弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アメリカ

2009年5月27日

銃に恋して

著者 半沢 隆実、 出版 集英社新書

 武装するアメリカ市民というサブタイトルがついています。3億のアメリカ人に対して、2億丁もの銃があるというのです。アメリカって、異常なほど銃に頼った国ですよね。
 アメリカでは、銃による年間の死者は自殺を含めて3万人。毎日80人が亡くなっている。うち、殺人被害者は年に1万7000人ほど。1976年から2005年までの30年間で累計すると38万人が銃で殺された。
 2007年4月16日、バージニア工科大学乱射事件は、1人の学生(韓国出身)が30人を射殺した。だから、大学でも学生に銃で武装する権利を認めろという議論があるそうです。ぞっとします。大学内で銃撃戦をやりたいようですが、とんでもないことです。
アメリカは世界最大の武装社会。アメリカ国内の銃は年間450万丁ずつ増えている。2世帯に1丁の割合で銃を持っているが、これは世界最高の所有率だ。ちなみに、世界第2位はイスラム過激派で有名なイエメン。
アメリカでは、2002年から2006年にかけて、銃による殺人事件は発生率が13%も増加した。とりわけ、10代の若者が42%も増えた。とくに若い黒人男性の被害が深刻化している。
銃撃事件による被害についての損失をカウントすると、年間で1200億ドルにも及ぶと推計される。これは、ハリケーン「カトリーナ」の被害と同規模。つまり、アメリカは毎年、カトリーナ級の巨大災害を銃によって受けていることになる。
アメリカで銃規制を叫ぶと、その議員はヒトラーと呼ばれたり、共産主義者と呼ばれる、なんて、ひどい烙印でしょうか。
銃犯罪の被害者となるのは、都市部の住民であるが、彼らは銃規制を強く望んでいる。銃規制に反対するのは、地方や農村部の保守的な住民である。
白人の33%が自宅に銃を持っている。非白人では18%に過ぎない。
銃規制に反対する人々は、「日本のようになりたいか?」と問いかける。日本は警察ががんじがらめに市民を規制し、管理・監督している、自由なき国家だ。そんな国になりたくなかったら、銃を持つのを規制すべきではない、このように説くのです。
うへーっ、こ、これにはさすがの私もまいりました。もちろん日本が警察国家になるというのには賛成できません。でも、だからといって、それが銃規制反対の理由につかわれるというのは大変心外です。
銃があると人々は紳士的になるとか、安全が保たれるとか、まるで根拠のない議論だと思います。アメリカではライフルを買うのに何の規制もない。ただ拳銃を買うのに、ちょっとした証明書がいるだけ。それも第3者に買ってもらえばすむだけのこと。
日本はアメリカのようになってはいけないと思わせる本でした。
ところで、先日の新聞に、アメリカは日米安保条約があるので、日本が外国から万一攻撃されたら日本を守ってくれると日本人は考えているけれど、それは事実に反する、全くの幻想でしかない。防衛省の元高官がこのように語ったという記事がありました。アメリカが守ろうとしているのは、要するにアメリカであって、日本は、そのための捨石としてしか期待されていない。ところが、多くの日本人が依然としてアメリカに幻想を抱いており、一方的に、アメリカ軍は日本人を守ってくれる存在だと信じ切っています。おかしな話です。一刻も早く日本人は目を覚ますべきだと思います。
 
 白樺湖の周囲を歩いていると、影絵・切り絵美術館があります。つい先日亡くなった滝平二郎を思い出しながら、引き寄せられるようにして入ってみました。
 薄暗い室内に、柔らかい明りに浮きあがった影絵がたくさん並べられています。幻想的な絵が惜し気なく並んでいて、ふっと童心に帰ることができました。
 そして、部屋全体が天井まで一面の影絵になっているのです。残念なことに撮影禁止です。ですから、ぜひ、ここでそのイメージを紹介したいのですが、かないません。
 白樺湖周辺の四季折々の情景が、森の小人たちや女の子そしてみごとな草花…これらが後ろからの照明でほんのり照らし出され、目を奪われてしまいます。
 影絵をしっかり堪能したあと、部屋を出たところにある売店ではついつい買わずにはおれませんでした。
 そのあと出会った仲間に、あそこはいいよ、感動、感服したとワンフレーズの小泉みたいなことを言って誘ったことを半ばは後悔し、半ばは感動を分かち合いたいと思ったことでした。
(2009年2月刊。700円+税)

2009年5月17日

手ごわい頭脳

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 新潮新書

 アメリカのロースクールは3年制で、1年目が一番重要である。残りの2年間は、ほとんど自分の興味のある分野を勉強して、卒業に必要な単位を揃えればいい。しかし、1年目は必須の基礎科目を勉強しなければならない。ロースクールで教えられるのは、主としてそれぞれの分野の一般原則だ。
 ロースクールの学生たちが身につけるもの、それは「弁護士の思考法」だ。
 アメリカの陪審員制度は、日本の裁判員制度とは根本的に違う。たとえば、アメリカの陪審員は、裁判員がクロと思い、世論の9割もそう思っていても、被告を「シロ」にできる、すごい権限を持っている。それは、アメリカの法律制度は、政府に対する深い不信を大前提にしているからだ。
 アメリカの陪審は、法律を無視することができる。明確な法律違反があっても、被告に有利な評決を下すことが出来る。そして、検察は無罪判決に対して上訴することが出来ない。うむむ、このように断言できるというのでは、たしかに日本とはまったく違います。
 弁護士は、クライアント(依頼者)の目的を達成するために全力をつくさなければならず、弁護士本人の良心やモラルをその過程に挿入する場面は原則として存在しない。
 アメリカの弁護士は、ロースクールでサイコパス(精神病質者)としてのトレーニングを受けていると主張する心理学者がいるが、そのとおりだ。自分がまったく信じていない主張を、強く信じているかのように平然と主張できることは、通常の人なら精神病にかかっている証(あかし)となる。しかし、そのように主張することこそが、弁護士の仕事なのだ。
 弁護士が、自らクライアントの主張を信じていないような事件、自分の両親が引き受けるのを許さないような事件を引受けて、一生けん命に依頼者のために努力出来ないのであれば、社会的に嫌われている人たちや不合理な偏見に苦しんでいる弱者の権利は誰が守れるのか。そうなんです。なぜ悪い者の弁護士をするのかと問われることがあります。でも、それこそ弁護士としての仕事なのですと答えますが、なかなか分かってもらえません。
 弁護士の役割は、各市民がそれぞれ「正しい」と思っていることを、自ら法律制度を利用して追求するための手助けをすることに過ぎない。アメリカの弁護士の思考の根底はここにある。
 著者はニューヨークで10年のあいだアメリカの弁護士としてキャリアを積んだあと、2005年4月から日本のロースクールの教員として現在まで活躍している人です。アメリカの日本の弁護士の思考方法の違いと共通項がよく分かり、とても興味深い本でした。
 
(2008年10月刊。680円+税)

2009年4月20日

ウルフィーからの手紙

著者 パティ・シャーロック、 出版 評論社

 ベトナム戦争をテーマとする本は、いつだって私の関心を強く惹きつけます。この本は、今から40年前、ベトナム戦争をたたかっていたアメリカに住む少年が、お国のために愛犬を送り出したという想定の小説です。ストーリーがとてもよく出来ていて、ぐいぐいひっぱられるような感じで、一心不乱に読みすすめました。
 ただ、これも犬好きの人でないと、もうひとつよく分からない心理かもしれません。たかが犬の話じゃないか、と思う人には、絶対おすすめしません。たかが犬、されど犬、なのです。犬は長く人間と一緒に生活してきたため、人間の感情をよく理解し、それにあった行動をとります。落ち込んでいる人間を見ると慰め、励ますのです。この本に出てくる犬が、まさに、そんな犬でした。
 マーク少年は、きっとお国のために役立つだろうと思って、ベトナムの戦場へ愛犬を送り出しました。ところが、軍隊では、犬は単なる道具でしかありません。しかも、いったん戦場に入ったら、人間と違って死ぬまで戦場から抜け出すことはできないのです。
 だって、敵と見たら、殺せという訓練を受け、それを実行していた犬が、平和な本国に戻ってきて、淡々とした日常生活を送れるという保証はあるでしょうか。「敵」だと見誤って善良な市民を殺してしまう危険だってあります。もっとも、人間もそうだということは今日では明らかです。つい先日亡くなった元アメリカ海兵隊員のネルソン氏の本を読むと、フツーの人が人間を殺すことがいかに大変なことか、よく分かります。
 ベトナム戦争に従軍した軍用犬は4000頭。そのうち500頭が作戦行動中に殺され、500頭が病気で死んだ。200頭だけはベトナムの外に出ることができたが、1頭もふつうの生活に戻ることはできなかった。安楽死させられたのだ。
 アメリカ軍はベトナムに贈られた軍用犬を「装備」に分類した。ベトナムで軍用犬は、1万人もの兵士の命を救った。軍用犬はパトロール部隊の先頭を歩き、隠された危険を探し出すという危険な任務に従事した。市民が愛犬を軍に提供したら、アメリカ陸軍の所有物となり、市民に戻されることはない。
 そのことを知ったマーク少年は、愛犬を軍隊に送ったことを後悔します。そして、軍隊から取り戻す運動に取り組むようになりました。父親はいい顔をしませんが、母親は援助してくれます。
 マーク少年は要求実現のためにデモを企画します。そこには、ベトナムで勇敢に戦って勲章をもらいながらもベトナムでの戦争は直ちに止めるべきだと叫ぶ反戦兵士たちも多数加わってきます。マーク少年は迷いながらも、自分のやってきたことを続けます。
 マーク少年が愛犬に手紙を出すと、訓練係そして世話係の兵士から、愛犬の名前で手紙が返ってくるようになりました。ベトナム戦争における生々しい戦場からの返信です。
 マーク少年の兄もベトナム戦争に駆り出されていて、あるときの戦闘行為によって大怪我をして本国送還となりました。足を切断して車椅子生活を余儀なくされたのでした。弟であるマーク少年に対しても、戦場での出来事はよく語ってくれません。
 そして、世話係の兵士から、愛犬が戦場でアメリカ兵をかばって敵の銃弾を受けて死んだとの手紙が届いたのです。ああ、なんということでしょうか。マーク少年たちのデモ行進がマスコミの注目を集め、国会議員も動き出そうとした矢先のことでした。
 身障者となってしまったマーク少年の兄は、「反戦帰還兵の会」に入って活発に活動するようになり、陸軍当局にPTSDを認めさせようと運動しています。
 ベトナムの戦場に送られた軍用犬を通して、兵士の家族の置かれた客観的状況そして家族内の価値観のせめぎあいがよく描けていて、思わず息を呑まされる本です。
 
(2006年11月刊。1700円+税)

2009年4月19日

バオバブの記憶

著者 本橋 成一、 出版 平凡社

 実に心のなごむ写真集です。
 バオバブの木が、ひとり大平原にポツンと立っています。アフリカの昼間、熱い太陽光線をさえぎる木陰に、人々や動物たちがしばし憩いのひと時を過ごします。そこだけ、時間が停まったようです。
 バオバブの木は寿命4000年とか5000年とか言われています。何千年と生き延びてきましたが、このところ若木は育っていません。だから、今あるバオバブの木がやがて枯れたとき、そこには何も残らない心配があります。
 バオバブの木の中には年輪がない。満々と水を蓄えた空洞になっている。だから、朽ちて倒れてしまうと、やがて土に還るだけです。
 アフリカの人々は、昔からバオバブの木をとても敬い、大切にしてきました。霊感の強い木だとして、昼は近寄らないほどである。そして、その幹や葉をすべて薬として服用してきた。
 じっと写真を眺めているだけで不思議なほど心が落ち着きます。写真にキャプションがついていませんから、安心して写真に集中できます。どういう状態で撮られたのかのかなあと、知りたくなります。
 そして、その関心にこたえるようにして、巻末に写真についての解説がありますので、これらのバオバブの木がどんな状況で人々と共生しているのか、よく知ることができます。
 少し値段は張りますけれど、一見の価値のある写真集です。
 
(2009年3月刊。3400円+税)

2009年4月14日

失墜するアメリカ経済

著者 ロバート・ポーリン、 出版 日本経済評論社

 著者は、1950年生まれ、マサチューセッツ大学アマースト校の経済学教授です。
 人間らしい生活のできる賃金、生活賃金を制定すべきだと提言しています。これは、連邦最低賃金をこえる適正な賃金です。既に、アメリカの地方自治体で制定され始めています(2002年末までに90の地方自治体)。私も、この提言に大賛成です。
 政府の規制あるいは実務的な労働組合が、市場で進行している事態に対抗できなければ、労働者は実際に交渉力を弱体化させ生活条件を低落させ続けることになる。
 そうなんです。だからこそ、労働三権が大切なのです。
 ところが現実には、クリントンが大統領であったとき、労働組合員は長期的減少が続いた。レーガン大統領のとき(1988年)に16.8%だった組織率が、2001年1月には3%も減って、13.5%にすぎなかった。
 アメリカの年間軍事予算は3000億ドルのまま。軍事支出額は教育予算の5.5倍のままである。そして、食糧クーポン券その他の扶助費は、1992年の372億ドルから、2000年の288億ドルへと85億ドルも減らされた。
 労働者は適正な最低水準を超える賃金を実現するために、すなわち単に賃金等級表の最低水準の近傍に引き上げるだけでなく、もっと広く賃金・付加給付を増加させ、職場条件を改善させるために団結する権利を有している。そのために必要なことは、労働者が団結し、労働組合を結成する法的権利の強化である。
 労働者が自らの望みに従って団結する基本的権利を、雇用主と政府取締官が尊重しなければ、平等主義的政策過程を推進することはできない。この基本的権利を欠いた平等主義的政策という概念は、語義矛盾である。
 労働者の団結権を擁護することは、もっと大きな恩恵をもたらす。というのは、労働者が労働協約を通じて適正な賃金を受け取れば、自らの支出能力の向上によってアメリカ経済の総需要を刺激できる。
2007年にアメリカ政府は、イラク戦争に1380億ドルを使った。1日あたり3億7000万ドルになる。これは、一国を破壊し、アルカイダにきわめて効果的な徴兵手段を提供するものだった。
 実効性のある進歩的課題を推進する第一歩は、戦争を終結させ、1380億ドルを雇用・保健・医療・教育・環境・貧困削減に費やすことである。それに加えて、20万ドル超を稼ぐすべての人びとへのブッシュ減税を撤廃すれば、アメリカ財務省の歳入が600億ドルも増えることになる。つまり、イラクと富裕層減税をやめると、それだけで2000億ドルが生み出され、さらに進歩的な経済課題の資金に振り向けることができる。
 アメリカの労働人口は1億5000万人。うち680万人が失業中である。前記の2000億ドルの資金移転が行われると、失業率は4.5%にまで下げられる。
 アメリカ経済をどう見たら良いのか、現状を克服する処方箋はどうあるべきか、大変示唆に富む指摘がなされていました。
 
(2009年2月刊。3400円+税)

2009年4月12日

タクシー・ニューヨーク

著者 若宮 健、 出版 花伝社

 当代日米タクシー事情、というサブタイトルがついていて、アメリカはニューヨークで働く日本人ドライバーを紹介しつつ、日本のタクシー運転手の置かれている状況を自分の体験をまじえつつ、熱く紹介している本です。
 私の身近な人にタクシー運転手が何人もいますが、月収20万円を超すような人はほとんどお目にかかりません。長時間のきつい、危険な仕事なのに、賃金は劣悪です。
 ニューヨークでキャブの免許を取る時には、実技試験はない。日本では、普通免許を取得してから3年以上たっていないと資格がなく、試験は学科と実技の両方を受けなければいけない。
運転免許を取得するに必要な費用は、年齢(とし)にきちんと相応するということです。ですから、還暦を迎えた私なんか60万円もかかることになります。うへーっ、ブルブル、大学時代に免許をとっておいて本当に良かったと思います。
 ニューヨークは人口800万人で、市内を走るタクシーは1万3150台。東京都内のタクシーは、5万8000台。これは、ニューヨークの4倍となる。人口比を考えたら、とんでもなく東京のほうが多いわけです。なんでも規制緩和というのは大企業の利潤追求には便宜であっても、そこで働く人々にとっては地獄をもたらすものなのです。ところが、貧しい人ほど小泉政治を支持したという奇妙な現象がありました。
運賃収入は、地方都市で1日2万円台、埼玉で3万円台、横浜で4万円台、東京が5万円台である。福岡でも本当に低賃金で働いています。
 タクシー運転手は強盗にあう心配もある。そのうえ低賃金なのだ。それでもタクシー運転手は、独立が保障されるなどの理由から人気がある。世の中の矛盾の一つですね。
(2009年3月刊。1500円+税)

2009年4月10日

アメリカ、自由の物語(上)

著者 エリック・フォーナー、 出版 岩波書店

 昔、ギリシャの哲学者セネカが、次のように喝破したそうです。
 「奴隷でない人間にお目にかかりたいものだ。ある者は性の奴隷であり、またある者はお金の奴隷であり、またある者は野心の奴隷なのだ」
 うむむ、こ、このように決めつけられると、私なんか、ぐうの音も出ません。それでも……。
 18世紀、自由の理念が広まった、イギリス・フランス・オランダという国々は、すべて大西洋奴隷貿易に深く関与していた。イギリス人が非常に大切にした海洋の自由とは、自国の商人が望む、いかなる港にも奴隷を運ぶ権利を含んでいた。
 そこで、「黒人奴隷の監督者から、自由を求める最も声高い要求を聴くとは、いったいどういうことだろうか」という皮肉な指摘もなされていた。いかにして、アメリカ人は、アフリカ人の自由な権利や幸福を追求する権利を奪うことを正当化できるのだろうか、と。
 黒人奴隷制は、必ずしも白人であるアメリカ人の自由の理解とは矛盾しなかった。多くのアメリカ人にとって、奴隷を所有することは、真の自由に不可欠と広くみなされた経済的自立を保障するものだった。1857年、トーニー最高裁長官によれば、黒人は市民ではありえなかった。アメリカ国民は白人に限定された政治的家族集団を構成していると考えられていた。
 アメリカ北部の社会のもっとも顕著な特徴として、自由労働が称賛を受けても、その中にはアフリカ系アメリカ人は含まれなかった。
 1860年、400万人のアフリカ系アメリカ人がアメリカにおいて奴隷として働いていた。
 自由黒人は、西部の開拓を利用して、アメリカの自由にとって不可欠である自らの経済的地位を向上させることもできなかった。連邦法によって黒人は公有地の獲得を禁じられ、インディアナ、イリノイ、アイオワ、オレゴンの4州は、自由黒人が州内に入るのを全面的に禁止した。
 リンカーンは、人種的平等主義者ではなく、当時の社会で広く見られた人権剥奪の多くの事例を容認した。人生のほとんど最後までリンカーンは黒人の選挙権に反対し、折にふれて国外への黒人の植民について語った。
 しかし、南北戦争になって、その後半に連邦軍に20万人の黒人が入隊したことが、黒人市民権の問題は戦後に検討されるべき事項となった。
 奴隷制の廃止は、自由の誕生を自動的には意味しなかった。
 20世紀に入って、何百万人という白人女性が新しく有権者に加えられたが、民主主義を改善するという名目で、何百万人もの人々、つまり黒人・移民・労働者が有権者名簿から削除された。
 今日のアメリカがよく用いる、ダブル・スタンダード(二重基準)というものが、実は昔からのものであることもよく分かる興味深い本でした。
(2008年7月刊。3800円+税)

2009年4月 7日

アメリカで死刑を見た

著者 布施 勇如、 出版 現代人文社

 アメリカで死刑囚が処刑される場面に立ち会った日本人の新聞記者がいたなんて、驚きです。アメリカでは、死刑囚の家族だけでなく、被害者の遺族の立ち会いも認められています。窓を通して、死刑囚が死んでいく様子の一部始終を見守るのです。
 著者は、テネシー州のナッシュビルに行き、死刑囚の収容されている最高度警備刑務所を見学します。私もナッシュビルには行ったことがあります。エルヴィス・プレスリーの家も見学しました。
 この刑務所には、90人の男性死刑囚がいる。執行の72時間前になると、正常の監房から執行室に近い房に移される。ここでは執行開始は午前1時と決まっていて、最後の食事は20ドル(2000円)以内なら、何でも好きな物を選ぶことができる。
 電気椅子による処刑だと死ぬまで45分かかるが、薬物注射だと2分半。担当する職員は3人か4人で、誰が注入した薬物で死んだのか、誰にも分からない仕組みになっている。日本の絞首刑のときも同じような仕組みになっているそうです。
 アメリカでは1968年から1977年まで死刑執行はゼロとなっていたが、1977年に再開されてから、2007年末までに1099人が処刑された。
 そして、死刑判決が確定しながら、あとで無実とされて釈放された「死刑囚」が1973年以降で129人にのぼる(2008年5月現在)。むむむ、こ、これは、多すぎ、多すぎます。
 受刑者への暴力は、アメリカの刑務所では珍しいことではない。刑務所では、殺人事件も起きている。
 死刑囚の3分の2以上は黒人。160人の死刑囚のうち、35人の黒人死刑囚は、陪審員全員が白人から成る法廷で有罪・死刑の判決を受けた。アメリカでの殺人の50%は黒人が被害者である。アメリカで執行される死刑のうち80%以上は、被害者が白人である。死刑囚のうち33人は、あとで資格を剥奪されたか停職処分を受けた弁護士が弁護人となっていた。
 死刑の制度があることによって犯罪が減ったことを実証した調査・研究はほとんどなく、死刑による犯罪抑止効果は期待できない。殺人の防止について言うと、死刑を廃止した州の方がうまくいっている。死刑を執行している州と、死刑を廃止した州との殺人発生率の格差は、この10年間に広がっている。死刑執行数が上位の州は、執行しない州に比べて殺人発生率が2倍も多い。死刑は犯罪抑止とは関係ない。それは、政治的なものにすぎない。
 テキサス州では、死刑執行まで刑務所で過ごす期間は平均して10年あまり。死刑1件あたりの費用は230万ドル(2億3000万円)で、最高度警備の独房で40年間も服役した場合よりコストは3倍になる。
 アメリカでも死刑制度を存置するのは、50州のうち37州である。
 今の日本では、なんでも死刑にしろと声高に叫びたてる風潮がますます強くなり、気の弱い私なんか恐ろしい気がします。
 先週の金曜日に日比谷公園に行くと、快晴の下で桜が満開でした。我が家のほうは、先週の日曜日に見事に満開となりました。そのあと寒い日が続いたせいで、満開状態が1週間ほど続きましたが、土曜日に雨が降り、日曜日にはかなり花が散っていました。
 北海道の弁護士に訊くと、桜は連休明けだよと言われてしまいました。
(2008年7月刊。1500円+税)

2009年4月 6日

レッドムーン・ショック

著者 マシュー・ブレジンスキー、 出版 NHK出版
 1957年10月4日、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げたと聞いたとき、アメリカ軍のメダリス少将は言った。
 「ロシア人にそんなことができるわけがない。衛星をつくって打ち上げるのが、どれほど難しいか、十分わかってるはずだ」
 メダリスはソ連の技術力を見くびっていた。共産主義は良質な日用品をつくるのには向かないが、科学における画期的な偉業を成し遂げるには理想的な環境だということを多くのアメリカ人は分かっていなかった。
 スプートニクの重さが83キロもあると聞いて、アメリカ軍の関係者は信じられない、間違いじゃないのかと思った。このとき、アメリカ軍で打ち上げが可能なのは、せいぜい1.6キロ程度でしかなかった。
 ホワイトハウスの公式見解は、スプートニクは騒ぎ立てるほどのものではない。しいて言えば、ナチスの技術の功績であり、ソ連の専門知識によるものではない、というものだった。
 しかし、アメリカ政府が共産主義国家の飛躍的進歩をどれほど軽んじようとしても、メディアの判断は違った。スプートニクは、大ニュース、それもショッキングで恐ろしい超ビッグニュースだった。
 アメリカ人は恐怖におののいた。スプートニクを宇宙へと打ち上げたミサイルは、アメリカは絶対に安全だという人々意識を粉々に砕いた。スプートニクに対するアメリカ国民の反応は、無関心から恐れに変わった。国中の人が屋根の上にのぼって夜通し空を見上げ、忌まわしい球体を一目見ようと待ち構えた。夜中の3時に隣近所が勢ぞろいし、心配そうに夜空を見上げていることが珍しくなかった。
 アメリカの記者はアイゼンハワー大統領に質問した。
 「ソ連は人工衛星を打ち上げました。彼らは大陸間弾道ミサイルの打ち上げにも成功したと言っています。どちらも我が国は所有していません。どうなさるおつもりですか?」
 これに対するアイゼンハワーの言葉はあまりによそよそしく、国中を覆っている不安とはかけ離れていた。
 ソ連のフルシチョフも、はじめ、スプートニクが政治の世界にこれほど大きな影響を及ぼすとは思っていなかった。
 10月5日の晩になって、ようやくアメリカに対して大勝利をおさめたことを理解しはじめた。一夜にして、世界にとってソ連が真の超大国となった。金属のボール一個で、ソ連は何十年と言葉を連ねても得られなかった名声を得た。
 スプートニクは、アメリカの同盟国に有形無形の衝撃を与えた。大陸間ロケット(ICBM)は、最終兵器と呼ぶには重大な欠陥があった。それをごまかすためのはったりがつかわれた。
 ソ連のミサイル(ICBM)は先制攻撃に弱く、発射台上にあるとき、アメリカの爆撃機に攻撃されたら、ひとたまりもない。しかし、示威効果は抜群だった。
 1957年11月4日、スプートニクは犬を乗せて宇宙へ飛んだ。生きた犬を乗せていたのだ。実のところ、テリアの雑種犬ライカは、打ち上げ直後に焼き殺されるようにして死んでいた。しかし、ソ連の公式発表では、犬は生きて地球を回っているということになっていた。
アメリカが人工衛星エクスプローラーを打ち上げたのは、1958年1月31日夜のことだった。そして、ソ連は、1961年4月12日、宇宙飛行士ガガーリンが軌道を周回した。ガガーリンの宇宙飛行の成功は、発展途上国に大きな反響を与えた。
 ところが、宇宙で大きな勝利をおさめたソ連は、軍事面で高い代償を支払うことになった。つまり、ICBMは失敗作だったのだ。というのも、アメリカが実用的なICBMを160機ももっているのに、ソ連はわずか4機しかもっていなかった。スプートニクの成功のかげでICBMの開発が遅れていたのだった。
 当時、小学生だった私もスプートニクとかライカ犬とか、ガガーリン少佐の宇宙旅行というのを聞いて胸躍らせた覚えがあります。ソ連って、すごい国なんだと思ったわけです。
 ところが、この本を読むと、アメリカもてんやわんやだったようですが、ソ連のほうは、もっとひどかったようです。それでも、いわゆる一点突破、一点豪華主義でスプートニクの打ち上げ、そしてガガーリン少佐の宇宙飛行には成功したということになります。
 宇宙競争の内実を知り、これって想像以上に政治と生々しく密接な関わりをもっている問題なんだ、と改めて認識させられました。430頁もの大部な本ですが、面白く読み通すことができます。
(2009年1月刊。2500円+税)

2009年3月30日

ヤバい社会学

著者 スディーン・ヴェニカテッシュ、 出版 東洋経済新報社

 シカゴに私も二度行ったことがあります。もう20年ほど前のことです。といっても、安全な中心地にしか行っていません。オバマ大統領はシカゴの下町で活動したことがあるようです。オバマはコロンビア大学を卒業して、この本の舞台あたりで地域活動に従事し、ハーバード・ロースクールを出たあと、もう一度シカゴに戻り、シカゴ大学で教えています。
 この本の著者は、シカゴ大学の院生として学びながら、社会学者としてギャングのなかに入って体験調査したのです。この本を読むと、それがいかに危険にみちみちたものか分かります。よそのギャングが車に乗って襲撃してくるし、ケガ人が出ても救急車も警察も来てくれないのです。私なんて、とても著者のような勇気は持ち合わせていません。著者は、蛮勇とも言うべき、向こう見ずの突進リポーターなのです。
 でも、無事に調査が終わってしまえば、これほど面白い体験社会学の本はありません。400頁の本を2時間以上かけて一日じっくり読みとおしました。アメリカのギャングの実情がよく分かる本です。
 著者がシカゴ大学に入ったのは1989年秋のこと。大学のすぐ外は危険地帯。そこはギャングの支配する町なのです。といっても、そこには何万人ものアメリカ人が住んでいるのですが……。
 住民の半分は働いていない。犯罪が横行し、ギャングが大手を振って歩き、生活保護を受ける人は増えるばかり。街角には、うちひしがれた黒人がたむろし、車の窓ふきやヤク売りに精を出し、物乞いをしている。
 ここには、2種類の白人がいる。黒人を見たら殴りかかる白人。そして、家の周りに黒人を見かけたら警官を呼び、警官が黒人を殴りつける。
 ギャングの支配する28棟もの高層アパート群に著者は入っていく。そこには、4400室の部屋があり、3万人が住んでいる。住民の9割が生活保護に頼って生きている。
 無法者資本主義の下で暮らす人びとは、麻薬中毒と暴力沙汰に囲まれて生活している。住民の15%は筋金入りの麻薬中毒であり、25%はときどきやる程度。
 ほとんどのギャングは売春商売には手を出さない。もうからないから。売春婦は扱いが難しいし、ものすごく手がかかる。しかし、ギャングは売春婦を直接に支配はしないけれど、「税金」はしっかり徴収する。売上の10~25%を取り上げるのだ。
 ポン引きのついている売春婦は、客から殴られることも殺されることも少ない。ポン引きのついていない独立系の売春婦は、4倍ほど客に殴られる回数が多いし、この2年間に3人が殺されている。収入の方も、独立系より週に20ドルは多い。ただし、どちらもヘロインやクラックをやる人の割合は高い。
 ギャングは月に1回、週末にバスケットボール大会を催す。だから掃除も行き届くことになる。ギャングのリーダーは、いつも手下やほかのリーダーたちに蹴落とされてナワバリを奪われるのを心配している。
 著者の取材相手となったギャングのリーダー(黒人)は、大学を出ていた。食えないためにギャングになった。ギャングは市会議員も1人1万ドルかけて雇っている。
 ギャングの親玉連中は、みんな同じような格好をしている。新品のジャージ、白いスニーカー、手首や首には、黄金が山ほど光っている。
 たとえば、このギャングには若いメンバーが250人いる。
 対抗するギャングとの抗争が数週間も続くことはない。商売が上がったりになるからだ。
 ギャングでは、担当地域の配置換えや組織変更が頻繁に行われる。原因は、出入りとかの大きい事件ではなく、基本的な経済原理だ。どこかのギャングが弱体化した。お客に十分なクラックを提供できない、やる気のある働き手を雇えない。そんなとき、ギャングの幹部はヤクを売る権利をライバルのギャングに譲ったりする。
 この団地に住む女性たちは、1960年代は公民権運動で戦い、1970年代には選挙で黒人候補を後押しした。コミュニティのために真剣に戦った。ところが、1980年代から90年代になると、ギャングや麻薬、そして貧しさのために暮らしぶりが悪化して、家族をつなぎとめるのに必死になった。住宅当局も警察も腐敗してあてにならず、女性たちは弱体化した。
 警察はギャングたちの稼ぎをねたみ、ときどきギャングを襲い、売上を強奪していった。うへーっ、すごいことが書かれています。
 そんな諸悪の根源であった低所得層の多く住む高層アパート群が取り壊され、ギャングたちも力を失っていくのでした。彼らは一体、その後どこに行ったのでしょうか。大変面白い実地社会学の本でした。
(2009年1月刊。2200円+税)

前の10件 33  34  35  36  37  38  39  40  41  42  43

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー