめてくれたことにお礼を申し上げます。

(2009年2月刊。1500円+税)

2009年3月18日

自治体クライシス

著者 伯野 卓彦、 出版 講談社

 青森県大鰐(おおわに)町の第三セクターの無惨な状況には、息を呑むばかりです。
 26億円かけてつくられたリゾート施設は、わずか6年で閉鎖された。そこに至るまで金融機関から借りたお金は、最高時で150億円、2007年度時点でも70億円をこえる。そして、今、それを年3億円ずつ返済している。年間税収7億円の町が、である。完全に返済するのは50年ほど先のことになる。
 うひゃーっ、ど、どうしてこんなことになったのでしょうか……。
 第三セクターとは、国や地方自治体が民間企業と共同出資して設立した法人のこと。1980年代のバブル期に、「官の優れた部分と民の優れた部分をあわせもつ」として国が自治体に設立をすすめた。そのため全国各地に多くの第三セクターが生まれた。しかし、結局のところ、「官の悪い部分と民の悪い部分とをあわせもった」ケースが大半になってしまった。
 2007年6月に設立した自治体財政健全化法が、いま、地域と人々の暮らしを追い詰めている。
 5億円以上の債務超過に陥っている第三セクターと公社は97社ある。また、全国に100近くある自治体病院の7割以上が赤字であり、その累積赤字の総額は1兆8000億円にのぼる。
 多くの地方自治体は、損失補償契約を結んでいる。そして、この損失補償契約を結んでいる自治体は、赤字の第三セクターを存続させようが破綻させようが、大変な危機に陥りかねない。
 第三セクターが借金を抱えるようになった大きな要因の一つは、1980年代から90年代にかけて国が推し進めた「リゾート法」にある。
 国の勧めに安易に乗った自治体に責任があるのも当然だし、自治体が杜撰な開発計画を立案し、実行したのも事実だろう。しかし、国にも、制度をつくり、自治体にすすめ、政府系金融機関を通じて融資を行い、借金漬けにした責任はある。
 第三セクターの場合、会社は経営内容を公開し、それを議会がチェックしなければならない。しかし、自治体の側にはそんな発想すらなかった。
 総務省の調査によると、2006年3月末の段階で、全国489の第三セクターについて、総額2兆3000億円の損失補償契約が結ばれている。
 リゾート法が制定された1987年ころ、日本はアメリカから貿易不均衡を指摘され、それを解消するための内需拡大を強く求められていた。国はリゾート法に則って、第三セクターに対する融資を無利子か低利で行った。そのときの主な資金源は、NTTの民営化にともなう、1986年以降のNTT株の売却による莫大な利益だった。それを、政府系金融機関を通じて自治体に融資していく形をとった。
 自治体は破産法がなく、破産できない状況があった。
 2006年11月、川崎市の第三セクターが破産したとき、横浜地裁は損失補償契約にもとづく支出を違法と判断した。自治体が損失補償契約を結ぶこと自体を違法と認定したに等しい。画期的な判決である。
 りそな銀行が破たんしようとしたとき、国は1兆5000億円も負担した。それに比べたら少額のお金を使って何が悪いのか……。
 まったく同感です。でも、これも、日本の投票率が6割に満たないという政治的不信があり、それにあぐらをかいていることの当然の帰結でしょうね。やはり、私たち国民が怒りをもって立ち上がらないことには何も解決しませんよね。
(2009年2月刊。1600円+税)

2009年3月17日

橋下「大阪改革」の正体

著者 一ノ宮 美成、 出版 講談社

 ひとの悪口を言うのは私もあまり好きではありません。しかし、この橋下大阪府知事については、まあ石原東京都知事も同じですが、あまりのえげつなさに我慢ならず、悪口くらい言わせてもらいたい、そんな気分です。
 といっても、これは書評ですので、この本に書かれていることを紹介します。ほとんど、そうだそうだと手を叩き、足をふみならしたくなるような話が満載です。いやあ、その正体はひどいものです。そんな橋下知事を依然としてマスコミが高く持ち上げているため、大阪府民の支持率は高どまりだというのです。いやはや、まったく罪つくりなマスコミです。これは小泉「改革」とまったく同じ構図ではありませんか。
 橋下弁護士はサラ金「シティズ」の代理人弁護士を務めていた。「シティズ」というのは高利を強引に取り立てることで有名な会社です。橋下弁護士は、また、徴兵制の復活を主張し、日本は核武装すべきだといい、「税金を払わない奴は生きる資格がない」とウソぶきました。
 テレビの出演料は、ローカル局で1時間50万円、ネット局だと100万円以上。講演料も1時間150万円、年収3億円。こんな大金持ちが貧乏人は死ねと言っているのですから、まったく許せません。
 橋下弁護士は府知事選挙出馬を「2万パーセントない」と否定しながら、その直後に出馬を表明した。出馬を否定したのは、番組キャンセルにともなって違約金が発生するのを恐れたからだ。そんな解説がなされています。せこい男ですね、まったく。年収3億円の金持ちというのに、呆れます。
 「大阪府は破産会社」と橋下府知事は何回も言ったが、これは事実に反している。
 嘘も百回言えば本当になる。こんなデマゴギーをマスコミ受けするように繰り返しただけのこと。いやあ、ひどいものです。許せない、プンプン。
 橋下知事の支持率が6割以上というように高いのは、常に敵を作る手法にたけているから。小泉元首相は郵政族を的にしたが、橋下知事は公務員労組を敵にした。それで世間の注目を集め、支持をかすめ取ろうとしたわけだ。いま、日本社会に蔓延している社会の閉塞感から、その不満のはけ口が公務員に向かっている。
橋下知事は、高校生に対して次のように強弁した。
 「義務教育は中学まで。自分で勉強して公立に合格するしかない。今の日本は自己責任が原則。それがいやだったら、国を変えるか、日本から出るしかない」
 ひどいものです。高校生に向かって、いやだったら日本から出て行けというなんて、とんでもない暴言じゃありませんか。いったい、橋下知事って、日本の王様なんですか。
 橋下弁護士を知る大阪の某弁護士は、橋下知事について次のように語る。
 「ひと言で言うと幼稚ですわ。メディアが、まるで大阪の救世主であるかのように持ち上げるため、少しでも批判すると橋下知事はキレるし、世間のバッシングにあう。そこで、誰もが口を閉じるしかない。いまの大阪では、橋下知事とメディアが共演して恐怖政治がつくられている」
 橋下知事について、情緒的な発達が11歳か12歳くらいで終わっている幼い人だと断言した人がいます。ふむふむ、まったく、そのとおりなんじゃありませんか。
 橋下知事には、庶民の目線というのがまったく感じられない。今日の財政危機を作り出した張本人である関西財界が橋下知事をあやつり、その橋下知事が熟知したメディアを手のひらに躍らせることで、財界の方針を実行している。メディアは「絵になる」「字になる」などと面白おかしいだけのポピュリズム報道になり下がっている。そこには破壊だけしかない。
 横山ノックと言い橋下知事といい、本当に日本の政治家には人材がいませんよね。
 そうはいっても、国政選挙で投票率60%程度というのは、あまりにも低すぎます。政治家は国民(有権者)が育てるべきものです。
(2008年12月刊。1000円+税)

2009年3月12日

軋む社会

著者 本田 由紀、 出版 双風社

 現代日本の社会の軋(きし)みは、一方では端的な生活条件面での過酷さとしての貧困や過重労働というかたちであらわれ、他方では精神的な絶望感や空虚さというかたちであらわれている。
 日本では、新卒時に正社員になれなかったものが、のちに正社員に参入するチャンスは閉ざされがちであり、かつ、正社員とそれ以外の者のあいだには、雇用の安定性や収入の面で、他国と比べて際立った断層がある。
 正社員についても、長時間労働など労働条件の過酷化が生じているが、正社員になれない層の生活上の困窮は歴然としている。そして、正社員になれる確率は、出身階層や本人の学歴と関連している。
 日本で大きな割合を占める私立大学への進学率は、家庭の家計水準を明らかに反映している。
 調査によると、日本の成績上位層には低下がみられないが、成績下位層の比率と点数低下傾向が増大しており、全体ではなく、下方に「底が抜ける」かたちでの読解力の低下が危惧される。
 そして、日本のこどもの顕著な特徴として、勉強が好き、楽しいと答える者、将来の仕事と結びつけて勉強していると答える者の比率が際立って低いことがある。すなわち、日本の教育の最大の問題は、子どもが教育内容に現在および将来の生活との関連性や意義を見出し得ていないことだ。
 ある種の仕事については、正社員と非正社員の境界があいまいになりつつある。名目上は正社員であっても、その処遇や仕事内容に関して非正社員と大きく差がないような仕事が相当の規模で現われている。
 低収入の若年非正社員が若者の3人に1人に達するほどの規模になっている。
なぜ、こんなことが可能なのか? それは、個々の若者が個々の親に依存しているのではなく、経済システムが家族システムの含み資産、新世代の収入、住居、家電などに依存しているからだ。
 これほど大量の低賃金労働者が暴動に走りもせず社会内に存在し得ているのは、彼らを支える家族という存在を前提とすることにより、彼らの生活保障に関する責任を放棄した処遇を企業が彼らに与え続けることができているからだ。しかし、このような企業の家族への依存は、長期的に持続可能なものではなく、非常に脆(もろ)い、暫定的なものだ。
 いま、社会にすごく大きなうねりが起きているのかというと、たとえばいま、手ごたえがあるというのは400人の会場で集会をしたら500人も集まったというレベルでしかない。5000人とか1万人が集まったというほどのことはない。まだまだだ。
 そうなんですよね。有名になった年越し派遣村でも、500人が集まった、ボランティアが2000人やってきたというレベルで大変注目されているわけです。早く、日本でも万単位の大きなデモ行進がなされるようになったらいいな、と思います。私の学生時代には、学生だけでも万単位のデモ行進は当たり前のことでした。ああ、また、古い話を持ち出して…なんて思わないでくださいね。フランスや南アメリカでは、今でもそれが日常的にやられているのですからね。日本人に出来ないはずがありませんよ。貧富の差の拡大を食い止める最大の力は、みんながあきらめることなく、立ち上がることではないでしょうか。
 日曜日、大分からの出張から帰ってみると、我が家の庭にチューリップが5本咲いていました。赤紫色の花です。ブロック塀の近くにツルニチニチソウの紫色の花が咲いています。五角形の花を見ると、いつも函館の五稜郭を思い出します。地植えのヒヤシンスが庭のあちこちで咲いています。紫色の花だけでなく、純白の花もあります。
(2008年11月刊。1800円+税)

2009年3月 8日

若者の労働と生活世界

著者 本田 由紀、 出版 大月書店

 非典型雇用ないし失業や無業の状態にある若者は3人に1人に達している。非典型雇用の規模は、他の先進諸国と比較しても相当に大きい。
 しかも、典型雇用と非典型雇用のあいだの賃金格差が他の先進諸国と比べても著しく、また『典型雇用への参入』が新規学卒時に限定されがちであることから、いったん非典型雇用・失業・無業の状態に陥った若者は、ほぼ永続的に困窮状態に置かれる確率が高くなっている。
 なぜ若者が自らフリーターや無業の状態を選び取っていくのか?
 その答えの一つは、若者たちが生きる文化に見出すことが出来る。中学時代の友人関係をベースにした場所・時間・金銭の共有を重視する文化的態度(地元つながり文化)の存在こそが、現在の状態を積極的に選び取る背景となっている。
 コンビニ店の売り上げは、1992年をピークとして、対前年比マイナス傾向にある。セブン・イレブンの加盟店の平均日収は1992年の68万2000円をピークとして、2005年の
62万7000円というように低下傾向にある。
 高齢者介護の現場にあっては、気がきくことが良い介護とは限らない。利用者の考えることに気づき、先回りして次々と用事を済ませてしまう。これは、利用者の「主体性」を奪うことでもある。そうではなく、介助者はあくまで利用者の「手足」でさえあればよい。
 うーん、これは難しいことですね……。
 現在の生徒には、自己肯定感が欠如している。生徒一人ひとりが自分を価値ある者にする。世の中に役立つ、自分はこれでいいんだという自信、その自己肯定感が発達させられていないことがあまりにも多い。自己肯定感を通じて社会に飛び込んでいける存在として、生徒を育てることが現在の学校に求められているものだ。
 大学入試と違って、就職採用という選抜システムは騙し合いである。うひょーっ、そ、そうなんでしょうか……。
 過食症が増加している。10年間で5倍にも増加した。過食症は女子中学生の300人に1人、女子高校生の50人に1人、女子大学生の50人に1人と推定される。一般の人が無理したところで食べきれないほどの量を食べる。過度な減量の反動としての過食である。
 身体に食べ物が入っていない状態が基本になっている。過食症者は過食をしていないときには、食事をほとんどとっていない。
 多くの過食症者は、過去にダイエットに成功している。意思の力で食欲を抑えることのできた経験があるからこそ、その後、過食症者は過食を身体的な問題ではなく、精神力や意思の弱さの現われとして受け止める。
 だから、その克服にあたっては「頑張らないこと」の重要性が指摘されている。接触層会社は、自分をコントロールしようとしすぎることで、摂食障害という状況に陥っている。
 摂食障害者は、ダイエットを継続する過程で、痩せている自分には価値があるが、痩せていない自分には価値がないと感じるようになっていく。それとともに、過食や嘔吐を繰り返すなかで、自分はだめだという気持ちを募らせていく。摂食障害の状況が自己否定を生み、自己否定が強くなるからこそ、なおさらに痩せることに固執するという悪循環がある。
 過食を治すために行うものに、食事を抜かず、規則正しく一定量を食べるという食事訓練がある。拒食症や過食症の人にとって、吐かずに普通に食べること、食事の量を増やしていくことは、非常に難しいことである。
 貧困を、経済的貧困、つまりお金がなく貧乏なこと、と素朴に考えている限り、「意欲の貧困」は貧困概念の中に自らの位置を持たず、常に自己責任論の餌食になるほかない。したがって、貧困とは「意欲の貧困」を含むものだと貧困論を構成する必要がある。非根を経済的生活困窮状態(所得や貯蓄)の問題に還元すべきではない。
 「意欲の貧困」とは、自分の限界まで意欲を振り絞ったとしても、それが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域にまで到達できない、という事態である。
 「意欲の貧困」は、もはや自己責任論の彼岸にある。そして、自己責任論は、つきつめれば死の容認へと至る。しかし、それは、「社会」という存在の自己否定である。
 現代日本における若者たちの置かれている状況について、現実をふまえて理論的にも深めることのできた本でした。
(2008年6月刊。2400円+税)

2009年2月22日

実録アングラマネー

著者 有森 隆+グループK、 出版 講談社α新書

 山口組若頭の宅見勝は1997年8月、神戸のホテルで4人組の暗殺団に射殺された。享年61歳。宅見は配下に企業舎弟を数千人もち、3200億円の資金力を誇り、オールジャパンの裏経済を支配していた。
 東京都内だけで、暴力団のフロント企業は1000社以上ある。この数字は警視庁が確認したもの。金融、不動産、建設がフロント企業の御三家。風俗、飲食、自動車販売、産廃処理、経営コンサルタント、そしてコンビニ、ペットショップ、俳優養成学校、探偵、人材派遣など……。うひゃあ、す、すごい分野にまで進出しているんですね。驚きました。
2007年現在の暴力団員は8万4200人。正式構成員が4万3300人。準構成員は、
1995年に3万2700人だったのに対して、それから3割も増えている。暴対法は、山口組への一極集中を生んだ。山口組と住吉会と稲川会の3団体で、今や暴力団の73%を占め、寡占化が進んでいる。
 山口組の上納金は幹部クラスで月100万円、他の直系組長で月80万円。
 旭鷲山が引退したのは、暴力団の住吉会系組長に脅迫されたから。モンゴルの金鉱山の開発利権をめぐって、住吉と関西系に2重売りしたのが発覚してのことだった。うむむ、なーるほど、そういうことだったのですか。
 英会話教室最大手のNOVAで創業社長が追放されたのは、資金調達を闇の勢力に頼ろうとしたからだった。猿橋前社長は、業績不振のワンマン銀行の頭取を巻き込んで、見せ金増資を錬金術の舞台につかった。見せ金増資に協力するという名目で、巨額の融資を銀行から引き出そうとしたのである。いやいや、とんだことです。大勢の真面目な教師と生徒が泣かされましたね。
 海軍鎮守府が於かれた横須賀で、沖仲士を取り仕切る近代ヤクザとして生まれたのが小泉組。軍港ヤクザの小泉組の2代目、小泉又次郎が、あの小泉純一郎の祖父である。
 いやはや、現代日本社会って想像以上にヤクザに食いものにされていますよね。知らぬが仏、とはこのことです。仏といえるかどうかは、私たち次第ですが・・・。
(2008年10月刊。933円+税)

2009年2月19日

「生きづらさ」の臨界

著者 湯浅 誠、河添 誠、 出版 旬報社

 現代日本において、若者は自らの労働によって生活を成り立たせることが困難になっている。それは賃金水準が低いこともあるが、同時に、その労働環境があまりに劣悪で、それによって生活そのものが暴力的に破壊されているからである。
 貧困に陥った人は、自分自身で新しい仕事に対応する自信が持てないため、せっかく探した仕事も数日で自分から辞めてしまうことがある。これを「意欲の貧困」という。貧困のなかで、意欲までも奪われている。なるほど、そういうことなんですね。貧困というのを単に現象面のみでとらえるのではなく、人間の内面にまで踏み込んで考える視点が必要なようです。
 「不器用」というのは、具体的には、人間関係の作り方が極端に下手な人というイメージである。家族の基礎体力を、まずは高めるところからやらないといけない。家庭の基礎的な所得とか生活条件の整備が必要である。
 貧困な状態とは、生きる上での生活資源(溜め)が減少している状態である。「不器用さ」は、貧困のなかで階層的に生産されていく。非正規雇用が拡大して階層化が進めば進むほど、階層の固定化、貧困の再生産の程度が強まっていく。
 新自由主義は、あらゆるもの、市場外だったはずの領域まで市場化していく運動である。ふむふむ、鋭い指摘ですよね、これって……。
 1960年代半ばまで、生活保護を受けている人の4割は、働ける年齢の人たちだった。ところが、今は、働ける人が生活保護なんて論外だと、突っぱねられる。
人々は、どうしても貧困問題に関して「この人は救済に値するかどうか」を問題にしてしまう。それに値する人だけが救済されるべきだという発想は恩恵の論理であって、人権ではない。24時間がんばり続ける者だけが「救済に値する」という枠組みは突破される必要がある。そうでないと、そんなに「立派じゃない」貧困当事者は声を上げられないままになってしまう。ううむ、この点は、私にとっても痛い指摘でしたね。誰だって楽したいとか怠け心は持っているわけで、ありのままの状態においてその人の持つ固有の権利として保護されるべきだというわけです。
 正規になりたくない非正規の人は相当数いる。それは、正規がひどいから。生活保護を受けていない人たちの状況は、就業していても、高いストレス、長時間労働で、ぎりぎりのところで暮らしている。就業していたとしても、こうした非人間的な労働条件が標準化されている。
 もはや、雇用と生活の安定が多くの人にとって必然的な結びつきをもたなくなった。働いていれば食べていけるというのは神話になった。
企業は利潤を追求する目的集団であり、その目的に人々の生活の安定は入っていない。働いていれば食べていける状態の創造は、企業の目的外行為であり、目的外行為を行わせるためには、社会の規制力が働かなければならない。
 今や、現代日本で働くことの意義が問い直されていることがよく分かる本でもありました。
(2009年1月刊。1500円+税)

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