弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2008年5月14日

雲の都、第3部・城砦

著者:加賀乙彦、出版社:新潮社
 私は、毎朝、NHKのラジオ講座でフランス語を聴いています(弁護士になって以来ですから、もう35年になります)が、そのテキストに加賀乙彦が若かりしころのフランス留学記を3月まで連載していました。若さ故の無謀なイタリア単独自動車旅行記にはハラハラさせられたものです。なにしろ生きているのが不思議だと言われるほどの九死に一生を得たという大事故まで起こしていたのですから・・・。
 その著者による自伝的大河小説の第3部は、1968年に始まる東大闘争の渦中に巻きこまれたという展開です。著者は医学部助教授として、しかも反動的な精神科医師として全共闘(そのなかでも精神科の医師は「戦闘的」でした)から糾弾の対象とされ、その貴重な資料を持ち去られて焼かれてしまいます。著者は、当然のことながら、全共闘を厳しく糾弾します。
 全共闘運動のもっていた本質的な誤りの一つが、この本でも明らかになります。といっても、今の私は、全共闘の活動家だった個々のメンバーまで全否定するつもりはありません。今では私の仲のいい友人となった弁護士も実は少なくないからです。もちろん、昔も今も、全共闘がした目茶苦茶な暴力を肯定する気はまったくありません。
 この本には、セツルメント活動という言葉が何回となく登場します。それは著者自身が学生セツルメントにかかわっていたからです。私も1967年4月から4年近くセツルメント活動に打ち込んでいました。東大闘争の無期限ストライキのおかげで、大学2年生の6月から翌69年4月までは授業がまったくありませんでしたので、ますます没頭してしまいました。それこそ、人生に必要なことは川崎セツルメント実践活動ですべて学んだ、という感じです。いえ、ほんとうにたくさんのことを学びました。ただひとつ残念だったのは、そこで出会った素晴らしい女性にふられてしまったということです。
 菜々子は亀有の東大セツルメント診療所で看護婦として働いていたが、薄給のため、ほとんど明夫の助けにならなかった。アメリカより帰国したあと、セツルメント診療所の診療をときどき引き受けていた。こんなセリフも登場します。私のいた川崎にもセツルメント診療所というのがありました(今もあります)。竹内事務長、斉藤婦長(故人)以下、大庭さんなど、何人もの人に可愛がられました。ありがとうございます。おかげで、なんとか初心を忘れることなく、故郷の地でそれなりに真面目に弁護士としてやっています。
 1969年1月18日からの安田講堂攻防戦は、当時、空前の視聴率を誇りました。まさに世紀のスペクタクルショーでした。しかし、それは、警察と全共闘の共同演出にほかならないものです。著者は、次のように評しています。
 その姿は醜い。これは革命ではなく、新しい世を創り出す情熱でもなく、ただ国家権力に反抗してみせるだけの、戦争ごっこだ。大学当局も機動隊も、一人の死者も出さずに封鎖を解除せよと命じられているのを、つまりその暴力はテロでも革命でもなく、単なるお遊びとして嘲笑されていた。逮捕された学生は、楽しい戦争ごっこをした子どもたちのように平然としていた。
 全共闘に共鳴する精神科の医師は、次のように驚くべきことを言った。
 あらゆる精神病者は、体制に反対するゆえに革命家である。だから、あらゆる精神病者は即時解放して、自由を与えよ。体制に対して反対する者は狂人にならざるをえないのだ。精神病質、人格障害、変質者は、この世に存在しない。それを存在すると主張するのは、権力者におもねる犯罪学者という、政治的・権力迎合の人々である。
 いやあ、ひどいですね、信じられませんね。それこそ「狂って」います。
 医学生時代にセツルメント活動をしていたかつての貧民窟は、今では集合住宅とビルの新式の街に変わっている。著者がセツルメント活動をしていたのは、メーデー事件のあった1952年のころ、今から17年も前のこと。そのころ23歳だった青年は、今や40歳のおっちゃんだ。
 全共闘の学生は、個人主義を認めず、いじめの対象にする。まるで戦争中の特高みたいな連中だ。全共闘という学生たちが暴れ狂って学園紛争が全国におこり、大学が破壊されると思わせたのが、大学はかえって強固となり、紛争はウソのようにおさまった。いったい全共闘は何をしたのか?
 2.26の青年将校たちの叛乱と全共闘はよく似ている。全共闘の目ざした大学解体、産学協同反対、高度成長反対は、大学を強固にし、産学協同を促進し、高度成長を現実のものにしてしまった。革命家気取りで全共闘は暴れまわったが、実際には、彼らの敵を結束させて反革命の国家へと向かわせてしまった。
 この世の中の風潮という奴、流行という奴、悪魔のささやきは、一群の若者たちを狂わせるが、それは決して長続きしない。
 いやあ、こう言われると、そうだよねと言いつつ、怒れる若者すべてが全共闘だったかのように受けとられても困るんだよねと、つぶやかざるをえません。
 著者は、学生時代には、戦後の貧困を放置した政府を攻撃してセツルメント運動なんかに夢中になり、貧困者の犯罪に興味をもって犯罪学なんかの研究をし、もちろんベトナム戦争には反対し、今の政府の企業優先の政策にも批判的でした。ところが、全共闘の学生からは、政府と権力者寄りの反動学者とみなされるのです。
 全共闘の学生たちが全員まったく同じ思想をもっていて、それに反対する人間はすべて反動ときめつけるのは異様に思われる。これでは、まるで戦争中のファシズムそっくりで、自分たちの思想に反対な人間は撲滅しようとして暴力をふるう。
 安田講堂内に立て籠もっていた学生は、ほとんど毎日、惰性で過ごしていたのであり、討論、総括、相互批判、自己批判という言葉のイメージでは語れない。美化しすぎるのは単純すぎる誤りだ。
 1968年に起きた東大闘争の全貌を知りたいと思った人には、『清冽の炎』(第1〜4巻。花伝社)を強くおすすめします。
(2008年3月刊。2300円+税)

2008年5月 9日

戦争のリアル

著者:押井 守、岡部いさく、出版社:エンターブレイン
 イギリス空軍の爆撃機兵団をボマーコマンドといい、1939年から1945年までの6年間に、爆撃機搭乗員だけで5万5000人が死亡した。イギリスの各軍種のなかで、いちばん死者が多かった。陸軍の歩兵より死ぬ確率が高かった。
 いやあ、そうだったんですか、そんな事実をちっとも知りませんでした。ドイツの高射砲弾が飛行機にあたってパイロットがやられたら、相当な確率で爆撃機が落ちて、搭乗員は全員死亡した。
 戦闘機乗りのエースというのは、何度でも不時着できたこと、生還できたからのこと。エースは例外なしに何度も何度も撃墜されている。一回も落とされなかったエースなんて存在しない。
 いやあ、そうだったんですか。道理で日本のゼロ戦などのエースがあまり知られていないのですね。だって、すぐに死んでしまうのですからね。
 この二人は、かなりの軍事オタクのようです。戦車もヘリコプターも、絶対に故障するものだと強調しています。本当なんでしょうか・・・?
 日本の90式戦車は、あらゆる意味で中途半端だ。市街戦を想定すると、明らかにオーバースペックだし、シャーマン戦車のように移動トーチカとして考えると、あの程度ではダメだし・・・。
 ヘリコプターはメンテナンスが多くて面倒だし、燃料をバカ食いして、すぐ落っこちる。そのうえ、運べる兵士もたいした人数ではない。ヘリコプターは、ものすごく脆弱なもの。
 日本の軍事技術で世界に売り物になるのは、護衛艦とヘリコプターと潜水艦だけ。ライフルも戦車も全然ダメ。
 陸上自衛隊の64式小銃は命中精度がよかった反面、よく装弾不良を起こした。
 世界の軍隊で自国の拳銃をつかわないところは、いくらでもある。まともな拳銃をつくれるのは、オーストリアとチェコ、イタリアそして北欧くらいのもの。それくらい拳銃というのは複雑な機械なのだ。
 猟銃もバカにならない。その信頼性は抜群である。クマを撃つような銃は、弾が出なかったら、即、命とりになるのだから。最初の一発が、すぐ撃てるのが絶対条件だ。
 北朝鮮のテポドン1発に対してPACー3を100発用意したって、そんなものはなんの役にも立たない。動いている目標にあてるってことは不可能。
 戦車で何かを得た国なんて、ひとつもない。
 日本の自衛隊は、携行糧食として200万食を用意している。賞味期限の切れたものは、一体どう始末しているのか? 私も、知りたいですね、これって・・・。
 軍事オタクの2人が勝手気まま気楽に放談した対談集です。軍事に疎い私の知らないことがたくさん登場してきました。
(2008年3月刊。1700円+税)

貸し込み(下)

著者:黒木 亮、出版社:角川書店
 日本の裁判がいかにあてにならないものか、いやというほどあからさまに見せつけられます。どうやら著者自身の実体験にもとづく小説のようです。少し前の新聞に著者インタビューがのっていて、それで知りました。
 ファックスの日付なんて、ファックス機の入力データを変えれば、いくらでも操作できるじゃないか。
 うひょー、そ、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。デジタル・カメラによる写真はあてにならないというのは聞いていました。フィルム・カメラによる写真だと、そう簡単に合成はできませんが、デジタル・カメラだと、パソコンをつかえば合成写真なんて簡単なのです。
 この本は銀行の貸し手責任があるのかないのかを厳しく追及しています。日本の銀行はコンプライアンス、つまり法令にしたがった貸付と回収をしていない。そんな銀行はまともじゃないという叫びです。
 ところが、それを国会で激しく追及した議員は女性スキャンダルで蹴落とされてしまうのです。いやあ、これもよくある話ですね。銀行からいいようにあしらわれた被害者は、銀行との裁判の過程で、自分の弁護士を何回も変えていきます。要するに、その弁護士に能力があるかどうかというより、自分の主張をどれだけ法廷で陳述・敷衍してくれるかどうかという基準で変えていくわけです。その結果、どうなるか?
 長い準備書面に書かれているのは、何の論理も、説得力もない、感情の赴くままの罵詈雑言(ばりぞうごん)の羅列であった。目を三角に吊り上げた依頼者の喚き(わめ)き散らしを、そのまま文章にしただけ。
 いやあ、たしかに、これと同じような弁護士がたしかにいます。依頼者の言うことを 100%、いや120%裁判所に伝えることが弁護士の役割だと思いこんでいるのです。私は、決してそうは思いません。社会正義というのは、依頼者の思いとは少し違ったところにある場合もあると思うのです。依頼者とは十分に話し込みますが、ときには辞任するしかないということもあります。
 脳梗塞患者に21億円も融資し、その大半が両建て、しかも、保証人の署名は偽造、借入申込書は銀行員が書いた。これは、明らかに犯罪行為だ。
 大銀行のなかに犯罪がまかりとおっているのですね。
 ところが、被害者が勝つべき事案なのに裁判所は敗訴判決を下します。大銀行を救済したのです。法廷で重要証人の尋問途中に居眠りをしていた裁判長による判決です。
 とにかく常人の理解を超える判決だ。こんなんだったら、最初から裁判なんかやっても意味はないよな。なんだか、日本はダメな国だね・・・。
 35年間、日本で弁護士をしている私も、この指摘にはかなり同感です。国、行政、大きいところには弱いのが日本の裁判所なんですね。まったくいやになってしまいます。
 ところが、勝ったはずの大銀行が昨今の企業買収により、別の大銀行の傘下に入ることになり、裁判担当は早急に和解して決着することを命じられます。悪は長続きしないものですが、いつもそうなるとは限らないのが残念ながら現実です。
(2007年9月刊。1400円+税)

2008年5月 2日

我らが隣人の犯罪

著者:宮部みゆき、出版社:新潮社
 すごいですね、さすが宮部みゆきです。
 最初期の作品群だそうです。いやあ、まいりましたね、これが宮部みゆきの駆け出しのころの小説だなんて・・・。すごいのです。いえ、すご過ぎます。
 推理小説なので、その展開をここで紹介するわけにはいきません。なーるほど、なるほどと、ひたすら感心するばかりです。
 タウンハウスの隣人が愛人稼業の女性。ところがキャンキャンと、うるさく吠えるスピッツを飼っている。やがて、そのスピッツを黙って始末してしまおうということになり完全犯罪を企みます。そして、そこで起きたことは・・・。予期せぬ結末です。
 次の「この子誰の子」も、すごいです。特別養子という、誰が父親なのか分からないシステムを破る、そんな話です。その着想と展開がすごいですね。
 読み終わってみると、なーるほど、と思わせる顛末を不自然さを感じさせずに、次はどうなるのだろうかと、ぐいぐいひっぱっていく著者の筆力には感嘆するばかりです。
 ジャーマンアイリスの爽やかな青紫色の花が次々に咲いています。茎がすっくと伸びて華麗な花を次々に咲かせて目を大いに楽しませてくれます。隣に純白の花も可憐に咲いていて、お互い同士で引き立っています。福岡県弁護士会館の通用口のそばに咲いているジャーマンアイリスは私が持ち込んだものですので、一度みてやってください。
 黄色のアイリスが気品にみちみちて咲いています。その隣には小さな紫色のシラーの花がここぞとばかり美しさを誇っています。ただし、もうすぐしたら、エンゼルストランペットの日陰になってしまうのです。
(2008年1月刊。1400円+税)

2008年4月30日

携帯電話はなぜつながるのか

著者:中嶋信生、出版社:日経BP社
 私も、もちろんケータイは持っていますが、実のところ一日一回もつかいません。自分でかけることもないし、かかって来ることもありません。依頼者には絶対教えないし、知っている人でもほとんどかけては来ません。いつもカバンの中に入れていますので、鳴っていても気づかないことが多くあります。それでもケータイを持ち歩くのは、公衆電話がすごく少なくなったからです。小さな裁判所からは公衆電話が撤去されてしまいました。福岡地裁本庁にもいくつかしかありません。相手方と交渉するときには私のケータイ・ナンバーを知られたくないので、必死で公衆電話を探します。ホント、苦労します。
 そんなケータイですが、いったいなぜこんな薄っぺらな機械ですぐに全国にいる人と通話ができるのか、不思議でなりません。それに、最近よく目立つケータイ用のアンテナ塔。低周波公害が問題となりましたが、電磁波公害はどうなんでしょうか。なぜ、あんなに高密度にあちらこちらにアンテナ塔が必要なのでしょうか・・・。
 ケータイは、多くの装置やノードビルを経由してつながっている。
 NTTドコモのFOMAは、屋外に3万5000局、屋内にも1万の無線基地局がある。郵便局は全国に2万、小中学校は3万4000校ある。それと同じくらいの多さだ。
 ケータイの特徴は、音声とデータの2本立て。ケータイの本質は次の3つ。移動すること。電波をつかうこと。
 ケータイがどこにいても瞬時に相手を見つけて着信できる秘密はホームメモリーにある。
 ケータイは、途中に大きなコア・ネットワークという有線のネットワークが介在している。ケータイは、音声を5K〜10Kbpsという低速で送る。
 ケータイは、いつでも送受信できる状態にしておくと電池がすぐになくなってしまう。そこで、待ち受け時には着信に必要な最小限の機能だけを動作させておいて、送信機には通電しないように工夫している。つまり、ケータイは必要なときだけ通電し、あとは通電せず、電池の消耗をおさえる間欠受信と呼ぶ技術をつかう。
 ケータイと無線基地局との間は電波で接続している。しかし、無線基地局から先は、光ファイバーなどでつないで、いくつかの装置をつかって、相手の最寄りの無線基地局まで音声を伝送している。
 ケータイで音を送るときに欠かせないのが音声コーデック。アナログの音声をデジタル・データに変換する機能・装置のこと。
 音声通信は、会話が不自然にならないように、送信から相手に届くまでの遅延を0.1秒以下におさえたリアルタイム通信が必須条件。データ通信では1秒や2秒遅れても差し支えない。そこでデータ通信はパケット通信をつかう。パケット通信は、待ちの時間をつかうので、リアルタイムの通信はできない。
 音声データをブロックに分割したあと、特徴を抽出して音量や波形を分類する。符号化装置は、さまざまな波形を記録した辞書をもっており、送信しようとする波形にもっとも似た波形のパターンを波形情報のかわりに相手に伝送する。音量など、ほかの 情報も並列に伝送する。
 受信側は、送られてきた波形コードにしたがって辞書を引き、元の波形を復元する。この方法によって、伝送すべき情報量は非常に少なくてすむ。音声品質の良さは、辞書の良さにかかっている。
 結局のところ、よく分かりませんでしたが、なんとなくイメージがつかめたところもあります。基礎的な知識がないと分からないという典型ではありますが、それでもあきらめずに、今後とも、この種の本にも挑戦します。
(2007年7月刊。2400円+税)

読む力は生きる力

著者:脇 明子、出版社:岩波書店
 ほんとうにすばらしい本は、読む人を自分だけの世界に閉じこもらせるのではなく、書き手と読み手とを人間的な共感でつなぎ、何か大切なものを受け取ったことによって開かれた新しい目で、まわりの世界を見直すように促す。
 人間の生存に不可欠な衣食住だが、人間は、それだけでは生きていけない生きものだ。
衣食住に加えて何が必要かというと、それは自尊心である。自尊心とは、自分には生きていくだけの価値があると思うこと。この世のなかで、いくらかの場所を占領し、食べものを食べ、水を飲み、空気を吸っていきていてもかまわないのだ、と思うこと。そう信じられなくなったとき、私たちは生き続けるために必要な気力を失い、ときには生命を絶つことさえある。
 私たちに一生にわたる自尊心の基盤を与えてくれるのは、幼いときに育ててくれた親や、それにかわる人々の、無条件の愛情だ。ところが、幼稚園や保育園などの集団に入ると、親の愛の上に築いた自尊心は、もろくも崩れてしまう。自分にとっては絶対であった親が、世の中のたくさんの人たちの一人にすぎないことが見えてくる。そうだとすると、その親に保証してもらった自分という存在の値うちも、ちっぽけなものにすぎないことが明らかになってしまう。そこから、子ども自身による、自尊心回復のための戦いが始まる。それは、なんでも自分が一番だと言いはじめたりすることにあらわれる。しかし、それは、子どもなりの自尊心回復の手段なのである。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そういうことだったのか。この指摘に、私は思わずうなってしまいました。
 想像力をトレーニングしていけば、やがて、言葉による描写から人物や情景を思い浮かべることもできるようになる。これは、本を読むのに不可欠な力であって、読書が苦手だという子どもの大半は、この力がうまく身についていない。
 想像力は、とっぴな空想をめぐらす力なのでは決してなく、現実の世界で先を予想して計画を立てたり、さまざまな人とうまくコミュニケーションをとったりしていくうえで、万人に必要な能力なのである。そ、そうなんですね・・・。
 子どもには旺盛な好奇心とともに、臆病さもあって、一度何かでつまづくと徹底してそれを避けようとし、そのために世界を狭めがちになる。子どもは、柔軟であるかと思うと、ささいなことが原因で、とんでもない偏見をいだくことも多い。
 子どもが狭い世界に閉じこもろうとしているようなら、うまくその偏見をときほぐし、新しい出会いのチャンスを増やしてあげるべきだ。それもまた、冒険の付添人としての、身近な大人の果たすべき役割だ。
 なーるほど、これは、偏食についても言えることではないでしょうか。大人が、何でも、おいしい、おいしいと言って食べていると、子どもも安心してどんなものでも食べるようになると私は思います。
 いまの子どもたちを取りまく娯楽の多くが、情報満載の型である。子どもたちは、たっぷりと盛り込まれた情報を読みとって楽しんでいるのではなく、情報が満載されたにぎやかさを、感覚として喜んでいるにすぎない。
 情報量の多さを子どもを喜ぶようになったのは、映像メディアつまりテレビの影響だ。 映像は本に比べて、はるかに大きな力で見る者をとりこにする。映像を見ながら、物事を筋道立てて考えるというのは、非常に困難である。
 読書力は、全体を見渡して論理的に考える力を身につける。
 なーるほど、そうですね。そうだよね、と思いながら読んだ本です。
(2005年1月刊。1600円+税)

2008年4月28日

ひきこもりの著者と生きる

著者:安達俊子・尚男、出版社:高文研
 すごいですね、私にはとてもこんなことはできません。すごい、すごーい、なんとかして続けてほしいです。でも、本当に身体を大切にしてくださいね。何年も自宅に引きこもりの生活をしていた青年たちを受け入れる施設(ビバハウス)なのです。この本を読むと、その大変さが、ひしひしと伝わってきます。
 ビバハウスで生活する若者たちは、春はつらいと言います。なぜか?
 自然界が生気に満ちあふれている春が、自分たちにとっては一番つらい時期なんだ。
 では、一体、どんな若者たちなのでしょう?
 進学高校で陰湿ないじめにあい、2年の3学期で退学した。極度の対人恐怖症となって、7年間、自宅にひきこもっていた。
 風俗バーのマネージャーをやっていた。ストレスに耐えられなくなり自殺しようとした。 統合失調症として治療を受けている。
 10年ものあいだ自宅に引きこもっていた若者もやって来た。いやあ、大変な若者たちです。
 ビバハウスは、若者たちがいつまでも留まるところではない。ひと時、疲れた心と身体を休め、充電を図り、それぞれが目ざす道へと進む準備をする場所。それに要する時間は、さまざま。自分の目標が達成できたら、卒業できる。ビバハウスに滞在して3日間とか 1ヶ月で自分を取り戻した人もいる。だから、ビバハウスは出入りが激しい。
 日本語のひきこもりは、直訳英語の Social Withdrawal とは表現できない。きわめて日本社会に固有の現象である。
 ビバハウスでも、両親の離婚にかかわる若者たちを受け入れてきた。どの若者にも共通しているのは、仲の良い両親のもとで幸せな家庭の子どもとして育ちたかったというごく当たり前の願いだ。繊細で優しい彼らの多くは、親たちの不和の原因は、自分がほかの家庭の子どものように良い子ではなく、学校に行けなかったり、親の言うとおりにきちんと勉強ができないからではないかと不安を感じて育っている。両親に仲良くなってもらおうと、彼らの多くは自分の力以上にがんばって、ほとんどつぶれかかっているにもかかわらず、なお親への期待をもち続ける。その期待が現実に裏切られたときの彼らの心の闇の深さを真剣に大人は受け止める必要がある。
 うーん、これってすごく重たい指摘ですね。
 長く引きこもっている若者が、人と接触することに慣れてくると、話したくてしようがなくなる。そして、いろんなことを知りたがる。ちょうど、3、4歳児が、親に、「これ、なに?」「あれ、何?」と訊くのと同じ。
 長くひきこもっていると、筋肉が衰えてしまっている。椅子から立ち上がることもできない。
 散歩していると、周囲にいる人々の視線が目に刺さる。初めて列車に乗ったとき、まわりの視線を感じて、怖くて生きた心地がしなかったという。
 小樽水族館へみんなで見学に行ったとき、館内での見学のあと、イルカのショーをみてから、若者たちの表情が一変した。固く、何も言わない。帰りの車中は、お通夜のようになった。なぜか?
 同世代の大勢の幸せそうなカップルや子ども連れの若い夫婦に広い会場で出会い、ショックを受け、本当につらかった。輝いているあの人たちと比べ、現在の自分の惨めさをいやというほど味わわされた。あそこから逃げ出したかった。自分は、今いったい何をやっているのだろう、そう思うだけで自己嫌悪に落ち込んだ。
 日本全国に数十万人はいるだろうと言われている引きこもりの若者たちに、その立ち直りのきっかけを与えようとして奮闘努力中の施設の現状がよく分かります。あのヤンキー先生(なぜか、今では自民党の国会議員です・・・)を教えていた先生でもあります。すごい、すごいと思いながら読みすすめました。個人の善意と体力だけにまかせていいとは、とても思えません。ともかく、お体を大切にして、続けてくださいね。
(2008年1月刊。1600円+税)

2008年4月17日

自衛隊の国際貢献は憲法9条で

著者:伊勢?賢治、出版社:かもがわ出版
 現在の日本国憲法の前文と第9条は、一句一文たりとも変えてはならない。
 これが著者の結論として言いたいことです。なにしろ世界の戦争現場に臨場してきた日本人のいうことですので、説得力があり、迫力があります。
 いやあ、日本人の男にも、こんなにたくましい男性がいたのですね。ほれぼれ、します。
 著者は戦火のおさまらない東チモール(インドネシア軍と戦いました)に派遣された国連平和維持軍を統括し、アフリカのシエラレオネでは国連平和維持活動の武装解除部長として何万人もの武装勢力と対峙し、アフガニスタンでも日本政府の代表として同じく武装解除に取り組んだのです。その体験をふまえて、護憲的改憲論から、すっきりした護憲の立場に変わったというのです。では、一体、どうして変わったのか。素直に耳を傾けてみようではありませんか。
 著者は、改憲派も護憲派も現場を知らなければいけないと強調しています。そのうえで、日本国憲法9条を生かしてこそ、日本は外交できるというのです。その言葉には圧倒的な重みがあります。
 普通、国家の武力装置というと、軍か警察をさす。そして、軍と警察の役割分担は明確で、軍は領土・領海・領空を守る。つまり、外敵に対して国を守る。いわば、国境の問題を担当する。一方、警察は日常の暮らしを守る。警察は、毎日、市民の隣にいるけれど、軍はいない。軍は国家有事のためにある。ところが、途上国では、この2つの区分けが難しい。この2つの役割分担があいまいな複数の武力装置が存在することには危険性もある。
 著者は、1988年から4年間、シエラレオネにいて、NGOで福祉や開発の仕事をしました。内戦が広まっていった時代のことです。
 シエラレオネは、世界でも最良質のダイヤモンドの産地であり、チタンの原料の産出国でもあるから、本来は豊かな国であっていいはず。ところが、世界最貧国のままだった。その原因は腐敗にある。国の富は、外国企業やそれに結びついた一部の政治家と官僚によって国外へ持ち出されていく。そして、現場で虐殺を指揮した指揮官400人全員が免責された。しかも、トップは副大統領になり、ダイヤを所管する天然資源大臣を兼任した。
 ひゃー、すごいことですね。これって・・・。
 アフガニスタンでの武装解除は2005年に完了した。もと北部同盟側の軍閥勢力6万人以上が武装解除された。ところが、現在のアフガニスタン情勢はどんどん悪化している。武装解除は完了したが、治安改革の分野では武装解除が生んだ力の空白が埋められずに、タリバンが復活し、治安情勢が極端に悪化している。
 著者はアフガニスタンでの経験から、日本は憲法9条を堅持することが大切だと確信するようになったのです。
 アフガニスタン人にとっての日本のイメージは、世界屈指の経済的な超大国で、戦争はやらない唯一の国というもの。もちろん、アフガニスタンの軍閥が憲法9条なんて知るはずもない。しかし、憲法9条のつくり出した戦後日本の体臭がある。9条のもとで暮らしてきた我々日本人に好戦性のないことは、戦国の世をずっと生き抜いてきた彼らは敏感に感じる。そういう匂いが日本人にはある。これは、日本が国際紛争に関与し、外向的にそれを解決するうえで、他国にはもちえない財産だ。そんな日本の特性のおかげで、よその国には絶対にできなかったことをアフガニスタンでできた。これは美しい話ではなく、誤解なのだ。そこに、悲しさがある。 
 日本は、アフガニスタンの武装解除のため、100億円を拠出した。つまり、アフガニスタンの軍閥が武装解除されたのは、日本のお金があったればこそのことなのである。
 日本は、憲法9条があったからこそ、軍事的な貢献は難しいということで、お金を出すことに集中した。お金を出してきたことは、日本が恥じるようなことではない。
 先進国の中で日本だけがもっている特質は、中立もしくは、人畜無害な経済大国というイメージである。したがって、日本にとってもっとも重要な判断基準は、憲法9条にもとづく外交という特徴が維持・活用できるのかどうかということになる。海外へ自衛隊を派遣することによって、それが台なしになるなら、それは日本の国益にならない。
 傾聴に値する貴重な本です。150頁たらずの本ですから、重たい内容にもかかわらずさらっと読めます。ぜひ、手にとって読んでみてください。
(2008年3月刊。1400円+税)

2008年4月15日

仲間を信じて

著者:小林明吉、出版社:つむぎ出版
 面白くて、とても勉強になる本です。読んでいるうちに、思わず背筋を伸ばして襟を正し、粛然とさせられます。でも、決してお固い本ではありません。
 大阪そして奈良で労働運動一筋に生きてきた著者を弁護士たちが何十回もインタビューし、苦労して一つの物語にまとめた本です。ですから、まるで落語の原作本を読んでいる軽快さもあります。
 著者は今年、満77歳の喜寿を迎え、今なお労働分野の第一線で活動しています。同じ年に生まれた、私の敬愛する大阪の石川元也弁護士から贈呈された本です。一気に読みあげてしまいました。
 労働組合運動の活性化を志すすべての人に、そして労働事件に関わる多くの弁護士に読んでほしいという石川弁護士の求めにこたえて、私はとりあえず5冊を注文しました。本が届いたら、身近な弁護士と労働運動の第一線でがんばっている人に届けて読んでもらうつもりです。
 著者は初め、大阪でタクシーの運転手として働きました。当時、ゲンコツというシステムがあったとのこと。水揚げの一部を会社に納めず、自分のものにしていたのです。
 制服の右ポケットは会社への納金用、左ポケットはゲンコツ用。会社に納金するよりもゲンコツの方が倍くらい多いこともあった。雨が降ったり、風が吹いたりすると、もっと多かった。いやあ、ひどい話ですね。まるで信じられない牧歌的な時代があったのですね。
 タクシーの世界は奥が深い。客と知りあって出世した人も多い。信用が大切で、ついに証券屋になった運転手もいる。当時のタクシー運転手は、よく稼げた。しかも、それも調子のいいときだけ。事故にあったりしたら、もうどうしようもない。そこで労働組合をつくらなアカンという話になった。20代の著者もその中心人物の一人になった。
 組合を結成した。1960年ころは、1年半のうちに22回も、全国統一行動に参加していた。苦しくてヒマだったから。毎日が退屈で仕方なかった。だから、今日は統一行動だというと、みんな目が輝いた。デモ行進で、往復8キロ歩いても平気だった。
 著者は1967年3月、警察に逮捕されます。ちょうど、私が大学に入る年のことです。会社の労務係をケガさせたというのです。石川弁護士らの奮闘で一審は完全無罪となります。この裁判闘争のとき、裁判所前に長さ25メートルもの横断幕をかかげたというのです。無罪判決を求める運動のすごさですね。6年間の裁判闘争でした。今も福岡地裁の前に横断幕をときどき見かけますが、そんなに大きいのは見たことがありません。
 著者は全自交大阪地連組織争議対策部長として、丸善タクシー事件に関わります。社長が夜逃げしたため、残された従業員が自主管理したのです。そのとき社会保険について、労働者負担分はちゃんと納付したものの、企業負担分は、保留しておいたのです。それが、なんと数千万円にもたまり、結局、争議の解決金として組合側がもらえたというのです。すごい発想です。
 オリオンタクシー事件のときは、会社が倒産したと聞いたニッサンはまだ従業員がつかっているのに、車を差押さえて執行のシールを車に貼っていった。トヨタはそんなことはしない。執行官から、車に貼ったシールをはがすと犯罪になると警告された。さあ、どうするか。運転手たちは車を一生懸命に洗ってピカピカにみがいたのです。ホースで水をかけてモップで洗っているうちに、なぜかシールは自然にはがれていく・・・。うむむ、おぬし、やるな、という感じです。
 著者は、大阪から奈良へ活動の舞台を移します。奈良のタクシー会社に労働組合をつくるために大阪から派遣されたのです。大阪の組合がずっと著者の給料を出したというのですから、えらいものです。いま、東京でフリーターの若者を労働組合に加入してもらおうという動きがあります(首都圏青年ユニオン)。それに弁護士もカンパしていますが、同じような発想です。
 労働基準法違反のひどい会社に対して正当な要求をつきつけたところ、会社は労基法は守る。その代わりに残業は一切させないと対応してきました。残業できなかったら、労働者にとって一大事です。でも、これくらいでヘコむようでは組合活動なんてできない。労基署に要請行動すると、署長は「組合に要求を突きつけられて残業させないのは違法だ」と明快な回答。そして、会社に対して是正指導した。ひゃあ、これってすごいことです。当時はホネのある労基署幹部がいたのですね。
 納金ストをしたという話が出てきます。初めて聞く言葉です。つまり、会社に納金せず、組合が料金を保管するのです。下手すると業務上横領という刑事事件になりかねない行為です。だから、組合はきっちり現金を管理しなければいけない。売上は組合の名前で銀行に預け、売上日計表をつくって会社に通知しておく。な、なーるほど、ですね・・・。
 労働組合の団結にも、強・弱と、上・中・下がある。 組合ができるときは、緊張と興奮が続き、感情が高ぶり、感情的団結がうまれる。社長はけしからん。賃金が低い。労働時間が長い。このような興奮状態から生まれる団結水準。しかし、いつまでも感情的であってはいけない。組合も時間の経過にともなって成長していく。勉強を積み上げてだんだんに意識が向上していく。つまり、努力次第で、意識的団結へと成長する。ところが、意識的団結に高まっても、何かの事情で勉強回数を減らしたり、止めたり、リードする幹部がいなくなると、その団結が揺らぎ出す。
 したがって、労働組合が目ざすべき団結は、思想的団結である。幹部は目的意識的に一般組合員との人間関係を大切にしなければならない。そして、幹部は人間としても信頼されなければならない。礼儀・恩義に無頓着、金銭にルーズ、サラ金の常連というのでは困る。労働態度(働き方)も大切。職場の模範である必要がある。
 孫子の兵法に学べ。著者はこのように言います。有利、有理、有節。有利とは、その要求と闘いに利益があるかどうか。有理とは、理屈と根拠が正当か。有節とは、要求が正当でも、社会的に支持されるものかどうか。
 私が弁護士になって2年目のときでした。日本のほとんどの交通機関で1週間ストライキが続きました。スト権ストです。当時、横浜方面に住んでいた私は、いつもより何時間もかけて苦労して出社しました。それ以来、日本ではストライキが死語同然になってしまいました。最近やっとマックの店長は労働者かということで労働基準法が脚光をあびるようになりましたが、まだ労組法は死んだも同然です。やはり日本でも労働者が大切にされる国づくりを目ざすべきだとつくづく思います。
 石川先生、すばらしい本をご紹介いただいてありがとうございました。元気をもらいました。
(2008年3月刊。1600円+税)

2008年4月14日

物語が生きる力を育てる

著者:脇 明子、出版社:岩波書店
 私と同世代の女性の書いた本ですが、すごいなあ、なるほどそうだなあと、同感の思いを抱きつつ読みすすめていきました。
 子どもがちゃんと育つために必要なのは、一にも二にも実体験だ。言葉という道具を身につけて、それでコミュニケーションを行うというものではない。まわりの人たちを相手に、音声や表情や動作のキャッチボールをたっぷり行うことこそが、生きるために不可欠な対人関係を育て、言葉をつかう力を育てる。
 赤ちゃんに必要なのは、全身をつかって可能な限り世界を探索し、それを通じて五感を発達させ、運動能力を高めていくこと。
 幼児には、喜んで耳を傾けてくれる人、この人に伝えたいと思える人が近くにいることが必要だ。子どもの発達にとって不可欠な二つのこと、すなわち身体をつかって世界を探索することと、まわりの人たちとコミュニケーションをとることは、密接にかかわりあっており、その両方が保証されてはじめて人間的知性が身についてくる。
 問題は、これほどまでに大切な実体験が、いま子どもたちから奪い去られつつあること。その元凶は、何よりもまず、近年大発展をとげた電子メディアにある。テレビ、ビデオ、DVD、ゲーム、インターネット、ケータイが子どもの成長発達を脅かしている。
 ところで、子どもの成長には、実体験が何より大切だが、物語による仮想体験にも、場合によっては、実体験では不足するものを補う大きな力がある。
 人間には、「物語」をもっているというユニークさがある。五感で世界をとらえただけでは、物語は生まれてこない。物語が生まれるのは、語感でとらえた事実と事実とのあいだに、目で見ることも耳で聞くこともできないつながりが感じられたとき。そのつながりは、語感でとらえた世界に実在するわけではなく、いわば人間の脳のなかにだけある。
 ヨーロッパの昔話の主人公は一般に若く、日本では、じいさんばあさんの話が主流だ。
 日本の昔話に目立つのは、花咲かじい、こぶ取りじいのように、2人のじいさんを対比させる。ヨーロッパでは、3人姉妹や3人兄弟だらけ。まず長男が失敗し、次男も失敗し、最後に末っ子が成功する。ところが、日本の昔話では、まず最初のじいさんが幸運に恵まれ、それをまねた2人目のじいさんが失敗して終わる。序列がまるで逆だ。
 うへえ、そんな違いがあるのですか・・・。
 子どもは残酷性に強い。幼児期の子どもは、まずは動物として生きる力を身につけようとしていると考えられる。私たちは、人間として育つと同時に、動物としてもしっかり育たねばならず、動物の部分を切り捨てようとすると、基礎工事を手抜きした建物のように不安定になる恐れがある。
 赤ちゃんとテレビのあいだには親密な交流は生じない。人間なら、赤ちゃんが笑えば自分もうれしくなって笑顔を返し、声をかけたり身体をゆすったりして、うれしさをさらに増やそうとする。そうされると赤ちゃんは、自分の感情を肯定されていると感じ、養育者との情緒的なつながりを強めると同時に、自信をもって感情を動かせるようになっていく。
 ところが、テレビが相手だと、赤ちゃんの感情に同調してくれないし、身体的な働きかけもしてくれない。それでは、赤ちゃんはあやふやな感情しかもてないし、他者の感情を推しはかる力をうまく身につかない。
 不快感情の体験にかぎっては、物語で味わうほうがいい部分もある。子どもにいろんな不快感情をわざわざ体験させるわけにはいかないけれど、物語なら、多様な体験ができるから。
 筋だけを追う読書では、情景や心情を想像してみるヒマなどないから、想像力が育たない。思考力も記憶力も育たない。想像力を働かさなければ、感情体験や五感体験はできない。ましてや、心の居場所など、見つかるはずもない。
 これは速読術への批判です。私も本を読むのは早いわけですが、なるべく、情感を味わうようにはしています。それで、どれだけ思考力が身についたのかと問われると心もとないのですが・・・。
 早くも、1本だけですが、ジャーマンアイリスが咲きました。ビロードのようなフサフサをつけた、気品のあるライトブルーの花です。ジャーマンアイリスを植えかえようかと思っていたのですが、しないうちにぐんぐん葉が伸びて、ついに花が咲いてしまったので、なりゆきにまかせることにしました。あちこちに株分けしていますので、それらに再会するのも楽しみです。福岡の弁護士会館の裏口あたりにもあります。
 チューリップは7〜8割方は咲きました。毎朝、雨戸を開けるのが楽しみです。チューリップの赤や黄色そしてピンクなど、色とりどり、また形もさまざまの花を眺めていると心がすーっと軽くなります。
(2008年1月刊。1600円+税)

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