弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2009年3月19日

新聞販売の闇と戦う

著者 真村 久三・江上 武幸、 出版 花伝社

 私のごく親しい弁護士が、天下の読売新聞とたたかった経過をまとめた本です。インテリがつくってヤクザが売る。こんな言い方が公然とされているのが新聞業界です。とりわけ公称1000万部を誇る日本一発行部数の多い読売新聞には悪名高い拡販団がいます。脅迫まがいのおしつけ拡販団として広く知られました。
 著者は、筑後地方で販売店を営んでいました。前任者から引き継いだとき1500人いた読者が、2年後には1200人を切っていた。
 新聞の購読契約は、6か月、1年、2年、3年という種類がある。契約期間が短いので、満期の前に更新してもらうが、新しい読者を獲得しない限り、あっという間に読者が減ってしまう。絶えず営業していないと、部数が激減してしまう。部数を維持するために、自転車操業のような状態に置かれている。
 そして、読売新聞は、たとえば1000部しか配達しない販売店に1500部を搬入し、その卸代金を徴収する。差の500部が、いわゆる「押し紙」である。この「押し紙」のない販売店はない。
 拡販セールス団の派遣は、販売店の店主の集まりである「読売200会」で決められる。
 読売新聞にたてつくと、新聞配達員に尾行がつく。新聞をどこに配達しているのか、販売店の差し出す名簿に頼らずに把握しようというわけである。新聞社が販売店に読者一覧表の提出を求めるのは、強制改廃の前触れと考えてよい。
 裁判所に対して仮処分を申請し、販売店であることの地位保全を求めて認められたのです。さらに本訴でも勝ち進みました。販売店の解任を非とし、300万円もの慰謝料支払いまで福岡高裁は命じました。
 福岡地裁は、店主としての地位を保全すると同時に、読売新聞に対して新聞の供給を再開するように命じました。そして裁判所は、裁判所の命令に大胆不敵にも従わないことを知ると、1日につき3万円の「罰金」(間接強制)を支払うよう読売新聞に命じたのです。
 天下の読売新聞といえども法の無視は許されません。立ちあがった販売店の経営者の勇気に拍手を送りたいと思います。また、江上弁護士に対しては、コンパクトな本でわかりやすくまとめてくれたことにお礼を申し上げます。

(2009年2月刊。1500円+税)

2009年3月18日

自治体クライシス

著者 伯野 卓彦、 出版 講談社

 青森県大鰐(おおわに)町の第三セクターの無惨な状況には、息を呑むばかりです。
 26億円かけてつくられたリゾート施設は、わずか6年で閉鎖された。そこに至るまで金融機関から借りたお金は、最高時で150億円、2007年度時点でも70億円をこえる。そして、今、それを年3億円ずつ返済している。年間税収7億円の町が、である。完全に返済するのは50年ほど先のことになる。
 うひゃーっ、ど、どうしてこんなことになったのでしょうか……。
 第三セクターとは、国や地方自治体が民間企業と共同出資して設立した法人のこと。1980年代のバブル期に、「官の優れた部分と民の優れた部分をあわせもつ」として国が自治体に設立をすすめた。そのため全国各地に多くの第三セクターが生まれた。しかし、結局のところ、「官の悪い部分と民の悪い部分とをあわせもった」ケースが大半になってしまった。
 2007年6月に設立した自治体財政健全化法が、いま、地域と人々の暮らしを追い詰めている。
 5億円以上の債務超過に陥っている第三セクターと公社は97社ある。また、全国に100近くある自治体病院の7割以上が赤字であり、その累積赤字の総額は1兆8000億円にのぼる。
 多くの地方自治体は、損失補償契約を結んでいる。そして、この損失補償契約を結んでいる自治体は、赤字の第三セクターを存続させようが破綻させようが、大変な危機に陥りかねない。
 第三セクターが借金を抱えるようになった大きな要因の一つは、1980年代から90年代にかけて国が推し進めた「リゾート法」にある。
 国の勧めに安易に乗った自治体に責任があるのも当然だし、自治体が杜撰な開発計画を立案し、実行したのも事実だろう。しかし、国にも、制度をつくり、自治体にすすめ、政府系金融機関を通じて融資を行い、借金漬けにした責任はある。
 第三セクターの場合、会社は経営内容を公開し、それを議会がチェックしなければならない。しかし、自治体の側にはそんな発想すらなかった。
 総務省の調査によると、2006年3月末の段階で、全国489の第三セクターについて、総額2兆3000億円の損失補償契約が結ばれている。
 リゾート法が制定された1987年ころ、日本はアメリカから貿易不均衡を指摘され、それを解消するための内需拡大を強く求められていた。国はリゾート法に則って、第三セクターに対する融資を無利子か低利で行った。そのときの主な資金源は、NTTの民営化にともなう、1986年以降のNTT株の売却による莫大な利益だった。それを、政府系金融機関を通じて自治体に融資していく形をとった。
 自治体は破産法がなく、破産できない状況があった。
 2006年11月、川崎市の第三セクターが破産したとき、横浜地裁は損失補償契約にもとづく支出を違法と判断した。自治体が損失補償契約を結ぶこと自体を違法と認定したに等しい。画期的な判決である。
 りそな銀行が破たんしようとしたとき、国は1兆5000億円も負担した。それに比べたら少額のお金を使って何が悪いのか……。
 まったく同感です。でも、これも、日本の投票率が6割に満たないという政治的不信があり、それにあぐらをかいていることの当然の帰結でしょうね。やはり、私たち国民が怒りをもって立ち上がらないことには何も解決しませんよね。
(2009年2月刊。1600円+税)

2009年3月17日

橋下「大阪改革」の正体

著者 一ノ宮 美成、 出版 講談社

 ひとの悪口を言うのは私もあまり好きではありません。しかし、この橋下大阪府知事については、まあ石原東京都知事も同じですが、あまりのえげつなさに我慢ならず、悪口くらい言わせてもらいたい、そんな気分です。
 といっても、これは書評ですので、この本に書かれていることを紹介します。ほとんど、そうだそうだと手を叩き、足をふみならしたくなるような話が満載です。いやあ、その正体はひどいものです。そんな橋下知事を依然としてマスコミが高く持ち上げているため、大阪府民の支持率は高どまりだというのです。いやはや、まったく罪つくりなマスコミです。これは小泉「改革」とまったく同じ構図ではありませんか。
 橋下弁護士はサラ金「シティズ」の代理人弁護士を務めていた。「シティズ」というのは高利を強引に取り立てることで有名な会社です。橋下弁護士は、また、徴兵制の復活を主張し、日本は核武装すべきだといい、「税金を払わない奴は生きる資格がない」とウソぶきました。
 テレビの出演料は、ローカル局で1時間50万円、ネット局だと100万円以上。講演料も1時間150万円、年収3億円。こんな大金持ちが貧乏人は死ねと言っているのですから、まったく許せません。
 橋下弁護士は府知事選挙出馬を「2万パーセントない」と否定しながら、その直後に出馬を表明した。出馬を否定したのは、番組キャンセルにともなって違約金が発生するのを恐れたからだ。そんな解説がなされています。せこい男ですね、まったく。年収3億円の金持ちというのに、呆れます。
 「大阪府は破産会社」と橋下府知事は何回も言ったが、これは事実に反している。
 嘘も百回言えば本当になる。こんなデマゴギーをマスコミ受けするように繰り返しただけのこと。いやあ、ひどいものです。許せない、プンプン。
 橋下知事の支持率が6割以上というように高いのは、常に敵を作る手法にたけているから。小泉元首相は郵政族を的にしたが、橋下知事は公務員労組を敵にした。それで世間の注目を集め、支持をかすめ取ろうとしたわけだ。いま、日本社会に蔓延している社会の閉塞感から、その不満のはけ口が公務員に向かっている。
橋下知事は、高校生に対して次のように強弁した。
 「義務教育は中学まで。自分で勉強して公立に合格するしかない。今の日本は自己責任が原則。それがいやだったら、国を変えるか、日本から出るしかない」
 ひどいものです。高校生に向かって、いやだったら日本から出て行けというなんて、とんでもない暴言じゃありませんか。いったい、橋下知事って、日本の王様なんですか。
 橋下弁護士を知る大阪の某弁護士は、橋下知事について次のように語る。
 「ひと言で言うと幼稚ですわ。メディアが、まるで大阪の救世主であるかのように持ち上げるため、少しでも批判すると橋下知事はキレるし、世間のバッシングにあう。そこで、誰もが口を閉じるしかない。いまの大阪では、橋下知事とメディアが共演して恐怖政治がつくられている」
 橋下知事について、情緒的な発達が11歳か12歳くらいで終わっている幼い人だと断言した人がいます。ふむふむ、まったく、そのとおりなんじゃありませんか。
 橋下知事には、庶民の目線というのがまったく感じられない。今日の財政危機を作り出した張本人である関西財界が橋下知事をあやつり、その橋下知事が熟知したメディアを手のひらに躍らせることで、財界の方針を実行している。メディアは「絵になる」「字になる」などと面白おかしいだけのポピュリズム報道になり下がっている。そこには破壊だけしかない。
 横山ノックと言い橋下知事といい、本当に日本の政治家には人材がいませんよね。
 そうはいっても、国政選挙で投票率60%程度というのは、あまりにも低すぎます。政治家は国民(有権者)が育てるべきものです。
(2008年12月刊。1000円+税)

2009年3月12日

軋む社会

著者 本田 由紀、 出版 双風社

 現代日本の社会の軋(きし)みは、一方では端的な生活条件面での過酷さとしての貧困や過重労働というかたちであらわれ、他方では精神的な絶望感や空虚さというかたちであらわれている。
 日本では、新卒時に正社員になれなかったものが、のちに正社員に参入するチャンスは閉ざされがちであり、かつ、正社員とそれ以外の者のあいだには、雇用の安定性や収入の面で、他国と比べて際立った断層がある。
 正社員についても、長時間労働など労働条件の過酷化が生じているが、正社員になれない層の生活上の困窮は歴然としている。そして、正社員になれる確率は、出身階層や本人の学歴と関連している。
 日本で大きな割合を占める私立大学への進学率は、家庭の家計水準を明らかに反映している。
 調査によると、日本の成績上位層には低下がみられないが、成績下位層の比率と点数低下傾向が増大しており、全体ではなく、下方に「底が抜ける」かたちでの読解力の低下が危惧される。
 そして、日本のこどもの顕著な特徴として、勉強が好き、楽しいと答える者、将来の仕事と結びつけて勉強していると答える者の比率が際立って低いことがある。すなわち、日本の教育の最大の問題は、子どもが教育内容に現在および将来の生活との関連性や意義を見出し得ていないことだ。
 ある種の仕事については、正社員と非正社員の境界があいまいになりつつある。名目上は正社員であっても、その処遇や仕事内容に関して非正社員と大きく差がないような仕事が相当の規模で現われている。
 低収入の若年非正社員が若者の3人に1人に達するほどの規模になっている。
なぜ、こんなことが可能なのか? それは、個々の若者が個々の親に依存しているのではなく、経済システムが家族システムの含み資産、新世代の収入、住居、家電などに依存しているからだ。
 これほど大量の低賃金労働者が暴動に走りもせず社会内に存在し得ているのは、彼らを支える家族という存在を前提とすることにより、彼らの生活保障に関する責任を放棄した処遇を企業が彼らに与え続けることができているからだ。しかし、このような企業の家族への依存は、長期的に持続可能なものではなく、非常に脆(もろ)い、暫定的なものだ。
 いま、社会にすごく大きなうねりが起きているのかというと、たとえばいま、手ごたえがあるというのは400人の会場で集会をしたら500人も集まったというレベルでしかない。5000人とか1万人が集まったというほどのことはない。まだまだだ。
 そうなんですよね。有名になった年越し派遣村でも、500人が集まった、ボランティアが2000人やってきたというレベルで大変注目されているわけです。早く、日本でも万単位の大きなデモ行進がなされるようになったらいいな、と思います。私の学生時代には、学生だけでも万単位のデモ行進は当たり前のことでした。ああ、また、古い話を持ち出して…なんて思わないでくださいね。フランスや南アメリカでは、今でもそれが日常的にやられているのですからね。日本人に出来ないはずがありませんよ。貧富の差の拡大を食い止める最大の力は、みんながあきらめることなく、立ち上がることではないでしょうか。
 日曜日、大分からの出張から帰ってみると、我が家の庭にチューリップが5本咲いていました。赤紫色の花です。ブロック塀の近くにツルニチニチソウの紫色の花が咲いています。五角形の花を見ると、いつも函館の五稜郭を思い出します。地植えのヒヤシンスが庭のあちこちで咲いています。紫色の花だけでなく、純白の花もあります。
(2008年11月刊。1800円+税)

2009年3月 8日

若者の労働と生活世界

著者 本田 由紀、 出版 大月書店

 非典型雇用ないし失業や無業の状態にある若者は3人に1人に達している。非典型雇用の規模は、他の先進諸国と比較しても相当に大きい。
 しかも、典型雇用と非典型雇用のあいだの賃金格差が他の先進諸国と比べても著しく、また『典型雇用への参入』が新規学卒時に限定されがちであることから、いったん非典型雇用・失業・無業の状態に陥った若者は、ほぼ永続的に困窮状態に置かれる確率が高くなっている。
 なぜ若者が自らフリーターや無業の状態を選び取っていくのか?
 その答えの一つは、若者たちが生きる文化に見出すことが出来る。中学時代の友人関係をベースにした場所・時間・金銭の共有を重視する文化的態度(地元つながり文化)の存在こそが、現在の状態を積極的に選び取る背景となっている。
 コンビニ店の売り上げは、1992年をピークとして、対前年比マイナス傾向にある。セブン・イレブンの加盟店の平均日収は1992年の68万2000円をピークとして、2005年の
62万7000円というように低下傾向にある。
 高齢者介護の現場にあっては、気がきくことが良い介護とは限らない。利用者の考えることに気づき、先回りして次々と用事を済ませてしまう。これは、利用者の「主体性」を奪うことでもある。そうではなく、介助者はあくまで利用者の「手足」でさえあればよい。
 うーん、これは難しいことですね……。
 現在の生徒には、自己肯定感が欠如している。生徒一人ひとりが自分を価値ある者にする。世の中に役立つ、自分はこれでいいんだという自信、その自己肯定感が発達させられていないことがあまりにも多い。自己肯定感を通じて社会に飛び込んでいける存在として、生徒を育てることが現在の学校に求められているものだ。
 大学入試と違って、就職採用という選抜システムは騙し合いである。うひょーっ、そ、そうなんでしょうか……。
 過食症が増加している。10年間で5倍にも増加した。過食症は女子中学生の300人に1人、女子高校生の50人に1人、女子大学生の50人に1人と推定される。一般の人が無理したところで食べきれないほどの量を食べる。過度な減量の反動としての過食である。
 身体に食べ物が入っていない状態が基本になっている。過食症者は過食をしていないときには、食事をほとんどとっていない。
 多くの過食症者は、過去にダイエットに成功している。意思の力で食欲を抑えることのできた経験があるからこそ、その後、過食症者は過食を身体的な問題ではなく、精神力や意思の弱さの現われとして受け止める。
 だから、その克服にあたっては「頑張らないこと」の重要性が指摘されている。接触層会社は、自分をコントロールしようとしすぎることで、摂食障害という状況に陥っている。
 摂食障害者は、ダイエットを継続する過程で、痩せている自分には価値があるが、痩せていない自分には価値がないと感じるようになっていく。それとともに、過食や嘔吐を繰り返すなかで、自分はだめだという気持ちを募らせていく。摂食障害の状況が自己否定を生み、自己否定が強くなるからこそ、なおさらに痩せることに固執するという悪循環がある。
 過食を治すために行うものに、食事を抜かず、規則正しく一定量を食べるという食事訓練がある。拒食症や過食症の人にとって、吐かずに普通に食べること、食事の量を増やしていくことは、非常に難しいことである。
 貧困を、経済的貧困、つまりお金がなく貧乏なこと、と素朴に考えている限り、「意欲の貧困」は貧困概念の中に自らの位置を持たず、常に自己責任論の餌食になるほかない。したがって、貧困とは「意欲の貧困」を含むものだと貧困論を構成する必要がある。非根を経済的生活困窮状態(所得や貯蓄)の問題に還元すべきではない。
 「意欲の貧困」とは、自分の限界まで意欲を振り絞ったとしても、それが多くの人たちが思い描く「当然ここまでは出せるはず」という領域にまで到達できない、という事態である。
 「意欲の貧困」は、もはや自己責任論の彼岸にある。そして、自己責任論は、つきつめれば死の容認へと至る。しかし、それは、「社会」という存在の自己否定である。
 現代日本における若者たちの置かれている状況について、現実をふまえて理論的にも深めることのできた本でした。
(2008年6月刊。2400円+税)

2009年2月22日

実録アングラマネー

著者 有森 隆+グループK、 出版 講談社α新書

 山口組若頭の宅見勝は1997年8月、神戸のホテルで4人組の暗殺団に射殺された。享年61歳。宅見は配下に企業舎弟を数千人もち、3200億円の資金力を誇り、オールジャパンの裏経済を支配していた。
 東京都内だけで、暴力団のフロント企業は1000社以上ある。この数字は警視庁が確認したもの。金融、不動産、建設がフロント企業の御三家。風俗、飲食、自動車販売、産廃処理、経営コンサルタント、そしてコンビニ、ペットショップ、俳優養成学校、探偵、人材派遣など……。うひゃあ、す、すごい分野にまで進出しているんですね。驚きました。
2007年現在の暴力団員は8万4200人。正式構成員が4万3300人。準構成員は、
1995年に3万2700人だったのに対して、それから3割も増えている。暴対法は、山口組への一極集中を生んだ。山口組と住吉会と稲川会の3団体で、今や暴力団の73%を占め、寡占化が進んでいる。
 山口組の上納金は幹部クラスで月100万円、他の直系組長で月80万円。
 旭鷲山が引退したのは、暴力団の住吉会系組長に脅迫されたから。モンゴルの金鉱山の開発利権をめぐって、住吉と関西系に2重売りしたのが発覚してのことだった。うむむ、なーるほど、そういうことだったのですか。
 英会話教室最大手のNOVAで創業社長が追放されたのは、資金調達を闇の勢力に頼ろうとしたからだった。猿橋前社長は、業績不振のワンマン銀行の頭取を巻き込んで、見せ金増資を錬金術の舞台につかった。見せ金増資に協力するという名目で、巨額の融資を銀行から引き出そうとしたのである。いやいや、とんだことです。大勢の真面目な教師と生徒が泣かされましたね。
 海軍鎮守府が於かれた横須賀で、沖仲士を取り仕切る近代ヤクザとして生まれたのが小泉組。軍港ヤクザの小泉組の2代目、小泉又次郎が、あの小泉純一郎の祖父である。
 いやはや、現代日本社会って想像以上にヤクザに食いものにされていますよね。知らぬが仏、とはこのことです。仏といえるかどうかは、私たち次第ですが・・・。
(2008年10月刊。933円+税)

2009年2月19日

「生きづらさ」の臨界

著者 湯浅 誠、河添 誠、 出版 旬報社

 現代日本において、若者は自らの労働によって生活を成り立たせることが困難になっている。それは賃金水準が低いこともあるが、同時に、その労働環境があまりに劣悪で、それによって生活そのものが暴力的に破壊されているからである。
 貧困に陥った人は、自分自身で新しい仕事に対応する自信が持てないため、せっかく探した仕事も数日で自分から辞めてしまうことがある。これを「意欲の貧困」という。貧困のなかで、意欲までも奪われている。なるほど、そういうことなんですね。貧困というのを単に現象面のみでとらえるのではなく、人間の内面にまで踏み込んで考える視点が必要なようです。
 「不器用」というのは、具体的には、人間関係の作り方が極端に下手な人というイメージである。家族の基礎体力を、まずは高めるところからやらないといけない。家庭の基礎的な所得とか生活条件の整備が必要である。
 貧困な状態とは、生きる上での生活資源(溜め)が減少している状態である。「不器用さ」は、貧困のなかで階層的に生産されていく。非正規雇用が拡大して階層化が進めば進むほど、階層の固定化、貧困の再生産の程度が強まっていく。
 新自由主義は、あらゆるもの、市場外だったはずの領域まで市場化していく運動である。ふむふむ、鋭い指摘ですよね、これって……。
 1960年代半ばまで、生活保護を受けている人の4割は、働ける年齢の人たちだった。ところが、今は、働ける人が生活保護なんて論外だと、突っぱねられる。
人々は、どうしても貧困問題に関して「この人は救済に値するかどうか」を問題にしてしまう。それに値する人だけが救済されるべきだという発想は恩恵の論理であって、人権ではない。24時間がんばり続ける者だけが「救済に値する」という枠組みは突破される必要がある。そうでないと、そんなに「立派じゃない」貧困当事者は声を上げられないままになってしまう。ううむ、この点は、私にとっても痛い指摘でしたね。誰だって楽したいとか怠け心は持っているわけで、ありのままの状態においてその人の持つ固有の権利として保護されるべきだというわけです。
 正規になりたくない非正規の人は相当数いる。それは、正規がひどいから。生活保護を受けていない人たちの状況は、就業していても、高いストレス、長時間労働で、ぎりぎりのところで暮らしている。就業していたとしても、こうした非人間的な労働条件が標準化されている。
 もはや、雇用と生活の安定が多くの人にとって必然的な結びつきをもたなくなった。働いていれば食べていけるというのは神話になった。
企業は利潤を追求する目的集団であり、その目的に人々の生活の安定は入っていない。働いていれば食べていける状態の創造は、企業の目的外行為であり、目的外行為を行わせるためには、社会の規制力が働かなければならない。
 今や、現代日本で働くことの意義が問い直されていることがよく分かる本でもありました。
(2009年1月刊。1500円+税)

2009年2月14日

アイバンのラーメン

著者:アイバン・オーキン、 発行:リトルモア

 東京は世田谷に、アメリカ人によるラーメン屋があるそうです。京王線の芦花公園駅の近くです。今度、私も行ってみましょう。といっても、開店日にはかなりの行列が出来ているようなので、行っても食べられるか心配です。
 店主は、生粋のアメリカ人です。それも、コロラド大学を出て、シェフになったうえで、日本にやってきて自己流のラーメンを作り上げたというのです。すごいものです。伊丹十三監督の映画『タンポポ』を見て、ラーメンにあこがれたというのですから、大した根性です。
 店主の父親は知財専門の弁護士です。すごく成功しているそうです。
アイバンで出るラーメンが見事な写真で紹介されていますが、どれも、いかにも美味しそうです。ともかく、メンもスープもトッピングの卵も、すべてが手作りだというのです。しかも、感心したのは、仕入れが近所の商店街からなのです。いやあ、実にいいことですよね。共存共栄の精神をまさに実践しているのです。
サイドメニューとして焼きトマトがあり、豚飯があり、デザートのアイスクリームまであるのです。スープは豚骨スープではありません。塩ラーメンとしょうゆラーメンです。これも脂の多すぎるラーメンにしないようにしているからです。
毎日でも食べられるラーメンであるために、豚の脂は10cc未満しか入れていない。有名ラーメン店のラーメンは、基本的に一杯のラーメンに30~40ccの動物性の脂が含まれている。こんなに大量の脂が入っていると、身体に良くないし、毎日なんか、とても食べられない。
アイバンのラーメンは、さわやかな味だそうです。食べたあと、よい気持ちになるラーメン。これがコンセプトというのです。ここまで聞いたら、一度は食べずにいられません。でも、1日、120人の客しか入れない。営業時間も平日は夕方から夜のみ、土日は昼から夕方まで。そして、水と第四火は休み、というのです。席も10席しかありません。そのくせ、キッチンは広々としているというのですから、異例づくめです。
 メンはスープとよくからんでいる。メンをすすると、スープが口に入り、メンマも細長いので、同時に口に入る。一度に3つの味を楽しめる。さらにチャーシューと卵を合間に食べたら、すべての味がなじんで、ひとつのラーメンの味になる。一口ですべてが味わえるのが、アイバンのラーメンだ。
 いやあ、ぜひぜひ行って味わってみたいラーメンです。

(2008年12月刊。1600円+税)

2009年2月12日

資本主義はなぜ自壊したのか

著者 中谷 巌、 出版 集英社 インターナショナル

 オビに、改造改革の急先鋒であった著者が記す「懺悔の書」とありますが、本文を読むとまさしくそのものずばり懺悔をしています。お金儲けばかりを優先して、人間を大切にしてこなかったことを反省するなかで、キューバやブータンに行って、人々の幸せとはいったい何なのかを考えたというのです。これが対比として、実によく分かるのです。私も、前にキューバもブータンも、その実情を描いた本をこの書評欄で紹介したことがあります。
 著者がグローバル資本主義は間違っていると大きな声で叫び始めたわけですが、これを今さら遅いと叱る向きもあるようです。私は決してそう思いません。過ちは、まだ何とか是正することが可能なのです。もっとも無責任なのは、懺悔も後悔もせずに、論戦の場からこそこそと逃げ出していくような輩(やから)ではありませんか?
 グローバル資本主義は、世界経済活性化の切り札であると同時に、世界経済の不安定化、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人でもある。そして、グローバル資本が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長される。
 「改革」は必要だが、その改革は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる改革は改革の名に値しない。
 アメリカでは、スーパーリッチ層が輩出した反面、かつてのアメリカを支えていた豊かな中流階級の人々が「消え去った」。所得上位1%の富裕層の所得合計が、アメリカ全体の所得に占めるシェアは、8%から、なんと17%にまで急上昇した。
 ヨーロッパ諸国では、かなりの銀行に公的資金が投入され、事実上の国有化がすすんでいる。
 今回のバブル崩壊の結果、アメリカが主導してきたグローバル資本主義は大きな方向転換を迫られる。
 グローバル資本主義には3つの本質的な欠陥がある。その一は、世界金融経済の大きな不安定要素となること。その二は、格差拡大を生む「格差拡大機能」を内包し、その結果、健全な「中流階層の消失」という社会の二極化現象を生み出すこと。その三は、地球環境汚染を加速させ、グローバルな食品汚染の連鎖の遠因となっていること。
 いまや、グローバル資本主義はフランケンシュタインのモンスターさながら、その創造主である人類そのものを滅ぼしかねないほどに暴走してしまった。
 新自由主義思想は、一部の人々、はっきり言ってしまえばアメリカやヨーロッパのエリートたちにとって都合のいい思想であったから、これだけ力を持った。これは格差拡大を正当化する絶好の「ツール」になりうるものである。
 コーポレート・ガバナンス改革が進むにつれて、実際に起こったことは、実は未曾有の「高額報酬の常態化」であった。
 いやはや、これはひどいですね。私も、コーポレート・ガバナンスって、少しはましなものかと錯覚していました。とんだまちがいでした。いまの経営者に期待するのは幻想でしかないのですね。キャノンの御手洗をよく見ていれば分かることではありますが……。 
 自分のことしか考えず、日本人の多くの若者がどうなろうと知ったことじゃない。そのくせ、今の若者には倫理観が欠如しているから道徳教育が必要だというんですからね。笑止千万ですよ。プンプン。
 従来の資本主義とグローバル資本主義は、同じ「資本主義」という名を冠していても、そこには大きな質的な違いがある。グローバル資本主義においては、労働者と消費者が同一人物である必要はないからである。
 プレカリアートとは、プロレタリアートをもじった言葉で、不安定な立場に置かれた無産階級という意味。
 日本は、いまや貧困層の割合がアメリカに次ぐ世界第2位の「貧困大国」になっている。日本の「平等神話」は崩壊している。日本は、4世帯に1世帯が貧困に分類される国。貧困層に冷たい国になってしまった。
 シングル・マザー(ファーザーも)世帯の貧困率は60%に達している。日本が「希望なき貧困大国」から脱することがなにより優先されるべき政策課題だ。日本社会が安定することこそ、日本の底力を発揮するための前提条件である。
 大変すっきり読みやすい、告発の本でもありました。
(2009年2月刊。1700円+税)

2009年2月10日

買物難民

著者:杉田 聡、 発行:大月書店

 還暦を迎え、膝が痛かったりする私にとっても、歩いて買い物に行ける商店街がなくなってしまうというのは他人事(ひとごと)ではありません。郊外型スーパーとコンビニばかりになってしまったら、老人は生きていくことができません。少なくともひとりで買い物をする楽しみが奪われてしまいます。
 日本の飲食料品小売店の数がピークだったのは1980年ころ。このとき73万軒の店があった。それから20年間で26万軒が減った。人口10万人未満の地域でもっとも大きな影響があった。
 2005年、65歳以上の老人の自動車免許取得率は28%ほど。女性では半分の14%にすぎない。75歳以上だと免許を持っている人は20%。
 高齢者がバスに乗ったとき、多くの中高年は無視し、むしろ若い人の方が席を譲る。「いまどきの若者は・・・」というより、むしろ「近頃の中年は・・・」と言わざるをえない。
 近年のアメリカでは、大型店、量販店が同じ屋根の下に集まっている「スーパーセンター」の人気が落ちている。その原因の一つは、店内が広すぎて買い物が大変なことにある。大きなスーパーで体を休める場所がなかったり、椅子が少なすぎたり、トイレが外にしかなかったりする。これでは老人は困る。かごもカートも大きすぎて負担がある。
 買い物に行けなくなって、食事をありあわせものでしのいでいるうちに、栄養失調になってしまった高齢者も少なくない。
 日本には2005年現在、4900万世帯がいて、そのうちひとり暮らし世帯は1446万世帯(29%)ある。世帯主が65歳以上だと1350万世帯(28.5%)。75歳以上だと550万世帯(35.5%)である。これから、単身世帯はもっと増えて4割近くになると予想されている。
 コンビニは高齢者にとって便利とは限らない。
 役所は町の中心地に存在し続けるべきだ。このように著者は提言しています。中心地の空洞化は避ける必要があるのです。
 老人を大切にしない社会は、同時に、昨今の「派遣切り」に見られるように若者も切り捨てる、「株主」のみを優先し、人間無視の冷たい社会になってしまいます。
 マイカーがあればいいということでは決してありません。昔は、市の中心部にデパートがあっても、その周辺にたくさんの商店があり、デパートと共存共栄していました。歩いて買い物ができないことになったとき、その人の人生はきわめて味気なくなることは必至でしょう。今のうちに抜本的な解決策をみんなで考え、少しずつでも実行に移す必要があるように思います。
 日曜日、久しぶりに庭仕事をしました。チューリップの芽があちこちでぐんぐん伸びています。クロッカスの黄色い可憐な花が咲いているのも見つけました。あっ、白梅がもう咲いている。そう思ってよく見たら、その上には紅梅がたくさんの赤い花を咲かせていました。隣の家では、あでやかなピンクの桃の花が満開です。
 庭のあちこちに水仙が花を咲かせています。黄水仙も一つだけ咲いて自己の存在をアピールします。枯れたライラックを根から掘り上げ、肥料になる生ゴミを一番下に敷いて新しく買ったライラックを植え付けました。
 庭仕事の最中、ときどきくしゃみが出ます。花粉症に悩まされる候となりました。春近しです。陽が伸びて、夕方6時まで庭に出ていました。

(2008年12月刊。1600円+税)

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