弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
アジア
2019年3月31日
出稼ぎ国家フィリピンと残された家族
(霧山昴)
著者 白石 奈津子 、 出版 風響社
私の住む町にもフィリピン人女性はたくさんいます。以前は夜のショーパブなどに多く見かけました。今は、夜のにぎわいがかつてほどではなく、私も行かなくなったので、どうなのかよく分かりません。フィリピン人に代わって増えたのがベトナム人やネパール人です。
この本は、出稼ぎ大国とも言うべきフィリピンの実情を紹介しています。
10%。これは、フィリピンの全人口のうち、移民として海外に流出している人々の割合。そして、フィリピンのGDPにおいて、出稼ぎ者からの送金の占める割合でもある。
いやあ、すごい数字ですよね、まさしくフィリピンは出稼ぎ国家です。
そして、日本にいるフィリピン人は25万人。これは、中国、韓国の次に3位を占める。フィリピン人の1023万人が海外で生活している。1位のアメリカに350万人、2位はサウジアラビアで150万人。アラブ首長国連邦とマレーシアに各80万人、カナダに70万人。
毎年の出国者数は200万人。その渡航先の80%はアジア圏。
フィリピンでは、どこに行くにもカサマが必要であり、独りでいるのは好ましくないこととされている。カサマとは、「連れ」、誰かが一緒にいて、行動している状態をさす。
フィリピンは7000以上の島々から国土が成り立ち、10の主要言語があり、さらに100以上の地域言語、少数言語が存在する。
低地キリスト教徒であるマジョリティ集団がタガログと呼ばれる人々。ただ、フィリピンの人口全体のなかでタガログ言語者は30%ほどでしかない。
マンヤンとは、先住民として異質な人々とされる。タガログがマンヤンを草刈、稲などの収穫、建設現場での土砂運搬などで労働力として扱っている。
出稼ぎ国家フィリピンの実情を教えてくれる40頁ほどのコンパクトなブックレットです。
(2018年10月刊。600円+税)
2019年3月10日
越後のBaちゃん、ベトナムへ行く
(霧山昴)
著者 小松 みゆき 、 出版 2B企画
80歳すぎの母親、しかも認知症の母親を遠くベトナムに連れていって一緒に住んだ日本人女性の奮闘記です。
当然、周囲からは大反対されました。でも、この本を読むと、たとえ、要介護3の認知症であっても、そのプライドを尊重し、しっかり対応すると、それなりに外国にも適応して生活できることがよく分かります。
「オラ、幸せもんだのお」「屋根の雪も心配しねで、ほっけんどこでゆっくり休ましてもらってそう、みんな、たまげてるだろう。何の心配もねえかんだが」
認知症であっても、「知りたい」という気持ちは強いし、その場の会話はまともだ。ただ、記憶が飛ぶこと、忘れ、思い違い、思い込みはある。
「みんな、よく働くのお。越後衆は働きもんだと思っていたが、ベトナム衆もよく働くんだのおい。棒の先っちょに籠さげて。若い娘が重いみかんやリンゴを乗せて、ひょいひょい道を泳ぐように渡ってえ」
「としとると嫌だのう。目やにだ、ヨダレだ、ダラダラ流れるんがのお」
Baちゃんは、ベトナムで、日本の時代劇のビデオを何度も繰り返して楽しんだ。認知症のありがたいところは、何度見ても「今が初めて」なので認知症さまさまだ。とても家族は助かる。
ベトナムには老人ホームがない。また、それをつくる動きもない。みな家庭まかせだ。
「オシン」と呼ばれるお手伝いさんを雇っている家が多い。「オシン」は、日本のテレビドラマの「おしん」から来ているが、「オシン」はベトナム語として定着している。うひゃあ、これには驚きました。今でも、そうでしょうか・・・。
ベトナムでは、子どもと老人は何をやっても多めに見てもらえることが多い。
老人に対して、みんな優しい。
「スッポンが時をつくる」。これは、ベトナムで、世にあるはずのないことのたとえだ。
ベトナムではバナナはどこの家にもあり、年中食べられるものなので、お土産につかうものではない。
団塊世代の著者がベトナムで日本語教師をしながら、80代の実母を新潟から呼び寄せて一緒に生活した様子が生き生きと紹介されています。
実は10年以上も前の本で、本棚の奥に積ん読状態になっていたのを、前から気になっていたので、人間ドッグ(1泊)のときにホテルで読了したのでした。読んで楽しく、心がほんわか温まりました。
(2007年6月刊。1334円+税)
2018年3月31日
だから、居場所が欲しかった
(霧山昴)
著者 水谷 竹秀 、 出版 集英社
タイのバンコクのコールセンターで働いている日本人を取材した貴重な労作です。
日本企業は、いま経費削減のため、電話による受注業務を海外に移転させている。経費が日本よりも3分の2ほどに圧縮できる。なぜか・・・。タイのコールセンターは、最低賃金が適用されず、賃金が最低ラインよりも低く設定されている。それでも、タイの物価は日本の3分の1から5分の1ほどなので、十分に生活できる。なにしろ、衣服費がかからないし、食べ物は日本人好みのものが安くて美味しい。
コールセンターは、時差の関係で、午前7時に始まり、1時間に平均5件、1件につき10分ほど対応する。8時間勤務だと1日40件に対応する。あるコールセンターでは日本人オペレーターが110人、平均年齢は30代前半、男女比は半々。
コールセンターの仕事は時間ぴったりに終わり、ノルマの残業もない。単価の安いタイでは、月に3万バーツもあれば普通に生活できる。コールセンターは大手2社で計300人。小さいコールセンターをふくめると合計500人ほど。こんなに大勢の日本人が働いているのですね、知りませんでした。
ところが、コールセンターで働いているというのは、日本人社会ではイメージが悪く、一段低く見られてしまう。
タイに進出している日系企業は、4500社(2015社5月現在)。タイには日本人は6万7400人。これは、アメリカの42万人、中国の13万人、オーストラリアの8万9000人、イギリスの6万8000人に次いで多い。シンガポールの3万7000人を大きく引き離し、イギリスを抜く勢いで増えている。
駐在員の給与は年収1000万円ほど。現地採用者(ゲンサイ)は、駐在員の5分の1から半分ほどでしかない。
タイにはフィリピンに次いで困窮邦人(日本人)が多い。2015年の外務省の統計では、フィリピンに130人、タイは29人いる。
そもそも日本で出来ることのなかった人がタイへ渡り、タイで出来る仕事がないのでコールセンターで働く。行くも地獄、帰るも地獄。
タイの観光街に日本人男性が群がっているという話は有名です。それは今もあるようですが、この本では、同じように日本人女性がゴーゴーボーイと呼ばれるタイの若い男性を買っている実情をレポートしています。ゴーゴーボーイの大半は貧困層の出身で、若いイケメンを求める日本人女性との間で利害が一致する。バンコクであれば、それほどの大金を積まなくても、狙った獲物を自分の好き放題にすることができる。ゴーゴーボーイの3割はゲイとされ、訪れる客の多くもゲイ。タイでは、コンビニとかスーパーに行けば、1人くらいはニューハーフがいるので、一般の人は免疫ができている。そこが日本とは違っている。
日本の社会で異端児扱いされることが多かったので、居場所が欲しい人がバンコクへやってくる。自分のことを認めてくれる環境を探し求めていた。他人に好かれ、嫌われないような人間でありたかったという人たちだ・・・。日本社会は生きづらい。しかし、そもそも、こんな日本社会に順応する必要があるのか・・・。
世の中には知らないことがあまりにも多いということを、またまた思い知らされました。
(2018年2月刊。1600円+税)
2018年2月21日
海のホーチミン・ルート
(霧山昴)
著者 グエン・ゴック 、 出版 富士国際旅行社
私にとってベトナムとは、青春時代のベトナム反戦運動そのものです。アメリカが遠くアジアのジャングルへ50万人もの兵士を送り込んで侵略戦争をすすめたあげく、みじめな姿で敗退していったことは今も記憶に強く残っています。
国の独立を守るために多くの前途有望なベトナムの青年たちが志半ばに倒れてしまいました。同じことは、亡くなったアメリカ兵5万5千人についても言えることです。まったくの無駄死にです。この戦争でもうかったのはアメリカの軍事産業のみ。
この本は、ベトナム戦争をたたかい抜くために必要不可欠だった山のなかのホーチミン・ルートのほかに海上輸送路もあったことを明らかにしています。漁船に偽装して、北から南へ武器・弾薬そして医薬品などを運んで、南でたたかう解放戦線の兵士に届けていたのでした。
山のなかを通るホーチミン・ルートは、車道だけで2万キロ。燃料を運ぶパイプラインは全長1400キロ。アメリカ軍は、このホーチミン・ルートを壊滅すべく、空からB52をふくむ爆撃機で、400万トンの爆弾を投下した。これは、アメリカが第二次世界大戦でつかった全砲爆弾量とほとんど同量。大量の枯葉剤もまき散らした。しかし、ホーチミン・ルートは最後まで健在だった。
そして、海のホーチミン・ルートも開放されていた。陸のホーチミン・ルートは3カ月から長いときには1年間かかった。しかし、海のルートを使うと、1週間から10日間で南部の目的地に到達できた。
北部のトンキン湾を出て、公海上を南下し、南部の秘密の船着き場の所在地と同じ経度に達したら、一気に方角を西に変えて、ベトナムの領海に直進する。夜の闇のなかで荷物をおろし、船着き場の守備隊が荷物を秘密の武器庫に運び込む。そして、夜明け前にベトナム領海を脱して公海に入る。
山のホーチミン・ルートは山のなかで隠れる場所が至るところにある。これに対して、海のルートは隠れる場所のない広大な海面である。しかも、陸上よりも圧倒的な力の差のある海軍と対決することになる。
メコンデルタには、巨大な秘密の船着き場が網の目のようにつくり出されていた。
この本は、南シナ海の風波を乗りこえて北から南の戦場へ命がけで武器・弾薬を運んでいた北ベトナムの125海軍旅団の戦士たちとそれを支えた家族や民衆に取材して出来あがっています。苛烈な戦争を生き抜いた人々が今も健在なのです。もちろん多くの人が犠牲になっています。
ベトナム戦争はアメリカの愚かさを全世界に証明しましたが、今また、トランプ大統領は力の政策をごりおしですすめていて、本当に怖いです。まったく歴史の教訓から学んでいません。それは、わが日本のアベ首相も同じことで、残念なのですが...。
(2017年9月刊。1500円+税)
2017年9月16日
25年目の「ただいま」
(霧山昴)
著者 サルー・ブライアリー 、 出版 静山社
映画「ライオン」の原作本です。私は涙を流しながら読みすすめめした。なにしろ、5歳の男の子が言葉もよく通じない喧騒の大都会カルカッタ(今はコルカタ)で、一人ぼっちで数週間、路上生活して生き延びたのです。そして警察に行き、施設に入れられてオーストラリアへ養子としてもらわれていったのでした。
この本を読むと、世の中には危険がたくさんあり、悪い人間(子どもを金もうけのために騙す奴)も多いけれど、善意の固まりのような人だって少なくないということを実感させられます。
25年たって、大人になってグーグルアースで記憶をたどってインドの生まれ故郷を探しあてたというのも驚異的ですが、なにより故郷に実母がそのままいて、息子の帰りを待ち続けていたというのには胸を打たれます。なにしろ25年間も息子が生きて帰ってくるというのを信じて動かなかったというのです。信じられませんよね。母の愛は偉大です。
5歳の男の子がカルカッタの路上で数週間も生きのびられたというのには、もともとこの男の子が貧乏な家庭で生まれ育っていたので、食うや食わずの生活に慣れていたということもあるようです。みるからに賢い顔をしています。とはいっても、インドでは学校に通っていません(5歳だからではなく、貧乏だから、です・・・)。
家に食べるものがないため、ときには母親に鍋をもたされて、近所の人たちの家をまわって、残り物を下さいとお願いして歩かなければいけなかった。夕方になれば家に戻って、手に入れたものをテーブルの上に出し、みんなで分けあった。いつも腹ペコだったが、それほど辛いとは感じていなかった。
やさしい母親がいて、二人の兄たちそして面倒をみるべき妹がいて、楽しい家庭だったのです。
家にはテレビもラジオもなく、本も新聞もなかった。単純で質素な生活だった。そんな5歳の男の子が突然1000キロも離れたカルカッタへ列車で運び込まれ、ひとり放り出されたのです。
カルカッタは、無秩序に広がる巨大都市。人口過密と公害、圧倒的な貧困で悪名高い。世界でもっとも恐ろしくて危険な都市の一つ。そこへ裸足、お金も何も持たない5歳の男の子が駅の大群衆にまぎれ込むのです。
警察官に見つかったら牢屋に入れられると思ったので、警察官や制服を着た人々は見つけられないようにした。地面に落ちた食べもののかけらを拾って生き延びた。
危険はあまりに多く、見抜くのは難しい。他人に対する猜疑心が強くなっていた。
世の中の人たちのほとんどは無関心であるか、悪者であるかのどちらかだ。同時に、たとえ滅多にいないとしても、純粋な気持ちで助けてくれる人がいる。
何に対しても注意深くあらねばならない。警戒すること、チャンスを逃さずつかむこと、その両方が必要だ。
インドでは、多くの子どもたちが性産業や奴隷労働、あるいは臓器摘出のために売り飛ばされている。その実数は誰にも分からない。
映画をみなかった人にも、ぜひ読んでほしい本です。5歳の男の子がどうやって危険な大都会のなかで生き延びていったのか、その心理状態を知ることは、日本の子どもたちに生きる力を教えてくれると確信します。
(2015年9月刊。1600円+税)
2017年6月28日
フィリピン
(霧山昴)
著者 井出 譲治 、 出版 中公新書
フィリピンには2度だけ行ったことがあります。一回目はODAの現地視察ということでレイテ島に行きました。そこでは、大岡昇平の『レイテ戦記』を偲びました。激しい戦火によって、原生林のジャングルはなくなったとのことで、こんな山奥で若い日本人青年たちが死んでいったのかと思うと、戦争のむごさを実感しました。二度目は、マニラの近代的なショッピングセンターに入りました。すぐ近くに極貧状態に置かれた人々から成るスラムがあり、貧富の差があまりにも明らかでした。
そんなフィリピンですが、アメリカ軍の基地を撤退させた民衆の力には日本も大いに学ぶべきものがあります。
そして、アメリカ軍基地のあったところは、沖縄の「おもろ町」あたりと同じで、経済的に繁栄しているのです。やっぱり、基地は百害あって、一利なしという存在なのです。
「権力への抵抗」という歴史の積み重ねが、フィリピン人のナショナリズムの原点であり、フィリピンという国も民主主義の拠りどころになっている。
フィリピンの国民の1割が国外で働いている。たしかに日本にもフィリピン人がたくさん来ています。夜の町には、フィリピン・パブがたくさんありました。昔、レイテ島に行ったときにも、日本へ出稼ぎに行ったという人々にたくさん出会いました。
フィリピンの選挙で必要なものは、金(Gold)、銃(Gan)、私兵(Goon)だと伝統的に言われてきた。この三つの頭文字をとって、3G選挙だと形容されてきた。近年でも、選挙のときの死傷者は少なくない。しかし、中間所得層が拡大していくにつれて、政策決定の透明化を求める声も強まっている。
フィリピンの民主主義の問題点は、行政の汚職や腐敗が蔓延している結果国民の政府に対する信頼度が低いこと、議会は汚職・腐敗を是正する機能・役割を十分に果たしていないことがあげられる。
日本でも、今のアベ政権のように、親しい友人や、思想傾向を同じくする人を重用し、そのためには制度をねじ曲げることも公然といとわないという事態が許されてしまえば、決して他人事(ひとごと)ではなくなります。
フィリピンの最新の状況とかかえている問題点を理解することのできる新書です。
(2017年2月刊。800円+税)
東京・神田の岩波ホールでチベット映画『草原の河』をみました。6歳の少女が主人公なのですが、あまりにも自然な演技なのに驚きました。史上最年少の最優秀女優賞をもらったというのも納得できます。
チベットの放牧生活が淡々と展開していきます。といっても、農耕も始まっているようです。春に農地で種まきをして、秋に収穫します。一粒の種が何十倍にも増えると聞いて、少女は大切なクマさん人形を地面に埋めるのです。春になったら、たくさんのクマさん人形が生まれると信じて・・・。
チベットの大草原で、時間がゆっくり流れていく。しかし、人間の営みは、なにかと行き違うことが多い。父と子が理解しあうのも難しい。
人生をじっくり考えさせてくれる映画でした。
2017年5月 6日
テクノロジーは貧困を救わない
(霧山昴)
著者 外山 健太郎 、 出版 みすず書房
アメリカで育った日本人が英語で書いた本です。著者は12年間、マイクロソフトで働いていました。
アメリカ政府は、テクノロジーは教育の分野に大変革をもたらし、万人の学業成績を向上させ、子どもにとっての公平性を増してくれるだろうと語っていた。ところが現実には、そうはならなかった。アメリカのテクノロジーの爆発的進歩は目ざましいものがある。しかし、アメリカの貧困率は12~13%という高水準のままであり、貧困層や中流家庭の実質所得は停滞したまま、上流家庭との格差はさらに増大している。
子どもを伸ばすには大人の指導が必要だ。指導にもとづく動機づけが必要なのだ。
子どもがやり通すためには、学校にいるあいだに、1年のうち少なくとも9ヶ月間は指導と励ましが常に必要であり、これを12年間続けなければならない。
子どもの教育の質における本質は、昔も今も、思いやりと知識に裏づけられた大人の注目だ。
テクノロジーだけでは、決して成果は得られない。新しい機器の開発と普及は、必ずしも社会的進歩を引き起こしはしなかった。
アメリカには、常に500万人もの子どもたちが安定した食事を得られずに苦しんでいる。テクノロジーの豊かさは、すべての人々にとっての豊かさにはなっていない。
インドで始まったマイクロクレジットは、ある程度の恩恵をもたらすが、貧困にとっての万能薬ではない。
アメリカが世界最強の軍事力を駆使してイラクのフセインのような暴君を追放し、選挙を支援しても、その結果は腐敗と暴力に終わることが多い。
マイクロクレジットも、学校におけるパソコンも、それだけでは効果を生まない。インターネットがいくら普及しても、裕福国アメリカでさえ、貧困や不平等を撲滅できていない。
ネルソン・マンデラは、あるとき、こう言った。
「教育は、世界を変えるために我々が用いることのできる最強の武器である。」
教育の恩恵は、経済的生産性の向上だけにとどまらない。
女の子が学校で1年間、教育を受けると、乳児の死亡率が5~10%削減できる。
5年間の初等教育を受けた母親のもとに生まれた子どもが5歳以上まで生きられる確率は40%高くなる。中等教育を受けた女性の比率が今の倍になれば、出産率は、女性ひとりあたり5.3人から3.9人に減少する。
女の子にもう1年余分に教育を受けさせれば、彼女たちの賃金は10~20%増加する。
ブラジルでは、子どもの健康に対して、より影響を及ぼすのは男性の教育より女性の教育のほうが20倍も高い。
若いウガンダ人が中等教育を受けると、HIV陽性になる可能性が3分の1になる。
インドでは、女性が公教育を受けると、暴力に抵抗するようになる可能性が高まる。
バングラデシュでは、教育を受けた女性は政治集会に参加する可能性が3倍高まる。
こうみてくると、女性に教育はいらないどころか、女性のほうにこそもっと教育の機会を保障すべきなんだということがよく分かります。
すぐれた教育とは、子どもたちが強い願望にみちた未来への展望をもてるようにすること。
自分自身に対する信念、学能力、さまざまな好奇心に対する内面的なやる気、そして自分をこえた大義に貢献したいという思い・・・、これらを育むことが教育の狙いなのだ。
効果的な教育では、「私にはできる」ということを学べる機会が繰り返し訪れる。日本の丸暗記教育は、この限りですぐれている。楽観的な意図、注意深い判断力、そして強い自制心をはぐくんでいる。
なるほどと思わせることの多い本でした。著者のインドで子どもたちに教えたときの実体験をふまえているだけに説得力があります。
(2016年11月刊。3500円+税)
2017年1月13日
アレクサンドロスの征服と神話
(霧山昴)
著者 森谷 公俊 、 出版 講談社学術文庫
紀元前334年、アレクサンダー大王(本書ではアレクサンドロス)はマケドニアを出て東方遠征に出発し、わずか10年でギリシャから小アジア、フェニキア、エジプトさらには広大なペルシア帝国まで征服し、インダス川に至るまでの空前の大帝国を築いた。
なぜ、30代と若いアレクサンダー大王にそれが可能だったのか、そして、大王の死後たちまち大帝国が四分五裂してしまったのか・・・。
その謎を本書は解き明かしています。
アレクサンダー大王は、征服された側からみたら、まぎれもない侵略者だ。いったい何のための遠征だったのか・・・。反面、アレクサンダー大王は、諸民族・諸文明との平和共存を目ざしてもいた。
ところで、アレクサンダー大王の墓は発見されていない。各地に建設した都市アレクサンドリアもエジプトを除いて消滅してしまっている。
アレクサンダー大王の帝国は、変幻自在で、その中心は遠征軍とともに絶えず移動していて、留まることがない。そして、首都は、アレクサンダー大王のいる何ヶ月間かのことでしかなかった。
支配体制に一貫した原則は認められない。統治方法も、征服した都市や地域の多種多様な条件と伝統に適応して、多様だった。これを寛容政策と呼んでもいいが、放任とも言える。
アレクサンダー大王は、カメレオンのように姿を変えていった。まずマケドニアの王、エジプトのファラオ、バビロニアの王、そして、ゼウスの子であり、アモン神の子を自称した。
アレクサンダー大王は、すべてを星雲状態のままにして、この世を去った。
アレクサンダー大王を、マケドニア人将兵は絶対的に信頼していた。これが東方遠征の基礎だった。マケドニア軍の中核をなす騎兵部隊は、8隊1800人から成り、仲間とか朋友を意味するヘタイロイという美称をつけて、騎兵ヘタイロイと呼ばれた。
マケドニア歩兵には、ベゼタイロイという重装歩兵部隊があった。1500人の部隊が6隊、900人から成る。長さ5.5メートルにおよび長槍をもつ密集戦列を組んで戦う。前2世紀にローマ軍に敗れるまで、不敗だった。
そして、攻城塔をもち、石弾を打ち出す射出機をもって都市の城壁を攻め落とした。
ギリシア人はマケドニア人に制服された民族でありながら、アレクサンダー大王の帝国では支配者側の一員だった。しかし、両民族の間の壁は深いままだった。
アレクサンダー大王がペルシア帝国を倒して、そこを支配するときペルシア人を登用していったことに、マケドニア人たちの不満が高まった。
アレクサンダー大王は、旧ペルシア領を治めるには、ペルシア人貴族の協力が不可欠であることを認識していながら、肝心の彼らとの間に安定的な統治システムを構築することができなかった。
アレクサンダー大王は、将兵に対して機会あるごとに功績に応じた褒美を与え、部下たちを名誉のための競争へと駆り立てた。すべてのマケドニア人が追求したのは名誉だった。
すべての将兵の出世が王一人の決断に依頼している以上、宴会では側近同士が王の溺愛を求めて争い、激しいつばぜりあいを演じた。
古代マケドニアの社会は、ギリシアと同じく、男性同士の同性愛によって成り立っていた。アレクサンダー大王は、発病してわずか10日目で亡くなった。33歳になる直前だった。
アレクサンダー大王は、父の7回の結婚による騒動を経験しているため、王族の結婚は、王権にとって利益よりむしろ混乱をもたらすと考えたのではないか。自分が結婚すれば、妻の一族と、妹たちが結婚したら、その夫の一族との利害関係が王権にからんでくる。それによる王国の不安定化は避けなければいけないというのが父の結婚から学んだ教訓だった。そして、アレクサンダー大王自身が世継ぎをもうけて王朝を継続させようという観念をもっていなかった。22歳の大王は、まだ自分ひとりの名誉を追求することしか頭になかった。その代償は重かった。
結局、大王が死んだとき、まともな後継者がいなかった。それによって王家は滅亡するしかなかった。
とてもよく分かる分析がなされている文庫本でした。
(2016年2月刊。1230円+税)
2017年1月11日
ブータン、これでいいのだ
(霧山昴)
著者 御手洗瑞子 、 出版 新潮文庫
ブータン、何だか名前の響きからだけでも惹かれるものがありますよね。
GDPではなく、GNHを打ち出したのはブータンです。GDPは国内総生産。GNHは、国民総幸福量。国は人々の幸せを一番に考えるべきであるという考えです。いまの自民・公明のアベ政権とはまさに真逆の方向です。
そんなブータンで日本人女性が官僚の一員として働くようになった体験談が楽しく語られています。
ブータンンの人たちは、政府で働く官僚をふくめ、ほとんどの人が手帳もカレンダーも持っていない。彼らは頭で記憶できる範囲、せいぜい2日後までしか予定を立てない。うひゃあ、こ、これは大変なカルチャーショックです。
ブータンは、九州と同じくらいの大きさの国で、人口68万人。島根県や大田区と同じほどの人口。
ヒマラヤ山中に位置し、チベット仏教を国教とし、ゾンカ語というブータン独自の言語が国語。立憲君主制。
小学校から、すべての授業は英語でおこなわれる。ブータンでは、生前退位が認められていて、2006年に51歳の国王が退位し、26歳の長男が国王になった。
ブータン人は、いつも自信満々。自信にみちあふれ、物おじせず、しっかりと相手の目を見すえて話す。
ブータンでは人見知りする子どもを見かけたことがない。
ブータン人はプライドが高いから、上から指示されるのを嫌う。失敗しても反省しない。何度でも同じ間違いをする。
ブータン人は、喜怒哀楽を、とても素直に、しっかり表現する。よく笑い、よく怒る。
ブータンでは、仕事のあとに飲みに行くことはしないし、夜に外食する習慣もほとんどない。通常は、夕食前に家族全員が家に帰り、手分けして夕食をつくり、一緒に食事をする。
ということは、ブータンではレストランがあまり繁盛していないのでしょうか・・・。
ブータンは、もともと女系社会。男性が婿入りする。相続するのも息子ではなく娘。基本的に妻のほうが一家の主(あるじ)。若い夫婦は妻のほうの家族と暮らすので、嫁姑問題はほとんどない。男性は、自分を婿にもらってくれる家を探すという習慣。
ところが、ブータンの男性は自他ともに認める浮気性。
結婚しても姓の変更はない。そもそも家族を表す姓がない。一部の金持ち以外は結婚式をあげることもない。重婚も可能。ただし、浮気がバレたら、たいてい即、離婚。家を追い出される。
ブータンでは、夜這いの習慣がまだ残っているらしい・・・。
私も一度はブータンという国に行ってみたくなりました。まさしく、ところ変われば、品変わるですね。
(2016年6月刊。590円+税)
福岡・天神でドイツ映画『アイヒマンを追え』をみてきました。ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺に深く関与した元ナチス親衛隊中佐アイヒマンの捕獲・裁判について『ハンナ・アーレント』『アイヒマン・ショー』に次ぐ映画です。
ドイツのヘッセン州検事長フリッツ・バウアーは映画『顔のないヒトラーたち』で紹介されましたが、ナチスによるユダヤ人のホロコースト実行犯たちに対するアウシュヴィツ裁判を推進した立役者でもありますが、この映画ではアルゼンチンに潜伏していたアイヒマン捕獲の手がかりをつかんだ重要人物として描かれます。当時、ドイツの官僚システムのなかには、旧ナチ残党がまだまだ幅をきかせていて、ナチスの残党の摘発を躍起となって妨害していたのでした。
ユダヤ人の大量虐殺をはじめとするナチスの蛮行はおぞましいものがあります(この映画では、その点の描写はまたくありません)が、それにドイツが正面から向きあおうとしてきた努力がフランスをふくむ周囲の国々から評価され、今日のEUが成立しているわけです。その点、日本では過去の歴史的事実にきちんと向きあおうとすると「自虐史観」だとかいって足をひっぱる声がかまびすしいのは本当に残念です。
韓国や中国と仲良くしないで、日本の豊かで平和な生活がありえないのに、今の安倍政権はそれと真逆の政治を突っ走るばかりで、許せません。
2016年8月 5日
キリング・フィールドからの生還
(霧山昴)
著者 ハイン・ニョル 出版 光文社
残念ながら映画のほうは見逃してしまいました。その映画に出演したカンボジア人が、ポル・ポト政権下の大虐殺のなかを生き延びた苛酷な体験を語っています。
カンボジアをポル・ポトとクメール・ルージュが支配したのは1975年から1979年にかけてのこと。国王だったシアヌークがクメール・ルージュと統一戦線を結成し、ポル・ポト政権が誕生しました。1979年にベトナム軍が侵攻するまで、ポル・ポト政権が続いたのです。
ポル・ポト政権はインテリを徹底的に抹殺しました。単なる追放ではなく、文字通り大量虐殺したのです。だから、医師として働いていた著者はタクシー運転手だと詐称せざるをえませんでした。
医師だったことを知っている人が密告して危い状況に何回も陥りましたが、一度も医師だと自白しなかったことから、なんとか命拾いをすることができました。
クメール・ルージュがプノンペン侵攻してくるとき、交際中の彼女は著者に対して「いまなら抜け出せる」と誘ったのですが、たかをくくっていた著者は、その誘いを一蹴してしまったのです。
これは、ナチス・ドイツに全面支配される前に逃げ出そうとしなかったユダヤ人同士の会話とまるで同じです。昨日と同じ平和な生活が明日も約束されているという危想にとらわれていたのでした。平和はたたかってこそ守れるものなんですよね・・・。
逃げ遅れてポル・ポト派に捕まった著者たちは、農村へ追いやられ、そこで食うや食わずの極貧生活のなかで重労働を強いられます。生活の隅々まで、若い連中から見張られ、スパイされるという息苦しい生活が続いていきます。
クメール・ルージュが農民に配給するのは、一日おきにエバミルクの空缶一杯のお米だけ。空腹を満たすため、野原で食べものを探す。野ネズミ、赤アリ。赤アリはスープに入れて歯触りを楽しみ、タンパク資源とする。アリの卵も料理につかう。このほか、トカゲ、タケノコ、セイヨウヒルガオ、その他の野菜をとって食べる。
住民が健康を害していた最大の原因は、栄養失調にあった。身体の抵抗力が弱っているなかで汚い水をのんで赤痢にかかる人も多い。
クメール・ルージュには少年兵が多い。少年たちは、まだ年端もいかないうちにスパイになり、10歳で兵士になる。
ことのはじまりは、カンボジアを植民地支配していたフランスがカンボジア人に独立の根を植えつけてくれなかったこと。フランスは自国を統治するのに必要な教育程度の高い実力のある中産階級をつくり出してくれなかった。アメリカは、1970年にカンボジアが中道から右極化する後押しをしたため、そのせいで政治的は不均衡が始まった。そして、ロン・ノルが政権を取ったとき、アメリカはロン・ノルに腐敗政治をやめさせることが出来たし、、自らの爆撃を中止することも出来たが、そうしなかった。その誤りに気がついたときには、もう遅かった。
アメリカの爆撃とロン・ノルの腐敗政治がカンボジアの右極化に拍車をかけた。
コミュニストの側についた中国がクメール・ルージュに武器とイデオロギーを与えた。
ベトナムのコミュニストは自国の利益を第一にした。そして言いたくはないが、カンボジアを崩壊に導いた一番の責任はカンボジア自身にある。ポル・ポトもロン・ソルもシアヌークも、みなカンボジア人なのだ。
カンボジア人は、面子を大事にする。カンボジア人は英語を学びたがらない。しぶしぶ覚えた単語も使おうとしない。用のないかぎり、白人とは口をきかない。
新生カンボジアの発展を祈ります。この本は1990年に発行されたものです。本棚の隅にあったのを引っぱり出してきて読みました。
(1990年5月刊。1700円+税)