弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
アジア
2017年1月13日
アレクサンドロスの征服と神話
(霧山昴)
著者 森谷 公俊 、 出版 講談社学術文庫
紀元前334年、アレクサンダー大王(本書ではアレクサンドロス)はマケドニアを出て東方遠征に出発し、わずか10年でギリシャから小アジア、フェニキア、エジプトさらには広大なペルシア帝国まで征服し、インダス川に至るまでの空前の大帝国を築いた。
なぜ、30代と若いアレクサンダー大王にそれが可能だったのか、そして、大王の死後たちまち大帝国が四分五裂してしまったのか・・・。
その謎を本書は解き明かしています。
アレクサンダー大王は、征服された側からみたら、まぎれもない侵略者だ。いったい何のための遠征だったのか・・・。反面、アレクサンダー大王は、諸民族・諸文明との平和共存を目ざしてもいた。
ところで、アレクサンダー大王の墓は発見されていない。各地に建設した都市アレクサンドリアもエジプトを除いて消滅してしまっている。
アレクサンダー大王の帝国は、変幻自在で、その中心は遠征軍とともに絶えず移動していて、留まることがない。そして、首都は、アレクサンダー大王のいる何ヶ月間かのことでしかなかった。
支配体制に一貫した原則は認められない。統治方法も、征服した都市や地域の多種多様な条件と伝統に適応して、多様だった。これを寛容政策と呼んでもいいが、放任とも言える。
アレクサンダー大王は、カメレオンのように姿を変えていった。まずマケドニアの王、エジプトのファラオ、バビロニアの王、そして、ゼウスの子であり、アモン神の子を自称した。
アレクサンダー大王は、すべてを星雲状態のままにして、この世を去った。
アレクサンダー大王を、マケドニア人将兵は絶対的に信頼していた。これが東方遠征の基礎だった。マケドニア軍の中核をなす騎兵部隊は、8隊1800人から成り、仲間とか朋友を意味するヘタイロイという美称をつけて、騎兵ヘタイロイと呼ばれた。
マケドニア歩兵には、ベゼタイロイという重装歩兵部隊があった。1500人の部隊が6隊、900人から成る。長さ5.5メートルにおよび長槍をもつ密集戦列を組んで戦う。前2世紀にローマ軍に敗れるまで、不敗だった。
そして、攻城塔をもち、石弾を打ち出す射出機をもって都市の城壁を攻め落とした。
ギリシア人はマケドニア人に制服された民族でありながら、アレクサンダー大王の帝国では支配者側の一員だった。しかし、両民族の間の壁は深いままだった。
アレクサンダー大王がペルシア帝国を倒して、そこを支配するときペルシア人を登用していったことに、マケドニア人たちの不満が高まった。
アレクサンダー大王は、旧ペルシア領を治めるには、ペルシア人貴族の協力が不可欠であることを認識していながら、肝心の彼らとの間に安定的な統治システムを構築することができなかった。
アレクサンダー大王は、将兵に対して機会あるごとに功績に応じた褒美を与え、部下たちを名誉のための競争へと駆り立てた。すべてのマケドニア人が追求したのは名誉だった。
すべての将兵の出世が王一人の決断に依頼している以上、宴会では側近同士が王の溺愛を求めて争い、激しいつばぜりあいを演じた。
古代マケドニアの社会は、ギリシアと同じく、男性同士の同性愛によって成り立っていた。アレクサンダー大王は、発病してわずか10日目で亡くなった。33歳になる直前だった。
アレクサンダー大王は、父の7回の結婚による騒動を経験しているため、王族の結婚は、王権にとって利益よりむしろ混乱をもたらすと考えたのではないか。自分が結婚すれば、妻の一族と、妹たちが結婚したら、その夫の一族との利害関係が王権にからんでくる。それによる王国の不安定化は避けなければいけないというのが父の結婚から学んだ教訓だった。そして、アレクサンダー大王自身が世継ぎをもうけて王朝を継続させようという観念をもっていなかった。22歳の大王は、まだ自分ひとりの名誉を追求することしか頭になかった。その代償は重かった。
結局、大王が死んだとき、まともな後継者がいなかった。それによって王家は滅亡するしかなかった。
とてもよく分かる分析がなされている文庫本でした。
(2016年2月刊。1230円+税)
2017年1月11日
ブータン、これでいいのだ
(霧山昴)
著者 御手洗瑞子 、 出版 新潮文庫
ブータン、何だか名前の響きからだけでも惹かれるものがありますよね。
GDPではなく、GNHを打ち出したのはブータンです。GDPは国内総生産。GNHは、国民総幸福量。国は人々の幸せを一番に考えるべきであるという考えです。いまの自民・公明のアベ政権とはまさに真逆の方向です。
そんなブータンで日本人女性が官僚の一員として働くようになった体験談が楽しく語られています。
ブータンンの人たちは、政府で働く官僚をふくめ、ほとんどの人が手帳もカレンダーも持っていない。彼らは頭で記憶できる範囲、せいぜい2日後までしか予定を立てない。うひゃあ、こ、これは大変なカルチャーショックです。
ブータンは、九州と同じくらいの大きさの国で、人口68万人。島根県や大田区と同じほどの人口。
ヒマラヤ山中に位置し、チベット仏教を国教とし、ゾンカ語というブータン独自の言語が国語。立憲君主制。
小学校から、すべての授業は英語でおこなわれる。ブータンでは、生前退位が認められていて、2006年に51歳の国王が退位し、26歳の長男が国王になった。
ブータン人は、いつも自信満々。自信にみちあふれ、物おじせず、しっかりと相手の目を見すえて話す。
ブータンでは人見知りする子どもを見かけたことがない。
ブータン人はプライドが高いから、上から指示されるのを嫌う。失敗しても反省しない。何度でも同じ間違いをする。
ブータン人は、喜怒哀楽を、とても素直に、しっかり表現する。よく笑い、よく怒る。
ブータンでは、仕事のあとに飲みに行くことはしないし、夜に外食する習慣もほとんどない。通常は、夕食前に家族全員が家に帰り、手分けして夕食をつくり、一緒に食事をする。
ということは、ブータンではレストランがあまり繁盛していないのでしょうか・・・。
ブータンは、もともと女系社会。男性が婿入りする。相続するのも息子ではなく娘。基本的に妻のほうが一家の主(あるじ)。若い夫婦は妻のほうの家族と暮らすので、嫁姑問題はほとんどない。男性は、自分を婿にもらってくれる家を探すという習慣。
ところが、ブータンの男性は自他ともに認める浮気性。
結婚しても姓の変更はない。そもそも家族を表す姓がない。一部の金持ち以外は結婚式をあげることもない。重婚も可能。ただし、浮気がバレたら、たいてい即、離婚。家を追い出される。
ブータンでは、夜這いの習慣がまだ残っているらしい・・・。
私も一度はブータンという国に行ってみたくなりました。まさしく、ところ変われば、品変わるですね。
(2016年6月刊。590円+税)
福岡・天神でドイツ映画『アイヒマンを追え』をみてきました。ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺に深く関与した元ナチス親衛隊中佐アイヒマンの捕獲・裁判について『ハンナ・アーレント』『アイヒマン・ショー』に次ぐ映画です。
ドイツのヘッセン州検事長フリッツ・バウアーは映画『顔のないヒトラーたち』で紹介されましたが、ナチスによるユダヤ人のホロコースト実行犯たちに対するアウシュヴィツ裁判を推進した立役者でもありますが、この映画ではアルゼンチンに潜伏していたアイヒマン捕獲の手がかりをつかんだ重要人物として描かれます。当時、ドイツの官僚システムのなかには、旧ナチ残党がまだまだ幅をきかせていて、ナチスの残党の摘発を躍起となって妨害していたのでした。
ユダヤ人の大量虐殺をはじめとするナチスの蛮行はおぞましいものがあります(この映画では、その点の描写はまたくありません)が、それにドイツが正面から向きあおうとしてきた努力がフランスをふくむ周囲の国々から評価され、今日のEUが成立しているわけです。その点、日本では過去の歴史的事実にきちんと向きあおうとすると「自虐史観」だとかいって足をひっぱる声がかまびすしいのは本当に残念です。
韓国や中国と仲良くしないで、日本の豊かで平和な生活がありえないのに、今の安倍政権はそれと真逆の政治を突っ走るばかりで、許せません。
2016年8月 5日
キリング・フィールドからの生還
(霧山昴)
著者 ハイン・ニョル 出版 光文社
残念ながら映画のほうは見逃してしまいました。その映画に出演したカンボジア人が、ポル・ポト政権下の大虐殺のなかを生き延びた苛酷な体験を語っています。
カンボジアをポル・ポトとクメール・ルージュが支配したのは1975年から1979年にかけてのこと。国王だったシアヌークがクメール・ルージュと統一戦線を結成し、ポル・ポト政権が誕生しました。1979年にベトナム軍が侵攻するまで、ポル・ポト政権が続いたのです。
ポル・ポト政権はインテリを徹底的に抹殺しました。単なる追放ではなく、文字通り大量虐殺したのです。だから、医師として働いていた著者はタクシー運転手だと詐称せざるをえませんでした。
医師だったことを知っている人が密告して危い状況に何回も陥りましたが、一度も医師だと自白しなかったことから、なんとか命拾いをすることができました。
クメール・ルージュがプノンペン侵攻してくるとき、交際中の彼女は著者に対して「いまなら抜け出せる」と誘ったのですが、たかをくくっていた著者は、その誘いを一蹴してしまったのです。
これは、ナチス・ドイツに全面支配される前に逃げ出そうとしなかったユダヤ人同士の会話とまるで同じです。昨日と同じ平和な生活が明日も約束されているという危想にとらわれていたのでした。平和はたたかってこそ守れるものなんですよね・・・。
逃げ遅れてポル・ポト派に捕まった著者たちは、農村へ追いやられ、そこで食うや食わずの極貧生活のなかで重労働を強いられます。生活の隅々まで、若い連中から見張られ、スパイされるという息苦しい生活が続いていきます。
クメール・ルージュが農民に配給するのは、一日おきにエバミルクの空缶一杯のお米だけ。空腹を満たすため、野原で食べものを探す。野ネズミ、赤アリ。赤アリはスープに入れて歯触りを楽しみ、タンパク資源とする。アリの卵も料理につかう。このほか、トカゲ、タケノコ、セイヨウヒルガオ、その他の野菜をとって食べる。
住民が健康を害していた最大の原因は、栄養失調にあった。身体の抵抗力が弱っているなかで汚い水をのんで赤痢にかかる人も多い。
クメール・ルージュには少年兵が多い。少年たちは、まだ年端もいかないうちにスパイになり、10歳で兵士になる。
ことのはじまりは、カンボジアを植民地支配していたフランスがカンボジア人に独立の根を植えつけてくれなかったこと。フランスは自国を統治するのに必要な教育程度の高い実力のある中産階級をつくり出してくれなかった。アメリカは、1970年にカンボジアが中道から右極化する後押しをしたため、そのせいで政治的は不均衡が始まった。そして、ロン・ノルが政権を取ったとき、アメリカはロン・ノルに腐敗政治をやめさせることが出来たし、、自らの爆撃を中止することも出来たが、そうしなかった。その誤りに気がついたときには、もう遅かった。
アメリカの爆撃とロン・ノルの腐敗政治がカンボジアの右極化に拍車をかけた。
コミュニストの側についた中国がクメール・ルージュに武器とイデオロギーを与えた。
ベトナムのコミュニストは自国の利益を第一にした。そして言いたくはないが、カンボジアを崩壊に導いた一番の責任はカンボジア自身にある。ポル・ポトもロン・ソルもシアヌークも、みなカンボジア人なのだ。
カンボジア人は、面子を大事にする。カンボジア人は英語を学びたがらない。しぶしぶ覚えた単語も使おうとしない。用のないかぎり、白人とは口をきかない。
新生カンボジアの発展を祈ります。この本は1990年に発行されたものです。本棚の隅にあったのを引っぱり出してきて読みました。
(1990年5月刊。1700円+税)
2016年7月 2日
原始仏典を読む
(霧山昴)
著者 中村 元 、 出版 岩波現代文庫
仏教の経典は本当は難しいものではない。日本で仏教が難しいものだと思われているのは、日本のことばに直さないで、今から数百年前の中国のことばで書かれたものを、そのまま後生大事にたもっているから。
パーリ語で書かれた原始仏典を「三蔵」という。サンスクリット語は、インドの雅語で、バラモンが多く用いていた。パーリ語は、南方仏教の聖典用語。パーリ語は聖典語ともいう。
老いというのは嫌なもの。なんじ、いやしき「老い」よ!いまいましい奴だな。おまえは、人を醜くするのだ! 麗しい姿も、老いによって粉砕されてしまう。
死は、あらゆる人に襲いかかる。朝(あした)には多くの人々を見かけるが、夕べにはある人々の姿が見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝にはある人々の姿が見られない。
他人が罵(ののし)ったからといって、罵り返すことをしてはいけない。善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの死は、信徒にとって永久に忘れられない出来事だった。
ゴータマ・ブッダが神的存在として描かれている文章は後代の加筆である。そうではなく、人間らしい姿が描かれているのは、多分に歴史的人物としての真相に近い。
ゴータマ・ブッダの実在は疑いなく、紀元前463年に生まれ、前383年に亡くなった。
ゴータマ・ブッダは王宮の王子として育ったが、王宮の歓楽の世界にあきたらず、出家して修行者となった。
ゴータマ・ブッダはネパール生まれの人であった。
ゴータマ・ブッダは「戦争なんかしてはいけない」と頭から言わず、諄々と説いた。
ブッダは共和の精神を強調した。共同体の構成員が一致協力して仲よく暮らすというのを大切にした。この精神をもっていると、たやすく外敵に滅ぼされることもないと強調した。
「おれは世を救う者である。おれに従えば助かるけれども、そうでなかったら、地獄におちるぞ」そんな説き方をブッダはしなかった。
日本の天台宗は、草木も国土もすべて救われるという教えを説いた。
「南無」は「ナム」で「屈する」という意味。屈する、頭をたれる、つまり敬礼し、敬礼し奉るという意味。
インドの挨拶言葉、「ナマステー」の「テー」は「あなたに」という意味。だから、「ナマステー」とは、「あなたに敬礼いたします」という意味。
「法」という字の「サンズイ」は水で、水は水平、公平意味する。「法」は一種の神獣を意味し、直ちに罪を知る。
「マヌ法典」は、この法律によって弱者も、その生活を擁護され、強者もむやみに弱者を迫害しえない。弱いものでも法の力を借りるならば強者を支配することをインド人は早くから自覚していた。
仏教では、人間は人間である限り平等であるという立場を表明した。生まれによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
自己を愛するということが、まず自分を確立して行動を起こす出発点なのである。同様に他の人々もそれぞれ自己はいとしい。ゆえに自己を愛するものは他人を害してはいけない。
人は、なぜ嘘をつくのか。それは何ものかをむさぼろうという執着があるから。人間が嘘をつくのは、とくに利益に迷わされたときが多い。
著は1912年に生まれたインド哲学を研究する仏教学者です。さすがに、仏教とブッダについて深い学識を感じさせられます。原始仏教について少し勉強してみました。
(2014年9月刊。1360円+税)
2016年6月24日
「トゥイーの日記」
(霧山昴)
著者 ダン・トゥイー・チャム 、 出版 経済界
かつて「ベトナム戦争、反対」の声をあげた人に、そのベトナム戦争の実情がどんなものだったのかを知るため、ぜひ読んでほしい本です。実話です。
北ベトナムで医師の娘として生まれ育ち、医師となって志願して南ベトナムの戦場へ行き、苛酷な戦場で3年あまりを過ごして、ついにアメリカ兵の銃弾にたおれた若き女医さんが、ずっと日記をつけていたのです。それを「敵」のアメリカ兵がアメリカ本国へ持ち帰り、英訳し、またベトナムで出版されたのでした。
この日記を手にして読んだ南ベトナム軍の兵士が「燃やすな。それ自体が炎を出しているから」と叫んだというのです。持ち帰ったアメリカ兵は、今、アメリカで弁護士をしています。
実は、この本を紹介するのは二度目です。前にこのコーナーで紹介したのを目に留めた「NPO津山国際交流の会」から映画のDVDを寄贈していただきました。本当にありがたいことです。もちろん日本語字幕つきです。この本とあわせて、この映画が広く日本でも上映されることを願っています。
涙なくしては読めない日記です。うら若い女性が、日々の戦場の苛酷さを紹介し、また、そのなかで人々の温かい愛情に包まれながらも、揺れる心情を率直につづっています。公開を前提としない日記ですから、若き男女の思いが交錯している様子も悩みとともに書きつづられていて、胸をうちます。胸がキュンと締めつけられます。
「午後、いつものように双胴戦闘機が村の上空を旋回していた。すると突然、ロケット弾がファーアの13の村落に投下され、続いて、ジェット機が2機、代わる代わる攻撃を開始した。飛行機から放たれた爆弾は重々しく落下し、地上に突っ込む。爆弾が炸裂すると激しい炎が上がり、煙がもうもうと立ち込める。四角い形をしたガソリン弾は太陽の光の中できらきらと照り返り、それから地面に触れた瞬間に真っ赤な火の玉が上がり、空が厚い煙で覆われる。戦闘機は唸るような轟音を上げて飛び続けている。そして旋回するたびに爆弾が投下され、耳をつんざく爆音が響き渡る」(1969年7月16日)
「昼夜を問わず爆音が空気を揺さぶり、頭上を旋回するジェット機や偵察機、ヘリコプターの轟音が鳴り響く。森は爆弾と銃弾の傷痕が生々しく、残った草木も敵が散布した薬剤のせいで黄色く萎び、枯れてしまった。薬剤は人体にまで影響するらしく、幹部たちは皆、ひどい疲れと食欲不振を訴えている」(1969年6月11日)
「アメリカ軍は昨日の朝から進攻を開始し、私たちは今朝4時に起きた。7時、敵の攻撃が始まる。私たちは壕にもぐった。壕にもぐって1時間あまりたったころ、中の雨水がだんだん増えてきて、あと少しで水面が胸元まで届くほどになった。私たちは寒さに震え、ついに耐えられなくなった。アメリカ兵がどこにいるか分からないが、とにかくここを出ると決心して、蓋を持ち上げて外に飛び出し、草むらの中にもぐり込んだ」(1969年10月30日)
「戦争はあまりにも残酷だ。今朝、燐爆弾で全身を焼かれた患者が運ばれてきた。ここに来るまでに1時間以上はたっているというのに、患者の体はまだくすぶって煙が立ちのぼっていた。患者は20歳のカインという少年だ。いつも楽しそうに笑っていた真っ黒な目は、今はただの小さな2つの穴にすぎない。茶色く焼け焦げたまぶたからは、燐の焦げ臭い煙がまだ立ちのぼっている。その姿はまるでオーブンが出されたばかりのこんがり焼いた肉塊のようだ」(1969年7月29日)
「一斉攻撃の最中でも、周囲に落とされる爆弾を見ながら、岩の隙間で日記や手紙を書き続けた」(1969年2月26日)
「日曜日の午後。日差しが強く、成熟しきった森の中を激しい風が吹き抜けている。ラジオはちょうど『世界の音楽』の時間。小さな部屋で仕事をしていると、この空間がとても平穏であることに気づく。砲弾も戦火も、肉親を失う苦しみもふと消え、胸中には、ただメロディーから生まれる感動が残るだけ」(1969年1月19日)
「日曜日。雨の後の空は快晴で、涼しい風が心地よい。木々の緑もつやつやしている。部屋のテーブルの上野花瓶には、今朝取り替えたばかりのヒマワリ。ラジオの光沢のある本棚に影を落としている。レコードからは耳慣れた『ドナウ川のさざなみ』の音楽が流れ、訪ねて来た友人たちの笑い声がしている」(1970年6月14日)
日記は1970年6月20日で終わり、その2日後、トゥイーはアメリカ兵の銃弾にたおれた。
この日記が書かれていたのは、私の大学2年生のころから3年生のころのことです。他人事とは思えず、読むたびに涙がこみあげてきます。
才能あり、感情豊かな女性を戦争のせいで失くしたというのを実感させられます。
戦争の怖さと愚かさ、平和の大切さをしみじみ実感させてくれる貴重な日記です。
映画(DVD)を寄贈していただいて、本当にありがとうございました。
(2008年8月刊。1524円+税)
2016年6月 6日
ネパール、村人総出でつくった音楽ホール
(霧山昴)
著者 横井 久美子 、 出版 本の泉社
心がじわんと温まる、いい本です。ネパールの山中に、音楽堂をつくり、子どもたちにギターを教え、大集会で合奏を披露したというのです。すばらしいことです。こんな話を聞くと元気が出ます。
著者は、田川の亡き角銅立身弁護士が懇意にしていた歌手でもあります。私も著者のCDは何枚も持っています。聞いて元気の出る歌が私は好きです。
ネパールには、もちろん私は行ったことがありませんが、ヒマラヤを遠望できる山地です。
標高1400メートルの秘境。電気もガスも水道もない。山奥の大自然のなかで、自給自足で生きるマガール族64家族500人が暮らすサチコール村。
ここに、著者はなんと8回も訪問しています。ジープを降りてから、サチコール村にたどり着くまで4時間も歩いて登らなければいけません。私より少し年長の著者は登山の経験もないというのに、これに挑戦したのでした。偉いですね・・・。
そして、2014年3月、サチコール村に日本人の寄付によって音楽ホールが堂々完成したのです。つくったのはサチコール村の村人たち。すべて人力で、つくりあげた音楽ホールは100人を収容する。
たくさんの写真によって、そのイメージを具体的につかむことが出来ます。
サチコール村の食事は朝10時と夕方7時の1日2食。ただし、朝7時と午後2時にお茶の時間がある。主食はトウモロコシやお米。肉を食べることは、ほとんどない。
村人にとって、お客をもてなす最大のものは、ご馳走である水牛の子ども。祈りを捧げてから、子牛をさばく。この村で出されるミルクも水牛のミルク。
サチコール村の子どもは、小さい子でも自己肯定力が強く、自分はできると信じて疑わず、何でもやりたがる。また、できる子は、すぐにそれを他の子に教えたがる。
これって、いいことですよね。ネパールの山奥にも学校があり、子どもたちはそこで一生けん命に勉強しているのです。
この村では、何か新しいことをするときには、全員集会を開いて決める。これまた、とてもいいことですね。
村人はきれい好きで、トイレもきれい。洗濯もよくするし、食器や鍋などもピカピカにきれいにしている。ただし家の中に床はなく、土の上で裸足で暮らしている。
きらきら目の輝いてる子どもたちにギター演奏を教えると、たちまち上手に弾ける子が出てきます。それで、大集会で演奏することになります。すごいことです。
やっぱり、子どもにとって必要なのは、親のたっぷりした愛情の次は、なんといっても教育なんですよね・・・。
とてもいい本です。ぜひ、みなさん買って読んでみてください。
(2016年3月刊。1400円+税)
2016年6月 5日
ベトナム・勝利の裏側
(霧山昴)
著者 フィ・ドゥック 、 出版 めこん
「アメリカのベトナム侵略戦争、反対」
このスローガンを大学生のころ、何度叫んだことでしょうか・・・。私の大学生のころは、世界を見渡せば、ベトナム侵略戦争まっさかり。そして、中国では文化大革命が深く静かに(不気味に)進行中でした。
中国の文化大革命は、その名前に日本でも騙された人が少なくありませんでしたが、結局、毛沢東のひとりよがりな、勝手気ままな独裁政治を貫徹するための陰謀に多くの人々が騙され、傷ついてしまったのです。その正確な実情と本質が解明されたときには、私は弁護士になっていました。
ベトナム侵略戦争が終結したのも、私が弁護士になって2年目のことでした。メーデーの日に参加した会場で知り、とてもうれしく思ったことを今もはっきり覚えています。
サイゴンの首相官邸(独立宮殿)にベトナム解放軍の戦車が突入していく映像を見ました(と思います)。ところが、このときの戦車は、実は中国製のT59型戦車だったのに、マスコミに公表されたときにはソ連製のT54戦車とされていた。
この点は、その場にいたフランス人ジャーナリストのとった写真で明らかにされた。20年たった1995年のことである。
この本によると、ベトナムの大学生は、ベトナム戦争にまったく関心を示さないとのこと。政府の教えるストーリーを小学校以来、ずっと聞かされて、うんざりしているといいます。
この本の著者は、ベトナム解放戦争の裏側で起きていたこと、そして、勝利したあとの苦難な国政運営の現実、また中国やカンボジアとの「戦争」について、政府見解ではなく、独自の取材によって論述していますので、なるほど、そういうことか、そうだったのかと読ませます。
4月30日の時点で、南ベトナム軍の50万人もの士官や兵士は基地で待機していた。自宅には戻っていなかった。
5月1日、北ベトナムは、南に「3派連合政権」は許さない方針をうち出した。政府のメンバーに「アメリカの手先」が入るのは許さないとした。
4月30日の時点で、サイゴンにいた共産党員は735人のみ。ところが、5月末までに6553人となった。
サイゴンに入ってきた北ベトナム軍の兵士は、ほとんどが貧しい農村の出身で、水洗トイレも見たことがなかった。
サイゴンでは3万世帯近くの資本家世帯が改造の対象となった。
全国の華人人口は120万人。うち100万人が南部に住み、ホーチミン市(サイゴン)に50万人以上がいた。
中国がベトナム戦争においてベトナムを支援したのは、ベトナムがアメリカを喰いとめて、中国の近くまで進攻できないようにするという狙いからだった。
1979年1月、中国軍は、ベトナムとの国境付近に45万人の兵力を集結させ、20万人を投入した。精鋭60個師団でベトナム軍を攻撃した。ところが中国軍は、長らく戦場を経ていない軍隊の弱さをさらけだした。中国は「ベトナムに教訓を与える」としたが、現実には、ベトナムこそが中国に教訓を与えた。このようにマスコミは論評した。
そして、3月上旬、中国は「勝利」宣言を出し、ベトナムから撤退した。
ベトナム政府のドイモイ政策に至るまでの苦難な歩みをたどっています。とりわけ実情を無視した北部式の経済政策は悲惨な結果を南部にもたらしたようです。
ベトナムのジャングルでたたかうよりペンによる経済政策の立案・実施のほうがよほど難しいのですね。資本家のやり方に学ばなければならないとされた。
ベトナムには一度だけ行き、ハノイとホーチミンの両方をみてきました。若々しい国です。経済政策では大きな誤りもしたようですが、これから大いに発展するのではないでしょうか・・・。
(2015年12月刊。5000円+税)
2016年4月21日
ブッダが説いたこと
(霧山昴)
著者 ワールポラ・ラーフラ 、 出版 岩波文庫
スリランカ出身の学僧による仏教の基本的な教えを解説した本です。
薄くて手頃な仏教の本なので読んでみました。60年前に書かれた本のようですが、内容に古臭いところはありません。というか、内容は紀元前6世紀の話なので、超古い話なのですが、まさしく現代世界に通用する教えです。
ブッダとは、目覚めた人。姓はゴータマ、名はシッダッダ(サンスクリット語ではシッダールタ)。紀元前6世紀に北インドに生きた。父は、シャーキナ王国(今はネパール領内)の支配者だった。
ブッダは16歳で結婚し、29歳で王国をあとにして、解決策を求めて苦行者となった。
ブッダは、一人の人間であったばかりでなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。ブッダは、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものだと主張した。人間は、そして人間だけがブッダ(目覚めた人)になれる。人間は誰でも、決意と努力次第でブッダになる可能性を秘めている。ブッダとは、「卓越した人間」と呼ぶことが出来る。
紀元前3世紀にインドを支配した偉大な仏教王アショーカは、次のように語った。
「人は、自らの宗教のみを信奉して、他の宗教を誹謗することがあってはならない。そうではなくて、他の宗教も敬わねばならない。そうすることにより、自らの宗教を成長させることになるだけではなく、他の宗教にも奉仕することになる。そうしなければ、自らの宗教の墓穴を掘り、他の宗教を害することになる」
この寛容と相互理解の精神は、仏教の最初期から、そのもっとも大切な思想の一つである。2500年という長い歴史を通じて、人々を仏教に改宗させ、多くの信者を得て伝播していく過程で、一度たりとも弾圧がなく、一滴の血も流されなかったのは、まさに、この思想のおかげである。仏教は平和裡にアジア大陸のいたるところに広がり、現在5億人以上の信者を擁している。
いかなるかたちのいかなる口実の下の暴力もブッダの教えに背くものである。
宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。ブッダが教えているのは、この先における苦しみの「消滅」である。仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、しいて言えば、生命を、そして生命をあるがままに捉える現実主義である。仏教は、ものごとを客観的に眺め、分析し、理解する。仏教は、人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、完全な自由、平安、静逸、幸福への道を示す。
仏教徒にとって人生は決して憂鬱なものでも、悲痛なものでもない。本当の仏教徒ほど幸せな存在はない。仏教徒には恐れも不安もない。仏教徒は、ものごとをあるがままに見るがゆえに、どんなときでも穏やかで、安らかで、変化や災害によって動揺し、うろたえることがない。
仏教的観点からして、人生における主要な悪の一つは、嫌悪あるいは、憎しみである。この今の生においても、各瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する。貧困は、不道徳、盗み、虚言、暴力、憎しみ、残虐行為といった犯罪の原因である。ブッダは、犯罪を根絶するためには、人々の経済状況が改善されるべきだと提案している。十分な収入が得られる機会が民衆に提供されたら、人々は満足し、恐れや不安から解放され、その結果として、国は平和で、犯罪はなくなる。武器の製造と販売は誤った生計である。帝国の支配者であるアショーカ王は公に戦争を放棄し、平和と非暴力のメッセージを受け入れた。
力の均衡による、あるいは核兵器の脅威による平和維持は愚かである。武力が生むのは恐怖でしかなく、けっして平和は生まれない。恐怖によって、真正な永続的平和が維持されることはありえない。恐怖から生まれるのは憎しみ、悪意、敵意だけであり、それらは一時的には相手を抑え込めるかもしれないが、いつなんどき暴力として噴出するかもしれない。真実で真正な平和は、恐怖、猜疑、危険から解き放たれたメッター、すなわち友愛の雰囲気の中にしか出現しない。
さすがに心の洗われる珠玉の言葉が満載の本でした。
(2016年2月刊。680円+税)
今回の地震はまだおさまっていません(20日現在)。
夜、布団に入って横になっているときに大きな揺れを背中に何度も感じました。まさしく地球は生きているということを実感させられます。大自然の脅威です。
今回の地震は14日(金)夜9時半ころに強い揺れがあり(熊本で震度7、大牟田は震度4)、あとは余震が少しあるだけだろうと、みんなが油断していたところに、16日(土)真夜中の1時半ころに本震がありました。大牟田も震度5でした。このときは一晩中、強い揺れが続き、これで大災害となったのです。ただ、私の身近に何も気づかずに朝までぐっすり眠っていたという女性が二人もいて、それまた驚かされました。私は、眠れない夜を過ごし、いかにも寝不足、フラフラしながら朝おきました。
それにしても川内原発が稼働停止しないことに呆れ、かつ私は恐れおののいています。川内原発に何か起きたときの避難方法の一つが九州新幹線の利用ということでした。地震に強いはずの新幹線ですが、復旧の見通しもないまま停まっています。
原発内で作業している人も怖い思いをしていると思います。地震学者や原発関連の学者に「心配ない」と言う人がいて、政府がそれを口実にして稼働停止を命じないなんて、人命軽視もいいところです。何か起きたときには責任もとれないくせに許せません。
2015年12月18日
タイ、混迷からの脱出
(霧山昴)
著者 高橋 徹 、 出版 日本経済新聞出版社
私はタイのバンコクに10年ほど前に一度だけ行ったことがあります。仏教を信じる人が多く、おだやかな人々の暮らしが営まれているという印象でした。個人的には、繁華街の路上でフットマッサージをしてもらい、心地良かったことも思い出します。
ところが、そんなバンコク中心部をデモ隊が占領したり、果ては暴動の現場となったり、バンコクとタイへの印象をすっかり変えなければいけない事態が頻発しました。言わずと知れた、タクシン派と反タクシン派の抗争です。激しい政争というのは理解できるのですが、暴力的な占拠や衝突、そして軍部によるクーデダまで起きると、私の理解をはるかに超えてしまいます。
この本は、タイの政治の内情を新聞記者らしく紹介しています。
民主主義のルールを無視し、議会政治をないがしろにした、力任せの「街頭政治」がまかり通ってきたのが、ここ数年のタイの状況だ。
タクシン派は「選挙がすべて」と叫び、国民の多数の支持を受けたという権力の「正統性」を主張する。それに対して、恩赦法案のような多数派の横暴は、権力行使の「正当性」を欠くと反タクシン派は訴える。
タクシン政権の圧倒的な議席数におごった強権的な政治姿勢や不透明な政策プロセス、一族や取り巻きの企業に露骨に利権誘導する金権体質が、官僚や企業経営者、知識人、そして都市中間層など保守勢力の反感を招いた。
2014年10月の時点で、タイに住む日本人は6万4千人。これは、アメリカ、中国、オーストラリア、イギリスに次いで5番目に多い。そして、タイに進出している日本企業は4600社。バンコクの日本人学校(小・中学)は、3000人の小・中学生徒が通う、世界最大規模だ。
外国からタイへの投資額の6割を日本が占める。
日本に来たタイ人は、2013年に45万人、2014万人に66万人。
タイで売れる新車の9割は日本製。和食や日本アニメも大人気。
タイの中心部を流れるチャオプラセ川を一般名詞の「川」と呼んだのが川の名前だと勘違いした。
タイの都市部の識字率は96%。タイが「アジアの工場」として発展したのは、この識字率の高さと無関係ではない。
タイでは華人が積極的に同化することもすすんでいる。現在のタイで、華人への偏見、差別は、まったくない。
1976年、タマサート大学の構内で抗議デモをしている学生たちへ警察隊が無差別発砲して、46人の死者を出した。血の水曜日事件と呼ばれる。その後、森に入った学生闘士は3千人にのぼると言われた。
2001年2月、51歳のタクシン首相が誕生した。漢字で丘達新と書く。警察士官学校を首席で卒業し、警察官となった。副業としてコンピューター関連の仕事をし、ケータイ分野に乗り出し、通信王と呼ばれるほどに成功した。タクシン人気は、農村振興と貧困対策を基にしている。これによって世帯収入の低いコメ農家の多い東北部、北部の有権者に熱狂的に支持された。タイも貧富の格差が大きい。11.1倍。日本は6.5倍。
仏教国のタイでも、最南部の3県では、住民の9割がイスラム教徒で占める。タイでは、クーデターのたびに憲法の廃止と制定を繰り返し、最近も12回目の憲法制定がなされた。
タイでも汚職は状態化している。政治軍人も政治実業家も、汚職体質という点では、同じ穴のムジナだ。
王室の「中立性」が揺らいでしまった。王室は反タクシン派と寄りみられるようになった。
ジャーナリストとしての視点がありますので、概説としてはいいのですが、もっと本質的な突っ込んだ分析がほしいと思わせる本でもありました。
(2015年9月刊。2600円+税)
仏検(フランス語検定試験)の結果を知らせるハガキが届きました。11月に受けた準一級の試験です。予想どおり合格でした。自己採点で87点でしたが、なんと2点も上回っていて、89点です。合格点は73点ですから16点もオーバーしています(150点満点です)。いつも控え目で謙虚な私の性格から自己採点が低かったとつぶやいたところ、「えっ、なんのこと、、、」という反応がありました。つい本当のことを言っただけなのですが、、、。1月下旬に、口頭試問を受けます。難行苦行が続きます。
2015年9月21日
イースター島を行く
(霧山昴)
著者 野村 哲也 、 出版 中公新書
モアイのいるイースター島を隅々まで紹介している、楽しい本です。
小さな島に1000体も石像があるそうです。洞窟もたくさんあり、夏至の日にだけ壁画を照らし出すサイトもあります。
著者はイースター島に住んでみて、しかも、現地の人と親しくならなければたどり着けないような秘境にまで出かけています。幻想的な写真とともに紹介されています。
モアイを宇宙人がつくったという説は信じられません。ポリネシアとかハワイの諸島から移住してきた人たちが墓や墓標として作りあげたものというのが有力です。
日本で関ヶ原の戦いが起きた1600年ころ、イースター島内部では深刻な食料不足から島民が12の部族に分かれてモアイ倒し戦争を繰り広げた。そんな悲しい歴史があったのですね、、、。
モアイには眼がはまっていた。その眼は黒曜石などでできていた。
私はマチュピチュに行っていませんが、行きたい気持ちはあります。同じように、イースター島にも行ってみたいものです。宮崎の都井岬でしたか、和製のモアイ像があるのは・・・。仕方ありません。それでガマンすることにしましょう。
イースター島の現地に行く人には欠かせない、絶好の手引書です。
(2015年6月刊。1000円+税)