弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アフリカ

2024年6月 7日

運び屋として生きる


(霧山昴)
著者 石灘 早紀 、 出版 白水社

 モロッコの北部にスペイン領の町がある。いわゆる飛び地。
 この国境地帯は、アフリカからヨーロッパを目ざす移民や難民の経由地。なので、国境には高さが6メートルもあるフェンスが3重に張りめぐらされていて、監視カメラやセンサーで警備されている。そして、この国境を毎日往来する「ラバ女」とも呼ばれる「密輸」の運び屋がいた。ジュラバ(モロッコの伝統的な民族衣装)の下に洋服を隠した女性たち。運ぶのは衣料品と食料品。
 モロッコには、運び屋が4万5千人、間接的に関わっている人は40万人いた。
 当局から暴行(性的なものも)されたり、商品を没収されたりもするが、法的な検挙はなかった。
 この本は、日本人女性が現地で体当たり取材して判明したことを紹介しています。勇気ありますね。
 モロッコは移民の送出国。モロッコ国外に住むモロッコ人は540万人(2020年)。海外に住むモロッコ人から本国への送金額は90億ドルをこえ、モロッコのGDPの7%超を占めた。
 フランスには、100万人のモロッコ人が住んでいる。
 私が30年前に南フランスのエクサン・プロヴァンス大学の外国人向け夏期集中講座を受けたときの講師も若い元気なモロッコ人女性でした。
 2015年11月と2017年8月にパリとバルセロナで起きた同時多発テロの容疑者の多くはモロッコ系だった。しかし、生まれはモロッコだとしても、育ったのはフランスであり、スペインだったのですから、モロッコにだけテロの原因を求めると、間違います。
 モロッコにいるサブサハラ移民の存在は、モロッコにとっての切り札となっている。
 運び屋のほとんどは、50~100キロにもなる商品を背中にかついで運んでいて、「密輸」であることを隠しもしていなかった。彼女らは、「自分用のお土産」を持ち帰るという建物なので、本来なら科せられるはずの関税20%を支払わず、商業輸入していた。
 この20%というのは、実に大きいですよね。ここに「密輸」ビジネスの合法的根拠があるわけです。
運び屋になるには、言語能力も特別なスキルも何も必要なく、ネットワークも不要。ただ、ビザ(責証)免除の対象となることだけが求められる。なので、現地の女性がなるわけです。
運び屋は35~60歳の貧困層の女性が中心。
モロッコの非識字率(文盲の割合)は、男性22%、女性42%(2014年)。女性だけをみると、都市部の非識字率は31%なのに対して農村部では60%超。
モロッコ社会では、運び屋は売春婦と同等の社会的地位にあるとみられている。
ところがモロッコは、2019年10月、重大な方向転換をした。長いあいだ容認してきた「密輸」を根絶すると宣言した。これはモロッコの国産品の競争力向上を目ざしたもの。すっかりなくなってしまったのでしょうか...。
モロッコにおける密輸の状況を現場に行って聞き取り調査もして、まとめた論文が分かりやすい本になっています。問題状況をかなり認識することができました。
(2024年4月刊。2800円+税)

2024年5月20日

カーイ・フェチ(来て踊ろう)


(霧山昴)
著者 菅野 淑 、 出版 春風社

 セネガルの路上やナイトクラブで開かれるパーティで踊られるダースである、サバールを徹底的に解き明かす本です。
サバールダンスはなかなか難しいようです。一見するとやさしく真似できそうなのですが、ドラマーと息を合わせるのは至難の技(わざ)なのです。
 一度、ユーチューブで見てみたら、もう少し理解できるのかもしれません。文字だけでいうと、次のとおりです。軽い飛躍をともないながら、右足を高く振り上げ降ろす一つ目の動きに続き、左右交互に足を踏みつつ、大きく左右の腕を扇風機かのごとく振るステップ。踊り手の身体と、ドラマーとが「会話」する。この「会話」こそが、サバールダンスを踊る上で重要な要素である。ここまで書いたあと、ユーチューブで見てみました。たしかに日本にはない、激しく全身を動かします。
 セネガルはアフリカ大陸の西にあり、その広さは日本の半分ほど。人口は1773万人。21の民族がいて、公用語はフランス語。イスラム教徒が95%で、キリスト教徒は5%。
 首都ダカールの人口は340万人。かつてカースト制度があり、現在でも公式には廃止されていても、根強く残っている。踊るのは身分の低い人(ケヴェル)がするものという見方が厳然として存在している。サバールの太鼓を演奏するのは、男性のケヴェルだけ。
 ダンサーの足はペンであり、ドラマーが演奏する音符を描く。良いドラマーは、音符の読み方を知る必要がある。こうして、即興的な「会話」が成立する。
 サバールが踊られる場は、娯楽であり、人生儀礼を祝う場であり、若い女性の社交の場でもある。
日本人女性がセネガルに行って、このサバールダンスを身につけ、なかには一生の伴侶を得て、日本にカップルで戻ってくるケースも少なくないとのこと。そして、サバールダンスを日本で教えるのです。すごいですね。
 日本に在住するセネガル人のダンサーやドラマーは全員が男性で、女性はいない。
 日本人にとって、サバールダンスを学ぶ難しさは、手と足をバラバラに動かさなければならないうえ、跳躍をともない、かつ一定のテンポで踏むステップではないから。
 しかし、このサバールステップを踏めずして、サバールダンスを体得したとは言い難い。
 サバールダンスの魅力は、日本の踊りとの共通点がなく、独特で唯一無二のダンス、そして複雑なリズムにある。
 いやあ、すごいですね。アフリカのセネガルに定住してまで、その独特のダンスを身につけようという日本人女性が少なからずいるというのに、驚きました。
(2024年2月刊。3500円+税)

2024年4月22日

今日、誰のために生きる?


(霧山昴)
著者 ひすいこたろう、SHOGEN 、 出版 廣済堂出版

 まずは衝撃的なコトバに出会いました。ハッとさせられます。
効率よく考えるのであれば、生まれてすぐ死ねばいい。
なーるほど、そうなんです。今の世の中、とくに自民党と公明党は効率一本槍で押し通しています。人間を育てるとき、効率優先でいいはずがありません。
 人はいかに無駄な時間を楽しむのかっていうテーマで生きているんだよ。
きっと、そうなんですよね。「ムダ」なようで、実は決して「ムダ」ではない時間に私たちは生きているわけです。
 アフリカのタンザニアにある「ブンジュ」と呼ばれる村民200人の村に日本人のショーゲン氏は生活し、そこでペンキアートを学ぶのです。
 しかし、入村するには3つの条件をクリアーしなくてはいけません。その3つとは...。
 その1、食事に感謝できるかどうか。感謝の心をもって丁寧に味わうこと。ちなみに、主食となる「ウガリ」というトウモロコシのパウダーをお湯で練って固い生地にしたものは、美味しくないそうです。
 その2、「ただいま」と言ったら、「おかえり」と言ってくれる人がいるか。この村では、家族という血縁にこだわらず、常にいくつかの家族が助けあって生活している。
 その3、抱きしめられたら、温かいと感じられる心があるか。これは、肌の触れあいの大切さ。人の温もりが分かる心があるかどうか。
 ショーゲンは、「はい」と答えて、入村が認められました。
 ケンカは、その日のうちに仲直りする。というのも、言い争いをしている大人を、子どもが見たくないから...。うひょう、その発想はすばらしいですね。
子どもと言えば、子どもの前で失敗を隠すのはやめてと頼まれます。なぜなら、大人が失敗するのを見せることで、子どもは出来ないことは恥ずかしいことではないと学び、失敗を恐れない子どもになると考えるからなのです。
 なるほど、なるほど、これは大いに一理も二理もありますね。
この村では午後3時半になったら、みんな仕事をやめる。
 ここは日が暮れるのが早いし、電気がないので、日の明るいうちしか家族の顔が見れない。なので、早く家に帰って、家族の顔を見るため、残業なんかせず、午後3時半になったら、みんな一斉に仕事をやめる。それが仕事の途中であっても、そんなの関係ない。
 挑戦するということは、新しい自分に会えるという行為だ。
 挑戦には失敗がつきものだけど、いつか失敗のネタが尽きるときが来る。失敗が満員御礼になるときが来る。そうしたら、成功するしかない。
 ヤッホー、です。こんな考え方ができる人たちがいるんですね、世の中には。これまた、すごいことです。
 この村はアフリカのタンザニアにあるそうです。そして、ショーゲンが学んだペンキ画は、下描きなしで6色のペンキで描くというもの。そのいくつかが紹介されていますが、独特の美しさをもっている画です。
 いったい、本当にこの「ブンジュ村」というのは存在するのでしょうか...。それとも、夢にすぎない、おとぎ話なのでしょうか...。
(2024年3月刊。1760円)

2024年3月20日

楽園


(霧山昴)
著者 アブドゥル ラザク・グルナ 、 出版 白水社

 私と同世代で、2021年のノーベル文学賞を受賞した作家です。
 アフリカ東部のタンザニア(旧ザンジバル)に生まれ、1964年の革命騒動で、イギリスに渡り、大学に入りました。
 解説によると、グルナの作品は美しく簡潔な文体でつづられるとのこと。
 主人公は12歳の少年ユスフ。苦境に陥った父親の借金のかたとして、大商人アズィズに引き渡され、アフリカ内陸奥地に向かう隊商に加って働くのです。ユスフが18歳になるまでに体験する出来事が語られていきます。
 ユスフというの旧約聖書のヨセフであり、コーランの預言者ユースフの話が下敷きになっている。この小説の舞台は20世紀初頭のドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)。アズィズの隊商は、ベルギー領コンゴ東部を目指す。隊商にはインド人の資本が提供されている。また、既に廃止されたとはいえ、奴隷の身分が残存している。
著者がノーベル文学賞を受賞したときの記念講演が紹介されています。
 書くことはよろこびであり続けている。私も同じです。書くことなしに私の人生はありません。書かないではおれません。
 著者は、若いころ、無謀にも郷土を逃げ出し、置き去りにした。そのことを反芻(はんすう)したのです。そして、語るべきこと、取り組むべき課題があり、それを言葉として深く考えるべき後悔や怒りがあると感じるようになったのでした。そこで、自己満足に浸る支配者たちが自分たちの記憶から抹消しようとする迫害や残虐行為について書かなければならなかった。
 そして、口あたりのいい表現で、支配の本来の姿が覆い隠され、自分たちもその偽りを受け入れていた。
 書くことを通じて、自分たちを見下し、軽視する人たちの自信満々で、いい加減な物言いに抗(あらが)いたいと強く願うようになった。
 書くことは、自分の人生において意義深く、夢中にさせてくれる営みであり続けている。
 なるほど、そうなんですよね。私はいま、昭和初期に7年のあいだ東京で生活していた亡父、ちょうど17歳が24歳という青春まっただなかの多感な年頃でした、の生きざまを調べ、考え、書いているところです。こんなに夢中にしてくれることはほかには滅多にありません。
 この本が1ヶ月で2刷になっているのに驚きました。さすがはノーベル文学賞受賞作家です。
(2024年2月刊。3200円+税)

2024年3月 6日

ガーナ流・家族のつくり方


(霧山昴)
著者 小佐野アコシヤ有紀 、 出版 東京外国語大学出版会

 アフリカのガーナ大学に留学した20歳の日本人女性がガーナで見たものは...。
 血縁を超えた家族関係を結ぶ人々だった。
 私にとってガーナは、エンクルマ大統領です。無残にもアメリカ(CIA)に暗殺されましたが、アフリカ独立の英雄でした。
 ガーナは西アフリカにあり、人口は日本の4分の1、国土は日本の3分の2。サハラ以南では最初に植民地支配から独立した。1960年だったのではないでしょうか。
 ガーナはチョコレートの原料となるカカオを栽培する国。
 ガーナの7割がキリスト教、2割がイスラム教。南部はキリスト教人口が多数を占め、北部にはムスリムが多い。ガーナの人口の4割を占めるアカンの言葉がチュイ語。
 列車の代わりに「トロトロ」という乗り合いバスが走っている。
著者がガーナに留学したのは2017年2月のこと。
 ガーナには性別と生まれた曜日によるデイネームがある。著者の「アコシヤ」は日曜日。そして「機敏さ」を意味している。
 日本にいるガーナ人は、2万5千人ほど。埼玉県草加市と川口市、八潮市に多い。
 ガーナでは祖母が主力となって子育てするのは一般的なこと。そして、子育てはみんなでするものである。
 「あなたは何人家族ですか?」。この質問に対して、日本人なら迷うことなく、「核家族」の現状の人数を答えるに決まっている。しかし、ガーナは違う。
 「ふだんの生活のなかで、家族として接している人の数」を訊いていると説明すると、その答えは、「105人」、「18人」、「50人」と、日本人の私たちからすると、とんでもない人数の答えが返ってくる。ガーナでは、血のつながりがなくても家族だから...。
 ガーナでは、子どもが生みの親(生親)のもとを離れて育つのは決して珍しいことではない。
 日本では「核家族」というのがあたり前になっていますが、これは日本の「特殊現象」であって、「家族」とはいったい何なんだというのを、ガーナの「家族」との関係で改めて考えさせられました。
それにしても20歳でガーナの現地社会に溶け込むって、すばらしいですね。私には20歳のころ、そんな勇気はまったくありませんでした...。
 あなたにも、視野を広げるため、ご一読をおすすめします。
(2023年12月刊。2200円+税)

2023年12月30日

母を失うこと


(霧山昴)
著者 サイディヤ・ハートマン 、 出版 晶文社

 奴隷制を意味するスレイヴァリーという用語は、スラヴという言葉から派生している。中世の世界では、東ヨーロッパ人が奴隷だったことによる。うひゃあ、知りませんでした・・・。
 アフリカのガーナは、よその国より奴隷制のため地下牢や牢獄、奴隷小屋を残している。地下に埋もれた狭く、うす暗い牢室、格子つきの洞窟のような牢室、細い円柱型の牢室、じめじめとした牢室、にわか作りの牢室。15世紀末以来、金(ゴールド)と奴隷をめぐって、ポルトガル人、イギリス人、オランダ人、フランス人、スウェーデン人そしてドイツ人は、アフリカの奴隷交易における拠点を確保するため、50もの恒久的な駐屯地と要塞、そして城を建造した。地下牢や貯蔵庫、また収容所には、大西洋をわたって輸送されていくのを待つ奴隷が収容されていた。18世紀末ころ、ガーナには60もの奴隷市場が存在していた。
 1950年代、60年代、アメリカにいたアフリカ系アメリカ人は大挙してガーナに押し寄せた。パン・アフリカ主義という夢のもとに、明日にでも奴隷制と植民地主義の遺産が崩壊するかのような気運にあふれていた。
 ガーナのエンクルマ大統領は独裁者だった。エンクルマは、世界中の黒人の自由のために妥協なく闘った。エンクルマが失脚したとき、アフリカ系アメリカ人は涙したが、地元のガーナ人は歓喜し、街頭に繰り出して踊った。
 ガーナは自由通貨を発行せず、ヨーロッパで製造された米ドルが通用していた。
 アフリカでも、アメリカに劣らず、黒人の命が消耗品同然に扱われている。
 ポルトガル人に捕えられた女性の右腕には十字架の焼印が押された。
 コンゴにおける王侯貴族はカトリックに改宗し、奴隷貿易で財を成した。
 奴隷は家系をもたなかった。奴隷は人間を数えるときの単位ではなく、家畜のように「頭」と数えられていた。
 商品としての奴隷は、生きた積荷と呼ばれ、またオランダ人は「ニグロ」という言葉を「奴隷」と同義として使った。奴隷船は「ニガー・シップ」呼ばれていた。
 ヨーロッパに連れてこられたアフリカ人「捕虜」は、自分たちはヨーロッパ人から食べられるために連れてこられたと、恐怖心を吐露した。白い人食いへの恐怖は、暴動と自死を誘発した。
 奴隷所有者は、奴隷の記憶を根こそぎ、つまり奴隷制以前の存在する証拠をことごとく消し去ろうと努めた。過去のない奴隷は、復讐すべき相手が分からない。
 奴隷制度から生まれた子どもは、母親とともに何も相談することなく、完全に父親の系図に組み入れられた。奴隷の母親は、子に引き継がせ得る生得権を何ひとつ持たないので、女奴隷の子に触れるのはペニスだけだと言われた。
 コンゴを何度も訪れたアメリカの学者による紀行文でもあります。奴隷制が現代になお生きているという指摘には、ぞぞっとさせられます。
(2023年9月刊。2800円+税)

2023年11月29日

太陽の子


(霧山昴)
著者 三浦 英之 、 出版 集英社

 アフリカはコンゴの山奥に日本人の子どもが大勢いるという衝撃のルポです。
 中国の残留孤児は『大地の子』でも有名になりましたし、フィリピンにもいると聞いていましたが、アフリカにまでいるとは...。
 舞台はコンゴ民主国(旧ザイール)です。アフリカには、もう一つコンゴ共和国というのもあります。日本企業(日本鉱業)は1970年代にコンゴで鉱山開発をすすめていて、日本からも若い労働者を1000人ほども送り込んだのでした。
 日本鉱業という会社は、日立鉱山を発祥の地としていて、JR日立駅前には資料館「日鉱記念館」がある。そこには、日本鉱業がコンゴでムソシ鉱山を開設していたときの資料も展示されている。このムソシ鉱山は1970年代に銅を採掘し、精鉱していた。
 しかし、1971年の「ニクソン・ショック」によって、1ドル360円の固定相場が1ドル308円前後へと変動相場制になり、コンゴ経済も独裁者モブツ大統領による無謀な経済政策によってコンゴ経済が崩壊した。さらに、隣国アンゴラで内戦が始まり、輸送コストが高騰。
 しかし、世界の合同価格が急速に下落していった。
 結局、総額720億円もの巨大プロジェクトは、その投資額さえ、回収できないまま。
 1983年に日本はコンゴから完全に撤退した。それまで、日本鉱業の社員など日本人が670人ほど現地に住みつき、コンゴ人など4000人ほどの従業員の住宅が整備され、人口1万人をこえるビッグタウンが突如として出現し、やがて、すべて消え去った。
 この地に単身赴任で働きに来ていた日本人社員が現地で次々に結婚し、子どもが産まれたのです。
 この本の真ん中に、父は日本人と主張する人たち(男も女も)の顔写真が紹介されています。ユキもケイコもユーコも、まごうことなく日本人の顔をしています。DNA鑑定なんかするまでもありません。男性のムルンダ、ケンチャン、ヒデミツも日本人の顔そのものです。
 日本鉱業の幹部だった人たちは、著者の質問に対して全否定しましたが、これらの顔写真はまさしく動かぬ証拠です。
 コンゴの日本大使館は、日本人残留児の父親探しには協力できないという態度でした。日本鉱業が全否定することが影響しているのでしょう。
 笹川陽平(日本財団)は、日本食レストランを現地に開設するとき、その全資金を提供したとのこと。
 日本人労働者たちは単身赴任でコンゴにやってきて、ここで家庭を築いたものの、泣く泣く日本に戻ってからは、アフリカ(コンゴ)とは例外なく完全に縁を切ったようです。
 父系制の強いコンゴで、父親のいない家庭で育った子どもたちの苦労がしのばれます。
 ところが、著者の取材に応じ、顔写真まで撮らせた男女は、いずれも、あらゆる困難にめげず、アフリカの地で、「日本的」勤勉さを発揮して、それなりの仕事と生活を切り拓いた人も少なくないというのです。顔だけでなく、性格までもが日本的だという記述を読むと、その大変な苦労を想像して思わず涙があふれ出ました。
 日本に戻った人たち(父親)を探すのは止めたほうがいいと何人からも言われ、実際にも父親が死亡したりして、父親探しは難航しています。でも、アフリカにいて、日本人の名前と顔もして、心を持つ人たちが自分の父親を知りたい、会いたいというのも自然な人情です。はてさて、いったいどうしたらよいのか、分からなくなりました。
 新潮ドキュメント賞、山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞したのも当然と思える労作です。ご一読ください。
(2023年9月刊。2500円+税)

2023年11月13日

私の職場はサバンナです!


(霧山昴)
著者 太田 ゆか 、 出版 河出書房新社

 南アメリカ政府公認、そしてただ1人の日本人女性サファリガイドである著者がサファリを案内してくれる、読んで楽しく元気の出てくる本です。
 サファリとは、ヒスワリ語で「旅」という意味。大自然の中で、野生動物を観察しに行くアクティビティのことです。
 サファリガイドは午前3時45分に起床し、4時15分に出勤(といっても自宅兼職場)。サファリに出発するのは午前5時。3~4時間ほどのコースです。戻って午前9時に朝ごはんを食べて休憩し、午後4時ころから2回目のサファリに出発します。同じく3~4時間かけます。夜8時に仕事を終え、ときにはツアー参加者と一緒に食事。
 自宅といっても、著者は同僚6人との共同生活(部屋は個室)なので、夕食は交代制でつくります。
 著者は子どものころの夢は獣医になることでした。でも、理系科目が苦手だったのであきらめて、環境保護の分野へ転身。サファリガイドの訓練校があり、南アフリカ政府公認のガイド資格があることを知って、まだ英語に自信はなかったものの、大胆にも入学したのです。
 この訓練校では、実地での教育・訓練と教材を使っての授業を受けます。英語の授業はついていけなかったので、スマホで録音して夜に自分のテントで聞き直します。
 このとき、「生まれて初めて、勉強をするのが楽しいと心から思えた」とのことです。やはり、目的意識がはっきりしていたからでしょうね。
6ヶ月間の訓練のあと、サファリガイドになるための試験を受けました。200種類以上の鳥の鳴き声を覚え、鳴き声を聞いたら、すぐに鳥の名前を言わなくてはいけません。また、動物の足跡を見て、動物の種類、右足か左足か、前足か後ろ足か、どれくらいのスピードで歩いているかを答えます。
 著者は、なんと、1回でパスしました。次は、6ヶ月間の実習。すぐに実際のツアーを案内させられました。これで無事に終了しても、次なる難関は、就職先が見つからないということでした。
 外国人(日本人)であることは不利。道なき道をサファリカーで進むなんて女性に出来るはずがない、パンクしたタイヤの交換ができるのか...。そんな偏見にあい、困難にもめげずに探していたら、環境保護のボランティアを運営する団体にめぐりあえ、ついにサファリガイドとしてスタートできたのでした。日本の両親は猛反対でしたが、結局は、渋々、追認してもらったとのこと。すごいです。
私はNHKテレビ『ダーウィンが来た』を毎週欠かさず楽しみにしていますので、ライオンの生態も少しは知っているつもりでしたが、ライオンのオスは8頭のうち1頭しか無事に大人になることが出来ないというのには驚きました。
 また、ライオンを狙った密猟も知りませんでした。ライオンの歯や爪を装飾品にする、骨はトラの骨の代替品として、伝統薬として高値で取引されているとのこと。ひどい話です。
 過去を20年間で、ライオンは43%も減少したといいますので、半減したわけです。まったく人間は罪つくりの存在です。
 密猟対策として、サイの角(つの)が狙われるので、あらかじめ切除してしまう作業がすすめられています。ところが、オスのサイは角で戦って、メスを得るわけですので、その武器を取り上げてしまったら、どうなるのかが心配されているとのことです。悩みは尽きませんね...。
 「大好きな動物を守る」という幼いころからの夢を実現し、サファリガイドを始めて7年たった著者による若さと喜びにあふれたレポートです。ぜひ、サファリ・ツアーに行ってみたいと思いました。でも、朝5時出発して、3時間とは...。
(2023年5月刊。1562円)

2023年10月14日

ナイル自転車大旅行記


(霧山昴)
著者 ベッティナ・セルビー 、 出版 新宿書房

 52歳のイギリス人女性がナイル川の源流まで一人で自転車旅行した体験記です。
ときは1986年のこと。カイロに着いたのは11月初め。7200キロに及ぶナイル川源流への旅を思い立ったのは、前年冬に大英博物館にいたとき。といっても、著者は、その前にヒマラヤ、中近東そしてトルコを自転車旅行しています。また、フリーランスのカメラマンとして活動していたこともあります。
夫と成人している3人の子どもをイギリスにおいて、エジプトから自転車で南下していきます。
 自転車はロンドンで特注したもの。著者自らデザインし、車体を鮮やかな赤に塗り、ギアは18段。現地を走ると、この赤い自転車は目立つこともあって「アーアガラ」と呼ばれた。「アガラ」はアラビア語で自転車。「アー」は感嘆のコトバ。
最少の荷物にしても、結局は30キロの重さ。今どきの電動自転車なら、スイスイでしょうが、いくら18段とはいえ、自分の足でこぐのですから大変です。
 10リットル入りのプラスチック容器に水を入れ、それとあわせて、固形セラミックコアを使うスイス製浄化ポンプを携行し、これで助かったのでした。
 本は持っていかない。驚くべきことに、私は絶対まねできませんが、著者は本がなくても読書を楽しむことができるというのです。ええっ、ど、どうやって・・・。
 著者は学校で時代遅れの教育を受けたので、散文や詩をたくさん暗記させられた。それで、頭の中にしまってある本から、一説ひねり出すというわけ。これは、すごいことですね。
 ウォークマンもスマホもありませんので、音楽を聴きながらの自転車旅行でもありません。もっとも、耳にイヤホンをつけていたら、周囲の状況を察知するのが遅れて危ない目にあったことでしょう。
 猛獣に襲われるということはありませんでしたが、学校帰りのガキ連中には何度もひどい目にあったとのこと。「宿敵」とまで表現しています。いたずら小僧というのは、どこにでもいるのですね。
 コース周辺の貧しい村人からは歓待されることが多かったようです。そして、英語を話せる若者がところどころにいて、助けられもしました。
 イザベラ・バードというイギリス人女性が明治の初めに東北から北海道を日本人の若者を従者として一人旅しています。この女性も勇気がありましたが、この本の著者もすごいものです。エジプト奥地のきちんと舗装されているわけでもない道路を1日最高200キロも赤い自転車で走行したというのです。信じられません。
エジプトからスーダンに入り、ウガンダに入国します。どこも軍隊が反乱したり、治安の良くないところです。著者は少年兵が銃をもち、手りゅう弾を持っているのを見て怖いと思いました。ガキに鉄砲なんか持たせたら、面白半分に何をやるか分かりませんよね。少年兵はどこの国でも怖い存在です。
野外トイレは、砂と灼熱の太陽が、すべてを乾燥させるから、衛生的と解釈したというのも、さすがアフリカならではのことです。そこはイギリスや日本とはまったく異なります。
大体は1日に30キロから40キロを走るのがやっとだったと書かれています。見知らぬエジプトの地を走るのですから、それはそうでしょうね。
この当時、アフリカの女性は、6歳のころ割礼された。なかでもスーダンは徹底していた。少女の外陰部は切除され、小さな穴だけを残して、切り口はきつく縫い合わされる。なので、自然分娩(出産)するときは、陰部を切開して広げなければならないので、自宅で出産するのは難しい。いやはや、とんでもない習慣です。アフリカでは、少なくなったようですが、まだ根絶はしていないと聞いています。
このころ、アフリカの悪路を走るのは、トヨタ、三菱、いすゞなどの四輪駆動車。その優れた性能に、著者も感嘆しています。今は、どうなんでしょうか・・・。
日本の女性もタフですが、イギリス人女性も負けず劣らずタフのようです。
(1996年1月刊。2400円)

2023年9月24日

サハラてくてく記


(霧山昴)
著者 永瀬 忠志 、 出版 山と渓谷社

 アフリカのサハラ砂漠を日本人青年がリヤカーをひっぱりながら1人で横断した体験記です。信じられません。
古い本です。1994年10月に出版されていて、アフリカをリヤカーで横断(縦断か)する旅を出発したのは1989年6月のこと。そして、最終目的地のフランスのパリに着いたのは翌年の6月でした。このとき著者は33歳。高校での教員生活4年を経て、貯金300万円をはたいて旅に出たのです。
サハラ砂漠をリヤカーで旅をすると、どうなるか...。砂嵐に見舞われる、何もかもが砂だらけ。リヤカーの中から、耳の穴、髪の毛まで砂だらけ、目を細くして砂が入らないようにする。ターバンを頭に巻いて歩く。
 顔中がヒゲ面の青年が砂漠でリヤカーをひっぱっている写真が本の表紙になっています。柔らかいフワフワの砂地がある。リヤカーがぐっと重くなる。力いっぱい引っぱる、汗ダクダクだ。腕は汗をかいて塩で白くなる。シャツも塩分で白くなる。リヤカーの車輪が砂にはまり込んで、どうにも動かない。板を敷くことにする。2枚の板を1列に置き、片方の車輪を乗せて前へ引く。2枚目の板まで引くと、後ろの板を前へ持ってきて置く。また、前へ引く。また、後ろの板を前へ置く。もう片方の車輪は砂にめり込んだままだ。
 1回で1m80cmだけ前進する。10回くり返して18メートルの前進。100回くり返して180メートルの前進。200メートル進むのに40分から50分かかる。夕方5時半まで歩く。そこでテントを張る。ハードな1日だった。
朝食のあと、また歩き出す。周囲の地平線を見渡し、ふと我に返る。周囲は砂漠のみ。誰もいない。一人ぼっちだ。朝、起きたときの気温は13度。日によっては5度まで下がって、冷え込む。
何を求めてサハラ砂漠に来たのだろう...。目の前にあるサハラは、ただ砂と太陽の地獄のような姿しか見せてくれない。
歩いている時間だけで6から8リットルの水を飲んでいる。朝食と夕食で使う水も入れると、1日に10リットルの水を使っている。
こうやって、砂漠のなかを1週間も歩いたのです。とてもとても信じられません。たまに砂漠を車で走る旅行者から水や冷えたビールをもらったこともあったようですが、このたくましさ、精神力には、圧倒されすぎて声も出ません。
ケニアを出発して西の方へ行って北上しています。リヤカーを引きながら1日に40キロも歩いたというのです。これまたそのタフさに息を呑みます。タフとはいうものの、何回も下痢をして1時間おきに便所にかけ込んだこともあります。そして、途中でマラリヤにもかかりました。また、リヤカーもパンクして、その修理をしたり、タイヤを交換したり、大変です。
靴は5足を、それこそ履きつぶしました。傑作なのは、この5足を途中で捨てないで、5足全部を写真にとっています。また、ボロボロになったシャツ5枚を並べた写真もあります。見事にボロボロのシャツです。
33歳の日本人青年ですが、パリに着いたときの写真では、まるでライオン丸のように濃いヒゲの中に顔があるという感じです。
このヒゲがなければもっと若く見られて、危い目に遭ったのでしょうね。ともかく、1年後、無事に日本に戻れたというので、ホッとする旅行記でした。

(1994年10月刊。1700円)

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