弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2012年5月19日

ルーズヴェルト・ゲーム

著者   池井戸 潤 、 出版   講談社

 『下町ロケット』で直木賞を受賞した著者の第一作ということです。何となく『下町ロケット』の雰囲気に似たところがありますが、最後まで一気に面白く読み通せたのは、さすが著者の筆力です。
私が草野球をしたのは小学生まで、あとは夏の甲子園大会で高校野球をたまに見ることがあるくらいです。私の子どもが小学生のころ、世間の親と一回くらいは同じことをしてやらないと可哀想だと思ってナイターに連れて行ったことはあります。弁護士になって、付きあいで仕方なくドームで野球観戦をしました。私にとって野球は全然興味をひかないものの一つでしかありません。ですから、この本で取りあげられる社会人野球なるものは見たことがありませんし、見るつもりもありません。
 そんな私ですが、著者による野球試合の展開の描きっぷりはすごいですよ。思わず手に汗を握るというものです。次はどうなるのか、息を詰めてしまいます。
 タイトルになっているルーズヴェルト・ゲームというのが、そういうものなのです。
 社員1500人、年間500億円超の中堅企業。このところ業績が低迷し、銀行から大胆なリストラが求められている。整理の対象に年間3億円も喰いつぶす野球部があげられ、ついに社長は廃部を約束させられてしまう。廃部となれば、野球部にいる10人ほどの正社員はともかくとして、その他の40人もの契約社員はみな退社せざるをえなくなる。ええーっ、これは大変なことですよ・・・。
 ルーズヴェルト・ゲームとは、野球好きのフランクリン・ルーズヴェルト大統領が、一番おもしろいと言った試合のこと。つまり、逆転して8対7で終了した試合のことである。
 そうなんです。この中堅企業も苦しいなか、ついに画期的な新商品の開発に成功し、ライバル企業を出し抜き、生き残りに成功したのでした。しかし、野球部の廃部が取り消されたわけではありません。それではハッピーエンドにはなりません。そこを、著者は何とかひねり返すのでした。うまいものです。爽やかな読後感の残る小説です。現実は厳しいのですが・・・。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年5月16日

福島第一原発 ―真相と展望

著者   アーニー・ガンダーセン 、 出版   集英社新書

 アメリカのスリーマイル島の原発事故を研究した専門家による分析ですので、説得力があります。
 3月18日の時点でメルトダウンしているとコメントしたことから、パニックに煽っていると非難された。しかし、実際には、政府や東電の方が間違っていた。メルトダウンは起きていた。福島第一原発では、今なお放熱が続いている。そして、大気や海への深刻な放射能漏れが観測されている。
 政府のいう「冷温停止」というのを額面どおりに受けとめてはいけない。
これで多くの日本人がごまかされていますよね。もう、過ぎたことだという錯覚がまん延しています。そこに原発再稼働を狙う、よこしまな経済界と政治家がつけ込んでいるのです。許せません。
 核燃料は塊と化したまま、中心部で、いまだに溶解しているだろう。
これって、恐ろしいことです。
核燃料が空気中でも溶解しないほどに冷めるには、少なくとも3年を要するだろう。
 一号機は、地震そのものから構造的なダメージをこうむった可能性が高い。そして、格納容器が破損しているということは、水がほかの容器から流出しているだけではなく、格納容器から外へ漏れているということ。この状態が何年も続く。建屋地下の放射線量が高すぎて、誰も近づけず、解決できない。汚染水が漏れ続ける。そして、いったん地下水に入った放射性物質を完全に取り出す術はない。
 二号機は見た目こそ一番ましだが、格納容器の破損は最も深刻である。
 格納容器が破損している一、二号機からは、何年にもわたって大気と地下水に放射能汚染が広がり続ける。
 三号機の格納容器のどこかに漏れがあるのは確実で、今なお蒸気が逃げている。何年にもわたって放出が続く。核燃料の大部分はメルトダウンし、さらにメルトスルーしている。建屋地下には、膨大な量の意泉水が留まっている。
 向こう10年にわたって、海中で核燃料の破片が見つかるだろう。セシウムやストロンチウムだけでなく、プルトニウムもふくんでいる。
 放射能が1000分の1になるまで25万年も付き合わなければならない。これらは、徐々に海中に溶け出す。
 一番の懸念材料は四号機である。四号機は、格納されていない炉心を冷却する機能を失っていた。
 大きな地震に再び襲われたとき倒壊する可能性が最も高い。四号機が崩れたら、即座に東京から逃げ出すほかない。
 四号機の使用済み核燃料プールは、今でも日本列島を物理的に分断する力を秘めている。直径10メートルもある格納容器の床から溶解した核燃料を剥がす方法は、誰も思いついていない。一~三号機の原子炉だけでも257トンのウランを回収しなければならない。格納容器の蓋から底までの高さは35メートルもある。その距離から遠隔操作のクレーンを用いて、溶解し金属と混じった核燃料を探し出さなければいけない。これを解決する技術はまだない。コンクリートと結合した核燃料は冷却のために水没させておく必要があり、水中ロボットを使うことになるが、そんなロボットはまだ設計すらできていない。
 核燃料を取り出すためには、必要な技術を開発して作業に着手するまでに10年、実行するのに10年ほどかかる。
 取り出しが成功するまで、放射性物質の放出は続く、その間、作業員を絶やさないよう次々に訓練しておかねばばならない。
 使用ずみフィルターは、核燃料と同じくらい危険なものである。
 処理費用20兆円という試算は過小評価かもしれない。取り出した核燃料をそのまま福島第一原発にはおいておけない。海辺なので再び津波が来る可能性があるから。
 使用ずみ核燃料は、3年間のプールでの冷却期間と30年間の中間貯蔵を経た最終処分場は決まっていない。これは人類の時間スケールをこえた話なのである。
日本では、現実を直視せず、何事もなかったように「日常」を取り戻すのが最優先になっている。それが可能なのは、実際には始まっている健康被害が直面化するまで数年かかるためだ。これから健康への悪影響が顕在化してくるかもしれない。だから、みんなが立ちあがって口を開く必要がある。
小出助教の最新の本を読むと、玄海原発が今もっとも危険だということです。40年もたって、明らかに老朽化しているからです。大事になる前に、ぜひ手当てしてほしいものです。
 深刻な現実から目をそらしたいのは私もやまやまなのですが、そういうわけにはいきません。とても怖い本でしたが、一読を強くおすすめします。
(2012年3月刊。700円+税)

2012年5月15日

ルポ 良心と義務

著者   田中 伸尚 、 出版   岩波新書

 「日の丸・君が代」に抗う人びと。これがサブタイトルとなっている本です。どうして日の丸・君が代の押しつけにあんなに狂弄するのか、不思議でなりません。だって、昔と違って、祝日に日の丸を揚げる家庭なんて、とんと見かけなくなりました。「君が代」なんてあの暗い、重苦しい、間のびした歌をうたっても、本来、気分を高揚させるべき儀式のそえものにもなりません。そして、あの歌詞の意味を理解している人なんて、どれだけいるでしょうか・・・。ところが、学校でだけは違います。目の色を変えて、教師と生徒たちに強制します。そこには多様性を育(はぐく)むという視点はまったく欠けています。なんという、お寒い教育現場でしょうか。要するに、そこにあるのは、上からの露骨な教職員統制です。教える側が萎縮していて、子どもたちが健やかに育ち、伸びるはずもありません。
 この本は、「日の丸・君が代」に今なお反抗する人が日本全国に存在することを明らかにしていると同時に、おおかたの人はあまりのバカらしさに口をつぐんでしまっている現実も紹介しています。私も、どちらかと言えば後者のタイプです。
 教頭は、「君が代」をうたえないと、一人前の大人になれないなどと言って生徒たちを脅す。うひゃあ、「君が代」なんて歌えなくても「一人前」の大人に誰だってなれますよ。なんということを、この教頭は言うのでしょうか・・・。
 在日コリアンは、大阪市生野区に次いで、東大阪市に多い。
 前は、校長は、「これより国歌斉唱しますので可能な方はご起立ください」と言っていた。しかし、今ではそんなことを言うのは許されない。
 橋下徹は、大阪府知事時代(2011年6月29日)、「今の政治に一番重要なことは独裁。独裁と言われるぐらいの力。これは、僕は今の日本の政治に一番求められていると思う」と語った。そんなことを語る人物に圧倒的な人気が集まる状況は、きわめて深刻である。
本当にそうですよね。反骨精神の人が多いはずの大阪人は、今、どうなっているのでしょうか。
 最近の新聞(5月2日)に、橋下の率いる維新の会市議団が上からの役員任命はおかしいと騒ぎ立てている記事がのりました。独裁はしたくても、されたくはないっていうことですが、ホントそうですよね、誰だって・・・。でも、橋下人気に頼って当選した市議会議員が独裁されるのは嫌だと騒ぎ立てるなんて、まさにマンガです。ただし、笑っているだけですまないのが残念です。
 教員を黙らせ、校長を支配下に置くためには、「日の丸・君が代」は最も有力な手段だった。今では、徹底的に洗脳され研修がくり返されている。強制を強制と感じない教員がフツーになっている。物言わない教員が最近たくさん出てきている。最近の若い教師は、マニュアル化された人が多く、与えられたものをこなすだけになっている。
最高裁判決で多数意見に反対した一人である、宮川光冶判事の次の意見は傾聴に値します。
「教育公務員は、一般行政と異なり・・・・教育の自由が保障されており、教育の目標を考慮すると、教員における精神の自由はとりわけ尊重されなければならない。
 自らの真摯な歴史観等に従った不起立行動等は、その行為が円滑な進行を特段妨害することがない以上、少数者の自由に属することとして、許容するという寛容が求められている」
 もっと教育現場を自由な雰囲気にして、のびのび教師も子どもも学び過ごせるようにしないと日本の将来は暗いものになってしまいます。
 読めば読むほど、なんだか暗い気分に包まれていく本でした。でも、現実から目をそらすわけにはいきません。日本の現実を知るためにお読みください。
(2012年4月刊。760円+税)

2012年5月10日

メルトダウン

著者   大鹿 靖明 、 出版   懇談社

 3.11の起きたとき、東京電力の清水社長は夫人同伴で優雅に奈良を観光していた。そして、実力者である勝俣会長と筆頭副社長は大手メディアの幹部たちを引き連れて中国にいた。
3000人が働く東電の部門は、そこだけが東電全体から独立した王国を形成していた。東電の武藤栄副社長は、この日の来ることを知っていた。しかし、その対策は何ひとつ講じなかった。原子力村のお歴々は、みな巨大津波の想定を知っていた。それなのに、勝俣会長にも清水社長にも知らせなかった。
 東電の原子力部門は東大工学部率が主流を占めていた。吉田昌郎所長は、東京工業大学の大学院で原子核工学を専攻した。日本の原子力行政のトップは、誰も全電源喪失という事態を想定していなかった。
 共産党の吉井議員の想定のほうが、原子力安全・保安院の寺坂院長より勝っていた。ベントが必要だといっても、そんな実務的なことは、協力会社と呼ばれる「下請け」の社長や作業員のほうがはるかに詳しい。
東電の社長は現場に出るのを嫌がった。いざというときに役立つ原発についての知見は「空洞化」し、東電社員の力量だけではいかんともしがたい。
 福島第一原発事故で大気中に放出された放射性物質の量は、半減期が30年と長いセシウム137でみると、広島に落とされた原爆の168個分にもなる。ストロンチウム90で換算しても広島型の2.4個分もあった。このように、すさまじい放射能汚染をまき散らした。
 保安院の寺坂信昭院長は東大経済学部を卒業して経産省に入ったキャリア組の高級官僚だ。直近の仕事は、スーパーなど流通業界を管轄する商務流通審議官だった。要するに、原発のことを何も知らない人が原発の保全を監督するところのトップだったというわけです。恐ろしいことですね。ぞっとします。
 ベントが実施されたのは、古田所長が3月12日午前0時過ぎに準備を指示して14時間もたったあとのこと。しかし、そのときすでに1号機はとっくにメルトダウンしていた。
 メルトダウンとは炉心溶融ともいい、核燃料が高熱にさらされ、どろどろに溶け(メルト)、原型を失って原子炉の底に落ちる(ダウン)のこと。
 東電のなかには、怒鳴りちらした菅首相への嫌悪感やら反発心から「菅降ろし」につながっていった。菅政権への敵がい心が東電の深層に芽生えていった。
 枝野官房長官(元・経産大臣)は、「東電を殺人罪で告訴するぞ」と怒鳴ったそうです。大混乱のなかで、東電は自分たちに風当たりの強い首相官邸への不信感が増幅されていった。
吉田所長は「死」を意識した。社員や協会会社の作業員たちの人命を守らないといけない。吉田所長は制御に必要な要員を残して大半は退避させたいと思った。
菅首相が東電本社に乗りこんできた。「東電が逃げたら、日本は100%つぶれる」と叫んだ。
 福島第一原発には、3.11事故当日、3500人が脱出していき、ゴーストメルト化した。注水作業に必要な70人ほど(「フクシマ50」として有名なんですが・・・)を残して「フクシマフィフティーズ」が結成された。実際には50人ではなく、70人が参加した。
 この70人の肩に日本の将来がかかったわけなんです。不幸中の幸いが続いて今に至っています。こんな危ない原発は即刻すべてを廃止すべきだと思います。
(2012年3月刊。1600円+税)

2012年5月 9日

自治体ポピュリズムを問う

著者   榊原 秀訓 、 出版   自治体研究社

 橋下流の「独裁政治」をマスコミが手放しでもてはやす昨今です。このブームは、いつになったら冷めるのでしょうか・・・。
 橋下への支持は、「何が変わるかが分からない」が、「バッシングにも負けず」に「庶民目線でメディアに発信を続ける」橋下がもたらす「何かの盛り上がり」への漠然とした期待で成り立っている。
 プレビシットという手法である。行政府の長が、選挙や国民投票など有権者の意思表明の機会を自分への信任投票と位置づけ、その結果を自身への「民意」の支持と見なそうとする政治手法のこと。必ずしも必要のない辞職で選挙を設定し、自己の政権基盤強化のために用いるのは、ポピュリズム政治家の本領発揮である。
 今日のポピュリズム首長は、自己の政治的地位の強化と政策の正当化のために意図的に議会を挑発し、意図的に対立構造をフレームアップしている側面のある点で、「革新首長」や「単一イシュー型首長」とは異なる。既存の議会内会派を基盤とする与党形成を追及せず、逆に、これらの諸会派を「敵」と位置づけ、自ら主導する地域政党によって議会内の多数派形成を目ざすという点では、自民・公明を基盤とする石原慎太郎都知事の政治手法とも異なる。
ポピュリズムの首長が多数の有権者に支持されている現実を直視したうえで、それとの理論的、実践的な格闘が求められている。
 ポピュリズム首長は、「無党派市民が支えている」というイメージに反して、実は、自民や民主などの既成政党支持層が基盤である。国政で自民・民主に投票した新自由主義・新保守主義の支持層が地方では、首長翼賛地域政党を支えている。
ポピュリズム首長の政治手法は、第一にレッテル貼りの政治、第二に抽象化された政治、感情の政治という二つの特徴がある。抽象化の政治とは、公益とか市民といった曖昧な概念を多用して自己の政治的立場を強化する手法である。感情の政治とは、政治家の個人的な心情を政治の言葉として表現し、本来ふまれるべき法的・政治的過程を素通りないし無視する姿勢である。
ナチスが設定した「敵」がユダヤ人やコミュニストであったように、日本のポピュリズム首長にとっての「敵」は、議員、公務員、教職員組合である。
大阪市民がもっと冷静になって橋下流のインチキな政治手法にだまされないことを心から願っています。
 橋下市政は公務員そして教員を自己の厳しい統制下において「独裁政治」を貫徹させようとする一方で、福祉を大胆に切り下げつつあります。ひどいものです。政治は弱者救済のためにあるはずなのに・・・。
(2012年2月刊。2400円+税)

 連休中にいつものように近くの小山に登りました。高さ380メートル、わが家から頂上まで1時間あまりです。途中に急勾配の斜面もあります。
 新緑の中を汗をかきつつ登り切りました。見晴らしのよいところでお弁当びらきをします。梅干しおにぎりを食べながら360度に広がる下界を見渡すと気宇壮大、浩然の気を養うことができます。
 薄陽のさすもとで、しばし寝ころがって風の音に耳を澄まします。すぐ近くにウグイスの清らかな鳴き声も聞こえてきました。至福のひとときです。
 山から下りる途中には赤紫のアザミの花があちこちに咲いていました。風薫る五月を実感できた一日です。
 この日、1万5000歩あるきました。翌日、なぜかお尻あたりが凝っていました。

2012年5月 8日

「日本の教育政策」

著者   OECD教育調査団 、 出版   朝日新聞社

 1970年1月にOECD(経済協力開発機構)が日本に派遣した教育調査団によるレポート「日本の教育報告書」が一冊の本になっています。1971年に発刊されましたが、40年たった今、一瞬、言葉を失うほどの衝撃的な内容です。
 この教育調査団のメンバーにはアメリカのライシャワー教授(かの有名な元駐日大使)も含まれています。ほかはフランスの元首相、イギリス、ノルウェー、イスラエルの教授たちです。
 そんな陣容の調査団が、日本の初・中等教育について、自分たちの方こそ学ぶべきだとまで絶賛しているのです。
 さらに、「優秀な子どもには、おくれた仲間の学習を助けさせるという中学校教育のあり方は、もっとも魅力的で人間的な教育の特質として、われわれの心をとらえた」「日本の初・中等段階の教育が技術的にすぐれていることは、誰しも認めるところであろう」とほめたたえています。
 では、それほどすぐれた日本の教育を誰が今のようにダメにしてしまったのでしょうか。
 この本を読みながら、つらつら考え直してみたことでした。
 これからの日本の教育のあり方を考えるうえで必読の本ではないかと考えて、ここに紹介させていただきます。
「われわれは自分たちの国にくらべて、初・中等段階での日本の成果がいかに大きいかに、深く印象づけられた。だが、そうだからといって改善の要がほとんどないなどというつもりはなく、われわれはこの段階の学校について、重要だと思われた問題点のいくつかは、ためらうことなく提起した。しかしながら、とりわけ初・中等教育についていえば、日本の人々に役立つようなことをこちらから指摘したり、示唆するよりも、むしろわれわれ自身の方が学ぶべき立場におかれているのではないかというのが、調査団の一般的な意見であった」
「日本は、十五歳まで、すなわち中学校段階まで、差別的な学校教育をやらないよう細心の努力をはらってきた国の一つである。コースの分化をさけ、心身障害児のほかは特別の学級をおいていないし、また、優秀な子どもには、おくれた仲間の学習を助けさせるという中学校教育のあり方は、もっとも魅力的で人間的な教育の特質として、われわれの心をとらえた」
「日本の初・中等段階の教育が技術的にすぐれていることは、だれしも認めるところであろう。初・中等段階の数学教育で日本が最先端にいることは世界的に知られているが、それは日本の到達した高い水準を示す、証拠の一つにすぎない。
・・・・つねに長期的な展望のなかでとらえられねばならない。これらの改革を実現させるのにどうしても必要なのは、教師と地域住民の参加、実験計画の立案と実施にあたる機関の設立、教育養成計画に活力を与えるためのおたがいの努力、新しい法律や規則、予算などであろう。・・・・・
 弾力性にとみ、拘束性の少ない教育計画を立てて、もっと自由な時間、もっと選択自由な教育課程、もっといろいろなことができる課外活動、もっと親密な生徒同士の協力を実現させ、生徒の個性を発達させるべきだと考える。・・・・・
 規律と競争だけでなく協力を、受容と模倣だけでなく想像を―そうしたことに強い関心を向けるべき時機が、すでに到来しているのではなかろうか」
「中等教育はどこの国でも、さけがたい大きなジレンマをかかえている。すなわち一方では、子どもたちの多様な必要に、また多様な適性と能力に、教育課程をどう対応させていったらよいのだろうか。と同時に、それぞれに異なる能力をもち、また異なる進路をめざす子どもたちができるだけ長い期間、仲間としていっしょに活動できるような共通の教育の場をつくるには、どうしたらよいのだろうか。どの教育段階であれ、子どもたちに優劣の序列をつけることは避けねばならない。そうした格づけは、彼らの知的、道徳的な発達を妨げ、またそれがもたらす差別は、やがて彼らが成人したとき、社会階層の上下の別離をいっそう拡大するように作用するからである」
「一般的にいって、生徒を将来の職業の目標あるいは知識の獲得能力によって、早い段階で区別するやり方は、社会断層を硬直化させ、しかもその断層間の社会的距離を広げる結果になり、かえってその利点は失われてしまう。学校は、多様な能力水準をもった子どもたちの必要をみたし、多様な便宜や教育を与えるべきであると、われわれは考えている。どのようなタイプの学校も、多様な能力をもった子どもたちを受入れ、ほぼ同じ資格をもった教師を擁し、また同じ水準の施設設備をもたなければならない」
「文部省は日本の教育の内容に対して、非常に強力な公的支配力をもっている。その点では、世界においてもっとも中央集権化された官庁の一つかも知れない。
(一)  各教科における学習指導要領を決める権限をもっている。また、その権限は詳細な点まで指示するようになっており、教育課程に変化をあたえようとする教師の自由は制限されている。
(二)  使用されるすべての教科書に対して、検定許可の権限をもっている。この権限は、歴史のような教科書にかかわる場合に、画一的な政治的価値を押しつけるという危険をはらんでいる」
いかがでしょうか。いずれも、今日の日本に生かすべき、忘れてはいけない大切な指摘ではないかと思いました。
(1972年11月刊。980円)

 連休の三日三晩、至福のときを過ごしました。1954年制作の映画『二十四の瞳』を三回に分けて毎晩寝る前に見たのです。なにしろ2時間20分ほどの長編ですから。それにこのDVDを探しまわってなかなか見つかりませんでしたが、結局なんと80円で借りることができました。
 教師という職業の崇高さ、一人一人の子どもを大切にすることの大切さ、時流に流されていくことの怖さ、涙なくして見れない感動の大作です。
 子どもたちと一緒になって遊ぶシーン。桜の咲く丘を汽車ごっこする有名なシーンなど、子どもたちも本当に楽しいそうです。
 貧しい家庭に育ち、学校に通えない。修学旅行に行けない。そして「将来の希望」という題を与えられて作文が書けないと泣き出す子ども。家庭訪問し、子どもたちと一緒に鳴く大石先生です。
 男の子たちは軍人志望。疑問を述べる大石先生は弱虫と言われます。それだけならいいのですが、アカだと批判が立ち、校長先生から今のご時勢に流されない。見ザル、聞かザル、言わザル。お国のために役立つ兵士をつくるのが教師のつとめだといさめられるのでした。
 そして、やがて生徒たちは出征していきます。戦後、大石先生は再び岬分教場につとめるようになります。そして教え子たちが戦死したことを知るのです。

2012年4月30日

子どもと保育が消えてゆく

著者  川口 創  、 出版   かもがわ出版   

 名古屋で活躍している、子育て真最中の弁護士が日本の保育はこれでいいのかと、実体験をもとに鋭く問題提起しているブックレットです。
 わずか60頁ほどの薄いブックレットですが、日本の明日を背負う子どもたちを取り巻く、お寒い保育行政の現実を知ると、背筋がゾクゾクしてしまいます。
 コンクリートより人を、と叫んで誕生した民主政権でしたが、権力を握ったら、自公政権と同じく、コンクリート優先、福祉切り捨て政治を強行しています。悲しい現実です。
 いま政府がすすめている「幼保一体化」の看板の下で実施されるのは、保育所の解体のみ。「こども園」には、待機児童がもっとも深刻な3歳未満児の受け入れ義務を課さない。 それでは、3歳未満児は、どうなるのでしょうか・・・・?
 私の子どもたちがまだ幼いころは、全国各地で「ポストの数ほど保育所を」という合言葉のもとに保育所づくりの運動が広がっていました。
 1970年代には、年に800ヶ所を増設し、9万人の入所児増を実現した。保育所は2万3千ヶ所、在籍児200万人だった。ちころが、その後は自助努力が強調されるなかで保育所は減少していき、2000年には、2万2千ヶ所にまで減らされた。そして、2000年から2008年までの8年間に、全国で1772ヶ所の公立保育園が消えた(13.9%減)。
 厚労省によると、2011年4月の待機児童数は全国で2万5千人を超えている。
 日本の保育を、アメリカと同じように市場化し、「ビジネス・チャンス」にしようという狙いがある。
 女性が経済的に自立できるようにするためにも、公立保育所の拡充こそ必要です。安易に民間委託し、「ビジネス・チャンス」なんかとすべきではありません。
子どもたちにとっても、集団保育はとても有意義です。3歳児までは親の手もとでずっと面倒をみるべきだというのは、現実の日本社会の実情にもあわない主張です。私の3人の子どもたちはみな保育園に出し、そこでのびのび育ちました。社会人になった今でも、保育園当時の仲間とは親しく交流しています。親としても、たいへん喜ばしいことです。子どもにとって親の愛情とともに、友人と親しく交わることができるというのはなにより大切な財産です。
 「幼保一体化」でビジネス・チャンスをつくり出すだなんて、いったい政府は何を考えているのでしょうか。子育てを金もうけの機会にするというのはとんでもない間違いです。
 子育て、がんばってくださいね。大変でしょうが、楽しく充実した日々なのです。としをとって、あとで振り返ってみると、それを実感します。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年4月27日

子どもと保育が消えてゆく

著者  川口 創  、 出版   かもがわ出版   

 名古屋で活躍している、子育て真最中の弁護士が日本の保育はこれでいいのかと、実体験をもとに鋭く問題提起しているブックレットです。
 わずか60頁ほどの薄いブックレットですが、日本の明日を背負う子どもたちを取り巻く、お寒い保育行政の現実を知ると、背筋がゾクゾクしてしまいます。
 コンクリートより人を、と叫んで誕生した民主政権でしたが、権力を握ったら、自公政権と同じく、コンクリート優先、福祉切り捨て政治を強行しています。悲しい現実です。
 いま政府がすすめている「幼保一体化」の看板の下で実施されるのは、保育所の解体のみ。「こども園」には、待機児童がもっとも深刻な3歳未満児の受け入れ義務を課さない。 それでは、3歳未満児は、どうなるのでしょうか・・・・?
 私の子どもたちがまだ幼いころは、全国各地で「ポストの数ほど保育所を」という合言葉のもとに保育所づくりの運動が広がっていました。
 1970年代には、年に800ヶ所を増設し、9万人の入所児増を実現した。保育所は2万3千ヶ所、在籍児200万人だった。ちころが、その後は自助努力が強調されるなかで保育所は減少していき、2000年には、2万2千ヶ所にまで減らされた。そして、2000年から2008年までの8年間に、全国で1772ヶ所の公立保育園が消えた(13.9%減)。
 厚労省によると、2011年4月の待機児童数は全国で2万5千人を超えている。
 日本の保育を、アメリカと同じように市場化し、「ビジネス・チャンス」にしようという狙いがある。
 女性が経済的に自立できるようにするためにも、公立保育所の拡充こそ必要です。安易に民間委託し、「ビジネス・チャンス」なんかとすべきではありません。
子どもたちにとっても、集団保育はとても有意義です。3歳児までは親の手もとでずっと面倒をみるべきだというのは、現実の日本社会の実情にもあわない主張です。私の3人の子どもたちはみな保育園に出し、そこでのびのび育ちました。社会人になった今でも、保育園当時の仲間とは親しく交流しています。親としても、たいへん喜ばしいことです。子どもにとって親の愛情とともに、友人と親しく交わることができるというのはなにより大切な財産です。
 「幼保一体化」でビジネス・チャンスをつくり出すだなんて、いったい政府は何を考えているのでしょうか。子育てを金もうけの機会にするというのはとんでもない間違いです。
 子育て、がんばってくださいね。大変でしょうが、楽しく充実した日々なのです。としをとって、あとで振り返ってみると、それを実感します。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年4月24日

ホットスポット

著者   NHK・ETV特集取材班 、 出版   講談社

 3.11のあと、福島第一原発事故からどれだけの放射能が日本全国いや世界中に流出していったのか、想像を絶します。この本で紹介されているテレビ番組は日頃テレビを見ない私もビデオにとって、しっかり見ていました。
 放射能汚染というのは、決して単純な同心円状にはならず、とんでもないところに高濃度汚染のホットスポットが生まれるということを、その番組を見て実感しました。
 この本は、番組製作の舞台裏も紹介していて、とても興味深いものがあります。NHK
の上層部から取材そして放映を中止するような圧力がかかったそうです。
ホットスポットとは、局部的に高濃度の放射能に汚染された場所をあらわす言葉。
 同じ双葉町の中で、わずか1キロほど移動しただけで、空間線量率が毎時300マイクロシーベルトから40マイクロシーベルトに変わった。汚染は同じ同心円状に広がったのではなく、斑(まだら)状になって分布していた。
 取材班は、高線量が予測される地帯は50歳以上で担当するというのが暗黙の了解となっていた。取材が終わって宿に着いたら、真っ先に風呂に入る。そして、合羽やゴム長をていねいに水で洗い、大浴場で頭や手足を入念に洗う。内部被曝が恐ろしい。衣服や靴、皮膚に放射性物質が付着し、そのまま屋内にもちこむと、知らず知らずに拡散し、体内に取り込んでしまう恐れがある。
放射能の雲は原発から50キロの、100万人が住む福島県の中通りを襲い、雨や雪とともに大量の放射性物質を地上に沈着させた。そして、そこには今も人々が普通に生活している。
 3月15日。東京で毎時0.809マイクロシーベルトの放射線量が観測されて大騒ぎになった。福島市内は、このとき242マイクロシーベルトまではねあがり、16日まで20前後の高い数字が続いた。事故前の500倍になる。しかし、30万人の住む福島市民への避難指示は出なかった。
本当にこれでいいのでしょうか。学童だけでも疎開させる必要があるのではないでしょうか。人体実験だけはしてほしくありません。
子どもの被曝リスクは大人の3倍高く考える必要があるからです。
 放射能は、沿岸の海底に堆積し、ホットスポットのような放射能のたまりが出現している。そして、それが沿岸流という海流に乗って南下している。
 福島県だけでなく、岩手、宮城、新潟、茨城もふくんで東日本一円に放射能は拡散し、雨や雪によって土壌を汚染し、そこで育つ農産物に入り込み、さらには川を伝って各地の海を汚染し、それが魚介類に入りこんで消費者の食卓を脅かす「魔のサイクル」が現れてきた。
 いやはや、原発の底知れぬ恐ろしさを実感させる映像でしたし、その背景を知ることができました。民主党政権が今なお全国各地の原発を再稼働させようと執念を燃やしていることに心底から怒りがこみあげてきます。どこまで人非人なのでしょうか。目先のお金のためなら人類の生存なんてどうでもいいという無責任さです。私は絶対にそんなことを許すことができません。
(2012年3月刊。1600円+税)

2012年4月22日

兎の眼

著者   灰谷 健次郎 、 出版   理論社

 大阪で橋下流の教育改革がすすんでいます。最低・最悪の「改革」です。ところが、マスコミは、橋下「改革」をもてはやすばかりで、その重大な問題点をまったく明らかにしようとしません、情けない限りです。
いまの教育の現状に満足している日本人は、わたしを含めてほとんどいないと思います。しかし、橋下はさらに悪い方向へ引っぱっていこうとしているのです。とんでもない方向なのに、それに気がつかない人、目をつぶってはやしたてるマスコミの多いのにあきれます。
教育の手が込んだ、面倒なものだというのは当然のことです。だって、人間を扱うのですから。たとえば、人間は誰だって反抗期を経なければいけません。口先だけは反抗していても、本当は甘えたい。そんな矛盾した心理を見抜いてうまく対処するのが大人であり、教師です。
そして、貧乏という問題があります。お金がないと、何かと困ることは多いわけです。お金がないと家庭での親子の会話も乏しくなることが多いのです。そうすると、子どものボキャブラリーは貧しくなり、学業成績にもマイナスに影響します。
この本は1974年に刊行されたものです。今から38年も前の本ですが、いま読んでも古さをまるで感じません。
橋下がしているように教師をいじめたら、結局は子どもたちをいじめるのと同じです。「ダメ教師」を排除するということは、「ダメ生徒」を排除すると同じです。トップのエリートだけを育てればいいというのでは公教育ではありません。
 教育の現場は面倒くさいもの、それにつきあうのは大変だけなもの。それをじっと我慢して見守るのが大切なことなんです。
いい本でした。読んで心が洗われる気がしました。
(1978年3月刊。1200円+税)

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