弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2012年3月18日

なぜ日本人はとりあえず謝るのか

佐藤直樹 PHP新書 2011年3月1日


昨年末あるところの忘年会で、アメリカ文化研究家で沖縄民謡の歌い手でもある峯真依子さんと知り合い、一冊の本をプレゼントされた。それが本書である。


著者の佐藤直樹さんは世間学の大家である。世間学とは世間の空気を研究するという不思議な学問である。その学問の本質は、「"ゆるし"と"はずし"の世間論」という本書の副題からも窺われる。


著者は本書の中で6つのキーワードを用いて世間というものを解剖する。それは「うち」「そと」「けがれ」「みそぎ」「はずし」「ゆるし」の6語である。


著者の理論によれば、人は、ふだん「うち=世間という共同体」の中にあって、権利義務ではなく、気配りによって結びついているが、「けがれ=犯罪等の不名誉な行為」があると、「はずし=共同体からの追放」にあい、やがて「みそぎ=服役、謝罪、反省」を行うことにより、「ゆるし=共同体への復帰」を得られるというのである。これは日本に独特の行動様式であり、個人と個人が権利義務の関係で結ばれる西欧の行動様式とは全く異なるというのである。


そういえば、昨年の東日本大震災の時、被災者が決して略奪に走ることなく、食糧配給所で列を作って我慢強く順番を待っている姿が、西欧のマスメディアによって称賛とともに報道された。このような日本人の規律は、法が妥当しない極限的な局面においても、世間の中で生き抜くためには、人に迷惑をかけてはいけないという気配りを欠かせない共同体ルールとしてよく説明できる。


また、著者は日本の司法にも世間学のメスを入れる。「日本の刑事司法の根幹にある「なるべく刑務所には入れない、入れてもすぐに出す」という「ゆるし」の行使にとって、その中心をなしているのは強大な検察官の権限であり、その象徴としての起訴・不起訴を検察官が自由に決定する起訴便宜主義である。」という。そして、著者は、起訴便宜主義とは「まあ、ゆるしてやるか」の制度化である、という。


なるほど、これはうなづける。私がかつて検察の世界に身を置いていた時期、起訴するか、起訴しないかの決裁の場面で、よくこんな会話を経験した。
主任検察官「これこれの事情があるので、今回は許してやりましょう」
決裁検察官「そうだな、まあ、今回は許してやるか」
まさに著者の指摘通りの世界だ。


もともと、世間学とは、世間の空気という形のないものを研究対象とするだけに、実証的な研究に馴染まないという方法論的制約が大きい中にあって、著者は思惟を巡らし、知恵を振り絞って、懸命に世間を目に見えるものにしようと努力している。その努力は、実験や実証ではなく、読み手に「なるほど」と思わせることにより、その正当性を証明する。私も本書に「なるほど」と思わせられるところが多い。著者の努力に敬服する。


さて、話を冒頭に戻して種明かしをすると、本書を私にプレゼントしてくださった峯真依子さんは、実は著者の奥さんである。こうなると、私の興味は、著者と峯さんの私生活の方に向かう。すなわち、世間学の大家の生活は、いかなるものであるのか、内なる世間とはいかなるものか、という点に、である。

くちびるに歌を

著者   中田 永一 、 出版   小学館

 この小説の舞台は長崎県の五島列島。しかも福江ではなく、上五島です。弁護士の私にとって、この五島は絶対に忘れることができません。というのも、弁護士になった4月のこと、まだ弁護士バッチも届いていないとき、日教組が時の政府から選挙弾圧を受けました。当時、関東に住んでいた私は、なぜか九州・長崎へ応援部隊として派遣されることになったのです。選挙弾圧に対するたたかいの心得だけを先輩弁護士から教えられて、不安一杯のまま長崎へ向かいました。長崎に着くと弁護士が大勢いるのに安心したのもつかのまのこと、長崎県内のあちこちに弁護士は散らばって警察への対策を弾圧の対象となっている教職員に指導・助言することになりました。五島列島へ向かったのは弁護士2人。そして、五島列島には上(かみ)と下(しも)の2ヶ所に分かれます。がーん。なんと弁護士になりたて、まだ1ヵ月にもならない私が一人で修羅場に放り込まれることになったのです。そのとき私は25歳。迎えたほうも、いかにも頼りない若いひよっこ弁護士が東京からやってきたと感じたことだと思います。それでも若くて怖いもの知らずでしたから、中学校の体育館で200人ほどの教職員に向かって演壇から聞きかじりの選挙弾圧への心得を話しました。冷や汗をかきながらの話でしたから何を話したのか、もちろん覚えていません。私の脳裡に今も残っているのは広い体育館に整列している大勢の教職員の不安そうな目付きです。
 幸いなことに上五島では日教組支部の幹部が検挙されることはありませんでした。黙秘権の行使とその意義をずっと大きな声で言ってまわったことと、五島の旅館で食べた魚の美味しかったことは今でもよく覚えています。
 この本は、その五島列島に住む中学校の生徒たちが佐世保で開かれる合唱コンクールに参加・出場するに至るというストーリーです。そのコンクールで優勝するというわけではありません(すみません。結末をバラしてしまいました)。でも、それに代わるハッピーエンドがちゃんと用意されています。
 中学生の複雑な心理状態がよく描かれていて、今どきの島の中学生って、本当にこんなに純朴なのかなあと半信半疑ながら、ええい欺されてもいいやと腹を決めて没入して読みふけりました。
歌があり、手紙があります。15歳のとき何を考えていたのか、私にとっては思い出すのも難しいことですが。15年後の自分を想像して、その自分に手紙を書けという課題が与えられたというのです。
 中学生のころは、大人になって何をしているかなんて、まったく想像もできませんでした。ただ、中学校の同窓会があったら、ぜひ参加してみたいなという気にはなりました。
 泣けてくる、爽やかな青春小説です。あなたの気分がもやもやしていたら、ぜひ読んでみてください。なぜか、気分がすっきりしてくると思います。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年3月13日

震災と情報

著者   徳田 雄洋 、 出版   岩波新書

 3.11から1年になろうとしています。3.11のとき、政府はパニックとなり、東電は真相隠しに狂弄していました。その後、少しずつ真相が明らかになっています。放射性物質を扱うことがいかに危険なことか、それは現在の人類の手に負えないものであることが次第に明らかになってきました。
 しかし、人は嫌なことは一刻も早く忘れ去りたいという本能的欲求につき動かされ、次第に怖さに慣れ、慣らされ、怒りが風化していっています。そんなとき、この本を読むと、改めて政府と東電による情報隠しを知って怒りが湧きあがってきます。
 3.11の前、ある人が雑誌のなかで、「地震のとき、日本で一番安全な場合は原子力発電所のなかです」と言ったとのこと。それほど、原発安全神話は世の中に徹底していたのでした。私も怖いとは思いつつも、まさかという気持ちでした。あってほしくないことは起きないという思いで自分をごまかしていたのです。
 3.11のあと、客観的な状況は深刻になっていくのにもかかわらず、日本のテレビと原子力工学者は、いつも、「直ちに心配することはありません」と繰り返していた。「これから私たちはどうなるのか」という質問は、スタジオでは禁句になっていた。そんなことを口にするのは礼節をわきまえない行為だった。
 日本のテレビ放送は、大きな原子力事故ではない、ただちに健康に影響はないと強調し続けた。しかし、国外の放送は、厳しい状況になる可能性があると説明し、日本から国外に脱出する人々や西日本へ避難する人々の様子を伝えていた。
 3.11の直後、アメリカ政府は80キロ圏内からアメリカ人は脱出するよう指示しました。ヨーロッパの大使館は一斉に関西に移動しました。
 日本政府は、アメリカの大型無人偵察機グローバルホークが撮影した福島第一原発の上空からの温度情報をふくむ赤外線画像を公開しないよう要請した。
 住民のパニックを防止するというのを口実に情報が隠されていったのです。
 この本は、結論として、地震の多い日本では、リスクが巨大すぎて商業的発電方式として合理的に見合わないので、原子力発電は終わらせるべきだと言っています。まったく同感です。
 コンピューター科学者が震災情報がいかに権力によって捜査されていたかを怒りをもってあばく本です。
(2011年12月刊。700円+税)

 日曜日の午後、いつものように庭の手入れをしていると、すぐ近くでウグイスが鳴きはじめました。清澄というイメージぴったりの澄んだ声です。お隣の白梅が満開に咲いているのですが、そこからウグイスの声が聞こえてきます。梅の木にいることは間違いありません。じっと動かず、目をこらして梅の枝を見つめていると、ついにウグイスを発見しました。スズメほどの大きさで、地味な色をした小鳥です。身を震わせながら鳴いている姿を初めて見ました。感激の出会いです。

2012年3月10日

空気を読むな、本を読め

著者   小飼 弾 、 出版   イースト・プレス

 同感、同感と叫びながら読みすすめていきました。
空気なんか読む時間とヒマがあったら、もっともっと本を読めと言いたい。
 本を読むことで、自分を読むのだ。これは顔色なんか読むよりも、ずっと大事なこと。
 読書は、あなたに「考えること」を教えてくれる。「読む」とは「見る」ではない。「考え」なければ本は読めない。「読めた」ということは、「考えた」ということなのである。
 忙しくしている人、端(はた)から見て忙しくしているような人のほうが、たくさん本を読んでいる。
 これは本当のことです。年間500冊以上の本を読んでいる私ですが、忙しく動きまわっているときほどたくさん本を読んでいました。私が最高に本を読んだのは弁護士会(日弁連)の役員をしている一年間で、このときには全国各地を飛びまわっていたのですが、700冊をこえる本を読みました。
 テレビを見ないのは、これからを生き抜くための方策として最強である。節約すべきは、お金よりも時間なのである。テレビを毎日見ていると、1日4時間として、時給1000円だとすると、1年で146万円も大損した計算になる。テレビをダラダラ見続けてきたことで、どれだけの時間をドブに捨ててきたか。それを悲しむべきだ。
とにかく手を動かしてページをめくることを繰り返すのが読書マスターへの早道である。理解できなくもいいから、とにかくページをめくってみる。
 私の速読術は、まさにこれです。全ページをともかくめくっていくのです。そうすると、私の求めているところだけが、私の頭の中に入ってくるのです。その選択は脳がやってくれます。
読んだら書く。アウトプットすることで、忘れられる。書いたから、この件は終わりと、けじめもつく。
そうなんです。この書評ずっとを続けているのは、まさに、そのためなのです。
(2009年10月刊。1500円+税)

2012年3月 9日

いま、先生は

著者   朝日新聞教育チーム 、 出版   岩波書店

 教師と学校の今おかれている現実を直視してこそ、日本の子どもの将来を語ることができるように思われます。手にとってずしりと重たさを感じるほど、重い内容の詰まった本でした。
 教師の忙しさの質が変わった。忙しさには、やりがいのある忙しさと、消耗する忙しさという2種類がある。子どもを指導する忙しさはやりがいがあるが、説明責任を果たすための書類づくりや、ダラダラした職員会議に追われる忙しさは消耗する。そんな、疲れる忙しさが増えている。
学校や教師に無条件で権威が与えられていた「黄金時代」は完全に幕を閉じた。親が家庭や地域、企業で直面している苦しさが、子どもを通じて、まるで玉突きのように学校に押し寄せている。
 教師層の入れ替わりが激しい。30代の教員が少ないため、若手教員の相談相手となるべき先輩が学校にほとんどいない。この10年間で3分の1が入れ換わる。今や日本の教員の大転換期を迎えている。
 昔は、校長、教頭のほかは一般の教員だった。今では、統括校長、校長、副校長、主幹、主任教諭、教諭という序列ができている。
 教員評価の時期になると、評価される側は不安になるし、他の人がどう評価されているかも気になる。
 定年前に辞める教員が全国で毎年1万2000人をこえる。2005年度から2009年の5年間で全国合計で6万7000人にもなった。
 教員が定年前に早期退職する要因は二つ。一つは、子どもや保護者、同僚との関係に悩み、書類づくりの仕事も多いため、労働時間が長くなり、その密度が高くなった。もう一つは、教員が改革の標的にされ、成果主義の教員評価の徹底など、教師を傷つける政策が進行していること。
 学校では、細かな授業時間数の報告、学級経営案など、さまざまな書類づくりという、求められる事務作業が年々ふえている。そのため、教師は、子どもと接するより、パソコンと接する時間のほうが多くなっていく。
教師の働き過ぎに歯止めがかからない。中学校の教師が学校にいる時間は、1980年に10時間近かったが、1991年は10時間40分、1997年には11時間に近くなった。2007年には、11時間45分だ。27年間のうちに2時間も在校時間が長くなった。そして、教師の睡眠時間は、7時間8分から5時間57分と、1時間以上も減った。
 小学校の教師の労働時間は教頭が12時間近く、校長や教諭は10時間。中学校では、教頭が12時間弱で、校長は10時間ほど。日本の小学校の教員は、OECD平均より年間236時間も多い。1899時間働いている。
 日本の教師は、繁忙感が大きく、仕事に対する自信喪失感が強い。
 教師の自死そして精神病疾患が増えている。とりわけ学校の保健室を頼るのは、もはや生徒だけではない。
希望降任制度の利用者が増えている。東京、神奈川県で目立つ。主幹教諭から、副校長から、そして校長から降任していく。
教員の仕事は独特だ。いくら献身的につとめようと、売り上げや利益の増加といった、目に見える「対価」がない。だから、がんばっている教員には、感謝や喜び、ときにはねぎらいの言葉をかけてやるべきだ。
 公立小・中学校の常勤・非常勤あわせた非正規教員は10万9000人(2010年)で、全体の15.6%(7人に1人)を占めている。背景にあるのは、教員を採用する都道府県や政令指定都市の多くが直面する財政難だ。
 我が子が本当に可愛いのなら、子どもを学校でずっと教え、接触している教師をもっと大切にすべきだと思います。なかには「暴力教師」であったり、「無気力教師」もいたりするかもしれませんが、それは安かろう、悪かろう政策の結果ではありませんか。もっと高給優遇し、休日もたっぷりあるようにすれば、優秀な人材が教育界にあつまり、日本の教育が劇的に改善されると思います。学力テストの成績で教師と生徒をしばりつけるやり方がうまくいくはずはありません。
学校と教師の現実の状況を知ることができました。ご一読をおすすめします。
(2011年12月刊。1700円+税)

2012年3月 8日

アスベスト 広がる被害

著者   大島 秀利 、 出版   岩波新書

 アスベストは、天然の鉱物からできた綿のような繊維の集まりで、石綿とも呼ばれる。繊維一本は、綿の繊維よりはるかに細かい直径0.02~0.03マイクロメートル、毛髪の数千分の1ほどで、一本では目に見えない。耐熱性など、さまざまな特徴はこうした材質・形状に由来している。石としての特徴と綿つまり繊維としての特徴をあわせもつアスベストは、これまで3000種類をこえる製品につかわれてきた。
 製品は、大きく工業製品、摩擦材、保温材、建材に分類される。
 日本国内でのアスベスト産業の始まりは日清戦争期にさかのぼる。戦後は1974年にピークとなり、年間35万トンも輸入した。1988年には32万トンをこえて第二のピークとなった。そして、2004年に主要製品が使用禁止となった。
 たばこを吸わず、なおかつアスベストにさらされなかった人が肺がんになる危険性を1とすると、たばこを吸った人の危険性は10倍、アスベストだけを吸った人の危険性は5倍。ところが、たばこもアスベストも吸った人の危険性は10掛け5の50倍の相乗効果になる。うひゃあ、これって怖いですよね。
 アスベストの繊維はきわめて細かいので、吸い込むと肺の奥深くに突き刺さる。これが組織に刺激を与え、平均40年という潜伏期間を経てガン化し、中皮腫を発病させる。中皮腫は、すべてが悪性と考えられ、他のがんと比べても治療が難しい。2000年からの40年間に日本でアスベスト被害によって10万人が亡くなるという予測がある。
 1980年から2003年の記録によると、南アフリカのアスベストの最大の輸出先は日本で110万トンに達した。
 阪神大震災によって建物につかわれていたアスベストが飛散した。そして、3.11の東日本大震災によって、さらに広範囲にアスベスト粉じんが広がった。
 アスベスト被害は建築現場で働く人々だけでなく、普通の民家に住む人々、学校で学び、事務所で働く人々にも広く発生する危険が今なお大きいことを改めて認識させられました。
 安価な建築資材と思って使っていたものが、こんなに危険なものだったとは・・・。静かな原発と言われるほど恐ろしいもの、それがアスベストです。
 これからはアスベスト被害をめぐる裁判を注視していくつもりです。
(2011年7月刊。760円+税)

2012年3月 6日

原発訴訟

著者   海渡 雄一 、 出版   岩波新書

 著者は現職の日弁連事務総長ですが、ながらく弁護士として全国の原発訴訟に関わってきました。
 司法は破壊的な原発事故の発生を未然に防ぐことが出来なかった。四国・松山にある伊方原発訴訟について、最高裁は次のような判断を示した。
 「原子炉施設の安全性が確保されないときは、この原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命・身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがあることにかんがみ、この災害が万が一にも起こらないようにするため、原子炉設置許可の段階で原子炉を設置しようとするものの技術的能力ならびに・・・・施設の・・・・安全性につき、科学的、専門技術的見地から、十分な審査を行わせることにあるものと解される」
 違法性を判断するにあたっては、処分の時点ではなく、現在の時点、つまり裁判で審理がなされている時点であると明示されている。そして、被告行政庁が安全に関する主張・立証を尽くさないときには、行政庁がした判断には不合理な点があることが事実上推認される。
原子力発電所は、いくら安全確保対策を充実させたとしても、事故の可能性を完全に否定することはできません。
 もんじゅをめぐる裁判については、毎月1回、朝10時から夕方5時半まで口頭弁論期日を開いた。争点に関するプレゼンテーションを実施し、裁判所は自由に心証を形成していった。
青森県にある大間(おおま)原発は日本の核燃料サイクル政策破綻の象徴のような原子炉である。この実験炉ともいうべき原子炉を建設している電源開発は、過去に原発を保有したことがない。
日本国内に設置された原発のなかで、地震や断層の影響を受けないと言い切れる原発はない。1994年から2003年までに発生したマグニチュード6.0以上の地震960回のうち、220回が日本で発生した。世界の大地震の5分の1が日本列島と、その近くで発生している。
 福島第一原発事故において、東京電力が十分な津波対策を講じなかったことは、民事上の過失のレベルではなく、刑事上の犯罪を構成する可能性も考えなければならない。あの天下に名高い東電の歴代社長・取締役をこのまま不問に付していいなんて、とうてい思えません。皆さん、いかがですか・・・?黙って見過ごしていいと思いますか。
 地震、津波による原発の損傷から炉心溶融(メルトダウン)に至った今回の事故は、あらゆる観点からみて明らかに事前に想定できたものであり、東京電力の損害賠償責任は揺るがない。原発事故による損害賠償の枠組みについては、まずは東京電力の現有資産による賠償がなされるべきである。それで不足する部分については、被災者の支援のために国が上限を定めず援助する義務を法律上確定すべきである。
原発をめぐる訴訟に自ら長年にわたって関わってきただけに鋭い論評が各所にみられる本です。ぜひ、あなたも手にとって、ご一読ください。
(2011年11月刊。820円+税)

2012年3月 4日

子どもは「育ちなおし」の名人!

著者   広木 克行 、 出版   清風堂書店

 教育学者による鋭い指摘には、はっと目が開かされる思いがします。
 いま大阪では政治の力で異常な「教育改革」が進められている。その本当の目的は、教師のなかから人間性を奪い、政治権力の僕(しもべ)として競争と管理の教育をすすめさせようとするものだ。子どもの元気や健康など、子どもの存在そのものに関心をもってるのではなく、点数化された子どもの一部の能力を見て、もっとがんばれと叱咤激励するのが教師の仕事だという。
 しかし、能力の原理だけに人間の意識が特化されていったとき、教師と子どもとの関係は深くむしばまれてしまう。
 秋葉原事件(2008年6月)を起こした青年は、小・中学校では学年トップクラスの成績をとっていた。
 人間関係の育ちを無視した頭だけの育ちは、人格の育ちを歪めてしまうものとなる。
幼児期から学力を能力を高めて教育中心の生活が強いられ、点数にこだわり、パニック状態になる子どもが増えている。
 関係をつくる力は、目には見えない力であり、点数化することができない。失敗もつまずきも経験できる豊かな関係の中でこそ、子どもたちは人間として育ち、育ちなおすことができる。
 携帯電話という情報端末が、いじめの質を非常に悪質にし、人の心を深く傷つけるものにしている。
 点数化し、序列化すると、子どもたちから遊びを奪うことになる。子どもたちがお互いに楽しく遊び育つことができるのは、子どもたちが横並びになっているときだ。点数化されると、子どもたちは、いつのまにか縦並びになっている。縦並びになると遊びが消えていく。
 教育とは、本来、一人ひとりの子どもが自分の長所と夢を育てることを支援する仕事であり、それを伸ばして実現するために知的、身体的、精神的な力を育てる仕事である。
 学校選択制や全国一斉学力テストの導入など、政府は教育を競争の手段と化す政策を一貫して強化してきた。
 競争の教育は、子どもと青年のなかに「自信の喪失」や「悲哀感」の強まりという深刻な問題を生み出す原因になっている。与えられた問題を要領よく解くだけの勉強、つまり学習と学力では自己決定ができず、自分が何をしたいのかさえ分からなくなって、自己喪失感を強める可能性がある。
 競争の教育は、子どもを点数に変え、子どもから余暇と遊びを奪い、生活を空洞化させる。それによって自己肯定感が育たず、人間としてもっとも大切な夢が奪われる。
 この本は、そんな困難な状況のなかでも、それをなんとか乗り越えていった実例がいくつもあげられ、救いがあります。読んで元気の出てくる本でした。
(2011年10月刊。1400円+税)

2012年3月 2日

「国連子どもの権利委員会最終所見の生かし方」

著者   世取山 洋介 、 出版  子どもと教育・文化、道民の会

 国連子どもの権利委員会は2010年6月、日本政府に対して第3回最終所見を出しました。
 日本の子どもたちをめぐって国連がどんなことを言っているのか、どうせたいして分かっていないんだろうなという先入観があって読みはじめたのですがどうしてどうして、思わず居ずまいをただされるような素晴らしい内容でした。
 世取山(よとりやま)洋介・新潟大学教育学部准教授の講演によって、その内容を知ることができましたので、その講演の一部を紹介します。
 1997年に日本のNGOが国連に提出した報告書は「豊かな社会、日本における子ども期の喪失」というタイトルで次のように日本を説明した。
 「豊かであるにもかかわらず、子どもたちは本来保障されるべき子ども時代を喪失している。その原因は、競争主義的な制度が子どもの生活全体を覆い、子どもたちが家庭の中でもその競争に乗るように親からプレッシャーを与えられ、ありのままに受け入れられる人間関係を失っていることにある」
 これを受けて、国連子どもの権利委員会は、次のような最終所見を示した。
 「高度に競争主義的な性格の公教育制度が発達の歪みをもたらしている」ことへの懸念が示された。本来なら子どもの人格の全面的発達を実現するはずの公教育制度が、日本においてはそれとはまったく逆に子どもの発達の歪みをもたらしているという非常に強烈な評価が示されたのである。
 今回(第3回)の最終所見に向けて日本のNGOが出した報告書のタイトルは、「新自由主義社会日本における子どもの期の剥奪」だった。これは、いくらすり寄っても成果を上げなければご褒美がもらえないという新自由主義社会の構造が、家庭や公教育にまで浸透し、新たな困難を子どもに引き起こしていることを告発するものである。
 最終所見は、「本委員会は日本の学校制度が並み外れてすぐれた学力を達成していることを認識しているものの、学校および大学の入学をめぐって、競争する子どもの数が減少してるにもかかわらず、過度な競争への不満が増加していることに留意・懸念している。本委員会は、また、高度に競争主義的な学校環境が就学年齢にある子どもの間のいじめ、精神的障害、不登校・登校拒否、中退および自殺に寄与しうることを懸念する」と指摘している。
  そして、日本のNGOは、この10年間、日本の子どもたちの状況を海外の人に説明する場合に、四つの指標を使った。いじめ、不登校、校内暴力そして、自殺である。これは非常に競争主義的な学校に対して、子どもがとる対応のパターンをうまく表現するものとなっている。いじめはプレッシャーの他人への転嫁。不登校はプレッシャーの忌避。校内暴力はプレッシャーを与える相手の破壊、つまり原因の暴力による除去。そして、自殺はプレッシャーを感じる自分の破壊を意味する。この四つの指標の推移をみていくと、日本の子どもたちが直面している問題がわかる。
 最終所見は伝統的な困難に加えて、新しい困難も懸念として指摘した。パラグラフ60では、「本委員会は驚くべき数の子どもが情緒的幸福度の低さを訴えていることをしめすデータならびに、その決定要因が子どもと親及び子どもと教師の間の貧困さにあることを示すデータに懸念し、留意する」と書かれている。「情緒的幸福度の低さ」とは何か。ユニセフが行った調査で15歳未満の子に「あなたは寂しいですか」と訊いたところ、はいと答えた子供が、OECD諸国の平均値は7パーセントだったのに対して、日本では30パーセントを越えた。すなわち情緒的幸福度の低さとは、子どもが感じている「孤独感」のことなのである。
 子どもは、生まれた時から周りに働きかける能力をもっていて、そこから自分の欲求を満たすものを引き出して、それを内面化して、成長していく。そして、子どもの欲求表明に応答する大人との関係があってはじめて、このような主体性が生きたものになる。つまり、大人に依存して初めて主体的になりうるというのが、子どもの特徴である。
 子どもが事実としてもっている主体性を保障できるような人間関係をきちんと子どもたちにつくることが、子どもの権利の中核とならなくてはいけない。
 大切なことは、子どもの自己決定でもなく子どもを支配することでもなく、子供が主体的でありえるような人間関係をきちんと子どもに保証していく、それにもとづいて子どもの成長発達を、すべてのところで、家庭でも学校での現実しているくということである。
 では、子どもでは子どもの権利が実現されている、というのはどのような形をとっているのか。学校で子供の権利が実現されているかどうかを見極めるには何を見るのが良いのか。授業を始めると流れるような会話が教師と生徒との間で展開しているのかどうかが鍵になる。
 教壇に立って教材を子どもの前に呈示すると、子どもたちから面白い、面白くない、あるいは、わかる、わからないといった反応がすぐさま起き、それに自分が応答すると、次の会話が展開していく。次々と会話が流れ、いつの間にかチャイムがなって「はい終わり」となっているかどうか。
 子どもの自己決定論は基本的に間違いである。子どもが子どもであるということを無視して、子どもが大人と同じであることを強調したところで、日本における子どもの問題は解決しない。
 子どもに、大人がもっている権利―これは一般人権といわれる―子どもに拡大することではなくて、大人にはない子どもの固有の権利を日本社会にきちんと確立するためにこ子どもの権利条約を使うべきである。この条約は子ども固有の権利を軸にして成立していると理解することが正しい。
 自己決定権は、独りぼっちになれる権利である。独りぼっちになって決定を下し、その決定から生まれる事態に対して一人ぼっちで責任をとるということである。
 近代人権のエッセンスである自己決定権と比べたときに子どもの権利条約が画期的なのは、子ども時代は〝自律した個人″である必要はなく、逆に、依存してもかまわないし、依存しているべきなのだということをはっきりさせた、ということにある。
 「指導」という言葉は、日本政府代表が国連子どもの権利委員会による審査でたびたび用いてきた言葉である。「指導」の名の下に、大人が子どもの欲求をありのままに受け入れて、子どもの成長発達を実現するための活動を行っているのではなく、逆に、大人の欲求を子どもに押しつけていることへの懸念が今回の最終所見で示されている。
 自分のなかに、自分のことを肯定する自分、なぜ今のままで良いのか、なぜ変わらなければいけないのかを説明してくれる自分が育っていない。
 大卒資格を得ても、60%くらいの卒業者しか就職できない。つまり、競争の期間が大卒まで続き、しかも、大卒資格も安定した雇用を保障しない、「目当てのない」競争になっている。これを変えるためには、若者の雇用問題にメスを入れて、若者の雇用を拡大するという施策がどうしても不可避になる。
(2011年6月刊。  円+税)

2012年2月28日

原発推進者の無念

著者   北村 俊郎 、 出版   平凡社新書

 原子力をやってきた人間が原発の立地地域に棲まないでどうするんだという気持ちから、福島第一原発から7キロの富岡町に住んでいた著者の避難体験記です。本当に悲惨な体験で、読んでいて、その無念さが伝わってきて涙が出そうになりました。
 3.11によって、著者は人生観、世界観を変えられた。今まで原子力を推進してきた者として、無念さを感じるとともに、大いなる反省をせざるをえなかった。
 著者は技術者ではありません。経済学部を卒業して、日本原子力発電に入社し、管理部門を歴任してきたのです。
 7月に著者は一時帰宅したのですが、このとき、被曝線量は1時間あたり4マイクロシーベルト。もし、そのまま居住していたとすると、1年間に44ミリシーベルトの被曝を覚悟しなければならない。これは一般人の年間許容線量である1ミリシーベルトの44倍である。原発作業員の許容線量年間50ミリシーベルトと同じくらいになる。恐ろしいほどの線量ですね、これって・・・。
 富岡町と内村の人口をあわせると2万人。避難所に入っている人は、その2割程度。あとの8割は、親戚・知人を頼って各地に移り住んでいるということになる。
日本の原子力界は「原子カムラ」と呼ばれ、閉鎖的だとされているが、世界の原子力界も閉鎖的な傾向がある。30年間も原発を建設していないアメリカでは、多くの企業が原子力から撤退した結果、人材が枯渇し、原子力界は最盛期から何十年も原子力に関わってきた一部の人たちにより維持されている。どの国も原子力にかかわるメンバーが固定化する傾向にある。
 今回の原子力災害は、著者をいきなり避難者の立場にした。その立場で考えると原子力関係者が、いかに視野が狭く、現実的な視点が欠けていて、形式主義だったことが分かった。これが事故原因にも、避難の際の混乱にもつながる。異端を排除し、事なかれ主義が横行していては、原子力の安全は覚束ない。
 原発の是非には対する世論は原発のメリットと危険性を天秤にかけるという終わりのない論議から、安心して暮らせる社会はいかにあるべきかの方向に移行しつつある。世間に「原発は時代遅れのものだ」と烙印を押されることが、原発廃止の最大の決め手になる可能性がある。
 私は、九州でいうと玄海原発そして川内原発を直ちに廃炉にすべきだと考えています。といっても、運転停止をしても放射性物質をいったいどこへ持っていくのかという厄介な問題があります。九電は安全だと主張しているわけですから、九電本社のある電気ビルの地下に収納してもらえるのなら、それが一番いいと思うのですが、周囲がそれを許さないでしょう。では、いったいどこへ持っていったらいいのでしょうか・・・。九電の首脳部に答えてほしい問題です。
(2011年10月刊。780円+税)

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