弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2008年11月12日

イマイと申します

著者:日本テレビ報道特捜プロジェクト、 発行:新潮文庫

 私も最近、振り込め詐欺の被害者から相談を受けました。例の葉書が送られてきたので、ケータイ料金を滞納したという督促内容に心当たりはなかったものの、つい心配して電話をかけてしまったところ、わずか二日間で200万円もの送金してしまったという事件でした。そのとき、東京の「弁護士」が二人登場してきます。そして、被害者は20代の独身女性でしたが、50代の母親も止め役にはならず、一緒になって定期預金を解約してまで娘のために送金してしまったというのです。
 この本は、振り込め詐欺や宝くじ詐欺の犯人団に迫り、海外まで飛んで行って、その実像を暴こうとしたものです。
ドイツ国営のロトサービスセンターから、宝くじ800万円に当選したという手紙が届いので、そのために30万円も振り込んでしまったという。日テレの取材班が代わって電話すると、コールセンターは実はドイツではなく、オーストラリアのシドニーにあることが判明した。海外にインターネットを利用したIP電話で転送されているらしい。
 そこで、日テレ取材班はシドニーに飛んだ。そこには、日本人女性を含んだテレコールセンターが確かに存在した。しかし、日本人女性たちは素顔をさらすことはなかった。
 昔、豊田商事というのがありました。金の延べ取引をしてもうけているという宣伝文句でしたが、実際には純金なんてまったく扱っていなかったというインチキ商法でした。このときもパートのおばちゃんたちによるテレコールセンターが「活躍」しました。時給1000円でひっかける役割を担ったのです。自分が話す儲け話のセールストークが本物なら、時給1000円なんてものではありません。 ところが、パートの女性たちは時給1000円をもらいながら、100万円を投資したら数ヶ月で何百万円にもなるというような夢のような話を売り込んでいたのです。シドニーにいた日本人女性も、同じようなことをしていた(させられていた)わけです。
 日本で海外宝くじの販売は違法である。このダイレクトメールは、一通当たり200〜300円のコストがかかっている。いったい日本、そして世界にどれだけ送られているのだろうか。ダイレクトメールはフランスから送られ、その返信先はすべてオランダ。オランダの私書箱が返信用封筒の宛先となっている。
 フランスから発送するのが最も安いから。ただ、大量に送ると日本の税関に捨てられてしまうので、小分けにして何回も送る。1年間に送るダイレクトメールは、日本だけで500〜600万通。世界全体では年に8000万通になる。宝くじにあたった人は一人もいない。まるでインチキなのである。いやあ、これってすごい数ですよね。それだけの経費をかけても十分採算があうのですね。
 ハガキに書かれている電話番号は、電話転送を請け負う業者のもの。そこに電話をかけると、自動的に転送されて、この振り込め詐欺グループの携帯電話にかかる。間に転送業者をはさむため、詐欺グループが電話を受けたときも、転送業者への支払いが発生する。
振り込め詐欺の舞台裏を暴くという点ではもうひとつ物足りなさを覚えましたが、その真相に迫るという点で、勉強になりました。
(2008年9月刊。740円+税)

2008年11月10日

清冽の炎(第5巻)

著者:神水理一郎、出版社:花伝社

 今から40年前、全国の大学で学生がストライキに突入し、毎日のようにデモ・集会があっていました。今のおとなしい大学生の姿からは想像を絶する事態です。東大でも日大と並んで、全国の学園闘争の天王山として激しい闘争が半年以上も続きました。今をときめく政府高官もその時代の人間です。町村前官房長官は右翼スト収集派の親玉として東大・本郷で策略を得意としていました。舛添要一厚労大臣は同じく駒場でスト解除派で動き、代表団(10人)に立候補したものの、見事に落選しました。鳩山邦夫国務大臣は日和見ネトライキ派だったのではないでしょうか。少し前に自殺した新井将敬自民党代議士は過激な全共闘の闘士でした。
 「清冽の炎」の第5巻が出て、1968年4月から翌1969年3月までの1年間の東大駒場を中心とする東大闘争の全体像を明らかにするシリーズが一応完結しました。1巻は闘争の始まるまでと勃発した直後(4,5,6月)、2巻は無期限ストへ突入してからの状況(7,8,9月)、3巻は全国学園闘争と結びついて高揚すると同時に、学内で要求実現のために団交を目ざす取り組み状況(10,11月)、4巻は、ついに全学団交を勝ちとる一方で、警察による安田講堂攻防戦がショー化していった状況(12,1月)が語られています。
 今回の5巻は、全学ストを解除し、授業再開に至る経緯という地味な場面となります(2,3月)。しかし、そこで問われていることは、今日なお通じる大切な提起です。つまり、キミは、これから知識人としていかに生きていくのか、という問いかけです。これは地域で地道にセツルメント活動をした学生にとっては、まさしく人生をかける重たい問いかけでした。また、組織に入るのかどうか、労働者階級を裏切らない生き方は可能か、そのためには何をしたらよいのか、などについても真剣に議論していました。
民主的な官僚はやはり必要ではないのか。官僚機構を内側から健全なものに変えていく努力が必要なのではないか。このように問いかけて官僚になっていった学生活動家がたくさんいました。それは全共闘にも民青にも共通しています。そして、彼らは今どうしているのでしょうか?
そんなことは幻想だ。そんなに簡単に決めつけてはいけません。私の知る限り、裁判官のなかにも学生時代のそんな思いを変えることなく持ち続けている人は少なくありません。
 では、企業に入ったらどうなのでしょうか。労務管理ばかりをさせられることになってしまいかねないんどえはないか・・・。私の友人にも早々と見切りをつけて、今は弁護士また教師になった人がいます。一人はノイローゼになりかけたと言っていました。
 第1巻が発刊されたのは2005年11月でしたから、1968年4月から1969年3月までの1年間が今回の5巻で完結したのは3年ぶりだということになります。
 著者は、自分の手元に残っていたメモやチラシ・総括文集だけでなく、当時のことについてふれた本の大半を探し求め、国会図書館にある当時のチラシ・パンフを合本した資料、そして関係者からの聞き取りなど取材収集に10年以上かけたということです。そんな膨大な資料をもとにして一つのストーリーにまとめた読みものにするのは至難のわざです。弁護士活動の合間にまとめたというのは、たいしたものと言ったら身びいき過ぎでしょうか。
 登場人物があまりに多いため、いささか読みにくいことは否めませんが、東大闘争そのものが主人公の本であると思って、そこを少々我慢して読み続けていくと、当時の学生の青春日記でもあることがきっと分かると思います。思いがなかなか通じないホロ苦い青春の日々が激しい闘争に明け暮れるなかで爽やかに描かれている本でもあります。
 相変わらずさっぱり売れていないようです。ぜひ、書店で注文して買って読んでやってください。東大闘争の全貌とその過程を語るときには絶対に欠かせない本であることは私が責任をもって保証します。
        (2008年11月刊。1800円+税)

2008年11月 3日

色を奏でる

著者:志村 ふくみ、 発行:ちくま文庫

 10月のなかばに福島に行ったとき、県立美術館で志村ふくみ展があっていて出会った本です。展示されていた織物、そして糸の色合いの素晴らしさに感嘆して、この本を買い求めました。カラー写真で、たくさんの色が紹介されていますが、現物にはまったくかないません。でも、写真でおよそのイメージはつかめます。
緑と紫は決してパレットの上で混ぜるな。ドラクロアは、このように警告した。
 緑と紫は補色に近い色彩だ。この補色どうしの色を混ぜると、ねむい灰色調になってしまう。ところが、この2色を隣り合わせに並べると、美しい真珠母色の輝きが出る。これを視覚混合の作用という。
 また、赤と青の糸を交互に濃淡で入れていった着物を見て、ある人が美しい紫だと言った。しかし、そこには紫は一色も入ってない。これが補色の特徴であり、視覚混合の原理だ。いやあ、そうなんですか。ちっとも知りませんでした。
 ゲーテが、色彩は光の行為であり、愛苦である、と言った。光が現世界に入って、さまざまの状況に出会うときに示す多様な表情を、ゲーテは色彩としてとらえた。
 植物(木)を炊き出して色を得る。しかし、時期はいつでもいいというわけではない。植物にも周期があって、春を迎えるためにために桜が幹の中に、枝の先々まで花を咲かせる準備をしていた、その時期こそ、見事な色が出る。同じように、梅も刈安(かりやす)も、花の咲く前、穂の出る前の色に精気がある。
 植物が花を咲かせるために、樹幹にしっかり養分を蓄えて開花の時期を待っているとき、残酷なようだけど、そのつぼみの季節に炊き出して染めると、えもいわれぬ初々しい、その植物の精かと思えるような色が染まる。
 草木の染色から直接に緑色を染めることはできない。緑したたる植物群の中にあって、緑が染められないなんて、不思議なことだが事実だ。青と黄を掛け合わせて初めて緑が得られる。藍がめに刈安・くちなし・きはだなどの植物で染めた黄色の糸を浸けると、緑が生まれる。
 織物の色を作り出す仕事をしている著者が写真つきで、たくさんの色を解説してくれています。色は光の加減で生まれてきます。そもそも、色に実体があるのかないのか、私には良く分かりませんが、この本に出てくるさまざまな色調と、それを言い表す言葉の豊富さに、私は目を見開くばかりです。よく晴れた秋の日の昼下がりに美術館を訪れ、目と心を洗っていい気分でした。福島大学が移転した跡地が広々とした美術館になっています。
 10月末に別府に出かけました。駅前の横丁に有名なラーメン屋さんがありましたが、まったくの更地になっていました。地元の人の話によると、高層マンションを建てる計画があるそうです。別府駅前の商店街もシャッター通りにまではなっていませんでしたが、かなり寂れていました。
 夕食をとるためにステーキハウスに入りました。横丁の2階にある小さな店です。コース料理を頼むと、魚のほうは少し皮が焼きすぎて固くなっていましたが、豊後牛のほうは、久しぶりに肉を堪能することができました。ナイフを入れるとスーッと切れます。レアを注文したので、ほどよい赤さが目に快く、いかにも美味しそうで食欲をそそります。実際、口に入れると舌の上でとろけてしまう柔らかさです。そのうえ、さっきまで大自然のなかに放牧されていたと思わせる牛肉の香り高いうまみが口中にひろがり、幸せ感をもたらしてくれるのです。いつものようにテーブルワインを2杯飲みながら美味しくいただきました。そのあと、久しぶりのスギノイ・ホテルで温泉に入り、満ち足りて夜10時過ぎにシャンソンを聴きながら眠りに就きました。 
(1998年12月刊。1000円+税)

2008年10月30日

小林 多喜二

著者:手塚 英孝、 発行:新日本出版社

 『蟹工船』ブームは単なる一過性のものではなく、現代日本の病根を反映したものとして、幸か不幸か、まだまだ続きそうです。
 小林多喜二が小樽高等商業学校で第二外国語にフランス語を選択し、フランス語劇としてメーテルリンクの「青い鳥」に山羊に扮して出演したこと、このフランス語劇が一番人気をとったことを初めて知りました。私も大学でフランス語を第二外国語でとりました。そのころはストライキに入って授業もなくなっていましたし、外国語劇というのもありませんでした。ちなみに舛添要一厚労大臣は私と同じクラスで、そのころから右翼でした。弁護士になって、八王子セミナーハウスでのフランス語強化合宿に参加したとき、フランス語劇に出演したことがあります。このとき、私はセリフ覚えが悪くて、とても役者には向かないことを実感させられました。
 小林多喜二と芥川龍之介とは同じ時期の作家だったのですね。初めて認識しました。芥川龍之介は自殺する二ヶ月前に小樽にやってきて、小林多喜二らの歓迎座談会に出席しているのです。1927年(昭和2年)7月のことでした。また、小林多喜二は、チャップリンの映画「黄金狂時代」を4回も繰り返し見たというほど熱心な映画愛好家でした。
 『蟹工船』が書かれるまでの多喜二の丹念な取材状況も詳しく紹介されています。『蟹工船』のテーマとなった事件は、1926年に実際に起きたものです。
北洋漁業の蟹工船は、1920年から試験的に始められ、1925年には規模が大きくなって大型船になった。1500トン前後の中古船が多く、1925年に9隻、26年に12隻、27年には18隻となった。乗組員の漁夫・雑夫は4000人をこえた。生産高も25年の8万4000箱から、26年に23万箱、27年には33万箱にまで増大した。
 小林多喜二は、銀行で仕事しながら土曜から日曜にかけて停泊中の蟹工船の実地調査をし、漁夫と会って話を聞いた。漁業労働組合の人たちからも多くの具体的な知識を得た。船内生活や作業状態の詳しい聞き取りもした。小林多喜二は、こうやって6ヶ月間の調査により、下書きとしてのノート稿を書き終えた。
 この作品には、主人公というものがない、人物もいない、労働の集団が主人公になっている。多喜二は、このように手紙に書いた。『蟹工船』は発表されると、大変な反響を呼んだ。読売新聞で、29年度上半期の最高の作品としての評価を受けた。
 そして、『蟹工船』は、帝国劇場で上演された。『蟹工船』は発売禁止処分を受けながらも大いに売れた。半年間で3万5千冊が売れた。北海道の書店では1日に100冊とか300冊も売れた。多喜二は、29年6月、小樽警察署に呼ばれて、取り調べを受けた。多喜二は「不在地主」の原稿(ノート稿)は、ほとんど銀行の執務時間中に書いた。同僚が協力してくれた。仕事のほうは、午前中のうちに素早く終えて、午後は、毎日、4枚から5枚の原稿を書いていった。
 多喜二は、1929年7月に起訴された。天皇に対する不敬罪である。『蟹工船』のなかの、「石ころでも入れておけ、かまうもんか」という漁夫のセリフが対象となった。いやあ、ホント、ひどいですよね。こんなことで起訴されるなんて。
 多喜二は、刑務所の中でバルザックやディケンズを読んだ。そして、多喜二の母は、読み書きできなかったが、息子のために一心にいろはを習い、鉛筆で書いた手紙を刑務所にいる多喜二に送った。
 小林多喜二は、志賀直哉とも親交があった。志賀直哉は多喜二が警察によって虐殺されたことを知って、日記に、次のように書いた。
 アンタンたる気持ちになる。ふと彼らの意図、ものになるべしという気がする。
小林多喜二は、1933年2月20日、スパイ三船留吉によって警察に逮捕された。その日のうちに拷問で死亡した。それは、ただの拷問ではなかった。明らかに殺意がこもっていた。
 多喜二の遺体は、膝頭から上は、内股と言わず太腿といわず、一分の隙間もなく、一面に青黒く塗りつぶしたように変色していた。顔は、物すごいほどに蒼ざめていて、烈しい苦痛の跡を印している。頬がげっそりこけて眼が落ち込んでいる。左のコメカミには、2銭銅貨大の打撲傷を中心に5,6か所も傷跡がある。みんな皮下出血を赤黒くにじませている。そして、首にはひと巻き、ぐるりと深い線引の痕がある。よほどの力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっていた。よく見ると、赤黒く膨れ上がった腹の上には左右とも釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が15,6以上もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
 さらに、右の人差し指は完全骨折していた。指が逆になるまで折られたのだ。歯も上顎部の左の門歯がぐらぐらになっていた。背中も全面的に皮下出血していた。
 多喜二が警察に虐殺されたのは今から75年前のことです。多喜二の遺体解剖を受けつけてくれる病院もなく、葬儀すら警察に妨害されています。
 『蟹工船』ブームのなかで、今の若者に、いえ、若者だけでなく多くの日本人に知ってほしい事実です。この事実を知らないと、多喜二の死にいたる苦しみは浮かばれないのではないでしょうか。著者は、多喜二と同世代の人です。
(2008年8月刊。1500円+税)

2008年10月27日

私たちはいかに『蟹工船』を読んだか

著者:エッセーコンテスト入賞作品集、 発行:白樺文学館

 小林多喜二の『蟹工船』を今の若者がどう読んでいるのか。この本を読んで、私も大いに目を開かされました。私の中学・高校生のころよりよほど自覚的だと感心してしまいました。
 『蟹工船』の世界は昔のことではなく、いま起こっていることである。「団結」の意味を認識した、しかし現状では「団結」することが困難であること、それでも、その困難を打開しようとする意思を表明したものが目立った。このように評されています。
 精神科医の香山リカ氏は、「いまの若者にはプロレタリア文学の代表作である『蟹工船』の世界を理解するのは難しいにちがいないと思い込んでいたが、まったくの間違いだったことに気づき、そして恥じた」と評しています。
 大賞をとった山口さなえ氏(25歳)は次のように書きました。
 『蟹工船』の第一印象は、現実世界への虚無感と絶望だった。私たちは、もう立ち上がれないと思った。この行き場のない感覚をどうしたらよいのだろうか。労働者としての何らかの意識、闘争のための古典的な連帯はほとんど存在しない。私の多くの友人知人はまるで人間性を喪失した世界を浮遊する。
 『蟹工船』で描かれた暴力と支配は、いまも見えない形で続いている。バブル時代の熱狂を知らず、競争教育に導かれた青春時代を過ごし、団結とか連帯なんていう言葉すら知らない、いや、その言葉に不信さえ感じている。
 敵が誰なのか見えない。しかし、どこからともなく攻撃し、労働者の心と体を撃ち抜き、知らぬ間に休職させられる。敵がどこにいるのか、誰に憤りを感じればいいのか分からない。いつでも誰にでもそれが起こりうる、どこかの戦場の最前線にいるような感覚がある。焦り、虚無感、絶望――。
 高校生の神田ユウ氏は次のように書いた。
 心の中に、まるで稲妻がピカっと光ったかのような感覚がしばらく続いた。この『蟹工船』は、私があったこともない曾祖父や曾祖母の時代の話だ。だが、ふと考えたとき、根本的には、今でも何も変わっていないのではないか。
 かつて、日本でも、政治的・社会的問題や学問的問題に対して「学生運動」が盛大に行われたことがあったと聞いている。しかし、それも50年くらい前のことである。本来なら、他の国の人たちにも誇るべき日本人の温厚さが近年のいろいろな問題を引き起こしてきた一つの要因になっているとしたら、とても嘆かわしい。
 『蟹工船』は、悲惨な出来事をただ述べたものではなく、言論がまだ自由でなかった時代に、命を懸けてでも「世の中の矛盾を一人一人がもう一度考えて行動してほしい」というメッセージを送ったのではないだろうか。そうであれば、もっと学校でも積極的に取り上げて、大勢の人の心に問うべきだと思う。正しい心を失いつつある一部の大人たちにも、この作品に出会える機会をぜひ与えてほしい。
 うむむ、これは鋭い指摘です。「今どきの若者」にではなく、むしろ、私たち大人こそが「正しい心」を取り戻すために読むべきだというのです。これには参りました。
 同じことを、34歳の狗又ユミカ氏も訴えています。
 業務請負型派遣で働く人なら、すべてが他人事(ひとごと)ではない、と思うだろう。いま、まさに『蟹工船』に乗って働いているようなものなのだから。間違いなく、『蟹工船』は、すべての人間である人が、生涯に一度は人間の心を取り戻すために読むべき一冊だ。
 20歳の竹中聡宏氏もまったく同じことを訴えています。
 『蟹工船』は、現代の世の中に監督たちがかけたモザイクを取り払った姿だ。モザイクがかかっていること自体に気づいていない人は、ぜひ『蟹工船』を読むべきだ。ああ、こんな大変な時代があったのだなあと感嘆して、この本を閉じてしまうのなら、多喜二の死は報われない。私たちは立ち止まり、現代の日本社会をじっくり俯瞰してみる必要がある。はたして国家は真に国民の味方たり得ているのか。資本家による搾取は過去の遺物なのか、と。
 『マンガ蟹工船』は、私はまだ読んでいません。現代若者のイメージをかきたてる本として、とてもいいマンガのようですので、私も読んでみようと思っています。それにしても、派遣労働の若者を人間扱いせず、金儲けの道具として簡単に切って捨てていく現代日本社会の異常さは、正さなければいけない。つくづく私もそう思いました。それを許したのは、まだ20年にもならない、自民党政権なのですからね。働く者を人間らしく扱うのは、国家の基本を守ることだと私は確信しています。とてもいい本です。150頁足らずの薄い本ですので、皆さんに強く一読をおすすめします。
(2008年2月刊。467円+税)

2008年10月25日

臨床瑣談

著者:中井 久夫、 発行:みすず書房
 70代半ばの高名な精神科医による自由な随想なのですが、丸山ワクチンの効能を改めて紹介するなどして、いま世間の注目を集めている本です。
 私もこの本を読んで、これまで持っていた丸山ワクチンに対する誤解と偏見から脱け出ることができました。なるほど、ふむふむ、そういうことだったんですか……という具合です。
 がん細胞は、一日に何万個という単位で私たちの体内で発生している。しかし、その圧倒的部分は除去される。つまり、毎日できるガン細胞のごくごく一部だけが生き残っているわけだ。
 ガン細胞は、決して正常細胞より強いというわけではない。たとえば、ガン細胞は健康細胞より熱に弱い。闘うといって気負い立つと、交感神経系の活動性が高まりすぎる。ガンも身のうち、とおおらかに構えてみよう。
 胃の粘膜が青年のように若々しい人、肺活量が大きい人の中には、ガンを持ちながら何年も生存し、社会的活動の出来る人がいる。
健康の第一は、よく睡眠をとること。正常細胞は午前2時から3時までに細胞分裂過程のうちの一番きわどい時期を通過する。だから、この時間は眠っていた方がいい。睡眠中に昼間の活動の乱れが直されることは多い。
第二に、おいしいものを食べること。
第三に、笑う。無理にでも笑顔を作って、脳をだましてみるのだって良い。
なお、避けても良い手術、後に延ばせる手術は急がないほうがいい。
丸山ワクチンには、A液とB液とがある。1ccが一つのアンプルに入っている。1日間を置いて、AとBとを交互に皮下注射する。皮内でも筋内でもない。A、B、A、Bと半永久的に繰り返す。40日分で、郵送だと1万500円で入手できる。
 この本の著者は、この丸山ワクチンのおかげで前立腺がんになっても、6年間、無事に生きています。そして、こうやって本を書いたのです。丸山ワクチンは、ガン細胞を攻撃するのではなく、それを囲い込むものだから、ということのようです。
 読んで、決して損しない本があります。この本が、まさにそうだと思います。 
 稲刈りは終わったようです。庭には、いま縁がピンクのエンゼルストランペットの白い花が盛大に咲いています。リコリスに良く似たヒガンバナ科の花も咲いています。輝きに満ちた鮮やかな黄色です。目がぐいぐい魅かれます。
(2008年8月刊。1800円+税)

2008年10月24日

イソップ株式会社

著者:井上 ひさし、 発行:中央文庫

 いやあ、井上ひさしって本当にうまいですね。実に見事なストーリーテラーです。ほとほと感心しました。
 夏休みに一人の少女が海や山の避暑地へ出かけ、そこで出会った様々の出来事を通じて少しだけ大人になった、そんな話なのです。ところが、それに世界と日本の昔話をアレンジした小話(小咄)が添えられていて、それがまた見事なのです。
 参考資料に『世界児童文学百科』などがあげられていますので、原典はあるようですが、ピリリとしまったいい話になっているのは、やはり、井上ひさしの筆力だと思います。
 読売新聞の土曜日朝刊に連載されたもののようですが、子供だけでなく、大人が読んでも楽しい、心をフワーッとなごませてくれる読みものです。
 イラストを描いた和田誠の絵も雰囲気を盛り上げています。 
 福島の飯坂温泉の先にある穴原温泉に行ってきました。久しぶりに木になっているリンゴを見ました。学生時代以来のことです。毎朝食べている紅いリンゴをたわわに実らせているリンゴの木がたくさんありました。熊が山からリンゴを食べに降りてくるので、夜は出歩かないように注意されたのには驚きました。
 夜、同期の弁護士で話し込みました。なんと、二人も詩人がいるのです。一人は昔から仙台でがんばっているみちのく赤鬼人です。もう一人は、最近、急に詩に目ざめた守川うららです。金子みすず記念館に行って開眼したようです。自作の詩を朗読してもらい、みんなであれこれ批評しました。七五調は調子はいいけれど、俗っぽくなったり、作者の言いたいことがよく伝わらない難点があるという先輩詩人の指摘はそのとおりだと思いました。やはり、自分の言葉で気持ちを素直に語るべきだというのが、みんなの共通した批評でした。ありきたりでない自分の言葉というものは意外に難しいものです。陳腐な、手垢のついた言葉ではなく、新鮮な、ハっとさせられる言葉の組み合わせで文章をつづりたいものです。久しぶりに詩を味わうことができました。
(2008年5月刊。740円+税)

2008年10月14日

東京の俳優

著者:柄本 明、 発行:集英社

私と全く同世代の、今をときめく俳優さんです。二枚目俳優というより、いわゆる性格俳優と言ったらいいんでしょうか。西田敏行のような、どっしりした存在感があります。役者生活も30年以上なので、その語り口は大変ソフトですが、内容にはすごく重みがあります。
 母親は東京・中野で箱屋の娘だった。箱屋とは、芸者の身支度から送り迎え、玉代(ぎょくだい)の集金などをする、今風に言うとマネージャーみたいな仕事をする人のこと。母親の父は、見番(けんばん)を勤めていた。見番とは、花街の事務所のようなもの。
 家にテレビが入ったのは小学5年生のころ。ええーっ、これって私と同じじゃないのかしらん。工学高校を卒業して、会社に入り、営業マンとして社会人の生活を始めた。そして、会社勤めの2回目の冬、仕事の帰りに早稲田小劇場の芝居を見に行った。それがとてもおかしくて、笑った、笑った。そんな経験をしたら、会社勤めが厭になって、入社2年目、20歳のとき、つとめていた会社を辞めてしまった。
 そして、アルバイトをして生活するようになった。「紅白歌合戦」にも大道具係として関わった。昼間は映画なんかを見て、それでも月15万円の給料がもらえた。うーん、古き良き時代です。
 劇団員募集に応募したけれど、すごいコンプレックスを感じていた。自分だけが、みんなから、どうしようもなく遅れているって……。
 はっきり言って、観客は敵である。なぜなら、観客は必ず何かを舞台から見つける。そういう目で舞台を見ている。あっ、いま、間違った。こっちはいいけど、あっちは下手だな、とか…。
 俳優という名の「檻」に入ってしまったら最後、人に見られることを常に意識し、それを一生の仕事にすることになる。俳優は、人間が「檻」のなかにいて、いつも人目にさらされている。しかも、「檻」の中にいる以上は、生(ナマ)の人間であってはいけない。名優と呼ばれる人は、「檻」があるのを分かって、「檻」から出たり入ったり、自由なのだ。
偉い役者は、演技はしているが、演技なんてしていないように見える。その人物になりきっている。自然な行為の中の不自然、不自然ななかの自然である。
 俳優に向かない人は、いない。誰だって、俳優になろうとすれば、なれる。
 ただ、恥ずかしがる子には、俳優としての未来がある。
 中村勘三郎、藤山直美など、名優は観客と決して仲良くなってはいけない。
 勘九郎が落ち込んでいる著者に向かって、こう言った。
 柄本さん、毎日、いい芝居なんかできるもんじゃないですよ……。
 すごく味わい深い、演劇に関する分かりやすい本でした。 
 毎朝のようにたくさんの小鳥たちが近くでかまびすしく鳴き交わしています。ヒヨドリも騒々しいのですが、20羽ほどもいるのを見ましたので違うでしょう。ムクドリかと思いますが、よく分かりません。百舌鳥はキーッ、キーッと甲高い声で鳴きますし、カササギのつがいはカシャッカシャッと機械音みたいな独特の声で鳴き交わします。
 山のふとも近くに住んでいますので、朝早くから小鳥たちのうるさくもありますがにぎやかで楽しそうな声が聞けて幸せです。
(2008年6月刊。700円+税)

2008年10月12日

神様の愛したマジシャン

著者:小石 至誠、 発行:徳間書店

 著者はプロのマジシャンだそうです。有名なマジシャンのようですが、私はテレビを見ませんので、全然聞いたこともありませんでした。でも、この本はプロの小説家が書いたように、よくできていました。しっとり、じっくり味わうことのできる本でした。ついでに、マジックの種明かしもほんの少しだけなされています。だから、余計に面白いのです。だって、種明かしもしてほしいでしょ。
 マジシャンは、マジシャンを演じる役者でなければならない。つまり、テクニックを身に着けるだけではなく、マジシャンの醸し出す雰囲気を表現しなければならないということ。
 マジックの世界には、有名なサーストンの原則がある。種を明かさない。同じ現象を続けない。これから起きる現象を先に言わない。
 マジックには、不思議を感じさせる現象という表の部分と、決して見せてはならないネタという裏の部分がある。この、ネタという裏の部分と表の現象とが必ずしもイコールで結ばれてはいない。
 プロのマジシャンの場合、理解しにくいというか、決して見せてはいけない裏の技術部分より、より派手な現象を見せるということの方が重要であるに決まっている。
 実は、見ている観客には面白かったり楽しかったりするマジックこそ、演じているマジシャンにとっては大変厄介なものが多い。
 発表会のときのルール。もし演技中にマジックのタネがあからさまになったときには、照明をカットして暗転にする。
 チャイナ・リングはたった一本の指先に隠れるほど小さな切れ目がリングの一箇所にある。その切れ目はリングを持った指先に隠されていて、決して観客の目に触れることはない。
 「美女の胴切り」のタネ明かし。実は、箱の半分に全身を収めてしまう。周囲が黒く塗られていて、そんな大きな箱には見えないけれど、実際には、かなりのスペースが作られている。
 うむむ、私も、この3月にハウステンボスのマジック・ショーを見ました。そのときはあの図体のでかい、ゆっくりした動きしかしないはずのゾウが、たしかに一瞬のうちに消えてしまったのでした。
 大掛かりの箱物マジックショーには、百万円単位のお金が届いていた。出演料はわずか2000円だったころのことである。
 マジシャンは楽天的でないと務まらない。
 ハトを防止から飛び出させる芸を披露する人は、ハトを何十羽も自宅で飼育している。自宅に特別な部屋を作り、餌を入れたギールを置いておく。ずっとハトを訓練していると、舞台でも街灯を目指して飛んでいく。
 プロのマジシャンは、日本に300人以上はいる。
 自慢の技術を評価されてはいけないのが、マジシャンという職業である。
 マジックの特許なんて、まるでないのが実情だ。マジックの道具の値段とは、ほとんどトリックのアイデア料である。
東京でマジック・ショーを売り物にしているスナックというかクラブにいったことがあります。舞台でマジックが演じられるのではなくて、テーブルに回ってくるのです。いわゆる手品です。万札が次々に出てくるマジックには、みんな感嘆しました。お金を手に入れるのがこんなに簡単なら、誰だって、いつでもするよね、そんな感想が湧き上がってきました。 
(2008年6月刊。1300円+税)

2008年10月 6日

筑豊の近代化遺産

著者:筑豊近代化遺産研究会、 発行:弦書房

 嘉穂劇場での年に一回の全国座長大会を見てきました。初めのショータイムは、あまりのボリュームに、演歌もカラオケも嫌いな私には少々きつい思いがありました。スピーカーの音質も良くないように思いましたが、これって私だけだったのでしょうか。それにしても、役者の首に万札のレイが次々にかかるのには驚きました。噂には聞いていましたが、追っかけおばちゃんたちの気前の良さには呆れるばかりです。この座長大会も30年間続いているそうですが、ほとんど満席でした。狭い座敷にぎっしり詰め込まれます。
筑豊で炭鉱全盛期のころには、筑豊だけで50もの芝居小屋があったそうです。熊本・山鹿の八千代座も残っていますが、残念ながら外からしか見たことはありません。来年は9月12日に座長大会が開かれるということでしたが、早速、申し込んだ人もきっと多いことでしょうね。
 ショーのあと、芝居「一本刀土俵入り」を久しぶりに見ました。私も、小学校に入る前に父に連れられて、近くにあった芝居小屋にお芝居を見に行ったことを覚えています。チャンバラ芝居で、観客席は満員でした。なにしろ、映画館なんて、町のいたるところにあった時代です。いま、私の住む町には映画館はひとつもありません。残念です。やっぱり映画は大きなスクリーンで見たいものです。
 芝居が終わって、伊藤伝右衛門邸を見学してきました。筑豊の炭鉱王の一人ですが、むしろ柳原白蓮の公開絶縁状によって世間的には有名でしょう。
 屋敷内を見て回りましたが、廊下は板張りではなく、すべて畳敷きになっていました。
 九州で初めてという水洗トイレもちらっと見かけました。これだけの豪邸を作れたというのは、それだけ多くの炭鉱労働者の犠牲の上に成り立っているのでしょうね。
 筑豊の炭鉱で災害死した人は、公式統計に現れただけで5万人いるとのこと。実際には10万人はいるだろうということです。私も一度だけ、炭鉱の坑内に下がったことがあります。労働現場として、これほど過酷なところはないと実感しました。地底深く、漆黒の闇の中へ入っていくときの恐怖感というのは、言葉で表しにくいものです。身体が無意識のうちに拒否反応を起こします。
 筑豊の炭鉱の実情も聞きましたが、頭領や納屋制度で炭鉱労働者はがんじがらめに縛られていたようです。それでも、それを少しずつはねのけていったのです。大変な苦労があったことだろうと思います。
 カラー写真もたくさんあって、筑豊のことを知るのに良い事典だと思います。 
 富山で美味しいワインと食事の店に入りました。こじゃれた小さな店です。カウンターがあって、テーブルはいくつかしかありません。ワインはテーブルワインが主です。まずはキールロワイヤル。シャンパンに甘いカシスを入れます。ロゼより少しだけ赤い、甘くさっぱりしたのどごしで、食欲をそそります。はじめは地元でとれた新鮮な魚のカルパッチョ。フグ皿のような見事な盛り付けで、こりこりした魚の刺身をいただきます。そして白エビの甘酢漬け。ジャガイモをサイコロのようにカットして、軽くローストしたもの、また、ジャガイモを潰してゴルゴンゾーラチーズと一緒にしたものが出てきました。ブルーチーズのような大人の味わいです。まいたけも入った野菜の天ぷら、そして、地元鶏の照り焼き。小さな皿に少しずつ、いかにも心のこもった料理が次々に出てきました。ワインは初め軽いブルゴーニュの赤、そして次は重みを感じさせるイタリア・ワインの赤です。飲むほどにだんだんワインが舌になじみ、料理にぴったりマッチして、美味しく、味わい深くなっていきます。
 最後のデザートは、レモンのシャーベットとアイスクリーム。シャーベットは口の中を改めてさっぱりさせ、アイスクリームはくるみの粒入りで、しっとりとした甘さです。これで、前の晩に食事した居酒屋と同じ料金でした。
 ANAホテルの並びにあり、夫婦で深夜までやっているお店です。
(2008年9月刊。2200円+税)

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