弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

人間

2025年9月13日

マンガ脚本概論


(霧山昴)
著者 さそう あきら 、 出版 双葉社

 いやあ、とても勉強になりました。漫画家を志す人のための本だというのですが、私のようなモノカキ志向の人間にも大いに役に立つ実践的な本です。
 かのマンガ学を教えることで有名な京都精華大学で長くマンガ学を教えていたというだけあって、話が具体的ですし、何よりマンガの流れで紹介されていますので、抜群に読みやすいのです。
 「面白い」って、何だ...。人が面白いと思うのは、新しさと共感。たしかに、そうなんですよね。ありきたりの誰でも知ってることが「展開」されても、何の面白味もありません。とりわけ、私は「共感」という点に心が惹かれました。
 次に、アイデアです。いったいどうやって面白いアイデアを生み出すのか...。アイデアとは、既存の要素の新しい組み合わせにほかならない。
 この前提として、人間にはもともとアイデアを結びつけずにはいられないという、独自の能力が備わっているというのです。類化性能というそうです。知りませんでした。
アイデアの出ない人は、インプットを増やす必要がある。つまり、「ひきだしの多い人」にならなくてはいけない。よいアイデアは、自分で成功する力を持っている。
ブレインストーミングには、4つのルールがある。①判断の遅延、②突飛なアイデア歓迎、③質より量、④アイデアの便乗歓迎。これはダメなアイデアから出していく。大事なことは、どんどんアウトプットして、忘れること。そして、書き出す。たとえば、中央にテーマを書いて、周囲の8つの空欄を埋めていく。このとき、「自由に楽しく」、これが大事。
 物語の推進力は、どうやって生まれるのか...。読者に最後まで読んでもらうためには、どうしたらよいか...。ストーリーの最初に立てられた問題を読者に忘れられないようにする。しかし、これは簡単なことではない。問題提起があって、解決はあるけれど、途中にハードルのないストーリーでは読者はついていかない。ハードルには質と量が必要。予定調和は、リアルではない。
 初めに問題提起がされた瞬間、読者はそのストーリーの粗筋を予想できる。
 あれも描きたい、これも入れたいという欲張りな作品は、たいてい駄作になってしまう。
 一言で面白さが伝わる話は、読者の心をつかみやすい。
「主人公に残酷な物語は面白い」(大沢在昌)。
 読者が食べたいのは、骨ではなく、肉だ。ストーリーにどう肉付するのか、ということ。
 読者をストーリーに引き込むには説得力が必要だ。
 主人公を見守る大人を描くことは、主人公の情報を分厚くし、主人公への読者の感情移入を強くする。
 作家になれるかどうかのポイントの一つは、他者の経験と知識を自分のものにし、違う価値観を描けるかどうかということ。うむむ、これでは私はいったい作家になれるのでしょうか...。
 リアリティとは、読者を作品に引き込む力。それは、この作品の世界が本当に存在と読者に信じ込ませる説得力のこと。つまり、具体的な描写で噓をつくこと。
 よいマンガは、それを読んだ人のものの見方を変える。
 読者はこのように断言しています。なーるほど、そうなんですか...。とてもいい本に出会いました。ありがとうございました。これまで、まったく知らなかった著者に対して、心よりお礼を言いたい気分です。
(2024年6月刊。2420円)

2025年9月 6日

「痛み」とは何か


(霧山昴)
著者 牛田 享宏 、 出版 ハヤカワ新書

 突然、腰が痛くなりました。自覚的には何の出来事もなく、何の予兆もありません。ギックリ腰のようです。長い時間、椅子に座ってパソコンを眺めたり、書きものをしていて、立ち上がろうとすると、腰に嫌な痛みが走ります。そばに何かあると、それを手でつかんで、よっこらしょという掛け声とともになんとか立ち上がるのです。歩くのは何ともありません。トイレも便座に腰かけたあと立ち上がろうとすると傷みます。
そこで、私は、こんなときはハリだと思って出かけたのです。わずか40分間ほどでしたが、終って鍼灸院を出るとき、何事もなかったようにスッキリしていました。いやあ、すごいものです。ハリがこんなにも速効性があるとは、とても信じられませんでした。
脊髄は、首から腰までつながっている、大きな神経のパイプラインのようなもの。脳からの信号を手足に伝えて動かしたり、逆に手足の感覚を脳に伝えたりする役割を果たしている。なので、脊髄を損傷すると、下半身が動かなくなり、ずっと車イス生活になる人がいる。
先天性無痛無汗症という珍しい病気がある。まず、温度の感覚や発刊障害が起こる。なので体温調節がうまくいかない。そのうえ、全身の痛みを経験できない。すると、痛みを感じないので、知らず知らずのうちに、自分の身体を傷つけてしまう。したがって、逆に言うと、痛みを感じることは、ヒトの生体防御機構にとって大切なこと。体の異常をいち早く検知し、健全な身体を保つために不可欠のものだということ。
 痛みとは何なのか...?痛みの定義は、実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する。あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験というもの。
 このとき、感覚ニューロンの活動だけから痛みの存在を推測することは出来ない。
日本人の人口の15%ほどが中等度以上の身体の痛みを半年以上もっているとされる。
痛みのメカニズムには3つある。その1は、実際にケガが生じて引き起こされるもの、その2は、痛みを伝える神経系が傷ついて痛くなるもの、その3は脳が過敏になって痛みを感じやすくなるもの。
 「熱い」と「痛い」は、神経メカニズム的には同義。
 痛みは、手足の末梢から脊髄へ、それから脳へと伝言ゲームのように情報が伝達されて経験するもの。乳幼児は、母親の反応によって、「痛み」のもつ意味を初めて学習する。
 過度に安静にする傾向のある人のほうが、概して痛みを強く訴えているケースが多い。
関節リウマチには、適切な治療薬(メソトレキセート)があり、今では不治の病ではなくなった。
五十肩など、関節を動かすと痛がるような患者には睡眠障害が必ず起きる。そして、眠れないと、痛みが増してしまう。
 抗うつ薬は、痛みに対して効果がある。うつ状態が改善されると、患者の痛みに対する耐性も向上する。
1日に少しずつでもがんばって運動を続けていくと、必ず体力は強化される。
 痛みというものは客観的に定まったものと思っていましたが、案外つかみどころのないものだということがよく分かる新書です。
(2025年4月刊。1320円)

2025年8月17日

高所綱渡り師たち


(霧山昴)
著者 石井 達朗 、 出版 青弓社

 30年以上も前のことですが、ナイアガラの滝を、アメリカ側とカナダ側のそれぞれから2回、訪れたことがあります。大変なスケールの滝で、圧倒されました。この滝にロープを渡して綱渡りをした人が何人もいるようです。
 一番最初は、1859年6月30日で、フランス人のブロンディン。
 峡谷の幅は335メートルあり、そこに396メートルのロープが設置された。ロープは直径8.3センチの麻綱。ロープの巻き上げ機などない時代なので、人力で張ったので、ロープの中央部分は陸地に固定された箇所より15メートルも低かった。つまり、ブロンディンは、水面から53メートルの高さからロープを歩き始め、38メートルの高さまで、ロープを下っていく。そして、そのあと、再び53メートルの高さまで昇る。
バランス棒は長さ11.6メートルある。ブロンディンは身長163センチ、体重は63キロ。安全対策など何もなく、命綱はない。バランス棒だけが命の綱。行きは15分、帰りは7分で渡り終えた。見物人は8千人ほど。収入は250ドルであり、ロープ代だけで350ドルかかったので、完全な赤字。それでもナイアガラの滝で綱渡りした男として高く評価された。世間は、ブロンディンが単なる奇人・変人ではなく、畏怖すべき曲芸師だと認めた。
 女性もナイアガラの滝の綱渡りに成功している。イタリア生まれのマリア・スペルテリーは1876年7月、23歳の若さだった。ロープの上を後ろ向きに歩いたり、目隠しをしたまま歩いたり、また桃を入れるバスケットを足に固定させたり、いろいろな技も見せている。
 バランス棒はロープが揺れたときに身体のバランスを保つために必須のアイテム。バランス棒なしの、素手で渡るのは不可能ではないが、相当に難易度が上がる。日本の曲芸師は、棒をもって渡るのを「カンスイ」といい、手に何も持たないで渡るのは「素渡り」という。
曲芸師が、ロープからわざと落ちて、とっさに片腕でロープをつかみ、ロープにぶら下がる。そして、やおらロープの上に体を持ち上げ、ロープに座る。
 野外の高所での綱渡りする者にとって、予期せぬ突風は最大の敵となる。ワイヤーの質、その設置方法、バランス棒、綱渡り師の体調など、すべてが完璧であったとしても、予期せぬ突風に突然襲われたら、大変危険。うむむ、こればっかりは自然の脅威ですからね...。
 「七人のピラミッド」を演じている様子の写真がありますが、見るだけでハラハラさせます。
 七人は文字どおり運命共同体。ワイヤーの上に四人、その上に二人、その上に一人。
 三層で、「四一二一一」という体勢をつくる。一本のワイヤー線の上に全員が乗っているので、一見すると平面的。しかし、生で見ると、いかにも立体的。七人全員が長く両端がしなっているポールを持っている。七人のバランス棒は、七本が同じように動くのではない。各自が自分の体のバランスと自分の位置でのバランスを微妙に調整し、かすかに波打つようにポールを揺らしながら進行する。いちばん上の女性は、椅子の上に座ったままポールでバランスをとっている。
 この芸を17日間に38回もやり遂げた。すごいですね。1997年のことのようです。
2001年、倉敷チボリ公園では、「八人のピラミッド」を成功させたのでした。いやあ、信じられません。私は、現地で、観たくなんかありません。だって、生(なま)だと、失敗したのを目撃しかねないじゃありませんか。目の前で人が死んだり、大ケガしたりするのを見るなんて、私には耐えられません。
 9.11でテロ対象となった世界貿易センターも高所綱渡りの場になったようです。いやはや、なんと恐ろしい...。よくぞ調べあげたものだと感心しました。
(2025年4月刊。3740円)

2025年8月11日

淀川長治


(霧山昴)
著者 北村 洋 、 出版 名古屋大学出版会

 「では、また来週お会いしましょうね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
 「日曜洋画劇場」(東芝)の最後に登場する、白髪のおじさんとして、淀川長治はすっかり全国の茶の間でおなじみでした。このテレビ番組は、なんと32年間も続いたそうです。信じられない、とんでもない長寿番組です。
 淀川長治は1909年4月の生まれで、89歳で亡くなりました。映画会社の宣伝員、雑誌編集者、著述家、批評家、ラジオのパーソナリティと、マルチ人間でした。
 小学生のときから、一人で映画館に行っていたというのですから、恐れ入ります。
 本人は、13際のとき映画を本気で愛し、16歳のときは映画で生きようと決意したと言うのです。本当に、そんなことがあるんですね。
淀川長治は、来日したチャップリンにも面会している。1936年の2度目の来日のときのこと。
 淀川長治は1933年、アメリカの映画会社(ユナイト社大阪支社)に入社し、3年後には宣伝部長になっている。そして、東京に転勤して、日本支部の宣伝部長となった。そして、アメリカの西部劇「駅馬車」の宣伝を担当。前宣伝には小津安二郎(日本一有名な映画監督)をも巻き込んで、大評判をとった。戦前最後のヒット作品だった。
 日本敗戦後、淀川長治は再びアメリカ映画を扱った。ところが、一般には好評だった「カサブランカ」を「ちっともいいとは思えない凡作」だとみた。「社会性」の見えない映画に淀川は不満だった。
 淀川は映画批評家として、誰にも分かる読みやすさを重視した。平易なコトバを多用し、文に流れをつける努力をした。そして、一般の映画ファンの立場から映画を批評した。淀川の映画評はリズムのある文章だった。
 日曜日の夜9時、「日曜洋画劇場」が始まると、白髪のちらつく丸顔の男性が登場する。リハーサルは1度だけ。その後、すぐ本番。毎回の収録はピタリ4分30秒。NGが出たことはない。いやあ、これはスゴイことです。まさしく神業(かみわざ)ですね。
 家族とともテレビで映画をみて楽しむ。そのため、前説(1分)、後説(1分半)、予告(1分)を淀川は担当した。
 「ハイ、みなさん今晩は」(前説の冒頭)、「それでは、あとでまたお会いしましょう」(前説の末尾)、「ハイ、いかがでしたか」(後説の冒頭)。そして、最後は「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」。
 親しみやすい語り手。しかし、猛烈な早口で、内容を盛り込んだ。もう、映画が好きで好きでタマラナイっていうのが分かるのがいいというファンが大勢いた。
 淀川長治は日本映画を観ていないわけではない。たとえば、『二十四の瞳』は絶賛している。そして、山田洋次の「男はつらいよ」シリーズにも好感を持っている。さらには、「砂の器」も惚れ込んだ。
 偉大な映画狂(フランス語ではシネフィルと呼びます)の一生を駆け足でのぞいてみた気分になりました。
(2024年12月刊。4950円)

2025年8月 9日

文芸編集者、作家と闘う


(霧山昴)
著者 山田 裕樹 、 出版 光文社

 私も小学生のときから今まで、それなりに本を読んできたと思っていますが、この本を読むと、さすがに上には上がいるものだと痛感させられます。世界的に有名な古典文学では読んだ本はごくわずかですし、SFや推理小説も、それほど読んではいません。
 編集者は、最初は量を読むことが不可欠。読む量が多ければ、ダメ本と良書の違いが分かってくる。そして、ダメ本の中に、どこがダメの理由であり、そこを変えれば面白くなるという本も混じっていることを発見する。
預かった原稿は、すぐに読む習慣を身につけること。そうしないと、たちまち机の周辺が原稿の山になる。
 「筆が止まってしまったときには、自分の潜在能力が代わりに書いてくれる」(北方謙三)。
書いているうちに、登場人物が勝手に書き出してしまって制御が難しくなり、自分の初めに予定していたテーマとプロットが大幅に変わりそうになった。その瞬間、「これはいけるかも」と思ってしまう。これはモノカキのはしくれとして、私も実感します。
本が出来るまでの編集者と、本が出来てからの批評家とは、立場が違う。立場が違うと、正義も違う。
 作家は、自分といるときは、楽しく遊んでくれる編集者を欲するが、会社(出版社)に戻ったら自分の作品に正当な評価を会社にさせる編集者を欲するものだ。
 文章が実にうまい。というのは、読んでいてリズミカルで快(こころよ)い。肝心なことは、優れた文章が練られたプロットを効果的に読者に提示する手段になっていること。優れた文章を書くだけが目的の作品には感動しない。私もリズミカルで快い文章を書いてみたいと思いました。
 作家と喧嘩ばかりしている編集者は使いものにならない。しかし、ここというときに作家と喧嘩ひとつできない編集者もダメ。原稿を書くだけなら、作家には紙とペンがあればいい。それを本にするには、編集者が必要だ。そして、それをベストセラーにするには、販売部のプロが必要になる。
 そうなんですよね、きっと...。私も一度くらい、「〇万部、売れた」と言いたいのですが...。今や誰でも知っている作家たちが、世に出るまでの、生みの苦しみを編集者は作家と共働作業してつくり出していくものだということがよく分かる本でもあります。
 北方謙三、椎名誠、逢坂剛、夢枕獏、東野圭吾、高野秀行あたりは私もよく読みましたが、私の読んだことのない本の作家が何人も登場します。そして、編集者というのは、作家と夜を徹して、飲み、食べ、語り明かすのですね、そのタフさ加減には、とてもついていけません。
 それにしても、本のタイトルにあるとおり、文芸編集者は、文字どおり作家とガップリ四つに組んでたたかうことがよく分かりました。すごい本です。
(2024年12月刊。2750円)

2025年8月 2日

文品、藤沢周平への旅


(霧山昴)
著者 後藤 正治 、 出版 中央公論新社

 私は弁護士になる前の、2年間の司法修習生のころ、山本周五郎にはまっていました。同じ修習生仲間(仙台・石巻市の庄司捷彦氏)から勧められたのですが、たちまち江戸情緒たっぷりの豊かな人情話の虜になってしまいました。
弁護士になってからは、藤沢周平です。山田洋次監督が映画化していますので、視覚的にも没入することが出来るようになりました。ありがたいことです。
藤沢周平の生まれ故郷である山形県鶴岡市には亡き上田誠吉弁護士(自由法曹団の元団長)と一緒に(といっても、私は下っ端で、あまり役に立っていませんが...)。灯油裁判の原告弁護団の一員として何回か行っています。落ち着いた、古い城下町だという印象が強く残っています。
風景や情景の描写における藤沢周平の筆運びの精密さ、巧みさはよく指摘される。それは少年期からの読書量に加え、俳句や短歌や詩に親しんだことも一助になっていようが、細部への観察力、折々に覚えた心象や想念を記憶に留め置き、それらを文章に置き換えていく、やはり天与の技量があった。
藤沢周平は28歳の妻を亡くした。幼い娘は、まだ1歳。鬱屈(うっくつ)した気持ちのはけ口が小説を書くことだった。だから出来あがったものが暗い色彩を帯びるのは当然のこと。物語という革袋の中に、鬱屈した気分をせっせと流し込んだ。そうすることで、少しずつ自分は救済されていった。
藤沢周平は短い教員生活のあと長い結核療養の年月を過ごした。これは大学に行っていない藤沢周平にとって、「私の大学」となった(師範学校は卒業している)。
 そして、東京で業界紙に勤めた。29歳から46歳まで、17年ものあいだのことで、これが「もうひとつの大学」になった。
藤沢周平は、雑誌に寄稿するとき、必ず締切を守った。
 藤沢周平の作品、とりわけ前中期の士道小説には、権力というものに対する冷え冷えとした感触がある。主人公の下級武士たちは、権力に翻弄されてつつもなお、意地と矜持(きょうじ)を失わない。
 藤沢周平の小説には負のロマンがある。主人公は、暗い宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ。
小説は、私という兵士が口ずさむ軍歌のようなもの。軍歌の常として、メロディがやや悲惨味を帯びるのは、やむを得ない。歌わない兵士が大部分のなかで、ともかく軍歌を自分なりに歌えるのは、恵まれたこと。たとえ、音痴気味だとしても...。
 藤沢周平は、健康な懐疑主義、なんであれ、絶対的な存在、唯一無二、唯一神的なものを好まなかった。
藤沢周平は作風を転換させたが、それには長い年月を要した。
 娘(展子)によると、藤沢周平は、庄内弁のカタムチョ(頑固)で、便利な流行(はや)りものは好まない。テレビも故障するまで白黒。
2階の和室を仕事部屋にしていたが、クーラーはなく、うちわ片手に原稿を書く。チヂミのシャツ、腹にサラシを巻き、下半身はステテコ姿。
 時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。人間の内部、ホンネということになると、むしろ何も変わっていないのが真相だろう。小説を書くということは、そういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと仮りに答えを出す作業だろう。作家にとって、人間は善と悪、高貴と下劣、美と醜をあわせもつ小箱だ。作家は魔に憑(つ)かれた人種というしかない。つくられた小説世界の中で、作者もいっときの虚構の楽しみを読者と共有する。
藤沢周平の世界をたっぷり堪能した思いのする本でした。
(2025年3月刊。2640円)

2025年7月26日

考古学者の多忙すぎる日常


(霧山昴)
著者 角道 亮介・青山 和夫・大城 道則 、 出版 ポプラ社

 正確なフルタイトルは、「考古学者だけど、発掘が出来ません。多忙すぎる日常」というものです。ええっ、ど、どういうこと...。
 発掘調査よりも、研究室にこもって遺物を研究し、データを分析する時間のほうがはるかに長い。石器の使用痕を日本でこつこつと分析し、成果をスペイン語で書いていく。
 マヤ文明の交易、ものづくり、宗教儀礼と戦争という政治経済組織の一側面を9万点もの石器をこつこつと研究して実証明に検証し、英語、スペイン語そして日本語の論文に書き上げる。
 石器を分析する時間のほうが圧倒的に長い。石器の分析が忙しすぎて、発掘する時間がない。うひゃあ、現場で石器を掘り上げてからが大変なんですね...。
 「世界四大文明」というのは時代遅れの間違い。著者たちによって高校世界史の教科書から、時代遅れの「世界四大文明」という用語が消えた。世界四大文明とは、メソポタミア、中国、アンデスそしてマヤ文明。中学の世界史教科書では今も「大河のほとり」で発展したとしている。しかし、マヤ文明の諸都市は「大河のほとり」にはない。文明の誕生に必要なのは食料の確保であり、大河ではない。
マヤ文明には、鉄器、大型家畜、そして統一王朝がない。主要な利器は石器で、家畜は犬と七面鳥だけ。統一王朝もなく、ネットワーク型の文明。文字と暦(こよみ)、天文学を高度に発達させた。いやあ、そんなに違うものなんですね...。
考古学者になろうと考えている学生には、日本の発掘現場でアルバイトして経験を積むようにアドバイスしている。なーるほど、それは大事ですよね、きっと。
 エジプトのヒエログリフを読めたとしても、それだけでは就職先も仕事もない。ふむふむ、そうなんですか...。
発掘現場では蚊の大群に襲われる。トイレのときは悲惨。蚊の地獄。寝泊まりするのは、ジャングルの中のテント。コインランドリーも洗濯機もない。川の水で衣服を洗い、生乾きのまま服を着る。女性の調査員も含めて、プライバシーはまったくない。それを恥ずかしいと思っていては発掘調査はできない。野外調査のもう一つの大敵がマダニ。
 マラリアの予防薬は、欠かさず飲む必要がある。日本製の携帯用蚊取り器はあまり役に立たない。デング熱には予防薬はない。
 こんなに大変な苦労のともなう考古学ですが、ご本人たちは至って楽しそうです。やはり好きなことに一心不乱にうち込めるのがいいのですよね。
(2025年2月刊。1760円)

2025年7月14日

脂肪と人類


(霧山昴)
著者 イエンヌ・ダムベリ 、 出版 新潮選書

 私たち人間には脂肪が必要だ。原始に生きた祖先たちは肉を目当てに狩りをしていたのではない。求めていたのは脂肪だ。どろりとした骨髄をすすった。脂肪は生きるに欠かせない存在。生命そのものだった。今でも脂肪は生命そのものだ。
2017年の秋ロンドン下水道に130トンという巨大な脂肪の山(塊)が出現した。下水システムを詰まらせたもの。長さ250メートル、重さ130トン。清掃員8人が1日9時間、9週間かけて退治した。
 このロンドン下水道に脂肪の山がそびえ立ったのは、イギリスの成人がウェットティッシュで手をふきはじめたから。トイレットペーパーなら下水でどろどろになって流れていく。ところがウェットティッシュは、下水に溶けないので絡(から)みあって長い鎖(くさり)を形成する。シンクから下りてきた熱い油が鎖状のウェットティッシュに出会うと、油が冷えて固まり、ウェットティッシュが鉄筋のようになる。この130トンという巨大なファットバーグの62%は脂肪で、19%が灰とチリ、10%が水で、残る9%にウェットティッシュが含まれている。
 大腿骨のような長い管状の骨に入っているのは85%は脂肪の黄色い骨髄。北極圏のイヌイットは半年間、食べるのは肉だけ。正確に言うと脂肪だけ。イヌイットの食事は「ケトン食」。
炭水化物があれば、身体はグルコース、つまり血糖を生成して脳にエネルギーを供給するが、炭水化物が欠乏すると、別のプロセスが起動する。肝臓が脂肪をケトン体に変換して脳の燃料として使うのだ。
 脂肪は、私たち人間の身体が長いあいだエネルギーを蓄えられる唯一の物質。炭水化物は48時間で燃焼されてしまうけれど、脂肪なら1.2ヶ月はもつ。だから重要だった。
食品に含まれる脂肪には、主として3つの形態がある。トリグリセリド(中性脂肪)、リン脂質、ステロールだ。
 ケトン体は、肝臓の脂肪から生成され、全身とくに脳の燃料に使われる。それ以外に脳がエネルギーとして使えるのは血糖(グルコース)だけ。
ケントダイエットをすると、体内に備蓄された脂肪が燃焼しやすくなり、おかげで体重が減る。それに血糖値を低いまま安定させてくれるので、空腹感や気分に影響されにくくなり、インスリン値も下がる。
 脂肪は身体におけるもっとも強力な燃料だ。脂肪は身体の中で舌や胃、そして膵臓(すいぞう)から十二指腸で分泌されるリパーゼという酵素によって分解される。十二指腸は小腸の最初の部分で、ここで行われる活動が脂肪の吸収に重要になってくる。
 人生は必ずしも良いことばかりではないが、自分たちが食べるものは、なるべく良いものであってほしい。
 これは、この本の最後に書かれた文章です。まったく、そのとおりです。ですから、お米だって輸入米なんかではなく、地産地消。地元でつくられた、なるべく低農薬の安心して食べられるものを食べたいです。
 「小泉劇場」なんかに惑わされることなく、日本の農業(酪農を含め)をきちんと守り、減反をやめて食料自給率を高めるため、農家に生産奨励金を付与して、みんなが安心して食べられるお米と野菜をつくって双方が生活できる。そんな社会にしたいものです。
(2025年1月刊。2200円)

 参政党は「新日本憲法」(構想案)というのを公表しています。読んで腰を抜かしてしまいました。まるで戦前の明治憲法です。
 国民主権ではありません。第1条に日本は天皇が統治する国だとしています。天皇主権なのです。信じられません。思わず目を疑いました。
 そして、基本的人権がほとんど書かれていません。権利には義務がともなう、公益優先だとしています。
 こんな時代錯誤の参政党に国会議員の資格はありません。

2025年7月13日

ままならぬ顔、もどかしい身体


(霧山昴)
著者 山口 真美 、 出版 東京大学出版会

 人は外見を区別する生物であり、この区別は意識下で起こるので、たちが悪い。
 女性は容姿が良いことが収入で有利に働き、男性は容姿が悪いことが収入につき不利に働く。
 小学2年生の男子が好きな色は圧倒的に金色で、女子のほうは水色。ピンクを嫌いな色にあげた女子が19%もいる。赤ちゃんは金色を好む。
サルは攻撃をしかける相手には唇を丸くして突き出し、逆に相手に従いますという弱気な表情では歯を見せる。この歯を見せる表情が人間の微笑(ほほえ)みの起源。
 リカちゃん人形とバービー人形。幼く従順そうな風貌の日本のリカちゃん人形に対して、欧米のバービー人形は、成長してしっかりと自分を持っていそうな容姿。
 アメリカでは、子どもっぽい顔はリーダーにはふさわしくないと判断される。大人っぽい顔の人は意図的な罪を犯すのに対して、子どもっぽい顔の人は不慮の罪を犯したと判断される傾向がある。
 欧米人にとってマスクをしている人は不快にうつる。日本人にとってのサングラスと同じだ。欧米人は、相手の表情をよみとるのに口元を見る。東アジア人は目元に注目する。これは生後7ヶ月で獲得する。
マスクをした顔は、マスクをしていない顔よりも魅力的に感じる。これは、マスクで隠した部分を平均額で補って見ていることによる。
 私は、初対面の人から法律相談を受けるとき、マスクをしている人に対しては何度もお茶を飲むように勧め、素顔を拝見するように心がけています。最後までマスクを外さない人は、心を開かなかった人として、もう一歩踏み込んでアドバイスすることはしません。いわばお座なりの対応をして、こちらの足元がすくわれないようにします。
 人間は、1時間かけて知り合いの顔を思い出せるだけ思い出すと、平均500人もの知り合いを記憶している。さらに、有名人の顔だとなんと4240人もの顔を知っているという実験結果がある。うひゃあ、すごい人数です。
高校のクラスメイトの顔は25年後も正確に覚えている。スーパーレコグナイザー。顧客の名前や職業をすべて頭に入れている高級ホテルのホテルマン。何十人もの犯人の顔を写真を眺めて駅の改札口に立って犯人を見つける「見当たり捜査員。顔を見る能力は振れ幅が大きい。
弁護士である私にとって、前に見たことのある人だとはすぐ思い出せても、その人の名前までは思い出せないことがほとんどです。
 全身ガンになって(あとでステージⅠと判明)、手術をし、抗ガン剤を投与され、それから7年たち、今日も元気に活躍している、心理学者である著者が自分の体験を踏まえつつ、顔と身体について考察した、とても興味深い本です。
(2025年4月刊。2420円)

 精神科の病院にしばらく入院していた人が、インドネシア人の看護師がいて、とても優しくしてくれましたと話してくれました。
 私の知っている病院では、介護士不足を埋めるため、インドネシア人に働いてもらうようにしているとのことです。
 参政党は「日本人ファースト」といって、外国人を排斥しようとしていますが、日本は、今、外国人労働に頼らざるをえなくなってしまいます。いたずらに外国人はダメだというのではなく、日本に住む、すべての人が安心して仲良く生活できるようにしたいものです。

2025年7月 7日

老いの思考法


(霧山昴)
著者 山極 寿一 、 出版 文芸春秋

 長くアフリカ現地でゴリラと向きあい探究してきた著者の話は、どの本を読んでも参考になり、考えさせられます。
人間だけが長い時間をかけて老いと向きあう。うへー、そうなんですか...。他の動物には老いて長く過ごすというのがないのでしょうか。
 動物は基本的に繁殖能力がなくなったら死ぬので、長い老年期というのはない。
 人間社会は離乳期と思春期と老年期という三つの固有の要素から成り立っている。
介護はサルや類人猿にはない、人間に特異な行動。
人間の赤ちゃんは、ゴリラの4倍のスピードで脳が成長する。
 ゴリラの赤ちゃんは基本的に泣かない。チンパンジーもそう。というのは、ゴリラの母親は生後1年間は子どもを片時も離さず、一体化しているから。
 ゴリラの世界では、老いたオスもメスも群れを追い出されることなく、若い世代から敬われて暮らす。ゴリラの子育てはオスの役目。思春期を過ぎても、子どもたちはオスのシルバーバックに頼り続ける。この親密な関係が老いたシルバーバックを敬い従うことにつながっている。
 ゴリラのオスは、子育てすると、ものすごく優しくなり、体つきも変わる。優しさと威厳が同居している構えになる。重要なことは子どもに頼られること。子どもに頼られるようになって、ゴリラは初めて父親らしくなる。乳離した子どもたちの安全を守り、子どもたちを仲良くさせて社会勉強させるのは父親の仕事。
 ゴリラのメスは、子どもの世話や保護のできないオスには見向きもしない。オスがメスに気に入られる大きな条件は、子どもを守り、世話をすること。
 父親に育てられた息子たちは、成長して力が強くなっても、決して父親を粗末に邪険に扱うことはなく、見捨てることもしない。なるほど、これは人間の子育てにも言えますよね。
 高齢者が本領を発揮できる美徳は仲裁力にある。
 ゴリラは非常に優しい動物だ。ゴリラは獰猛(どうもう)どころか、戦いを避けようとする。胸を叩くドラミンゴは宣戦布告ではなく、自分は対等な存在だという自己主張。
ゴリラは「負けない」。負けるというポーズがない。双方ともメンツを保ったまま、対等な関係を維持する。
人間は1~2年で離乳するけれど、ゴリラは3~4年、チンパンジーは4~5年、オランウータンは7~8年も授乳する。人間の赤ちゃんが泣くのは、面倒をみてほしいという自己主張。
 ボケには効用がある。自由な遊び心は老人の特権。
進化の過程のうち、ほとんどの時期は言葉を使っていない。言葉は脳を大きくした原因ではなく、結果なのだ。
 動物園のゴリラは、うつになることがある。人目にさらされすぎるからだ。
 サルに猿真似(サルマネ)はできない。学習して真似る、まねぶことが出来るのは人間だけ。
 ゴリラはお腹で笑う。ゲタゲタゲタと豪快に笑う。
 ゴリラは、みんなで分かちあった食べ物を、お互いにちょっと離れて、仲間で一緒に食べているときが一番満足しているとき。このとき、幸せそうに、ハミングを奏(かな)でる。
 人と人との直のつきあいのなかに自ら入っていくことが、人間の根源的な安心感につながる。いくつになっても家にひきこもらず、毎日5人に会うこと。毎週15人に会おう。もちろんスマホ(インターネット)ではなく、対面コミュニケーションで...。そうなんですよね。スマホを持たない私も共感するばかりです。
 後期高齢者の私にも大変勉強になりました。
(2025年3月刊。1650円)

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