弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
アメリカ
2011年9月29日
オバマの戦争
著者 ボブ・ウッドワード 、 出版 日本経済新聞出版社
アメリカのイラク侵略戦争は、まったく間違った戦争でした。たとえフセイン元大統領が圧制をしいたとしても、軍事力によって力づくで抑えこむなんて最低です。おかげで、あたら有為のアメリカ人青年が何千人もイラクで亡くなりましたし、なにより、その何十倍もの罪なきイラク人が殺されてしまいました。
そして、アフガニスタンへの進出です。アメリカは、いつまで世界の憲兵役を気でるつもりなんでしょうか。軍事力に頼らず、平和外交こそを強めて欲しいものです。ノーベル平和賞が泣きます。そのオバマ大統領も、この本によると、アメリカを抑えこむのには苦労しているようです。軍人というのは、とかく強がりを言いたがり、また、最新兵器を欲しがります。軍人まかせにしておくところ、ろくなことにならないのは、戦前の日本で立証ずみなのですが・・・・。
取材するとき、先方がオフレコだということがある。他の情報源から同じ情報を得られないときには使ってはいけないということを意味する。ほとんどの場合、他から情報が得られたから使うことができた。なるほど、オフレコって、そういうものなのですね。別に裏付けを取ればいいのですね。
連邦ビルのなかに、秘密保全措置をほどこした密室がある。枢要区画格納情報施設と呼ばれる。盗聴を防ぐために設計された部屋で、窓はない。監禁部屋のようで、閉所恐怖症を起こしそうになる。そんな部屋になんか入りたくありませんよね。
パキスタンは、アフガニスタンにおけるアメリカの同盟国だが、表裏がある。嘘は日常茶飯事だ。パキスタン軍の統合情報局(ISI)には、6重ないし7重の人格がそなわっている。
北朝鮮の指導者たちは狂信的だ。その政権と交渉しようとすると、ブッシュ政権の轍を踏むことになる。交渉、いい逃れ、危機拡大、再交渉のくり返しになる。北朝鮮は口先ばかりで、嘘をつき、危機を拡大させれば、交渉を決裂させると脅し、また交渉しようとする、そういう仕組みになっている。
アルカイダ幹部を無人機で殺せば、アルカイダの計画・準備・訓練能力に甚大な打撃を与え、テロ対策上は大勝利とみなされる。しかし、無人機による攻撃は戦術的なものであり、戦況全体を変えることにはならない。たとえ大規模空襲を行っても、戦争には勝てないというのは、第二次大戦やベトナム戦争で得た最大の教訓である。
アフガニスタンのカルザイ首相は、情報によれば、そううつ病と診断されている。気分がころころ変わる。
アフガニスタン国民のことをアメリカ軍はほとんど理解していないことが分かった。恐怖を広めて威圧するタリバンのプロパガンダが住民にどれほど影響を与えているか、軍には判断できていなかった。
42カ国の連合軍の兵士たちは、一般のアフガニスタン人と隔離するように造られている基地で生活している。住民との接触が不足しているため、街で何が起きているのか、把握できていない。現地人の通訳をたくさん確保しなければならないが、数十億ドルと兵士十数万人を投入してもなお、十分に確保できていない。
アルカイダは、タリバンに寄生しているヒルだ。タリバンの力が強まれば、ヒルの力も強まる。
タリバンの組織内は決して一枚岩ではなく、いくつものレベルから組織は成り立っている。筋金入りの主義者は上層レベルで5~10%、これは撃滅する必要がある。次が中級で、15~20%。主義に打ち込んでいる理由はさまざま。説得は可能かもしれないが、なんとも言えない。タリバンの70%は下っ端の兵隊であり、食べるための手段だったり、外国人を国外へ追い出せるという理由から参加している。読み書きもきちんとできない教育程度の低い若者たちだ。
アフガニスタンにとっては、パキスタンの演じる役割が決定的だ。パキスタンがアフガニスタンのタリバンの指導者たちをかくまい、安全地帯を提供しているあいだは、アフガニスタンでの成功は不可能だ。
アフガニスタンは、イラクより数百倍も困難だ。民族もさまざまなら、文化も多様で、識字率ははるかに低く、地形が険しい。
アフガニスタン政府が犯罪組織にひとしいことは、アメリカ政府も分かっている。しかし、アメリカ軍は治安を改善し、主導権を取り戻さなければならない。腐敗とアフガニスタンの警察も、鎖の輪のもろい部分だ。アメリカの存在そのものがアフガニスタンに腐敗を招いている。
開発プロジェクトを扱う民間業者は、すべて保護してもらい、道路をつかわせてもらうためにタリバンに賄賂を使っている。つまり、アメリカと、その連合軍のお金がタリバンの資金源になっている。そのため開発、道路の往来、兵員が増えると、タリバンの実入りも増える。
アフガニスタンの警官の80%が読み書きができない。そして、麻薬中毒もあたりまえ・・・・。イラクとは違って、石油などの国家的権益がほとんどからんでいないアフガニスタンは、ブッシュ政権下の8年間なおざりにされ、アフガニスタン戦争は「忘れかけている戦争に」なっていた。
政府が軍人のいいなりになっていいことは一つもないように思います。
(2011年6月刊。2400円+税)
2011年9月24日
100年の残響
著者 栗原 達男 、 出版 彩流社
西部の写真家、松浦栄。こんなサブタイトルのついた写真集です。
松浦栄は、明治6年(1873年)に東京は向島で生まれ、27歳のとき単身アメリカに渡った。シアトルに上陸し、西部にあるオカノガン峡谷で町の写真家となった。1913年、惜しくも39歳の若さで独身のまま病死した。
松浦はインディアンと親しくつきあうためにチヌーク語(フランス語、英語、インディアン語の混合語)までマスターした。
100年前、すでにアメリカの人々は野球場でプレーしていた。インディアンの居住するティピが近くに林立する中で、人々が野球に打ち興じている写真があります。
今はさびれ果てた小さな町ですが、当時は銀山景気にわいていたようです。
当時、すでに絵ハガキが売られていたのには驚きました。そして、フランク松浦のとった写真が、今、町のあちこちで建物の壁を大きく飾っています。町の人々にとっても100年前の風景はなつかしいものなのです。なんと100年前の建物がそのまま残っています。
メインストリートで人々が大勢あつまって競馬を楽しんでいる写真があります。屋根の上にまで見物する人々が鈴なりです。インディアン一家が8人の子どもと一緒におめかしして馬車に乗って出かけている、そんなのどかな光景も撮られています。
ビリヤード店の外側に男たちが18人もずらりと並んで腰かけている様子は壮観です。
インディアンの住むティピ(テント)が円形にずらりと囲むキャンプ地の遠景写真は一見の価値があります。それだけインディアンの人々と仲良くなっていたのでしょうね。
100年前のアメリカ西部の様子を伝える貴重な写真集です。
(2011年7月刊。3800円+税)
2011年9月 9日
ゲーリー家の人々
著者 フランク・J・ウェブ 、 出版 彩流社
アメリカ奴隷制下の自由黒人というサブタイトルがついています。1857年にイギリスは、ロンドンで出版されていた本です。著者はアメリカ・フィラデルフィア生まれの自由黒人。
自由黒人とは、奴隷ではないが、アメリカ市民でもなかった。自由黒人は、アフリカから奴隷として連れてこられた人々やその子孫のうち、主人からの解放によったり、自らを買い上げたり、または法律の施行などにより、奴隷の身から開放されたアフリカ系の人々をさす。1790年に実施された初の国税調査によると、黒人の総人口は76万人ほど、うち自由黒人は6万人だった。70年後の1860年には49万人になっていた。
自由黒人の多くは、白人と黒人との婚外婚による混血だった。白人たちは一滴主義を説き、かなりの量の白人の血が流れていても、一滴でもアフリカ系の血が流れていれば、黒人扱いをし、自分たちの同胞とは認めなかった。また。また母が奴隷である場合は、その子どもは父の人種にかかわらず奴隷とし、黒人と呼んだ。一滴でもアフリカ系の血が混じった兄弟は、白人社会の市民として受け入れられなかった。
だから、見かけはまったく白人であり、話していても白人そのものであっても、黒人という人たちがいたわけです。この本は、そのことにともなう悲劇も描かれています。
自由黒人に対する憎悪は、やがて彼らを擁護する奴隷制度廃止論者である白人への迫害としてもあらわれた。1834年8月、白人暴徒たちがフィラデルフィアの黒人地区に行進し、さまざまな暴力をはたらいた。この本は、この暴動事件を背景にして展開していきます。
1852年、ストウ夫人が『アンクルトムの小屋』を出版し、大ベストセラーになった。
この『ゲーリー家の人びと』は、アメリカ社会が見て見ぬふりをしてきた自由黒人の日常を初めて描いている。この本はアメリカではなくイギリスで出版され、イギリス国内ではなかなかの評判をとったが、アメリカでは何の反響もなかった。
人間を奴隷として使って何ら恥と思わないアメリカ市民がついこのあいだまでいたのですよね。そして、不当な差別がまかり通ってきました。その意味では、オバマ大統領の誕生は画期的です。しかし、オバマさんも次期再選へ向けては苦戦しているようですね。イラク、アフガニスタンへの侵略戦争は許し難いものですが、国内経済の立て直しに四苦八苦しているようです。
『リンカン』伝を読んだばかりなので、アメリカにおける黒人差別歴史の深刻さを再認識させられました。
(2011年1月刊。3500円+税)
2011年8月17日
アマゾン
著者 ジョン・ヘミング 、 出版 東洋書林
アマゾンのジャングル(密林)は地球上の酸素濃度の維持に多大な貢献をしているのですよね。ところが、そのジャングルに次々に開発道路が出来て、どんどん切り開かれています。人間が地球上にすめるのかどうか危ぶまれているのです。そして、その原因づくりに日本も一役買っています。いわば、私たち日本人も大自然破壊に手を貸しているのです。決して他人事(ひとごと)ではありません。
20世紀末までにアマゾン流域で破壊された森林全体の4分の3は大規模と中規模の牧場が引き起こした。ブラジルは、いまや世界最大数の牛を飼う、世界有数の牛肉輸出国である。そして、大豆をブラジルに輸入したのは100年前の日本人移住者だ。現在、ブラジルは、アメリカに次ぐ世界第二の大豆輸出国となっている。木材の切り出し、牛の放牧、そして大豆栽培がいっしょになり、雨林の破壊を加速させた。アマゾン流域中で、国土の14%にあたる64万平方キロメートルの雨林がチェーンソーとブルドーザーによって簡単に破壊され始めて、40年間のうちに消滅した。これはテキサス州の広さにあたり、フランスの国土より大きい。この密林が永久になくなってしまった。うっそーと叫びたくなるほどの事態です。
アマゾンの森林は1年間に5億6000トンの窒素を吸収する。もし伐採されたら、この吸収機能が止まるだけでなく、そのかわりに温室ガスを大量に発生することになる。
アマゾン川流域は、世界最高の生物多様性を有している。昆虫学者は、虫の多さに敬服する。アマゾン川流域の2000種の蝶は、世界の蝶の4分の1にあたる。3000種のハチは、地球全体のハチの10%にあたる。
アマゾン川流域には、かつては相当の人口があり、文明があったようです。ところがヨーロッパ人が入ってくると、劇的に人口は減少した。その主たる原因は病気だった。その次に、逃亡だった。ヨーロッパ人は現地の人々を捕まえて奴隷労働を強いて酷使した。
当初のヨーロッパ人たちは残虐行為を平気でしていたようです。でも、彼らは大自然には手をつけませんでした。大自然に手をつけたのは現代の我々なのです。アマゾンの過酷な実情、そして文明人たちがこれほど慈悲のない仕打ちを現地の人々に対して加えていたことに戦慄せざるをえません。アマゾン流域の保全に国際社会はもっと目を向けるべきだとつくづく思いました。
(2010年5月刊。6500円+税)
2011年8月 9日
刑務所図書館の人びと
著者 アヴィ・スタインバーグ 、 出版 柏書房
アメリカは世界史上最大の犯罪者収容施設を有している。アメリカの人口は世界人口の5%だが、受刑者数は全世界の刑務所人口の25%を占めている。アメリカの都市のひとつ分の人口が服役中で、投票権を持っていない。
そんなアメリカの刑務所に図書室があり、そこにハーバード大学を出たユダヤ人青年が働くようになって体験した出来事が書きつづられています。面白く哀しく、そして日本はアメリカみたいになってはいけない、つくづくそう思わせる本です。
刑務所の図書室は混みあっている。そこは禁酒法時代のもぐり酒場みたいな雰囲気になり、読書のための静かな空間とは言いがたい。しんと静まり返っていることはほとんどない。刑務所の図書室は、交差点みたいなもので、大勢の受刑者が差し迫った問題に対処するためにやってくる。
正統派ユダヤ教徒のコミュニティでは、法律家か実業家か医者になる見込みがなければ、つまり大学を卒業したあと大学院に進むか銀行に職を得る見込みがなければ、異教神(バアル)を崇拝するよりも重大な罪を犯したことになる。
刑務所の図書室で働く職員のなかには、図書室は受刑者たちを目覚めさせる場であって、現実を忘れさせる場ではないと考える人たちもいる。図書室とは、受刑者が人生を変えたり、教養を深めたり、何か生産的なことができるようになるための場所なのだ。たとえば、マルコムXは、刑務所の図書館で大変貌を遂げた。
図書係は、受刑者の作業のなかで一番楽だ。ここは「エリートの職場」で、職員に推薦された受刑者がよくやっていた。
刑務所の規則により、受刑者が所内に所持していい本は6冊までとされている。
受刑者の多くにとって、子ども時代の思い出はつらいものか、まったく存在しないものかのどちらかだ。なーるほど、そうなんですね・・・。重い指摘です。
刑務官に離婚経験者が多いのは、笑えない現実だ。
自殺は刑務所では重要な問題である。
自由な世界のラジオ局は、受刑者が大半を占めるリスナーに娯楽を提供している。
密告は深刻な問題だ。密告のしかたによって受刑者にもなり、警察官にもなる。第三の選択肢はない。中立という立場はないのだ。
刑務所では、時間は独特の意味をもつ。「時間はいくらでもある」というのが、受刑者たちのよく口にする言葉だ。これが刑務所で日常的に使われるときの意味は、「刑務所にいるんだから、忙しいわけがない」ということだが、同時に皮肉な意味もこめられている。自分にあるのは時間だけで、他には何もないということだ。受刑者には常に膨大な時間があるが、時間に付随する意味とは縁がない。大多数の受刑者は、「どちらを見ても水ばかりなのに一滴も飲めはしない」と海上でこぼす潜水夫みたいなものだ。時間は限りなくあるが、それは心に栄養を与えてくれる類の時間ではない。季節も休日も、周期もない。少なくとも、他者と共有できるものは何もない。
刑務所人口をただ増やす方向での取り組みは意味がありません。やはり、その人口を減らしていくためにはどうしたらよいかという視点で社会全体が考えるべきではないでしょうか。
刑務所内の人間模様がリアルに描けている秀作だと思いました。530頁もある大作です。
(2011年5月刊。2500円+税)
2011年8月 4日
チリ33人、生存と救出、知られざる記録
著者 ジョナサン・フランクリン 、 出版 共同通信社
坑道の内部は、気温が32度より下がることはほとんどない。男たちは1日に3リットルの水をがぶ飲みしても脱水症状ぎりぎりの境目におかれる。仕事は7日勤務の7日休みというシフトだ。
この日、8月5日、鉱山の奥深くでは、男たちが押し寄せる粉じんの嵐に直面し、それは6時間にわたって続いた。落ちてきた岩の塊は当初考えられたよりもはるかに大きく、長さ90メートル、幅30メートル、高さ120メートルもあって、まるで大型船のようだった。
若い経験不足の鉱山労働者の何人かは、パニックになりはじめた。もっとも若い19歳のサンチェスは幻想を起こした。他の男たちは感情的な衝撃の試練に対応できず。ただ凍りついていた。一日中ベッドにいて、起き上がらなかった。時間は耐えがたいほど、ゆっくり過ぎていった。深い沈黙がその隙間を満たした。
食糧貯蔵庫には、水10リットル、モモ缶詰1個、エンドウマメ缶詰2個、トマト缶詰1個、牛乳16リットル(バナナ味8リットルとイチゴ味8リットル)、ジュース18リットル、ツナ缶詰20個、クラッカー96袋、マメ缶詰4個。これは正常な環境なら、作業員10人の48時間分の食欲を満たすだけの量だ。
シェルターの食料は、厳重な監視下にあった。あらゆることについて投票で決した。男たちは1日に1回、ほんの少しを食べることで合意した。カートン入りの牛乳の半分は、とっくに期限切れだった。中身が熱で凝固し、バナナ味の塊に変質していた。
水は大量に保管されていて、限られてはいたものの空気も十分だったので、労働者の主な心配は食料だった。一日の最低割りあてのカロリー量はツナ缶が25キロカロリー、ミルクが75キロカロリーだった。これは継続不能なほどのダイエットを意味した。それでも、水の供給に制限がないため、4~6週間は生き延びられるはずだった。
鉱山の安全シェルターは裏庭のプールのほどの大きさだ。だから、技術者たちが掘削の狙いをわずか5センチ外すと、地下700メートルのレベルでは数百メートルの誤差になってしまう。
男たちは体毛が異常に伸び、胸や足の皮膚にシミが浮いてくるようになった。カビが体に取りつき、広がっていった。口内炎ができた。
閉じ込められて5日目に、かすかな音が男たちに振動を伝えてきた。この振動は、どれだけ励ましたことでしょう。
9日目になると、食料の割りあては、さらに減った。食事は24時間おきだったのが、36時間おきになった。
15日目に、食料が底をついた。地底の男たちは死ぬことを覚悟した。
16日目。ツナ缶が残り2個となったので、2日ごとに一口食べるのを3日ごとに延長した。疲労困憊したから、斜面の30メートル上にあるトイレに行くのも大仕事になった。
17日目、ドリルが突き抜けてきた。地上でも地下の音がかすかに聞こえてきた。
そのドリルにこんなメッセージを結びつけたのです。
「われわれは元気で避難所にいる。33人」
なんというメッセージでしょう。泥のなかから紙切れを見つけて読むと鳥肌が立った。そうでしょうね。すごい一瞬です。直ちにチリの大統領が現地にやってきました。そこには、アジェンデ元大統領の娘イザベル上院議員の姿もありました。さあ、いよいよ救出作戦の開始です。
最初の48時間、食べ物を期待していたのに、固形の食べ物は与えられなかった。薬を飲み、ブドウ糖とボトルの水をゆっくり摂取した。急に食事を与えると、体内である種の化学連鎖反応を引き起こし、心臓から必須のミネラルを流出させ、心停止を起こして即死させてしまう危険があった。
そして地底の男たちが欲しかったのは、一本の歯ブラシだった。なーるほど、そうなんですね・・・。
発見後の救出がいかに大変だったのか、いろんな角度から紹介されています。その一つが、仲間割れでした。閉じ込められた男たちは、終盤にますます不安で怒りっぽくなる。人々は縄張り根性をもつ。
救出費用は2000万ドルかかったそうです。日本も、宇宙日本食、消臭肌着・Tシャツ、ストレス解消のためのオモチャ「プッチンスカット」など送って、かなり役立ったとのことです。
極限状態に置かれた人間の行動をも知ることのできる貴重な本です。
(2011年3月刊。2600円+税)
2011年7月29日
リンカン(下)
著者 ドリス・カーンズ・グッドウィン 、 出版 中央公論新社
南北戦争が進行していきますが、北部軍の将軍には問題行動が目立ったりして、なかなか南部軍に勝てません。
それでも、リンカンは、政府と広く全国の両方で派閥の均衡を巧みに操縦するという無類の手腕を発揮した。半島での大敗退で、連邦を救うには並々ならない政策を必要とすることが明白になった事態は、リンカンに、より直截に奴隷制度に取り組む突破口を与えた。
戦場から日々届く戦報は、南部連合がいろいろの方法で奴隷を使役している様子を歴然とさせた。奴隷たちは、軍のために塹壕を掘り、防御施設を建造した。奴隷たちは駐屯地に連行され、御者、料理人、病院の付き添いとして働いたので、兵士たちは雑務から解放されて戦闘行為に専念できた。
1862年、奴隷解放宣言は、奴隷の身分にあった350万人の黒人に自由を約束した。この宣言書には軍事上の価値があった。北部軍は兵站の問題に直面していた。奴隷の提供する膨大な労働力が南部連合から連邦側に移るなら、とてつもない利益が得られることになる。奴隷解放宣言は、その適用範囲が叛乱軍の戦列の背後にいる奴隷身分の黒人に限られるという点で即効性には乏しかったが、それは、中央政府と奴隷制度の関係を永遠に変革した。それまで中央政府が奴隷制度を保護していた地域で、今やそれは禁止されたのだ。
黒人連隊を結成しようとする、やる気満々の動きに、リンカンは大々的に賛意を示した。当初は黒人を武装させる提案に抵抗を示したものの、今では、その計画の実施に全面的に打ち込んでいた。
南部連合議会は、捕虜になった「武装ニグロ」と「ニグロ隊」を指揮する白人士官は死刑か奴隷刑に処すという条例を議決した。したがって、下手すると自由身分あるいは生命まで失う危険があった。
1863年11月19日、リンカンがケティスバーグの戦場跡で演説したときの状況も紹介されています。このとき、9000人もの聴衆が演台を囲むように半円をなして広がっていた。リンカンの前の演者は、2時間かけて劇的な3日間にわたる戦闘の一部始終を見事に再現した。そのあと、リンカンが演説しはじめた。わずか2分間の演説だった。
我々がここで語る内容に世界はまず注意を向けないでありましょうし、記憶に留めもしないでしょうが、ここで彼らの成し遂げたことを世界が忘れ去ることは絶対にありえないのです。・・・この国家に、神の道に適った新たな自由の誕生を実現せしめることなのであり、かつまた、人民による、人民のための、人民の政体をこの地上から死滅させないためなのであります。
聴衆は微動だにせず、言葉なく立ち尽くした。聴衆は、演説のあまりの簡潔さとその唐突な幕切れに息を呑み、その場に釘付けされた。
リンカンは祖国の物語と戦争の意味を、すべてのアメリカ国民に通じる言葉と現実に置き換えて話した。父親から聞いた作り話を、少年なら誰でも理解できる物語に夜を徹して手を加えた子どもが、今や祖国のために、過去、現在そして未来を編み込んだ理想の物語を完成させたのであった。そして、それは学生たちによって永遠に朗読され、暗誦されることになる。
常日頃から緊張をほぐすために物語を人前で話すことを習い性にしていた人間(リンカン)にとって、芝居見物は清涼剤であった。リンカンは、定期的に劇場に通い詰めていた。
リンカンを生涯支え続けたのは、その内面的な底力であった。そして、大統領としての4年間は、彼の自信を計り知れなく増進させた。就任の初日から直面させられた耐え難いほどの重圧にもかかわらず、リンカンが自信を喪失することはなかった。リンカンは周囲にいる者たちの意気を折にふれて鼓舞し、快活さ、やる気、一貫した目的意識をもって同僚たちを心優しく引っぱった。リンカンは最初の過ちに自ら学び、そのおかげでライバルたちの嫉妬を超越し、また年が改まるごとに人間と事象を貫徹する洞察力を深めていった。
リンカンは内閣のなかの内輪もめに気づいていたが、各自がそれぞれの職務を十分にこなしている限り、陣容の改造はまったく不要だと固く心に決めていた。内輪ゲンカを繰り返す内閣たちも、最終的にはほとんど全員が、自分たちのライバル意識と短気に仁慈をもって対応し、ユーモアに訴えで緊張感をやわらげるリンカン大統領に忠節を尽くし続けた。
暗殺犯が3人いて、リンカンだけでなく、副大統領と国務長官の三人を同時に謀殺する企てだったことを知りました。副大統領を暗殺するはずだった男は直前に気が変わった。国務長官は事故にあって寝ていたところを襲われたが、なんとか助かった。
そして・・・。きちんとしたいでたちの男があらわれて、ホワイトハウス付きの従僕に名刺を渡し、ボックス席に案内された。ひとたびなかへ入ると、拳銃を構え、リンカンの後頭部に狙いを定めて引き金を引いた。
南北戦争の実情、奴隷解放宣言が出されるまで、そしてゲティスバーグ演説、さらに大統領暗殺・・・。どれもアメリカという国をよく知るうえで不可欠の出来事だと思いながら興味深く、上下2巻の大作に読みふけってしまいました。
オバマ大統領の愛読書だそうです。本当かもしれないなと思いました。
(2011年3月刊。3800円+税)
2011年7月21日
アメリカの公共宗教
著者 藤本 龍児 、 出版 NTT出版
宗教の熱は、自由と知識の増大とともに否応なく消え去る。これは、19世紀フランスの社会哲学者トクヴィルが当時のアメリカを観察して導いた命題です。私は真理ではないかと思うのですが、現実は必ずしもそうとは言えません。
このトクヴィルの理論は、現在における事実に合致していない。アメリカでは、宗教右派が全人口の15~18%を占め、大統領選挙の帰趨を左右する勢力となっている。福音派は全人口の30~40%を占め、高学歴・高収入の人々の4分の1が自分は福音派だと答えている。
オバマ大統領は就任演説において、神を信仰する人々だけではなく、信仰をもたない人々をもアメリカ国民としてかぞえあげた。就任演説という公共性のきわめて高い場で、アメリカ大統領が信仰をもたない人々にまで言及したのは異例のことである。
現代のナルシズムは、屈折したかたちではあれ、他者を必要とする。ナルシストは、喝采を送ってくれる聞き手がなくては生きてゆけない。
原理主義は、もともとはイスラムではなく、アメリカのプロテスタント神学の一潮流として生まれた。原理主義という思想や世界観は、1910年代から1920年代にかけてアメリカで生じてきた。世界中で原理主義がテロをあおり立てていて、とても危険な状況をつくり出しています。宗教者って、宗派を問わず、もっと他人に寛容であってほしいものです。
イギリスにおける宗教改革は、ヘンリー8世の離婚問題という、主に世俗的な理由から始まった。分離派の一部の人々は、1608年弾圧を逃れてオランダへ渡り、次いで1620年にアメリカへ巡り来た。ピルグリム・ファーザーズである。しかし、その乗船者の半数以上はピューリタンではなかった。メイフラワー号には、経済的な余裕がなかったので、聖徒だけではなく、よそ者が乗船していた。
分離派のピューリタンは貧しい農民や労働者だったのに対して、非分離派のピューリタンは富も地位も持っていた。この非分離派のピューリタンは、あくまで自分たちの信仰の自由を認めたのであって、信仰を異にする人々の信仰の自由までは認めず、それどころか迫害までした。
ワシントンやジェファーソンなど、独立革命の指導者が持っていた思想は、ピューリタニズムではなく啓蒙主義だった。建国の父たちをはじめ、現在のオバマ大統領に至るまで、神に言及していない大統領は皆無であるが、同時にキリストの名に言及した大統領も皆無である。そうすることで、多様な人々が、多様な神のイメージをそこに読み込むことができるようにしている。
アメリカで政教分離とは、あくまで国家と教会との分離のこと。アメリカにおける政教分離とは、政治と宗教の分離でもないし、国民と宗教の分離でもない。その理念は、あくまで国家が特定の宗教と深くかかわってはならないことを意味するだけで、政治的領域に宗教的次元があることを否定してはいない。
リンカーンは、アメリカ史上もっとも宗教的な大統領であるとされるが、実際は、一生を通じて洗礼を受けたことはなかったし、どの宗派にも属していなかった。人民の、人民による、人民のための政治というリンカーンの言葉は、アメリカにおいては、神の後ろ盾なしには成り立たないものである。
こうなると、アメリカって日本人の私たちからすると、まるで変てこりんな国としか言いようがない気がします。こんなことを言うと怒られるのでしょうか?
(2009年11月刊。2800円+税)
2011年7月17日
チルドレン・オブ・ザ・レインボー
著者 高砂 淳二 、 出版 小学館
ハワイをめぐる素敵な写真集です。ともかく色がいいのです。みるみる眼と心が惹きつけられます。豊かな色彩のなか、動物も植物も、そして空と海までが生き生きと表現されています。
残念ながらハワイ島には行ったことがありません。でもこんな豊かな大自然の真っ只中に自らの身を置いてみたいと思わせる躍動感あふれる写真集なのです。
カラフルなヤモリの写真があります。ヤモリなら、我が家にも夜になると、台所の窓にいつもへばりついています。ハワイのヤモリは舌を出して、おどけてみせています。その愛らしさはたとえようもありません。
小鳥たちもいます。ペットの小鳥たちが野生化したようです。仲むつまじいブンチョウのカップルは枝で身を寄せあっています。ほのぼのと心温まる情景です。
海に行くと、巨大なマンタが悠然と海中を泳いで通り過ぎていきます。大きなクジラが海面に頭を出して、思い切り息を吐き出します。遊び好きのイルカは、ヤシの実をつかまえてキャッチボールをします。若いザトウクジラが寄ってきて、あんた、だーれと問いかけます。
日頃つい忘れかけていますが、私たちだって大自然の中にいきていることを実感させられる写真集です。
(2011年5月刊。2500円+税)
2011年7月15日
フィデル・カストロ(下)
フィデル・カストロ(下)
著者 イグナシオ・ラモネ 、 出版 岩波新書
キューバから27万人がアメリカに向けて脱出していった。1959年から62年にかけてのこと。これには医師、技術者などの知識人が数多くふくまれていた。その結果、キューバは専門職の欠乏に直面し、それに耐えた。彼らは、20倍も多い給料や物質的価値を求めてアメリカへ行った。キューバ政府は、教育面で甚大な努力を払うことによって専門職の欠乏に耐え、しのぐことが出来た。
アメリカは、キューバからの不法移民を促進する法律をつくった。船や飛行機を乗っ取ってアメリカへ脱出しようとする者に、アメリカはあらゆる権利を認めている。これは犯罪を奨励しているようなものだ。逆に、アメリカ人がキューバを許可なく訪問したりすると、最高25万ドルの罰金が科せられる。それに企業がからむと、罰金は最高100万ドルにもなる。
キューバ高官が汚職・腐敗で逮捕され、死刑に処せられた事件がありました(1989年)。そのことについて、カストロは次のように語っています。
権力は権力だ。権力をもつものにとって、もっとも重要なたたかいはたぶん己とのたたかい、自分自身を統御するたたかいだろう。それは、恐らく、たたかいのもっとも難しい部類に属す。その高官たちは麻薬密輸業者と取引していた。コロンビアのエスコバルから海上で6トンもの麻薬を受けとってアメリカに運ぶという話だった。そして、彼らは、それがキューバに役立つと信じていた。
この事件では高官たち4人が反逆罪で有罪となり、銃殺刑に処せられたのでした。
カーターは、カストロの知るもっとも良いアメリカ大統領だったと高く評価されています。そして、エドワード・ケネディについても、文句なしに才能のある人物だとされています。
キューバには政党が一つしかなく、反体制派がいて、政治囚がいるという批判に対して、カストロは次のように弁明しています。
我々は唯一の政党ではなく、世界で一党制を維持している唯一の国でもない。
チリのアジェンデとベネズエラのチャベスについて、クーデターに対する対処法のアドバイスが違っていたとカストロは語ります。
アジェンデには兵士が一人もいなかった。チャベスは陸軍の兵士と士官の大部分、とりわけ若い兵士をあてにすることが出来た。だから、カストロは、辞任するな、辞めてはならないと伝えた。
これに対して、アジェンデに対しては抵抗するよう伝えた。アジェンデは誓ったとおり、英雄的に死んでいった。
キューバには、現在、1959年当時に残っていた医師の15倍もの医師がいる。このほか、何万人もの医師が世界40ヶ国で無料で働いている。キューバ人医師は7万人いて、医学生は2万5000人いる。医学関係の学生総数は9万人にもなる。今、キューバは世界一の医療資本を築こうとしている。
幼稚園から、9学年までの通学率は99%。生徒一人あたり教師の多さと一学級平均の生徒数の少なさは世界一だ。国が報酬を与えながら教育する制度が17歳から30歳まである。博士課程まで、誰でも一銭も払わずに教育を受けられる。革命前の30倍もの大学卒業者、知識人、職業芸術家がいる。芸術学校で2万人の若者が学んでいる。
キューバ人民の85%は住宅の所有者で、住宅に関連する税金はタダ。残り15%は、月給の10%の格安賃料を支払うだけでよい。
キューバに行ったことはありませんが、アメリカのマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』にも出てきましたが、キューバの医療水準は高くて無料だというのですから、日本人からすると夢のような話です。国家経済は大変ですし、決して豊かな生活を人々を過ごしているということでもないようですが、安定した生活が続いていることは間違いないところでしょう。
キューバのカストロの話を一度聞いてみるのもいいことだと思い、紹介しました。
(2011年2月刊。3200円+税)