弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アメリカ

2009年8月29日

アメリカ福祉改革の悲劇に学べ

著者 エレン・リース、 出版 耕文社

 アメリカの生活保護は、一人につき最長5年間しか受けられない。そして、日本の知事会が日本でもアメリカと同じような期間制限を求めて運動している。
 ええーっ、なんということでしょう。許せません。ひどい話です。道州制で地方分権と言っている裏で、とんでもないことを要求しているのですね。絶対許してはいけません。怒りに頭がフラフラしてきました。いえ、決して夏の暑さではありませんよ。プンプンプン。
アメリカでは生活保護を受ける人が1970年代から1980年代末までは1000万人ほどだった。ところが1990年代に入って増加し、1994年には1416万人(503世帯)まで急増した。そのための支出は209億ドル(3兆円)になる。
 そこで、アメリカ政府はこの支出を削減しようとした。そのため、TANF(貧困家庭一時扶助)は国民の権利というものではなく、あくまで政府が決めた予算の範囲内ですればよいものとされた。
 そのうえ、受給者には就労活動などが義務付けられた。その結果、1416万人だった受給者が、460万人と7割にも減ってしまった。福祉の支給額も310億ドルだったのが284億ドルにまで減った。
 アメリカでは福祉を失うと、ホームレスになる可能性に直結している。
 このようなアメリカにならって、知事会と市長会は2006年10月に有期保護を提案したのです。そこでは、生活保護制度が国民の自助自首の精神と調和しないことも理由にあげられています。
 とんでもない提案です。年金額よりも、生活保護の額が高くなっているので問題だともされています。いえ、年金のほうがあまりに低すぎるのです。いやはや、とんでもない提案がされているものですね。ちっとも知りませんでした。
 知事会の会長って、福岡県知事ですよね。その前に、生活保護制度の充実こそ先にやるべきではありませんか。弱者を切り捨て、力のある強いものにしか目を向けないようでは、地方自治体の役割を果たしたことになりません。情けない知事たちですね。ひきずりおろしてやりたいものです。
 
(2009年7月刊。667円+税)

2009年8月10日

御者

著者 ホルヘ・ブカイ、マルコス・アギニス、 出版 新曜社

 面白い対話集です。アルゼンチンの作家二人が、各地で開いた討論会を編集しています。聴衆参加の対談ライブです。変わった形式ですが、日本ではこんな本はちょっと思いつきません。
 英知とユーモアあふれる対話集とオビに書かれていますが、まさしくそのとおりです。人生とは、いったい何であるのか、さまざまな角度から例証があげられていますが、その大半が爆笑ものです。といっても、笑ってすませるものではありません。腹を抱えて笑いながらも、よくよく考えさせる内容ばかりです。その例証をあげたいところですが、ぜひこの本を読んでみてください。
 ヒトは人間として生まれるのではない。さまざまなプロセスを経て人間になっていくものだ。
 メキシコでは、女性は男性が変わってくれると信じて結婚し、男性は女性が決して変わらないと信じて結婚するといわれている。その、どちらも間違いだ。
 離婚した親を持つ子どもは傷つく。しかし、離婚しないけれど家族という枠の中で不自然な演技をして暮らす両親の下で育った子どもは、神経をすり減らし、不安な気持ちにさせられ、ひどく悪影響を受ける。強い恐怖心、不安、罪悪感、自分に対する怒り、自己信頼の低さ、決断に際する自信の欠如などが生まれる。
 成功者を目ざす人は、フラストレーションに陥らないよう、難易度の低い目標からはじめ、成功体験を積み重ねていくべきだ。
 ヒトを人間にしたのは言語である。言語はたった一つの目的のために出現した。それは他者とのコミュニケーションである。そして、人は何のためにコミュニケーションをとり合うのか。その唯一の理由は愛である。幸せは、人が自分の望んでいる一つひとつのものごとに対して、最善を尽くしていると実感しているときに現れる。人生において何かを試みるとき、極端に常識はずれではない夢を持ち、欲深さからではなく、野心からでもなく、自分の資質の発揮を妨げず、他人と分かち合う可能性を出し惜しみせず、夢を達成しようと、できる限りのことをするような状況に直面している、そんなときに幸せは現れるものである。
 幸せとは歌ではなく、むしろ自分は歌がうたえるという事実を認識することにある。
 探究者の幸せは、道を歩き続けること、日々の暮らしの中で何かを見出そうと試みること、活気溢れる人生を歩き、人生に触れ、そして悩むべきときには悩むことだ。
 油のシミを油で消そう、インクの染みをインクで消そうと考える者は誰もいない。しかし、血の汚れだけは、さらに多くの血によって消し去ろうとする。
 人間は、人間にとっての狼である。人間と比較したら、狼など可愛いもの。なぜなら、狼は敵に傷を負わせたら、そこで戦いを止める。それに引き換え、人間は敵に傷を負わせたとき、相手を殺し、さらし者にするまで戦いを続け、その後、相手の過去さえも中傷する。人間の残酷さは狼を優にしのいでいる。うむむ、なるほど、そうなんですよね。実に鋭い指摘です。
男性も女性も、同じように暴力的であり、また情愛に満ちている。すでに女性の大統領や首相、国務長官も出ている。かといって、それによって世界が目立ってよくなったというわけではない。
 麻薬の依存症に陥ってしまう人には、愛情が不足している。だから、何かに依存することによって、悲しい心の隙間を埋めようとしているのだ。
 大変示唆に富む本でした。『マラーノの武勲』(作品社)の著者のおすすめによって読みましたが、実に示唆に富む良い本に出会うことができました。ありがとうございます。この書評を書き続けている楽しみの一つです。

(2009年6月刊。2800円+税)

2009年7月19日

メイキング・オブ・ピクサー

著者 ディヴィッド・A・プライス、 出版 早川書房

 「トイ・ストーリー」、「バグズ・ライフ」、「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」、「Mr.インクレディブル」、「カーズ」、「レミーのおいしいレストラン」、どれも見たいとは思いましたが、見ることのできなかったアニメ映画です。
 この本は、アニメ映画をコンピューターをつかって映像を作り上げていった苦労話が紹介されています。なるほど、そんな苦労があったのか、と理解できました。
 テクスチャ・マッピングをつかって3D物体をコンクリートの画像で包装紙のように包むと、コンクリートのように見せることは出来ても、表面にコンクリートの凹凸の奥行き感はない。物体の表面に3Dテクスチャを張り付けることで、この限界を克服しようとした。そうすると、ざらつき、浮き出し、隆起など、必要な質感を与えることができるはずだった。
 1ピクセルあたりのメモリが多ければ多いほど、画像の各点で選択できる色や階調の数が増える。たった256色では、現実感が出せるはずもない。
 コンピューターで描かれた直線や縁は、ギザギザに見えることが多い。滑らかなはずの線に階段現象が生じる。縁にそって、アリがはっているようにも見える。しかし、1600万色のパレットなら、線を見せたいように見せることができる。
 パーティクル・システムは、数千の粒子を使って、雲を表現する技術で、これを使って火事や煙、水、ホコリといった現象のリアルなアニメーションを作成することが初めて可能となった。
 「ファインディング・ニモ」をつくるとき、技術チームが水中の世界を見事に再現したので、コンピュータ・アニメのテストは現実と見分けがつかないほど。困ったことに、写真のような海の中では、しゃべる魚は浮いてしまった。そこで、ツールを調整して、ハイパー・リアリティに戻した。写真実ではないが、現実感のある、定型化したリアリズムを指す。なるほど、現実を単純に再現するだけでもいけないというわけです。そりゃそうですよね、現実の海中で、魚がしゃべるわけないのですから……。
 写真のようにリアルな描写(写真的リアリズム)よりはるかに意義深かったのは、感情的にリアルな描写(感情的リアリズム)だった。うむむ、なるほど、受け手の感情にしっくりくることが最優先なのですね。
 一番難しかったのは、映画品質の映像を、コンピューターからどうやって映画フィルムに移すか、という問題であった。デジタル映像に、どれだけの解像度があれば観客を満足させられるかさえ、誰にもわからなかった。
 しかしながら、映画は技術の才能だけではダメ。やはり、価値ある映画をつくるためには、映画のストーリー作りを心得たメンバーを加える必要があった。映画では、ストーリーが何より大切。
 映画の完成にあたっては、試写会のときの観客の反応によって結末を変えたりするのですね。初めて知りました。出来上がったものを先行上映するだけだと思っていました。
 
(2009年3月刊。2000円+税)

2009年7月 9日

宇宙開発戦争

著者 ヘレン・カルディコット、 出版 作品社

 宇宙を武装すると、世界はより安全になるか?宇宙に兵器を配備する必要があるか?その答えは、宇宙に兵器を配備すれば、世界は今よりはるかに危険になる。宇宙兵器を持つと、さらに危険な状態に陥ってしまう、ということである。なぜなら、宇宙を武装すれば、間違いなく宇宙での軍拡競争が始まり、恐ろしい戦争が勃発しかねない。こんな危険なスターウォーズを防ぐには、今すぐに声をあげなければならない。
 ミサイル防衛というのは、実効性のあるシステムは不可能である。ところが、はっきりしていることは、相互抑制システムを維持するコストだけは、どんどんつり上がっているということ。アメリカは、およそ1500億ドルを投入して、ミサイル防衛システムを開発してきたが、実のところ、大陸間弾道ミサイルに対しては、まったく無力だった。おとりの一群に囲まれた核弾頭を打ち落とすことはできない。つまり、実戦で確実に考えられる状況には対応できないのである。
 アメリカがミサイル防衛計画にかけている年間費用は、104億ドルから2倍になりかねず、2007年度で最大の単独計画になっている。この費用は、2013年までに190億ドル、2006年度から2024年までを合わせると、合計2470億ドルにまで膨れ上がりかねない。
 ペンタゴンが曖昧にしておきたがっているのは、ミサイル防衛システムの主な能力が完全に機能しても、ほとんど効果はなさそうだということ。日本政府も、それを知っておきながら、計画をすすめているのです。
 北朝鮮のミサイル実験を問題にしているアメリカは、インドが2006年7月に行ったミサイル実験については一切抗議しなかった。うひゃあ、これっておかしいですよね。
 通信衛星にかかる費用は、海底ケーブルよりもかなり安く、海底ケーブルが1億7500万ドルかかるのに、8000万ドルですむ。
 GPS衛星は、1978年に初めて打ち上げられたが、全面的にシステムが稼働したのは1995年のこと。GPSは、現在、28基の衛星を利用していて、それぞれの衛星は12時間ごとに地球を周回している。GPSの年間維持費用は、4億ドルである。
 アメリカは今、4000億ドルの年間赤字と膨大な貿易不均衡を抱え、貧困層などへの福祉の切り捨てをすすめている。そのときに、こんなとてつもない費用を実働性の保障されていないミサイル防衛計画に投資するのは、国民の価値基準を根本から明らかにするだろう。
地上と違って平和と思っていた宇宙が、実は熾烈な開発競争のターゲットになっていることを知り、驚きました。
 
(2009年4月刊。2400円+税)

2009年7月 7日

語りえぬ真実

著者 プリシラ・B・ヘイナー、 出版 平凡社

 ずっしりと重たい本です。500頁近い大作だというだけでは決してありません。書かれている内容があまりにも重たいし、重たすぎるのです。なぜ、どうして、人間って、ここまで残虐なことができるのだろうか。そして、平然とその後の日常生活を何事もなかったかのようにして家族とともに生活できるのでしょうか。不思議というほかありません。
 この本に出てくる大虐殺に、すべてアメリカが関与しているというのではありませんが、たいていアメリカが多かれ少なかれ関わっています。なにしろ世界の憲兵を自称し、世界最強の軍隊を世界中に、いつでもどこでも派遣する能力をもっているわけですからね……。
 裁判と真実委員会とでは、被害者に対する見方の性質と範囲が根本的に異なる。多くの真実委員会は、まず被害者に焦点を合わせる。被害者たちの苦しみの体験を聴く。真実委員会は被害者に「公の声」を与え、彼らの苦しみを多くの人々に伝えようとする。また、被害者や遺族への補償プログラムを計画する。
 真実委員会は、加害者の説明責任を追及する。真実委員会は、個々の加害者の責任を問うだけでなく、公的組織の責任範囲を評価する役割も与えられる。
 アルゼンチンでは、1976年に軍が政権を握ってからの7年間に、破壊活動分子を掃討するという名目で1万人ないし3万人もの人々が行方不明にされた。
 真実委員会は、9か月間に7000件もの証言を聴取し、8960人の行方不明者を記録した。軍による拘禁を生き延びた1500人に対するインタビューによって収容所と拷問の実態が詳しく報告書に記載された。
 チリのピノチュト軍事政権によって拷問を受けて生き延びた人は、5万人から20万人と推定されている。クーデター後の1年間だけで、1200人が殺害された。
 エルサルバドルでは、真実委員会が調査して残虐な事件の責任者を明らかにすると、国会で免責する法律が制定された。そして、30年の任期満了に伴う軍の叙勲を授与されて退役していった。大統領も働きぶりを賞賛するばかりだった。
南アフリカの真実委員会は、300人ものスタッフをかかえ、証言者保護プログラムも作り上げ、年額1800万ドルの予算を確保してスタートした。
 チャドの真実委員会が公表した報告書によると、アメリカ政府が最悪の犯罪人たちに毎月100万円もの資金を援助し、訓練していた。アメリカ以外にも、フランス、エジプト、イラク、ザイールが関与していた。実際、アメリカ人顧問の執務室の近くで、毎日、政治囚が拷問され、殺害されていた。
 真実委員会によらず、裁判で加害者の責任を追及しようとすると、大きな壁にぶつかります。
 加害者に対する裁判が成功しないことには、いくつもの理由がある。ほとんど機能していない司法システム、腐敗し、あるいは妥協した判事や役人、それに具体的な証拠が欠如することも多い。資金不足の司法システムは、証人保護プログラムを欠いており、目撃者の多くは証言することを恐れている。警察や検察は捜査能力を欠いていて、強力な証拠を提示できない。判事・検事への給与の支払いが滞っている。裁判所は乏しい予算とスタッフでやりくりしなければいけない。そのうえ、前体制の加害者らは、政権を離れる前に一括免責を発布しておくことが多い。
 刑事裁判の目的は、真実を明るみに出すことではない。犯罪の証拠が、当該告訴の内容を満たしているか否かが検討されるのである。このプロセスにおいても、ある程度の真実はあらわれるだろう。しかし、そこでは重要な事実がしばしば排除され、結果として、裁判では限られた真実しか表に出てこない。
 このように大きな限界のある裁判とは異なり、どの真実委員会にとっても、一番重要な目的は、暴力と不正の再発を防ぐことにある。かつての敵同士の憎悪と、復讐の連鎖を断ち切ることで、その目的が期待される。
 恐怖を投影し合う理由が歴史の中にたくさんあると感じる対立集団のあいだで和解を促すことになる。
 ほとんどの真実委員会は、軍・警察・司法さらに政治制度を変革するよう勧告する。そのことによって、不正を抑制し、仮にそうしたことが生じた場合に対応するはずのメカニズムを強化することが期待される。
 世界各国の大虐殺について、そこから教訓を引き出し、将来に生かすべきことです。それにしても、人間って、本当に残虐な存在ですね。
 
(2006年10月刊。4800円+税)

2009年6月 8日

マラーノの武勲

著者 マルコス・アギニス、 出版 作品社

 17世紀、南米はアルゼンチンにおけるカトリック教会の異端審問の実情、そして、それに耐え抜いたユダヤ教徒の生涯を描いた本です。上下2段組みで、500頁を超す大作。決して読みやすい本ではないのですが、辛抱して読んでいると、実にすばらしい、知的刺激にみちみちた本だということが分かって、読書の楽しみを堪能させてくれました。
 武勲という言葉からは、戦場で騎士が華々しく刀剣をかまえて戦うという内容を想像してしまいますが、この本では、その期待はあっさり裏切られます。いつまでたっても戦闘場面は出てきません。そうではなく、すさまじいばかりの精神的たたかいが親子二代にわたって繰り返されるのです。それは、新カトリック教徒、実は偽装転向したユダヤ人の、生存をかけた戦いなのです。その凄まじさには思わず息をのみます。アルゼンチンのユダヤ人である著者が、17世紀の実録をもとに小説化したものだけあって、すごい迫力にあふれています。
 異端審問所の職権濫用は目に余った。巧みな策略と恐怖を武器に、王の勅令を手にして、次から次へと排他的利権を獲得していった。その横暴ぶりは度を越している。異端審問所は、組織の一員となるだけで、天使の位につけるという、盗賊のような集団であった。
 イエスやパウロ、その他の使徒はみなユダヤ人であった。キリスト教徒はそのことに耐えられず、認められない。だから、イエスたちがユダヤ人であることを忘れて崇め、ユダヤの血を尊ぶ人々との間に眩惑の境界線を引いて差別し、絶滅させようとする。
 自分の意志に反して洗礼を受けさせられた者は、心からその信仰を信じられるものではない。まるで、誰かに対して忠誠を誓うことを要求するようなもの、それも、本人の代わりに他人がそれをするようなものだ。それなのに、一度たりとも忠誠を誓った相手に忠実でなかったという理由で、今度は背信者と呼ばれる。
 ユダヤ人として生きることは、徳の道を歩むのと同様、容易なことではない。ペルー副王領内では、多種多様な権力、世俗、教会、異端審問所、修道会のあいだに皮肉な抗争が繰り広げられていた。これは万人周知の事実だった。
 ユダヤ人は、死者の遺体をぬるま湯で洗い、可能なら純粋なリンネルの白布でくるむ。埋葬後には手を洗い、塩をかけずに固ゆでの卵を食べる。卵は生命の象徴とされているからだ。ゆで卵は移りゆく生命とユダヤ民族の抵抗の象徴である。ほかのものと違って、ゆでるほどに固くなるからだ。同時に、卵は服喪に欠かせない要素であり、近親者を埋葬したあとにも、これを食する。
 ユダヤ人は、敵すら憎んではならない。なぜなら、すべての人間は神の姿を映しているという前提があるから。
 イエス・キリストは生粋のユダヤ人だった。母親がユダヤ人で、何世紀も続いた純粋なユダヤ人の子孫で、ユダヤの割礼を施し、ユダヤの習慣を身につけ、ユダヤ人のあいだで暮らし、ユダヤ人たちに説教をし、ユダヤ人の身を弟子にした。だから、キリストは、まさにユダヤの王に他ならない。
 改宗の強要は道徳上の暴力である。考えたり、信じたりする権利は、みな同じはず。その信念が神に対する罪なら、それを裁くのは神の仕事のはず。異端審問所はそれを横取りし、神の名のもとに数々の残虐行為を働いている。恐怖に基づいた権力を維持するために、改宗したと装うことさえ強要する。
 人間としてのキリストには心が動かされる。犠牲者であり、従順な神の子羊であり、愛であり、美でもあったキリストには。しかし、神であるキリストは、ユダヤ人を迫害の対象とし、その名のもとに不公平な扱いを受けている者にとっては、猛威をふるう権力の象徴としか映らない。兄弟たちを密告し、家族を見捨て、祖先を裏切り、自分の信条をも焼きつくすことを強要する象徴にしか。
 唯一の真理なるものを強制するのは、傲慢で無益な行為ではないか?
 主人公は、キリスト教会に対して、このように問いかけるのです。すごい問いかけです。
 そして、主人公は1639年1月23日、リマの異端審問所の主催によって、他の囚人10人とともに火刑に処せられたことが記録に残っています。このリマの異端審問所は、1569年から1820年までに1442人を処罰したのですが、そのうち32人に死刑を執行しています。この建物は今も現存していて、いまでは宗教裁判所博物館として一般公開されているそうです。
 キリスト教が博愛の宗教だなんてとても思えない、すさまじいばかりの迫害の歴史がいやになるほど語られています。
 
(2009年2月刊。4800円+税)

2009年6月 5日

戦争詐欺師

著者 菅原 出、 出版 講談社

 イラク侵攻作戦を指揮したトミー・フランクス中央軍司令官(当時)は、ダグラス・ファイス国防次官(当時)について、「地球上で最低のくず」と自伝の中でののしった。このようなブッシュ政権内の対立は、単なる路線対立ではなく、血なまぐさい内部抗争だと言った方がいい。
 うひゃあ、す、すごいですね。ここまで言うか、と思うほどの悪罵が投げつけられたんですね。それほどの怒りとストレスがブッシュ政権内にわだかまっていたのでしょう。
 コリン・パウエルはアメリカ陸軍の正統的な考え方の持ち主である。現代アメリカ陸軍の考え方は、ベトナム戦争の教訓を色濃く反映しており、軍事力の行使には非常に消極的である。軍事力の行使には明確な政治目標があること、国民の広い支持があること、そして何より圧倒的な兵力を投入することを原則とする。アメリカ陸軍の主流は、日本人が考える以上に、軍事力の行使に消極的である。なるほど、そうなんですね。
ネオコンとは、もともと、1960年代に極端に左傾化した民主党についていけなくなり、共和党の保守陣営に鞍替えしたタカ派の旧民主党員のことをさす。
 超タカ派のネオコンにとって、CIAのイメージは、軟弱、敵の脅威の見積もりが甘い、リベラルな学者、危険を犯さず、リスクをとらない官僚集団、という非常にネガティブなものばかりである。
 イラク戦争の前にパウエルもブッシュもイラクに大量破壊兵器があると高言した。しかし、まったくの間違いだった。なぜか?
 拷問によって特定の「証言」を引き出そうとした尋問官、ねつ造情報を売却して一攫千金をもくろんだ情報詐欺師、アメリカに恩を売って政治的立場の強化を図ろうとした外国情報機関、裕福な亡命生活を夢見て嘘に嘘を重ねたイラク人亡命者、自分たちの存在意義と自己正当化に固執した情報分析官など、「インテリジェンス」(情報)の世界でうごめく人間たちの実に生々しい、そしてきわめて人間的な営みが、そこにあった。
 イラク侵略戦争のとき、アメリカ軍の制服組は40万人の兵力の投入が必要だと考えた。そこでは戦闘と、その後の占領も考慮に入れられていた。しかし、ラムズフェルド国防長官(ネオコン)は、アフガン戦争型の小規模で機動的な部隊の運用、早さと奇抜さにもとづいた作戦に必要な7万5000人の兵員と考えていた。
 そして、将来のことなんて、誰にもわからないのだから、いちいち計画を立てていても仕方がないという乱暴な議論が横行していた。
 今なお、自爆テロの絶えないイラクの状況を考えると、アメリカによるイラク侵攻作戦と、それに加担し続けている日本政府の誤りは、ひどいものがあると思うのですが、日本の世論もマスコミも、その点では、あきらめが先行しているせいか、ほとんど盛り上がりません。残念です。
 
 東京に行ったとき、珍しく空き時間ができたので、有楽町近くの地下街に地方物産展があるのを見つけて、ふらふらと入ってみました。さすがは東京です。全国のちょっと気の利いたものが所狭しと並べられています。そんななかに、生せんべいというのを見つけました。なんだろう。そんなもの食べたことないぞ。手に取って見ると、ずっしりとしています。お餅みたいです。値段は手ごろですので、迷わず買いました。
 自宅で食べてみると、ちまきと同じ味がしました。もち米ではないので、生せんべいと名付けたのでしょうか……。
 愛知県半田市の特産品と書いてありました。
(2009年4月刊。1800円+税)

2009年5月27日

銃に恋して

著者 半沢 隆実、 出版 集英社新書

 武装するアメリカ市民というサブタイトルがついています。3億のアメリカ人に対して、2億丁もの銃があるというのです。アメリカって、異常なほど銃に頼った国ですよね。
 アメリカでは、銃による年間の死者は自殺を含めて3万人。毎日80人が亡くなっている。うち、殺人被害者は年に1万7000人ほど。1976年から2005年までの30年間で累計すると38万人が銃で殺された。
 2007年4月16日、バージニア工科大学乱射事件は、1人の学生(韓国出身)が30人を射殺した。だから、大学でも学生に銃で武装する権利を認めろという議論があるそうです。ぞっとします。大学内で銃撃戦をやりたいようですが、とんでもないことです。
アメリカは世界最大の武装社会。アメリカ国内の銃は年間450万丁ずつ増えている。2世帯に1丁の割合で銃を持っているが、これは世界最高の所有率だ。ちなみに、世界第2位はイスラム過激派で有名なイエメン。
アメリカでは、2002年から2006年にかけて、銃による殺人事件は発生率が13%も増加した。とりわけ、10代の若者が42%も増えた。とくに若い黒人男性の被害が深刻化している。
銃撃事件による被害についての損失をカウントすると、年間で1200億ドルにも及ぶと推計される。これは、ハリケーン「カトリーナ」の被害と同規模。つまり、アメリカは毎年、カトリーナ級の巨大災害を銃によって受けていることになる。
アメリカで銃規制を叫ぶと、その議員はヒトラーと呼ばれたり、共産主義者と呼ばれる、なんて、ひどい烙印でしょうか。
銃犯罪の被害者となるのは、都市部の住民であるが、彼らは銃規制を強く望んでいる。銃規制に反対するのは、地方や農村部の保守的な住民である。
白人の33%が自宅に銃を持っている。非白人では18%に過ぎない。
銃規制に反対する人々は、「日本のようになりたいか?」と問いかける。日本は警察ががんじがらめに市民を規制し、管理・監督している、自由なき国家だ。そんな国になりたくなかったら、銃を持つのを規制すべきではない、このように説くのです。
うへーっ、こ、これにはさすがの私もまいりました。もちろん日本が警察国家になるというのには賛成できません。でも、だからといって、それが銃規制反対の理由につかわれるというのは大変心外です。
銃があると人々は紳士的になるとか、安全が保たれるとか、まるで根拠のない議論だと思います。アメリカではライフルを買うのに何の規制もない。ただ拳銃を買うのに、ちょっとした証明書がいるだけ。それも第3者に買ってもらえばすむだけのこと。
日本はアメリカのようになってはいけないと思わせる本でした。
ところで、先日の新聞に、アメリカは日米安保条約があるので、日本が外国から万一攻撃されたら日本を守ってくれると日本人は考えているけれど、それは事実に反する、全くの幻想でしかない。防衛省の元高官がこのように語ったという記事がありました。アメリカが守ろうとしているのは、要するにアメリカであって、日本は、そのための捨石としてしか期待されていない。ところが、多くの日本人が依然としてアメリカに幻想を抱いており、一方的に、アメリカ軍は日本人を守ってくれる存在だと信じ切っています。おかしな話です。一刻も早く日本人は目を覚ますべきだと思います。
 
 白樺湖の周囲を歩いていると、影絵・切り絵美術館があります。つい先日亡くなった滝平二郎を思い出しながら、引き寄せられるようにして入ってみました。
 薄暗い室内に、柔らかい明りに浮きあがった影絵がたくさん並べられています。幻想的な絵が惜し気なく並んでいて、ふっと童心に帰ることができました。
 そして、部屋全体が天井まで一面の影絵になっているのです。残念なことに撮影禁止です。ですから、ぜひ、ここでそのイメージを紹介したいのですが、かないません。
 白樺湖周辺の四季折々の情景が、森の小人たちや女の子そしてみごとな草花…これらが後ろからの照明でほんのり照らし出され、目を奪われてしまいます。
 影絵をしっかり堪能したあと、部屋を出たところにある売店ではついつい買わずにはおれませんでした。
 そのあと出会った仲間に、あそこはいいよ、感動、感服したとワンフレーズの小泉みたいなことを言って誘ったことを半ばは後悔し、半ばは感動を分かち合いたいと思ったことでした。
(2009年2月刊。700円+税)

2009年5月17日

手ごわい頭脳

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 新潮新書

 アメリカのロースクールは3年制で、1年目が一番重要である。残りの2年間は、ほとんど自分の興味のある分野を勉強して、卒業に必要な単位を揃えればいい。しかし、1年目は必須の基礎科目を勉強しなければならない。ロースクールで教えられるのは、主としてそれぞれの分野の一般原則だ。
 ロースクールの学生たちが身につけるもの、それは「弁護士の思考法」だ。
 アメリカの陪審員制度は、日本の裁判員制度とは根本的に違う。たとえば、アメリカの陪審員は、裁判員がクロと思い、世論の9割もそう思っていても、被告を「シロ」にできる、すごい権限を持っている。それは、アメリカの法律制度は、政府に対する深い不信を大前提にしているからだ。
 アメリカの陪審は、法律を無視することができる。明確な法律違反があっても、被告に有利な評決を下すことが出来る。そして、検察は無罪判決に対して上訴することが出来ない。うむむ、このように断言できるというのでは、たしかに日本とはまったく違います。
 弁護士は、クライアント(依頼者)の目的を達成するために全力をつくさなければならず、弁護士本人の良心やモラルをその過程に挿入する場面は原則として存在しない。
 アメリカの弁護士は、ロースクールでサイコパス(精神病質者)としてのトレーニングを受けていると主張する心理学者がいるが、そのとおりだ。自分がまったく信じていない主張を、強く信じているかのように平然と主張できることは、通常の人なら精神病にかかっている証(あかし)となる。しかし、そのように主張することこそが、弁護士の仕事なのだ。
 弁護士が、自らクライアントの主張を信じていないような事件、自分の両親が引き受けるのを許さないような事件を引受けて、一生けん命に依頼者のために努力出来ないのであれば、社会的に嫌われている人たちや不合理な偏見に苦しんでいる弱者の権利は誰が守れるのか。そうなんです。なぜ悪い者の弁護士をするのかと問われることがあります。でも、それこそ弁護士としての仕事なのですと答えますが、なかなか分かってもらえません。
 弁護士の役割は、各市民がそれぞれ「正しい」と思っていることを、自ら法律制度を利用して追求するための手助けをすることに過ぎない。アメリカの弁護士の思考の根底はここにある。
 著者はニューヨークで10年のあいだアメリカの弁護士としてキャリアを積んだあと、2005年4月から日本のロースクールの教員として現在まで活躍している人です。アメリカの日本の弁護士の思考方法の違いと共通項がよく分かり、とても興味深い本でした。
 
(2008年10月刊。680円+税)

2009年4月20日

ウルフィーからの手紙

著者 パティ・シャーロック、 出版 評論社

 ベトナム戦争をテーマとする本は、いつだって私の関心を強く惹きつけます。この本は、今から40年前、ベトナム戦争をたたかっていたアメリカに住む少年が、お国のために愛犬を送り出したという想定の小説です。ストーリーがとてもよく出来ていて、ぐいぐいひっぱられるような感じで、一心不乱に読みすすめました。
 ただ、これも犬好きの人でないと、もうひとつよく分からない心理かもしれません。たかが犬の話じゃないか、と思う人には、絶対おすすめしません。たかが犬、されど犬、なのです。犬は長く人間と一緒に生活してきたため、人間の感情をよく理解し、それにあった行動をとります。落ち込んでいる人間を見ると慰め、励ますのです。この本に出てくる犬が、まさに、そんな犬でした。
 マーク少年は、きっとお国のために役立つだろうと思って、ベトナムの戦場へ愛犬を送り出しました。ところが、軍隊では、犬は単なる道具でしかありません。しかも、いったん戦場に入ったら、人間と違って死ぬまで戦場から抜け出すことはできないのです。
 だって、敵と見たら、殺せという訓練を受け、それを実行していた犬が、平和な本国に戻ってきて、淡々とした日常生活を送れるという保証はあるでしょうか。「敵」だと見誤って善良な市民を殺してしまう危険だってあります。もっとも、人間もそうだということは今日では明らかです。つい先日亡くなった元アメリカ海兵隊員のネルソン氏の本を読むと、フツーの人が人間を殺すことがいかに大変なことか、よく分かります。
 ベトナム戦争に従軍した軍用犬は4000頭。そのうち500頭が作戦行動中に殺され、500頭が病気で死んだ。200頭だけはベトナムの外に出ることができたが、1頭もふつうの生活に戻ることはできなかった。安楽死させられたのだ。
 アメリカ軍はベトナムに贈られた軍用犬を「装備」に分類した。ベトナムで軍用犬は、1万人もの兵士の命を救った。軍用犬はパトロール部隊の先頭を歩き、隠された危険を探し出すという危険な任務に従事した。市民が愛犬を軍に提供したら、アメリカ陸軍の所有物となり、市民に戻されることはない。
 そのことを知ったマーク少年は、愛犬を軍隊に送ったことを後悔します。そして、軍隊から取り戻す運動に取り組むようになりました。父親はいい顔をしませんが、母親は援助してくれます。
 マーク少年は要求実現のためにデモを企画します。そこには、ベトナムで勇敢に戦って勲章をもらいながらもベトナムでの戦争は直ちに止めるべきだと叫ぶ反戦兵士たちも多数加わってきます。マーク少年は迷いながらも、自分のやってきたことを続けます。
 マーク少年が愛犬に手紙を出すと、訓練係そして世話係の兵士から、愛犬の名前で手紙が返ってくるようになりました。ベトナム戦争における生々しい戦場からの返信です。
 マーク少年の兄もベトナム戦争に駆り出されていて、あるときの戦闘行為によって大怪我をして本国送還となりました。足を切断して車椅子生活を余儀なくされたのでした。弟であるマーク少年に対しても、戦場での出来事はよく語ってくれません。
 そして、世話係の兵士から、愛犬が戦場でアメリカ兵をかばって敵の銃弾を受けて死んだとの手紙が届いたのです。ああ、なんということでしょうか。マーク少年たちのデモ行進がマスコミの注目を集め、国会議員も動き出そうとした矢先のことでした。
 身障者となってしまったマーク少年の兄は、「反戦帰還兵の会」に入って活発に活動するようになり、陸軍当局にPTSDを認めさせようと運動しています。
 ベトナムの戦場に送られた軍用犬を通して、兵士の家族の置かれた客観的状況そして家族内の価値観のせめぎあいがよく描けていて、思わず息を呑まされる本です。
 
(2006年11月刊。1700円+税)

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