弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アフリカ

2008年11月 4日

アフリカ・レポート

著者:松本 仁一、 発行:岩波新書

 この本を読むと、アフリカの現状には絶望的な気分に陥ってしまいます。アフリカ解放運動の栄光が地に堕ちてしまったようで、残念でなりません。
 列強の植民地からの脱却を目指した指導者がとてつもなく腐敗し、堕落してしまったというのを知ると、ええっ、どうして・・・・・!?と、つい叫びたくなります。
 まずはジンバブエ。その人口1300万人の4分の1にもあたる300万人が隣国の南アフリカへ越境出国していった。しかも、不法出国者のほとんどが40歳以下の男性。働き盛りが大量出国するようでは国は壊れてしまう。
 ジンバブエのインフレ率は、政府発表でも年率7634%(2007年7月)。それが2008年には16万%という。まるでなんのことやら、わけの分からない数字ですよね、これって。
 かつて、アフリカには希望の星とも言われたルムンバ大統領がいた。1960年6月にベルギーから独立したコンゴ(旧ザイール)の大統領だ。ルムンバは獄中で暗殺される前に遺書を書いた。
 「子どもたちよ、私はもうお前たちに会えないかもしれない。しかし、お前たちに言っておきたい。コンゴの未来は美しい、と」
 しかし、それから半世紀がたった今、コンゴは美しくない。ルムンバ政府をクーデターで倒したモブツ将軍は、独裁者となった。1997年にモブツ政権が崩壊しても、今なお政情は不安定だ。銅、コバルト、そして希少金属に恵まれたアフリカ最大の鉱物資源国でありながら、その富は国家の会計に寄与することなく消えていく。
 1960年代から70年代にかけて、アフリカの国の多くは農業輸出国だった。しかし、腐敗した指導者たちは、農業に関心を払わなかった。その結果、アフリカは農業輸出国から輸入国に落ち込んでしまった。そのマイナスは年間700億ドルにものぼる。
 アフリカのほとんどの国で、指導者は自分の部族に属するもの、地縁、血縁者に国家利益を分配し、それによって自分の地位の安定を図っている。その結果、国づくりが放置される。指導者が私物化した巨額の公金は海外の銀行に蓄財され、国内の市場に出回らない。蓄財したお金が社会資本として回転しないため、経済の進展もない。指導者は「敵」を作り出すことで自分への不満をすりかえる。そして、それは国内の対立を激化させ、国家的統一とは逆の方向へ国民を駆り立てる。
 南アフリカの国民解放組織(ANC)も、政権の座に就くと、幹部たちはあっけなく腐敗しはじめた。その結果、治安が悪化する。マンデラ政権が誕生した1994年に、1ヶ月平均の殺人事件は1400件を超した。1日あたり47人が殺された。警官殺しも月に15件あった。そして、2005年度は、殺人が1万8千件を超し、強盗は20万件に近く、強姦事件は5万件を超す。
いま、アフリカでは、中国が新植民地主義の主役となろうとしている。中国政府がアメリカの石油を持ち出し、中国人商人が安価な中国製品を持ち込んで、その国の市場を占拠しようとしている。そこで、中国人は、ギャングに目を付けられている。アンゴラで中国批判はご法度だ。
 そんな大変なアフリカにおいて、何人かの日本人が国の再建に貢献している話も最後に紹介され、少しだけほっとします。いやあ、ともかく大変すぎる深刻な状況です。南アメリカで進んでいる革新の息吹とは違って、アフリカには残念なことがあまりにも多すぎますね。人間も大変ですけれど、シルバーバックのゴリラなども破滅の危機にあるようで、こちらも心配です。 
(2008年8月刊。700円+税)

2008年8月22日

「アフリカに緑の革命を!」

著者:大高未貴、出版社:徳間書店
 南アメリカには次々にアメリカの言いなりにならない自立的な政権が出来て、国づくりが前進しているように思いますが、アフリカの方はなぜか遅々とすすみません。
 1960年代初頭のガーナのエンクルマ大統領(アメリカによって暗殺)をはじめとして、すごく新鮮な独立の息吹を感じたものですが・・・。一体、どうしたのでしょう。この本は、そんな困難なアフリカで地道な活動を続けている日本人の団体を紹介したものです。なるほど、なーるほど、大変な苦労があるのだろうな、本当にご苦労さまです、と思わずつぶやいたことでした。
 その仕掛け人は、なんと右翼の大立者のあの笹川良一です。うへーっ、そ、それだけでうさんくさい。つい、そう思ってしまいますが、この本で語られていることは、なかなかどうして、アフリカでは立派なことをやっているようなのです。
 当時の日本財団の会長であった笹川良一は、物資援助では根本的な解決にならないと考えて、アメリカのジミー・カーター元大統領にも協力を求めてNGOを設立した。アジアに「緑の革命」をもたらし、ノーベル平和賞を受賞したノーマン・ボーローグ博士に協力してもらった。SG2000とよばれるNGOだ。飢えた者に一匹の魚を与えるよりも、魚を釣る方法を教えるほうが、ずっと効果的で効果がある。なるほど、それは、そのとおりです。
 アフリカに出張するときの必需品は、下痢止め、痛み止め、マラリアの薬、トイレットペーパー、そしてミネラルウォーター。どんなときでも必ず薬とトイレットペーパーをもち歩く。食欲がないときでも、無理にビスケットを食べて紅茶で胃に流しこむ。アフリカではミネラルウォーターでも信じられない。安心して飲める冷たい飲み物はコーラだけ。それから、薬も飲んだらいけない。インドやブラジルから安くて悪質な偽薬が大量に入り込んでいる。うひゃあ、そ、そうなんですか。でも、信じて飲んだら効くのが薬ですよね。
 アフリカでは、今日は1食たべられたぞ。オレはリッチだ!が標準である。アフリカでは、人々は明日どう生きるか、より、今日どういきるのかに主眼を置いている。
 農民は字が読めないので、ビラやパンフレットをつくっても意味がない。アフリカのマスメディアはラジオである。
 アフリカの男性が怠惰な理由はマラリアによる。何度も発病すると、体に力が入らなくなって、だるさから通常の日常生活が送れなくなる。
 アフリカには援助貴族という言葉がある。国連などからの莫大な援助収入の大半が政府高官のポケットに収まってしまう。たとえば、ナイジェリアでは、年間外貨収入120億ドルのうち100億ドルは政府高官のポケットにおさまってしまう。そこで、援助する側が現金でダメなら現物援助にしたら、今度は現物が消えて闇市で高く売られていた。
 SG2000は、無料配布はしない。あくまで農民の経済的自立を促すためのものであるから。従来の援助方式が本当に有効なものだったら、いまアフリカに饑餓や貧困の問題は起きていないはず。
 SG2000は、現地アフリカに甘えの構造をつくらないよう努力している。たとえば、現金のやりとりを一切しない。すごいですね。心からの拍手を送ります。
(2008年4月刊。1500円+税)

2008年7月31日

ぼくは少年兵だった

著者:イシメール・ベア、出版社:河出書房新社
 初めて戦争の巻き添えをくったとき、ぼくは12歳だった。
 激しい内乱の起きていた西アフリカのシェラレオネで12歳から15歳まで少年兵士として戦闘に従事し、生き抜いた著者の体験記です。この本は「戦場から生きのびて」というのがメイン・タイトルになっていますが、この本を読むと、まさしく実感させられます。よくぞ戦火のなかを生きのびられたものです。大勢の友人・仲間が次々に銃弾で倒れていくなか家族をみんな失い、著者ひとり生きのびました。それだけ運が強かったのです。
 戦争を賛美する人がいるが、戦争にロマンなどはなく、あるのは悲惨さだけ。人間を殺すことは、相手を非人間化させる行為だが、それは同時に自分の人間性もうしなわせてしまう。
 シェラレオネでなぜ内乱が起きたのかは、この本を読んでもさっぱり理解できません。ルワンダのツチ族とフツ族のような争いという明確なものはなかったようです。政府軍と反乱軍との戦いとしか書かれていません。そして、反乱軍はデビル(悪魔)というべき存在でしかありません。
 反乱軍に捕まった少年はすぐに兵士にされ、熱した銃剣で身体のどこかに反乱軍を意味するRUFを刻みつけられる。これは一生消えない傷痕になるばかりか反乱軍から絶対に逃げられないことを意味した。反逆者のイニシャルの刻印をつけて逃げるのは、殺してくださいと言っているようなもの。政府軍の兵士はそれを見たら一も二もなく殺すだろうし、好戦的な民間人だってそうするだろう。
 歌と踊りが大好きだった著者たち6人の少年は、戦争から逃げようとジャングルの中をさまよったあげく、政府軍に組み込まれてしまいます。そして、わずかの訓練を受けると、たちまち本物の戦場へ駆り出されていきます。
 戦闘行為の前に白いカプセルが渡される。それをのむと夜じゅう目がさえて眠れないのが一週間も続いた。そのうち、平気で銃をうてるようになった。
 火薬とコカインを混ぜたブラウン・ブラウニと呼ぶものを吸引し、白いカプセルを大量に飲む。それがたっぷりのエネルギーをくれる。汗びっしょりになり、着ている服をすべて脱いでしまった。身体がふるえ、目はかすみ、耳も聞こえない。あてもなく村を歩きまわる。そわそわした気分になった。何に対しても無感覚になる。何週間も眠れなくなるほどの莫大なエネルギーを感じた。夜にはみんなで戦争映画をみる。『ランボー』や『コマンドー』だ。
 ぼくらは獰猛になった。死という考えは頭をよぎりもしなかった。人を殺すのが、水を飲むのと同じくらい簡単になった。ぼくの頭は、初めて殺しの最中にぷつんと切れた。良心の呵責に耐えられないことを記憶するのをやめた。
 ぼくらは2年あまり戦い続け、殺人が日常茶飯事になっていた。誰にも同情しなかった。
 そんな元少年兵の社会復帰訓練センターに収容されます。収容所のなかで、元少年兵たちは元いた政府軍と反乱軍の2派に分かれて殺しあいもしてしまいます。
 薬の助けを借りずに眠れるようになるまでに数ヶ月かかった。ようやく寝入ることができるようになっても、1時間とたたないうちに目が覚めてしまう。夢のなかで、顔のない武装兵がぼくをしばりあげ、銃剣ののこぎり刃でぼくの喉を切り裂きはじめる。ぼくはそのナイフが与える痛みを感じる。汗びっしょりなって目を覚まし、虚空にパンチをくり出す。それから外に飛び出し、サッカー場の真ん中まで走って行って、膝をかかえこんで身体を前後に揺らす。子どものころのことを必死で思い出そうとしても、できなかった。戦争の記憶が邪魔をするのだ。
 樹皮に赤い樹液がこびりついている木のそばに行くと、捕虜を木にしばりつけて撃つという、何度も実行した処刑の光景を思い出す。彼らの血は木々を染め、雨期の最中でさえ、決して洗い落とされなかった。
 著者は社会復帰訓練センターを経て、おじさんの家庭にあたたかく迎えいれてもらって社会復帰できました。ところが、シェラレオネそのものがまた内乱の危機におそわれ、ついに国外へ脱出することになるのです。
 少年兵士たちのおかれている厳しい現実、そして少年兵士を社会復帰させることがいかに大変な事業であるかを理解させてくれる本です。
 表紙にうつっている、いかにも聡明そうで、明るい笑顔からはとても想像できない過去をもつ元少年兵士です。
 庭にある小さな合歓(ねむ)の木が花を咲かせています。紅い、ぽよぽよとした可愛らしい花です。
(2008年2月刊。1600円+税)

2008年7月25日

地獄のドバイ

著者:峯山政宏、出版社:彩図社
 北大理学部を出た日本人の若者が海外で寿司職人となって一旗上げようと、いま世界最先端のドバイで渡って体験した悪夢のお話です。世の中、何ごとも表があれば裏があるというわけですが、このドバイの話は、ちょっといくらなんでもひどすぎる。そう思いました。ドバイは地獄だという英文タイトルのとおりです。大金持ちにとっては天国のような国なのですが・・・。
 ドバイはアラブ首長国連邦(UAE)の一つ。いま大変な建設ラッシュのため、世界のクレーン車の25%が埼玉県ほどの面積しかないドバイに集まっている。ドバイの経済成長率は16%。いくらでも入れ替えのきく外国人労働者は奴隷のように扱われる。出稼ぎ労働者のために職場環境をよくしようという発想はない。高層ビル建築現場に働く外国人労働者の賃金は105ドル。一流ホテルの従業員であっても、月給3万円もあればいいほうだ。
 著者は東京の江戸前寿司職人養成学校に入った。3週間で一人前にするというふれこみだ。受講料はなんと40万円。しかし、ドバイでは寿司職人にはなれませんでした。何のコネも紹介状もなかったからでもあります。やむなく肥料会社に入り、大金持ちの社長邸宅の芝生に水やりをする仕事につきます。水道管のパイプがよく詰まるのです。
 外国人労働者の賃金をケチるから手抜き工事が蔓延し、結果的に水をロスすることになってしまう。そんな皮肉な現実があっても、大金持ちは、何とも思いません。すべてはお金で解決できるからです。
 著者は肥料会社に勤めていた。パスポートもあり、3年間のUAEの居住許可証も労働ビザも持っている。そのうえ、日本に帰ろうとして飛行機も手配していた。にもかかわらず拘置所へ入れられた。ええーっ、なぜ、なぜ・・・?
 勤めていた会社が閉鎖されたら、次の職場に移る前に拘置所に入れられることになっている。そんなバカな・・・!?
 しかし、それがドバイという国の法律。うひょう、し、信じられませんよね、これって。
 拘置所に入れられる。そのときスーツケースに拘置所の係官がわざと番号を間違える。荷物を行方不明にして巻き上げるため。な、なんと、そんなことが堂々とまかり通っているとは・・・。
 そして拘置所内のひどい生活ぶり。読むだけで鼻の曲がりそうな汚濁にみちみちた雑居房に前科もない日本人が一人ほうりこまれるのです。心細いですよね。200畳ほどの部屋に300人をこえる囚人が押しこまれている。囚人には、くの字になって寝るだけのスペースしか与えられていない。新参者は悪習臭を放つトイレの側で寝るしかなかった。そして、1年以上も風呂に入っていない囚人たちの強烈な体臭が押し寄せる。
 幸運にも、わずか4日間で出所できた著者による、この世の地獄ドバイだよりでした。あなたもドバイに行く機会があったら、その前にぜひ読んでみてください。
 私の娘がドバイへ一人旅に出かけ、無事に戻ってきましたが、旅行中にこの本を読みましたので、それなりに心配したことでした。
(2008年5月刊。590円+税)

2008年7月18日

アフリカ、子どもたちの日々

著者:田沼武能、出版社:ネット武蔵野
 著者が世界の子どもの写真を生涯のテーマーに決めたのは、今から40年以上も前の 1966年、37歳のとき。初めてアフリカの大地を踏んだのは1972年。
 黒柳徹子はユニセフの親善大使となって毎年アフリカを訪問している。そのとき著者は必ず同行し、写真をとる。写真家は大変だ。撮影日時、難民キャンプの呼び名、キャンプの人口、子どもの名前、年齢、親の名前などなど。夜遅くまで撮ったフィルムと一緒にデータをきちんと整理し、次の朝を迎える。うひゃー、すごいんですね。
 アフリカでは6000万人の子どもが貧困のために学校へ行けない。アフリカでは内戦と同じくらいにエイズが重大問題だ。世界の人口65億人のうち11%がサハラ以南に暮らす。その63%がエイズウィルスの感染者、エイズ孤児の80%がアフリカに集中している。
 そんなアフリカに住み、生活している子どもたちですが、写真に登場しているアフリカの子どもたちの目はキラキラと輝いています。弟妹の守りをし、みんなと楽しそうに遊んでいます。
 手製のギターを弾きながらコーラスに興じる子どもたちもいます。娯楽の少ない村では、著者の乗る車を子どもたちはどこまでも走って追いかけてきます。
 サッカーで遊ぶ子供たちの写真もありますが、よく見ると、普通のサッカーボールではありません。古新聞を丸めて、ぼろ布で包み、ひもで巻いただけのものです。でも、そんなサッカーボールで一日中遊んで飽きません。女の子たちは民族衣装で踊ります。
 水運び、市場での物売り、畑づくり。子どもたちはたくましく生きていきます。家造りだって手伝います。
 学校で勉強もしたいのです。コーランを朗唱します。青空教室のこともあります。内戦犠牲者のカロン君は政府軍の少年兵となり、ゲリラに両腕を鉈(なた)で切り落とされてしまいました。栄養失調で死んでいく子どもも大勢います。その前にガリガリにやせ細ってしまいます。
 1年間に世界の子どもの22%がアフリカで生まれ、5歳未満の子どもの死の49%がアフリカの子ども。50万人の女性が妊娠と出産に関連して亡くなるが、その大多数がアフリカでのこと。世界にいる1520万人のエイズ孤児の80%がアフリカの子ども。アフリカではHIV感染者の61%が女性。マラリアによる犠牲者100万人のうち、95%がアフリカの人々で、その大多数が5歳未満の子ども。
 いやあ、アフリカを見殺しにはできませんよね。日本という国はいったいアフリカのために何をしているのでしょうか・・・。
(2008年5月刊。1900円+税)

2007年5月 2日

アフリカにょろり旅

著者:青山 潤、出版社:講談社
 東大の研究者は、ここまでやります!というのがオビのうたい文句です。東大でなくても同じでしょうか、ともかく学者って、大変な職業だと、つくづく思いました。なにしろウナギを求めて地の涯、海の涯まで、どこまでもどこまでも旅を続けるのですから・・・。たいしたものです。
 一般に川の魚と考えられがちなウナギであるが、実は、はるか2000キロも離れたグアム島付近の海で産卵する降河回遊魚であり、繁殖という生物のもっとも重要なイベントを太平洋のど真ん中で行う立派な海洋生物なのである。
 なんていう、小難しい話は出てきません。ウナギ全18種類を机の上に並べてみたい。ウナギの形態と遺伝子を調べるためには、世界に生息する全種類のウナギの標本を自分で採集するほかない。この本に登場するのは、これを前提としての話です。これが簡単なようで、実は大変なことなんです。
 アフリカ大陸に乗りこむ。マウライ、モザンビーク、ジンバブエの3ヶ国を10数時間で走り抜ける国際路線バスがある。時速100キロ。道の両側には未処理の地雷が埋まっている。検問所の壁には、ライフルや自動小銃からロケット砲まで、さまざまな武器がかかっている。おー、怖いですね。アフリカでは各地で内戦が起きていますからね。
 モザンビーク。気温は52度。体内の血液が沸騰しているかのよう。頭の中がグワングワンと回転する。シャワーから噴き出すのは40度近いお湯。
 湖にボートを浮かべ、また湖岸で釣り糸をたれてウナギを求める。湖岸は実は地雷原だった。なんという幸運。
 ホテルのベッドカバーには、小さな赤いアリがウジャウジャとはいまわっている。
 次に泊まったモーテルにはトイレがない。ドアを出たら、いくらでも空き地があるから好きなところでやりな。でも、あんまり家の近くでしたらだめだよ。
 うーん、なんということ・・・。
 モーテルの近くの人々にウナギ集めを頼む。インチキな宣伝だ。
 皮膚に斑紋をもつウナギを見つけたら1000クワッチャあげる。それ以外だったら 100クワッチャ。架空のウナギに1000クワッチャの値段をつけてみんなをウナギ捕りに巻きこみ、目的のウナギ(ラビアータ)を捕ってもらうという画期的な方法だ。さて、これがうまくいったか。残念ながら、ノー。
 ところが、ふり出し地に戻ったところで、ついに待望のウナギ、ラビアータに遭遇することができた。しかし、喜ぶのはまだ早い。学者の任務は、これを30匹集めること。
 どこの世界にも変わり者はいる。形態にしろ遺伝子にしろ、一匹だけの結果が、本当にその種類を代表しているかどうかは分からない。そのため、ある程度の個体数を集める必要がある。その目安が30個体なのだ。だけど、8匹しか集まらない。でも、もう2ヶ月のアフリカ生活で神経が切れる寸前まで行っていた。だから日本帰国を決断した。
 ニホンウナギは、新月の夜、マリアナの海山で産する。
 これが学者の仮説だ。なんとロマンチックな仮説だろう。しかし、そのロマンを支えているのは血と汗と涙なみだの体験だった。いやー、すごいすごい。あんまりすご過ぎるので、私はとてもアフリカに行く気にはなりません。

2007年4月12日

「闇の奥」の奥

著者:藤永 茂、出版社:三交社
 ベトナム戦争を描いた有名な映画に「地獄の黙示録」があります。ヘリコプターがワグナーの「ワルキューレ」の音楽を最大ボリュームで響かせながら地上のベトナム人をおもしろ半分に虐殺していくシーンは有名です。
 この映画「地獄の黙示録」(フランシス・コッポラ監督)のシナリオは、ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」をもとにしている。この「闇の奥」は中央アフリカのコンゴ河周辺を舞台としている。そこでも、ベトナム戦争と同じように現地住民の大虐殺があったのです。初めて知りました。
 1900年ころ、中央アフリカのコンゴ河流域の広大な地域がベルギー国王レオポルト2世の私有地になっていた。そこで先住民の腕が大量に切断された。レオポルド2世は 1885年からの20年間に、コンゴ人を数百万人規模で大量虐殺した。
 1880年当時、コンゴ内陸部には2000万人から3000万人という大量の黒人先住民が住んでいた。そこを人口希薄の土地と想像するのは誤りである。
 このコンゴ地域には天然ゴムがとれた。1888年にコンゴで産出された原料ゴムは 80トン。それが1901年には6000トンにまで増大した。
 コンゴでのゴム採取の強制労働のため、レオポルド2世は公安軍をつくった。1895年には兵員総数6000人のうち、4000人がコンゴ現地で徴集された。1905年には、白人指揮官360人の下、1万6000人の黒人兵士から成っていた。
 公安軍の白人将校たちは、単に射撃の腕試しの標的として黒人の老若男女を射殺してはばからなかった。 強制労働のあまりの苛酷さに耐え切れず、作業を捨てて黒人たちが密林の奥に逃げ込むのを防ぐのが公安軍の任務だった。銃弾は貴重なものだったから、白人支配者たちは小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、つかった証拠として、消費された弾の数に見合う死者の右手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発につき切断した手首一つというわけである。えーっ、そんなー・・・。
 2人のイギリス人宣教師にはさまれた3人の先住民の男たちが写っている写真があります。男たちは、右手首をいくつか手に持っています。ぞっとします。
 レオポルド2世はコンゴ自由国という名前の私有地をもち、公安軍という名前の私設暴力団を有してコンゴの現住黒人を想像を絶する苛酷さの奴隷労働に狩りたてていった。その結果、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減した。1885年から20年のあいだに人口は3000万人か2000万人いたのが800万人にまで減少してしまった。
 ところが、レオポルド2世はアフリカに私財を投入して未開の先住民の福祉の向上に力を尽くす慈悲深い君主としてヨーロッパとアメリカで賞賛され、尊敬されていた。
 なんということでしょう。まさに偽善です。
 レオポルド2世は奴隷制度反対運動の先頭に立つ高貴な君主として広く知られていた。
 アフリカ大陸にひしめく黒人たちは、人間ではあるが、決して自分たちと同類の人間ではないとヨーロッパの白人は考えていた。黒人が人間として意味のある歴史と生活を有する人間集団であると考える白人は少なかった。
 しかし、個々の白人の病的な邪悪さや凶暴さが問題ではなかった。問題は、現地徴用の奴隷制度というレオポルド2世が編み出したシステムにあった。うむむ、そういうことなんでしょうか。
 1960年6月、コンゴ共和国は独立し、35歳の元郵便局員であるパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれた。しかし、ルムンバ首相がソ連から軍事援助を受け入れたので、アメリカのCIAはルムンバ首相を抹殺することにした。コンゴ国軍参謀長のモブツを買収し、クーデターを起こさせ、ルムンバを拉致して銃殺した。このルムンバの処刑にはモブツの部下とともに、ベルギー軍兵士たちが立会していた。
 2006年7月、ルムンバを首相に選出した1960年から46年ぶりにコンゴで第2回の総選挙が行われた。いやはや、アフリカに民主主義が定着するのは大変のようです。しかし、それはヨーロッパ「文明」国が妨害してきた結果でもあるわけですね。
 アフリカの政治が混沌とした原因にヨーロッパとアメリカの責任があることを強烈に告発した本でもあります。

2007年3月16日

人と動物の美術館

著者:吉野 信、出版社:オフィスアイ・イケガミ
 チーターの子どもたちが広々とした草原で寝ころがったり、追いかけっこして、じゃれあっています。屈託なげで、伸び伸びとして、いかにも楽しそうです。
 氷上でホッキョクグマの若者2頭が押しあって遊んでるうちに、片方が尻餅をついてしまいました。もう一方は、あれれと驚いています。
 インドでは、草原の一本道の上で雄クジャク同士で争っています。一方は地上をけって舞い上がり、地上にいるクジャクを威嚇します。
 アフリカ、ケニアのカンムリヅルはオスが派手なディスプレイを草原で始めました。
 ケニアの大草原にアフリカゾウの一群がいます。ゾウは女系家族なのですね。親ゾウに囲まれて、小さな仔どもゾウが2頭います。まだキバが小さくて可愛らしい。
 ケニアのマサイ族の男性は精悍な顔つきで、いかにも頼もしそう。割礼の儀式を終えた修行中のマサイの若者は、顔中に白い顔料を塗りたくっている。広い草原に顔だけ白い5人のマサイの若者が並んで立つと不気味だ。
 生命の躍動を感じさせる人間と動物の写真が満載の写真集です。思わず息を呑む見事な写真がオンパレードなので、ついつい何度も頁をめくり返してしまいました。

2007年3月 9日

我ら、マサイ族

著者:S.S.オレ.サンカン、出版社:どうぶつ社
 1971年に出版された本です。現在のマサイ族にそのまま通用するか分かりませんが、先にマサイ族と結婚した日本人女性の本を読んだので、この本も読んでみました。
 少年たちは割礼式を受けると、青年として一つの入社組(エイジ・グループ)に組織される。青年が下級青年から上級青年へ昇級するときには、エウノトと呼ばれる青年昇級式がある。
 予言師は、戦争と襲撃を支配している。
 マサイは、他のマサイを殺したときだけ、殺人の罪に問われる。マサイ以外の人を殺しても、マサイの社会では、その咎を受けることはない。殺人の罪に対しては、男を殺したときには49頭の牛で償われるべきだと考えられている。
 女を殺したときの定めはない。それは、日常また戦争において、マサイが女を殺すことは伝統的にありえないとされていることによる。男が女を殺すと、不幸に見舞われ、社会的立場をなくしてしまうと考えられている。
 男が誤って女を殺したときには、贖罪の儀式をして、自らの汚れを拭って清める。そして、賠償として48頭か28頭の羊が死者の父親か親族に支払われる。
 父親が死ぬと、まず長男が父親の遺産と債務のすべてをいったん引き継ぐ。あとで、遺産と債務を弟や異母兄弟に配分する。
 母親の遺産は、末息子が全部を相続する。これは母親の老後の面倒をみるのは末息子の義務とされていることによる。
 息子のなかで遺産の相続人として明示されているのは、長男と末息子の二人だけ。ほかの息子には相続権が明示されていない。しかし、たいてい、父親から数頭の牛を生前に分与してもらっている。娘には相続権がない。娘しかいないときには、娘に私生児をうませて、男の子が生まれたら、その子を自分の実子とみなして相続人とする。
 マサイは、野生動物の肉を口にすることを禁止されている。マサイが食べるのは家畜肉のみ。
 戦いで捕虜になって連れていかれたときを除いて、マサイの女性は、他民族の男性とは結婚しない。マサイの男は、他民族の女性と結婚する。ただし、マサイの男性は、女性に割礼を施す習慣のない民族とは通婚しない。
 マサイの妻は、夫と同じ年齢集団に所属する男性のなかから好きな男性を選び、寝床を共にし、子どもをもうけることが許されている。このような婚外交渉によって生まれた子どもは、彼女の夫の子どもとして社会的に認知される。ただし、マサイの女性は、男性を厳しく選択しているし、十分な交際をして愛をたしかめない限り、男性と同衾することはない。
 マサイ族のことを、少しですが、知ることができる本です。

2007年2月 5日

私の夫はマサイ戦士

著者:永松真紀、出版社:新潮社
 いやあ、いつの時代も日本の女性は元気バリバリ、勇敢ですね。実に、たいしたものです。まいりました。ひ弱な日本の男に目もくれないのです。トホホ・・・と、つい日本人の男の一人として愚痴りたくなりました。
 カリスマ添乗員であり、マサイ戦士の第二夫人というのはどんな女性なのか。写真を見て、うむむ。文章を読んで、なるほどなるほど、ついつい唸りました。
 添乗員といっても、並のガイドではありません。あの「沈まぬ太陽」の主人公のモデルとなった小倉寛太郎がもっとも信頼したガイドという肩書きがついているのです。これで私は、ますます畏敬の念を覚えました。
 小倉寛太郎氏は残念なことに、2002年10月に肺がんで亡くなられました。私も一度だけ大先輩の石川元也弁護士の出版記念会のときに名刺交換をさせていただきました。あたたかい人柄がにじみでるような温顔でした。
 福岡・北九州出身の女性がアフリカ、ケニアの地で活躍しているのを知るのも、うれしいことです。この本を読むと、ケニアとくにマサイ族の実情をかなり知ることができます。
 著者はマサイ戦士にあこがれていました。ところが、マサイ戦士のほうも著者を見て、たちまちプロポーズ。第二夫人にならないかと声をかけてきました。あれよあれよの展開のうちに、結婚式にいたるのです。運命の出会いなんですね。
 著者が、夫となるべき男性(ジャクソン)に出した条件は3つ。第三夫人をもらわない。女の子のとき、割礼は本人の意志にまかせる。仕事を続けることを認める。
 今ではケータイをもつ人(上級青年)が9割ということですが、それでもマサイ族の伝統は十分に保持されているようです。
 ケニアの人口は3240万人。マサイ族は30万人。マサイ族からも弁護士・医師・外交官・大臣が出ている。
 マサイの人々は、儀式などのほかは肉を食べることはほとんどない。日常的には、牛乳か、牛乳に牛の血を混ぜたものを食べている。集落内で肉を食べることは禁じられている。
 男は家畜の世話が主な仕事。女はタキギ拾いや水汲み。食事の準備、家屋の補修もする。
 男と女は別々に生活する。夫婦でも食事は別。寝るのも別。水浴びにも一緒に出かけることはない。女の求める男からの愛情表現は、家畜をもらうこと。第一夫人と第二夫人に対しては、平等に家畜や財産を分け与えないと一夫多妻制も難しい。
 この本にはセックスについても、かなりあけすけに書かれています。
 マサイにとって、セックスは子どもをつくる行為であると同時に、男と女が愛をたしかめあうという双方向のものではない。女に快楽があることをマサイの男は知らない。だから、夫妻のあいだでも、スキンシップがない。
 著者は夫にポルノビデオまで見せて教育しようとしたようですが、なかなかうまくいかなったといいます。
 マサイの男が美人だと思う女性の条件は顔やスタイルではなく、身につけているビーズの多さ。女性の乳房にも興味を示さない。それは子どものためのもの。そもそもセックスについて話すのは、マサイだけでなく、ケニア人全般においてタブーとなっている。
 マサイは一生のうち4回、名前が変わる。生まれたときにつけられる幼少期の名前、割礼直前にもらう少年期の名前、戦士時代の名前、そして最長老になったときの名前。それぞれの世代にふさわしい言葉を長老たちが選んで名づける。
 マサイにとってもっとも重要なことは、年長者を敬うこと、モラルをもつこと、マサイの伝統文化を尊重すること。
 長老は身体をつかう仕事ではなく、知恵をつかう。村では頻繁に長老会議が開かれる。儀式のこと、牛の病気のこと、ほかの氏族との争いごとをどう治めるかなど、実にいろんなことを話しあい、決める。
 マサイにとって、人は生きているときがすべて。死んでしまうと、それは物体でしかない。墓地はない。森の中の適当な場所に埋めるだけで、墓標も立てない。お墓まいりの習慣もない。
 結納金は牛4頭。嫁入り道具はひょうたん4つ。こんな文句がオビに書かれています。九州男児なんて何するものぞ。そんな自信と誇りにみちた著者の顔写真に迫力負けしてしまいました。

前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー