弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2009年2月14日

アイバンのラーメン

著者:アイバン・オーキン、 発行:リトルモア

 東京は世田谷に、アメリカ人によるラーメン屋があるそうです。京王線の芦花公園駅の近くです。今度、私も行ってみましょう。といっても、開店日にはかなりの行列が出来ているようなので、行っても食べられるか心配です。
 店主は、生粋のアメリカ人です。それも、コロラド大学を出て、シェフになったうえで、日本にやってきて自己流のラーメンを作り上げたというのです。すごいものです。伊丹十三監督の映画『タンポポ』を見て、ラーメンにあこがれたというのですから、大した根性です。
 店主の父親は知財専門の弁護士です。すごく成功しているそうです。
アイバンで出るラーメンが見事な写真で紹介されていますが、どれも、いかにも美味しそうです。ともかく、メンもスープもトッピングの卵も、すべてが手作りだというのです。しかも、感心したのは、仕入れが近所の商店街からなのです。いやあ、実にいいことですよね。共存共栄の精神をまさに実践しているのです。
サイドメニューとして焼きトマトがあり、豚飯があり、デザートのアイスクリームまであるのです。スープは豚骨スープではありません。塩ラーメンとしょうゆラーメンです。これも脂の多すぎるラーメンにしないようにしているからです。
毎日でも食べられるラーメンであるために、豚の脂は10cc未満しか入れていない。有名ラーメン店のラーメンは、基本的に一杯のラーメンに30~40ccの動物性の脂が含まれている。こんなに大量の脂が入っていると、身体に良くないし、毎日なんか、とても食べられない。
アイバンのラーメンは、さわやかな味だそうです。食べたあと、よい気持ちになるラーメン。これがコンセプトというのです。ここまで聞いたら、一度は食べずにいられません。でも、1日、120人の客しか入れない。営業時間も平日は夕方から夜のみ、土日は昼から夕方まで。そして、水と第四火は休み、というのです。席も10席しかありません。そのくせ、キッチンは広々としているというのですから、異例づくめです。
 メンはスープとよくからんでいる。メンをすすると、スープが口に入り、メンマも細長いので、同時に口に入る。一度に3つの味を楽しめる。さらにチャーシューと卵を合間に食べたら、すべての味がなじんで、ひとつのラーメンの味になる。一口ですべてが味わえるのが、アイバンのラーメンだ。
 いやあ、ぜひぜひ行って味わってみたいラーメンです。

(2008年12月刊。1600円+税)

2009年2月12日

資本主義はなぜ自壊したのか

著者 中谷 巌、 出版 集英社 インターナショナル

 オビに、改造改革の急先鋒であった著者が記す「懺悔の書」とありますが、本文を読むとまさしくそのものずばり懺悔をしています。お金儲けばかりを優先して、人間を大切にしてこなかったことを反省するなかで、キューバやブータンに行って、人々の幸せとはいったい何なのかを考えたというのです。これが対比として、実によく分かるのです。私も、前にキューバもブータンも、その実情を描いた本をこの書評欄で紹介したことがあります。
 著者がグローバル資本主義は間違っていると大きな声で叫び始めたわけですが、これを今さら遅いと叱る向きもあるようです。私は決してそう思いません。過ちは、まだ何とか是正することが可能なのです。もっとも無責任なのは、懺悔も後悔もせずに、論戦の場からこそこそと逃げ出していくような輩(やから)ではありませんか?
 グローバル資本主義は、世界経済活性化の切り札であると同時に、世界経済の不安定化、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人でもある。そして、グローバル資本が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長される。
 「改革」は必要だが、その改革は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる改革は改革の名に値しない。
 アメリカでは、スーパーリッチ層が輩出した反面、かつてのアメリカを支えていた豊かな中流階級の人々が「消え去った」。所得上位1%の富裕層の所得合計が、アメリカ全体の所得に占めるシェアは、8%から、なんと17%にまで急上昇した。
 ヨーロッパ諸国では、かなりの銀行に公的資金が投入され、事実上の国有化がすすんでいる。
 今回のバブル崩壊の結果、アメリカが主導してきたグローバル資本主義は大きな方向転換を迫られる。
 グローバル資本主義には3つの本質的な欠陥がある。その一は、世界金融経済の大きな不安定要素となること。その二は、格差拡大を生む「格差拡大機能」を内包し、その結果、健全な「中流階層の消失」という社会の二極化現象を生み出すこと。その三は、地球環境汚染を加速させ、グローバルな食品汚染の連鎖の遠因となっていること。
 いまや、グローバル資本主義はフランケンシュタインのモンスターさながら、その創造主である人類そのものを滅ぼしかねないほどに暴走してしまった。
 新自由主義思想は、一部の人々、はっきり言ってしまえばアメリカやヨーロッパのエリートたちにとって都合のいい思想であったから、これだけ力を持った。これは格差拡大を正当化する絶好の「ツール」になりうるものである。
 コーポレート・ガバナンス改革が進むにつれて、実際に起こったことは、実は未曾有の「高額報酬の常態化」であった。
 いやはや、これはひどいですね。私も、コーポレート・ガバナンスって、少しはましなものかと錯覚していました。とんだまちがいでした。いまの経営者に期待するのは幻想でしかないのですね。キャノンの御手洗をよく見ていれば分かることではありますが……。 
 自分のことしか考えず、日本人の多くの若者がどうなろうと知ったことじゃない。そのくせ、今の若者には倫理観が欠如しているから道徳教育が必要だというんですからね。笑止千万ですよ。プンプン。
 従来の資本主義とグローバル資本主義は、同じ「資本主義」という名を冠していても、そこには大きな質的な違いがある。グローバル資本主義においては、労働者と消費者が同一人物である必要はないからである。
 プレカリアートとは、プロレタリアートをもじった言葉で、不安定な立場に置かれた無産階級という意味。
 日本は、いまや貧困層の割合がアメリカに次ぐ世界第2位の「貧困大国」になっている。日本の「平等神話」は崩壊している。日本は、4世帯に1世帯が貧困に分類される国。貧困層に冷たい国になってしまった。
 シングル・マザー(ファーザーも)世帯の貧困率は60%に達している。日本が「希望なき貧困大国」から脱することがなにより優先されるべき政策課題だ。日本社会が安定することこそ、日本の底力を発揮するための前提条件である。
 大変すっきり読みやすい、告発の本でもありました。
(2009年2月刊。1700円+税)

2009年2月10日

買物難民

著者:杉田 聡、 発行:大月書店

 還暦を迎え、膝が痛かったりする私にとっても、歩いて買い物に行ける商店街がなくなってしまうというのは他人事(ひとごと)ではありません。郊外型スーパーとコンビニばかりになってしまったら、老人は生きていくことができません。少なくともひとりで買い物をする楽しみが奪われてしまいます。
 日本の飲食料品小売店の数がピークだったのは1980年ころ。このとき73万軒の店があった。それから20年間で26万軒が減った。人口10万人未満の地域でもっとも大きな影響があった。
 2005年、65歳以上の老人の自動車免許取得率は28%ほど。女性では半分の14%にすぎない。75歳以上だと免許を持っている人は20%。
 高齢者がバスに乗ったとき、多くの中高年は無視し、むしろ若い人の方が席を譲る。「いまどきの若者は・・・」というより、むしろ「近頃の中年は・・・」と言わざるをえない。
 近年のアメリカでは、大型店、量販店が同じ屋根の下に集まっている「スーパーセンター」の人気が落ちている。その原因の一つは、店内が広すぎて買い物が大変なことにある。大きなスーパーで体を休める場所がなかったり、椅子が少なすぎたり、トイレが外にしかなかったりする。これでは老人は困る。かごもカートも大きすぎて負担がある。
 買い物に行けなくなって、食事をありあわせものでしのいでいるうちに、栄養失調になってしまった高齢者も少なくない。
 日本には2005年現在、4900万世帯がいて、そのうちひとり暮らし世帯は1446万世帯(29%)ある。世帯主が65歳以上だと1350万世帯(28.5%)。75歳以上だと550万世帯(35.5%)である。これから、単身世帯はもっと増えて4割近くになると予想されている。
 コンビニは高齢者にとって便利とは限らない。
 役所は町の中心地に存在し続けるべきだ。このように著者は提言しています。中心地の空洞化は避ける必要があるのです。
 老人を大切にしない社会は、同時に、昨今の「派遣切り」に見られるように若者も切り捨てる、「株主」のみを優先し、人間無視の冷たい社会になってしまいます。
 マイカーがあればいいということでは決してありません。昔は、市の中心部にデパートがあっても、その周辺にたくさんの商店があり、デパートと共存共栄していました。歩いて買い物ができないことになったとき、その人の人生はきわめて味気なくなることは必至でしょう。今のうちに抜本的な解決策をみんなで考え、少しずつでも実行に移す必要があるように思います。
 日曜日、久しぶりに庭仕事をしました。チューリップの芽があちこちでぐんぐん伸びています。クロッカスの黄色い可憐な花が咲いているのも見つけました。あっ、白梅がもう咲いている。そう思ってよく見たら、その上には紅梅がたくさんの赤い花を咲かせていました。隣の家では、あでやかなピンクの桃の花が満開です。
 庭のあちこちに水仙が花を咲かせています。黄水仙も一つだけ咲いて自己の存在をアピールします。枯れたライラックを根から掘り上げ、肥料になる生ゴミを一番下に敷いて新しく買ったライラックを植え付けました。
 庭仕事の最中、ときどきくしゃみが出ます。花粉症に悩まされる候となりました。春近しです。陽が伸びて、夕方6時まで庭に出ていました。

(2008年12月刊。1600円+税)

2009年2月 5日

豊かさへもうひとつの道

著者:暉峻 淑子、 発行:かもがわ出版

 公共とは、テーブルの周りに多様な意見を持つ人々が集まって、ある共通のテーマについて、さまざまな角度から討論しあう場所のこと、というハンナ・アーレントの言葉が紹介されています。なんだか、日本人の「常識」とはずいぶん違うんだなと考えさせられました。
 スクール(学校)の元々の原義であるスコーレという言葉は、ギリシャ語で暇とか余暇を意味し、働く時間以外の時間でものを学んだり、考えたりするということから発している。うへーっ、そ、そうなんですか・・・。余暇にものを考えるというのは、小人閑居して不善をなす、という中国のことわざをつい連想してしまいます。忙しいときの方が、頭はよくまわると思うのですが、ちょっとイメージが違っていました。
 資本主義社会というのは、自分を限りなく増殖させていきたいという資本と、絶えず新しいものを求める技術が合体しているもの。
 経営者や自民党の政治家は、よく競争に勝つ教育を目ざすという。しかし、勝ってどうするのか、と問われると答えに窮してしまう。うむむ、そうなんですね・・・。
 中国人が日本人を評して、日本人は決して心を開くことなく、みんな心の中に計算機をもっていて、いつも計算している音が聞こえる、という。いやあ、そんなつもりはないのですが・・・。ちょっと、ショックを受けた評価でした。
 自民党の政治家たちは、よく国益がどうのこうのと言う。しかし、国益というのは「国民益」のことではないのか。国民がいない国益はいったいどこにあるのか。そして、国民益とは、国民の生活の質を高めることに他ならない。
 若者が非正規社員になると、社内研修が全然受けられず、単純労働の繰り返しになる。年金や医療保険など、社会保険の掛け金も払えないので、社会保障制度はくずれてしまう。フリーターが多くなっていくと、社会的に技術を伝承するということもなくなる。すると、30年か40年もたつと、専門的能力もなく、職もないので、生活保護を受けるしかない人々ばかり。そんな日本になってしまう・・・。
 つましく生きている人々のふところから富を奪い去って富裕層に貢いだのが、「改革なくして成長なし」という小泉ワンフレーズ改革の実態だった。
 貧困世帯の割合は、アメリカに次いで日本は2番目に多い。シングルマザーの貧困率は60%で、OECDの平均20%に比べるとケタ外れに多い。生活保護を受けている家庭は107万世帯、151万人いる。これに対して、年収1億円をこえる人々も同じく150万人いる。日本もアメリカ並みに両極分化しつつあるのですね。
 子ども時代に大人の管理や命令から離れて自由な遊びを経験することが大切だ。子どもは遊びの中でだけ、大人に管理されず、命令されず、本当に自由な自分の人生の主人公になれる。自由であればこそ、自分の能力を精一杯に発揮する喜びを知ることができる。自分の人生の主人公になる喜びを経験しなかった子どもは、大人になっても自立する喜びを知らない大人になる。管理されることに何の抵抗感も持たない大人は、自立する喜びを知らない大人だ。自分の価値に目覚め、自分の人生を生きる喜びが分からない人である。
うーん、何という鋭い指摘でしょうか。頭を抱えて、つい我が身を振り返ってみました。
 精神の老化は、必ずしも身体の老化に平行せず、創造、連合、洞察等の高度の精神的能力は年とともにかえって深まる。ゲーテが『ファウスト』を書いたのは82歳のときだ。
 人間らしい老後のある社会は、子どもや若者にも人間らしい生活を保障している社会であり、人権第一、生活第一、平和第一の社会である。
 日頃、何気なく過ごしている時を、ふと立ち止まって、もう一度よく考えてみようという気にさせる話が満載の本でした。

(2008年11月刊。1600円+税)

2009年2月 1日

獣の奏者、王獣編

著者:上橋 菜穂子、 発行:講談社

 いやあ、とても面白いです。ワクワクドキドキする痛快ファンタジーです。『ハリーポッター』の第一作を読んだときと同じように興奮してしまいました。いえ、別に変な意味ではありませんので誤解しないようにお願いします。
 ファンタジーですので、物語の紹介はいたしません。ただ、オビに書かれているキャッチコピーは次のようなものです。
 王国の陰謀に勇敢に立ち向かう少女、エリン。獣を操る技を身につけた彼女が選んだ未来とは?
ふむふむ。でも、それだけでは分かりませんよね。王獣(おうじゅう)とは何か、闘蛇(とうだ)とは何か、王獣と闘蛇が戦ったらどうなるのか。ともかく手にとって読んでみる価値はあります。ちょっと疲れたな。気分転換したいな。そう思ったときには最適ですね。そして、あとがきを読んで、私は驚きました。なんと、著者は『ミツバチ、飼育・生産の実際と蜜源植物』という本を読んでヒントを得たというのです。そして、養蜂に関わる場面については、実際に養蜂している専門家に教えを乞い、ゲラもみてもらったというのです。
すごいですよ。ミツバチから、これだけのファンタジーを着想したというのですから。やっぱり、世の中にはすごい人がいるものです。
 テレビのアニメになって放映されているようですね。

(2006年11月刊。1600円+税)

2009年1月25日

弁護士が書いた究極の勉強法

著者:木山 泰嗣、 発行:法学書院

 試験に受かるためには、一読了解の文章を書く必要がある。一読了解とは、頭が疲れていても、ユーウツな気分であっても、目で追うだけで分かる文章。そのためには一文は短くする。論理的な流れをつくるため、接続詞を正確に、有効に使う。分かりやすい文章を書くためにはまず書くこと、書いて書いて書きまくること。
 新しいことを勉強するにあたって習慣にしたいのが、音読。音読するメリットは脳の活性化。そして記憶への定着。仲間同士で口でする議論も大切。
 成功を約束するのは、圧倒的努力。単なる努力ではなく、圧倒的な努力こそ必要。ハンパな努力では足りない。好奇心を持つことが、脳をスポンジ状態にするためにも必要。
 スポンジ状態というのは、何でも貪欲に吸収するという意味です。病的な状況を指しているのではありません。念のため。
 試験委員がヘトヘトになって答案を読んでいるときに、すらっと読める答案が光る。人間的なゆとりのある生活、のんびり、ゆったりとした生活は大切なもの。でも、仕事ではスピードが必要。試験でも勉強でもスピード感が大切。速くやるほど成功の確率は高まる。勉強に限らず、集中力は、あらゆる分野で重要。
 試験会場は選べないのだから、ふだんからうるさい場所で勉強しておくと、本番でちょっとやそっとのことがあっても影響を受けず、あわてることなく実力を出し切ることができるようになる。そうなんですよね。集中できないのは困ります。
 とにかく気になった本は、すべて買うようにする。お金がかかるのは、先行投資だから仕方がないと考えたらいい。私も本は買える限り買います。買えないのは図書館で借りてコピーをとったりします。
実力が飛躍的にアップする究極の勉強法は、採点する側を体験すること。なーるほど、これは本当にその通りだと私も思います。
 なるほど、なるほど、そうなんだよね。思わず膝を打ってしまいたくなるほど、勉強法の基本的心がまえを真面目に紹介しています。
(2008年10月刊。1200円+税)

2009年1月24日

東大合格生のノートはかならず美しい

著者:太田 あや、 発行:文藝春秋

 東大合格に必要なのは、かなりの量の知識はもとより、それをまとめ組み立てて記述する力、そして問題を見たら反射的に手が動くスピード力。な、なーるほど、そういうことなんですか・・・。
 東大は入試の科目数が日本で一番多い。入試センター試験では、文系だと6教科7科目。理系では5教科7科目。その次の2次試験は全問記述式。このとき文系も理系も4教科5科目が課される。つまり、幅広い分野の知識が求められる。ここに東大入試の特徴の一つがある。
 2次試験では、覚えた知識をフル活用しながら、文章や数式を組み立て、いかに早く答案用紙を埋めていくかという作業がポイントになる。問題を見た瞬間、頭の引き出しを開け、似た問題をそこからたぐり寄せ、反射的に手が動くようにしておかないといけない。そのためには、入試までにできるだけ多くの問題に取り組み、解法パターンを体に刻み込んでおく必要がある。
 知識をまとめる力やスピード力を意識しなくてはいけない。意識して書くことを続けることで力が身についていく。「東大ノート」は、途中で投げ出したりせず、ノートの最初から最後まで同じテンションで書きつづられている。
 「東大ノート」に共通する7つの法則がある。 
第1、文頭をきれいにそろえる。
第2、写す必要がなければ、コピーして貼り付ける。
第3、余白をたっぷりと大胆にとる。あとで追加情報を書き込む。
第4、インデックスを活用して、復習の際の検索機能を高める。
第5、書いたことの全体像を一目で見渡し、体系的に確認できるようにする。
第6、オリジナルのフォーマットを持つ。
第7、筆圧が一定で、文字も同じテンションで書く。採点者にとっての見やすい答案を想定し、読みやすい答案づくりにそなえる。
 東大生の書いたノートを200冊も集めて、そこに法則を見出すという地道な作業を思いつき、それを実行した著者もエライですよね。そして、なるほど、こうすれば理解と記憶に役立つだろうな、と思いました。
ここに書かれていることは単に大学受験に役立つテクニックだというだけではなく、社会人になってからもメモの取り方に生かせるものだと思いました。

(2008年10月刊。952円+税)

2009年1月21日

責任に時効なし

著者:嶋田 賢三郎、 発行:アートデイズ

 著者は私より少し年長ですが、同じ団塊世代です。有名なカネボウの常務として財務経理を担当していました。そして、カネボウの再建に尽力しながら、粉飾決算の疑いで逮捕されます。その貴重な体験をもとにした小説ですので、ともかく迫真的です。どこまで事実なのかよく分かりませんが、大企業で恐るべき粉飾決算がまかり通っていること、公認会計士がそれを知りながらチェック(阻止)できていない実態がよく分かります。
大銀行のバンカーは、あからさまなものの言い方は極力さける。いわんや頭取クラスであれば、よほどのことがない限り露骨に直接的な言及はしない。化粧品の営業から叩き上げてきたトウボウの社長にはそれを理解するセンスが欠けていた。むむむ、なるほど……。
 企業粉飾によくつかわれる手法がいくつかある。
 キャッチボールは、トウボウが翌期返品を前提に商品を商社に引き取ってもらう、もっともプリミティブなやり方。
 三角取引とは、トウボウから商社Aに商品を売り、商社Aから商社Bに転売してもらい、翌期以降、トウボウは商社Bから仕入れ形態で買い取る。
 宇宙遊泳とは、トウボウから売られた商品を引き取った商社Aがいろいろな商社に転売していくため、まるで宇宙を遊泳しているように見えるので付けられた栄えあるネーミング。
 これらのとき、商社間で転売されるときには、そのたびに商社マージンが必ず乗せられる。だから、同じ在庫で何回もそれを繰り返すと、簿価が法外にアップする。その結果、異常な在庫簿価を形成してしまう。うひゃあ、すごいですね、ケタ違いの違法行為ですよね。
 労使運命共同体というトップの経営思想が、すべからくトウボウを鵺(ヌエ)のような不可解な企業体質にしてしまった。労働組合は、やはり資本からの自立が必要なのですね。
 トウボウは不良資産の解消のため、「逆さ合併」という手法を長年使ってきた。逆さ合併とは、規模の小さい会社を存続会社として、規模の大きい会社を消滅会社として、小が大をのみこむ合併をさす。赤字会社を存続会社とし、黒字会社を消滅会社として、赤が黒を飲み込む合併をさすこともある。
 黒字会社が赤字会社を吸収合併することは、商法によって原則として禁じられている。ここで赤字会社とは、債務超過または不良資産をかかえた実質債務超過の会社を指している。つまり、財産的な裏付けのない「負の会社」を被合併会社として吸収合併することはできない。だけど、逆に、赤が黒を合併することは禁じられていない。合併法人である赤字会社の繰越欠損金と被合併法人である黒字会社の利益とが相殺されて、合併後の会社は税金逃れ、つまり課税回避のメリットを享受できる。ただし、税務当局から、そんな認定を受けないように知恵を働かす。うむむ、いろんな手法があるものなんですね。
 日本の監査法人は立ち遅れている。企業のトップにあまりにも弱すぎる。監査法人は、組織的な業務運営という看板を掲げながら、有力会計士を中心に実質的にはタテ割運営がなされる傾向が強い。それが「なれあい監査」という悪の温床につながっている。
 もっとも不埒なのは、粉飾決算で利益を出したことにして、多額の役員退職慰労金を手
にして安寧をむさぼっている輩だ。その責任に時効なんかない。
 なかなか読みごたえのある経済企業小説でした。経理や会計用語について解説も入っていますので、理解を助けます。といっても、私はよく理解できないところが多くありました。といっても、大企業の経理って、まるで伏魔殿のようなものなのだということだけはよく分かりました。

(2008年12月刊。1800円+税)

2009年1月19日

ちひろの花ことば

著者:いわさきちひろ絵本美術館、 発行:講談社文庫

 小さな文庫本ですが、ちひろの絵がカラー図版でたっぷり楽しめ、心が温まります。あなたも、どうぞカバンに忍ばせて、ちょっと疲れたな、そう思ったときに頁を開いてみてください。きっと気が休まりますよ。
 上條恒彦の歌があります。とてもいい歌です。その歌詞は、なんと、ちひろが自分の結婚式を描いたものだったのです。
 その日、焼け残った神田のブリキ屋さんの2階の私の部屋は、花でいっぱいでした。私は千円の大金をぜんぶ花にしてしまったのです。
 あとは、ぶどう酒一本と、きれいなワイングラス2つ。
 これが四面楚歌のなかでの、二人だけの結婚式でした。
 すごーい、すごいですね。いやあ、すごいです。私の結婚式は、当時はやりの会費制でしてもらいました。夏の終わり、クーラーのきかない労働会館のホールです。ビデオ(今は保存のためCDに変換しています)を見ると、参加者は暑さのために、汗をふきふきしています。今になって申し訳ないと思いますが、当時はこの冷房のない部屋が公共施設にはあったのです。
 ちひろの花の絵は、ありのままの花を描くというより、大胆な構図のものが大半です。それも、ちひろが本当に花が好きで、よく見ていたからこそ描けたのでしょう。
 ちひろは、「春の花には、しきりに蝶が来たり、蜂が来たりする。花のほのかな香りの中にいると、にぶい蜂の羽音が聞こえてくる」と書いた。草むらにしゃがみこみ、花を見つめ、草花の息吹に耳を澄まし、同じ目の高さで花と語り合っていたちひろの姿が想像できる。
 ふむ、ふむ、なるほど、ですね。なんとなく分かりますね、これって……。
 ちひろの描いた子どもたちは、泣きわめくことも、おなかを抱えて笑い転げることも、怒りを撒き散らすことも、ほとんどしない。いつも、どちらかといえば、静かな表情を見せている。ただ、子どもたちと同じ画面に描かれたさまざまな草や花が子どもの心や個性を語っている。言葉には尽くせない思いを花が語っているのかもしれない。
 うーん、これって、ホント、とても的確な表現ではないかと思います。ホントホント、そうですよね。しっとり心に訴えかけてくる子どもの顔ばかりです。
 ちひろは童画について次のように語りました。
「さざなみのような画風の流行に左右されず、何年も読み続けられる絵本を、せつに描きたいと思う。もっとも個性的であることが、もっとも本当のものであると言われるように、私は、すべて自分で考えたような絵本をつくりたい。この童画の世界から、挿絵という言葉を亡くしてしまいたい。童画は、決してただの文の説明であってはならない。その絵は、文で表現されたのとまったく違った面からの、独立した、ひとつの大切な芸術だと思う」
 ふむふむ、まさしくその通りでしょうね。
 ちひろの絵の最大の特色は、豊潤無類の色感の中にある。
 いやあ、本当にそのとおりです。さすが、美術評論家(河北倫明)はいいことを言いますね。まったく同感です。
 年賀状に私を年の暮れにお茶の水駅で見かけたと書き添えていた友人がいました。せっかくですので、一声かけてくれたらよかったのですが……。かなり前のことですが、日比谷公園内を歩いていると、目の前を高校時代の同級生が通っていくのを見つけました。つい声をかけそびれてしまい、あとでハガキを出してそのことを告げてやりました。思わぬところでのすれ違いって、世の中にはあるのですよね。

(2006年9月刊。667円+税)

2009年1月15日

反・貧困

著者:湯浅 誠、 発行:あざみの会

 全国2008キャラバン和歌山の記念講演を小冊子にしたものです。現代日本のかかえる深刻な問題がとても分かりやすく説明されています。わずか60頁たらずの小冊子なのですが、読み終わると小さな冊子が、とてもずっしりと重たく感じられます。それほど重量感のある素晴らしい講演内容でした。
 著者は結論のところで、「溜め」を社会全体で作っていくことを強調しています。私も本当にその通りだと思います。たとえば、人間関係がたくさんあって豊かであるというと、自分はがんばる、がんばれる、生きていればそのうちいいことがあるさ、と思える。そういうのは精神的な「溜め」があるということ。この「溜め」が全体として失われている。それが貧困だ。
 「溜め」があるかないかで、たとえ同じトラブルが自分の身に起こっても、その受ける影響というのは全然ちがう。
 生活困窮者は、ほとんど自分が悪いのだと思っている。しかし、社会の「溜め」がなくなってきているから、そんな人が増えているのだ。だから、社会全体の「溜め」を増やす、そういう人たちの居場所を増やす必要がある。それが家族であったり、地域や市民団体のつくる居場所であったり、労働組合であったりする。
 だから、貧困の問題を解消しようと思ったら、自分たちの職場や学校や家庭の「溜め」を増やしていかないといけないのだ。いやはや、ホント、ホント、本当にそうですよ。
 韓国には「希望の電話129」というのがあり、129番を押すと生活保護を担う部署につながる。うはー、そ、そうなんですか……。日本にも、こういう電話があるといいですよね。
110とか119だけじゃなくて、生活ピンチです、ホームレスになりそうです、というときにSOSを発することのできる電話があったら、どんなにいいでしょうか……。
 東京都内で働く契約社員の平均年収は340万円で、正社員だと平均年収が530万円。そうすると、正社員は自分は1.5倍とか2倍の給料をもらうに値する人間だということを常に証明しなければいけないことになる。つまり、低処遇の正規や非正規の人が増えていくと、正社員に要求される水準は高まっていく。このため、超長時間労働が広がり、うつ病とか過労自殺、過労死が過去最高になった。
 正社員が勝ち組で、非正規が負け組なんて大嘘だ。現実に起きているのは、過労死するほど働くのか(正社員)、あるいは働いても食べていけない(非正社員)のか、過労死か貧困化というような究極の2者択一を迫られる労働者が増えている。どちらも負け組だ。
 日本のホームレスは、40代とか50代の健康な中高年が圧倒的多数を占めている。ヨーロッパでは、ホームレスは基本的に依存症の問題である。だからヨーロッパから日本に視察に来た人は、健康な人がなぜホームレスになっているのか信じられない。それは、日本にはセーフティネットがきいていないから。たとえば、雇用保険に入っていないので、失業保険をちゃんともらえない。
 生活保護基準以下で生活している人が600~850万人もいる。これは大阪府の人口より多く、東京23区の人口に匹敵する。
 貧困は労働市場が増えたため、増えている。その人たちの貧困を放置しておくと、「ノーと言えない労働者」となって職場に戻ってくる。そこで、労働の自由化というのは、貧困の問題とは労働市場が壊れた「結果」であると同時に、労働市場を壊す原因にもなっている。
 今の日本では年収400~800万代の人々が年々減っていて、中間層が年々減っている。純金融資産1億円以上の富裕層は、今や日本に150万人もいる。そして、生活保護を受けている人は154万人なので、両者はほとんど同数だ。
 世の中に実際いるのは、ほどほどにまじめで、ほどほどにいい加減で、だけど「生きていけてる人たち」と、ほどほどにまじめで、ほどほどにいいかげんな人たちなのです。
 そうですよね、そんなフツーの人たちがお互いを支えあって生きているのが、人間社会なのだと思います。
 それにしても、今回の著者を「村長」とした「年越し派遣村」の発足と活動には目を見張りました。まさに政治を大きく動かしました。ホームレスになっている(なりかけた)人が、500人も日比谷公園に集まり、その支援活動に2000人近い人がボランティアに駆けつけたのを知って、まだまだ日本も捨てたもんじゃないな、と思いました。
 派遣切りなんて、やめさせましょうよ。人間を使い捨てする企業って、いったいどこに社会的な価値があるのでしょうか。日本経団連御手洗会長の他人事みたいなセリフは絶対に許せません。

(2008年12月刊。500円+税)

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