弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2008年8月 7日

プロ法律家のクレーマ対応術

著者:横山雅文、出版社:PHP新書
 いま、多くの企業が一般人(暴力団など、いわゆる反社会勢力に属さない人をさします)による悪質クレーマー対応に頭を悩ませている。このごろのクレーム事案は、1年以上にわたって交渉をつづけていることも珍しくはない。
 悪質クレーマーは、あくまでフツーの人。フツーの人が病んでいるのだ。思考やロジックが極端に自己中心的である。人格障害といえることも多い。
 悪質クレーマーが増加したのには、3つの背景がある。
 その1。消費者保護保制ができて、権利意識が高まっていること。
 その2。度重なる企業不祥事と、それに対する一般社会の激烈な反応。
 その3。インターネットの普及により、一般人でも企業や行政に対する攻撃が可能となった。
 悪質クレーマーと対応させられている窓口の社員や職員は地獄におかれている。
 悪質クレーマーは、合理的な説明とか常識的な対応では納得しない。必ず堂々めぐりとなり、いつまでたっても平行線である。
 そんな悪質クレーマーに対しては、速やかに法的対応をとるべきだ。
 悪質クレーマーに対して、マニュアルにそって形式的に対応するのは危険だ。具体的ケースをもとにしたマニュアルをつくるのは重要だが、現実のケースでは固定化せず、臨機応変に更新していく工夫が求められている。
 たとえば、クレーマーに念書をとられないようにする。念書をとられたときの要因は、迫力負けによる混乱と長時間の拘束(軟禁状態)にある。
 言質をとられないためのコツは、「自分には決裁権はないが、事実調査については自分が責任者だ」ということを明確にする。そして、会う場所は不特定多数の人がいる喫茶店やファミリーレストランを指定する。クレーマー対応では、事実確認が最優先事項。
 悪質クレーマーの要求には、損害の回復とは関連性のない要求が非常に多い。
 悪質クレーマーは4つのタイプに分けられる。その1は、性格的問題クレーマー。良心の呵責(かしゃく)がなく、反省することもない彼らにたいしては、要求をキッパリ拒絶し、弁護士に交渉窓口を移管する旨の書面を郵送する。
 その2は、精神的問題クレーマー。その真の目的は、担当者との心理的密着によって、自分の心の欠損を埋めることにある。このときには、できるだけ紋切り型の言葉をつかい、型どおりの接客・対応をする。
 その3、常習的悪質クレーマー。攻撃性はなく、安易に金銭を渡したり返品に応じると、味をしめて次に何回でも登場する。そこで、クレームの事実関係を根ほり葉ほり質問していくこと。
 その4、反社会的悪質クレーマー。このときには、決して「秘密の共有」をしない。
 その1の性格的問題クレーマーは、経済的損得勘定はなく、自分の有能感を感じることが目的である。
 通知を出すときには、メールではなく、書面で郵送すること。普通郵便でもいい。そして、その通知文のなかに不当な要求行為であることを具体的に書くべきだ。
 悪質クレーマー対応の巧拙は、従業員の士気、ひいては企業の文化に影響してくる。
 話し合っていくうちに2時間たったら、辞去の言葉とともに腰を実際に上げるのが効果的だ。
 インターネット掲示板に書きこみがなされたときは、無視するのが一番。それでも無視できないときには、法的措置をとる必要がある。
 ネットの誹謗中傷に対しては、プロバイダーとネット主宰者の双方を相手方として、差止仮処分を裁判所に提出する。
 「お客様相談室」における2007年問題というのがあるのを初めて知りました。私たち団塊世代を対象とした、面白くない事態です。定年退職した団塊の世代がヒマをもてあまし、その知識と経験を生かして厄介なクレーマーになるのではないか、という予測が立てられたのです。でも、よく考えてみると、当然なのかもしれません。むしろ、団塊世代はクレーマー世代になって、最後のひとはなもふた花も咲かせるべきです。おとなし過ぎるといって、私たち団塊世代は世間から(若い人たちから)バカにされているのです。
 私よりひとまわりも下の中堅弁護士による、クレーマ対策にあたっての実際的な経験を集約して文章化した本ですが、とても読みやすくコンパクトにまとまっていて大いに勉強になりました。
(2008年5月刊。720円+税)

2008年8月 6日

夢顔さんによろしく

著者:西木正明、出版社:文春文庫
 最後の貴公子・近衛文隆の生涯というサブ・タイトルのついた上・下2冊の文庫本です。タイトルの意味が分からず、まったく期待もせずに読みはじめたのですが、どうしてどうして、意外や意外、すこぶるつきの面白さでした。途中からは手に汗を握るほどの大活劇の展開となりました。ええーっ、これって本当のことなの・・・と思いながら、後半は頁をくるのがもどかしいほど一気に読みすすめていきました。2000年の柴田練三郎賞を受賞した本だということを読み終わってから知りました。なるほど、なーるほど、と納得した次第です。
 1945年2月14日、近衛文麿は昭和天皇に対して、次のように上奏した(要するに口頭でレクチャーしたということ)。
 敗戦は必至である。米英の主流は日本の国体の変更までは求めていない。敗戦だけなら、国体の護持は可能だろう。むしろ憂慮すべきは、敗戦にともなって起こりうる共産革命である。
 天皇は大いに驚き、その根拠を近衛に問いただした。昭和天皇が共産党と共産革命を恐れていたことについては別の情報もあって裏付けられています。
 終戦後の昭和20年12月16日、近衛文麿は青酸カリをのんで自殺した。54歳だった。そのとき、息子の近衛文隆はシベリアの収容所に抑留されていた。陸軍砲兵中尉であった。身長1メートル79センチ、体重81キロ。
 近衛文麿は一高から東大に入学したが、途中で京大に転じた。社会主義に傾倒し、マルクス主義経済学者である河上肇に師事し、オスカー・ワイルドに夢中になった。
 文隆の愛称をボチという。これは、「ぼくは・・・」と言うべきところを「ボチは・・・」と何度となく言ったことから来ている。
 文隆はニューヨークで勉強するようになり、エイミー・ベルグマンという金持ちの女性と親密な関係になった。ところが、その女性はアメリカ共産党の隠れ党員と交際があった。そこで、文隆は女性と別れさせられた。突然のことである。
 やがて文隆は東京に戻ってくる。そこでドイツの新聞記者ゾルゲと知りあい、親しく交流するようになった。そうなんです。あの有名なソ連スパイのゾルゲです。
 文隆は、父の文麿が首相になったとき、その秘書官として政治の中枢で働いた。ただし、わずか5ヶ月あまりのこと。そのあと、文隆は上海に渡る。そこで美貌の中国人女性ピンルーと深い仲になるのです。それを知って面白くないのが日本の憲兵隊。文隆に警告を発します。強引に別れさせられることになるのです。文隆は日本に戻り、やがて召集令状が来ます。徴兵検査も受けていないのだから、意図的な召集だった。敗戦後、文隆はシベリアに抑留される。
 ゾルゲと尾崎秀実がスパイ罪で絞首刑にされたのは1944年11月7日のこと。しかし、その事実は、戦後の昭和24年2月10日まで秘匿されていた。もちろん、ソ連に抑留されている文隆は何も知らない。
 文隆に対してソ連当局は元首相の息子として利用価値ありと判断し、ソ連のスパイになるようにもちかけた。文隆はそれを断わった。そのころから、文隆の健康は思わしくなくなり、ついには原因不明の病気で亡くなった。
 うむむ、なんだか変ですね・・・。ところで、タイトルの夢顔さんによろしくとは、何でしょうか。ムガンと呼んで、ゾルゲの生地のことだというタネ明かしがされています。ふむふむ、なるほど、そういうことなのでしょうね。
 よく調べてあるうえ、読みものとしてもよく出来ています。感心しながら、ついつい読みふけってしまいました。
(2002年10月刊。629円+税)

2008年8月 1日

ゲバルト時代

著者:中野正夫、出版社:バジリコ
 東京は神田に生まれ育った早熟の高校生時に全共闘活動家になり、浪人してからも中核派のデモに参加していた著者の半生をつづった本です。
 共産党に対する敵意心が強く、ひどい悪口もあって辟易するところがありますが、当時の三派系学生の生態をかなりあからさまに描いているところを興味深く読みました。
 ベ平連が党派との距離を置いていた(努力していた)ことも知ることができます。
 三里塚へデモに行ったとき初めて警察に捕まりましたが、19歳の浪人生だと身分を明かして、釈放されます。警察も、こんなチンピラ浪人を相手にしても仕方ないと思ったのでしょう。
 やがて、著者は日大闘争そして東大闘争に浪人生として関わるようになります。
 そのころ、全共闘の必読雑誌として月刊『現代の眼』と週刊『朝日ジャーナル』がありました。『現代の眼』は右翼総会屋からお金を巻き上げるための雑誌だったが、その執筆陣は新左翼の人間で占められていた。総会屋は売れる雑誌であれば、内容は問題にしなかったわけだ。なーるほど、そういうことだったのですね。新左翼と右翼、財界とは黒い結びつきがあったわけです。
 東大駒場の第八本館に全共闘がたてこもっているところにも著者は出かけています。「八本」の内部はまだ整然としていた。全共闘は民青にはゲバルトで勝てなかった。民青の部隊はよく訓練されていて、統制がきいていた。全共闘は掛け声と気合いだけで、自己表現と自己満足のみであり、甘かった。これは本当のことです。私も目撃しました。
 駒場寮(明寮)攻防戦にも参加しています。私は、寮生の一人としてたまたま明寮にいました。それというのも私の部屋が明寮にあったからです。ですから、「既に民青がすべての寮をバリケード封鎖して立てこもっていた」というのは事実に反します。
 700人いた寮生のかなりは依然として寮で生活していました。1969年2月の駒場寮委員長選挙でも、全共闘支持派の寮生が当選こそしませんでしたが、かなりの票数を集めていたことからも裏付けられます。色眼鏡で世の中を見ると、まったく間違ってしまうという見本のようなものです。
 民青と全共闘の捕虜交換があったことは事実ですし、民青の応援部隊に学生ではない人たちがいたのも事実のようです。
 そして安田講堂にも著者は立入っています。大講堂の中にグランドピアノがあり、インターナショナルを弾いてみたそうです。それはありうることです。このピアノは結局、機動隊が進入してきたときに楯につかわれて壊されたようです。
 著者はブントに入り、やがて赤軍派に接近します。ただし、連合赤軍には入っていません。1970年5月に赤軍から逃亡しました。
 連合赤軍の森恒夫と永田洋子に対する評は手厳しいものがあります。
 著者は、その後、共産同RG(エルゲー)派に入りますが、連合赤軍のリンチ殺人事件の発覚を知って、吹っ切れてしまうのです。
 「革命ごっこ」は終わったと心底から思った。
 それはそうでしょうね。あんなひどいことって考えられもしませんよね。
 「努力」や「決意」や「死の覚悟」で革命ができると信ずるなら、それほど簡単なことはない。しかし、それではテロリストと同じレベルだ。飛び込んで自爆すればいいのだから。
 この本には、当時の活動家たちのその後、現況が報告されています。既に何人も亡くなっています。そのなかで、こんな文章が目にとまりました。
 緒方は70年に東大文?に合格し、フロントの活動をしていた。当時のフロントの上司活動家たちの中に、今は衆議院議員になってホラやラッパを吹いている者が何人もいるという。ええーっ、いったい誰のことでしょうか。実名で知りたいものです。
 同じ時代を描いた『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)の第4巻がとくに、この本と同じ時代を描いています。正確かつ詳しく知りたい人は、ぜひこの本を読んでみてください。秋には1969年2月、3月を描いた第5巻が刊行される予定です。そして、その後、登場人物がいま何をしているのかを明らかにする第6巻が出る予定です。やはり、みんな、その後、いま何をしているのか、知りたいですよね。この本は大胆にそこまで踏み込んだところがいいと思いました。
(2008年6月刊。1800円+税)

2008年7月28日

チャップリンを観る

著者:吉村英夫、出版社:草の根出版会
 読んでいるあいだにも、読み終わってからも幸せな気分に浸ることのできる本です。だって、あのチャップリンの映画をみたときの感動がまざまざとよみがえってくるのですよ。私は、この本を読んで、またまたチャップリンの映画をみたくなりました。何度みても、いいものはいいのです。とりわけチャップリンの映画って、見飽きることがありません。
 『キッド』『街の灯』『ライムライト』こう並んだら、どれもこれも、すぐにまたみてみたいものばかりです。
 私の尊敬する故諫山博弁護士は、現役を引退したあと、DVD三昧の日々を過ごしておられました。私も、ぜひそれにあやかりたいと思いますが、そのなかでも、チャップリンの映画は絶対に欠かせません。
 私は30年近くも市民向けの法律講座を毎年開いてきましたが、はじめのころ、チャップリンの短編映画を客寄せパンダがわりに上映していました。短編映画をみてもチャップリンの笑わせ方は天才的だと思います。
 でも、これらの長編映画は、レベルがまったく違います。比較になりません。言葉でいいようがないほどです。そして、この本は、そんなチャップリンの映画を今どきの大学生に授業としてみせたときの反応が紹介されているのですから、面白さが2倍にもなります。チャップリンの映画を大学の授業でみせられるなんて、そんな学生は幸せですよね。
 私も大学生のとき、『男はつらいよ』第1作を大学の教室でみました。学園祭(五月祭)のときのことです。窓ぎわまで学生がすずなりになった教室で、みんなで大笑いしながらみたことを覚えています。ですから、チャップリンの映画だったら、拍手してほしいところなんですが、授業だというので、誰も拍手しなかったそうです。残念です。やっぱり、思ったことは少しでも行動にあらわすべきなんですよね。
 学生の反応のなかには否定的なものや消極的なものもあります。やはり、そこが個性なんでしょうね。私だったら、特AとかスーパーAという評価を与える映画であっても、CとかDをつける学生もいますから、やはり世の中はさまざまです。
 『キッド』も『街の灯』も泣かせますよね。もちろん、私も泣きました。すごいですよね。これも、チャップリンの不幸な生い立ちと無縁ではありません。
 1889年4月16日生まれ。イギリスはロンドンの貧しい労働者街で生まれました。両親はミュージックホールに勤めていた芸人です。ヒトラーの生まれはチャップリンとほんと同じで、わずか4日後の4月20日生まれでした。
 夫と離婚したチャップリンの母は必死に子育てしながらも、ついに精神病院に入った。母34歳、チャップリン12歳のときのことである。チャップリンは、母が亡くなるまで愛し、感謝の気持ちをもって母に接した。
 チャップリンは、左利きのバイオリン演奏などもできる器用な人物だった。作曲もできた。チャップリンの映画は、ほとんどチャップリンが作曲している。
 『モダン・タイムス』のラストシーンにミスがあるかどうかが問題になっています。ラストに2人が夜明けの道を朝日に向かって歩いていくと、はじめのうち著者は解説していました。しかし、現地まで出かけて実見してみた人によると、これは、夕陽になってもまだたどり着かずに歩いている2人を示しているのだというのです。希望への道のりはとてつもなく長く厳しいというわけです。
 いやあ、これには、さすがの私もまいりました。映画のロケ地まで実際に行ってみて(今も、ほとんど変わらずに残っているそうです)、その時間差を考えたというのです。世の中、さすがに偉い人はいるものです。
 チャップリンは、日本にも4回来ているそうです。その秘書は日本人で、高野(こうの)虎市という人だということは知っていました。5.15事件と同じときに、チャップリン暗殺計画まであったそうです。
 アメリカ政府はヒトラー・ドイツとたたかうチャップリンを「アカ」だと決めつけ、事実上、アメリカから追放してしまったのでした。そんな馬鹿げたアメリカも、あとになって反省し、1972年にアカデミー特別名誉賞をチャップリンに授与しています。
 さあ、みんなでチャップリンの映画をみましょうね。三重大学と愛媛淑徳大学の映画サークルのみなさん、これからも元気にがんばってください。
 炎暑の夏日が続いていますが、サボテンがまたまた純白の花を咲かせてくれました。速く手入れしてやって、サボテンの子どもたちをきちんと地面におろして植えてやるべきなのですが、ともかく、この暑さでは手入れする気にもなれません。サボテンには申し訳ないのですが・・・。
(2008年1月刊。2200円+税)

2008年7月18日

中堅崩壊

著者:野田 稔、出版社:ダイヤモンド社
 日本の中堅というべき階層が育っていないというのは重大な問題です。著者は次のように指摘します。
 バブルミドルといわれるミドル層の弱体化を嘆く経営陣が、実は、その弱体化を招いた一連の政策変更の企画者であり、実行者であった。経営陣は、10年以上もしっかりした教育を受けさせず、目先の利益だけを追求することを求め、一つの場所に塩漬けにしてきた。ミドル層を責める資格はない。ふむふむ、そうなんですか。ということは団塊以上の世代に大きな責任があるというわけです。
 評価制度には限界がある。評価制度に頼ると、評価する人間が無責任になる。できるだけ運用は柔軟にして、時間と人手をかけてアナログに評価するのが正しい。なるほど、そうなんですね。
 部下を働かせないようにしようと思えば、次の3つを徹底すればいい。無視する。任せない。ほめない。これをしたら、人間は病気になるか、辞めてしまう。逆に、認めて、任せて、ほめるをやったら、みんな、一所懸命に働くだろう。
 なーるほど、ですね。いいことを教わりました。
 好奇心、こだわり、信念、柔軟性、楽観性そしてリスクをとる気概が必要だ。とにかく努力し続ければ、必ずチャンスは向こうからやって来る。没頭してやり続けていないと、そのチャンスは見えない。没頭する喜び、没入体験の醍醐味を一度でも経験したら、また没頭しようとするので、そこに努力のスパイラルが起こってくる。ところが、その体験のない人は、没入することを恐れてしまうし、労を惜しむ。だから、できるだけ早い段階で仕事への没入体験を与えてあげることが必要だ。いやあ、そういうことなんですか。私も実践してみます。
 失敗してもいいからやってみろ、責任は私がとる。これを本気で言えるかどうか。これが、キーポイントだ。こうなると、やってみるしかありません。
 今はそもそも負けん気の強い人が少ない。仕事は仕事と割り切り、言われたことはやるが、言われないことまではやらない。そこまでやっても何の得もないと考える。そういう人材を放っておいても伸びず、停滞してしまう。
 コミュニケーション能力というか、姿勢が大切だ。自分から歩み寄り、関係する。いろんな関係者と話をする。聞く姿勢があって初めて、折衝能力とか調整力が生まれ、危機を察知することもできるようになる。
 いろいろ参考になることの多い本でした。
 私の法律事務所でも、既に3人の希望者をお断りしました。コミュニケーション能力にとても不安を感じたからです。忙しい私たちは、どうしても即戦力を求めたいのです。すみませんが・・・。
(2008年3月刊。1700円+税)

2008年7月14日

松本清張への召集令状

著者:森 史朗、出版社:文春新書
 松本清張の本は私もかなり読んでつもりですが、その著書が750冊もあると言われると、その何分の1を読んだのだろうかと不安になります。まあ、それでも私は2割くらい読んだように思うのですが、自信ありません。
 清張が作家としてデビューしたのは41歳のとき。『点と線』『眼の壁』によってベストセラー作家となり、社会派推理小説の草分け的存在となったのは48歳のとき。1992年に82歳で亡くなるまでに、著書750冊を出した。まさに驚異的な巨匠です。
 清張は、34歳のときに招集され、1家6人の家族を残して朝鮮に出征した。
 実は、清張は、20歳のときの徴兵検査で身体虚弱のため、第二乙種補充となり、兵営入りを免れた。そして、昭和18年秋に教育招集されたが、そのときの入営期間は3ヶ月だった。
 ところが、昭和19年6月に再び召集令状が届いて、朝鮮半島に送られた。すでに朝鮮海峡もアメリカ軍潜水艦によって日本軍の輸送船は次々に沈められていた。対岸の朝鮮半島にたどり着くのも生命がけの時期だった。
 この本は、なぜ34歳の妻子をかかえた第二乙種補充兵が召集されたのかを追求しています。どうやら、ここに社会派・清張の原点があるようなのです。
 清張の学歴は、尋常高等小学校卒。朝日新聞西部本社広告部意匠係の嘱託から正社員に昇格したばかり。広告の版下を書く職人だった。
 19歳の石版工・清張は、思想犯として特高警察に検挙された。文学仲間にまわっていた非合法雑誌『戦旗』をまわし読みする一員になっていた。
 この『戦旗』は80年後の今、ブームを呼んでいる小林多喜二の『蟹工船』が掲載されたりする全日本無産者芸術連名の機関誌であった。
 清張が貫いた反権力の姿勢は、特高警察によって十二分にいたぶられた体験と決して無縁ではない。
 清張は徴兵検査の結果、第二乙種補充兵だった。虚弱な体質だった。
 最長に2度目の召集令状が来たのは、昭和19年6月28日のこと。すでに34歳。兵隊では老兵である。なぜ、こんな中年兵が招集されたのか? 清張は疑問に思った。
 在郷軍人会の教練にあまり出なかった男性に対する懲罰的な意味あいが込められていた。それを「ハンドウを回す」という。反動を回すとは、大砲を撃ったときの砲身の反動から来た言葉であり、ものごとが行き過ぎた場合に逆方向に戻すという意味。
 軍隊で受けた理不尽な私的制裁は、清張を終生、強い反軍傾向をもつ人間としたのです。当然のことでしょうね。
 清張は、東大の井上光貞教授と張り合ったようです。井上光貞教授と言えば、私が大学受験生のころは、まさに日本史の権威でした。その教科書をバイブルのように大事にして暗記したものです。井上光貞教授は、清張を学者ではない単なるアマチュアとしてしかみなかったようです。それで官学ぎらい、権威ぎらい、反権力の清張はカチンときた。
 転向した反共文筆家としてもてはやされた平林たい子が清張について、共産主義者の秘書に資料を集めさせて、その資料で書くだけだから、いわば人間ではないタイプライターだと根拠なく非難したことがあった。
 しかし、清張は取材記者をつかったことはない。あくまでも独自に取材し、豊富な人脈をつかって広く資料収集につとめていた。
 実は、私も清張は何人もの調査員を雇っているとばかり思い込んでいました。
 清張は神田の古本屋(たとえば)「一誠堂書店」)に、関連する資料をごっそり注文して受けとっていた。
 清張は、多作のため、やがて書痙(しょけい)を患った。やむなく、口述筆記とした。そのため、速記者を雇った。執筆量は月に700〜800枚。昭和30年代半ばまでは 1000枚をこえていた。さすがに書きすぎるとの批判が寄せられた。
 清張は文壇づきあいは、あまりしていない。社交嫌いで、酒の飲めない体質だった。清張は、既成文壇に対しては辛辣だが、後進の新人作家には、一転して心優しき先達だった。
 文士とは小説家っていうのは、自信とうぬぼれを栄養にしていないとやっていけない。だから、普通の人間にない、鼻持ちならぬ嫌な種族だろう。
 これは清張と対談した大佛次郎の言葉です。うむむ、そうなんですか。私は、とても、そこまでは・・・。
 清張は作品タイトルの名人だ。『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』『張り込み』など、すごいものです。清張は巨匠すぎて、及びもつきません。でも、最近の若い人は読んでいるのかな・・・?
 1泊2日の人間ドックから明るいうちに帰宅すると、庭で蝉の飛ぶのを見かけました。7月11日のことです。やがて蝉の鳴き声も聞こえてきました。蝉が鳴くと夏本番の到来です。
(2008年3月刊。890円+税)

2008年7月11日

戦争が遺したもの

著者:内田雅敏・鈴木茂臣、出版社:れんが書房新社
 前に『半世紀前からの贈物』(れんが書房新社)という本を紹介しました。1958年12月につくられた小学校2年生の文集『いつつぼし』を復刊したという本です。著者の一人は私より3歳年長の弁護士で、いま日弁連憲法委員会でよく顔をあわせます。この本は、前の本の反響を紹介する本でもあります。内田弁護士(さん)の出版意欲には、さすがの私もほとほと呆れるほどです。私も負けずにがんばります。
 内田さんたちの恩師が元気なころに語った録音テープが反訳され、紹介されています。恩師79歳のときの話です。
 ご主人を昭和20年6月9日の空襲によって亡くしておられます。1トン爆弾の直撃を受けたのです。その後、2人の子どもをかかえて小学校の教員となり、65歳まで勤めあげたのです。恩師は次のように語っています。
 戦争で有望な大勢の若い人たちが無惨にも散ってしまい、本当に残念に思います。二度と戦争の悲惨さを味わってはならない。平和な世界をみなさんで築いていただきたいと願っています。
 この願いに私たちはこたえなければいけません。
 久子先生(恩師の先生です)は、とにかくお優しく、いつもニコニコしていらしたという思い出が紹介されています。
 昔の先生は、今より心に余裕があったのでしょうか。今は上からのしめつけが私たちの想像する以上に厳しいようですね。学校の先生はもっと大切にされなければいけないと思います。子どもたちを立派に育てるという大切な仕事をしている教師を粗末に扱ったら、子どもに、そして、日本に未来はありませんよね。
 内田先生、ありがとうございました。日本と世界の平和を守るために、これからもがんばりましょう。
(2008年5月刊。700円+税)

2008年7月10日

限界自治・夕張検証

著者:読売新聞夕張支局、出版社:悟桐書院
 夕張支局の女性記者が追った600日、というサブ・タイトルのついた本です。夕張市が破綻していく実情を現地からリポートしていますので、迫力があります。
 ただ、国や企業の責任を追及しようとしていないのが気になりました。そこは、「右派」ヨミウリの弱点なのでしょうか・・・。
 ゆうばり、という地名は、アイヌ語のユーパロ、つまり鉱泉の湧き出るところ、に由来する。夕張市は、南北に細長い。そうなんです。一度だけ行ったことがある私も、奇妙な町だと思いました。奥行きはあるけれど、ほとんど幅のない町なのです。
 夕張市の65歳以上の高齢化率は42%。これは全国トップだ。夕張市は最盛期の1960年には人口11万7000人だった。市内に17の炭鉱があり、1万6000人の労働者が働いていた。最後の炭鉱となった三菱南大夕張炭鉱が閉山したのは1990年のこと。
 夕張市が財政再建団体になったのは、福岡県の赤池町が1992年に指定を受けてから、2番目。赤池町の負債は32億円で、2000年度に再建を終了した。ところが、夕張市の負債はケタ違いの何百億円にのぼる。
 ゆうばり映画祭が始まったのは1990年のこと。ふるさと創生資金1億円を活用した。それ以来、夕張は映画の町として知られるようになった。毎年の運営費は1億円。市が7割を補助した。中田元市長の観光政策のもので、1991年に観光客が1991年に230万人も来た。しかし、それがピークで、あとは減るばかり。
 1979年度から2005年度にかけて、夕張市の財政破綻の要因となった観光事業に施設整備費だけで150億円近くが投じられた。そのうち、国の補助が22億円ほどあった。そうなんです。夕張市の財政破綻に国も手を貸していたのです。
 夕張市は財政再建団体になるまで、財政のつじつまあわせをしてきていたから、市の広報誌で発表される決算は、ずっと黒字だった。市民はだまされ続けたのである。
 夕張市の6400世帯の半分近くは公営住宅に住み、民間アパートは少ない。4000戸の公営住宅の1300戸が空き家だ。公営住宅の多い夕張市では、不動産屋は商売にならないので、市内には不動産屋がない。ひえーっ、これには、さすがの私も驚きました。町にコンビニがないというのと同じほどのショックです。もっとも近い隣の地区のコンビニまで来るまで15分かかるという地区もあります。うひゃー、ですね。
 夕張市の再建のバロメーターが人件費削減の割合だった。それが、やる気を示すバロメーターとなった。目安となったのが島根県海士(あま)町の削減率28%だった。
 夕張市は、12人の部長、11人の次長の全員が退職した。32人いる課長職も、3人しか残らなかった。管理職のほぼ全員がやめて、行政機能は維持できるのか?
 夕張市と職員260人を126人と半減した。管理職57人を15人に減らした。夕張市長の給料は86万円から25万円と、全国最低になった。
 市議会は18人の定数を9人とした。議員報酬は42%減の18万円となった。これまた全国最低だ。
 1960年ころ、夕張市内にあった小学校は22校で、中学校は9校あり、3万人いた。現在は、わずか600人でしかない。
 15歳未満の年少人口は7%。これまた全国の市のなかで最低。年間出生数は50人。市営住宅に入居すると4000世帯のうち、家賃を滞納する世帯が20%をこえる。3億3400万円もの滞納額となっている。
 うひゃあ、夕張市の再建って、これでは本当に大変だなあ、とつくづく思いました。
(2008年3月刊。1600円+税)

2008年7月 3日

子どもの貧困

著者:浅井春夫ほか、出版社:明石書店
 日本政府は1965年(昭和40年)に公的な貧困の測定を打ち切った。私が大学に入ったのは1967年でした。そのころは、まだ絶対的貧困と相対的貧困との異同が多少は問題となっていました。でも、それは、はっきり言ってかなりマニアックなテーマでしかありませんでした。
 現代の日本では、貧困というと、「飢え死にするかどうか」という基準でしか見ない、つまりホームレスとして路上生活をしている人々は貧困とは考えない人々が多い。私は、駅や公園に生活している人々こそ、現代の貧困を体現している人と思います。でも、今日の日本人の多くは、そうは思っていません。実に不思議です。
 相対的貧困とは、その社会の構成員として、あたりまえの生活を営むのに必要な水準を欠くということである。人とのつながりを保てる。職業や活動に参加できる、みじめな思いをすることのない、自らの可能性を大きく奪われることのない、子どもを安心して育てることのできる生活、つまり、ぜいたくではないが望ましい生活を営むには、一定の物的。制度的な基盤が必要なのである。
 貧困のもたらすものは、可能性の制限である。子どもの貧困の本質は、それによる発達権の侵害である。家族の経済的「ゆとりのなさ」は、子どもの活動と経験を制限する方向に作用し、同時に、親の社会的な孤立を招いている。
 子どもには、「負の経験」を回復するためにも、支えられる環境での「失敗する自由」が必要である。社会的な自立の困難は、それが奪われているところにある。
 「失敗する自由」とは、さまざまな可能性を試みること、自己の選択と決定を尊重できること、試行錯誤のなかで育つ時間を準備できること、それらの試みを支える人と制度が存在すること、などが含まれている。
 いやあ、この私的には目がさめる思いでした。子ども時代に、たくさんの失敗をして、それが許されるって、すごく大切なことなのですね。子どもの失敗をあたたかく大人が見守るという雰囲気が今の日本では薄れている気がしてなりません。ギスギスしてますよね、なんだか。
 貧困が問題なのは、単に欲しいものが買えないというのではなく、人生の機会と可能性を狭め、活動への参加を制限し、人を社会的に孤立させるからである。将来への見通しを奪い、誇りをもった人生を奪う。
 貧困は、個々の人生としあわせを壊す。そして、貧困が壊すものは個人の人生だけではない。貧困は、家族形成と子育ての困難を招き、少子化の要因となる。また、貧困は、人の可能性を制限する。子育て家族の貧困は、子どもの育ちの不利を招き、結果として貧困が世代をこえる固定的なものになる。世代にまたがる可能性の制限は社会を分断し、社会をすさませる。社会的公正を欠いた社会は、もろい。貧困は個人の自由と尊厳を奪うだけではなく、長期的にみれば社会の持続性も損ねる。
 児童虐待は、1990年に比べると、34倍の3万7000件である。これは2000年に比べても2倍だ。
 日本は、欧米に比べて大学の授業料が高い。日本で大学生活を送るためには、年に  200万円かかる。このうち170万円を学生本人が負担する。スウェーデンでは、学生の本人負担は6万円でしかない。
 日本は授業料が高いのに、奨学金は安い。日本の自公内閣は、「子どもの貧困」を減少、緩和するものではなく、むしろ増加させるものとなっている。
 大学の入学金・授業料についてみると、フランスやドイツは、ほぼ無償となっている。アメリカでも年に47万円ほど。
 奨学金が貸与だけだというのは日本のみ。EUでは無償ないし給付制をとっている。
 いま、東大をはじめ、いくつかの大学で低収入世帯の授業料を免除する動きが出ているようですが、大学に入るのときの入学金も授業料もタダにする、そして学生の生活費も親に頼らなくてもいいくらいに大幅な補助をするべきだと思います。日本人の知的レベルを上げたら、日本の産業も発展していくわけですから、税金の有効なつかいかただと私は思います。いかがでしょうか。
 子どもを大切にする国にするためには、思い切った財政の転換が必要です。道路や新幹線という大きな目に見えるものではなく、地道な人材育成にこそ税金はつかわれるべきだと、つくづく思ったことでした。
 論文集ですので、決して読みやすい本ではありませんが、この本に指摘されていることはすごく大切なことだと思います。多くの人に一読をおすすめします。
(2008年4月刊。2300円+税)

2008年6月30日

棟梁

著者:小川三夫、出版社:文藝春秋
 私とほとんど同世代(正確には、私のほうが一歳下)なのに、なんと、早くも隠退してしまいました。
 鵤(いかるが)工舎の小川棟梁が、引退を機に後世に語り伝える、技と心のすべて。
 これはオビに書かれている文章です。小川棟梁は法隆寺最後の宮大工だった西岡棟梁の後を継ぎ、徒弟制度で多くの弟子を育て上げました。すごいことです。そんな実績のある棟梁の語る言葉には、一言一句に重みがあります。ついつい耳を傾けてしまいます。
 師匠の西岡常一棟梁は、何にも言葉では教えてくれなかった。一緒に暮らして、一緒に仕事をした。それが教えだった。学ぶ側が何をくみ取るかの問題であって、言葉はない。だいたい、大工や職人には言葉はいらない。カンナ使いの手加減、体づかい、刃のつくり方、削ろうとする木の癖、柔らかさ、どれも体が覚えて判断すること。言葉では言いあらわせない。
 言葉で教えられないから弟子に入る。本や言葉ですむなら、10年もかかって修業する必要はない。やる前に考えて、できないと思うようなら職人として使えない。それでは、小さな体験からはみ出せない。
 弟子に入ったとき、師匠から1年間はラジオも聞かなくていい。テレビもいらない。新聞も読まなくていい。大工の本も何も読む必要はない。ただひたすら刃物を研げ。こう言われた。修業は、そうやってただただ浸りきることが大事なのだ。
 ものを教わり、覚えるのに一番必要なのは素直なこと。そのため、12、3歳までには弟子になる必要がある。遅くても14、5歳まで。うむむ、そうなんですか・・・。
 職人は徒党を組んではいけない。まして修業のときはそうだ。人は人。それぞれ生まれも育ちも性格も才能も違う。最初から違うものと思って扱うし、本人たちもそう思わないと共同生活は成りたたない。仕事のできない人間、遅い者が群れを組みたがる。
 うーむ、なかなか厳しい指摘ですね、これって・・・。
 現場で棟梁をするのが大工。その下が引頭(いんどう)。現場で大工を助ける。仕事の段取りをして、人を実際につかう。その次が長(ちょう)。道具づかいが一人前で、下の者に道具づくりが教えられるようになった人間のこと。一番下が連(れん)。
 アパートから通いたいという人間は、弟子にとるのを断った。体から体に技や考え、感覚を移すのが職人の修業なのだ。
 弟子入りして共同生活した新人に食事や掃除をさせるのには理由がある。掃除をさせたら、その人の仕事に向かう姿勢・性格が分かる。飯をつくらせたら、その人の段取りの良さ、思いやりが分かる。間は技だけ秀でてもダメ。バランスのいい人間である必要がある。そのためにも、一緒に暮らして学ぶことが大切だ。
 ふむふむ、なるほど、なるほどですね。すっかり納得しました。
 大工仕事は段取りが8割。段取りさえうまくいけば、仕事はできたも同然。 棟梁は、みんなより先を見なくてはいけない。全体を見渡せて、棟梁だ。個室に戻って、仕事のことを考えるのから解放されたいというのではダメ。共に耐え、忍ぶ心がなければ、一緒に暮らすのは無理。
 器用は損だ。器用な人は器用におぼれやすい。不器用の一心にまさる名人はいない。
 叱られるのが修業。叱られて身につけていく。叱られるのが大事。しかし、いつまでも叱ってはもらえない。親方に怒られて10年。この10年で基礎を学ぶ。
 檜(ひのき)は強い。法隆寺も薬師寺も、日本の1000年以上の建物は檜があったおかげ。檜は、鉄やコンクリートよりも強い。
 ところが、今の日本は肝心の木がない。
 未熟なうちに仕事を任せるのが肝心。任されるほうもできるとは思っていないけれど、親方がやれと言ったから、オレもできるかもしれないと思う。このタイミングが必要だ。
 頭の中をいつも整理整頓させておくこと。整理されていない頭では次のことが考えられない。これって、まったくそのとおりだと整理整頓の大好きな私は思います。
 健全な組織であるためには、組織を腐らせないこと。
 弁護士にとっても大変役に立つ指摘にみちみちていました。ところで、著者は引退したあと、何をするのでしょうか・・・?
(2008年4月刊。1524円+税)

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