弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2012年7月14日

いま開国の時、ニッポンの教育

著者  尾木 直樹 ・ リヒテルズ直子、 出版  ほんの木

 2008年11月の対談が本になっています。オランダの教育の日本は学ぶところが大きいと感じました。
 日本の教育で一番問題なのは、政治がダイレクトに教育に口を出してくること。まことにそのとおりです。石原慎太郎にはじまり、今では橋下徹。どちらも、大量得票をバックとして偉そうなことを言って教育統制に乗り出しています。
 7・5・3現象といわれるものがある。小学生は7割しか学校の勉強についていけない。中学生は5割、高校生になると3割しか習う内容を理解していない。
 国はビジョンだけで示せばよくて、あとの実践は現場の創意工夫に任せるべきだ。
日本社会の全体が子どもの成長や発達について考えられないばかりか、若者を排除する社会的な虐待をしている。子どもは黙ってついてこい、従えという考え方がある。
 日本社会全体に、大人もふくめて他の人を「肯定」しようという態度が薄い。他者を肯定するつもりがなくて、自己肯定なんてありえない。幸福感が低いうえ、自立心も育てられないので、自分の感情を言葉で表現できない子どもが多い。
 今のヨーロッパの教育は、人間性の総合的な発達、多面的な能力のバランスのとれた発達を重視する方向に動いている。オランダでは、学校は、子どもたちが「学ぶことを学ぶ」ところだと考えられている。
 学力一本で測るのではなく、個の中の多様性をいかに引き出し伸ばすのかが重要。
 日本では学校の役割が、学力だけでラベリングし、格差をより差別化するための「選別工場」の役割を果たしている。
 今の日本では、校長の権限をいかに強化するかという管理強化だけに意識が向いている。命令に素直に従うように長年にわたって徐々に教育委員会が「仕立て上げた人材」である。民主主義を教えるはずの学校が、この自由主義社会において、今や完全に全体主義に陥ってしまっている。
 日本をダメにした、教育を破壊したのは日教組だと、見事に世論を操作してきた。叩くべき敵をつくって、一気に全体主義的な教育支配を貫徹しようとしてきた。
 今や教師は、がんじがらめ。生きのびさえすればと、教師は卑屈になっている。評価される項目ばかりに目が向き、子どもの方に目が向かない。あまりに締めつけているから、優秀な人材が教員になりたがらなくなっている。
 日本の教育をオランダとの比較で考え直してみる格好の材料となる本です。

(2009年5月刊。1600円+税)

2012年7月10日

みんな悩んで、教師になる!

著者   佐藤 博・山崎 隆夫 、 出版   かもがわ出版

 教育という仕事の喜びややりがいを奪うものが、今日の社会と学校にあふれ、教師たちを追いつめているのではないか。教師を生きることの困難は、若い教師たちだけの問題ではない。
 公立学校教師の病気休職者は、2009年度に8500人、その6割の5400人が精神性疾患による休職。この神経疾患による休職者は、1993年ころから2.5倍へと急増している。そして病気休職者全体の増加分のほとんどが、「精神性疾患による」休職者となっている。
ベテラン教師であっても生きづらい日々を重ねながら命を削るようにして毎日を送っている。私のよく知る同世代の教師も定年前に退職してしまいました。教師には喜びもあるけれど、無用かつ大変なストレスがかかっているのです。
 初任者研修が、助けあうものではなくなっている。お互いに足をひっぱりあい、批判しあうものになっている。自分の学級がいかにうまくいっているのかアピールする人がいて、自分が指導主事や教育委員会にいかに目立つことができるかを誇示する場になっている。
 管理職や指導教官による「不当な圧力」ともいえる「指導」があり、「対応のしかた」がある。これが新任教師を苦しめ、教師という仕事から夢を奪い、教師を続けることをためらわせている。そして、保護者からの「クレーム」の問題もある。
もっとも強く若い教師を苦しめているのは、失敗や試行錯誤を含めた一人ひとりの教師の、瑞々(みずみず)しい個性的な実践を暖かく見つめる視点がないこと、それらが支えられていないこと。あるいは、不十分ではあっても、さまざまな困難に打ち勝ちながら、子どもと友に成長していく教師への「しなやか」で「ゆるやか」で「人間的な」まなざしが、教育の現場や社会に欠けていること。
人間的完成を呼び覚まし励ましてくれるような会話の流れる関係や言葉が、職員室の中心にあったら、どれだけ若い教師を大きく励ましてくれることだろうか。
教師と子どもを競争で追い立て、支配し、学校を人間が育ち生きる場にしていない今日の状況を変えることがいま切実に求められている。
 いま、国家が全力をあげて教師を蔑んでいる。国が蔑んでいるものを国民が信用するはずがない。だから、うまくいくものもうまくいかない。そして、それをどんどん責め立てて追いつめていく。だから、誰がやってもうまくいかないようなシステムにされてしまっている。この構造そのものが、教師の直面する困難の基本にある。教師はいま、上・下・横・内から責め立てられている、上は教育委員会、校長、副校、主幹。下は肝心の子ども自身からの反抗で、なかなか言うことを聞いてもらえず、さまざまな問題行動が起こり、秩序が乱れて収まらない。そのため、今度は横から、つまり保護者から、いろいろな批判や苦情を言われる。信頼されない。連絡ノートにびっしり要求を書いてくる。「先生、辞めたら」とまで言われる。ついには職員室の内側まで競争にさらされ、同僚からも指導力を問われたり、非難されたり、陰口を言われたりする。
 教師を大いに励まし、横の連携を強めてもらってこそ、子どもたちは安心して教師と一緒に生活できるし、学びあいができます。今の日本の教育は、本当に心配な状況にありますよね。
(2012年3月刊。1500円+税)

2012年7月 6日

核兵器と日米関係

著者   黒崎 輝 、 出版   有志舎

 日本の「非核」政策なるものの実質を追及した本です。主として1960年から1976年までの日米関係が対象となっています。
 非核三原則が「国是」として広く国民から支持され、日本の核武装を論じることは長くタブー視されてきた。ところが、このところそのタブーも過去のものとなった感がある。核武装すべきだと公言する国会議員が出てきたのです。そして、マスコミがそのままたれ流しします。
 北朝鮮の核兵器とミサイルの脅威に対抗するためには、日本も核兵器を持つべきだという声もかまびすしい。しかし、日本が核武装するかどうかを決めるとき、アメリカの意向は無視できないという認識が広く存在する。
 日本政府が「非核三原則」を掲げる一方、日米安全保障条約を日本の安全保障・防衛政策基軸と位置づけ、核の脅威に対してはアメリカが提供する核抑止力、いわゆる「核の傘」に日本の安全を依存してきたという厳然たる事実(認識?)がある。
 日本は1970年2月にNPTに署名し、1976年6月に同条約を批准した。これによって、日本は非核兵器政策を一方的に宣言するだけでなく、核兵器を製造・保有しない義務を国際社会に対して負うことになった。中国は1964年10月に最初の原爆実験を成功させた。これは日本の宇宙開発関係者にとって大きな衝撃だった。
1961年10月の国連総会において日本は西側諸国として唯一、核兵器使用禁止決議に賛成した。これは唯一の事例である。この決議は核兵器の使用は、国連憲章に反し、人類に対する犯罪であると宣言している。
1966年2月、日本政府は統一見解を発表した。
 「現在の国際情勢のもとにおいて米国の持っている核報復力が全面戦争の発生を抑止する極めて大きい要素をなしている。日本も、このような一般的な意味における核のカサの下にあることを否定することはできない」
 米国の核抑止力への依存政策は、日米安保条約により日本の安全を確保するという政府見解によって覆い隠され続けてきた。
 佐藤栄作首相が非核三原則を表明したのは1967年末のこと。
佐藤栄作首相は、当初、国会で非核の三原則を表明するつもりはなかった。当初の演説原稿には、「持ち込みも許さない」という言葉は入っていなかった。ところが、非核三原則の表明は、予想以上に大反響を呼び、やがて事態は佐藤の思いもよらない展開となった。
 1971年に起きた二度のニクソン・ショックは、日本の指導者たちを驚かし、米国に対して不信感を増強する原因となった。日本政府内では、米国離れの自立志向まで芽生えていた。
日本政府の「非核三原則」なるものが、いかに内実のないインチキのものであったかが明らかにされています。ところが、日本国民がそれを圧倒的に支持している以上、そこから日本政府は大きくはずれることも出来なかったのです。世の中の弁証法的帰結ということでしょうか。
250頁に歴史の内実がぎっしり詰まっていて、理解するのは容易ではありませんでした。
(2006年3月刊。4800円+税)

2012年7月 4日

子どもの危機をどう見るか

著者   尾木 直樹 、 出版   岩波新書

 2000年8月が初版ですので、10年以上たっていますが、ここに書かれている内容は今もそのまま通用するのではないでしょうか。
 学級崩壊現象が1997年以来、一気に全国の小学校に広がりを見せ、現在もなお、教師たちを疲弊させている。
 全国の7~8%の学級で、学級崩壊現象が発生している。引き金となる子どもが主因ではなく、同調圧力(ビア・プレッシャー)を受けて、同じ行動に走るその他の子どもたちの行動こそが問題なのである。学級崩壊の発生プロセスには、
  ①引き金っ子の存在、 ②他の子どもの同調圧力の強さ、 ③崩壊期間の長さという三つの要素がある。
 子どもたちは、反抗したり、無視したり、みんなで担任をいじめることによって、自己の存在を確認している。
 学級崩壊は小学校に限定したほうがよい。それは、その最大の本質が、一人担任制による「学級王国」体制の揺らぎにあるということだから。
 学級崩壊とは、小学校での学級カプセルという名の密室での教育実践が限界に達している現象。
学級崩壊とは、個々の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがある。要するに、小学校低学年における今日の学級崩壊は、幼児教育から小学校の集団的生活化へのソフトランディングが上手にできず、つまづかせている現象である。精神主義的な服従に強い、日常的に圧力を加えているのが、今日の学校の姿だ。
外界の価値観が大きく変化している時代だけに、ここから生じる生徒たちへの内圧が異常に高まったとしても、不思議ではない。暴力行為やパニックを子どもたちが引き起こしたり不登校に陥るのも理解できる。
産業社会への「人材育成」装置としての学校の役割は終わったと考えたほうがよい。工場で労働者がベルトコンベアーの前に5分前に集合し、自分を押し殺して一致「団結」し、整然と作業に従事できる人材を養成するために、学校があるのではない。
いじめによる被害者は、40人学級として、小学校では一学級につき2人、中学校では1人は必ずいじめで苦しんでいる子どもがいるということになる。
 いじめられた子の半数の親しか、わが子のいじめの被害とその苦悩を知らなかった。いじめっ子といじめられっ子が交叉したり、逆転するケースも珍しくない。
いじめの克服に必要なことは、クラスの友人の動向にある。いじめ問題の解決のカギは大多数の傍観者が握っている。いじめられている子どもたちの願いは、この傍観者たちが機敏に動いてくれることにある。
いま(1999年)、不登校の子どもは、小・中あわせて13万人近い。1980年代に不登校の子どもが増えたのは、明らかに学校の抑圧度が強まったことに関係している。
学校は、暴力と管理で生徒を押さえ込んだ。学校での管理が強化されていくなかで、生徒は思春期に抱く葛藤を教師にぶつけたり、友達同士が慰めあう場面がつくりにくくなり、学校自分にとって居心地が悪く、安心できない場所となっていった。
今日の管理主義は、かつての強面(こわおもて)の管理方法とは様相を異にして、比喩的に言えば、優しくほほえみながら進行し、強化されている。
日本でいま急速に進んでいるのは、「子ども期」の喪失状況。これまでの「子ども期」が成り立たなくなったまま、かといって新たな関係性の模索もなされていないという、子どもにとって厳しい状況がある。
 思春期の中・高生は、発達段階の特徴として自立を求めるからこそ、親や大人のコントロールから脱しようと欲する。ただ、そうすればするほど、反対に一人になる不安感は増大していく。皮肉にも、誰かに依存したいという心理が大きくふくらむ。だから、友だちと同じものを持ったり、身につけて安心する。このような友だちへの同調圧力というものがある。
「子ども期」とは、独立した人格の主体である子どもが、本来の主催者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障と解すべきである。
とてもいい本だと思いました。
(2011年9月刊。800円+税)

2012年7月 3日

原発震災

著者  石橋 克彦  、 出版   七つ森書館

 昨年12月16日に野田首相が福島第一原発について「冷温停止状態になった」として「事故収束宣言」をしました。
 これで、マスコミの流れがまったく沈静化してしまいました。いまでは、メルトダウンの脅威は過ぎ去ったかのような扱いになっています。果たして、そうでしょうか?
 著者は、まったく早計だと断言しています。私もそう思います。炉心が溶融してメルトダウンしたまま、応急的な循還注水でしのいでいるのにすぎません。福島第一原発が、いつまた重大なトラブルや大規模の放射能放出を起こさないか、今もって予断を許さないのです。
とりわけ四号炉は心配ですよね。地震で建屋が倒壊して使用済み核燃料が露出してしまったら、東京をふくむ東日本全体が深刻な放射能汚染に見舞われてしまいます。一刻も早く手を打ってほしいと思います。細野原発相が4号炉の現地視察をしましたが、コンクリートの支えだけで、本当に大丈夫なのでしょうか?
そして、著者は「除染」の効果についても次のように疑問を投げかけています。
 除染事業が政府と自治体によって大々的に進められているが、基本的には、線量の高いところ、再汚染によって効果が疑わしいところは、避難したほうがいい。原発は安全だと国民をだまし続け、今では放射能汚染は除染すれば大丈夫だと偽って、多くの国民の「生」をズタズタにしている。
政府と御用学者は、かつて、日本は米英なんかに絶対に負けないと国民を汚染し、敗色濃厚になったらバケツリレーやら竹槍戦術でも勝てると欺いていたときと何ら変わらない。「ただの発電所」であるべき原子力発電所という施設が、一旦人間の制御から外れると、いかに凶暴に人間を蹂躙するものであるか、白日のものにさらした。
 原発の危機は、一般に短い周期の揺れに弱い。そういう性質をもつ強い揺れが、想定した倍以上の130秒くらい、とくに激しい部分も想定の倍以上の60秒間、原発を襲った。長時間の強い揺れは、くり返し荷重として構造物に厳しく作用し、疲労破壊を引き起こした。
地震研究者として、日本のような地震列島における原発は、技術と経営の両面からみて、実用的などんな対策を施しても、誰一人として安全を保証することなどできないと考えている。
 福島第一原発事故の大きな教訓の一つは、「起こる可能性のあることは、すぐにも起こる」と思うべきだということ。そもそも、大津波は災害を想定しなければならない場所で原発を運転するなどとは、暴風雪が予想されている冬山にツアー登山するようなもので、正気の沙汰ではない。
 これって、けだし名言というべきではないでしょうか。
 日本中のどの原発も、想定外の大地震に襲われる可能性がある。その場合には、多くの機器・配管系が同時に損傷する恐れが強く、多重の安全装置がすべて故障する状況が考えられる。
 原発が地震で大事故を起こす恐れは30年以上も前から指摘されていた。著者は1997年に「原発震災」という概念を提唱した。それは、地震によって、原発の大事故と大量の放射能放出が生じて、通常の震災と放射能災害が複合・増幅しあう人類未体験の破局的災害である。
 日本が多くの原発を建設した1960年代から30年間は、幸か不幸か日本列島の地震活動静穏期であり、地震の洗礼を受けることなく、原発が増殖した。ところが、1995年の阪神・淡路大震災のころから全国的に大地震活動期に入った。大地震の発生を普遍的法則によって一律に予知するのは、当分のあいだ不可能である。
 高名な地震学者による警世の書です。ぜひ手に取ってお読みください。
(2012年2月刊。2800円+税)

2012年6月27日

原発事故の被害と補償

著者   大島 堅一、除本 理史 、 出版   大月書店

 2011年3月11日の巨大地震によって福島第一原子力発電所は壊滅的な打撃を受け、広い範囲に放射能を放出し、今なお多くの福島県民が避難を余儀なくされたまま、故郷に戻れないでいます。
 わずか170頁ほどの薄い本ですが、福島第一原発で起きた深刻な放射能放出、汚染の状況を明らかにしたうえで、その「補償」問題についての視点を確認し、問題点を指摘しています。コンパクトで、読みやすくまとめた本として、一読をおすすめします。
 福島第一原発事故の特徴は3つある。第一は、世界で初めて、地震や津波で起きた大事故であること。第2は、事故を起こした原発が一つではなく複数だったこと。第3は、事故の一定の収束に非常に長い期間を要していること。
 東日本に比べると西日本への放射能降下量は非常に少ないが、それでも福岡で17万ベクレル/㎢となっている。前年は「不検出」だったのに・・・。
 大気への放射性物質の放出は、事故直後の数日間がもっとも量が多く、毎時2000兆ベクトルだった。
 大気だけでなく、海洋への放射性物質の流出も重大である。原発内の汚染水に含まれる放射能は80京ベクレルと推定されている(2011年7月時点)。海洋に流れ出た汚染水に含まれる放射能は、4700兆ベクレルを超えている。
 現在の避難対象区域の設定によると、一般市民も原発で働く労働者並みの被曝を受ける危険性がある。子どもの放射性感受性が成人より3~5倍も高いことを考えれば、心配な事態である。
福島県内にとどまって生活している人々のなかには、もうこれ以上心配したくない、不安をあおられないでほしいと願う人も多いようです。
 「そんなに心配だったら、ここにいなければいい。ここにいるからには当局を信頼し、いろいろ質問すべきではない」という声が出て、それに満場の拍手が湧きあがったといいます。とても心配な現象です。
 補償にあたっての指針は、「半年たったら避難先に慣れて、生活のめども立っているだろうから精神的被害は軽減されるはずだ」という。しかし、生活と失業の基盤を根こそぎ奪っておきながら、半年たてば苦しみも半分になるかのような東電の主張は、もってのほかです。
そのうえ、東電は補償金を払う前に「合意書」に署名させようとした。補償を受けとって以降は、「一切の異議、追加の請求はしません」となっている。
電力会社が、「原子力村」を構成する諸主体とむすびつき、原子力政策に影響をもつやり方には、次の5つがある。第1は、電力会社が直接、政治に対して影響力を行使する。国会・地方議会に電力会社出身社を経営側、労働側それぞれから送り込んでいる。
 第2は、官僚との関係性を強めること。
 第3は、電力会社関係者が政策決定に直接関与するやり方である。
 第4は各種メディアを通じて原子力賛成の世論を形成すること。
 第5は、学者を使って、原子力発電に推進に学問的に権威づけをする。
 ここに、一般マスコミが脱原発をはっきり言わない、言えない根本原因があると思います。
 ぜひ、あなたもご一読ください。
(2012年2月刊。1600円+税)

2012年6月26日

橋下「維新の会」の手口を読み解く

著者   小森 陽一 、 出版   新日本出版社

 橋下徹的扇動手法には5つの手口がある。うむむ、どんな・・・・?
 第一の手法は、悪役・悪玉・敵役を意図的に捏造して、そこに攻撃を手中させること。小泉政権も、「悪玉づくり」の名手だった。「悪いのは、教師と公務員だ!」と単純明快な「悪玉づくり」を大きな声でいってくれる人がいると、それだけで落ち込んでいたのが救われた気持ちになる人も多い。そして、これには「あなたは悪くない」というメッセージをふくんでいる。
 第二は、多くの有権者の抑えに抑えているうらみや怒りに働きかけ、それを晴らすかのような幻想を与えること。実際には、むしろ出口なしの状況によりいっそう追い込んでいくことになるのだが・・・・。
 第三に、有権者に責任の所在を明らかにし、政策を生み出すような思考を行わせないこと。
 第四に、思考停止の強制。少し考えれば絶対に矛盾視することを、別に大きな声で言っておいて、世論の方向がどちらへ向くのかを見定めて、どちらでも選べるようにしておくという、有権者を侮辱したやり方である。このとき有権者に少し考える余裕すら与えず、「白か黒か」の二者択一を迫る。
 第五に、紋切り型の連鎖へのはめ込む悪玉連鎖をつくって、橋下自身は善玉として安泰になる。
 なーるほど、そうやって今、多くの人が騙されているんですね。
 「人材の育成」という基本理念を持ち込むと、教育についての考え方が歪んでしまう。
 そして、点数化された学力競争をすればするほど、点数さえ落ち込んでいく・・・・。教育における点数競争は、子どもたちに、何かと大人から学ぶという意欲そのものをなくさせている。
 マネジメントとは、人間が最初は野生だった動物を人間の思いどおりに家畜化する、あるいは家畜を人間の思うとおりになるよう訓練、調教するという意味合いをふくんだ言葉なのである。そうだったんですか。だったら、学校にマネジメントなんかふさわしくありませんよね。
 職務命令や分断支配によって校長の意図が強制される学校では、教師や子どもは実は家畜のように扱われるという事の本質が大阪の条例にあらわれている。
 橋下を支持している人に向かって、「あなたは愚かだ」と言っては連帯できない。橋下の主張の矛盾をていねいに解きほぐしながら、支持者と連帯できるようなしなやかな言葉のやりとりが大切である。「あなたがそう思うのは、よく分かる」ことをまず伝える。その人の思い、言い分をよく聞く。そして、橋下が何をしようとしているのかを論理的に明確にし、それで私たちは本当に得(トク)をするのか、具体的に語りあう。
 橋下を支持する人々の置かれた状態に注意を払い、その願いをよく聞き、寄りそいながら、橋下流の「改革」で本当に幸せになれるのか、よくよく話し込む。
 憎しみをあおるような言葉に気持ちを任せるのではなく、本当に生活を良くするためにはどうしたらよいか、一緒に考えることが大切だ。言葉を言葉で疑い、ウソをひっくり返していく。
 わずか85頁という薄い小冊子ですが、大切な指摘、今すぐ実践したくなるような珠玉の論文でした。ぜひぜひ、あなたもご一読ください。
(2012年5月刊。571円+税)

2012年6月20日

格差・秩序不安と教育

著者   広田 照幸 、 出版   世織書房

 教育にもっと光をあて、もっともっと教職員を大切にしないと、日本の将来は暗いばかりだと思います。なんでも競争させればいいなんて、まったくの間違いです。
ある次代に多数派を占めるビジョンがそのまま永続するわけではない。ましてや多数派の構想だから、それが「真」や「善」であるというわけでもない。野党勢力や少数派が別の社会構想に依拠しながら行う抵抗は、無意味ではない。
 教育は未来志向の営為である。教育という事象は、即時的な個人のニーズや利害を反映するだけでなく、未来の個人の人生や未来の社会のあり方に関する営みである。だから、「何が望ましい教育か」という問いには、常に未来の社会がどうなるかという点が関わらざるをえない。
 不況下でも成長している企業ほど、実は社内で能力開発に積極的に取り組んでいることが多い。必要なときに必要なだけの人材を外部から「即戦力」として調達する雇用戦略は、実は必ずしも有効な戦略とはいえないことを意味している。
 現在の日本では、家庭学習に時間をかける子どもと、家庭ではまったく勉強しない子どもとに二極分解しつつあり、それは社会階層と対応している。
 今では、親の行動によって子どもの進路に決定的な大差がついていく社会、「ペアレントクラシー」になっている。わが子にはほかの子よりも質の高い教育を受けさせたいという家族エゴイズムにもとづく教育要求が、近年ではなぜか、まかり通るようになっている。公教育を消費者へのサービスと見なす消費資本主義的な見方や、グローバルエリートの養成が日本社会で必要だという見方が、そうした要求を正当化している。これらの見方とどう向きあえばよいのかは、なかなか難しい問題である。
 ある子どもたちが制度的に優遇されることは、別の子どもたちが後の階段の選抜場面(進学や就職)で不利にされることを意味する。
公教育の社会的役割のなかには、「出自や学力が多様な集団だからこそ、学べることがある」という側面がある。
 日本では、階級ごとの集住が見られないため、学区制にもとづく義務教育が「さまざまな階級を混ぜあわせる特質」をもってきたと外国人学者から指摘されている。
 多様な出自や学力の生徒たちと一緒に学ぶという経験は、ある意味で「公共空間」をどの子どもにも擬似的に体験する、貴重な機会だと言える。
 早くから子どもたちを同質的な集団へと振り分ける仕組みが、もしも大規模に広がっていくならば、それは社会全体からみると、社会階層や学力・学歴で細かくスライスされた層状に分化した社会を作る出すことになってしまう。
 青少年がアイデンティティを模索する空間をすっかり脱政治化しておいて、「社会のことに関心をもたない今の若者」と大人が青少年を非難するのは、筋違いである。むしろ、現実の問題にふれる機会を青少年に準備してこなかった大人の側の責任である。
分権化論に無批判にのって、もしも教育委員会を廃止し、権限を首長にまるごと委譲したとしたら、おそらく局地的にもっとひどい事例が生まれる。
 教育の政治的中立性、安全性、専門性の確保が損なわれ、学校教育は知事や市長のオモチャになってしまう。教育の実際に詳しい知事や市長ばかりではない。にもかかわらず、教育をいじる政策は有権者にアピールしやすい。だから、選挙が近づくたびに、思いつきの「学校改革」が打ち出されるという事態が出てきてしまう。
 2009年7月に発汗された本ですが、まさしく大阪の橋下流「教育改革」の危険性を暴いていると思いました。もっと、教育について広い心をもって、ゆったりと討論したいものですよね。だって、日本の明日を語ろうというのですからね。だれかを「敵」にしただけでは何も解決しません。ましてや教職員が「叩くべき敵」なんかであろうはずがありません。
(2009年7月刊。3600円+税)

2012年6月18日

民間療法のウソとホント

著者   蒲谷 茂 、 出版   文春新書

 著者は私と同じ団塊世代の人であり、健康雑誌の編集長をつとめていました。ですから、民間療法の表だけでなく、裏も知り尽くしています。いま、いろんな民間療法がもてはやされていますが、この本を読むと、民間療法の大半が根拠のないものに見えてきます。
 紅茶キノコ、酢大豆、尿療法、ヨーグルトきのこ、ダイエットテープ、美肌水、にがり、爪もみ、トイレ掃除、魔法の言葉、腰回し、手相書き、朝バナナ・・・・
 これは、みな『状快』という雑誌が天まで高くもてはやしたものです。すごいですね。たしかに一時はすごいブームになりましたよね。そして、今ではすっかりみんな忘れ去っています。私は、幸いにして、どれも利用していません。
 私が10年来、愛用しているのは青汁です。このおかげで、境界型糖尿病と診断されたこともある私ですが、とんと無縁になりました。ありがたいことです。効能を信じて飲み続けています。
 健康雑誌が自作自演するほど罪つくりなことはない。ブームをつくり、自社で販売するわけなので、自浄作用がない。そして、健康食品、民間療法を批判できなくなった。
 健康食品の広告の中心は、なんといっても体験談である。体験談はつくりものの可能性もあり、信用するのはむずかしい。
たとえ学会に発表されたものと書かれていても、電子版だと査読されずに掲載されていることがあるので、うかつに信用はできない。
 健康雑誌は、お年寄りの『少年ジャンプ』だね。子どもたちの夢と希望をのせるマンガ雑誌と同じで、健康雑誌はお年寄りの夢と希望を実現しようとしている。
 アガリクス、ウコン、コラーゲン、グルコサミン、セサミン、黒酢、みんないわれるほどの効能はないようです。それどころか、下手すると副作用があるといいます。
 実は、私は毎晩、健康酒を飲んでいます。梅酒から始まって、しいたけ酒、ニンニク酒、プラム酒などです。私の一番のお気に入りは、姫リンゴ酒です。上品な香りで舌ざわりもよく、最高の果実酒です。ほんのちょっぴり甘いのがいいのです。今も、ちびりちびり飲みながら書いています。おやすみなさい。
(2011年9月刊。730円+税)

2012年6月17日

マンガのあなた、SFのわたし

著者   萩尾 望都 、 出版   河出書房新社

 同世代で、同郷の出身者としてなじみのある著者ですので、つい手にとって読んでみました。
 著者は、こんど目出たく叙勲されました。お互い、それだけ年齢(とし)をくってしまったというわけです。うれしいような、悲しいような、でもそれが現実です。
 幼いころからマンガを描き続け、親とりわけ母親とは相当の葛藤があったようです。前にも書きましたが、著者はますます、私もよく知る母親そっくりです。その似ていることは、びっくりするほどです。
 でも、手塚治虫と対談しているときの著者の顔写真はまだあどけない少女の面影がたっぷり残っています。そう言えば、わが家にも彼女が少女時代に来たときの写真があったような気がします。と思って探してみましたが、ありませんでした。私の勘違いのようです。
『11人いる』という作品は何回か読み返しましたが、その発想の斬新さには驚かされます。まさしくSF超大作です。
 パリに行ったことがなくてもパリの下町の雰囲気を出した絵が描けるというのは、さすがはプロのマンガ家です。『百億の昼と千年の夜』の想像力のすごさにも圧倒されました。
 そして『残酷な神が支配する』なんて、どうしてこんな物語を発想できるのか、不思議でなりませんでした。
この本に出てくる著者の言葉で次のフレーズが強烈な印象を残しました。
 手塚治虫の『新撰組』を読んですごいショックを受けて、ガーンと頭を殴られたみたいになって、一週間ボーッとしていた。それで、自分もマンガを描いて誰かを一週間ぐらいボーッとさせたいと思った。
 すごいですね。それほど書かれている内容が胸に迫ってくるものがあったということです。私も、いつかは、そんな物語を書いてみたいものだと思ったことでした。
(2012年3月刊。1400円+税)

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