弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アジア

2009年9月 5日

ガザの八百屋は今日もからっぽ

著者 小林 和香子、 出版 JVCブックレット

 2008年12月27日、イスラエルはガザへ大規模な軍事進攻作戦「鋳られた鉛作戦」を開始した。60機もの爆撃機、軍用ヘリコプター、無人航空機が100発以上の爆弾を50以上の標的に投下した。そして1月3日、地上部隊が侵攻した。
 23日間に及んだ軍事進攻によって、1440人の死者、5380人の負傷者が出た。民間人の死傷者の半数は、女性と子どもたち。国際法で禁止されている白リン弾の使用も、民間人の被害を広げた。3554軒の家屋が被害にあった。避難民2万人以上。難民を支援する国連機関の本部ビルも被害にあった。
 日本国際ボランティアセンター(JVC)は、2002年から、ガザで子どもの栄養改善を中心に活動をすすめてきた。著者は2003年からガザで活動に従事している日本人女性です。すごい勇気です。敬服します。今後とも安全と健康に気をつけてがんばってください。
 ガザの人口は1948年に8万人。その後、20万人の難民が押し寄せ、現在は150万人。その多くは難民キャンプに住んでいる。
 度重なるイスラエルによる軍事侵攻と、厳しい封鎖政策は、ガザに住む人々を援助に依存せざるを得ない状況に追いやった。ガザは、屋根のない「巨大な刑務所」と化した。JVCは、他の国際NGO団体と共同して子どもたちの栄養改善に向けたプロジェクトに取り組んでいる。25の幼稚園の園児2500人に対して、1日1パックの牛乳と1パックの栄養ビスケットを配りはじめ、今では160の幼稚園、2万人の園児を対象としている。
 イスラエルとアラブが平和的に共存できることを私は願っています。どちらにも過激派がいて、相手を軍事的に制圧しようと考えているようですが、やはり武力ではなく、話し合いによって平和的共存の道を採るべきではないでしょうか。
 もちろん、これって、口で言うほど簡単ではないと私も思います。しかし、それしかないと言わざるをえません。 
 
(2009年6月刊。840円+税)

2009年6月 2日

ホーチミン・ルート従軍記

著者 レ・カオ・ダイ、 出版 岩波書店

 ある医師のベトナム戦争(1965~1973)というサブタイトルがついています。私が高校生、大学生そして司法修習生であったころ、あの過酷なベトナム戦争に従軍医としてジャングルのなかで戦った体験記です。先に紹介した「トゥーイの日記」(経済界)は若くして戦死してしまった女医の従軍日記でしたが、著者は幸いにもベトナム戦争を生き延びました。
 400頁近い大作ですが、東京そして秋田へ向かう飛行機のなかで、私は一心不乱に読みふけり、いつのまにか目的地に着いていたのでした。
 本書の全体を知るために、オビの解説をまずは紹介します。
 ハノイ第103病院に医師として勤務していた著者は、1965年、南の最前線であるラオス・ベトナム・カンボジア国境にまたがる中部高原戦線に特別の病院を建設する任務を命じられた。翌1966年、ホーチミン・ルートを行軍し、広大なジャングルに潜む野戦病院で医療行動を始めた。そこには、食糧・物資の欠乏、膨大な病死者そして戦死者、敵の猛襲のなかで、頻繁な病院の移転。これまで知られてこなかったホーチミン・ルートにおけるベトナム戦争の真実、ベトナム解放を戦った側の苦難の日々を卓越した観察力で描いた驚異のドキュメント。いやあ、本当に苦難、苦悩の日々です。たまりません。
 兵士が誇らしげに「インドシナを貫く戦略道路」と呼ぶホーチミン・ルートは1000キロメートルをこえる道路網からなる。ベトナム・ラオス・カンボジア国境にまたがるチュオンソン山脈の森林を縫う。1959年5月に貫通した。自動車道路があり、徒歩ルートが数キロメートル離れて並行して走っている。中継所キャンプの間隔は、徒歩で8、9時間だったが、その後5,6時間に短縮された。兵士は、自分の食べるお米を7日から12日分も携帯する。荷物を軽くしたいが、食べるものがなくなったときのことが心配だ。腹いっぱい食べたければ、重い米袋を担ぐしかない。そして、追わねばならない米があるのは幸せなのだった。
ジャングルのなかには毒キノコがあり、空腹のあまりに食べて喚き狂いながら森の中へ走り入る兵士がいた。
 ホーチミン・ルートの山と谷は、有毒な化学剤で裸になったものが多い。見事な緑の葉が数日のうちに褐色になって落ちる。
 徒歩旅行は、通常4、5日続け、その後一日休息する。休息日は水浴と洗濯だ。そのときの楽しみは将棋とラジオだ。ラジオは親友のようなもので、戦場で置き去りにすることはできない。早朝から寝るまで、誰もがラジオを終日聴く。どんな番組でも、選り好みはしない。
 ジャングルにはダニがいる。ダニを引き抜かず、尻を火に近づけると、ダニが熱さのために這い出て来る。それをつかむ。皮膚を焼かずにダニを焼くのがコツだ。
 森で道に迷うのは、初めて中部高原に足を踏み入れた者にとって恐怖の的だ。
 ジャングルが空襲されたとき、倒れていると、黒い大蛇が一匹、太さは腿ほど、竹のように長い奴が、頬をするすると這って森の中へ逃げて行った。
 ジャングルでは食料が乏しい。一か月以上も肉を食べていない。猿(テナガザル)や象を仕留めて食べる。環境保護を尊重するより、野生動物は貴重な栄養源だった。ニワトリを飼っているが、森一帯に響く雄鶏の鳴き声は、敵の注意を引くので、注意を要する。
 病院の設営にあたっては、居住部の部屋は少なくとも30メートルの間隔をとる。そして、一軒の丸太小屋に人々は6人をこえない。各科主任は別々の小屋に住む。一発の爆弾で、指導部全員を失わないための配慮だ。病院は患者で満員で、常時600人から800人いて、毎日増える。そして、マラリアで毎日4.5人ずつ死んでいく。
 食料を入れた倉庫は、20日行程も離れている。指揮官は、階級に応じてミルクと砂糖を配給された。歩兵大隊長あるいはそれ以上の中級将校はミルク2缶と砂糖0.5キログラム。中隊長以下の下級将校はミルク1缶と砂糖300グラム。普通兵士はミルクや砂糖がなく、他の品も配給が少ない。
 直面する最大の難問は、爆弾や銃弾による負傷ではなく、病気だ。中部高原はマラリアの風土で加えて食糧不足、引き続く重労働、それにアメリカ軍による有毒枯葉剤撒布の影響もあって、健康を損ねる。著者自身、マラリアにかかって震えながら外科手術を執刀した。戦場で死はたやすく忍び込む。中部高原での死因には32種類あった。多いのは、病気、爆弾、銃弾、倒木、溺死、毒蛇、毒キノコ、象、味方同士の誤射だった。爆弾、銃弾による負傷兵は、病院の患者の10%にすぎない。食糧不足とマラリアのはびこる環境による病気が多い。
 ハノイから送った1028個の梱包のうち、前線で受け取ったのは、わずか100個ほどにすぎなかった。しかも、なんと小説とか子供服といった不要不急の物が多くあった。
 森の中の少数民族は、「刀手二つの距離だ」と言う。これは、一方の手で刀を持っている間が距離を測る単位だということ。つまり、刀を一方の手で長くもっていて疲れると、一方の手に変える。これが距離の一単位となる。うへーっ、な、なんという距離の測り方でしょうか……。
 ジャングルの中でも、恋は芽生える。しかし、恋愛も結婚も、出産も、みんな延期すべし。これが政策だ。妊娠したら中絶するしかない。それでも、認められて結婚式をあげるカップルもいた……。
 「さらし者の子牛たち」。南の戦場へ行く途中で脱走し、後方へ戻される途中の若者たちを指す言葉。生涯を戦争に捧げる者がいる一方、嘘をついて逃げ、病気を過度に重くいう者がいた。うひゃあ、私なんか、この「さらし者の子牛」になった組ではないかと恐れます。
 カルテの紙がなければ、缶詰のラベルをはがして使う。竹の薄皮もつかえる。部品を集めてX線装置を組み立てる。自転車を看護師の女性がこいで、その灯で手術をする。発電機を動かすガソリンがないから、水力発電所をつくる。注射器やアンプルが欠乏したので、ガラス工場をつくる。敵の武装ヘリコプターをライフルで撃ち落とす。負傷兵に医師が自分の血を輸血する。
 すさまじいジャングルのなかの戦いが生々しく描かれています。ホーチミン・ルートの実情が、先の『トゥイーの日記』とあわせて、よくよく理解できました。よくも、こんな過酷な戦場から生還できたものです。ベトナム戦争に関心のある方に一読をおすすめします。
(2009年4月刊。2800円+税)

2009年5月16日

絶対貧困

著者 石井 光太、 出版 光文社

 アジアからアフリカまで、スラム街などの貧困地帯に体当たり取材をした著者による総集編というべき本です。改めて、問題の所在を認識させられました。
 世界リアル貧困学講義として全14回に分けて展開されます。そして内容は、スラム編、路上生活編、売春編と、三つに分かれています。いずれも、なるほど、そういうことなのか、と思わされる内容ばかりです。
 スラムの住人は、不潔なところに住むため、感染症にかかり、バタバタと死んでいる。スラムの中では免疫力のある人だけが生き残るという自然淘汰がなされている。
 5歳児未満の死亡率(1000人あたり)は、日本で4人、アメリカで8人であるのに対して、アフガニスタンでは257人、シエラレオネでは270人となっている。これって、とてもすごい、悲惨なことですね。
 大麻は、人々が公園で堂々と楽しんでいる。ヘロイン中毒者たちは物陰に隠れて吸っている。売り手はあまりもうからず、その裏にいる密売組織だけがもうかる。
 銃の価値はアフリカが一番安い。カラシニコフ(AK47)は、もとは1万円したが、今では3000円とか、ついには1000円にまで落ち込んでいる。
 しかし、スラムは決して恐ろしいところではない。スラムに暮らす9割の人が表の仕事をし、正義感を持ち、立派に生きている。スポーツだって、勉強だってしている。もし、本当に危険なところなら、著者がちょこっと行って、写真までとって帰ってこれるわけがない。なーるほど、そうなんでしょうね。でも、それにしても、著者って勇気ありますよね。
 スラムは、全体としては明るい地区ではあるが、一部の人は隠れたところで、犯罪に手を染めている。そうなんでしょうね。ただ、そこから脱出するのは大変なことでしょう。
 日本に来ているフィリピンの女性たちは、親族全員の生活を背負って出稼ぎに来ているのだから、取れるところからは徹底的に取る。本国に送金しても、その恩恵に多くの人があずかろうとして寄ってたかって吸い上げるため、これだけ稼いだら十分ということはない。だから、10年間も働き続けて、1000万円以上も送金してきたのに、本国に帰ってみたら、実家はいっそう貧しくなっていたなんてこともざらにある。うひゃあ、そ、それはたまりませんね。
 出稼ぎ労働者の多くは、背水の陣で海外に出ており、夢破れたからといっておいそれと帰れるような状況ではないので、そうした人々が外国人路上生活者として年に居着くようになる。
 ストリートチルドレンの多くは、幼いうちに死亡する。薬物による中毒死、酩酊状態のときに事故に巻き込まれる、感染症による死、栄養失調など。そして、ストリートチルドレンには、トラウマがつきまとう。
マフィアのような犯罪組織が手がける、レンタルチャイルド・ビジネスとは、赤子を誘拐して数年間は貸し出し用として使う。その子が6歳になったら、一人で物乞いさせ、儲けの全部を奪う。インドの犯罪組織は、誘拐してきた子どもに障害を負わせて、大金を稼がせようとする。障害児となった子どもたちは、共存していくために、マフィアへの恐怖や恨みをすべて忘れ去り、自分が悪かったから目をつぶされたのだと自らを納得させようとする。
 なんということでしょうか……。おー、マイガッ、です。なんてひどい話でしょう。
 アフリカでは地域によって、売春婦の9割以上がHIVに感染している。途上国では、なんとか一日2~3食を食べていくために売春するという意味合いが強い。
 貧困の現実を知るきっかけとなる本でした。目をそむけてはいけないと現実があるのだと思いました。

(2009年3月刊。1500円+税)

2009年3月 5日

ヴェトナム新時代

著者 坪井 善明、 出版 岩波新書

 私と同じ年に生まれた著者は、1968年秋にベ平連のデモに参加したとのことです。私もベ平連のデモに参加したことこそありませんが、ベトナム戦争反対を叫んで集会に参加し、デモ行進に加わったことは、数え切れないほどです。ちなみに、ベ平連とは、「ベトナムに平和を!市民連合」の略で、先ごろ亡くなられた小田実氏などが提唱して活発に活動していた市民運動団体のことです。
 ベトナム戦争が終結したのは、私が弁護士になった翌年のことでした。メーデー会場で、そのニュースを参加者みんなで喜んだものです。アメリカがベトナムに50万人もの兵隊を送るなんて、考えられませんよね。ところが、イラクと違って、アメリカは短期間でベトナムを征服し、支配するどころか、ジャングルでの戦いで消耗させられ、5万人以上の戦死者を出し、結局、みじめに敗退していったのでした。アメリカ大使館らしき建物からヘリコプターに必死につかまって逃げていくアメリカ兵たちの映像が強烈な印象として残っています。そして、アメリカを追い出したベトナムがどうなったのか、が問題です。私も、ベトナムには最近一度だけ行ったことがありますので、この本を大変興味深く読みました。
 2007年にベトナムを訪問した外国人のうち、アメリカ人が一番多かった。その中には、ボートピープルとしてアメリカに政治亡命した旧「南」政府関係者の子弟で、アメリカ国籍をとり、ビジネスで活躍している多くの「ベトナム人」が含まれている。いわゆる越僑(えっきょう)である。彼らは武器を持ったアメリカ軍兵士としてではなく、インテルやマイクロソフトなどのIT産業や銀行、投資会社のようなビジネスマンとして大挙してやってきたのだ。
 ベトナム政府としても全世界の越僑管理システムを作り上げたことによる。ベトナム戦争終了後、32年たって初めて、越僑が正式に帰国して定住することが認められた。
 越僑は、2006年には実質100億ドルにおよぶお金を祖国ベトナムへと送っている。
 ベトナムの国際的なイメージを改善するのに役立った2つの大きな政策があった。一つは、1988年1月に施行された外国投資法。外国法人の投資を奨励するための法律。もう一つはカンボジア和平の実現である。
ドイモイ政策が軌道に乗るまでは、赤ちゃんの栄養状態が悪く、小さく、やせ、あまり笑顔を見せず、泣き声にも元気がなかった。ミルクが足りなかった。ところが、ドイモイが軌道に乗ると、ミルクが市場にあふれるようになり、赤ちゃんが元気な笑顔を見せるようになった。今では肥満児問題がベトナムでも目立つようになった。ベトナムに行くと、活気にあふれていて、若者の国のように思えます。。
 2005年8月から、ベトナムの二人っ子政策は廃止され、法律上は子どもは何人でも持てるようになった。
 1990年ころから、アメリカの退役軍人会の一部に、北ベトナム兵士に対する評価が、イデオロギー色の強い、打倒すべき共産主義者だという従来の見方から、同じ戦場で闘った人間同士という具合に微妙に変化した。
 戦場で死んだベトナム兵の日記や手紙がアメリカで翻訳され、それがアメリカで読まれ、戦場では敵味方に分かれて闘った相手だが、兵士としての心情は共通であることがアメリカ人にも理解できたのだ。これが、アメリカとベトナムの国交正常化反対運動を抑制する要因の一つになった。
 ベトナム共産党は、非常に実用的(プラグマティック)な態度をとる政党である。小国であるがゆえに、国際社会の力学に弱く、自国に有利になると判断できる強い国に付いて安全を図るという態度が徹底している。経済発展、つまり豊かになることが権力維持のためにも絶対視されて、理念や理想は省みられなくなり、ひたすら経済発展つまり権力維持という目標を追う集団になっている。理念の欠落という致命的な知的弱さがある。
 共産党指導部の構成は、軍と公安が強い勢力を持っている。公安相は序列2位にあり、160人の中央委員のうち、軍人が18人(11%)、公安が7人(4%)を占めている。
 ベトナムの国会議員には、専従議員と非専従議員の2つあり、圧倒的多数は非専従議員である。専従議員でも、月給3万円ほどでしかない。
裁判官の身分保障は十分ではない。裁判官の人事権は司法省が握っているため、政府や党の気に入らない判決を書いた裁判官は、その後、不利な扱いを受ける危険がある。
 南北の「しこり」は今も解消されていない。「北」の勝者、「南」の敗者という政治的な関係が厳然として存在する。ところが、南部は北部よりますます豊かになり、その格差は4倍から6倍に広がっている。これが「南」の人々の復讐心を満足させ、「北」の嫉妬や対立感情を刺激している。
 若い世代の中で、党員を志願する人は極端に少なくなっている。現在、共産党員は
350万人いて、これは人口8500万人の4%を占める。「南」では党員になることを、一種の裏切りと考える風潮が根強く残っている。「北」は、「南」を占領した敵だと考えている人にとって、共産党員になることは、敵陣営に移ることと見えるのだ。
 いま、ベトナムでは、日本の存在感は薄く、韓国の進出が目立っている。テレビでは韓流ドラマが大流行している。韓国人がホーチミン市に3万人、ハノイに2万人いる。これに対して日本人は2500人ずつほど。また、ベトナム観光に出かける日本人は年間41万8000人(2007年)。ところが、日本語を勉強しているベトナム人は3万人を超える。ちなみに、日本にいるベトナム人留学生は2500人ほど。
 ベトナムは通用している紙幣をオーストラリアに委託して印刷してもらっている。鉄も、ほとんど生産していないし、石油精製プラントもない。
 ベトナムの表と裏をのぞいた気分になりました。まだまだ大きな難問をいくつもかかえているようです。それにしても、私が行ったときのベトナムの活気溢れる町の様子には圧倒されました。目の離せない国です。

(2008年8月刊。780円+税)

2008年11月19日

トゥイーの日記

著者:ダン・トゥイー・チャム、 発行:経済界
 私は始めから終わりまで涙なくして読み続けることができませんでした。だって、あのベトナム戦争を戦っていた英雄的なベトナム青年による命がけの日記なのですよ。心が震えるほどの感動を久しぶりに味わいました。
 私の大学生のころ、「ベトナム侵略戦争、反対!」という叫びを何度あげたか、数え切れません。いくつもの大小さまざまの集会に参加し、デモ行進をしました。夜の銀座通りいっぱいに広がったフランスデモをしたときは感動に胸が震えました。アメリカ帝国のベトナム侵略戦争に反対しようという呼びかけは私の心を奮い立たせるものでした。
 ベトナム戦争が終わったのは、私が弁護士になった年か、その翌年4月のことでした。メーデーの会場で先輩弁護士たちと喜んだことを思い出します。
 この本は、北ベトナムに生まれ育った若い女性が、医師として南ベトナムへ志願して出かけ、ついにアメリカ軍に殺されてしまうのですが、その若き女医さんが毎日書いていた日記を、敵のアメリカ兵がこっそりアメリカに持ち帰って大切に保存していて、35年後にベトナムの親へ送ったことから、ついに活字になったという経緯で作られたものです。
若き女医さんは、森の中の診療所がアメリカ軍に発見されようとしたとき、1人で120人のアメリカ兵を相手にして戦い、額に銃撃されて死んでしまいました。でも、そのおかげで診療所の人々は助かったのでした。そんな勇ましい女医さんが、実はこまやかな感情とともに生活していたことが本当によく分かります。
 日記は、1968年4月に始まります。私が東京で大学2年生になった時期です。トゥイーは、このとき25歳ですから、私より6歳うえになります。トゥイーは、2年前の1966年12月にハノイを出発し、ホーチミンルートと呼ばれていた山道を3か月のあいだ歩き続けて、南のクァンガイに着きました。
 生きていくうえで、謙虚な気持ちは大切だけれど、自信や自主性も備えていなければ。正しいことをしているのなら、自分自身に誇りを持つこと。
戦争は依然として続いている。毎日、毎時、毎分、手のひらを返すように、いとも簡単に人が死んでゆく。誰かに愛されて生きてきた大切な命がいとも簡単に失われていく。
 みんな、今のこの光景を思い出してほしい。この解放事業のために血を流し、犠牲になった人たちのことを記憶にとどめてほしい。私たちの国土に悪魔が住み続ける以上……。
 そしてトゥイーは、アメリカ軍と戦う味方の陣営にもさまざまの弱点があることも書いています。解放後のベトナムで幹部の汚職が絶えないようですが、それは壮烈な解放闘争の中でも同じようなことは起きていたというわけです。
 人の心臓は赤い血ばかりではなく、半分はどす黒い血で満たされているらしい。だから、人の頭の中も、快活で聡明な面と暗く卑怯な面があるのだろう。
 何より悲しいのは、こんなひどい日常の中で、公平な行為がなされないこと。党員の名誉を汚し、診療所のみんなの意欲を損なわせる卑劣な行いがあるのに、誰も対抗できないでいる。
 トゥイーは、戦場で長年の恋人と別れてしまいます。しかし、心の中ではずっと割り切れない思いを引きずるのです。日記にそのことが何度となく書かれます。それがまたトゥイーの人柄に親しみを感じさせます。
 「さよなら。いつかキミはキミにふさわしい恋人が現れるだろう。でも、これだけは言える。この世でボクほどキミを愛した人はいない、と」
 おそらく、この言葉は本当だろう。でも、私は後悔していない。だって、あなたを愛していないのに、あなたの高尚な愛を受け入れることなんてできないから。でも、今では私はあなたを大切に思っている。あなたと、もう一度やり直したい。
 ここには、トゥイーの揺れ動く心が如実に表れています。
 戦争は、あまりにも残酷だ。今朝、リン爆弾で全身を焼かれた患者が運ばれてきた。患者の身体はまだくすぶって、煙がたちのぼっている。20歳の少年だ。かつての愛らしい少年の面影は残っておらず、いつも楽しそうに笑っていた真っ黒な目は、ただの小さな二つの穴にすぎない。その姿は、まるで、オーブンから出されたばかりのこんがり焼いた肉塊のようであった。
 この3ヶ月で診療所はアメリカ軍から4回の襲撃を受けた。
 大雨の中、壕にもぐって1時間あまりたった。雨水がだんだん増えて、水面は胸元に届くまでになった。寒さに震え、ついに耐えきれなくなって外に出た。
 このとき、トゥイーは、これは、まるでパリの下水溝の中を進んでいるマリウス(『レ・ミゼラブル』)のような気になった、と書いています。
 私の青春は、戦火の中で過ぎた。戦争は、若さと愛でいっぱいだったはずの私の幸福を奪っていった。20代なら誰だって青春を謳歌したい、輝いた瞳とつややかな唇でありたいと思う。しかし、今の20代は、幸せになりたいという当たり前の願いさえ捨て去らなければいけないのだ。
 私の青春は、大勢の人たちの血と汗と涙がしみている。
 私の青春は、厳しい試練の中で鋼のように鍛えられている。
 私の青春は、日ごとにつのる怨恨の炎の中で熱く激しく燃えている。
 私の青春は、それでも私の青春は、私を見ていてくれる誰かがいれば、夢と愛の色に染め上げられる。
 トゥイーがこのような壮絶な心の叫びを日記に書き付けたとき、私は20歳になっていました。申し訳ないことに、平和のうちに夢と愛の色に染め上げられていました。
 トゥイーがアメリカ軍に殺されたのは、日記の最終日(1970年6月20日)の2日後のことでした。母と妹が、額の真ん中にぽっかりとあいた銃跡を確認しています。
 そして、この日記は、アメリカ軍の情報部に届けられ、点検された結果、軍事的価値はない不用品として危うくドラム缶に投げ込まれようとしたのです。そのとき、ベトナム人通訳がそれを止めました。「それは焼くな。それ自体が炎を出している」と言って……。
 アメリカに持ち帰ったホワイトハースはFBIで働くようになり、FBIを内部告発して退職しました。そして、ベトナム女性と結婚した弟に日記を渡して、この日記の価値を理解したのです。35年ぶりにはるか南の地で戦死したわが娘の日記に対面した母親の驚き、悲しみ、また喜びはどれほどのものだったでしょうか。
 ベトナムで本になって出版されると、43万部を売り上げる大ヒットになりました。ベトナム戦争の真実を、ベトナムの若者が知ることができたのです。
 日本語に翻訳し、出版してくれたことに心から感謝します。かつてベトナム戦争に反対した多くの日本人に読まれることを願います。
 私は、布団の中に入ってからも、この本を思い出して涙が止まりませんでした。2年分の日記を読んで、すっかりトゥイーに感情移入していたからです。アメリカ軍に殺されてしまった夢多き若き女医さんの悔しさが、自分のものであるかのような思いに駆られたのです。
(2008年8月刊。1524円+税)

2008年8月 8日

ブータンに魅せられて

著者:今枝由郎、出版社:岩波書店
 ブータンは小さな王国。人口は60万人。国土の72%は森林で、20%は万年雪に覆われている。農耕地は8%しかない。ブータン人口の5人のうち4人が農業で生計を立てている。
 ブータン国立図書館は、民家としては大きいといえる程度のごく普通の木造2階建て。中には経典が山積みにされているが、多くはない、目録もなかった。図書館員は堂守で、図書館長は僧正である。
 チベット仏教の伝統は、師資相承で伝えられるのが原則であり、お経は自分で勝手に選んで読むものではない。先生が弟子の資質を見きわめて、このお経なら理解できる、あるいはこのお経を学習すべきであると判断して初めて、弟子にそのお経を授けて学習させる。ブータンでは、お経が死蔵されることなく、生きている。
 ブータンは、つい最近まで、かたくなに鎖国を続け、一度も外国の植民地になったことがなく、現在でも小さいながらも独立国家として近代化の道を着実に歩みつつある。だから、ブータン人は外国人に対して何のコンプレックスも持っていない。
 ブータンでは、少なくとも女性が従属的でなければならないという社会的通念が非常に薄い。そもそも隷属的な地位を経験したことのない、自然な奔放さがある。
 田畑も家も、すべて女性のもので、男は外部から来て、労働と生殖に関わるだけである。これがブータンの女系社会である。ブータンの家では、女性のほうが実権をもっている。
 財産はすべて女性のものだし、男性は労働力の一部でしかない。男は、よく家から放り出される。離婚率も高い。
 ブータン人は決して排他性がなく、異文化に対して非常に寛容である。
 ブータンには、ネパールのようなポーターを生業とするシェルパはいない。
 ブータンの国王は、農民を登山隊のポーターとして徴集することを禁じた。ブータンの国会は、登山永久禁止条例を発令したので、ブータンの7000メートル級の山々は、今でも世界の例外として未踏処女峰のままである。ふむふむ、なるほど、そうなのですか。
 ブータンの特徴は、農家の一軒一軒がかなり離れて建っており、集落がないこと。
 ブータンは、チベットからの政治亡命者によって打ち立てられた国家のようなもの。インドとブータンの優劣関係は明らかで、一種の不平等条約だ。ブータンはインドの属国ではないが、完全にインドに依存していて、少なくとも経済的には自立していなかった。GDPではなく、GNH。国民総幸福という指標がある。人生の充足度を計ったもの。これによると、1位はデンマーク、2位はスイス、3位がオーストリア。ブータンは8位。アジアでもっとも幸せな国にランキングされている。ちなみに日本は、178ヶ国のうちの90位。
 ブータンは時間がありあまっているから、時間を世界に輸出したらどうか。これは、通産省の産業振興会議で出された意見だそうです。うひゃあ、そんな・・・。びっくりしますね。ブータンという、おおらかな国民のゆったりと時間の流れていく国の姿を少しだけ知ることができました。それにしてもGNHという指標はいいですね。そして、日本が世界の中くらいでしかないというのは残念でなりません。まあ、そうなんでしょうね・・・。
 物質的豊かさは必ずしも幸福を意味しないということですよね。アメリカなんて、GNHでみると最低のほうでしょうね、きっと。
(2008年3月刊。740円+税)

2008年6月 5日

ポル・ポト

著者:フィリップ・ショート、出版社:白水社
 不気味な響きのする人名です。あの忌まわしいカンボジア大虐殺を起こした張本人です。
 ポル・ポトは、いろんな名前を持っていました。サロト・サルは本名です。「サルの有名な微笑み」という言葉があります。この本の表紙にもなっていますが、会った人を自然に信用させるにこやかな笑顔です。これで多くの人が結果的に騙されたわけです。
 フランスから戻ってきたサロト・サルは私立学校(高校なのか大学なのか分かりません)で歴史とフランス文学を教えていました。生徒たちは親しみやすい、この教師(サロト・サル)のとりこになったというのです。
 人口700万人のうち150万人がサロト・サルの発想を実現しようとして犠牲になった。処刑されたのはごく少数で、大半は病死、過労死または餓死だった。自国民のこれほどの割合を、自らの指導者による単一の政治的理由による虐殺で失った国は他にない。お金、法廷、新聞、郵便、外国との通信、そして都市という概念さえ、あっさり廃止されてしまった。個人の人権は、集団のために制限されるどころか、全廃されてしまった。個人の創造性、発意、オリジナリティは、それ自体が糾弾された。個人意識は系統的に破壊された。
 サロト・サルは、フランスにいて、最後までフランス語を完全には身につけられなかった。サロト・サルがパリに到着した1949年10月1日は、毛沢東が北京の天安門に立ち、中華人民共和国の設立を宣言した日でもあった。
 サロト・サルは、フランス共産党に加入した。そこでは、元大工見習いで、学歴の低いことが、むしろ評価の対象となった。
 1953年1月に、サロト・サルは帰国した。サロト・サルたちは、みな共産党員のつもりだったが、どの共産党かは分からなかった。インドシナ共産党はベトナム人が支配していた。クメール人民革命党にかわるカンボジア共産党の再結成をめざした。そこで、自称として党ではなく革命組織(アンカ・パデット)と叫んだり、ただアンカ(オンカーとも訳されます)と叫んだりしていた。
 クメール語で「統治」とは、「王国を食いつぶす」という訳になる。シアヌークは、大臣、役人、廷臣、昔なじみ、彼らの汚職をやめさせることも、まして解雇することもできなかった。
 マルクス主義の書物をクメール語に翻訳するという真剣な取り組みがなかったのも、クメール文化が口承に重きを置いていたため。
 シアヌークが失脚してからの2年間、地方におけるクメール・ルージュの政策が人目をひいたのは、主として、その穏健さのため。
 革命への反対は死を意味していた。革命に反対を示した人は、地域の司令部に召喚されたきり、帰ってこないことがほとんどだった。
 革命からそれた人間は、みな害虫だから、それにふさわしい扱いをすれば足りる。これは中世キリスト教の教義に通じるものがあった。
 カンボジア人は、もともと極端なことに魅力を感じる。フランス革命を途中でやめるべきではなかったというクロポトキンの言葉は、パリで学生生活を送っていたポル・ポトに強い影響を与えた。毛沢東さえもクメール・ルージュの水準にまでは至らず、賃金と知識と家庭生活の必要性を認めていた。カンボジアの共産主義者たちは、だれも到達したことのない領域へ進もうとしていた。
 あの人もゼロ、あなたもゼロ。それが共産主義だ。キュー・サムファンは述べていた。財産が有害であるという思想は仏教の天地創造神話に由来している。
 うひゃあ、そんなー・・・。これって、人間の幸福って何かということをまったく考えていない思想ですよね。信じられません。
 1975年の時点で、カンプチア共産党の存在はまだ秘密にされていた。謎に包まれた「アンカ」が、実は共産主義組織かもしれないと公式に匂わされるまでには、さらに1年を要した。国内の党員数は1万人以下だった。
 生かしておいても利益にならない。殺したところで損にならない。
 むひょう、こんな言葉がポル・ポト時代のカンボジアで通用していたのですか・・・。
 人は耕した土の面積で、その価値が測られた。人々は見習うべき雄牛と同じく、エサと水を与えられ、飼われて働かされる消耗品だった。
 人々は、「わたし」ではなく、「わたしたち」と言わなくてはならなかった。子どもは親をおじとおばと呼び、それ以外の大人を父か母と呼んだ。すべての人間関係が集団化された。個体を区別する言葉は抑圧の対象となった。
 1976年以降、ポル・ポト1人が決断を下していた。集団指導体制ではなかった。ポル・ポトは一挙両得をねらっていた。疑いのある分子をすべて抹消した。不純物のない純粋で完璧な党を手に入れると同時に、来るべきベトナムとの闘いに備えて全人口を団結させたいと考えていた。
 1979年1月に民主カンプチアを崩壊させたのはポル・ポトが秘密主義にこだわったから。どうしてもカンボジア国民に事態を告げることができなかった。
 ポル・ポトは、9月からベトナムの侵攻が時間の問題だと知っていた。しかし、非常事態計画を策定しなかった。不信が慣行となったポル・ポト政権が人民を、軍隊でさえ、信用することはありえなかった。ポル・ポトの中枢以外は、誰も十分な情報を与えられなかった。
 日曜の朝までにポル・ポトら民主カンプチアの統治者たちはひそかに首都プノンペンを去り、放棄した。4万人の労働者と兵士たち、そして周辺に駐留していた軍の部隊は指導者もなしに取り残され見捨てられた。メンバーを失っても、指導部を維持すれば、引き続き勝利をおさめることができる。一般人は使い捨てにできるという定理はクメール・ルージュの慣行だった。
 1979年1月の時点では、圧倒的多数のカンボジア人にとって、ベトナム人は救済者に見えた。代々の敵であろうとなかろうと、クメール・ルージュの支配があまりにもひどかったために、それ以外なら何でもましだった。しかし、人々の感謝は長続きしないものだった。数ヶ月のうちに、ベトナム人は感謝されない存在になってしまった。
 ポル・ポトが死んだのは1998年。心不全のために就寝中に死んだ。現在のカンボジア政府の最高権力者のフン・センとチェア・シムは、いずれも元クメール・ルージュだ。
 まったく無慈悲で冷酷で人間的な感情をもちあわせていないと評される人物である。
 ポル・ポトはカンボジアの招いた究極の設計者だ。しかし、単独行動したわけではない。カンボジアの最高にしてもっとも聡明な知的エリートの多くが、ポル・ポトの示した抗争を受け入れたのだ。
 読んでいるうちに大変気分が重たくなる本です。700頁もの大部な厚さがあります。
(2008年1月刊。6800円+税)

2008年4月25日

インド

著者:堀本武功、出版社:岩波書店
 富豪の数でもインドの躍進はすさまじい。2007年度版の世界長者番付は世界の富豪(10億ドルつまり1200億円以上の資産家)946人をランク付けしているが、インド人はそのうち36人を占め、アジア1位の座を獲得した。日本は、これまでアジア一位を占めてきたが、今回は24人でしかない。日本人トップの孫正義は129位で、インド人のトップは5位。
 海外に印僑は2000万人いる。その1割はアメリカにいる。インド系アメリカ人は 230万人いて、アジア系では、最大の人口増加率にある。
 冷戦期に大学教育を受け、印米関係が最悪だった時期に青春時代を過ごした40歳以上のインド人のインテリには、社会主義への親近感とともに、反米的傾向が顕著だ。
 インド経済の成長にともなって、自動車などの耐久消費財を購入する余裕をもつ中間層が急速に増加している。アメリカの総人口に匹敵する3億人の中間層がいるとアメリカのブッシュ大統領は言ったが、それほどでなくても、2億人には近い。それにしても多いですよね。中間層だけで日本の総人口より多いのですからね。
 インドのITサービス産業は70万人を直接雇用し、250万人に間接的な雇用を提供している。
 インドのITサービス輸出額の7割はアメリカ向けである。
 インドの農村に貧困者が2億人近くもいる。問題は、現在も3億人は読み書きができないということ。うむむ、これって、大問題ですよね。
 しかし、人口増加がインドの強みである。インドでは、24歳以下の人口が全体の半分(54%)を占めている。圧倒的に多い若年層は、豊富な労働力であり、今後とも、インドの長期的な成長を支えていくだろう。
  インドの選挙では、替玉投票、投票済み投票箱の強奪、差し替えなどの不正が日常茶飯事である。候補者殺害事件も起きる。議員の質も低下している。国会議員の4分の1(136人)が犯罪歴をもつ。しかし、そうは言っても、インドは世界最多の有権者をもつ。有権者が6.7億人もいて、世界最大の民主主義国でもある。
 テレビは120チャンネルもある。
 今、世界的に注目されているインドについての基礎的な知識を得られる本です。しかし、それにしても、インドのミタル製鉄がヨーロッパの製鉄会社を吸収合併してしまい、日本の新日鉄まで併合のターゲットになっているというのですから、恐るべき変化です。
(2007年9月刊。1000円+税)

2008年4月11日

ビルマとミャンマーのあいだ

著者:瀬川正仁、出版社:凱風社
 正直言って、この本を読む前には、ちっとも期待していませんでした。また、どうせ観光案内に毛のはえた程度のおじさんの探訪体験記くらいになめてかかっていたのです。ところが、どうして、どうして、ふむふむ、なるほどなるほど、そうだったのか、とうなずきながら興味深く一気に読みすすめてしまいました。
 ビルマには2つの顔がある。一つは、人々をトリコ(虜)にする微笑(ほほえみ)の国・ビルマ、底知れぬ優しさにあふれた顔。もう一つは、軍隊や秘密警察が生活の隅々まで目を光らせている軍事独裁国家・ミャンマーという顔だ。
 ただし、ツァー旅行に参加して、お寺めぐりと川下りだけを楽しんでいるだけでは、この現実は体感できないだろう。この本を読むと、そのことが実感として伝わってきます。
 バーマもミャンマーも、もともとは同じ意味の言葉だ。バーマは口語的で、ミャンマーは文語的だというだけのこと。
 首都だったラングーン(ヤンゴン)は、人口600万人。2006年、突然、首都はネピドーに移された。ヤンゴンは、ビルマ語で戦争の終わりを意味する。1757年、長年の宿敵モン族に打ち勝ってビルマを統一したアラニパヤ王によって名づけられた。
 ラングーン市の中心部に高さ98メートルの黄金の仏塔シュエダゴン・パゴタがある。仏塔の全面に張りめぐらせてある金箔の総量は10トン以上。これは、イギリス統治時代の大英帝国が保有する金の総量を上回っていた。仏塔の上部に埋め込まれているダイヤは2000カラットをこえる。ルビーやサファイヤなどもあり、お金に換算したら、ビルマの全国民を30年間養えるほどの額になる。
 ビルマでは、その昔、1週間を8日ごとに区切る8曜日となっていた。今は、もちろん7曜日。だから、水曜日を午前と午後とで分けている。
 ビルマ人は、とても読書好きだ。慢性の電力不足のため、テレビはあまり普及していないし、政府系のテレビ局しかないからだ。
 ビルマ政府は外国人を絶対に立ち入らせないブラック・エリアのほか、許可をもらって初めて行けるブラウン・エリア、誰でも自由に行けるホワイト・エリアの3つに分けている。
 ビルマでは、輪廻転生(りんねてんしょう)を信じている人が多い。教養ある女性が次のように言った。あの人たち(政府高官)は、前世で立派な行いをしていたのでしょう。だから、現世では、いい暮らしができるのよ。でも、来世はないわね。地獄におちるか、虫けらに生まれるわ。
 かつて覇権を争ったビルマ民族は今3000万人。モン民族はわずかに100万人(ただし、モン民族によると400万人)。
 しかし、ビルマ民族にとって、モン民族は煙たい存在だ。タトン王宮、シュエダゴン・パゴタなど、有名な遺跡は、ほとんどモン民族の文化遺産なのである。
 行ってみたいような、行くのが怖いようなビルマ・ミャンマーです。
(2007年10月刊。2000円+税)

2008年4月 4日

日本軍はフィリピンで何をしたか

著者:戦争犠牲者を心に刻む会、出版社:東方出版
 昨年11月にフィリピンに行ったので、読んだ本です。
 アジア、太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻むという課題で開かれた集会(1989年8月)の記録集でもあります。
 戦前にフィリピンで流通していたペソは3億。ところが、日本軍が占領してからは、軍票が大量に発行されたため、65億から110億にも達した。20倍だ。日本軍は物の裏づけのないおもちゃ(ミッキーマウスと呼ばれた)として軍票を発行し、多くのフィリピン人を苦しめた。
 1945年1月31日にアメリカ軍はバタンガス州の海岸に上陸し、翌日には空挺部隊がタガイタイに降下した。
 先日のフィリピン旅行では、このタール湖畔のタガイタイに行きました。高原の高級避暑地だという前宣伝でしたが、まったくそのとおりでした。
 日本軍は敗退するなかで、フィリピン人の大量虐殺を行っていきました。
 「おい田辺、思い切ってやってみせろ。責任はこの藤重がもつ。後世の人間が、世界戦史をひもといたとき、誰しもが肌に泡立つ思いがするような虐殺をやってみせろ」
 口を閉じた藤重兵団長は、田辺大隊長に視線を当てたまま薄く笑った。
 彼らは、戦火のもとで死に、罪を一身に負い、刑場の露と消えた。
 うむむ、ぞくぞくする会話です。肌が粟立ちます。
 フィリピンのレイテ島のパサールに銅製錬所がある。1983年、マルコス大統領の時代、妻イメルダの生まれ故郷に移転して操業を開始した。このパサールには、リン酸アルミナなどの化学コンビナートがあり、その3分の1が日本の勝者による共同出資となっている。そこに、ODAの一貫として地熱発電所がある。この電力は、パサールのコンビナート、日本の技術と出資によるコンビナートのために使われている。日本のODAで建てた発電所を日本の企業のためにつかっている。そして、レイテ島には公害(汚染)を残す。
 実は、私は、その現地に日弁連の視察団長として出かけました。1989年8月のことです。今から20年近く前のことになります。そのレイテ島は今どうなっているのでしょうか。泊まっていたタクロバンは、台風被害にあったりして、大変だったようですが・・・。現地ではカトリックの神父さんに案内してもらいました。お元気でしょうか。
(1990年5月刊。1300円)

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