弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
司法
2013年7月18日
いま「憲法改正」をどう考えるか
著者 樋口 陽一 、 出版 岩波書店
安倍内閣が参議院議員選挙のあと、憲法改正に走り出すのは必至の情勢です。投票率が5割前後と予測されているなかでの自民党「大勝」ですが、選挙で信を得たとうそぶいて強権発動する恐れがあります。根っからの狂信的な改憲論者が首相だというのは、本当に怖いですね。
ところで、憲法って、そんな権力亡者を取り締まるためにあるものなんですよね。それを立憲主義と言います。そして、この立憲主義は戦前の帝国憲法の下でも、指導層の共通認識だったというのです。これは初耳でした。
戦前の日本で、立憲主義は指導層の間で共有されていたキー(鍵)概念だった。伊藤博文は帝国憲法制定の最終段階に、憲法を創設する精神として、第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保護するにあるとした。
帝国憲法の適用にあたって、立憲主義は憲政のキーワードであり続けた。二大政党の正式名称は、立憲政友会、立憲民政党だった。
帝国議会の意思を無視した超然内閣だとして寺内正毅内閣を攻撃する側は「非立憲」をもじって「ビリケン」寺内と呼んだ。それほど、「立憲」という言葉は世の中にゆき渡っていた。
そうなんですか、ちっとも知りませんでした・・・。
日本国憲法を受け身で受け入れた戦後の日本社会では、憲法が権力の行使にとって多かれ少なかれ邪魔になるという緊張関係をつくり出し、維持することによって、いわばその基本法を確認し直してきた。
日本の自衛隊は、国際法上はすでに軍として処遇されている。ただし、直接に戦闘行為をすることのない軍として、国際社会で受け入れられていることも確かなのである。
戦前の大日本帝国は「満州事変」、「支那事変」、「大東亜戦争」を、15年にわたって遂行してきたが、それはすべて「自衛」の名におけるものであった。
「決める政治」をひたすら求めていけば、憲法という存在そのものが邪魔になるのは道理である。
憲法を改正するというのは、遠い話とか、毎日の生活とは無縁のことではない、このことがよく伝わってくる本でした。
(2013年6月刊。1500円+税)
参院選の最終盤になって、自民党の「大勝」が予想されるなか、安倍首相が改めて憲法改正、9条改正を言い出しました。私は、これはひどい、政権党として姑息なやり方だと思います。憲法9条を変えて自衛隊を「国防軍」にしようというわけですが、それは単なる名称の変更ではありません。海外に戦争しに出かける軍隊をかかえたとき、日本社会がどう変わるのか、その点を安倍首相は自分の口から語るべきです。それも、選挙のはじめから・・・。土壇場になって「大勝」が決まってから言い出し、選挙後に、憲法改正を揚げて大勝したから国民の信を得たというのでは、国民を欺したことになると思います。
いま、弁護士会は10月に、自民党の「国防軍」構想に反対するという決議をしようと論議し、準備しているところです。
それはともかく、参院選の投票率が5割ほどと見込まれていますが、困ったことです。みんなが投票所に足を運ばないと、世の中は悪くなる一方です。あなたまかせではいけませんよね。
2013年7月17日
赤ペンチェック自民党憲法改正草案
著者 伊藤 真 、 出版 大月書店
自民党の憲法改正草案を紹介し、その問題点を分かりやすく解説している本です。カリスマ講師との定評ある著者の手になるだけあって、さすがにすっきり明快です。
憲法は強い立場の者から弱い立場の者を守る役割を果たすもの。
そうなんですよね。取締役の年俸1億円なんていう大会社に支えられている自民党・安倍政権が言い出した憲法改正が、弱者救済を目ざしているなんて、とても考えられません。
近代以降の憲法は、国家権力から国民の自由を守るためにつくられたもの。個人の尊重が国家の基本的な価値であることが中心で、それを実現するために立憲主義が採用された。立憲主義の考え方は、古代ギリシャ・ローマ時代にすでにあった。
立憲主義は、国民の権利・自由を保障することを第一の目的として、権力者を拘束する原理である。だから、憲法には、必ず人権保障と、国家の権力を分ける権力分立(三権分立)の定めが必要になる。
今の自衛隊を、自民党は「国防軍」に変えると言う。これは、単なる名称変更ではない。今の自衛隊は、たしかに装備や人員の点から戦力と言えるが、憲法9条2項のしばりがあるので、交戦権はない。つまり、敵国兵士を殺したり敵国の基地を破壊したりはできない。自民党の改正草案は、日本がアメリカと共に普通に戦争のできる国になりたいということ。日米同盟を強固なものとし、アメリカの従来からの要請に応えたいという自民党の思いを「改正憲法」に結実させたもの。
自民党の改正草案では、「個人として尊重される」とあるのを「人として尊重される」に変える。個人を人に言い換えることに、どれほどの意味(違い)があるのか・・・。個人として、一個独立の人格をもつ人間として尊重されなければならない。すなわち、まったく重要な点で変更されることになる。
自民党草案には、新しい環境権なるものが取り入れられていることを積極的に評価する人に、本当にそうなのか、と鋭い問いかけがされています。
肝心の環境権なるものは、国の努力義務でしかない。さらには、今や判例上も確立している環境権が、かえって後退してしまうことになりかねない。
環境権やプライバシー権などは、現在も解釈・運用で使われているものです。
自民党の改憲理由がきちんと紹介されたうえで、それが論破されています。ですから、読んで胸がすく思いがします。
カラーを使った、見た目にもセンスのいい本です。とりわけ多くの若者に読まれることを願っています。
(2013年6月刊。1000円+税)
東京で時間をつくってイギリス映画「アンコール」をみました。じんわりと心が温まる、いい映画でした。年金生活の男女が公民館に集まってコーラスを練習し、コンクールに出場するというストーリーです。歌声がすばらしいです。とくに主人公と、その奥さんがそれぞれソロで歌うシーンでは、歌声に聞きほれてしまいました。
イギリス映画には、ときどきこのように庶民を主役にした、いい映画がありますよね。いま、福岡でも上映中です。おすすめします。
2013年7月13日
憲法がしゃべった
著者 木山 泰嗣 、 出版 すばる舎リンケージ
いやあ、これはよく出来たケンポーの本です。たくさんの本を書いている著者は、憲法についても、こんなファンタスティックな、おとぎ話のような本を書いていたのでした。すごいですね、すっかり感服しました。
安倍首相が、なにかというと憲法改正を唱んでいますし、自民党は古くさくなった憲法を変えようと叫んでいます。でも、憲法って何のためにあるのか、どんな役割をもっているのか、いま叫んでいる人たちは知っているのでしょうか・・・。
この本は、憲法って何のためにあるのか、そんな役割をするものなのかを、本当に分かりやすく、問答式で解明してくれます。ヘタウマな絵(一見すると下手くそのように見えるけれど、本当は味わいのある上手な絵)が添えられていて、とても柔らかい雰囲気に包まれて展開していきます。
憲法がしゃべった、世界一やさしい憲法の授業は、第1章、けんぽうって、なんだろう?から始まります。登場するキャラクターはライ男(お)とシマ男(お)、この二人が対話して進行していきます。そして、主人公はメガネをかけたけんぽうくんです。シマ男は、いつもライ男に食べられないか、おびえています。
憲法というのは、国の基本的なルールなんだ。憲法は、日本の国民をしばるものではなくて、国民が自由になれるように、国の活動をしばっているんだ。
鎖で拘束されるのは、国であって国民ではない。
国の活動が、憲法のくさりで、グルグルに巻かれているっていうことなんだ。
居住・移転の自由が、どうして経済活動なのか?
たとえば、そうだな、アイスクリームの話をしよう・・・。
こんなふうに、とても具体的に、分かりやすく話が展開していきますので、飽きることがありません。楽しみながら憲法の本質がつかめるように工夫がこらされています。
国民の三大義務。勤労の義務、教育の義務、納税の義務。
勤労の義務といっても強制労働のことではない。教育の義務というのは、親が子どもに教育を受けさせる義務のこと。納税の義務は社会権と関係がある。国からいろいろしてもらうには、法律で決めた税金は納めてもらうということ。
こんなに分かりやすい憲法の本も珍しいと思いました。
(2013年3月刊。1300円+税)
2013年7月 6日
小さな達成感、大きな夢
著者 木山 泰嗣 、 出版 弘文堂
著者と私は、もちろん年齢はかなり違いますが、とても共通するところがあります。
その第一は、多読だということです。著者は年間4000冊の本を読むそうですが、私は年に少なくとも500冊は読みます。最高は700冊を超えました。その大半は電車や飛行機に乗って移動中の読書の成果です。したがって、忙しければいそがしいほど、読んだ本も比例して増えます。じっと事務所にいて読書量が増えるということはありません。また、家庭では本を読むことも滅多にありません。家庭にいるときは、インプットではなく、アウトプット、つまりは発信するために書いているのです。
第二には、著者はたくさん本を書いています。年に8冊の本を出したそうです。これはすごいと思いますが、今の私は真似したいとは思いません。いえ、決してジェラシーからではありません。私にとって、年に1冊の本が出せれば十分なのです。そして、本当に、それを目標として、実行してきました。著者でなくても編集でもかまいません。ともかく、本の出版にかかわれたらいいのです。
第三に、著者は、他人(ひと)がやっていないことをやってみることにチャレンジしましたが、私もまさにそうでした。関東での3年間の弁護士生活のあと、Uターンして故郷に戻ったとき、新しい分野を切り開くことを決意して、弁護士会への転入申し込み書にそのように書き込みました。そのとき、私は28歳でした。それを実行するのに、私はこだわりました。人権擁護問題、消費者問題に取り組み、そのことで経営的にも安定したのでした。
著者ほどの本は書いて出版していませんが、自費出版を含めると弁護士生活40年になる今日まで、毎年1冊以上は出版してきました。本当にありがたいことです。
著者は童話『憲法がしゃべった』(すばる社クンケージ)があるとのことです(まだ、読んでいません)。私は、童話ではなく、絵本を出版したことがあります。絵を描くのが好き(得意)な弁護士会職員との共作です。ちっとも売れませんでしたが、私にとっては、いい思い出になりました。
(2013年6月刊。1500円+税)
2013年7月 3日
私の最高裁判所論
著者 泉 徳治 、 出版 日本評論社
著者はバリバリの司法官僚なのです。なにしろ、裁判所に46年間にて、その半分22年間は最高裁の事務総局にいました。民事局長、人事局長、事務総長を歴任したのです。典型的なキャリア司法官僚なのですが、意外や意外、けっこう反抗精神も旺盛なのです。やっぱり好奇心旺盛ということからなのでしょう・・・。
私が、むかし弁護士会の役職についていたとき、それを書いた本を読んで面白かったという著者の感想を伝えてくれた弁護士がいました。そんなわけで、出会ったこともない著者ですが、なんとなく親近感を抱いてきました。
著者は6年3ヶ月間の最高裁判事のときに、36件の個別意見を書いた。多数意見と結論を異にした「反対意見」が25件。結論は多数意見と同じだが、その理由が異なるものが4件、多数意見に加わりながら、自分の意見(補足意見)を書いたのが7件。
これは、すごいと思いました。こうでなくてはいけませんよね。私も司法界に入って、最高裁の裁判官になれなかったのだけが残念でした。本気で心残りです。私とほぼ同世代の大阪・京都の弁護士が最高裁の裁判官にチャレンジしましたが、私もチャレンジくらいはしたかったのでした・・・。
それはともかくとして、少数意見の表明は、決してムダなことではない。まずは全体の議論の質を高めるものである。本当にそうなのです。今日の少数意見は、明日の多数意見になりうる。いま意見を言わないと、いつまでたっても変わらない。裁判官の心といえども、真空状態で働くわけがない。
高裁が1回の弁論で結審する傾向にある(次は判決となる)。証人や当事者の尋問がある事件は少なく、2.5%ほどしかない。そして、国民は最高裁に対して、誤判阻止の砦、正義にかなった事件の解決を求める。
しかし、最高裁は3つの小法廷しかないのに、毎年6千件もの事件が押し寄せてくる。最高裁が発足以来65年間に法令違反判決を下したのは、わずかに8件しかない。処分の違憲判決、決定も10件のみ。ところが、おとなりの韓国の憲法裁判所は、22年間に違憲判決を632件も下している。
最高裁の調査官は38人。全員が調査官室に配属され、裁判官全体を補佐する。特定の小法廷や裁判官を個別的に補佐するものではない。
裁判官の個別意見は、自分で起案する。著者は日本の裁判官があまりにも少ないので大幅に増員すべきだと強調しています。
裁判官が少ないために民事裁判が遅延し、人々の裁判所離れが生じている。
裁判を迅速化して民事裁判の機能を高め、裁判所が社会の歯車とかみあっていかなければならない。そのためには、裁判官をもっと増やす必要がある。
裁判所予算にしても、国の予算のわずか0.348%というのは、いくらなんでも小さすぎる。まことにもっともです。著者の個別意見や少数意見のところは、申し訳ありませんが、飛ばし読みしました。それにしても、司法官僚のトップにいた著者の思考の柔軟性は驚くばかりです。
(2013年6月刊。2800円+税)
2013年6月26日
白熱講義!日本国憲法改正
著者 小林 節 、 出版 ベスト新書
著者はごりごりの改憲派で有名な憲法学者です。それでも、安倍首相の96条改正先行論は許せないと高らかにぶちあげます。私もその限りで、大賛成です。著者が改憲論をぶつところは、あまりに俗論すぎて不思議に思えてきますが、ここでは私と一致する点にしぼって紹介します。誰だって、みんなが一致するはずもありませんからね・・・。
ところで、著者は私と同じ団塊世代です。アメリカのハーバード大学で学び、慶応大学で憲法を教えています。改憲論と党是とする自民党の有力ブレーンの一人でしたが、最近はあまり座敷に呼ばれていないそうです。
著者は30年来の改憲論者であるが、現状のままで自民党に憲法改正させるわけにはいかない。なぜなら、権力者の都合のいいような改悪がなされる恐れがあるからだ。
そもそも憲法は、主権者である国民大衆が権力を託した者たち(政治家とその他の公務員)を規制し、権力を正しく行使させ、その濫用を防ごうとする法である。
権利者(国民)には、権利の代価として義務が伴っているのではない。
「改憲のハードルが高い」は嘘。アメリカの改憲手続は日本以上に厳しいが、それでも、30回近くも憲法が改正されている。条件が厳しいから改正できないというのは間違い(詭弁)である。
立憲主義とは、国家の統治を憲法にもとづいておこなうという原理である。国家は個人の基本的権利を保障するための機関であり、国家権力は権利保障と権力分立とを定めた憲法に従って行使される。それにより、政府は憲法の制約下に置かれることになる。
日本国憲法は敗戦後、アメリカに押しつけられたということを問題とする人に対して、著者は、押し付け憲法だっていいと開き直っています。
そこには押しつけられるべき事情があった。そして、押しつけられたとはいえ、結果として民主主義が浸透し、急速な経済成長を遂げることができたという意味においては押しつけられて良かったと言える。押しつけ憲法の無効性を論じること自体むなしいこと。
楽して殿様になった世襲議員たちは、いつも自分たちが造っている法律の立法と同様に、本来は自分たちに向けられる最高法規の憲法で、「国を愛せ」と国民大衆に命じる構えになる。傲慢さの結果である。
立憲主義とは何なのか、なぜ安倍首相の改憲論が間違いなのか、改憲論の立場から、とてもわかりやすく解説している貴重な新書本です。
(2013年6月刊。800円+税)
2013年6月13日
逆転無罪の事実認定
著者 原田 國男 、 出版 勁草書房
私より少し先輩になる元裁判官による刑事裁判のあり方を世に問う本です。
私などは、この本を読みながら、いかにも底の浅い弁護活動をしてきたか、深い反省を迫られました。いえいえ、これまで手抜き弁護してきたつもりではありません。もっと複眼的思考で掘り下げて考えるべきだったという意味です。
なにしろ、著者は最後につとめた東京高裁の8年間になんと20件以上の逆転無罪判決を言い渡したと言うのです。信じられません。年に2件もの無罪判決なんて、ありえません・・・。そして、いずれも検察官による上告がなくて、無罪判決は確定したというのです。いやはや、なんということでしょうか・・・。すごいです。著者は次のように述懐します。
これほど、警察・検察の捜査や第一判決に問題があるなど、初めのうちは考えてもいなかった。ここには刑事裁判のおそろしさがある。人が人を裁くという本質的な難しさだ。
著者は、ありきたりのような人定質問も大切にしているとのこと。
この段階こそ、相互の人間関係ができる、もっとも重要な瞬間なのである。
そして、起訴状の朗読で地名を正しく読みあげるのは大切なこと。
証人尋問のとき、ウソを見抜くのは、なかなか難しい。韓国では、偽証罪の被疑者は138人、うち起訴されたのは9人のみ。
裁判官は、法廷で時間を気にしてはいけない。気にしていることが見抜かれ、被告人はいろいろムダな抵抗をしてくる。
裁判官が被告人に判決を言い渡したあと控訴をすすめることがあることにも一理ある。
判決は自信をもって言い渡すべきである。しかし、誤っている可能性は常にあるから謙虚な気持ちを失ってはならないのだから、ありうる説示なのだ。なーるほど、ですね・・・。
とても本当とは思えないことも、一度は本当かもしれないと思ってみることだ。勘というのは非常に大切。人間の知恵の集積なのだ。冤罪を見抜く力は、いわば総合的な人間力だから、社会での経験や個々の人生経験がものを言う。毎日の新聞を読んでいないのは論外・・・。
以下、無罪判決がコメント付きで紹介されています。いずれも、とても実践的な内容であり、明日といわず今日からの本格的な弁護活動にすぐに役立つものばかりです。
多くの弁護士に一読を強くおすすめします。
(2012年11月刊。2800円+税)
仏検(一級)が近づいてきました。過去問をやっています。仏作文はとても難しくて、まるで歯がたちません。いえ、文法も難問です。
毎朝の書き取りに加えて、フランス語の勘を身につけるために仏和大辞典で類似語を調べたりもします。
こうやって努力していても、語学力の上達はあまりなく、せいぜい低下するのを喰いとめるのに役立つくらいです。トホホ...。
2013年6月11日
「プロの論理力」
著者 荒井 裕樹 、 出版 祥伝社
まだ20歳代なのに、年収1億円という東京の弁護士が書いた本です。そこに、私とはどんな違いがあるのかと思って、恐る恐る読みはじめたのでした。すると、年収こそ桁違いではありましたが、そこに書かれていることは、年齢の差も感じさせない、至極まっとうなことばかりでした。そんな共感の思いを込めて紹介します。いえ、本当に、ジェラシーはありません。年収1億円だなんて言われても、私は本を大量に買うことしかしませんので、そんな大金の収入は必要としないのです。これは決して負け惜しみなんかではありません。衣食住があって、やるべき仕事があり、家族がみな元気で、本を好きなだけ読めれば、これ以上、何を望みましょうか・・・。
著者の父親も弁護士です。そして、幼いころから、著者に論理力を求め、鍛えていたとのこと。すごい親父ですね・・・。
それで、父には悪いけど、弁護士にだけはなりたくないと思っていた。
ところが、今では、心より敬愛する父に本書を捧ぐとまで書いているのです。変われば変わるものですね・・・。
どんなに論理力を鍛えても、野心のない弁護士には、前例を打ち破るような仕事はできない。そもそも野心に欠ける人間には、自分であえて高いハードルを設定することができない。平均点の仕事で満足できる人間は、いつまでたっても平均点をとり続けるものだ。
他人(ひと)と違うことをやってやろうという野心を持った個性豊かな人材が弁護士の世界でも少なくなってきているように感じる。
私は、弁護士になって3年あまりで独立開業しましたが、そのとき他人(ひと)と違うような分野を開拓するという決意表明を入会申込書に書きました。その思いは、クレサラ・多重債務の問題や、草の根民主主義を擁護・発展させる取り組みとして結実しました。やっぱり、他人と一味ちがうことにチャレンジしたいものですよね。
自分でコントロールできることと、コントロールできないことをきちんと区別し、自分がコントロールできることに集中するのが大切。
司法試験の受験勉強のときに、それを痛感しました。そして、日々のストレスフルな弁護士生活のなかで、ストレス解消の貯めに心がけることが大切だと思います。
交渉の流れをコントロールするためには、できるかぎり自分のペースで話を進めることを心がけるべきだ。そこで大切なことは、しっかり準備して、話の展開を見すえたうえで、行動を起こすこと。
交渉事で相手からの不意打ちを避けようと思ったら、かかってきた電話にはなるべく出ないほうがいい。受けた側は、どうしても守勢にまわってしまう。だから、プロの交渉人は、かかってきた電話には絶対に出ないと決めている人が多い。
不意打ちをくらったとき、相手にペースを握らせないためには、あわてて対応しないこと。「その点については、ちょっと検討させてほしい」と言って電話を切るなり、席を立つなりして、準備する時間を稼ぐべきだ。次の一手を思いつくまで将棋と同じく「長考」すればいい。もっともよい交渉の仕方は、相手を一生けん命に「説得」するのではなく、自然と相手に「納得」してもらうこと。
交渉では、相手に言質(げんち)をとられないこと、これが鉄則だ。常に冷静さを持って、十分に準備して慎重に話を進めなければいけない。
先方がEメールで問い合わせてきても、証拠を残したくないときには、容易に返信せず、電話で答える。逆に相手の回答を証拠として残したいときには、Eメールで返信せざるを得ないような問い合わせを工夫する。
あらゆる交渉事は、国同士の外交交渉させながらの緊張感をもってのぞむべきなのだ。弁護士の場合、交渉相手とのコミュニケーションを図る前に、自分の依頼者とのあいだでしっかり意思疎通をし、目標設定や交渉の進め方について納得しておいてもらう必要がある。依頼者は報酬をいただく「お客さま」であるだけに、交渉の相手以上に「納得」が求められる。そのためには、あらかじめ弁護士の側が自分の方針を誠心誠意、説明しておくのはもちろん、依頼者の話をよく聞いて、その気持ちに深い共感を示しておくべきだ。
「弁護士」というから、しゃべる仕事というイメージが強いが、実際には書面を「書く力」がモノをいう仕事だ。こちらの力量や本気度を裁判官に認めてもらうには、どれだけインパクトのある準備書面を提出できるかが勝負だ。準備書面は裁判官に読んでもらえなければ価値がない。その論理の正しさを分かりやすく説明する懇切丁寧な解決があってこそ、その論理には相手を動かすだけの力が備わる。
そのため、準備書面には、証拠書類を引用したり、重要な部分にアンダーラインを引いたり、文字の色を変えたり、グラフや図解などのビジュアル要素も取り入れ、「親切第一」の見せ方を心がける。
弁護士にとって大切なのは日頃の情報収集だ。ふだんからさまざまな世界に関心をもって、状況を把握しておかなければいけない。目の前の仕事に役立ちそうもない情報でも、いつかは「使える」可能性がある。目先のことばかりを考えず、視野を広くもって、あらゆる分野に目配りしておくべきだ。日頃からアンテナを張りめぐらしている弁護士とない弁護士とでは、依頼者の話の理解のスピード、深さが異なるし、信頼の度合いがまったく違う。
睡眠時間7時間を確保しているという点でも私と同じ著者の話は、とても共感できるものばかりでした。
(2007年2月刊。1300円+税)
日曜日の夜、いつものところへホタルを見に出かけました。歩いて5分あまりのところです。残念なことに、ほんの少ししかホタルは飛んでいませんでした。もうシーズンは過ぎてしまったようです。また、来年を楽しみにします。
2013年6月 9日
日本弁護士史の基本的諸問題
著者 古賀 正義 、 出版 日本評論社
あまりにも大層なタイトルなので、手にとって読もうという気が弱まりますよね。弁護士会の歴史に関心をもつ身として、いわば義務感から読みはじめたのでした。ところが、案外、面白い内容なのです。
最近の流行は、アメリカの弁護士とくに大ローファームの弁護士の神話化である。結論を先に言えば、イギリスのバリスターもアメリカの弁護士も、日本の現在の弁護士と知的能力・倫理水準等の個人的次元で比較したとき、格別に秀れた存在であるとは思わない。ここで「最近の」というのは、今から40年以上も前のことです。念のために・・・。
江戸時代の公事師について、この本は、全否定する議論に疑問を投げかけています。私も、その疑問は正当だと思います。
公事宿の本場は、丸の内に近い神田日本橋区内であって、こちらは公事宿専業だった。馬鳴町の公事宿は一般旅人宿との兼業であり、丸の内近くの公事宿の主人・手代のほうが訴訟手続に習熟していた。
そして、明治期の弁護士を語るうえで、自由民権運動の重要性を欠かすわけにはいかないと強調しています。
代言人時代は、弁護士史の暗黒時代であるどころか、黄金時代、少なくとも黄金時代を準備する時期だった。というのも、創設以来20年のうちにすぐれた人材が代言人階層に流入したのは自由民権運動にある。
自由民権運動と代言人との結びつきは、もっと注目されてよいものだと私も思いました。
天皇制絶対主義のもとで、弁護士は法廷における言論の自由をもたなかった。裁判官に対して尊敬を欠く言行は、それが裁判官であるがゆえに、理由の有無を問わず、尊敬に値するか否かを問わず処罰された。
大企業は弁護士全体からすると依頼者層として無縁な存在だった。そして、弁護士は大企業からみて、重要な存在ではなかった。弁護士は、日本資本主義の陽の当たらない停滞的な部分を依頼者層とする、日本資本主義からみて重要でない存在だった。
個人の人権は、戦前の権力から見れば無価値であり、弾圧すべきものだった。弁護士は、国家的に無価値なもののために働く、無用かつ危険な存在だった。太平洋戦争中、憲兵が弁護士に対して「正業につけ」と叱った言葉は、戦前の国家権力の弁護士観を集約的に表現したものである。
弁護士自治の大切さも分からせてくれる本でもありました。
(2013年3月刊。800円+税)
2013年5月22日
職業史としての弁護士・弁護団体の歴史
著者 大野 正男 、 出版 日本評論社
ありきたりの、弁護士について簡単に歴史的経過をたどった本かな、などと予断をもって期待することもなく読みはじめたのでした。すると、案に相違して、とても面白く、知らないことも書かれていたりして、一気に読み終えました。1970年に書かれた本の復刻本です。150頁ほどのハンディな一冊にまとまっていて、読みごたえがあります。
明治5年に司法職務定制が定められた。訴訟代理制度が始まったわけであるが、そのとき専門的職業に不可欠の資格要件が定められていなかった。
これは二つの点で重大な効果をもたらした。一つは、人的に旧来の公事師がそのまま営業を続けることができた。二つは、代言人や代書人は裁判所において何らの職業的特権も権威ももっていなかった。
公事師は、明治以降の弁護士制度の発展に重要な影響を与えた。公事師については、二つの説がある。公事師は、もぐりでしかなかったというのと、公認された公事師がいたというもの。
代言人制度の初期において、評判の悪い公事師から人的な継受があったことは、代言人一般の社会的地位を低からしめた。しかし、本当に、このように公事師を全否定すべきものなのでしょうか・・・。
明治9年、司法省は代言人規制を制定し、代言人を免許制にした。ただし、代言人の職務には重大な制約が課せられていた。それは、代言人は立法趣旨とその当否を論じることができないこと、また、裁判官によって処分されること。
代言人が、刑事裁判の法廷で無罪弁論をしたとき、立会検事が官吏侮辱であるとして代言人を起訴し、禁錮1月罰金5円さらに、代言人の停業3ヶ月を併科された。
うひゃあ、こ、これはないでしょう・・・。
明治初期から、中期にかけての代言人の司法における地位は、はなはだ低かった。
ところが、明治20年ころからの自由民権運動の進展とともに、有為の人物が次々に代言人として登録し、代言人の社会的地位を高めた。
明治26年に弁護士法が制定された。このとき、弁護士は判検事の資格試験とは別の試験に合格することが要件とされた。そして、登録手数料が低額化された。これによって弁護士の出身階級の多様化がもたらされた。さらに、このとき弁護士会への強制加入制がとられた。ただし、検事正の監督を受けた。
弁護士にとって、国家機関からの監督が桎梏であると自覚されるのは、明治29年に日本弁護士協会が設立されてからのことである。
弁護士の法廷における言論の自由を確保することは、明治期の弁護士の大きな課題であった。明治30年以降、刑事裁判について、当時の弁護士は強い不満をもち批判していた。
弁護士会内部の対立抗争が激化して、大正12年5月、第一東京弁護士会が設立され、大正15年3月に第二東京弁護士会が発足した。全国的な任意の弁護士団体も、大正14年5月、帝国弁護士会が設立されて二分した。
弁護士階層の分化が進んだ。弁護士数の激増による。大正8年に3000人いなかったのが、大正12年に5000人をこえ、4年間で2300人も増えた。これは青年弁護士を激増させた。このころ、民主主義や普通選挙の要求が激しい時代だった。
昭和8年に弁護士法が改正された(昭和11年4月施行)。このとき、女性弁護士が誕生した。そして、弁護士会を監督するのは、検事正から司法大臣となった。
大正の終わりから昭和の初頭にかけて、日本社会をおそった経済的不況は弁護士の経済的基盤に大きな影響をもたらした。しかも、不況に反比例してこの時期、弁護士は急増していた。
大正12年に5266人だった弁護士が、昭和4年には6409人に達した。大正9年の3000人からすると、倍増したことになる。このころ、毎年300名ほど増えていた。昭和4年ころ、東京には非弁護士が2万人いたという。現代の日本でも似たような議論があるものだとつくづく思いました。
それにしても、この本では公事師が低く評価されているのが気になりました。
『世事見聞録』にみられるように、江戸時代には今の私たちが想像する以上に裁判は多かったのです。そして、そのとき公事師の働きは不可欠だったはずです。さらに、明治初めには、とても裁判件数が多かったことをふまえた論述が欠落しています。
これらの重大な欠点は、今後、必ず克服されるべきものだと確信しています。
(2013年3月刊。800円+税)