弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2009年7月22日

懐旧九十年

著者 庭山 慶一朗、 出版 毎日新聞社

 驚嘆しました。よくぞここまで覚えているものです。1917年生まれですから、92歳です。昨年91歳のときに出版されています。それなりに裏付け調査もされたのでしょうが、基本は記憶力の良さではないかと推察しました。
 著者は、住専問題が騒がれたとき、悪の権化のようにマスコミから叩かれました。私も名前だけは知っていました。そのバッシングに耐え、道義的責任から私財1億2000万円を拠出しています。そのあたりになると、著者の筆は弁明に走るどころではありません。怒りに震えて糾弾しています。その激しさには耳を傾けるべきところがあると思わされます。
 著者の父親は、大阪画壇で活躍した日本画家の庭山耕園という人です。申し訳ありませんが、私の知らない人です。花鳥画では有名な人のようです。私も知る竹内梄鳳という画家と並んでいたというのですから、すごい人なんですね。庭山画塾(椿花社)を主宰していたとのことです。
 著者自身は広島で原爆被害にあって命拾いしていますが、3人の弟を戦死させています。ですから、毎年、3月15日に靖国神社に参拝しているそうですが、戦犯を拝んでいるわけではありません。著者は、自分が徴兵されて戦死するのは困る。徴兵を遁れるのにはどうしたらよいかと考えていたと言います。すごいですね。
 著者の小・中・高の生活ぶりが克明に語られています。よくぞここまで覚えているものだと感嘆しました。
 高校生のとき、満州事変が起きて日本軍が破竹の勢いで進軍していたころ、著者は今は勝っているが、万一敗れて敵が日本に上陸してきたら、島国だし、どうしたらよいか心配していたとのこと。うへーっ、そ、そんな心配をしていた高校生がいたのですか。軍国少年ばかりではなかったのですね。
 かといって、著者はマルクス主義には初めから近づいていません。むしろ、反共です。末弘厳太郎に著者は私淑していたようです。末弘厳太郎は、セツルメントにも関わっていましたし、社会に目を見開いていましたので、反共の著者が学生として心が惹かれたというのには、やや意外な感があります。
 著者が東大法学部を卒業した時の成績は、優17、良3、可1というものでした。すごいです。私など、優はわずか1コだけという低飛行の成績でした。
 大蔵省に入り、主税局に配属されますが、昭和19年5月、召集令状がきて、呉の海兵団に入営します。ところが、裏から手が回って、やがて召集解除になるのです。しかし、再び広島に赴任します。そこで原爆にあったのでした。
 妻とともに庭に出て引っ越しのための荷造りを汗だくでやっていた。一服して、ふと頭をあげて上空を眺めると、真っ青に晴れた青空に銀色に光る球体が数個浮かんでいるのが見えた。爆発寸前のリトル・ボーイ(原爆)を目撃したというわけです。それでも90歳まで元気に長生きできたのですから、よほど運のいい人なんですね。
 広島の原爆記念日に「過ちは繰り返しません」というのは、主語がないから意味不明。すべからく消去すべきだと著者は指摘しています。同感です。
池田勇人その他の著名人との交友が次々に紹介されています。
 公共事業という「美名」をつかって国土を破壊することは許されない。行政指導に深入りして銀行と癒着している銀行局のやり方を常に厳しく批判していた。叙勲制度を批判していたから、断った。人間の格付けは受けたくないからである。なるほど、なるほどです。
 大蔵省を26年間つとめて辞めたとき、まだ50歳だった。そこで、日本住宅金融株式会社の社長になった。三和銀行のお誘いに乗った。これは世間でいう大蔵省の「天下り」ではない。そして、20年のあいだ社長を務めた。そこでは、保証人を取らない住宅ローンを始めて、大当たりした。
株主総会では、「いかがわしい慣習」を徹底的に排除した。日本のほとんどの会社がいかがわしい慣習に従っているのは、自らいかがわしいことをしているからである。
 著者は、「私を人身御供にした当時の橋本龍太郎首相以下の政府関係者、中坊公平弁護士以下の集団、学者、評論家、マスコミを許さない」としています。「住専」問題は、むしろ政府とりわけ大蔵省の財政金融政策の失敗によるものだということです。
 ここらあたりになると、著者の怒りが先に立って、全体像が見えにくいという恨みはありますが、それだけに考え直して見るべきものがあることはよく伝わってきます。
 この本は、著者の長男の庭山正一郎弁護士より贈られてきたものです。庭山弁護士は日弁連憲法委員会でご一緒させていただいていますが、その高い識見・能力にいつも敬服しています。500頁もの厚さの本ですが、感心、感嘆、感服しながら最後まで読みすすめました。

(2009年2月刊。1600円+税)

2009年7月20日

手塚先生、締め切り過ぎてます!

著者 福元 一義、 出版 集英社新書

 手塚治虫は、日本の生んだ偉大な天才の一人です。私も心から尊敬しています。その早過ぎな死を残念に思うばかりです。
 この本は、手塚治虫の担当編集者となり、次いで、なんと同業者(漫画家)、さらに再び手塚治虫のチーフアシスタントを務めたという著者のエッセイを本にしたものです。あの偉大な手塚治虫を身近な存在として感じることができる人です。すごいな、すごい、と、この本を読みながら、何度もうんうんうなずいたことでした。
 まずは、担当編集者時代の苦労話。作家の見張り役兼原稿運び担当。常に編集者がそばにいて監視していないと、手塚治虫は締め切りが競合する他社の原稿を描き出します。油断も隙もあったものじゃない。
 仕事部屋の隣に編集者の部屋をとり、1頁あがるごとに見張りの担当者が交代するという緊迫した状況の中、手塚治虫は2日間の徹夜敢行で8本もの連載原稿を描きあげた。
 手塚治虫のアシスタントは、手が空いた時間に、資料をもとにいろいろな手術シーンの患部を鉛筆で下描きし、ストックしておく。手塚治虫がその中から使えそうな絵を選んで手を加え、作品中に使う。これで、『ブラック・ジャック』の手術シーンで一から資料を調べたり、写真を引き写したりする時間を大幅に短縮することができた。いやあ、そういう手法もつかったのですか。すごいですね。
 手塚治虫には、アシスタントから、その時代の流行や女性の感覚を吸収しようという目的もあったようで、新作が始まるときや新しいキャラクターが出てくるときには、女性アシスタントたちに衣装をデザインをさせてつかうことがあった。
 手塚治虫は道具にこだわっていた。ペン軸は木製で、ペン受けは特注だった。
手塚治虫にとって、漫画の絵は文章の字と同じである。走る、飛ぶ、立つ、座る、泣く、笑う、怒るなど、すべての情報はパターン化されていて、文字と同じように、形でインプットされていた。
 手塚治虫は、死の床で「仕事をさせてくれ」と起き上ろうとした。
 いやはや、すごいものです。あれだけ生命の尊厳を信条としていた手塚治虫なのに、医者の不養生を地で行くような結果となってしまった。悔しいやら、情けないやらの複雑な感情とともに、腹立たしささえ覚えた。これは著者の感慨です。
 手塚治虫は、胃がんにより60歳で亡くなりました。今から20年前の1989年2月9日のことでした。大学のころと違って、あまりマンガを読まない私ですが、手塚治虫だけはかなり読んだものです。本当に惜しい人を早くなくしてしまいました。でも、並みの人の倍どころか10倍以上の仕事はしたのではないでしょうか。

 
(2009年4月刊。700円+税)

2009年7月18日

筆に限りなし

著者 加藤 仁、 出版 講談社

 城山三郎伝です。まあ、よく調べてあることだと、ついつい感心しました。
 城山三郎が本を執筆していた書斎が資料館が名古屋にあるそうです(双葉館)。子どもの学習机ほどの小さい執筆机と、その周囲に取材メモや手紙類が散らかっています。城山の蔵書は、段ボール箱にして300個分あったそうです。本は1万2000冊。本や雑誌は、地元の文学ボランティアによって今なお分類・整理がすすめられていて、取材ノートやメモ・手紙なども仕分け作業がすすんでいます。毎日、1人か2人は作業しているのですが、まだまだ完成まで相当の時間がかかりそうだということです。
そして、城山三郎が1冊の本を書き上げるまで、大変入念な取材をしていることがよく分かる本でした。
 城山は家族に対して、チラシ1枚だって棄てないように厳命していた。だから、もう、ゴミ屋敷みたいだったと娘は語る。
 城山は戦前は完全な皇国少年であった。しかし、軍隊に入って、その現実をいやというほど知らされた。そして、戦後になって、戦時中の自分自身の精神生活がすべて否定されたことによる虚脱感に浸った。裏切られた皇国少年は、生きる拠りどころを失い、精神の傷痕と思索の混迷に喘ぎ、自分を失いかけた。
 城山は、戦後、今の一橋大学(当時は東京商科大学)に入った。
 城山は専業作家になる前、愛知学芸大学で経済論を教えていた。
 そして、『総会屋錦城』で世に出た。これは、異端の経済小説である。
 城山作品すべてに共通するのは、必ず自分の足で歩いて丹念に調べ執筆していること。調べるという学者の職能を大いに発揮して、インプットが多いほどアウトプットも多いと素朴に信じ、行動した。フットワークありきの小説執筆を皮肉って、城山のことを足軽作家と呼んだ文芸評論家がいた。
 城山は、資料収集から取材・執筆まで、スタッフを使うことなく、なにもかも一人でやってのけるのを原則とした。そのために投じる労力は計り知れず、流行作家のようには原稿の量産がきかない。城山三郎には才能があった。その才能とは、ケタはずれの努力をすることである。
 私が城山三郎の本として読んで記憶に残っているのは、『毎日が日曜日』『素直な戦士たち』などです。企業の内幕ものとして、高杉良の先輩作家というイメージがあります。
 
(2009年3月刊。1800円+税)

2009年7月17日

追録・蘇った「いつつぼし」記念パーティー


著者 内田 雅敏・鈴木 茂臣、 出版 れんが書房新社

 愛知県蒲郡市出身の内田雅敏弁護士による『いつつぼし』(昭和28年12月に発行された、当時、蒲郡南部小学校2年生の作文集)の発掘遺文ともいうべき文庫本です。
 ここまでやるか、と感嘆・感動・感銘を受ける追録集でした。私は知りませんでしたが、内田弁護士は、『法曹界の新宿鮫』とも呼ばれているそうです。そういえばそうかな、とつい思わずうなずいてしまったことでした。
 著者は、『乗っ取り弁護士』『敗戦の年に生まれて』など、いくつもの著書を出し、集会で飛びぬけて大きな声を出して周囲を驚かす快男児でもあります。といっても、私よりはいくらか年長です。私とは日弁連憲法委員会の同じメンバーとして、月に一回ほど顔を合わせる仲間です。
 ぶらんこ(2花 松井 延子)
 冬になるとぶらんこは、だれものらなくて、さびしそうにかぜにゆら、ゆらゆれています。かぜとなにか話しているよう、かぜも、ぶらんこもさびしそうだ。
 お正月(2花 井上 稔)
 お正月、まちどおしいな。マラソンで早くとんでこい。いいにおいするげたはいて、母ちゃんといなかのじいちゃんのとこへ、おきゃくにいくんだ。
 うーん、どちらもいい詩ですね。子どもの素直な心がそのままにじみ出ていますよね。
 昨年6月に開かれた同窓会のときには、当時の5人の担任のうち、女性3人が全員出席されたとのことです。残念なことに、男2人の先生は亡くなっていました。残念ですね。
 戦後の厳しい世の中を生き抜いてきた内田弁護士たちが、戦争だけは起こしてはならないという、担任だった鈴木久子先生の思いをしっかり受けとめていることもよく分かる本でした。内田弁護士の、今後ますますの健闘を期待します。
 
先日、仏検(1級)のみじめな結果をご報告しましたが、少し補足します。合格点は84点でしたから、その半分しか取れなかった。逆に言うと、2倍の努力をしないと合格できないということです。そして、合格率は10.8%でした。


(2009年6月刊。500円+税)

2009年6月30日

日本大使公邸襲撃事件

著者 ルイス・ジャンピエトリ、 出版 イースト・プレス

 事件が起きたのは、今から13年前の1996年12月です。それから4か月(126日)後に、軍隊が突入して占拠集団は全員殺害されたのでした。この本は、人質となり、今やペルー政府副大統領となった人物が書いたものですから、占拠集団をテロリストとし、日本政府、そして人質となった日本人の行動を厳しく批判しています。占拠集団をテロリストと呼ぶのについては、私も否定するつもりはありません。しかし、果たして彼らの交渉の余地はなかったのか、また、逮捕して裁判にかけることをしなかったわけですが、本当にそれで良かったのか、という疑問があります。
 それはともかくとして、この本は、フジモリ大統領の強引な救出作戦の内幕を肯定的に紹介しています。
 公邸に監禁された人質のなかには、ポケベルを持ちケータイを隠し持っている人たちがいた。もちろん、それで外部とひそかに連絡をとった。
 公邸の人質のなかには、フジモリ大統領の母や姉などの親族もいたが、MRTAは早々と解放した。フジモリ大統領は、初めから軍を突入させる作戦を考えていた。ただし、人質の予測死亡数が多い作戦は、政治的配慮から却下した。
 赤十字が人道的見地から公邸内に運び込んだものには、盗聴用マイクが仕込まれていた。人質は当初600人ほどいたが、女性や公邸使用人など、150人が一番に解放された。次々に解放されていき、最終的に人質は106人になった。フジモリ大統領は公邸内の人質が減りすぎるのが面白くなかった。MRTAの負担は重い方がいいと考えていたからだ。
 赤十字のほか、マスコミが公邸内内にやってきて、ひそかに盗聴器をあちこちに仕掛けた。いよいよ人質は72人となり、グループ別に部屋が指定された。著者たち軍人グループは、ひそかに脱出計画を立てた。しかし、テロリストに同調的な日本人たちがいるのを気にした。
 MRTAのなかに、16歳と20代前半の女性もいた。彼らが人質と親しくなりすぎたことから、リーダーは警戒した。
フジモリ大統領は、公邸の地下トンネルを掘り進める作戦を許可した。鉱山の町から60人の坑夫を集め、8時間ずつ3交代制で作業を続けた。1月1日に掘削をはじめて、3月15日に完成を予定した。900トンの土地を地上に運び出すため、夜に少しずつトラックで運んだ。そのトンネル掘削音をごまかすため、公邸に向けて、4台の巨大スピーカーを休みなく大音量で流しつづけた。そして、公邸の実寸大のレプリカを作り上げ、公邸突入作戦の訓練を繰り返した。
 地中にトンネルを掘りすすめていたところ、その地上部分に緑の帯がつくられていった。トンネル内の大壁に水を補給していたのが、地表面にまで浸み出して、雑草を育ててしまったのである。
 うへーっ、そういうこともあるのですね。MRTAはこの地表の異変には気がつかなかったようです。
 公邸に突入する突撃部隊は3つの支援班そして2つの後方支援班で構成された。それぞれ4人1組のエレメントである。合計して140人の兵士から成る。
 特殊部隊はトンネルに入って2日間、待機させられた。総勢90人。腐った野戦食にあたって、ひどい下痢をする者が出た。そこで、トンネル内には湿気を防ぐカーペットが敷かれ、扇風機がまわされた。
 4月22日。フジモリ大統領は、前妻から起こされた慰謝料請求の裁判のため、裁判所にいた。アリバイ作りである。そのとき、突入作戦が始まった。
 ペルー国家側の言い分としては、そうなんだろうなと思いながら読みました。でも、本当に、降伏したMRTAを問答無用式に射殺したことはなかったのでしょうか。フジモリ大統領の強権的手法を考えると、やっぱり大いに疑問です。
 この本のなかで、名指して批判されている元人質の小倉英敬氏の本『封殺された対話』(平凡社)もあわせて読まれることをおすすめします。
 
(2009年3月刊。1800円+税)

2009年6月29日

米原万里を語る

著者 井上 ユリ・井上ひさし ほか、 出版 かもがわ出版

 1950年生まれというから、私より2歳も年下なのに、残念なことに米原万里は3年前に亡くなりました。この本を読むと、本当に惜しい人を亡くしてしまったという思いに改めて駆られます。
 九条の会の事務局長をつとめている小森陽一東大教授が、ロシアで米原万里の弟分だったことをこの本を読んで初めて知りました。
 米原万里は、ロシア語はロシア人よりもよくできた。そして、なにより日本語がとても上手だった。だから、ロシア語の同時通訳は素晴らしかった。通訳の仕事は、言葉の勉強と、さらに通訳そのものの勉強をしない限り出来るものではない。
 そうなんです。通訳はなにより日本語ができないとダメなのです。アメリカで日常会話レベルの英語が話せるというくらいでは、通訳はつとまりません。私も何回か、しどろもどろ、まったく趣旨不明の通訳に出会い、メモをとることが出来なかったことがあります。私のフランス語もそうです。なんとか聞き取れる程度ですから、通訳なんて、とてもとてもできるものではありません。いえ、私に冗談半分でしたが、通訳しろと言った友人がいたのです。
 米原万里は、服装も派手で、化粧も香水もきつく、飾りもジャラジャラジャラジャラつけて、すごく大胆で、思いきっていて、力強いひとだという印象を与える。しかし、本当はずいぶん慎重な性格で、臆病なところがあった。なーるほど、ですね。
 米原万里の父親は、米原いたるといって、共産党の幹部で、衆議院議員もつとめている。戦前、一高を放校になり、終戦まで地下に潜っていた。その実家は鳥取の大富豪、名家だった。だから、戦後、公然と活動を始めて選挙に出ると、鳥取で最高点で当選した。プラハに家族を連れて常駐したのです。
 米原万里は、やっと小説を一作書いただけで、あの世へ旅立ってしまった。
 米原万里は、小学生のときにプラハ(チェコ)へ行き、日本語が全く通用しない場所にいきなり放り込まれた。そこでは、ロシア語をしゃべれないと、自分が誰であるか何者であるかということも分からない状況があり、言葉がいかに重要なものであるか理解していった。若いころに、自分の言葉の危機を迎えた人は、言語に対してとても敏感になる。アイデンティティの危機と言葉の危機は密接につながっている。
 しみじみと心に残るいい本でした。井上ひさしと奥さん(万里の実妹)の対談がとても面白く、興味をそそられました。 
 久しぶりに神戸へ行ってきました。
 土曜美の夕方でしたが、三宮駅前の商店街の人の多さに圧倒されました。まっすぐ進めないほどの人出です。日本って景気いいのかなと思いました。
 新神戸駅前に超高層マンションがいくつも建っていました。高所恐怖症の私には、とても住めません。値段も高いのでしょうね……。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

2009年6月28日

マルクス資本論

著者 門井 文雄、 出版 かもがわ出版

 理論劇画。はじめて聞く言葉です。つまり、単なるマンガ本ではないということです。うむむ、あの難解なことで有名な資本論をマンガに出来るのか。そして、マンガにしたら理解できるのか。ハムレットのような問いを突き付けられます。
 まあ、でも、マンガだとたしかに分かりやすいかな。そんな感触は得られます。
 私も資本論には、これまで少なくとも3度、挑戦しました。大学生時代に一度、そして弁護士になって時間をおいて二度、挑んでみました。でも、やっぱり私には難しい本でした。頭にするするっと入ってくるような本では決してありません。著者が、思いっきり、渾身の力をふりしぼって語っている。そんな迫力にみちみちた文章が、はてもなく切りもなく続くのです。ですから、私も意地になって、少なくと3度は全巻を読みとおしたわけです。だけど、残念ながら理解できたとはとうてい思えませんでした。
 マルクスが、生涯の友となったエンゲルスに出会ってまもなく書いた『共産党宣言』、これは私も大学1年生のときに読んで、なるほどと感心した覚えがあります。こちらは分かりやすい本でした。世の中の矛盾に目をつぶることなく、万国の労働者よ、団結して立ち上がれと呼び掛けていました。ぶるぶるっと、体中が震えてしまいました。非力でも、何とかしなくては、そう思いました。
 この理論劇画は、資本論第1巻の大意をなんとか伝えようと奮闘努力しています。それでも剰余価値とか、等価交換とか、やさしいようで難しい言葉が出てきます。そして、労働力と労働の違いが語られます。この点は、なんとなく分かった気になります。
 大洪水よ、我が亡きあとに来たれ。資本家は、ほおっておくと強欲な論理をむき出しにして、労働者を老いも若きも、女性までも非人間的扱いにして、踏みしだいてしまう。
 まるで、今の日本と同じように、マルクス時代のイギリスでは、労働者の生命、身体が悲惨な状態に置かれていました。そして、御手洗氏の率いる日本経団連は、イギリスの強欲資本家の完全な直系の子孫です。ともかく、我が身の繁栄しか考えていません。いったい、キャノンの製品を買うのはロボットだとでも考えている人でしょうか……。せめてヨーロッパ並みの、ルールと節度をもった資本主義社会であってほしいものです。老後は年金をもらって、ゆったり生活できる。これを望むのは当然のことではありませんか。それをできなくする社会を生み出している今の日本の政治は根本的に間違っています。プンプンプン。
 
(2009年4月刊。1300円+税)

2009年6月27日

回復力、失敗からの復活

著者 畑村 洋太郎、 出版 講談社現代新書

 自滅パターンにはまりこんだ人には、ある共通点がある。それは、人は弱いという認識が欠けていること。窮地に追い込まれて大変な状況のときに心がけるべきことは、自分の出来ることをただ淡々とやり続けること。ただ、それがまた難しいのですね。心が乱れていますから……。
 組織運営に外部の人間を参画させると、硬直した雰囲気を壊すひとつの有効な手段になりうる。内部の人間だけだと、どうしても客観性に乏しい。社会とズレた見方になってしまう。そうなんです。私の参加する会議の一つに、たまらなく暗くてかたい雰囲気のものがあります。お互い、けなしあうだけで、相手の成果を認めようとしないのです。いるだけで、くたびれる会議です。出なくて済むときには、心底ほっとします。
 ピンチのときのポイントは、ひとりだけで荷物を背負ってはいけないということ。
 私は、やったー、失敗したー……というときには、それを誰か、気の置けない友人に話して吐き出してしまうようにしています。自分のうちにうつうつと籠らせないようにするのです。
 自分のやっていることに自信を持つ。自信のない人は、ちょっと困難なことがあると、すぐに撤退してしまうので、結局は目標を達成できない。自信をもっていると、ちょっとくらいの困難ではめげないで、再チャレンジする。その差が、最後に結果として現れる。そして、この自信は根拠がなくてもかまわない。
 大切なことは、失敗を前にして、自分が何をどう考えて、どう行動したかを後々までしっかり覚えておくこと。それが出来たら、自分の判断や考え方、それにもとづいた行動がどんなふうに間違っていたか、後で確認することができる。これは失敗を正しく理解するための基本である。そのようなことのできる人のみが、失敗に学ぶことができる。
 手助けを受けられるのは、おそらく日ごろから愚直かつ丁寧に努力を続けている人である。うむむ、けだし至言だと思います。何事も謙虚であり、持続したいものです。
 失敗なんかで死んではいけない。まさしく至言です。いい本に出会いました。
(2009年1月刊。720円+税)

2009年6月22日

東大駒場学派物語

著者 小谷野 敦、 出版 新書館

 私にとって昔懐かしい駒場の話です。大学2年生のとき、ちょうど東大闘争に突入して授業がなくなりましたから、まともに授業を受けたのは1年と2か月ほど。ところが私自身は、大学で授業を受けて勉強する意義が分からず(と称して)、地域(神奈川県川崎市です)に出かけて、若者(労働者です)たちと一緒のサークルをつくって、しこしこと(その当時の流行語です)活動していました。
 翌年2月に授業が再開されてからも、引き続き漫然と授業には出ずに、地域でのセツルメント活動に没頭していました。まさしく、人生に必要なことは、大学ではなく、地域におけるセツルメント活動で学んだという気がします。
 それはともかくとして、この本を読むと、駒場での教授生活も、内情はかなり大変だということを知ることができます。それは第一に、この本のように内情暴露する人が出てくる危険性は高い、ということです。この本は、学者のゴシップでみちみちています。
 といっても、『源氏物語』だってゴシップを載せているじゃないかと著者は反撃しています。なるほど、そうなんでしょうね。『源氏物語』が世の中に出たとき、この人は誰がモデルなのか、いろいろ話題になったことでしょう。だから著者は、次のように喝破するのです。
 文学はゴシップと不可分の関係にある。ふむふむ、そうなのか、うむむ。
 私が大学生のころ、渋谷駅から井之頭線に乗り、駒場東大前駅で降りていました。ところが、この駅は、なんと1965年(昭和40年)にできたものだというのです。なーんだ、まだ2年しかたっていないときに私は利用したんだ……。昔から、こんな駅があったとばかり思い込んでいました。
 駅の階段を降りると、真正面が駒場の正門に至るのです。回れ右をすると、麻雀屋やラーメン店などの飲食店が混じる商店街になっていました。
 駒場の春、という言葉が出てきます。五月病とは無縁な、未来へのなんとはなしの希望を感じさせるものです。しかし、その希望を現実化させた人は、どれだけいたのでしょうか……。
 私にとっての救いは、まず第一に駒場寮です。6人部屋でしたが、先輩のしごきなんて、とんと無縁の自由極まりない天国のような生活が、そこにありました。ただし、経済的には楽ではありませんでした。1ヶ月をわずか1万3000円あまりで生活したという収支ノートが今も手元に残っています。もらっていた奨学金は月3000円。学費は年に1万2000円でした。
 第二に、セツルメント活動です。ここで、素晴らしい先輩と素敵な女性たちに出会うことができました。残念なことに、私の恋は実りませんでした。
 著者は、35冊も著書を出したのに、駒場で不遇な目にあったのを嘆き、攻撃しています。そうなんでしょうが、きっと学者にも求められる協調性に欠けていたのでしょうね。
 著者は、本を書かない教授がごろごろしていると手厳しく批判しています。本当にそうです。私も本は何冊も書いていますが、モチはモチ屋で、何を得意とするかの違いがあり、私などは議論のとき、きちんと順序、論理だてて展開するのはまったく不得手のままです。この本を読んで、学者の世界の厳しいゴシップを聞いた気がしました。
 それにしても、天皇崇拝論者が駒場の学者にそんなに大勢いたなんて、驚きです。ご冗談でしょ、という印象を受けました。
 昨日の日曜日、福大で仏検(1級)を受けました。朝から「傾向と対策」を読んでフランス語の感覚を必死で取り戻す努力をしました。単語がポロポロと忘却の彼方に飛び去っているのです。試験は3時間かかります。1問目2問目と全滅していき、長文読解でなんとか得点して、最後の書き取り、聞き取りで少し点を稼ぎます。100点満点で30点そこそこという哀れな成績がつづいています。我ながら厭になりますが、それでもフランス旅行を夢見て続けています。
 休憩時間に庭へ出てみると、色とりどりのバラの花が見事に咲いていました。梅雨空の下で、フランス語にどっぷり遣った苦難の日でした。
 
(2009年4月刊。1800円+税)

2009年6月18日

トヨタ・キャノン非正規切り

著者 岡 清彦、 出版 新日本出版社

 日本の今の深刻な不況の引き金を引いたのは、トヨタであり、キャノンであると私は考えています。もちろん、その背景には、アメリカのサブ・プライムローン危機に端を発した世界的な金融危機があるわけですが……。それでも、トヨタとキャノンの責任は重大です。
 トヨタの期間従業員は、最長で2年11ヶ月の有期雇用契約である。最初の契約は4~6ヶ月で、その後も6ヶ月、1年と細切れ契約にして、いつでも期間満了で解雇できるようにしている。トヨタはカンバン方式で有名だが、その「人間カンバン方式」こそ、期間従業員の活動である。必要なときに、必要な労働者を、必要なだけ使う。派遣労働者は奴隷だ。昔、女性は女郎屋に売られたが、いま、オレ達は工場に売られる。
 トヨタは、この20年間、正社員を増やさず、期間従業員を増やして日本一の利益をあげてきた。1990年のトヨタの経常利益は、7338億円。2008年には、それが2.3倍の1兆5806年にのぼる。しかし、正社員は7万人から6万9000人に減っている。そのかわり、期間従業員は1万人をこえ、生産現場の3割を占めるようになった。
期間従業員の日給は1万円。年収は300万円。正社員の平均年収829万円の半分以下でしかない。トヨタは、期間従業員のマイカー通勤を認めていない。だから、会社のバスか、自転車で通勤する。
トヨタは株主への配当は継続していて、2037億円も配当した。首切りを宣言した6000人の期間従業員の雇用を守るためには、配当金の9%、180億円あれば可能である。
そして、トヨタの内部留保(貯め込み利益)は、13兆9000億円にのぼっている。
うへーっ、こ、こんな莫大な利益、そして株主配当金があるのに、労働者のほうは平然と首切りするのですね。ひどいものです。血も涙もないとは、このことですよね。
ところで、いったい、取締役のもらう年間報酬額はいったいいくらなんでしょうか?
今の日本経団連会長の出身母体であるキャノンの名前が、観音に由来するということをこの本で初めて知りました。
キャノンでは、ほとんど残業はない。しかし、ノルマ達成まで働くことには変わりない。それは、サービス残業として何の手当てもつかない。
キャノンは大分県から莫大な補助金をもらっている。総額48億円にものぼる。ところが、そこで働く大量の労働者がワーキングプアと呼ばれている。4553億円もの利益を上げていながら、貧困宣言を出す。これって、まったく矛盾そのものです。
キャノン労組は、上部団体に加わらず、賃上げ要求すらしていない。
派遣労働者の時給は1000円。結局、手取り11万5000円になる。正社員だったら、残業や交代制手当がなかったら、月10数万円から20万円程度の手取りとなる。
キャノンそして日本経団連会長である御手洗は、「3年たったら正社員にしろと硬直的にすると、日本のコストまで硬直的になる」と言って開き直り、法律のほうこそ変えるべきだと弁明し、主張している。いやはや、とんだ男です。こんな人物が財界人トップなんですから、日本の将来はお先真っ暗です。
キャノンも、株主への配当は、同じく前期と同水準にしている。
日本経団連って、ホント、自分たち大企業のほんの目先のことしか考えていない強欲な資本家集団なんですね。あきれてしまいます。こんな人たちに今時の若者は日本の国と郷土を愛する心が足りないなんて言われたくありませんよね。守るべき自分の生活があってこそ、守るべき郷土があり、国があるのですからね……。
(2009年3月刊。1400円+税)

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