弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2009年7月29日

われら青春の時

著者 佐藤 貴美子、 出版 新日本出版社 

 1950年代、名古屋における学生セツルメント活動、そして、元セツラーが医師となって地域に定着し、民主診療所を切り拓いていく話です。
セツル、というのは住みついてという意味。困っている人たちのために、住みついて医療や教育を提供しようという運動。日本では関東大震災のあと、東京帝国大学の心ある学生たちが、診療所・託児所・法律相談などを実施したのが最初。
私が学生セツラーであったのは、それより15年あとの1960年代後半のことでした。それでも、かなり似たところはありますので、大いに共感・共鳴しながら読み進めていきました。学生セツルメント活動が全盛期を迎えたのは、私が大学を卒業したあと70年代はじめで、その後急速に衰退していったと私は考えています。
大須事件に学生セツラーが巻き込まれて刑事被告人となってしまいます。このころはまだGHQがいて、朝鮮戦争のあと、政治活動が禁止されていた時代でもありました。それにも負けず、セツラーたちは神社の境内で、納涼映画会を計画します。原爆映画を上映しようというのです。当日、トラック2台で警察の機動隊員数十人が襲いかかってきて、上映会はつぶされてしまいました。このころは、むきだしの弾圧があったのですね。
主人公の女性は、医学部生でした。医師国家試験になんとか合格し、地域に飛び込み診療所を開設します。そのとき、指導教授に会いに行って言われた言葉がすごいものでした。
「やるなら、大物になりなさい。目立つようにすることです。大物になるのです。さもないと、○○君のように、名無しにされ、行方知れずにされてしまいます。やる以上は強気で行くのです。大物になって目立つのです」
なーるほど、ですね。
このころは、『君の名は』に続く『笛吹童子』というラジオドラマ全盛の時代だった。うーん、なつかしいです。私も『笛吹童子』のメロディーは、今でもはっきり覚えています。それこそ、ラジオにしがみつくようにして聴いていました。
セツルメント診療所を案内するチラシはガリ版印刷だ。ガリッ、ガリッと音がしはじめた。ガリ切りという作業には、根気とコツがいる。鉄筆に込める指の力が強いと、紙が破れてしまう。用心して力を弱めると、蝋紙が切れないので文字が出ない。そのころ合いが微妙である。すべての文字を均等な力で書かねばならない。強調したい言葉について力を込めようものなら、そこだけ早く破れて、ビラ全体がダメになってしまう。
そうなんです。私も大学1年生の4月からセツラーとなってガリ切りを始めました。四角いマス目に字をおさめ、なるべくなるべく読みやすいように丁寧にカッティングするうち、それまでと比べて格段に読みやすい字が書けるようになったのです。
ガリ切りをした蝋紙を謄写版にセットする。これにもコツがあって、原紙をピーンと張らねばならない。しわがあると文字が歪んでしまう。ローラーにインクが平均につくようにならしたうえで、印刷していく。体重を全部ローラーにかけ、加圧するように回転させ、印刷された紙を一枚ずつめくっていく。
この作業を2人1組でするようにこの本では描かれていますが、私たちは1人でしていました。そのほうがよほど早かったように思います。右手でローラーを押しまわして、指サックを左手の親指にはめてザラ紙をめくっていくのです。
学生セツルメントでは、実は異性と知り合えることも大きな魅力だった。
いやあ、ホント、そうなのです。たくさんの出会いがありました。
セツラーたちは山道を歩くのにも歌いながら行くので、長い道のりも苦にならない。
セツルに入って歌う楽しさを始めて知った者が多かった。何かにつけて歌が出る。歌いながら、楽しく作業をすすめる。
生来音痴の私も、みんなの邪魔にならないように気をつけながら楽しく歌っていました。
 60年代の学生セツルメントを知りたい人には、『清冽の炎』1~5巻(花伝社)をおすすめします。あわせて、当時の東大駒場の状況もよく分かる本です。
 
(2009年6月刊。2000円+税)

2009年7月25日

ビジネスで失敗する人の10の法則

著者 ドナルド・R・キーオ、 出版 日本経済新聞出版社

 コカ・コーラの元社長によるビジネス本です。さすがに鋭い指摘がなされていました。
 会社というのは人間が考えた概念にすぎない。会社が何かに失敗するということは、実際にはない。失敗するのは個人だ。なーるほど、ですね。
 失敗したいなら、柔軟性を否定すべきだ。しかし、柔軟性それ自体に価値があるわけではない。柔軟性と適応力は、企業の指導者に不可欠な資質であり、管理能力や業務の能力、技術力といった個々の能力を超えるものである。
 いまは情報の時代だと言われている。しかし、これは正しくない。情報の時代ではない。データの時代なのだ。データは無限に入ってくる。なるほど、そう、そうなんですよね。
データ中毒になって、未処理のまま洪水のように流れ込んでくるデータに忙殺され、考える時間が取れなくなっている。受信箱ショックと呼ばれる状態になっている。つまり、入ってくるデータが多すぎて、処理しきれなくなっている。
 凡人にとっては、情報通信技術のために、ムダな時間を省いて、今やっていることに集中し、じっくりと考えるどころか、時間が圧縮されて、ストレスがたまるようになっている。
 データはいくら集めても、多すぎるということはありえない。これは間違いなのだ。
 うーん、そうなんですよね。でも、データに振り回されないようにするというのは、実のところ、かなり難しいんです。
 成功をおさめている人はみな、自分の仕事に愛情をもっていて、きわめて熱心に取り組んでいる。どんな職業であっても、みな自分の仕事に心から熱意を燃やしている。少し度が過ぎるのではないかと思えるほど、夢中になっている。
 ふむふむ、これもぴったりくる指摘ですね。なるほど、なるほど、と思います。
 リスクをとるのをやめ、柔軟性をなくし、部下を遠ざけ、自分は無謬だと考え、反則すれすれのところで戦い、考えるのに時間を使わず、外部の専門家を全面的に信頼し、官僚組織を愛し、一貫性のないメッセージを送り、将来を恐れていれば、必ず失敗する。
 そうなんですね。よーく分かりました。
(2009年5月刊。1600円+税)

2009年7月24日

寡黙なる巨人

著者 多田 富雄、 出版 集英社

 2001年5月2日、67歳の著者は、突然、脳梗塞に倒れた。右側の重度の片麻痺、舌や喉の麻痺による摂食障害が残った。眠っている間に、麻痺のために舌が喉に落ち込んでしまうので、常に電動ベッドの背を45度に上げていなくてはいけない。しかも、水が一滴も飲めない。むせてしまう。唾を飲み込むこともできない。嘔吐反応まで消失していた。
 舌がまったく動かないから、話すこともできない。
 鏡を見ると、歪んだ表情の老人の顔が映っている。右半分は死人のように無表情で、左半分は歪んで下品に引きつれている。顔はだらしなく涎をたらし、苦しげにあえいでいる。とても自分の顔とは思われない。
 リハビリで受ける発声の訓練は、身体にこたえる。発声は全身の運動なのである。ところが、身体が、声を出す筋肉運動の仕方を忘れてしまっていた。うひゃあ、そういうことなんですか……。
 受けてみて、リハビリは科学であることを理解した。実際の経験によって作り出され、その積み重ねの上に理論を構築した、貴重な医学である。
 そして、歩くというのは、人間であることの条件なのである。歩くという何気ない作業が、実は複雑な手続きで行われていることを初めて知った。
 立ち上がるだけでも、脚のたくさんの筋肉のみならず、重心をとり、平衡感覚を全身の筋に覚えさせる大変な学習を要する。随意運動を指令するのは大脳だが、脳梗塞は、その指令を出す大脳皮質の運動野が障害されることが多い。
 小泉改革は、障害者にとって必要不可欠のリハビリを無情にも最長180日に2006年から制限しはじめた。改革の名を借りた医療の制限である。
 著者は、小泉改革を厳しく糾弾しています。まったく同感です。自民党の弱い者いじめの典型が、このリハビリ一律制限です。とんでもない悪法です。いま、消費税を5%から12%に上げようという動きがありますが、その口実にまたもや福祉予算の充実がつかわれています。とんでもないごまかしです。
 この本で救いなのは、著者が重度の障害を持ちながらもリハビリに励んで、本を出版するまでに回復できたということです。並々ならぬ決意と努力のたまものと思います。引き続き健康に留意され、体験をふまえて現行医療制度の改善のための告発を続けてください。 
(2009年2月刊。1600円+税

2009年7月22日

懐旧九十年

著者 庭山 慶一朗、 出版 毎日新聞社

 驚嘆しました。よくぞここまで覚えているものです。1917年生まれですから、92歳です。昨年91歳のときに出版されています。それなりに裏付け調査もされたのでしょうが、基本は記憶力の良さではないかと推察しました。
 著者は、住専問題が騒がれたとき、悪の権化のようにマスコミから叩かれました。私も名前だけは知っていました。そのバッシングに耐え、道義的責任から私財1億2000万円を拠出しています。そのあたりになると、著者の筆は弁明に走るどころではありません。怒りに震えて糾弾しています。その激しさには耳を傾けるべきところがあると思わされます。
 著者の父親は、大阪画壇で活躍した日本画家の庭山耕園という人です。申し訳ありませんが、私の知らない人です。花鳥画では有名な人のようです。私も知る竹内梄鳳という画家と並んでいたというのですから、すごい人なんですね。庭山画塾(椿花社)を主宰していたとのことです。
 著者自身は広島で原爆被害にあって命拾いしていますが、3人の弟を戦死させています。ですから、毎年、3月15日に靖国神社に参拝しているそうですが、戦犯を拝んでいるわけではありません。著者は、自分が徴兵されて戦死するのは困る。徴兵を遁れるのにはどうしたらよいかと考えていたと言います。すごいですね。
 著者の小・中・高の生活ぶりが克明に語られています。よくぞここまで覚えているものだと感嘆しました。
 高校生のとき、満州事変が起きて日本軍が破竹の勢いで進軍していたころ、著者は今は勝っているが、万一敗れて敵が日本に上陸してきたら、島国だし、どうしたらよいか心配していたとのこと。うへーっ、そ、そんな心配をしていた高校生がいたのですか。軍国少年ばかりではなかったのですね。
 かといって、著者はマルクス主義には初めから近づいていません。むしろ、反共です。末弘厳太郎に著者は私淑していたようです。末弘厳太郎は、セツルメントにも関わっていましたし、社会に目を見開いていましたので、反共の著者が学生として心が惹かれたというのには、やや意外な感があります。
 著者が東大法学部を卒業した時の成績は、優17、良3、可1というものでした。すごいです。私など、優はわずか1コだけという低飛行の成績でした。
 大蔵省に入り、主税局に配属されますが、昭和19年5月、召集令状がきて、呉の海兵団に入営します。ところが、裏から手が回って、やがて召集解除になるのです。しかし、再び広島に赴任します。そこで原爆にあったのでした。
 妻とともに庭に出て引っ越しのための荷造りを汗だくでやっていた。一服して、ふと頭をあげて上空を眺めると、真っ青に晴れた青空に銀色に光る球体が数個浮かんでいるのが見えた。爆発寸前のリトル・ボーイ(原爆)を目撃したというわけです。それでも90歳まで元気に長生きできたのですから、よほど運のいい人なんですね。
 広島の原爆記念日に「過ちは繰り返しません」というのは、主語がないから意味不明。すべからく消去すべきだと著者は指摘しています。同感です。
池田勇人その他の著名人との交友が次々に紹介されています。
 公共事業という「美名」をつかって国土を破壊することは許されない。行政指導に深入りして銀行と癒着している銀行局のやり方を常に厳しく批判していた。叙勲制度を批判していたから、断った。人間の格付けは受けたくないからである。なるほど、なるほどです。
 大蔵省を26年間つとめて辞めたとき、まだ50歳だった。そこで、日本住宅金融株式会社の社長になった。三和銀行のお誘いに乗った。これは世間でいう大蔵省の「天下り」ではない。そして、20年のあいだ社長を務めた。そこでは、保証人を取らない住宅ローンを始めて、大当たりした。
株主総会では、「いかがわしい慣習」を徹底的に排除した。日本のほとんどの会社がいかがわしい慣習に従っているのは、自らいかがわしいことをしているからである。
 著者は、「私を人身御供にした当時の橋本龍太郎首相以下の政府関係者、中坊公平弁護士以下の集団、学者、評論家、マスコミを許さない」としています。「住専」問題は、むしろ政府とりわけ大蔵省の財政金融政策の失敗によるものだということです。
 ここらあたりになると、著者の怒りが先に立って、全体像が見えにくいという恨みはありますが、それだけに考え直して見るべきものがあることはよく伝わってきます。
 この本は、著者の長男の庭山正一郎弁護士より贈られてきたものです。庭山弁護士は日弁連憲法委員会でご一緒させていただいていますが、その高い識見・能力にいつも敬服しています。500頁もの厚さの本ですが、感心、感嘆、感服しながら最後まで読みすすめました。

(2009年2月刊。1600円+税)

2009年7月20日

手塚先生、締め切り過ぎてます!

著者 福元 一義、 出版 集英社新書

 手塚治虫は、日本の生んだ偉大な天才の一人です。私も心から尊敬しています。その早過ぎな死を残念に思うばかりです。
 この本は、手塚治虫の担当編集者となり、次いで、なんと同業者(漫画家)、さらに再び手塚治虫のチーフアシスタントを務めたという著者のエッセイを本にしたものです。あの偉大な手塚治虫を身近な存在として感じることができる人です。すごいな、すごい、と、この本を読みながら、何度もうんうんうなずいたことでした。
 まずは、担当編集者時代の苦労話。作家の見張り役兼原稿運び担当。常に編集者がそばにいて監視していないと、手塚治虫は締め切りが競合する他社の原稿を描き出します。油断も隙もあったものじゃない。
 仕事部屋の隣に編集者の部屋をとり、1頁あがるごとに見張りの担当者が交代するという緊迫した状況の中、手塚治虫は2日間の徹夜敢行で8本もの連載原稿を描きあげた。
 手塚治虫のアシスタントは、手が空いた時間に、資料をもとにいろいろな手術シーンの患部を鉛筆で下描きし、ストックしておく。手塚治虫がその中から使えそうな絵を選んで手を加え、作品中に使う。これで、『ブラック・ジャック』の手術シーンで一から資料を調べたり、写真を引き写したりする時間を大幅に短縮することができた。いやあ、そういう手法もつかったのですか。すごいですね。
 手塚治虫には、アシスタントから、その時代の流行や女性の感覚を吸収しようという目的もあったようで、新作が始まるときや新しいキャラクターが出てくるときには、女性アシスタントたちに衣装をデザインをさせてつかうことがあった。
 手塚治虫は道具にこだわっていた。ペン軸は木製で、ペン受けは特注だった。
手塚治虫にとって、漫画の絵は文章の字と同じである。走る、飛ぶ、立つ、座る、泣く、笑う、怒るなど、すべての情報はパターン化されていて、文字と同じように、形でインプットされていた。
 手塚治虫は、死の床で「仕事をさせてくれ」と起き上ろうとした。
 いやはや、すごいものです。あれだけ生命の尊厳を信条としていた手塚治虫なのに、医者の不養生を地で行くような結果となってしまった。悔しいやら、情けないやらの複雑な感情とともに、腹立たしささえ覚えた。これは著者の感慨です。
 手塚治虫は、胃がんにより60歳で亡くなりました。今から20年前の1989年2月9日のことでした。大学のころと違って、あまりマンガを読まない私ですが、手塚治虫だけはかなり読んだものです。本当に惜しい人を早くなくしてしまいました。でも、並みの人の倍どころか10倍以上の仕事はしたのではないでしょうか。

 
(2009年4月刊。700円+税)

2009年7月18日

筆に限りなし

著者 加藤 仁、 出版 講談社

 城山三郎伝です。まあ、よく調べてあることだと、ついつい感心しました。
 城山三郎が本を執筆していた書斎が資料館が名古屋にあるそうです(双葉館)。子どもの学習机ほどの小さい執筆机と、その周囲に取材メモや手紙類が散らかっています。城山の蔵書は、段ボール箱にして300個分あったそうです。本は1万2000冊。本や雑誌は、地元の文学ボランティアによって今なお分類・整理がすすめられていて、取材ノートやメモ・手紙なども仕分け作業がすすんでいます。毎日、1人か2人は作業しているのですが、まだまだ完成まで相当の時間がかかりそうだということです。
そして、城山三郎が1冊の本を書き上げるまで、大変入念な取材をしていることがよく分かる本でした。
 城山は家族に対して、チラシ1枚だって棄てないように厳命していた。だから、もう、ゴミ屋敷みたいだったと娘は語る。
 城山は戦前は完全な皇国少年であった。しかし、軍隊に入って、その現実をいやというほど知らされた。そして、戦後になって、戦時中の自分自身の精神生活がすべて否定されたことによる虚脱感に浸った。裏切られた皇国少年は、生きる拠りどころを失い、精神の傷痕と思索の混迷に喘ぎ、自分を失いかけた。
 城山は、戦後、今の一橋大学(当時は東京商科大学)に入った。
 城山は専業作家になる前、愛知学芸大学で経済論を教えていた。
 そして、『総会屋錦城』で世に出た。これは、異端の経済小説である。
 城山作品すべてに共通するのは、必ず自分の足で歩いて丹念に調べ執筆していること。調べるという学者の職能を大いに発揮して、インプットが多いほどアウトプットも多いと素朴に信じ、行動した。フットワークありきの小説執筆を皮肉って、城山のことを足軽作家と呼んだ文芸評論家がいた。
 城山は、資料収集から取材・執筆まで、スタッフを使うことなく、なにもかも一人でやってのけるのを原則とした。そのために投じる労力は計り知れず、流行作家のようには原稿の量産がきかない。城山三郎には才能があった。その才能とは、ケタはずれの努力をすることである。
 私が城山三郎の本として読んで記憶に残っているのは、『毎日が日曜日』『素直な戦士たち』などです。企業の内幕ものとして、高杉良の先輩作家というイメージがあります。
 
(2009年3月刊。1800円+税)

2009年7月17日

追録・蘇った「いつつぼし」記念パーティー


著者 内田 雅敏・鈴木 茂臣、 出版 れんが書房新社

 愛知県蒲郡市出身の内田雅敏弁護士による『いつつぼし』(昭和28年12月に発行された、当時、蒲郡南部小学校2年生の作文集)の発掘遺文ともいうべき文庫本です。
 ここまでやるか、と感嘆・感動・感銘を受ける追録集でした。私は知りませんでしたが、内田弁護士は、『法曹界の新宿鮫』とも呼ばれているそうです。そういえばそうかな、とつい思わずうなずいてしまったことでした。
 著者は、『乗っ取り弁護士』『敗戦の年に生まれて』など、いくつもの著書を出し、集会で飛びぬけて大きな声を出して周囲を驚かす快男児でもあります。といっても、私よりはいくらか年長です。私とは日弁連憲法委員会の同じメンバーとして、月に一回ほど顔を合わせる仲間です。
 ぶらんこ(2花 松井 延子)
 冬になるとぶらんこは、だれものらなくて、さびしそうにかぜにゆら、ゆらゆれています。かぜとなにか話しているよう、かぜも、ぶらんこもさびしそうだ。
 お正月(2花 井上 稔)
 お正月、まちどおしいな。マラソンで早くとんでこい。いいにおいするげたはいて、母ちゃんといなかのじいちゃんのとこへ、おきゃくにいくんだ。
 うーん、どちらもいい詩ですね。子どもの素直な心がそのままにじみ出ていますよね。
 昨年6月に開かれた同窓会のときには、当時の5人の担任のうち、女性3人が全員出席されたとのことです。残念なことに、男2人の先生は亡くなっていました。残念ですね。
 戦後の厳しい世の中を生き抜いてきた内田弁護士たちが、戦争だけは起こしてはならないという、担任だった鈴木久子先生の思いをしっかり受けとめていることもよく分かる本でした。内田弁護士の、今後ますますの健闘を期待します。
 
先日、仏検(1級)のみじめな結果をご報告しましたが、少し補足します。合格点は84点でしたから、その半分しか取れなかった。逆に言うと、2倍の努力をしないと合格できないということです。そして、合格率は10.8%でした。


(2009年6月刊。500円+税)

2009年6月30日

日本大使公邸襲撃事件

著者 ルイス・ジャンピエトリ、 出版 イースト・プレス

 事件が起きたのは、今から13年前の1996年12月です。それから4か月(126日)後に、軍隊が突入して占拠集団は全員殺害されたのでした。この本は、人質となり、今やペルー政府副大統領となった人物が書いたものですから、占拠集団をテロリストとし、日本政府、そして人質となった日本人の行動を厳しく批判しています。占拠集団をテロリストと呼ぶのについては、私も否定するつもりはありません。しかし、果たして彼らの交渉の余地はなかったのか、また、逮捕して裁判にかけることをしなかったわけですが、本当にそれで良かったのか、という疑問があります。
 それはともかくとして、この本は、フジモリ大統領の強引な救出作戦の内幕を肯定的に紹介しています。
 公邸に監禁された人質のなかには、ポケベルを持ちケータイを隠し持っている人たちがいた。もちろん、それで外部とひそかに連絡をとった。
 公邸の人質のなかには、フジモリ大統領の母や姉などの親族もいたが、MRTAは早々と解放した。フジモリ大統領は、初めから軍を突入させる作戦を考えていた。ただし、人質の予測死亡数が多い作戦は、政治的配慮から却下した。
 赤十字が人道的見地から公邸内に運び込んだものには、盗聴用マイクが仕込まれていた。人質は当初600人ほどいたが、女性や公邸使用人など、150人が一番に解放された。次々に解放されていき、最終的に人質は106人になった。フジモリ大統領は公邸内の人質が減りすぎるのが面白くなかった。MRTAの負担は重い方がいいと考えていたからだ。
 赤十字のほか、マスコミが公邸内内にやってきて、ひそかに盗聴器をあちこちに仕掛けた。いよいよ人質は72人となり、グループ別に部屋が指定された。著者たち軍人グループは、ひそかに脱出計画を立てた。しかし、テロリストに同調的な日本人たちがいるのを気にした。
 MRTAのなかに、16歳と20代前半の女性もいた。彼らが人質と親しくなりすぎたことから、リーダーは警戒した。
フジモリ大統領は、公邸の地下トンネルを掘り進める作戦を許可した。鉱山の町から60人の坑夫を集め、8時間ずつ3交代制で作業を続けた。1月1日に掘削をはじめて、3月15日に完成を予定した。900トンの土地を地上に運び出すため、夜に少しずつトラックで運んだ。そのトンネル掘削音をごまかすため、公邸に向けて、4台の巨大スピーカーを休みなく大音量で流しつづけた。そして、公邸の実寸大のレプリカを作り上げ、公邸突入作戦の訓練を繰り返した。
 地中にトンネルを掘りすすめていたところ、その地上部分に緑の帯がつくられていった。トンネル内の大壁に水を補給していたのが、地表面にまで浸み出して、雑草を育ててしまったのである。
 うへーっ、そういうこともあるのですね。MRTAはこの地表の異変には気がつかなかったようです。
 公邸に突入する突撃部隊は3つの支援班そして2つの後方支援班で構成された。それぞれ4人1組のエレメントである。合計して140人の兵士から成る。
 特殊部隊はトンネルに入って2日間、待機させられた。総勢90人。腐った野戦食にあたって、ひどい下痢をする者が出た。そこで、トンネル内には湿気を防ぐカーペットが敷かれ、扇風機がまわされた。
 4月22日。フジモリ大統領は、前妻から起こされた慰謝料請求の裁判のため、裁判所にいた。アリバイ作りである。そのとき、突入作戦が始まった。
 ペルー国家側の言い分としては、そうなんだろうなと思いながら読みました。でも、本当に、降伏したMRTAを問答無用式に射殺したことはなかったのでしょうか。フジモリ大統領の強権的手法を考えると、やっぱり大いに疑問です。
 この本のなかで、名指して批判されている元人質の小倉英敬氏の本『封殺された対話』(平凡社)もあわせて読まれることをおすすめします。
 
(2009年3月刊。1800円+税)

2009年6月29日

米原万里を語る

著者 井上 ユリ・井上ひさし ほか、 出版 かもがわ出版

 1950年生まれというから、私より2歳も年下なのに、残念なことに米原万里は3年前に亡くなりました。この本を読むと、本当に惜しい人を亡くしてしまったという思いに改めて駆られます。
 九条の会の事務局長をつとめている小森陽一東大教授が、ロシアで米原万里の弟分だったことをこの本を読んで初めて知りました。
 米原万里は、ロシア語はロシア人よりもよくできた。そして、なにより日本語がとても上手だった。だから、ロシア語の同時通訳は素晴らしかった。通訳の仕事は、言葉の勉強と、さらに通訳そのものの勉強をしない限り出来るものではない。
 そうなんです。通訳はなにより日本語ができないとダメなのです。アメリカで日常会話レベルの英語が話せるというくらいでは、通訳はつとまりません。私も何回か、しどろもどろ、まったく趣旨不明の通訳に出会い、メモをとることが出来なかったことがあります。私のフランス語もそうです。なんとか聞き取れる程度ですから、通訳なんて、とてもとてもできるものではありません。いえ、私に冗談半分でしたが、通訳しろと言った友人がいたのです。
 米原万里は、服装も派手で、化粧も香水もきつく、飾りもジャラジャラジャラジャラつけて、すごく大胆で、思いきっていて、力強いひとだという印象を与える。しかし、本当はずいぶん慎重な性格で、臆病なところがあった。なーるほど、ですね。
 米原万里の父親は、米原いたるといって、共産党の幹部で、衆議院議員もつとめている。戦前、一高を放校になり、終戦まで地下に潜っていた。その実家は鳥取の大富豪、名家だった。だから、戦後、公然と活動を始めて選挙に出ると、鳥取で最高点で当選した。プラハに家族を連れて常駐したのです。
 米原万里は、やっと小説を一作書いただけで、あの世へ旅立ってしまった。
 米原万里は、小学生のときにプラハ(チェコ)へ行き、日本語が全く通用しない場所にいきなり放り込まれた。そこでは、ロシア語をしゃべれないと、自分が誰であるか何者であるかということも分からない状況があり、言葉がいかに重要なものであるか理解していった。若いころに、自分の言葉の危機を迎えた人は、言語に対してとても敏感になる。アイデンティティの危機と言葉の危機は密接につながっている。
 しみじみと心に残るいい本でした。井上ひさしと奥さん(万里の実妹)の対談がとても面白く、興味をそそられました。 
 久しぶりに神戸へ行ってきました。
 土曜美の夕方でしたが、三宮駅前の商店街の人の多さに圧倒されました。まっすぐ進めないほどの人出です。日本って景気いいのかなと思いました。
 新神戸駅前に超高層マンションがいくつも建っていました。高所恐怖症の私には、とても住めません。値段も高いのでしょうね……。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

2009年6月28日

マルクス資本論

著者 門井 文雄、 出版 かもがわ出版

 理論劇画。はじめて聞く言葉です。つまり、単なるマンガ本ではないということです。うむむ、あの難解なことで有名な資本論をマンガに出来るのか。そして、マンガにしたら理解できるのか。ハムレットのような問いを突き付けられます。
 まあ、でも、マンガだとたしかに分かりやすいかな。そんな感触は得られます。
 私も資本論には、これまで少なくとも3度、挑戦しました。大学生時代に一度、そして弁護士になって時間をおいて二度、挑んでみました。でも、やっぱり私には難しい本でした。頭にするするっと入ってくるような本では決してありません。著者が、思いっきり、渾身の力をふりしぼって語っている。そんな迫力にみちみちた文章が、はてもなく切りもなく続くのです。ですから、私も意地になって、少なくと3度は全巻を読みとおしたわけです。だけど、残念ながら理解できたとはとうてい思えませんでした。
 マルクスが、生涯の友となったエンゲルスに出会ってまもなく書いた『共産党宣言』、これは私も大学1年生のときに読んで、なるほどと感心した覚えがあります。こちらは分かりやすい本でした。世の中の矛盾に目をつぶることなく、万国の労働者よ、団結して立ち上がれと呼び掛けていました。ぶるぶるっと、体中が震えてしまいました。非力でも、何とかしなくては、そう思いました。
 この理論劇画は、資本論第1巻の大意をなんとか伝えようと奮闘努力しています。それでも剰余価値とか、等価交換とか、やさしいようで難しい言葉が出てきます。そして、労働力と労働の違いが語られます。この点は、なんとなく分かった気になります。
 大洪水よ、我が亡きあとに来たれ。資本家は、ほおっておくと強欲な論理をむき出しにして、労働者を老いも若きも、女性までも非人間的扱いにして、踏みしだいてしまう。
 まるで、今の日本と同じように、マルクス時代のイギリスでは、労働者の生命、身体が悲惨な状態に置かれていました。そして、御手洗氏の率いる日本経団連は、イギリスの強欲資本家の完全な直系の子孫です。ともかく、我が身の繁栄しか考えていません。いったい、キャノンの製品を買うのはロボットだとでも考えている人でしょうか……。せめてヨーロッパ並みの、ルールと節度をもった資本主義社会であってほしいものです。老後は年金をもらって、ゆったり生活できる。これを望むのは当然のことではありませんか。それをできなくする社会を生み出している今の日本の政治は根本的に間違っています。プンプンプン。
 
(2009年4月刊。1300円+税)

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