弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2016年7月31日

志は高く、目線は低く

(霧山昴)
著者  久保利 英明、 出版  財界研究所

 大先輩の弁護士が50年前にアフリカへ単身で渡って旅行したときの体験を書きつづっています。
 旅へ出発したのは、1968年4月のことです。私は大学2年生になったばかり。セツルメント活動に打ち込んで、大忙しの毎日でした。やがて、6月に東大闘争が勃発し、翌年3月まで、まともな授業はありませんでした。
 著者は4月13日に日本を出て、日本に戻ってきたのは9月27日です。この5ヶ月間のうちの2ヶ月間をアフリカで過ごしています。
 私自身は大学生のときもそうですし、弁護士になるまで海外旅行するなんて考えたこともありませんでした。勇気がなかったというもありますが、なによりお金がありませんでした。
 では、著者は、いったい海外旅行の費用をどうやって工面したのか・・・。なんとなんと、中学生になるころから、株式投資をしていたというのです。これには参りました。すっかり降参です。株式投資なんて、今に至るまで考えたこともありません。株式投資に失敗した人の相談は何度も乗りました。先物取引の失敗は詐欺商法だということで、弁護団をつくって取り組み、それなりの成果もあげました・・・。著者は株式投資が成功したため、結局、「無銭旅行」を楽しめたというのです。すごいですね。
 著者は50万円を用意して出発。6ヶ月間の世界旅行なので、1日5ドルの貧乏旅行。勇気ありますよね。私はとても真似できません。
ところが、父親は、こう言って反対した。「せっかく難しい試験に受かって弁護士になれるというのに、アフリカで死んでしまったらどうするんだ・・・」。これに対して母親は、反対しなかった。「3人も子どもがいるんだから、一人くらい死んだって仕方ないわよ」。ええっ、冗談にしても、すごいセリフですね・・・。
 著者は出発時に84キロあった体重が、帰国したときには、20キロも減って62キロになっていた。今では、かつての80キロは軽くオーバーしているのではないでしょうか・・・。
 なぜ20キロも減ったのか。それは、この本を読むと一目瞭然。すごい貧乏旅行なのです。現地の人と同じ水を飲んでも、ほとんど下痢することもなかったというのですから、よほど著者の胃腸は頑丈なのでしょうね。うらやましい限りです。
 アフリカでもどこでも、著者は日本人だというだけで、現地で優遇された。
 あのころの日本人は、世界中で特別な存在たった。もう戦争はしない、軍隊も持たないと言っている。そして、柔道や空手をしていて、武士道に精通した人たちばかりだと思われていた。
 今では、日本人は、アメリカべったりで、「戦争するフツーの国の人」になり下がってしまいましたよね。あのアベ首相のせいで・・・。
 スーダンではラクダのくるぶしを丸ごとグツグツ煮こんだ料理を食べたそうです。空腹だったせいもあって、とても美味しかったとのこと。牛のテール料理みたいなものなんでしょうか・・・。
 最後に著者は、弁護士にとって大切は「3つのY」を強調しています。一つは、柔らかい頭。二つ目は、優しい心。そして、三つ目は、勇気。
 なるほど、これは私もまったく同感です。
「ことは急げ。見るべきものはすぐに見る。ほしいと思ったらすぐ買え。チャンスは二度ない」
 23歳の東大生が書いたというのです。見事です。
 ちなみに、私は、司法試験に合格したあと、小さな診療所で受付事務していました。お金がなかったので、アルバイトをして生活費を稼いだのです。海外旅行するなんでいう選択肢はありませんでした
 本書が著者の年齢と同じ71冊目になるというのもすごいことです。今後ますます元気にご活躍ください。
 たまには、自分40年前50年前を振り返って初心を思い出すのも、人間にとってもいいことだと思いました。
(2016年2月刊。1500円+税)

2016年7月30日

檻の中のライオン

(霧山昴)
著者  楾 大樹   出版  かもかわ出版

 権力をライオンにみたて、そのライオンに自由勝手なマネをさせないための、檻(おり)が憲法だという、とても分かりやすい憲法の解説書です。
 ところで。著者の名前は何と読むでしょうか・・・。こんな漢字は見たこともありません。「はんどう」と読みます。ちなみに、手元の漢和辞書で、引いてみました。すると、どうでしょう・・・。角川の漢和中辞典にはありませんでした。木と泉という、よく見る字の組み合わせなので、あってもよさそうですが・・・。
 「ライオンは強いうえに、わがままなことがあります。暴れ出したら手がつけられません。
 歴史を振り返ると、ライオンが私たちを襲いかかることがよくありました」
 そうなんですよね。今のアベ政権をみていると、よく分かります。ネコなで声で、ささやきながら、とんでもない恐ろしいことを平気でやっています。マスコミを支配していますので、自分の都合の悪いことは、多くの国民に知らせないようにしています。
ライオンが「緊急事態には檻から飛び出してキミたちを守れるように、内側からカギを開けられるような檻を作りかえよう」と言い出した。
 でも、ライオンは、本当に私たちを守るためだけに檻から出るのでしょうか。勝手な都合で檻から出て、私たちを襲わないという保障がどこにあるのでしょうか・・・。
 ライオンが自ら「緊急事態だ」と言いさえすれば、檻から出すことが出来るのなら、檻がないのと同じということです。
 たくさんの絵とともに解説されていますので、中学生以上だったら理解できる内容だと思います。小学生でも、高学年だったら、読んで聞かせて、問答形式にしたら、かなり分かってもらえるように思います。
 広島の若手の弁護士である筆者のますますのご活躍を心から期待しています。
(2016年6月刊。1300円+税)

2016年7月27日

刑罰はどのように決まるか

(霧山昴)
著者  森 炎 、 出版  筑摩選書

 日本では、「犯罪者は刑務所行き」という定式はまったく成り立っていない。検察庁が受理する「犯罪者」は年間160万人前後で、そのうち6割が不起訴となり、刑務所に入るのは3万人弱、比率として2%弱でしかない。有罪になってもその6割は執行猶予となっている。
 刑務所に入れた場合であっても、早く仮釈放すればするほど、それだけ再犯は少なくなるという関係にある。満期までつとめたほうが再犯率は高い。
刑務所生活が長ければ長いだけ、社会への適応は困難になる。
日本の再犯率は40%。治安の維持にとって、初犯者よりも再犯問題の占めるウェートは大きい。近年、初犯者の数は順調に減り続けている。
刑務所では、衣食住、医療費、光熱水道費すべてを刑務所がまかなっている。一人あたりの年間費用は46万円。
日本で定められている法定刑は必ずしも合理的ではない。日本では、10年前まで殺人よりも現住建造物放火のほうが重かった。
殺人罪の受刑者の平均刑期は7年。殺人罪の量刑相場は、20年前は懲役8年、10年前は懲役10年、そして現在は懲役13年となっている。
アメリカの調査によると、殺人の3分の2は親しい知人間で起きていて、そのうちの8割は家庭内で発生している。女性は寝室で殺され、男性は台所で殺される。日本では、行きずりの殺人は稀。
コンビニ強盗が強盗犯の主流になっている。日本で銀行強盗は少なく、銀行から預金をおろして帰る人を途中で襲う「カモネギ待ち」強盗が多い。
被告人は裁判所の法廷で「反省している」と述べさせられる。しかし、法廷で良心にしたがって本心を言うと刑を重くされる。裁判所に迎合する虚飾の演技が強要される。日本の裁判所は欧米の教会のようなもので、裁判官は説教師で、被告人がざんげないし改悛の情を述べると、罪一等が減じられる。
元裁判官による本なので、裁判所の内部の動きを垣間見ることが出来ます。
                                    (2016年1月刊。1600円+税)

2016年7月 6日

夕張毒ぶどう酒事件・自白の罠を解く

(霧山昴)
著者  浜田 寿美男 、 出版  岩波書店

 事件発生は1961年3月28日。25戸しかない小さな村で宴会に供されたぶどう酒を飲んで5人の女性が死亡するという大事件が起きた。犯人として逮捕された奥西勝は当時35歳。妻と愛人の女性二人が死亡したことからも疑われた。三角関係の清算のために殺したのではないか・・・。
奥西勝は、4月2日深夜から3日の未明にかけて「自白」した。しかし、4月24日には否認に転じた。奥西勝に犯行を裏付ける決定的証拠は何もなかった。
 第一審は、奥西勝に無罪の判決を言い渡した(1964年)。ところが、第二審は、逆転死刑判決を言い渡した(1969年)。そして、奥西勝は延々と再審請求し、ついに2015年10月4日、89歳で獄死した。
奥西勝の「自白」によって、何か新たな事実が明らかになったわけでも、それが物的証拠で裏づけられたわけでもない。
 無罪は、無実とは異なる。検察側は「有罪」の立証を求められるが、弁護側に無実の立証が求められるわけではない。検察側が黒だと証明できない限り、灰色は「無罪」なのである。これが法の理念である。ところが、現実には、しばしば、あたかも弁護側は「無実」を証明しなければならないかのような状況に置かれてしまう。
 無実の人が虚偽の自白をしたあと、世間に向けて謝罪するというのは珍しくないこと。無実の人であっても、犯人だとして自白してしまった以上、求められたら犯人として謝罪するほかないからである。だから、謝罪までしたんだから犯人に間違いないと考えるのは虚偽自白の実際を十分に知らない、素朴すぎる見方でしかない。
 足利事件では、DNA鑑定によって無実とされたS氏は、任意同行で取り調べされて10時間ほどで「自白」した。その後、公判廷でも一貫して自白を維持し、1年たって結審したあと、ようやく否認に転じた。
 S氏は裁判所でも犯人であるかのように振る舞い続け、求められるたびに被害女児への謝罪の言葉を繰り返した。
たとえ虚偽の自白であっても、自分の口で語る以上は、そこに被疑者の主体的な側面が皆無ということはありえない。その状況を自ら引き受けて、自分から嘘をつく。そうした一種の主体性が虚偽自白の背後には必ずある。
 「自白」する前の厳しく辛い状況にあと戻りしたくない、出来ない心境にいる。だから、本当はやっていないのだけれども、もし自分がやったとすれば、どうしたろうかと、その犯行筋書きを考えざるをえない。その筋書きを想像しても語り、それが捜査側のもっている証拠と合致していればよし、合致していなければ、取調官のチェックを受け、その追及内容にヒントを得て、それにそって修正していく。このようにして、無実の被疑者が取調官の追及にそいながら「犯人を演じていく」。
 自白調書は取調官と被疑者との相互作用の産物なのである。このとき相互作用は、対等なもの同士のものではなく、両者には圧倒的な落差がある。その場を主導し「支配する」のは取調官である。被疑者は取調官によって「支配される」。人は任意捜査段階でも、状況次第で心理的に身柄拘束下に等しい状況に追い込まれる。
無実の人にとっては、死刑への恐怖が現実感をもって感じられず、それが自白に落ちる歯止めにはなりにくい。裁判官は、自分の無実の訴えをちゃんと聞いて、正しく判断してくれるだろうと、無実の人は考える。
被疑者は、拷問で落ちるというより、むしろ孤立無援のなか、無力感にさいなまれ、それがいつまで続くのか分からないなかで、明日への見通しを失って「自白」に落ちる。これが典型である。
冤罪は、言葉の世界が生み出す罪過の一つである。だからこそ、裁判のなかで積み上げられてきた「ことばの迷宮」にメスを入れ、これを整理し、分析し、総合し可能なかぎり妥当な結論を導くことが人にとって大事な仕事になる。
裁判官をはじめとする法の実務家は、思いのほか虚偽自白の現実に無知である。冤罪を防ぐ立場にいる裁判が防げるのに見抜けなかったとしたら、それこそ重大な犯罪だと言われなければならない。
 裁判官そして法曹の責任は重大であることを痛感させられる本でした。いささか重複したところもありますが、300頁の本書は法律家がじっくり読んで味わうに足りるものだと思いました。
(2016年6月刊。3000円+税)

2016年6月23日

憲法と政治

(霧山昴)
著者 青井 未帆 、 出版 岩波新書 

 日本は長いあいだ武器輸出三原則によって基本的に軍事品の輸出をしてこなかった。これのメリットは、第一に日本の企業が軍需に依存する度合(比率)が低いこと。
 日本には、これまで輸出を前提とした軍需産業がなく、ほぼ自衛隊の装備調達のみに市場が限られてきた。その結果、防衛関連の企業が軍需に依存する比率は低い。三菱重工は10%、川崎重工は15%、IHIは9%、三菱電機は3%、NECは4%、軍需に依存しなくても企業は経営ができるため、国の防衛政策に意向を反映させようという動機がアメリカに比べて低い。アメリカは産軍複合体の力が強くて、大きな弊害が指摘されている。
 ところが、安倍首相の外遊には、多くの防衛産業関連企業が同行している。
 第二に、日本の積極的な軍縮外交を支えてきた。安倍政権は、これを根本的に転換した。今や人の命を奪うことで収益をあげるビジネスに自民・公明の政権が大きく乗り出しつつある。
 この本が画期的なのは安保法制が憲法違反であることが一見して明白であるからには、司法(裁判所)は、その判断を逃げることなく示すべきではないかと問いかけている点です。まことにそのとおりだと私は思います。
憲法を頂点におく憲法秩序をいかに維持していくのか、それを公務員であり、司法が考えなくていいはずがない。
通常、司法裁判所における訴訟の直接の目的は、主観的権利の保障であるが、付随審査制とは司法権の行使に付随して違憲審査がなされるものであり、違憲審査の有する個別の事案を超えた性質を考えれば、客観的憲法秩序の維持を図る訴訟のあり方を開拓し、展開していく可能性はあると考えたい。付随審査制をとるから抽象的な審査ができない、というわけではない。
 違憲審査そのものが、個別の事案をこえる性格を有する。付随審査制をとるアメリカでも、憲法上の争点を提起した者の個別具体的な事実関係が、単なる憲法判断のきっかけという扱いをされることは、しばしば起きている。つまり、アメリカのような付随審査制でも運用のなかで紛争解決とともに憲法秩序が保障されるようになっている。
もちろん、どんな問題であっても司法権が判断できるというのでは、権力間のバランスが崩れてしまう。だから、しかるべきときに、しかるべき判断をすることが重要なのである。
 憲法訴訟で「金銭賠償をせよ」と主張するのは、多くの場合、次善の救済にとどまったり、名目的な救済であったりすることにも、留意しておきたい。
 日本のように、憲法訴訟の受け皿として使える訴訟形式が限られているなかでは、使えるものは何でも使わざるをえない。実際に違憲を問う一つの有効な方法として認められてきたからこそ、これだけ広く用いられている。たとえば、再婚禁止期間違憲判決は、違憲性を否定しながらも違憲判断を下しており、実質的には違憲確認訴訟として機能した。
 このように、どんな事件であっても憲法判断を引き出せるというわけではないが、司法府は統治機構の一部として負っている法秩序の維持という任務から、憲法判断を示さなくてはならない場合があるはずである。
 砂川事件の最高裁判決において、「一見極めて明白に意見無効」と認められる場合には、裁判所の司法審査権の範囲に入ること、そして「違憲」とする理論的可能性が述べられている。
裁判所の判断に関係する諸機関が従うかどうかは、その判断がどれだけ説得力をもっているかにかかっている。それは、論理的な整合性の問題でもあり、そしてまた市民の支持を受けるものであるかどうかという問題でもある。
 砂川事件の最高裁判決を自民党とは違った観点から使っていこうとする大胆な問題提起がなされています。この新書こそ、今日の私たちの願いにまさしくこたえてくれるものです。司法関係者に一人でも多く読まれることを願ってやみません。安保法制が違憲であることは一見明白だということ。その点を司法は責任もって明らかとすべきなのです。
(2016年5月刊。840円+税)

2016年6月22日

八法亭みややっこの憲法噺

(霧山昴)
著者 飯田 美弥子 、 出版 花伝社 

実は、タイトルには「日本を変える」というのが入っています。そうなんです。単に面白、おかしく落語を語るのではありません。もちろん楽しくなければ落語ではないのですが、何のために弁護士が落語を語るかと言えば、日本社会に憲法の精神を定着させること、その方向で日本社会を変革しようというのです。
そんなことが落語を語って可能なのか・・・。
みややっこの話を一度きいてみたら、それが可能なんだと確信できるのです。そんなスゴワザの持ち主なのです。
わずか100頁のブックレットですが、そこに美味しいアンコがギュウ詰めです。みややっこは食べられませんが、冷ややっこなら美味しくいただけますよね・・・。
といっても、平日はフツーに弁護士業務をしている。土日祭日のみの「噺家(はなしか)」で、3年間に130高座をつとめた。だから、休日は、ほぼない。
高座といえども、弁護士による憲法の講義なので、噺は90分かかる。それを、「あっという間だった」「眠らなかった」という聴衆の感想が寄せられるものにする。会場での著書サインセールは行列ができる。
アベ政治は許さない。自民党の改憲草案(2012年10月に発表)の時代錯誤的内容を知って、弁護士として仰天させられた。
アベ首相のホンネは自民党の改憲草案にそって憲法を変えることにあるのに、選挙の前になると、それを隠してアベノミクスの是非、経済問題一本に争点をしぼって本当の争点を隠してしまう。そしてNHKをはじめとするマスコミが、みんなアベ政権の言いなりになって動いて、世論を誤った方向へ誘導していく。そして、選挙で「勝つ」と、とたんに信を得たから憲法改正だと大声で叫びたてる。
もういいかげんに、アベ政治に騙されないようにしましょうね。
今日も元気なみややっこ先生の、怒りに満ちみちたブックレットです。
お値段も800円(と消費税)と安いので、ぜひ買って読んでみてください。
(2016年5月刊。800円+税)

2016年6月16日

僕たちのカラフルな毎日

(霧山昴)
著者  南 和行、吉田 昌史 、 出版  産業編集センター

 「同性愛者として社会のど真ん中を歩いて行こうと決めた『弁護士夫夫(ふうふ)』のありのままの日々の記録」
これがオビのフレーズです。男性弁護士カップルが出会いのときから弁護士としての日々を紹介しています。
同性愛者だからって、不幸なわけじゃない。
これを書いている費の夕刊に、アメリカでゲイの集まるナイトクラブが襲撃されて50人もの人が亡くなったことが報道されていました。ゲイに対する社会の偏見は根強いものがあります。私自身のなかにも、ないわけではありません。ところが、表向きはゲイをののしっていたFBIのフーバー長官が実は本人はゲイだったというのは歴史的事実のようです。
 二人は同じ京都大学の出身。片や農学部、そして他方は法学部。同じ学年ではない。そして、今では、二人とも弁護士。
 南君の父親も弁護士だった(故人)。そして、母親は吉田君の弁当までつくってくれた。この母親もえらいと思います・・・。
母親は、同性愛者とトランスジェンダーの違いも分かっていなかった。母はこう言った。
「いつか、あなたたちのうちのどちらかが女性になる手術をすると思ってたわ・・・」
今の私にも、そんな気分が心の底に潜んでいます。そして、二人は、人前結婚式を敢行するのです。
 牧師の資格をもっている友人に進行を頼んだのは、学生時代に自分がゲイだとカミングアウトしたとき、「将来、結婚式をするんだったら、牧師役するよ」と言ってもらったから。2001年のときの冗談が、10年後の2011年に本当に実現した・・・。
 自分に素直に生きるって素敵なことなんだよね・・・。そのことを実感させてくれる本でした。私のなかの偏見の皮が一枚はがれた気がします。とりわけ、二人が仲良く楽しそうに一緒にうつっている写真をみると、その意を強くします。
(2016年5月刊。1400円+税)

2016年6月 7日

司法改革と行政裁判

(霧山昴)
著者 木佐 茂男 、 出版 日本評論社 

 著者の『人間の尊厳と司法権―西ドイツ司法改革に学ぶ』(日本評論社)は大変勉強になりました。しかし、それも25年以上も前のことになってしまいました。
 その本以上にショッキングだったのは、映画『日独裁判官物語』です。この本によると、この映画はネット上で60分の全編をみることができるとのことです。まだ見ていない人は、一度みてください。
 ドイツの裁判官が組合をつくり、普通の市民感覚を忘れないようにして裁判を担当していること、それにひきかえ我が日本の裁判官が、いかにも情けないほど萎縮しきっていることに、その落差の大きさに驚かされ、というより思わずため息をつきたくなるほどです。
 ところが、日本の司法当局は、この映画の反響の大きさに恐れをなしたせいか、映画そのものだけでなく、著者に対する人格攻撃まで仕掛けたとのことです。なんと日本の司法当局は厚顔無恥なのでしょうか・・・。
 私はスマホは持たず、相変わらずガラケーのみです。しかも、ガラケーを使うのは自分のためのですから、夜に帰宅したあとガラケーをチェックすることもありません。
 そのガラケーとは、ガラパゴス化したケータイの略称ですが、著者が1998年12月に初めて使った用語であり、著者のあと本多勝一氏が使って一気に普及したのです。つまり、ガラケーのガラパゴスというのは、著者の造語なのです。そ、そうだったんですか・・・。
「しぶしぶと支部から支部へ支部めぐり、四分の虫にも五分の魂」
 青法協会員だった田中昌弘判事の作品。青法協の会員裁判官は大都市の裁判所に配置されなかったという時代がありました。私のような支部を活動舞台とする弁護士は、その恩恵も受けたのですが・・・。
 今の最高裁長官(寺田逸郎)は、初任が東京地裁で、40年の法曹経歴において、法務省勤務が26年間に対して、裁判官の仕事をしたのは14年間にすぎない。これで、「本来は裁判官」と言えるものなのか・・・。
 寺田長官と親しく話したことはありませんが、私と大学入学が同じで、司法修習も同期(26期)です。
 司法制度改革(司法改革)は失敗したと断言する人が少なくありませんが、私は失敗したとは考えていません。たしかに、裁判所の受けた打撃より弁護士の大量増員によるインパクト(被害)の大きさは予想をはるかに超えました。
裁判官の総数が増えていないことには驚かされます。
 2003年に1424人だった判事は、10年たった2014年には1876人ですから、450人ほどしか増えていません。これだけ社会が複雑化しているときには、裁判官はもっと増えていていいはずだと思うんですが・・・。
 そして、裁判官の任意団体が今ひとつもないなんて信じられません。
 裁判官も、本人たちは、主観的には「自由」に伸びのびと毎日をすごしているのかもしれません。しかし、客観的な現実はどうでしょうか・・・。やはり、型にはまった思考しか出来ない、勇気に欠ける裁判官が少なくないように思います。
事件数が減っているというわけですが、必ずしも、そうではなさそうです。家事事件は増えています。
 今春、ついに九大を定年退官した著者の本です。
 少し値がはりますので、図書館で読んでみて下さい。
(2016年6月6日。1万円)

2016年5月 4日

携帯乳児

(霧山昴)
著者  紺野 仲右ヱ門 、 出版  日本経済新聞出版社

 明治41年に制定された監獄法によって、刑務所内で育てられる「子」を「携帯乳児」と呼んだというのです。子どもを「ケータイ」と呼ぶのには、すごく抵抗がありますよね。それでも、女性が刑務所内で出産することはありうるでしょうし、その母子を別にするのも良くないことが多いでしょうから、やむをえない措置だとは思います。
この監獄法は、100年続いたあと、平成18年に全面改正され、翌19年に施行されています。いまでは「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」という長い名前の法律になっています。
刑務所につとめていた夫婦の合作ですので、さすがに刑務所の内外の様子が詳しく描かれていて参考になります。
刑務所内の処遇課と分類課は昔からそりが合わないと描かれています。現場重視の処遇課に対して、理論派の分類課という構図です。
心理技官の多くは分類課に籍を置いている。
刑務所は刑を執行するところなので、刑期を全うさせることが大原則。一方で、受刑者の犯罪の特性を正確につかみ、改善や更生をさせて社会復帰をはかることも、一般社会が刑務所に望む重要な役割だ。けれども、現実には刑務所に出来ることとしては、限られた職種の工場に、受刑者をなるべく適切に割り当てることぐらいだ。刑務所に入れることが罰であり、そこに犯罪抑制力があると、処遇課は声高に主張する。
刑務所内の収容者にも、いろんな人がいて、むしろ満期までいたいという人もいるようです。そして、精神遅滞の人や、親兄弟と縁を切った(切られた)人もいて、なかなか複雑です。刑務官にしても、さまざまな人生を歩んでいます。
そんな人たちの思いと行動が複雑に交錯して話が進行していくのでした。
(2016年2月刊。1600円+税)

2016年4月30日

坂の途中の家

(霧山昴)
著者  角田 光代 、 出版  朝日新聞出版

 裁判員裁判が始まって、もう何年にもなりますが、まだ私の属する法律事務所は弁護士が5人いるのに、誰も経験したことがありません。もちろん、私たちが敬遠しているのではありません。私は、今でも当番弁護士も国選の被疑者弁護そして被告人弁護はしています。そして、殺人事件の弁護人にもなったこともあります。
 ところが、逮捕された被疑者を調べているうちに、弁護人の私の働きによってではなく、嘱託殺人に切り替えられてしまって、裁判員裁判の対象事件にはなりませんでした。私以外の弁護士4人も同じような状況です。体験していないので、裁判員裁判の是非を体験をふまえて論じることの出来ないのが残念です。
 この本は、子育て中の主婦が補充裁判員になって、その審理過程を描いています。被告人は、我が子を殺してしまった母親です。ひょっとして、自分も、我が子を殺してしまったかもしれないという巧みな心理描写がありますので、裁判員裁判の進行過程が一気に読みものになっていくのです。そこらあたりは、さすが作家の筆力です。
 子どもと一日中ずっと一緒にいたら、かなりのストレスがたまると思います。保育園は、その意味でも不可欠だと、私は体験をふまえて考えています。
この裁判員裁判では、検察側の提示する鬼のような母親と、弁護側の提起する哀れな母親のどちらが真相なのか、そのはざまに置かれて裁判員たちは悩みます。実は、その点は、裁判官だって同じことなのです。裁判官だから分かるということでは決してありません。文章をもっともらしく書くのには長けているだけなのです。
この本では、真相が明らかにされるということはありません。
 40年以上も弁護士をしている私ですが、ことの真相って、本当に分からないものだと、日々、昔から実感しています。
(2016年1月刊。1500円+税)

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