弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2013年10月 3日

憲法とは何か

著者  長谷部 恭男 、 出版  岩波新書

憲法とは何か、改めてじっくり国民に考え直してもらおうという本です。
 憲法はわれわれに明るい未来を保障するどころか、ときに人々の生活や生命をも左右する「危険」な存在になりうる。憲法を変えたとき、われわれの暮らしが良くなるか否かは、憲法をどう変えるかによる。
 憲法にまつわるさまざまな誤解や幻想を指摘したい。
 憲法が権力を制限することで、人々の自由と権利を守る重要な役割を果たすことができる(立憲主義)。立憲主義は、近代のはじまりとともに、ヨーロッパで生まれた思想である。 
 衝突の調停と限界づけを目ざす立憲主義は、中途半端な煮え切らない立場である。立憲主義を選ぶことは、この「中途半端」な立場にあえてこだわることを意味する。立憲主義は、人間の本性に反している。というのは、人は、もともと多元的な世界の中で個人的に苦悩などしたくない。みんなが同じ価値を奉じ、同じ世界観を抱く「分かりやすい」世の中であれば、どんなにいいだろうかと思いがちなものである。
 プライバシーの権力や環境権を憲法に書き込むべきだという討論がある(いわゆる加憲のことですね)。しかし、これらは、憲法の条文に書き込んだとしても、国会の制定法や裁判所の判断を通じて具体化されなければ、何の意味もない。たとえばプライバシーの権利は、すでに憲法13条の解釈として裁判所によって具体化されており、その侵害に対しては差止めや損害賠償等の救済が認められている。憲法に書き込むことで新たにえられるものはなさそうである。
 憲法がなぜ、通常の法律よりも変えにくくなっているかといえば、意味のないことや危なかったことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立場のプロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。不毛な憲法改正運動にムダなエネルギーを注ぐのはやめて、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家が時間とコストをかけるようにと、憲法はわざわざ改正するのが難しくなっている。
 憲法96条を改正して、3分の2を過半数に緩和しようとする考えは、最終的には国民投票で決着がつくのだから発議要件はそれほど厳格でなくてもよいという考えがある。
 これは一見もっともらしくあるものの、にわかに賛成しがたい。憲法の改正に単純多数決ではなく、要件の加重された特別多数決が要求されるのは、第一に、少数者の権利の保障のように、人々が偏見にとらわれるために単純多数決では誤った結論を下しがちな問題については、より決定の要件を加重することに意味があるから。
 第二に、憲法に定められた社会の根本原理をしようとするのであれば、変更することが正しいという蓋然性が相当高いことを要求するのは、不当とは言えないから。
 著者は、国会が憲法改正の発議したとき、国民投票まで少なくとも2年以上の期間をおくことを提案しています。なるほど、まったく同感です。ことを急ぐ必要はないのです。じっくり、あれこれ考えて結論を出したらよいと私も思います。
 立憲主義には広狭二つの意味がある。広義の立憲主義は、政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みをさす。「法の支配」という考え方は、広義の立憲主義に含まれる。
 狭義の立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みをさす。
 アメリカやフランスで何度も憲法が改正されているが、その内容は、道路の交通規制にも比すべきルールの改正である。内容のいかんより、とにかく何かに決まっていることが重要な問題に決着をつけることを目的とするルールが改正されているのにすぎない。フランスでも、同じように、国会の会期の延長や大統領の任期の短縮など、道路の交通規制に比すべきルールの変更のようなものである。すなわち、国家体制の根本的変革をもたらすようなものではない。
やや難しい言いまわしの部分もありますが、じっくり読むと、自民党の憲法改正草案はとんでもないものだということがよく分かる内容になっています。
(2011年2月刊。700円+税)

2013年10月 1日

憲法を守るのは誰か

著者  青井 未帆 、 出版  幻冬舎ルネッサンス新書

これまでの歴史をひも解いてみれば、権力行使の「行き過ぎ」の例は枚挙にいとまがない。だからこそ、本当に自由を奪われ、人権が侵害されないように、国家権力を縛り、コントロールしなければいけない。どんな人が統治にあたることになっても人権侵害が起こりにくいような「仕組み」をつくっておく必要がある。そうした、権力に服する側の国民の目線でつくられたのが、権力分立をともなう統治の仕組みを定めた憲法である。
 憲法によって国家権力を制限して人権を保障する、つまり政治を憲法に従わせるというのが立憲主義の考え方。
明治憲法の下では、政府のもつ権力がきちんとコントロールされ得なかったために、無謀な戦争に突き進み、多くの人々に生命・身体・財産における犠牲を強いながら、日本は焦土のなかで敗戦を迎えた。
明治憲法には、人々の自由や人権といった概念やその保証のための制度が大いに欠けていた。
 憲法は「道徳本」とは違う。国家は、人の心に入り込んで、その選択に介入してはならない。人権というのは、フワっとした概念で、とらえどころのないもの。
多数者に天賦人権を観念しなくてはならない切迫性はない。天賦人権論をもっとも必要としているのは、多数者から有形無形の圧力を加えられることに起因して苦しむ少数者だ。
選挙で勝った「時の多数者」によって、簡単に人権規定などの重い意味をもつ憲法の規定がコロコロと変えることができるというのは、選挙という民主的政治過程で負けてしまいがちな少数者の人権を危機にさらすことにほかならない。
 憲法96条改正先行論は、憲法改正は、少数者の基本的人権保障がかかわる以上、慎重にも慎重を期そうという現行憲法の狙いとするところを没却するもの。
 劣勢に立つ側の「武器」として憲法論は、法律の論理を外側から変化させる理屈として、もっと使えるはず・・・。
 戦争は、人々の生命・身体・財産・自由が奪われるという人権の問題だ。だから安全保障政策は人権の問題である。だからこそ、国家の統治を人権保障という観点から監視する必要がある。
 自衛隊は、日本政府の説明によると、国家固有の自衛権にもとづいて正当化されるもの。明治憲法の失敗の一つには、軍部の強い自律性を外部からコントロールできなかったことにある。天皇は戦前の軍部などの前に権威づけとして利用されていた。
 立憲主義とは、自由を守るための知恵である。自由や人権が保障されることが、憲法や立憲主義の目的である。
 有事の際に、弾となり、盾となるのは、私たち国民である。どう変えるのかも不明なままで、憲法改正に賛成することは具体的な制度づくりを政治家にゆだねるということになり、これは、無謀であり、危険が大きい。
 10月3日に広島で開かれる日弁連のシンポジウムで著者に基調となる講演をしていただきます。若手の学者による鋭い問題提起が聞けるのを楽しみにしています。
(2013年7月刊。838円+税)

2013年9月26日

刑事弁護プラクティス

著者  櫻井 光政 、 出版  現代人文社

新人弁護士養成日誌というサブタイトルのついた本です。著者の長年にわたる活動実績と熱意には本当に頭が下がります。
 「季刊・刑事弁護」で連載されていましたので、このうちいくつかは読んでいましたが、こうやって本になって改めて読んでみますと、その指導のすごさが実感できます。そして、厳しい指導を受けて大きく成長していった新人弁護士は幸せです。
弁護人は被告人の良き友人になろうとする必要はない。被告人も友だちがほしくて弁護人を依頼しているのではない。だから、人間的に立派な人だと思ってもらう必要もない。被告人の弁解を十分に聞いて、法律的にきちんと主張すること、捜査官、裁判所に手続を守らせること、そのための努力を払えば、被告人は弁護人を弁護人として信頼するはずである。弁護人としては、それで十分である。
生まれ育った境遇も現在置かれている立場もまったく異なる被告人と弁護人との間の信頼関係は、所詮そこまでのことと心得るべきである。弁護人も報酬の多寡はあるけれど、仕事でのつきあいなのだから。
「先生のおかげで生まれ変わりました」などと言っていた被告人が数ヶ月後に同種事犯で逮捕され、「また先生にお願いしたい」などと連絡してくるのは驚くほどのことではない。そんなことで「自分の努力は何だったのか」などと嘆く弁護人がいたら、その思い上がりこそ戒められるべきである。弁護士が「お仕事」で数ヶ月つきあっただけで、人は生まれ変わったりはしない。一般的に言えば、接見回数が多すぎることによる弊害は、少なすぎることに比べて、はるかに少ない。
私自身は、1回の面会時間は少なくして、なるべく回数を重ねるように心がけています。この本にも、接見時間が4時間とか、とても長い新人弁護士の話が出てきますが、1回にあまりに長時間かけるのは他人(はた)迷惑(別の弁護人が接見できなくなることになります)でもありますし、仕事として効率的でもありません。
たとえ新人だろうが、バッジをつけたら一人前の弁護士だ。自分の責任で事件に対応しなければならない。困難な問題に突きあたったときに、先輩弁護士に意見を聞くのはよい。しかし、最初に何をしたらよいのか分からないようなときは、明らかに自分の手にあまるのだから、そのような事件を受任すべきではない。一つひとつが生の事件であることを忘れて、あたかも単なる学習教材のように接する姿勢があるとしたら、たいへんな間違いである。
情状弁護においては、被告人が再び罪を犯さないようにすることを大きな柱のひとつに据えている。目先の刑の長短よりも、その後の被告人の立ち直りのほうが、被告人のためにも、ひいては社会のためにも重要だと考えている。そのための努力を惜しまないことが、弁護士の矜持だと心得ている。
この点は、私もまったく同感です。被告人に対して、なるべく温かく接して、社会は決してあなたを見捨てていませんよ、というメッセージを送るのが私の役目だと考えています。
裁判所により仕事をしてもらおうと思ったら、弁護士は手を抜いてはならない。
この指摘は私にも大変耳の痛いものがあります。大いに反省させられます。弁護士生活40年になる私がこうやって新人弁護士養成日誌を読んでいるのも、初心を忘れないようにするためなのです。ありがとうございました。
(2013年9月刊。1900円+税)

2013年9月25日

憲法問題-なぜいま改憲なのか

著者  伊藤 真 、 出版  PHP新書

著者は、自分のことを護憲派だと思ったことはないと言います。
 ええーっ、だって・・・と思うと、次の言葉で救われます。なるほど、なるほど、です。
 自分のことを改憲派でもなく、「立憲派」だと思っている。
 著者が現憲法にも変えたほうがいいという点も示唆に富んでいます。たとえば、こうです。
 現憲法は人間中心であるがゆえに、動物や植物に、さらにいうと地球と共生していくという視点がない。地球環境に言及する条項もあっていい。なーるほど、ですね。
 しかし、憲法の基本から逸脱すると、憲法で社会を良くするつもりで改正したのに、逆に悪くなってしまったという自体を招きかねない。
 604年に聖徳太子が制定したといわれる十七条の憲法にも、立憲主義の考え方が隠れている。「官吏は賄賂をとるな」(5条)、「任務をこえて権限を濫用するな」(7条)、「国司や国造は人民から勝手に税をとるな」(12条)という条項には、国民を守るために国家権力を縛ろうという意図が込められている。
 このように、マグナ・カルタより600年も早く、日本には国家権力を縛る考え方が存在していたわけである。
ちなみに十七条憲法でよく紹介されている「和をもって貴しとなし」というのは、このころあまりに争いごとが多くて裁判が増えすぎたので、いい加減にしろ、もっと仲よくなりなさいというものであって、日本人が仲良くしていたというのではありません。誤解しないようにしたいものです。
安倍首相と自民党の96条改正先行論は、改憲の「裏口入学」であって、真の目的は戦争放棄を誓った9条の改正にある。
 自民党改憲草案の前文には、日本は「天皇をいただく国家であって」としている。これは、国民の上に天皇がいて、権威のある天皇に国民が従属しているという構図を想起させる。そして、改憲草案の前文第二段には、日本が戦争加害者になったことに触れていない。
 夫婦同姓が日本の伝統的な家族のあり方だというのは誤解。夫婦同姓がスタンダードになったのは、明治以降のこと。それまでは夫婦といえども別姓があたりまえだった。有名な北条政子は源頼朝と結婚しても名前は変わっていない。
 個人の尊重は、立憲主義にもとづく憲法の根底にある大事な考え方である。人間を身分や制度から解放して、かけがえのない個人として尊重しようとするもの。一人ひとりが多様に生きていることこそがすばらしい。それが個人の尊重の意味。ところが、自民党の改憲案は「個人」から「個」をとって、「人」とした。「個」をとったということは、人を自立した個人ではなく、「人」という集団としてとらえているということに他ならない。
 人を個人として扱われなくなれば、個人としての責任も曖昧になる。
人々が苦労して発展させてきた立憲主義の歴史をふまえたとき、時代の針を巻き返すような自民党の改憲案を認めることが、はたして正しいことなのかどうか、ぜひ考えてほしい。
 わずか250頁の新書ですが、最新の知見と論点を盛り込んで改憲論の問題点をじっくり考えさせてくれる本になっています。一読をおすすめします。
(2013年7月刊。760円+税)

2013年9月20日

憲法は政府に対する命令である

著者  C・ダグラス・ラミス 、 出版  平凡社ライブラリー

初版は2006年8月、小泉内閣の前の第一次安倍内閣のときに刊行されています。
第一次の安倍内閣は憲法改正を始める力はなかった。しかし、第二次安倍内閣には憲法改正のための政治力があるかもしれない・・・。
 そして、自民党は2012年4月、憲法改正草案を発表した。この草案の正確は、国民に対する命令である。草案102条にある「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という条項は、主権者にいう言葉ではない。
 安倍首相のいう「日本を取り戻す」とは、大日本国帝国政府のよさを取り戻すという意味だ。しかし、明治憲法が現憲法に変わったとき、日本がどれほど変わったのかを思い出す必要がある。
憲法とは国の政治を形づくるものである。
 近現代の憲法の多くは、国家権力の制限を基本としている。
 明治憲法のもとでは「臣民」が存在していた。明治維新より前には「国民」という言葉は存在もしなかった。政府は、社会契約の相手であり、その契約を守るかぎりにおいて市民も、それを守る。つまり、市民は、「政府」として認めて、法律に従う義務がある。日本国憲法に命令として従う義務があるのは国民ではなく、政府である。厳密にいうと、政府を構成する人間である。
 問題は押しつけ憲法がどうか、なのではない。誰が誰に、何を押しつけたのか、ということである。日本の民衆は、総司令部(GHQ)の大日本帝国政府への新憲法の押しつけに参加した。
 施行されてしばらくして、アメリカ政府は、とくに9条に関して、後悔した。しかし、それは後の祭りだった。
 交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。
 交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。
 交戦権とは、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
 侵略戦争を起こしたときには、それが禁止されているものである以上に、交戦権は成り立たない。自衛戦をする場合のみ、立派な交戦権が成り立つ。
日本国憲法において重要なのは、その国家の正当暴力の権利を、すべてではないが、その一部の交戦権を放棄しているということ。
 自衛隊は軍隊の組織をもち、軍服を着、軍事訓練を受け、そして戦争のための武器をもつ。しかし、軍事行動はできない。このように、かなり訳のわからない組織である。
 不思議な自衛隊である。このように矛盾した状況だが、結局、憲法ができてから今までの60年あまり、日本の交戦権の下では一人の人間も殺されたことはないという現実がある。
 自民党の改憲草案は、戦争で日本は害を受けたが、害を与えたことはないという歴史観に立っている。
 いやはや、なんという間違った、狭い考えでしょうか・・・。情ないです。いまは沖縄に住むアメリカ人の著者による歯切れのいい憲法を論するの文庫本です。一読をおすすめします。
(2013年8月刊。1000円+税)

2013年9月18日

日本国憲法の初心

著者  鈴木 琢磨 、 出版  七つ森書館

『路傍の石』の山本有三が日本国憲法の成立に深く関わっていたことを初めて知りました。直接的には、口語化ですけれど、広い意味では日本国民の意思を体現して現憲法の成立を推進したと言えると思いました。
 山本有三は1887年7月、栃木県で生まれた。一高から東京帝大独文科に入って学ぶ。一高時代、同級の近衛文磨と生涯と友となる。
 山本有三は強度の近眼のため、微兵検査で不合格となり、兵役は免れた。
 1920年に文壇にデビューしたが、1933年、共産党との関係を疑われて検挙された。
 戦後、日本国憲法をつくるというとき、山本有三は口語体にすることを強く主張し、口語体の文案をつくった。政府は山本有三の口語体文案をおおいに参考にしながら、現在の憲法をつくりあげた。
 山本有三は、戦後、1947年の参議院選挙に全国区から出馬し、9位で当選した。そして、無所属議員による緑風会に所属する。そして、文壇の大先輩である幸田露伴の死去にさいし、参議院本会議で追悼の演説をした。
 1956年の参院選挙のとき、自民党が憲法改正を叫んだのに対して、山本有三は次のように主張した。
 押しつけられた典に不満もないわけではない。いつかは改正しなければならないと思う。しかし、憲法改正は非常に重大なことであるから、軽々しく取り扱うべきものではない。
 本当にそのとおりですよね・・・。次に、山本有三の戦後の反省のコトバを紹介します。
 軍部や右翼がのさばったのは、たしかに不都合には相違ない。しかし、それをのさばらせたのは、国民の中にも何かがあったからではないのか。官僚や議員や報道陣が、常にときの権力に屈従しているのは、必ずしも彼らだけが悪いのではなく、そうさせるものが国民の中にもあるからではないか・・・。
 いのちを投げ出すことを最高の美徳と考えたり、それをほめたたえる思想は、封建主義的な思想だ。ヤクザ仁義の思想であり、軍国主義的な思想だ。こういう考え方、気風というものは、ぜひとも根だやしなければならない。
 日本は領土を広めようとして海外に乗り出したときは、必ず失敗している。
 「もし他国から攻撃を受けたとしたらどうするか」「武力をもたない日本は、ひとたまりもないではないか」
 この質問に対しては、逆に問い返したい。
 それなら、どれだけの兵力をもっていたら侵略をくいとめることができるのか?
 デンマークとナチスの例を考えたら、国防軍を備えていたところで、なんになったろうか・・・。問題は、どれだけ武力をもつかということではない。そんなものは、きれいさっぱりと投げ出してしまって、裸になることである。そのほうが、どんなさばさばするかもしれない。裸より強いものはない。なまじ武力なぞ持っておれば、痛くもない腹をさじられる。それよりは、役にも立たない武器なぞは捨ててしまって、まる腰になるほうが、ずっと自由ではないか。そこにこそ、本当に日本の生きる道があるのだと信ずる。
 戦前の厳しく辛い経験をふまえた山本有三の指摘は、今も生きているものだと思いました。
(2013年8月刊。1600円+税)
 稲穂が垂れて、畔に紅い彼岸花の咲く秋になりました。久しぶりに庭に出て、花を整理しました。
 夏のカンナを刈り、夜に芳香を漂わせる夜光木をカットしました。その隣には、エンゼルトランペットが黄色い花を咲かせています。
 娘が庭に植えていた芋を掘りあげました。なんとか食べられそうな芋を収穫することができ、さっそく秋の味覚として美味しく、みんなでいただきました。

2013年9月11日

原発を止めた裁判官

著者   神坂さんの任官拒否を考える会、 出版  現代人文社

3.11の前、画期的な原発運転差止め判決を書いた井戸謙一・元裁判官が講演した内容を本(ブックレット)にしたものです。
 著者は私より5歳ほど若いのですが、大学時代には私と同じようにセツルメント活動をしていました。著者はいま彦根で弁護士です。65歳の定年退官前に弁護士生活をスタートするという人生計画を立てていたというのですから、司法当局ににらまれて裁判官を辞めたということではありません。32年間、ひたすら現場で裁判官をしてきた。出身が大阪(堺)なので、常に大阪地裁での仕事を希望してきたが、ついに勤務できなかった。神戸や京都、金沢そして大阪高裁で仕事することは出来たけれど・・・。ただし、金沢と京都では部総括(いわゆる部長)もしているので、決して冷遇されたわけでもない。
裁判官の世界が一番自由闊達だったのは1960年代の半ばくらい。
 青法協(青年法律家協会)の裁判官部会には360人の裁判官が加入していた。これはすごい比率であり、人数です。そして、司法反動の嵐のなかで百数十人の裁判官が脱退していく。それでも200人の裁判官が青法協に残った。
 全国裁判官懇話会というのが1971年に始まり、議論していた。それも、当初は210人あまりの参加があって、毎年のように開かれていたが、次第に参加者も減り、ついに2007年に解散した。
 著者は修習31期。同期の裁判官の結束は固く、配偶者も「奥様同期会」をつくり、「風の便り」という同期会誌を発行していた。
これには驚きましたね。そんなに仲が良くて、交流できていた時代があったとは・・・。だからこそ裁判官懇話会への参加の呼びかけ人になったのが30人をこえたのでしょう・・・。それにしても、すごい人数です。感嘆するほかありません。
 勾留請求について、1日1件は却下するくらいの心構えでのぞむべきだと高言していた大阪高裁の裁判官がいた。いやはや、驚くばかりです。
 志賀原発2号機の差し止め判決を書いた著者は、福島第一原発事故を受けて、自分の考えが甘かったことを痛感させられた。
 第一に、原発の集中立地の恐怖に思い至らなかった。
 第二に、使用済み核燃料がこれほど怖いものがという点で、認識を新たにした。
 第三に、国家というものは、こんなに国民を守らないのかということ。
 裁判所は、これまで、原発裁判について、専門家の判断に異議を唱える決断ができなかった。
 この点は、私のもよく分かります。国の判断にタテついたときの反動が、裁判官だって怖いのです。表面上はともかく、内心はヒヤヒヤしているのです。だから、そんな裁判官を励まし、安心させてやる必要がどうしてもあります。それが大衆的裁判闘争の狙うところです。
 今では、裁判所内での露骨な人事差別はほとんどなくなった。しかし、それは差別的な人事をする必要がなくなっているということでもある。裁判官の自主的な集まりというものが、ほとんどなくなっている。
 個性豊かな裁判官が裁判所のなかにいないし、いづらくなっている。
 上司におべっかを使うような裁判官は実は出世しない。物腰が穏やかで、人当たりがよくて、発想はリベラル。若いころには裁判官懇話会にも参加したような人こそ出世していく。問題が生じたときに柔軟に対応できるだけの人柄の良さ、そして枠を踏み外さない。そんな人が出世していく。
 たしかに、私の知る限りでも、そう言えると思います。
 著者から贈呈していただきました。ありがとうございます。今後とものご活躍を祈念します。
(2013年8月刊。900円+税)

2013年9月 8日

法服の王国(下)

著者  黒木 亮 、 出版  産経新聞出版

読みすすめているうちに、思わず背筋を伸ばしてしまいました。それほど緊張感にあふれる裁判所の内外の動きがつぶさに再現されています。最大の魅力は弓削晃太郎として登場する矢口洪一にあります。
 青法協を目の敵にして血も涙もない司法反動の権化と思われていた(私も、もちろん、そう思っていました)矢口洪一が、実は最晩年に、青法協裁判官部会の後身にあたる裁判官懇話会に出席して講話したのでした。この内容は判例時報で紹介されました。
 この本の末尾にある参考文献は、司法反動の実態、そして司法改革とは何だったのかを知るためには欠かせない本ばかりです。司法界と無縁だった(と思われる)著者がこれだけの本を読み込んで、小説に仕立て上げた筆力には驚嘆します。
裁判官の内情をさらけ出す小説として『お眠りの私の魂』(朔立木、光文社文庫)はショッキングでした。
 もちろん日本裁判官ネットワークの本も紹介されています。
 じん肺訴訟については、福岡の小宮学弁護士の『筑豊じん肺訴訟』(海鳥舎)が紹介されています。
 しかし、なんといってもすごいのは、原発訴訟を一貫して取りあげているところです。この点については海渡雄一弁護士は実名で登場していますし、最新作である『原発と裁判官』(朝日新聞出版)も踏まえているところが、すごいと思いました。
 つまり、裁判官も人の子。行政にタテつく判決を書くのは、とても勇気のいることなのです。これから出世できないのではないか・・・。夜も眠れないほど悩むのです。
 実名と仮名で多くの裁判官が登場する、とても刺激的な本です。司法反動そして司法改革を知りたいあなたに、必読の本です。
(2013年7月刊。1800円+税)

2013年9月 6日

日本の最高裁を解剖する

著者  ディヴィッド・S・ロー 、 出版  現代人文社

日本の最高裁判所について、多くの裁判官は「サイコー」と呼びます。若いときの私は、それを聞くと、いつも心の中で「サイテーじゃないか」と、あざけっていました。
 ところが、今では、高裁のほうがむしろ「サイテー」で、かえって最高裁のほうが積極判断を示すことがあるようになりました。司法反動のとき、裁判官統制がききすぎるようになって、「ヒラメ裁判官」(上ばかり見て、保身か立身出世しか考えない裁判官のこと)ばかりになってしまって、むしろ上に立つ裁判官のほうがやきもきして焦っているという構図が成立していると言われるようになりました。今や、その傾向はますます強くなっている気がします。たまに覇気のある元気な裁判官にあたると、ほっとします。
 アメリカの学者が、日本の最高裁をインタビューもふくめて分析した本です。
 日本は積極的に実現するに値する憲法に恵まれている。日本国民は世界で最古の部類に属するが、にもかかわらず、最先端の憲法を有している。
 日本国憲法は、制定して66年になるが、ほとんど陳腐化していない。日本国憲法はそれが施行された当時、かなり先進的なものだったが、今でも世界に立憲主義の主流にしっかりとどまっている。
 改憲を意図する保守派は、外国からの押しつけ憲法と特徴づけることで、その正当性を掘り崩そうとしてきた。しかし、反動的な政治家に憲法を押しつけることと、日本国民に憲法を押しつけることには重要な相違点がある。
 アメリカ人の学者である著者は、このように日本国憲法を高く評価し、改憲派を厳しく批判しています。最高裁判所が1947年に発足してから、違憲無効として法令は、わずか8件のみ。ドイツの連邦憲法裁判所は600件以上の法律を違憲無効としている。
 司法部は一群のエリートの幹部裁判官に牛耳られている。彼らは最高裁長官を含む重要な司法行政ポストに就き、強大な権限を行使して、自分たちの好む見解を司法部の隅々まで常に押し通すころができる。
 彼らが統一性と継続性を達成するために用いる官僚機構は、保守的な政治のルールを保守的な司法部の行動へ常に忠実に翻訳してきた。
裁判官の再任審査を外部に対して透明化するために設置された下級裁判所裁判官指名諮問委員会は、任命過程をとりまく透明性を向上させることにはつながらなかった。委員会の議事要旨をみても、委員会の議論の中味はわからない。委員は政府のために働いている。
 日弁連から選ばれた委員は、委員会にとっての厄介者だった。弁護士からの任官が目立って拒否されている。弁護士が司法部左派であるのは広く知られているので、弁護士任官に司法部が難色を示すのは、法廷のイデオロギー的バランスからみても当然のことかもしれない。
 青法協から脱会した裁判官のなかには、その後、順調なキャリアを重ねた者も多くいる。そのなかの一人の町田顕は最高裁長官にまでのぼりつめた。
 もっとも有力な司法官僚は最高裁人事局長である。事務総局は、より人気のある任地を特定の裁判官に割りあてている。人事局長ポストは、現役局長がたいてい自分の後継者を指名する。
 日本の最高裁について、かなり踏み込んでインタビューし、分析している面白い本です。
(2013年6月刊。1900円+税)
 炎暑の夏がようやく終わったようです。お盆過ぎから大雨が続いていたせいか蝉の鳴き声もぱったり止んでいましたが、ツクツクボースが鳴きはじめました。一気に秋の気配となりました。芙蓉のピンクの花が咲き、彼岸花も見かけます。車中にある温度計も19度を表示したり、8月の36度の表示が表示が嘘のようです。
 季節の変わり目です。みなさん、風邪などひかないようにしましょう。

2013年9月 3日

憲法の創造力

著者  木村 草太 、 出版  NHK出版新書

憲法学会の若き俊英が世に問う、ラディカルで実践的な憲法入門書。これは本のオビにあるキャッチ・フレーズです。そうならば、手にとって読まざるをえません。
 実りある憲法論のためには、何より想像力が重要である。
 そうなんです。条文(案)に何と書いてあるか、それがどういう意味なのかを知るためには、想像力が重要なのです。
 卒業式で、君が代を斉唱させ、日の丸掲揚を義務づけ、それに反する教員を処分する。これは、まさしく憲法問題である。
 著者は、次のように指摘します。そもそも、校長が式典での所作について命令を出すというのは、いかにも強権的である。冷めた目で見てみれば、「歌をうたえ」という職務命令が出ること自体が滑稽ですらあろう。たとえば、教員に対し、「入学式では、ちゃんと『ビューティフル・サンデー』をうたえ」という職務命令を出したり、歌わない教員に戒告処分や減給処分を科したりする学校があったら、多くの人は「変な学校だなあ」と思うのではないか。「ビューティフル・サンデーを歌わなかったこと」を理由とした懲戒免職など、もはやコントの域である。
 まったくもって、そのとおりです。学校を世界の常識が通用しない場にしてはいけません。それでは、何より子どもたちが可哀想です。
 生存権の保障というのは「フツー」の人の支持を「自然に」集められる政策ではない。貧困とは縁のない(と思っている)人々は、国家財政は、救貧施策ではなく、もっと文化的なものや、景気を刺激する政策に使ってほしい、と考えるかもしれない。また、勤労の才能に恵まれた「フツー」の人から見れば、生活保護受給の中には、「怠けている」ように見える人もいるだろう。
 しかし、個人の尊重という規範を貫くためには、生存権保障という「不自然」きわまる制度の意義を「フツー」の人々に十分に理解できるように説明できなくてはならない。
 憲法25条1項は、制度の現状を調査し、そこで何が行われているかに想像力を働かせ、改善のための想像力を発揮することを求めている。
 「最低限度」の生活に何が必要かを真剣に検討し、社会住宅の提供やコミュニティー形成への援助の重要性を憲法教育の現場で教えられていたら、政治や行政の現場も今とは違う状況になっていたかもしれない。
 ちょっと冷静に考えてほしい。休日に政治的行為をする人は、仕事でも政治的に偏ったことをするはずだという信念は、不合理な偏見にすぎない。私も、全く同感です。
憲法9条は、日本国の非武装を要求しているのではなく、日本国が非武装を選択できる世界の創造を要求しているということである。
 日本が非武装を選択できる世界の創造は、終わりがないと思えるほど途方もない仕事かもしれない。しかし、これは世代をこえて受け継がれなければならない仕事である。
 まだ30代前半の若きケンポー学者の指摘には本当に鋭いものがありました。
 多くの人に、とりわけ若い人に読んでほしい憲法の本です。
(2013年7月刊。780円+税)

前の10件 35  36  37  38  39  40  41  42  43  44  45

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー