弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アジア

2016年7月 2日

原始仏典を読む

(霧山昴)
著者  中村 元 、 出版  岩波現代文庫

 仏教の経典は本当は難しいものではない。日本で仏教が難しいものだと思われているのは、日本のことばに直さないで、今から数百年前の中国のことばで書かれたものを、そのまま後生大事にたもっているから。
 パーリ語で書かれた原始仏典を「三蔵」という。サンスクリット語は、インドの雅語で、バラモンが多く用いていた。パーリ語は、南方仏教の聖典用語。パーリ語は聖典語ともいう。
老いというのは嫌なもの。なんじ、いやしき「老い」よ!いまいましい奴だな。おまえは、人を醜くするのだ! 麗しい姿も、老いによって粉砕されてしまう。
死は、あらゆる人に襲いかかる。朝(あした)には多くの人々を見かけるが、夕べにはある人々の姿が見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝にはある人々の姿が見られない。
他人が罵(ののし)ったからといって、罵り返すことをしてはいけない。善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの死は、信徒にとって永久に忘れられない出来事だった。
ゴータマ・ブッダが神的存在として描かれている文章は後代の加筆である。そうではなく、人間らしい姿が描かれているのは、多分に歴史的人物としての真相に近い。
ゴータマ・ブッダの実在は疑いなく、紀元前463年に生まれ、前383年に亡くなった。
ゴータマ・ブッダは王宮の王子として育ったが、王宮の歓楽の世界にあきたらず、出家して修行者となった。
ゴータマ・ブッダはネパール生まれの人であった。
ゴータマ・ブッダは「戦争なんかしてはいけない」と頭から言わず、諄々と説いた。
ブッダは共和の精神を強調した。共同体の構成員が一致協力して仲よく暮らすというのを大切にした。この精神をもっていると、たやすく外敵に滅ぼされることもないと強調した。 
「おれは世を救う者である。おれに従えば助かるけれども、そうでなかったら、地獄におちるぞ」そんな説き方をブッダはしなかった。
日本の天台宗は、草木も国土もすべて救われるという教えを説いた。
「南無」は「ナム」で「屈する」という意味。屈する、頭をたれる、つまり敬礼し、敬礼し奉るという意味。
インドの挨拶言葉、「ナマステー」の「テー」は「あなたに」という意味。だから、「ナマステー」とは、「あなたに敬礼いたします」という意味。
「法」という字の「サンズイ」は水で、水は水平、公平意味する。「法」は一種の神獣を意味し、直ちに罪を知る。
「マヌ法典」は、この法律によって弱者も、その生活を擁護され、強者もむやみに弱者を迫害しえない。弱いものでも法の力を借りるならば強者を支配することをインド人は早くから自覚していた。
仏教では、人間は人間である限り平等であるという立場を表明した。生まれによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
自己を愛するということが、まず自分を確立して行動を起こす出発点なのである。同様に他の人々もそれぞれ自己はいとしい。ゆえに自己を愛するものは他人を害してはいけない。 
人は、なぜ嘘をつくのか。それは何ものかをむさぼろうという執着があるから。人間が嘘をつくのは、とくに利益に迷わされたときが多い。
著は1912年に生まれたインド哲学を研究する仏教学者です。さすがに、仏教とブッダについて深い学識を感じさせられます。原始仏教について少し勉強してみました。
(2014年9月刊。1360円+税)

2016年6月24日

「トゥイーの日記」

(霧山昴)
著者 ダン・トゥイー・チャム 、 出版 経済界 

かつて「ベトナム戦争、反対」の声をあげた人に、そのベトナム戦争の実情がどんなものだったのかを知るため、ぜひ読んでほしい本です。実話です。
北ベトナムで医師の娘として生まれ育ち、医師となって志願して南ベトナムの戦場へ行き、苛酷な戦場で3年あまりを過ごして、ついにアメリカ兵の銃弾にたおれた若き女医さんが、ずっと日記をつけていたのです。それを「敵」のアメリカ兵がアメリカ本国へ持ち帰り、英訳し、またベトナムで出版されたのでした。
この日記を手にして読んだ南ベトナム軍の兵士が「燃やすな。それ自体が炎を出しているから」と叫んだというのです。持ち帰ったアメリカ兵は、今、アメリカで弁護士をしています。
実は、この本を紹介するのは二度目です。前にこのコーナーで紹介したのを目に留めた「NPO津山国際交流の会」から映画のDVDを寄贈していただきました。本当にありがたいことです。もちろん日本語字幕つきです。この本とあわせて、この映画が広く日本でも上映されることを願っています。
涙なくしては読めない日記です。うら若い女性が、日々の戦場の苛酷さを紹介し、また、そのなかで人々の温かい愛情に包まれながらも、揺れる心情を率直につづっています。公開を前提としない日記ですから、若き男女の思いが交錯している様子も悩みとともに書きつづられていて、胸をうちます。胸がキュンと締めつけられます。
「午後、いつものように双胴戦闘機が村の上空を旋回していた。すると突然、ロケット弾がファーアの13の村落に投下され、続いて、ジェット機が2機、代わる代わる攻撃を開始した。飛行機から放たれた爆弾は重々しく落下し、地上に突っ込む。爆弾が炸裂すると激しい炎が上がり、煙がもうもうと立ち込める。四角い形をしたガソリン弾は太陽の光の中できらきらと照り返り、それから地面に触れた瞬間に真っ赤な火の玉が上がり、空が厚い煙で覆われる。戦闘機は唸るような轟音を上げて飛び続けている。そして旋回するたびに爆弾が投下され、耳をつんざく爆音が響き渡る」(1969年7月16日)
「昼夜を問わず爆音が空気を揺さぶり、頭上を旋回するジェット機や偵察機、ヘリコプターの轟音が鳴り響く。森は爆弾と銃弾の傷痕が生々しく、残った草木も敵が散布した薬剤のせいで黄色く萎び、枯れてしまった。薬剤は人体にまで影響するらしく、幹部たちは皆、ひどい疲れと食欲不振を訴えている」(1969年6月11日)
「アメリカ軍は昨日の朝から進攻を開始し、私たちは今朝4時に起きた。7時、敵の攻撃が始まる。私たちは壕にもぐった。壕にもぐって1時間あまりたったころ、中の雨水がだんだん増えてきて、あと少しで水面が胸元まで届くほどになった。私たちは寒さに震え、ついに耐えられなくなった。アメリカ兵がどこにいるか分からないが、とにかくここを出ると決心して、蓋を持ち上げて外に飛び出し、草むらの中にもぐり込んだ」(1969年10月30日)
「戦争はあまりにも残酷だ。今朝、燐爆弾で全身を焼かれた患者が運ばれてきた。ここに来るまでに1時間以上はたっているというのに、患者の体はまだくすぶって煙が立ちのぼっていた。患者は20歳のカインという少年だ。いつも楽しそうに笑っていた真っ黒な目は、今はただの小さな2つの穴にすぎない。茶色く焼け焦げたまぶたからは、燐の焦げ臭い煙がまだ立ちのぼっている。その姿はまるでオーブンが出されたばかりのこんがり焼いた肉塊のようだ」(1969年7月29日)
「一斉攻撃の最中でも、周囲に落とされる爆弾を見ながら、岩の隙間で日記や手紙を書き続けた」(1969年2月26日)
「日曜日の午後。日差しが強く、成熟しきった森の中を激しい風が吹き抜けている。ラジオはちょうど『世界の音楽』の時間。小さな部屋で仕事をしていると、この空間がとても平穏であることに気づく。砲弾も戦火も、肉親を失う苦しみもふと消え、胸中には、ただメロディーから生まれる感動が残るだけ」(1969年1月19日)
「日曜日。雨の後の空は快晴で、涼しい風が心地よい。木々の緑もつやつやしている。部屋のテーブルの上野花瓶には、今朝取り替えたばかりのヒマワリ。ラジオの光沢のある本棚に影を落としている。レコードからは耳慣れた『ドナウ川のさざなみ』の音楽が流れ、訪ねて来た友人たちの笑い声がしている」(1970年6月14日)
日記は1970年6月20日で終わり、その2日後、トゥイーはアメリカ兵の銃弾にたおれた。 
この日記が書かれていたのは、私の大学2年生のころから3年生のころのことです。他人事とは思えず、読むたびに涙がこみあげてきます。
才能あり、感情豊かな女性を戦争のせいで失くしたというのを実感させられます。
戦争の怖さと愚かさ、平和の大切さをしみじみ実感させてくれる貴重な日記です。
映画(DVD)を寄贈していただいて、本当にありがとうございました。

(2008年8月刊。1524円+税)

2016年6月 6日

ネパール、村人総出でつくった音楽ホール


(霧山昴)
著者 横井 久美子 、 出版 本の泉社 

 心がじわんと温まる、いい本です。ネパールの山中に、音楽堂をつくり、子どもたちにギターを教え、大集会で合奏を披露したというのです。すばらしいことです。こんな話を聞くと元気が出ます。
著者は、田川の亡き角銅立身弁護士が懇意にしていた歌手でもあります。私も著者のCDは何枚も持っています。聞いて元気の出る歌が私は好きです。
 ネパールには、もちろん私は行ったことがありませんが、ヒマラヤを遠望できる山地です。
 標高1400メートルの秘境。電気もガスも水道もない。山奥の大自然のなかで、自給自足で生きるマガール族64家族500人が暮らすサチコール村。
 ここに、著者はなんと8回も訪問しています。ジープを降りてから、サチコール村にたどり着くまで4時間も歩いて登らなければいけません。私より少し年長の著者は登山の経験もないというのに、これに挑戦したのでした。偉いですね・・・。
 そして、2014年3月、サチコール村に日本人の寄付によって音楽ホールが堂々完成したのです。つくったのはサチコール村の村人たち。すべて人力で、つくりあげた音楽ホールは100人を収容する。
 たくさんの写真によって、そのイメージを具体的につかむことが出来ます。
 サチコール村の食事は朝10時と夕方7時の1日2食。ただし、朝7時と午後2時にお茶の時間がある。主食はトウモロコシやお米。肉を食べることは、ほとんどない。
 村人にとって、お客をもてなす最大のものは、ご馳走である水牛の子ども。祈りを捧げてから、子牛をさばく。この村で出されるミルクも水牛のミルク。
 サチコール村の子どもは、小さい子でも自己肯定力が強く、自分はできると信じて疑わず、何でもやりたがる。また、できる子は、すぐにそれを他の子に教えたがる。
これって、いいことですよね。ネパールの山奥にも学校があり、子どもたちはそこで一生けん命に勉強しているのです。
 この村では、何か新しいことをするときには、全員集会を開いて決める。これまた、とてもいいことですね。
村人はきれい好きで、トイレもきれい。洗濯もよくするし、食器や鍋などもピカピカにきれいにしている。ただし家の中に床はなく、土の上で裸足で暮らしている。
きらきら目の輝いてる子どもたちにギター演奏を教えると、たちまち上手に弾ける子が出てきます。それで、大集会で演奏することになります。すごいことです。
やっぱり、子どもにとって必要なのは、親のたっぷりした愛情の次は、なんといっても教育なんですよね・・・。
 とてもいい本です。ぜひ、みなさん買って読んでみてください。
(2016年3月刊。1400円+税)

2016年6月 5日

ベトナム・勝利の裏側

(霧山昴)
著者  フィ・ドゥック 、 出版 めこん 

 「アメリカのベトナム侵略戦争、反対」
このスローガンを大学生のころ、何度叫んだことでしょうか・・・。私の大学生のころは、世界を見渡せば、ベトナム侵略戦争まっさかり。そして、中国では文化大革命が深く静かに(不気味に)進行中でした。
中国の文化大革命は、その名前に日本でも騙された人が少なくありませんでしたが、結局、毛沢東のひとりよがりな、勝手気ままな独裁政治を貫徹するための陰謀に多くの人々が騙され、傷ついてしまったのです。その正確な実情と本質が解明されたときには、私は弁護士になっていました。
ベトナム侵略戦争が終結したのも、私が弁護士になって2年目のことでした。メーデーの日に参加した会場で知り、とてもうれしく思ったことを今もはっきり覚えています。
サイゴンの首相官邸(独立宮殿)にベトナム解放軍の戦車が突入していく映像を見ました(と思います)。ところが、このときの戦車は、実は中国製のT59型戦車だったのに、マスコミに公表されたときにはソ連製のT54戦車とされていた。
この点は、その場にいたフランス人ジャーナリストのとった写真で明らかにされた。20年たった1995年のことである。
この本によると、ベトナムの大学生は、ベトナム戦争にまったく関心を示さないとのこと。政府の教えるストーリーを小学校以来、ずっと聞かされて、うんざりしているといいます。
この本の著者は、ベトナム解放戦争の裏側で起きていたこと、そして、勝利したあとの苦難な国政運営の現実、また中国やカンボジアとの「戦争」について、政府見解ではなく、独自の取材によって論述していますので、なるほど、そういうことか、そうだったのかと読ませます。
4月30日の時点で、南ベトナム軍の50万人もの士官や兵士は基地で待機していた。自宅には戻っていなかった。
5月1日、北ベトナムは、南に「3派連合政権」は許さない方針をうち出した。政府のメンバーに「アメリカの手先」が入るのは許さないとした。
4月30日の時点で、サイゴンにいた共産党員は735人のみ。ところが、5月末までに6553人となった。
サイゴンに入ってきた北ベトナム軍の兵士は、ほとんどが貧しい農村の出身で、水洗トイレも見たことがなかった。
サイゴンでは3万世帯近くの資本家世帯が改造の対象となった。
全国の華人人口は120万人。うち100万人が南部に住み、ホーチミン市(サイゴン)に50万人以上がいた。
中国がベトナム戦争においてベトナムを支援したのは、ベトナムがアメリカを喰いとめて、中国の近くまで進攻できないようにするという狙いからだった。
1979年1月、中国軍は、ベトナムとの国境付近に45万人の兵力を集結させ、20万人を投入した。精鋭60個師団でベトナム軍を攻撃した。ところが中国軍は、長らく戦場を経ていない軍隊の弱さをさらけだした。中国は「ベトナムに教訓を与える」としたが、現実には、ベトナムこそが中国に教訓を与えた。このようにマスコミは論評した。
そして、3月上旬、中国は「勝利」宣言を出し、ベトナムから撤退した。
ベトナム政府のドイモイ政策に至るまでの苦難な歩みをたどっています。とりわけ実情を無視した北部式の経済政策は悲惨な結果を南部にもたらしたようです。
ベトナムのジャングルでたたかうよりペンによる経済政策の立案・実施のほうがよほど難しいのですね。資本家のやり方に学ばなければならないとされた。
ベトナムには一度だけ行き、ハノイとホーチミンの両方をみてきました。若々しい国です。経済政策では大きな誤りもしたようですが、これから大いに発展するのではないでしょうか・・・。
(2015年12月刊。5000円+税)

2016年4月21日

ブッダが説いたこと
(霧山昴)
著者  ワールポラ・ラーフラ 、 出版  岩波文庫

 スリランカ出身の学僧による仏教の基本的な教えを解説した本です。
 薄くて手頃な仏教の本なので読んでみました。60年前に書かれた本のようですが、内容に古臭いところはありません。というか、内容は紀元前6世紀の話なので、超古い話なのですが、まさしく現代世界に通用する教えです。
 ブッダとは、目覚めた人。姓はゴータマ、名はシッダッダ(サンスクリット語ではシッダールタ)。紀元前6世紀に北インドに生きた。父は、シャーキナ王国(今はネパール領内)の支配者だった。
 ブッダは16歳で結婚し、29歳で王国をあとにして、解決策を求めて苦行者となった。
 ブッダは、一人の人間であったばかりでなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。ブッダは、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものだと主張した。人間は、そして人間だけがブッダ(目覚めた人)になれる。人間は誰でも、決意と努力次第でブッダになる可能性を秘めている。ブッダとは、「卓越した人間」と呼ぶことが出来る。
 紀元前3世紀にインドを支配した偉大な仏教王アショーカは、次のように語った。
 「人は、自らの宗教のみを信奉して、他の宗教を誹謗することがあってはならない。そうではなくて、他の宗教も敬わねばならない。そうすることにより、自らの宗教を成長させることになるだけではなく、他の宗教にも奉仕することになる。そうしなければ、自らの宗教の墓穴を掘り、他の宗教を害することになる」
この寛容と相互理解の精神は、仏教の最初期から、そのもっとも大切な思想の一つである。2500年という長い歴史を通じて、人々を仏教に改宗させ、多くの信者を得て伝播していく過程で、一度たりとも弾圧がなく、一滴の血も流されなかったのは、まさに、この思想のおかげである。仏教は平和裡にアジア大陸のいたるところに広がり、現在5億人以上の信者を擁している。
いかなるかたちのいかなる口実の下の暴力もブッダの教えに背くものである。
宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。ブッダが教えているのは、この先における苦しみの「消滅」である。仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、しいて言えば、生命を、そして生命をあるがままに捉える現実主義である。仏教は、ものごとを客観的に眺め、分析し、理解する。仏教は、人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、完全な自由、平安、静逸、幸福への道を示す。
 仏教徒にとって人生は決して憂鬱なものでも、悲痛なものでもない。本当の仏教徒ほど幸せな存在はない。仏教徒には恐れも不安もない。仏教徒は、ものごとをあるがままに見るがゆえに、どんなときでも穏やかで、安らかで、変化や災害によって動揺し、うろたえることがない。
 仏教的観点からして、人生における主要な悪の一つは、嫌悪あるいは、憎しみである。この今の生においても、各瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する。貧困は、不道徳、盗み、虚言、暴力、憎しみ、残虐行為といった犯罪の原因である。ブッダは、犯罪を根絶するためには、人々の経済状況が改善されるべきだと提案している。十分な収入が得られる機会が民衆に提供されたら、人々は満足し、恐れや不安から解放され、その結果として、国は平和で、犯罪はなくなる。武器の製造と販売は誤った生計である。帝国の支配者であるアショーカ王は公に戦争を放棄し、平和と非暴力のメッセージを受け入れた。
 力の均衡による、あるいは核兵器の脅威による平和維持は愚かである。武力が生むのは恐怖でしかなく、けっして平和は生まれない。恐怖によって、真正な永続的平和が維持されることはありえない。恐怖から生まれるのは憎しみ、悪意、敵意だけであり、それらは一時的には相手を抑え込めるかもしれないが、いつなんどき暴力として噴出するかもしれない。真実で真正な平和は、恐怖、猜疑、危険から解き放たれたメッター、すなわち友愛の雰囲気の中にしか出現しない。
 さすがに心の洗われる珠玉の言葉が満載の本でした。
(2016年2月刊。680円+税)

 今回の地震はまだおさまっていません(20日現在)。
夜、布団に入って横になっているときに大きな揺れを背中に何度も感じました。まさしく地球は生きているということを実感させられます。大自然の脅威です。
 今回の地震は14日(金)夜9時半ころに強い揺れがあり(熊本で震度7、大牟田は震度4)、あとは余震が少しあるだけだろうと、みんなが油断していたところに、16日(土)真夜中の1時半ころに本震がありました。大牟田も震度5でした。このときは一晩中、強い揺れが続き、これで大災害となったのです。ただ、私の身近に何も気づかずに朝までぐっすり眠っていたという女性が二人もいて、それまた驚かされました。私は、眠れない夜を過ごし、いかにも寝不足、フラフラしながら朝おきました。
 それにしても川内原発が稼働停止しないことに呆れ、かつ私は恐れおののいています。川内原発に何か起きたときの避難方法の一つが九州新幹線の利用ということでした。地震に強いはずの新幹線ですが、復旧の見通しもないまま停まっています。
 原発内で作業している人も怖い思いをしていると思います。地震学者や原発関連の学者に「心配ない」と言う人がいて、政府がそれを口実にして稼働停止を命じないなんて、人命軽視もいいところです。何か起きたときには責任もとれないくせに許せません。

2015年12月18日

タイ、混迷からの脱出

(霧山昴)
著者  高橋 徹 、 出版  日本経済新聞出版社

 私はタイのバンコクに10年ほど前に一度だけ行ったことがあります。仏教を信じる人が多く、おだやかな人々の暮らしが営まれているという印象でした。個人的には、繁華街の路上でフットマッサージをしてもらい、心地良かったことも思い出します。
ところが、そんなバンコク中心部をデモ隊が占領したり、果ては暴動の現場となったり、バンコクとタイへの印象をすっかり変えなければいけない事態が頻発しました。言わずと知れた、タクシン派と反タクシン派の抗争です。激しい政争というのは理解できるのですが、暴力的な占拠や衝突、そして軍部によるクーデダまで起きると、私の理解をはるかに超えてしまいます。
この本は、タイの政治の内情を新聞記者らしく紹介しています。
民主主義のルールを無視し、議会政治をないがしろにした、力任せの「街頭政治」がまかり通ってきたのが、ここ数年のタイの状況だ。
タクシン派は「選挙がすべて」と叫び、国民の多数の支持を受けたという権力の「正統性」を主張する。それに対して、恩赦法案のような多数派の横暴は、権力行使の「正当性」を欠くと反タクシン派は訴える。
タクシン政権の圧倒的な議席数におごった強権的な政治姿勢や不透明な政策プロセス、一族や取り巻きの企業に露骨に利権誘導する金権体質が、官僚や企業経営者、知識人、そして都市中間層など保守勢力の反感を招いた。
2014年10月の時点で、タイに住む日本人は6万4千人。これは、アメリカ、中国、オーストラリア、イギリスに次いで5番目に多い。そして、タイに進出している日本企業は4600社。バンコクの日本人学校(小・中学)は、3000人の小・中学生徒が通う、世界最大規模だ。
外国からタイへの投資額の6割を日本が占める。
日本に来たタイ人は、2013年に45万人、2014万人に66万人。
タイで売れる新車の9割は日本製。和食や日本アニメも大人気。
タイの中心部を流れるチャオプラセ川を一般名詞の「川」と呼んだのが川の名前だと勘違いした。
タイの都市部の識字率は96%。タイが「アジアの工場」として発展したのは、この識字率の高さと無関係ではない。
タイでは華人が積極的に同化することもすすんでいる。現在のタイで、華人への偏見、差別は、まったくない。
1976年、タマサート大学の構内で抗議デモをしている学生たちへ警察隊が無差別発砲して、46人の死者を出した。血の水曜日事件と呼ばれる。その後、森に入った学生闘士は3千人にのぼると言われた。
2001年2月、51歳のタクシン首相が誕生した。漢字で丘達新と書く。警察士官学校を首席で卒業し、警察官となった。副業としてコンピューター関連の仕事をし、ケータイ分野に乗り出し、通信王と呼ばれるほどに成功した。タクシン人気は、農村振興と貧困対策を基にしている。これによって世帯収入の低いコメ農家の多い東北部、北部の有権者に熱狂的に支持された。タイも貧富の格差が大きい。11.1倍。日本は6.5倍。
仏教国のタイでも、最南部の3県では、住民の9割がイスラム教徒で占める。タイでは、クーデターのたびに憲法の廃止と制定を繰り返し、最近も12回目の憲法制定がなされた。
タイでも汚職は状態化している。政治軍人も政治実業家も、汚職体質という点では、同じ穴のムジナだ。
王室の「中立性」が揺らいでしまった。王室は反タクシン派と寄りみられるようになった。
ジャーナリストとしての視点がありますので、概説としてはいいのですが、もっと本質的な突っ込んだ分析がほしいと思わせる本でもありました。
(2015年9月刊。2600円+税)

仏検(フランス語検定試験)の結果を知らせるハガキが届きました。11月に受けた準一級の試験です。予想どおり合格でした。自己採点で87点でしたが、なんと2点も上回っていて、89点です。合格点は73点ですから16点もオーバーしています(150点満点です)。いつも控え目で謙虚な私の性格から自己採点が低かったとつぶやいたところ、「えっ、なんのこと、、、」という反応がありました。つい本当のことを言っただけなのですが、、、。1月下旬に、口頭試問を受けます。難行苦行が続きます。

2015年9月21日

イースター島を行く

(霧山昴)
著者  野村 哲也 、 出版  中公新書

 モアイのいるイースター島を隅々まで紹介している、楽しい本です。
 小さな島に1000体も石像があるそうです。洞窟もたくさんあり、夏至の日にだけ壁画を照らし出すサイトもあります。
 著者はイースター島に住んでみて、しかも、現地の人と親しくならなければたどり着けないような秘境にまで出かけています。幻想的な写真とともに紹介されています。
 モアイを宇宙人がつくったという説は信じられません。ポリネシアとかハワイの諸島から移住してきた人たちが墓や墓標として作りあげたものというのが有力です。
 日本で関ヶ原の戦いが起きた1600年ころ、イースター島内部では深刻な食料不足から島民が12の部族に分かれてモアイ倒し戦争を繰り広げた。そんな悲しい歴史があったのですね、、、。
 モアイには眼がはまっていた。その眼は黒曜石などでできていた。
 私はマチュピチュに行っていませんが、行きたい気持ちはあります。同じように、イースター島にも行ってみたいものです。宮崎の都井岬でしたか、和製のモアイ像があるのは・・・。仕方ありません。それでガマンすることにしましょう。
 イースター島の現地に行く人には欠かせない、絶好の手引書です。
(2015年6月刊。1000円+税)

2015年5月31日

インドでバスに乗って考えた

                               (霧山昴)
著者  ボブ・ミグラン 、 出版  カドカワ

 私が行っていない外国はたくさんありますが、そのなかでもインドは大国です。
 インドで思いがけなく、愉しくて興味深い経験をした。そのため、秩序正しくコントロールしなければならないという考え方が打ち砕かれた、それは幸いだった。
 混沌を征服することは決して出来ない。できるのは受け入れることだけなのだ。混沌を受け入れると、次にはそれを愉しむことができるようになる。
 コントロールを諦めることは、今までにない新鮮な可能性に通じる、素晴らしく自由な経験となる。人生における決断は、どれだけ多くの情報をもっているかではなく、前に進んでいくうちに状況に適応し、ぶっつけ本番でやっていけると信じる力しだいなのだ。
 完全なものを持っていれば、どこにもたどり着けず、ただ心配や悩みやストレスを生み出すだけである。なぜなら、それは存在しないものを待っているからだ。この世には、完全な仕事も、完全なパートナーも、完全なキャリアも、完全な瞬間も存在しない。あるのは、人間と、仕事と、瞬間だけ。
 物事は、こうあるべきだという考え方から解放され、あるがままの状況を受け入れる。
 物事は、あるがままにまかせ、他人が何をするなど気にせず、自分のしていることに集中すること。自分を成長させることに力をふり向けることだ。
 ライバルのことで頭を悩ませても何の意味もない。他人(ひと)を理解しようとするよりも、自分と自分の考えに集中することのほうが大切。他人が何と言うか、どう考えるか、どう行動するかを考えていたら、自分を見失ってしまう。
 多くの人は、人生の問いに対する答えが自分たちの外側のどこにあると思って、人生の疑問にこたえてもらうことを期待する。しかし、実際のところ、神は、その人たちが自分自身で答えを得られるよう、そのための静寂や時間を与えようとしている。なぜなら、あなたのあらゆる疑問に対する問いに対する答えは、常にあなた自身のなかにあるのだから・・・。
 インドには行ったことがありませんが、まさしく混沌そのものの国というイメージですよね。
 発想の転換が必要なんだと思わせてくれる本でした。
(2015年2月刊。1500円+税)

2015年3月25日

新興大国インドネシアの宗教市場と政治


著者  見市 建 、 出版  NTT出版

 インドネシアの大統領はジョコ・ウィドドという初めての庶民出身です。これまでのような軍人政治家ではありません。どうして、そんなことが可能になったのかを考えさせてくれる本です。ちなみに、著者の名前は、「みいち けん」と読みます。まだ40代と若い学者です。
 インドネシアは、インド、アメリカに続く世界3番目の人口規模の民主主義国家であり、世界最大のムスリム(イスラム教徒)民主主義国である。
インドネシアの経済成長も著しく、その巨大な市場は、「ポスト中国」と期待されている。
 2014年7月の大統領選挙でユドヨノのあとを継いだジョコ・ウィドドは、ジャワ島中部の地方都市ソロの市長から、2012年のジャカルタ州知事となり、今回は、大統領となった。庶民の出であり、2005年までは家具輸出業を経営していた。
 ジョコウィのスタイルは、「抜き打ち視察」で庶民の声に直接耳を傾け、現場の状況を把握し、迅速な決定で現実的な解決策を示すことである。ジョコウィは、ほとんど宗教に縁がなく、ソロ市長のときも、ジャカルタ州知事のときにも、ペアで立候補した副市長、副知事はキリスト教徒だった。
 インドネシアの2億5000万人の人口の9割がムスリムである。しかし、インドネシアは「イスラム国家」ではなく、他宗教の共存が国民国家成立の前提条件となっている。
 現行の1945年憲法の前文にある建国五原則パンチャシラには、それぞれの宗教にもとづいて神を信仰するとされている。
 さらに、ムスリムのなかでも、イスラム系政党を支持する勢力と世俗ナショナリスト政党を支持する努力に二分される。
 敬虔なムスリムは、全体の4割程度で、彼らはイスラム系政党を支持する東南アジアにおいて、シーア派は非常に少なく、おそらくムスリム人口の1%にもみたない。イラン革命は、一般のムスリム知識人や学生のあいだに、シーア派への関心を高めるきっかけとなった。
 民主化以降のインドネシアは、欧米諸国をふくめても、世界でも異例な出版の自由があり、きわめて急進的なイスラム主義者によって執筆・制作された本や映像が流通している。
 イスラム武装闘争派の大半は「読む」活動家であり、その出版物の消費者は、「中間層」である。貧困と教育程度の低さが過激派を生むという俗説は、インドネシアでは的外れである。
近年の宗教行為の「商品化」として注目に値するのは、ズィクルである。ズィクルとは、もともと「記憶」を意味し、神のことを常に覚えているように、数珠を携えて神の名やコーランの章句を繰り返す業を典型とする。しばしば音楽や踊りを伴い、神への愛とともに、精神的な高揚や参加者の一体感が生み出される。
 政治家にとって、宗教的なイメージは大切であるが、イスラムを強調すれば勝てるというわけではない。急速に拡大する大都市圏を中心とした消費市場において、宗教的「標準」を気にしたり、「癒し」を求める消費者ニーズに応えるような商品が宗教行為の商品化や既存のメディア・コンテンツの宗教家によって生まれている。
ジョコウィ大統領は、1961年に大工の長男として生まれた。学校に通うための自転車も買えないほどだったが、叔父の援助を受けて国立大学の森林学部に入った。在学中は学生運動に参加していない。卒業後、小さな家具商を営んでいた。
 2010年には、9割以上の圧倒的な支持を得てソロ市長に再選された。
 ジョコウィは、既存のエリートの連合を前提としながら、注目を集める政策を打ち出し、それを実行することによって、大衆の支持を獲得し、権力を維持し強化してきた。
 ジョコウィは、ジャカルタ州知事選の際には、大集会ではなく、丹念に庶民の市場を回り、屋台で食事をした。
 ジョコウィは、「大衆との連立」を唱え、SNSを積極的に利用し、マスコミの話題をさらった。
 インドネシアでは、政党も宗教団体も、大半は組織より権力者の個人戦位で動いている。それぞれの動員力、政治家をもつメディアを両陣営が奪い合った。あるいは、見返りの資金や新政権における大臣ポストを期待して、政治家や政党のほうから両陣営に近づいた。
 最後に勝負を分けたのは、これまで政治と関わりが薄い人々だった。世論調査で相手方陣営に追い上げられているという危機感をもったジョコウィ陣営は戦略を見直した。SNSで芸能人に発言を呼びかけ、有権者の多少を問わず、ボランティアで集中的な戸別訪問をした。最後には、流動的な政治と宗教の市場、とくに中間層の浮動票がジョコウィを選んだ。
 今日のインドネシアが深く知ることのできる本です。
(2014年12月刊。2300円+税)

2014年11月29日

バニヤンの木陰で


著者  ヴァディ・ラトナー 、 出版  河出書房新社

 久留米にある靴メーカーに勤めている人と話していたら、カンボジアに提携している工場があるので、プノンペンにも行ったことがあるとのこと、驚きました。私は残念ながら、カンボジアに行ったことはなく、したがってアンコールワットにも行っていません。
 この本は、例の残忍なポル・ポト派がカンボジアを支配していたときの体験をもとにした小説です。自分が体験したことをベースにしているだけに迫真的です。
 文明を敵視したクメール・ルージュ(赤いクメール)の犯罪行為が惻々と伝わってきます。よくも王族の一員であることを隠し通して生きのびることができたものだと驚嘆します。といっても、王子である父親は家族を守るために自ら出頭して、殺されてしまいました。
 ただ、どうやって殺され、その遺体がどうなったのか、まったく不明のようです。それだけ、ポル・ポト派の圧政下では原始的で、野蛮な殺害が横行していたわけです。
 はじめ、プノンペン市民はクメール・ルージュ軍がやってきたときには歓迎する気分もあったようです。ところが、すぐにそれは間違いだと思い知らされます。
 「荷物をまとめて、すぐに出て行け」
 「2、3日のあいだ必要なものだけ持っていけ」
 「どこでもいい、とにかく出て行け」
 「時間はない。すぐに出るんだ。アメリカの爆撃がある」
 「出ていかないと撃つぞ。全員だ。わかったな」
 「革命万歳」
 いきなり都市から農村部へ追いやられ、そこで重労働させられるのです。
 1日仕事は夜明けの1時間後に始まり、日没の1時間前に終わる。すべての家畜は町の共有財産である。生活必需品は、すべて配給される。大人も子どもも、同じ量の米が配給される。
 こうやって1975年から4年近くも、人々はポル・ポト派の支配下におかれ、200万人近い人々が死亡したと推測されている。
 1979年1月、ポル・ポト派はベトナム軍によって打倒された。
 本当に苛酷な生活を強いられたものです。読んでいて胸がつぶれそうになります。でも、これも知るべき現実だと思って、最後まで読み通しました。
 カンボジアの豊かな自然描写がよく描かれているのが救いです。
 ポル・ポト派を直接的に支援していたのは中国でした。そして、アメリカは何もしなかったのです。恐らく介入するメリットになるような利権(天然資源など)がなかったからでしょう。
(2014年4月刊。2600円+税)

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